第3話『密室』 ~section4:消えた研究者と、空のジュラルミン~
鼻腔の奥の粘膜にべったりとへばりつくような、極めて濃密で暴力的な生命の死臭。
僕は、マウンテンパーカーの分厚い襟で顔の半分を覆い、カビと泥にまみれたコンクリートの太い柱に背中を預けたまま、荒れ狂う心拍数と呼吸を必死に整えようとしていた。
ドアも窓も完全に癒着した密閉空間の『天井』に、なぜか分厚く堆積している川底のヘドロ。そして、如月さんの手にある純銀の匙を真っ黒に硫化させるほどの、高濃度の動物性タンパク質の腐敗成分……すなわち、大量の『骨粉』と、ドロドロに溶け出した『体液』の痕跡。
その絶望的な死の泥を極上の苗床とし、十年間という途方もない時間をかけて、光の届かない暗闇の中で培養され続けた、青白き巨大なブロッコリーの化け物。それは、油圧スプレッダーによって強引にこじ開けられたドアの奥で、外部から流れ込んだ微かな空気の動きに揺れ、不気味でグロテスクな影を車内に落としている。
「サクタロウ。いつまでコンクリートの壁と物理的な同化を試みているつもりじゃ。お主の貧弱な自律神経系がパニックを起こしているのは理解するが、事象の観測はまだ序盤のデータ収集段階に過ぎぬ」
泥水の上に座り込んでいた僕を見下ろし、如月瑠璃の氷のように透き通る声が、一切の同情を交えることなく容赦なく降り注ぐ。
「天井の泥の成分という、結果の観測は終了した。次に行うべきは、この十年間密閉されていた『錆びた霊柩車』そのものの、過去の履歴の抽出じゃ。……お主の背負っているその荷物の中に、ネットワークに接続可能な携帯端末が格納されておるな。速やかに取り出し、情報収集の作業へと移行するのじゃ」
「……は、はい。わかりました……」
僕は、恐怖と生理的な吐き気で歪む視界を瞬きで無理やりクリアにし、震える足に力を込めて立ち上がった。
泥水で汚れた手をマウンテンパーカーの裾で乱暴に拭い、背中のリュックサックから、愛用の十インチ・タブレット端末を取り出す。推しの地下アイドル『魚魚ラブ』のゲリラライブの映像配信を、いかなる悪天候や通信環境下でも最速で受信し、かつ高画質で記録するために、僕が自作のノイズキャンセリング・アンテナと大容量バッテリーを組み込んで魔改造を施した、軍用スペックに迫るモバイル・ガジェットだ。
「で、でも如月さん。この車の持ち主をネットで調べるって言っても、手がかりがありませんよ。ナンバープレートは前も後ろも、泥と錆で完全に腐食して読み取れませんし、車台番号がわかったところで、僕は警察やハッカーじゃないんですから、行政の車両登録データベースに不正アクセスなんてできませんよ」
僕がフラッシュライトで車体の前後を照らしながら現実的な限界を指摘すると、如月さんは漆黒の軍服風ジャケットの袖をわずかに翻し、開け放たれた後部座席のドアから、さらに前の『運転席』の方へと優雅に歩みを進めた。
「ふん。車台番号などという行政が管理するデジタルな文字列に頼らずとも、モノのルーツは常に物理的な痕跡として現場に遺されておる。お主のような一般人が持ち主を特定するには、データベースへの不正アクセスではなく、よりパーソナルな『所属の証』を物理的にサルベージすればよいだけのことじゃ」
如月さんは、運転席の割れた窓ガラスの隙間から、純白の手袋を嵌めた手を車内へと差し伸べた。
運転席のシートもまた、後部座席と同様に泥とカビに侵食され、黒いヘドロの沼と化している。しかし、如月さんのアメジストの瞳は、その泥の海の中に沈む『極めて微小な異物』の存在を、すでに完璧な精度で捉えていた。
「十年間、この車を最後に運転していた個体は、何らかの理由でこの場から姿を消した。しかし、これほどのヘドロが車内に流れ込むような激しい濁流、あるいは物理的な衝撃に見舞われたのであれば、その個体が身につけていた装飾品や携行品の一部が、シートの隙間や泥の底に物理的に拘束され、取り残されている確率が極めて高い」
如月さんは、ピンセットを取り出すと、運転席のシートとセンターコンソールの間の、泥が最も深く堆積している隙間へと、一切の躊躇なくその先端を突っ込んだ。
グチャッ、という粘り気のある嫌な音が鳴る。
そして、彼女がピンセットを引き抜くと、その先端には、黒いヘドロにまみれた『小さな金属製のクリップ』と、それに連なる『劣化して千切れたナイロン製のストラップ』が挟まれていた。
「これは……社員証のネックストラップの金具ですか?」
「左様。プラスチック製のIDカード本体や、ナイロンの紐の大部分は、十年の歳月とバクテリアの分解作用によって完全にドロドロに溶け去っておる。しかし、このクリップの接合部に使用されている特殊なチタン合金のパーツだけは、腐食を免れ、物理的な形状を保っておるのじゃ」
如月さんは、その泥まみれの金具を、持参していた純水のスプレーで洗浄した。
