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第13巻:如月令嬢は『無頭の雛を飾らない』  作者: アリス・リゼル


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第3話『密室』 ~section1:錆びた霊柩車と、青白き脳髄~

 月見坂市。最新鋭の環境制御システムと高度なネットワークインフラによって統制され、無機質なまでに完璧なデジタル都市としての顔を持つ新市街。しかし、その眩い光の裏側には、都市開発の過渡期に完全に切り捨てられ、物理的にも情報的にも社会の深淵へと置き去りにされた陸の孤島――『旧市街』という名の巨大な澱みが存在している。

 そこは、スマートシティのアルゴリズムが意図的に黙殺した、ノイズとエラーの吹き溜まりである。

 旧市街のさらに最深部。十年前の区画整理計画の頓挫と同時に完全に封鎖され、外界との一切の接続を絶たれたまま放置されている、半地下構造の巨大な廃立体駐車場。

 陽の光すらもはや届くことのないその第一層の暗闇の中に、一人の少女が静かに佇んでいた。


 剥き出しになったコンクリートの壁面には、長年の結露と地下水脈からの漏水によって、黒々としたカビと苔が幾何学的な浸食模様を描いている。床面には、都市の排気ガスと正体不明の油分が混ざり合った、ヘドロのように粘り気を持つ泥水が薄く広がり、微かな水音を立てていた。

 換気システムが十年間停止しているその空間の空気は、酸化した鉄の臭いと、湿ったコンクリートの臭い、そして得体の知れない腐敗臭が混ざり合い、肺の奥に鉛を流し込まれるような圧倒的な重さを持っていた。生命の息吹など微塵も存在せず、ただ無慈悲な『時間』という質量だけが堆積し続けるコンクリートの廃墟。

 そんな、この世の終わりのような絶対的な死の空間の中にあって、如月瑠璃の姿は、周囲の腐敗を一切寄せ付けない異様なほどの存在感と、特異で絶対的な美しさを放っていた。


 彼女が今日その身を包んでいるのは、如月コンツェルンの令嬢としての優雅なドレスでもなければ、日常の装いである学生服でもない。事象の解体における『肉体的な可動域』と『環境への耐性』を極限まで追求した、漆黒の軍服風タイトジャケットであった。

 無駄な装飾やフリルを一切削ぎ落とし、彼女の華奢な骨格と筋肉の動きにミリ単位で沿うように仕立てられた厚手の漆黒の生地は、旧市街の澱んだ闇をすべて吸い込むように深く沈んだ色合いをしている。肩から腕にかけてのストイックでタイトなラインは、最前線に立つ軍人にも似た冷徹な規律を感じさせるが、高く硬い襟元や、手首を覆う袖口にわずかにあしらわれた銀糸の意匠が、彼女の隠しきれない高貴なルーツを物理的に証明していた。

 下半身を包むのは、ジャケットと同素材の漆黒のロングスカート。しかし、それはただ足元を隠すための優雅な布ではない。脚部の運動エネルギーを一切妨げないよう、布地の重なりの中に深く鋭いスリットと計算されたプリーツが隠されており、瓦礫の上や泥濘む悪路であっても、彼女の完璧な歩行姿勢とバランスを維持できるよう精緻に設計されている。

 そして、タイトなジャケットの腰元をきつく締め上げる分厚い漆黒のレザーベルトには、まるで中世の騎士が己の魂である剣を帯刀するかのように、鈍く妖しい光を放つアンティークの『銀の匙』が、専用の革製ホルダーに収められて提げられていた。


 純白の綿手袋を嵌めた両手を背中で組み、艶やかな漆黒のロングストレートヘアをコンクリートの冷気にわずかに揺らしながら。如月瑠璃は、広大な駐車場の最奥に広がる絶対的な暗闇へと、冷徹な知性の光を宿したアメジストの瞳を真っ直ぐに向けている。

