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第13巻:如月令嬢は『無頭の雛を飾らない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『灯火』 ~section5:失われた手紙と、錆びた歯車~

 月見坂市新市街の裏路地に息を潜めるアンティークショップ『レトロ・メトロ』。その薄暗く埃舞う店内の最奥で、僕は足元に置かれた二十キロのヴィンテージ・アンプが入った段ボール箱の上に、最新型の薄型タブレット端末を置き、仮想キーボードへと指を走らせていた。

 僕の本来の目的であったアンプの引き取り手続きはとっくに完了している。だが、僕の平穏な休日はまだ終わらない。目の前の孤高の天才令嬢が『燭台に偽装された風鳴りのベル』という異常な事象のルーツを完全に解体し尽くすまで、僕の時間は彼女の絶対的な重力場に囚われ続けるのだ。


「さて、サクタロウ。先ほどの『盲目の受取人』という仮説。これをただの情動の産物ではなく、揺るぎない物理的構造として盤石にするための、最後の方程式を組み上げるぞ」


 如月さんは、深い紺色のケープコートの裏地をわずかに翻し、僕の目の前にある木箱の上に、手袋に包まれた両手を静かに置いた。その右手には真鍮の柄が、そして左手には、先ほど極小のスリットの奥から引きずり出した、赤茶色に錆びた金属球が銀のピンセットに摘ままれた状態で掲げられている。


「サクタロウ、この金属球の直径と質量、そして真鍮の柄の内部にある空洞の容積から、発生する音波の『周波数帯域』を計算してみよ」


「えっ、周波数ですか? そんなの、専用の音響計測マイクや解析ソフトもないのに、急に言われても……」


 僕が困惑してフリーズしていると、如月さんは小さくため息をつき、アメジストの瞳を静かに細めた。


「現代のデジタル機器に依存しすぎじゃな、サクタロウ。計測器がなければ事象を測れぬという思考停止は、自身の持つ脳のハードウェアを持て余している証拠じゃぞ」


 彼女は決して僕を面罵したわけではない。ただ、物理学の基礎公式を用いれば導き出せるはずの答えを、最初から道具に頼ろうとする僕の姿勢を冷ややかに指摘したのだ。


「ヘルムホルツ共鳴の原理と、金管楽器の音響工学の基礎式を脳内に展開してみよ。この真鍮の壁面の厚みは約三ミリ。内部の空洞は直径二センチ、長さ十センチの単純な円筒形じゃ。そして、外部から風を取り込むスリットの開口面積は、緻密に計算された極小の隙間のみ。この閉鎖空間に対して、秒速五メートルから七メートルの海風が正面から吹き込んだ時、内部で発生する気流の渦と、この質量の高い金属球の衝突によって生じる共鳴音……」


 如月さんの透き通るような声が、埃舞う店内に理路整然と響き渡る。


「音速と開口部の面積、そして空洞の体積を変数として代入すれば、その周波数は、およそ『一万五千ヘルツから一万八千ヘルツ』の帯域に収束する。極めて高く、細い純音じゃ」


「一万五千ヘルツ……?」


 その具体的な数字を聞いて、僕はオーディオ・ガジェット好きとしての知識から、ある決定的な事実に思い至った。


「待ってください、如月さん。一万五千ヘルツ以上って、いわゆる『モスキート音』に近い帯域じゃないですか。人間の可聴域のギリギリの高音域ですよ」


「その通りじゃ」


 如月さんは満足げに薄く笑い、ピンセットの先端で錆びた金属球をチリッと鳴らした。


「音響物理学において、低音は波長が長いため障害物を回り込んで広がりやすいが、高音は波長が短く直進性が高い。しかし、その音が鳴らされる環境が『秒速七メートルの海風が吹き荒れる草原』であった場合はどうなる?」


「あ……」


 僕はハッとして、六十年前の月見坂市の地形データを思い返した。


「風が野草を激しく揺らす音や、丘陵地帯にぶつかる海鳴りの音は、基本的に『ゴーッ』とか『ザワザワ』という低い周波数のノイズ、いわゆるホワイトノイズ帯域に集中しています。もし、この真鍮のベルが、普通の風鈴や自転車のベルのような一般的な中音域の音だったとしたら、環境音の強烈なノイズに完全にマスキングされてしまう……!」


「その通りじゃ、サクタロウ。よく演算が追いついたな」


 如月さんは、手の中の真鍮の柄の表面を純白の指先で撫でた。


「この真鍮のベルは、海風の低い轟音という分厚い音の壁を『物理的に貫通』させるためだけに、意図的にこの一万五千ヘルツ以上の高い周波数が出るように容積とスリットが設計されておるのじゃ。環境ノイズと帯域が被らない突き抜けた純音であれば、どれほど風が強くとも、人間の鼓膜にはっきりと『異音』として到達するからな」


 僕は、その緻密すぎる設計思想に戦慄を覚えた。

 六十年前にこの道具を作った『飛鳥便』の郵便配達員の青年は、ただ適当に音の鳴るおもちゃを作ったわけではない。草原の風切り音の周波数帯を計算に入れ、確実に相手の耳に届く音域を割り出し、分厚い真鍮を削り出してこの共鳴器を作り上げたのだ。