ヘドロが洗い流されると、フラッシュライトの光の中で、親指の爪ほどの小さな金属の表面に、レーザー刻印された微細な『企業ロゴ』が浮かび上がった。
「ルーペでの観測結果。……二重螺旋のDNA構造と、一筋の麦の穂を交差させたシンボルマーク。そして、極小のフォントで刻まれた『Tsukimizaka Agriculture』という文字列じゃ」
如月さんは、その金具を僕のタブレットの画面の上にコトリと置いた。
「月見坂アグリカルチャー。……新市街に巨大な本社ビルを構える、国内最大手のバイオテクノロジーと農業開発の多国籍企業じゃな。サクタロウ、お主の得意なオープンソース・インテリジェンスの出番じゃ。ハッキングなどという違法行為は不要。表のインターネットの海に沈む過去のゴミ山から、該当する情報を拾い上げるのじゃ」
「バイオテクノロジー企業……」
僕はゴクリと唾を飲み込み、タブレットの画面に泥で汚れた指先を走らせた。
ハッキングはできなくても、インターネット上に一度でも放流された情報を執念深く掘り起こすことにかけては、僕は誰にも負けない自信がある。地下アイドルのライバルグループの過去の炎上発言や、消されたスキャンダル記事を、ウェブアーカイブや裏掲示板の過去ログから発掘して検証するのは、アイドルオタクにとって必須の生存戦略であり、日常茶飯事の情報収集スキルなのだから。
僕は検索エンジンの高度なフィルタリング機能を駆使し、検索クエリを組み立てた。
『"月見坂アグリカルチャー" AND ("行方不明" OR "失踪" OR "事件") AND (date:2014-01-01..2016-12-31)』
十年前の期間に絞り込み、大手ニュースサイトから削除された記事のURLを特定。さらにそのURLを、海外のインターネット・アーカイブ・サービスへと放り込み、過去のスナップショットを強制的に復元する。
暗闇と死臭に支配された廃駐車場の中で、タブレットの液晶画面だけが青白く、無機質な光を放っている。僕の背後で静かに揺れる『青白き脳髄』と、手元で高速処理を続ける最先端のデジタル・デバイス。そのあまりにもアンバランスな対比は、この空間の狂気的な異常性をさらに際立たせていた。
「……ヒットしました」
数分間の沈黙と、高速のタイピングの末。膨大なデジタル・ノイズの海の中から、一つの合致するファイルがサルベージされ、画面に鮮明に表示された。
「十年前の八月に配信された、週刊誌のWEB記事のアーカイブです。……見出しは、『月見坂アグリカルチャーの闇! 天才研究員・山根智章、巨額の裏金と“禁断の種”と共に失踪!』」
「ほう。天才研究員、とな」
如月さんは、アメジストの瞳に冷たい知性の光を宿し、興味深そうに純白の手袋の指先を重ね合わせた。
「はい。記事と、当時の警察の捜査関係者からの内部リーク情報によれば……この車の所有者である山根智章(当時四十五歳)は、単なる行方不明の被害者じゃありません。彼は、指名手配された『横領犯』でした」
僕は、画面に表示されたテキストを、一つ一つ確認するように読み上げていった。
「山根は、会社が新市街の開発利権のために裏社会の組織と結託してプールしていた、『数億円規模の物理的な裏金』を、研究室の隠し金庫から強奪して逃走したんです」
「デジタルな暗号資産ではなく、追跡が不可能な現物資産を物理的に持ち出したということじゃな。……して、その見出しにある彼が持ち逃げしたという“禁断の種”とは、一体何じゃ?」
「それこそが、彼の真の目的であり……会社が血眼になって彼を追っていた理由のようです」
僕は、背後の車内にぶら下がる異形の植物に視線をチラリと向け、恐怖で震えそうになる声を必死に押し殺しながら、続きを読んだ。
「山根は、月見坂アグリカルチャーの第一研究開発部で、ある『極秘プロジェクト』の責任者を務めていました。それは、極限の環境下……つまり、太陽光が全く届かない地下空間や、極端に栄養素が欠如した過酷な土壌であっても、『動物の死骸』などの有機タンパク質を根から直接分解・吸収し、それを爆発的な成長エネルギーへと変換する、という恐るべき『遺伝子組み換えの特殊なアブラナ科の種子』の開発でした」
光合成を必要とせず、動物の肉や骨を直接溶かして肥料とし、暗闇の中で狂気的な速度で増殖する植物。
「表向きは、荒廃した紛争地帯の環境土壌改良や、大規模災害時の死骸処理を目的としたバイオテクノロジーだとされていました。しかし、倫理的な問題と、生態系を破壊する強すぎる繁殖力から、会社の上層部に開発の完全凍結と、全サンプルの焼却破棄を命じられた。……それに逆上し、自身の研究の成果に異常な執着を持っていた山根は、数億円の裏金と共に、その試作品の種子をすべて奪って、自分の車で逃亡したんです」