 彼女の脳内ではすでに、この閉鎖空間に満ちる湿度、気温、気流の停滞率、そして足元の泥水に含まれる成分の推測値といった物理的パラメータが、恐るべき速度で演算処理されていた。

 これから向き合うべき、人間の悪意が産み出した『狂気』のルーツ。それを一切の情動を交えずに完璧に解体するための準備が、彼女の絶対零度の思考回路の中で、静かに、そして美しく整えられていた。


**


「遅いぞ、サクタロウ。お主の歩行速度と空間認識能力は、軟体動物のそれと物理的な差異が存在せぬのか」


 旧市街の廃立体駐車場。ひび割れ、鉄筋が露出したカビ臭いスロープを慎重に下りきり、スマートフォンのライトだけを頼りに恐る恐る半地下の空間へと足を踏み入れた僕を待っていたのは、暗闇の中に立つ如月さんの、氷点下の冷たさを持った声だった。


「ひっ……! 脅かさないでくださいよ、如月さん! こんな昼間でも真っ暗な、お化け屋敷みたいな廃墟のど真ん中にいきなり呼び出される身にもなってください!」


 僕は、肩を大きく跳ねさせ、泥水を跳ね上げながら文句を言った。

 今日はせっかくの休日だ。僕は推しの地下アイドル『魚魚ラブ』のセンターである箱崎彩香ちゃんが、初期のインディーズ時代にミュージックビデオの撮影場所として使ったという、旧市街の別の廃墟ビルの前で、一人静かに『聖地巡礼』の喜びに浸り、タブレットで過去の映像と現在の景色を見比べるという至福の時間を過ごしていたのだ。

 しかし、僕のスマートフォンに突如として如月さんから送られてきたのは、『現在地から南西へ三百メートル。座標X・Yの半地下構造物へ三分以内に合流せよ。遅延は許さぬ』という、位置情報と絶対的な命令だけが記された冷酷なテキストメッセージだった。僕のオタク的な行動パターンと現在地のGPS情報を、彼女はスマートシティのインフラの何らかのセキュリティホールを突いて、完全に掌握しているとしか思えない。


「心拍数の異常な上昇と、呼吸器系の乱れに伴う発声波形のブレを観測した。暗所恐怖症の初期症状か? お主のその貧弱で無意味な情動のノイズは、事象の観測において致命的なエラーを引き起こすぞ」


 如月さんは、漆黒の軍服風ジャケットの腰に下げた銀の匙を歩みと共に微かに鳴らしながら、アメジストの瞳で僕を冷ややかに見つめた。


「誰だってこんな不気味な場所に一人で来たら怖がりますよ! 何なんですかここは。旧市街の再開発から完全に忘れ去られた、ただの巨大なゴミ捨て場じゃないですか。カビとヘドロの臭いで頭が痛くなりそうです。早く帰りましょうよ……」


 僕は、魚魚ラブの薄暗いライブハウス用にとリュックに入れていた、超高輝度のミリタリー用フラッシュライトを取り出し、最大出力にして周囲のコンクリートの壁を照らし出した。

 広大な駐車スペースには、長年放置されて原形をとどめていない粗大ゴミの山や、不法投棄されて錆びついた家電の残骸が散乱している。光が当たるたびに、巨大なネズミか何かの影が素早く壁の隙間へと逃げ込んでいくのが見えた。

 しかし、如月さんの視線が固定されているのは、それらの無価値なガラクタの山ではなかった。


「サクタロウ。お主のその無駄に光量だけが強い照明器具の光束を、真っ直ぐ前方、この空間の最奥の区画へと指向させよ」


「最奥……ですか?」


 僕は生唾を飲み込み、冷たい汗が首筋を伝うのを感じながら、フラッシュライトの強烈な純白の光を、駐車場の最も深い暗闇――光すらも長年届かなかった絶対的な漆黒の奥底へと向けた。