その言葉は、まさに今僕たちの目の前で、密室状態の車の天井から逆さまに生え、川のヘドロと『大量の骨粉』を極上の養分にして培養されている、あの巨大な青白いブロッコリーの異常な生態のルーツを、これ以上ないほどに完璧に説明していた。
「見事な因果律じゃ」
如月さんは、車内の天井の化け物を見上げながら、冷たい感嘆の息を漏らした。
「自らが産み出した狂気の生命体が、結果として、十年間という時間をかけて彼自身の乗っていた車を完璧なテラリウムへと作り変え、己の生存を物理的に証明してみせたということじゃな。……サクタロウ。その記事には、山根がそれらの裏金と種子を、どのような形態で持ち運んだか、具体的な記述はあるか?」
「ええと……はい、あります。会社の地下駐車場の防犯カメラの映像解析に関する記述です」
僕は画面をスクロールさせ、該当する一文を見つけ出した。
「『山根は逃走時、外部からの衝撃や水濡れ、そして電磁波を完全に遮断する、特殊な気密構造を持った複数の《大型ジュラルミンケース》に、現金と種子を敷き詰めて車両のトランクへと積み込む姿が確認されている』……とあります」
ジュラルミンケース。
現金輸送や、極めてデリケートな精密機器、あるいはバイオハザードの危険がある生物サンプルを運搬する際に用いられる、強固な金属製のアタッシュケース。
それを聞いて、僕の脳裏に、これまでのすべての情報が結びついた、一つの論理的な推測が組み上がった。
「……如月さん。わかりましたよ、この十年前の事件の全貌が」
僕は、タブレットの画面を消し、探偵気取りの確信に満ちた声で言った。
「山根は十年前の八月、裏金と種子の入ったジュラルミンケースを積んで、この旧市街の地下駐車場の奥深くまで逃げてきて、誰かと待ち合わせをしていたんです。でも、ここで裏社会の追っ手か、あるいは会社の暗殺者に追いつかれた。そして……取引の最中か何かにトラブルになり、殺されたんですよ。死体はジュラルミンケースごとどこか別の場所に持ち去られ、車だけが証拠隠滅のためにここに放置された。……そして、天井のあのブロッコリーは、山根が襲われた時にトランクからこぼれ落ちた『試作品の種』の一つが、たまたま車内に入り込んだ川の泥と、ネズミか何かの小動物の死骸を養分にして、偶然ここで育っちゃっただけなんです」
僕の推理は、サスペンス映画のプロットとしては極めて王道で、そして現状のネットから拾い上げた情報をすべて網羅しているように思えた。
しかし。
僕のその『完璧な推理』を聞いた如月瑠璃は、アメジストの瞳に一切の温度を持たせないまま、心の底から蔑むような冷酷な視線を、泥水の上に立つ僕へと突き刺した。
「……呆れるほどの愚鈍じゃな、サクタロウ。お主のその三流の推理小説のような人間の情動とドラマに基づくプロットは、目前の物理的な事実を前にしては、単なる紙屑以下のノイズでしかない」
「えっ……ノ、ノイズ?」
「お主は、誰が誰を裏切り、殺し、金を奪ったかという『人間の犯罪のドラマ』に目を奪われ、この空間に存在する最も巨大で、最もおぞましい物理的矛盾から完全に目を逸らしておる」
如月さんは、漆黒のブーツの鋭いヒールで、ヘドロにまみれたコンクリートの床をカツン、と強く叩いた。
「よいか、サクタロウ。お主の推理では、『なぜ、ドアも窓も完全に癒着した密室の車内に、外部の川の泥が大量に入り込んだのか』、そして『なぜ、こぼれ落ちたはずのブロッコリーの種が、重力に逆らって、布張りの天井から下に向かって成長したのか』という、決定的な物理法則のバグが一切説明されておらぬのじゃ」
如月さんの氷のような指摘に、僕はハッとして言葉を失った。
そうだ。裏金だの横領犯だのという背景を知ったことで、僕はすっかり忘れていた。
あのブロッコリーは、シートや床の上から上に向かって育っているのではない。
『天井』の布地を食い破り、重力に逆らって逆さまにぶら下がっているのだ。
「人間の悪意や強欲など、所詮はありふれた化学物質の分泌が引き起こす脳のバグに過ぎぬ。わしはそんなものに一ミリも関心はない」
如月さんは、開け放たれた車のドアに手をかけ、車内の天井からぶら下がる青白き脳髄へと、冷徹な観測者の視線を真っ直ぐに向けた。
「わしが知りたいのは、ただ一つ。……質量を持った物体が、どのような物理法則のベクトルに従って、その『ありえない形』を形成するに至ったか、という純粋なメカニズムのみじゃ」
彼女は、漆黒の軍服風ジャケットの背筋を伸ばし、僕に向かってゆっくりと振り返った。
「サクタロウ。この密室で起きた『重力の逆転現象』のルーツを、今からわしの論理で完全に証明してやろう。……お主のその貧弱な脳髄が、真実の恐怖でショートせぬことを祈るのじゃな」
十年前の逃亡劇という事件の背景が抽出された今。
孤高の天才令嬢による、一切の情動を排除した物理法則を用いた『悪夢の解体』が、いよいよその狂気の本性を現そうとしていた。