 数万ルーメンの光の柱が湿った重い空気を切り裂き、コンクリートの太い柱の奥にひっそりと鎮座している『巨大な黒い塊』の輪郭を、暴力的に照らし出した。


「うわっ……車だ。しかも、とんでもなくデカい……」


 僕は思わず声を漏らした。

 それは、ただの放置車両ではなかった。フロントグリルの重厚なデザインと、無駄なまでに長いロングホイールベース。おそらく新車であれば数千万は下らないであろう、海外製の最高級フルサイズセダンだ。

 しかし、そのかつて富と権力の象徴であった威容は、現在、見る影も無いほどに無惨で冒涜的な姿へと成り果てていた。

 分厚い埃と、乾いた泥、そして天井から滴り落ちた石灰分の混ざった汚水が何層にも重なって車体全体を覆い尽くし、かつて漆黒の鏡面のように輝いていたであろう塗装は、死人の皮膚のように白濁し、無数のひび割れを起こしている。

 四つの巨大なタイヤは長年の放置で完全に空気が抜けきり、劣化したゴムが自重と鉄の重みに耐えかねてひしゃげ、車体の底面がコンクリートの床にべったりと這いつくばるようにして接地していた。フロントのエンブレムは完全に錆び落ち、ヘッドライトのカバーは白く濁って、まるで盲目の眼球のように虚空を見つめている。

 それはまるで、このコンクリートの地下墓地に密かに埋葬された、巨大な『錆びた霊柩車』そのものだった。


「十年間じゃ」


 如月さんの透き通るような、一切の温度を持たない声が、不気味な静寂に響く。


「十年前の旧市街の区画整理計画の頓挫と同時に、この半地下駐車場への進入ルートは完全に物理的に封鎖された。すなわち、あの質量の塊は、最低でも十年間、この物理的・情報的閉鎖空間において、一切の太陽光を浴びることも、人間の干渉を受けることもなく、ただひたすらに沈黙し続けておったということじゃ」


「十年も放置された高級車……。盗難車か、それとも何かの事件の証拠隠滅ですか? でも、それならどうして如月さんがわざわざこんなところへ? ただの廃車なら、ルーツを探るほどの価値はないんじゃ……」


「愚鈍じゃな、サクタロウ。わしがそのような下世話な人間の犯罪心理や、単なる鉄屑の経年劣化に興味を抱くはずがなかろう」


 如月さんは、深い紺色の影を落とすコンクリートの床を踏みしめ、霊柩車へと静かに近づいていく。


「わしの知的好奇心を強烈に刺激したのは、あの車両の『内部』で進行している、極めて異常で、そしておぞましい物理的エラーの存在じゃ」


 おぞましい、物理的エラー。

 その言葉の響きに、僕は強烈な悪寒を感じた。十年間放置された密室の車の内部。普通に考えれば、白骨化した死体でも転がっているのではないかという最悪の想像が脳裏をよぎる。ミステリーホラー映画の導入としては完璧すぎるシチュエーションだ。


「……中を、確認しろってことですか」


「お主のその照明で、後部座席の窓ガラス越しに車内を照らし出せ。事象は逃げも隠れもせぬ。ただ、あの中で静かに『狂気』を培養し続けておるのじゃからな」


 如月さんのアメジストの瞳が、暗闇の中で妖しく、そして冷酷な光を放った。


 僕は全身の震えを必死に抑え込み、泥水にまみれたコンクリートの床を踏みしめながら、その錆びた霊柩車へと恐る恐る近づいていった。

 車体に近づくにつれて、鼻を突く異臭が急激に強くなる。それは単なるカビや泥の臭いではない。何かがドロドロに腐敗し、発酵し、そして異常な形へと変質していくような……むせ返るような『濃密な生命の死臭』だった。鉄とガラスという無機物の塊から発せられるべきではない、絶対的な有機物の臭気だ。

 僕は後部座席のドアの横に立ち、泥と埃で完全に曇り切った窓ガラスを、マウンテンパーカーの袖でゴシゴシと乱暴に拭き取った。

 キィィッ……という、歯の浮くような嫌な摩擦音が鳴り、ガラスの表面に小さな覗き窓ができる。

 僕はフラッシュライトの光を限界まで絞り、その覗き窓から、密閉された車内の暗闇へと、恐る恐る強烈な光束を叩き込んだ。


「……えっ?」


 光が車内を照らし出した瞬間。

 僕の網膜が捉えたその光景を、脳の視覚処理システムが全く理解できず、思考が完全にフリーズした。

 車内には、恐れていた白骨死体はなかった。

 泥にまみれ、ひび割れた高級な本革のシート。埃の分厚く積もったフロアマット。そこまでは、ただの放置車両の内部風景だ。

 だが、僕のフラッシュライトの光の軸が、車内の『上部』……すなわち、布張りの『ルーフライニング』へと向けられた時。

 僕の喉の奥から、ヒュッ、という声にならない絶望的な悲鳴が漏れた。


「な、なんだこれ……!? 嘘だろ……?」


 それは、後部座席の天井の布地を無惨に引き裂き、逆さまにぶら下がるようにして『生えて』いた。

 異常なまでに巨大に肥大化した、植物だった。

 太く、まるで人間の血管や筋肉の繊維のように不気味に脈打つ茎が、天井の内部の鉄板に深く根を張り、そこから下に向かって、信じられないほどの質量を持った花蕾(からい)の塊が、巨大なシャンデリアのように垂れ下がっている。

 その形状は間違いなく、僕たちが日常の食卓で目にする『ブロッコリー』と呼ばれるアブラナ科の植物の姿をしていた。

 しかし、その色彩と質感は、僕の知る健康的な緑色とは完全にかけ離れていた。


 十年間。一切の太陽光を浴びることなく、この完全な暗闇と密室の中で、得体の知れない養分だけを吸い上げて育ち続けた結果なのだろう。

 葉緑素を完全に失い、白蠟(はくろう)のように透き通り、そして死人の肌のように『青白く変色』を遂げている。

 光を求めて徒長するわけでもなく、ただ己の質量を増殖させることだけに特化し、巨大に肥大化して密集した無数の青白い蕾の塊。天井の布地を完全に食い破り、蜘蛛の巣のように這い回る、太く悍ましい根のネットワーク。

 フラッシュライトの純白の光に照らし出されたその異形の青白いブロッコリーは、まるでホルマリンの海に浮かぶ、巨大に腫れ上がり、腐敗した『人間の脳髄』そのものだった。


「ひぃっ……! あ、ああぁ……!」


 僕はあまりの生理的嫌悪と恐怖にフラッシュライトを取り落としそうになり、弾かれたように車の窓から後ずさって、泥水の中に尻餅をついた。

 密閉された車内。土もない、光もない、水もないはずの空間。

 そんな場所で、なぜこれほどまでに巨大な植物が、しかも『天井から下に向かって』成長しているのか。

 それは、僕の持っている常識的な物理法則や植物学の知識を根底から破壊する、圧倒的で、そしてひどく冒涜的な狂気の光景だった。胃の奥から、酸っぱいものが込み上げてくる。


「観測したか、サクタロウ」


 腰を抜かして震える僕の横に、如月さんが静かな足音を立てて並び立った。


 漆黒の軍服風ジャケットの冷たいシルエットが、フラッシュライトの乱反射の中に浮かび上がる。


「密室状態の高級車の、布張りの天井から逆さまに根を張り、暗闇の中で巨大な脳髄のように異常肥大化した青白き異形。……実に美しく、そして残酷な物理的矛盾の結晶じゃ」


 如月瑠璃のアメジストの瞳は、目の前の圧倒的なホラー現象を前にしても一ミリの恐怖も、嫌悪すら抱くことなく。ただ、世界に隠された異常な論理を解体することへの、純粋で冷徹な知的好奇心の炎だけを、静かに燃やし始めていた。



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