「でも、如月さん。その周波数には一つ、大きな問題があります。一万五千から一万八千ヘルツの高音は、年齢を重ねるごとに人間の耳には聞こえなくなっていくはずです。加齢性難聴の初期症状で、高い音から徐々に感知できなくなる。普通の大人なら、そのモスキート音を風の音の中から正確に捉えるのは至難の業ですよ」


「そうじゃ。それこそがこの道具の持つ、もう一つの残酷で美しい『物理的フィルター』なのじゃよ」


 如月さんは、アメジストの瞳に冷徹な光を宿し、一切の迷いなく断言した。


「この高い鈴の音を、強風のノイズの中から正確に拾い上げ、接近の合図として認識できるのは、聴覚細胞の有毛細胞が全く劣化していない若年層……すなわち、受取人であった盲目の人物は、間違いなく『十代から二十代前半の、若い少女』であったという物理的な証明に他ならぬ」


 若い、盲目の少女。

 その存在の輪郭がはっきりと形作られた瞬間、僕の胸の奥底で、なんとも言えない切ない情動の波がさらに大きくうねりを上げた。

 何故、青年は大きなハンドベルを手で振るのではなく、こんなにも回りくどく、特定の風の条件でしか鳴らない高周波の音を選んだのか。

 僕には、その理由が痛いほどにわかる気がした。


「……『特定の誰かにだけ』、自分の接近を知らせるためだったんですね」


 僕は、段ボール箱の上に置いたタブレットを見つめたまま、無意識のうちに呟いていた。


「もし普通の大きなベルをガランガランと鳴らしながら歩けば、草原の周囲にいる関係のない農作業中の人間にまで音が響いてしまう。それに、音が大きすぎれば、目の見えない彼女を逆に驚かせてしまうかもしれない」


 僕は、六十年前の海風が吹くススキの草原を思い描いた。


「この一万五千ヘルツの音は、大人の耳には聞こえづらく、そして風の音に紛れて、遠くからはかすかにしか聞こえない。でも、彼を家で待っている『彼女』の若くて敏感な耳にだけは、風に乗って、彼が丘の下から登ってくるのがわかる。……少しずつ、少しずつ高い音が近づいて大きくなっていくことで、彼女は『あ、彼が来てくれた』って、足音の代わりに彼の接近をリアルタイムで感じて、心の準備をすることができたんだ」


 視覚を持たない人間にとって、誰かが突然目の前に現れて声をかけられることは、時に強いストレスや恐怖を伴う。

 青年はそれを深く理解していたのだ。だからこそ、彼は自分の姿の代わりに、草原を抜けていく海風を動力源にして『優しい音の道標』を作った。彼女が、見えない彼を『待つ』という時間を楽しめるように。彼女が、彼の接近を安心して受け入れられるように。

 これほどまでに不器用で、これほどまでに純粋な『愛の証明』があるだろうか。

 僕の情動は、その真鍮の塊に隠された思いの深さに完全に飲み込まれ、目頭が熱くなるのを感じていた。


「……サクタロウ。お主のその湿度を帯びた眼球の水分量は、精密機器の基盤をショートさせるだけの破壊力を持っておるぞ。みっともない真似はよせ」


 しかし、僕のそんな感傷を、如月さんの絶対零度の声が容赦なく切り裂いた。


「愛だの優しさだのという不確かな情動を計算式に組み込むのは、三流のロマンチストの悪癖じゃ。わしが観測しているのは、あくまで『視覚的障害を補完するための、音響工学に基づいた物理的アプローチ』の完璧さじゃ。そこに付随する人間の感情など、事象の純度を歪めるノイズでしかない」


 彼女は、真鍮の柄と金属球を再び深い紺色のケープコートのポケットへとしまい込み、僕のタブレットの画面へと視線を落とした。


「さあ、物理的な変数はすべて出揃った。残るは『情報』のピースのみじゃ。その盲目の少女が誰であったのか、この飛鳥便の記録から完全に引きずり出せ」


「……はい」


 僕は軽く頭を振り、込み上げてくる感傷を無理やり心の奥底へと押し込んだ。彼女の言う通りだ。僕たちがすべきことは、過去の悲話に涙することではない。この『音なき道標』のルーツを、最後まで論理的に解明することなのだから。

 僕は再びタブレットの画面に向き合い、先ほど抽出した『飛鳥便』のデータベースの深層へとさらなる潜行を開始した。


「でも如月さん、郵便物の配達記録なんて、本来は信書の手秘密に関わる超機密情報です。第三者が簡単にアクセスできるものじゃないですよ」


 僕はタイピングを続けながら、当然の疑問を口にした。


「飛鳥便は昭和四十年代に倒産した民間業者です。当時の手書きの顧客台帳は、現代のような厳密な個人情報保護の概念が整備される前に、月見坂市の郷土史編纂資料の一部として市のデータベースに丸ごと寄贈され、アーカイブされていました。それでも一応は非公開の機密区画にロックされていますが……」


 僕は、如月コンツェルンが行政システムに持っている『特権アクセス用の暗号キー』を入力フォームに打ち込んだ。


「如月さんの権限を使えば、六十年前の歴史的資料としての閲覧ロックは解除可能です。……よし、通りました」


 スマートシティの巨大なデータサーバーが唸りを上げ、六十年前の埃まみれの記録の中から、特定の条件に合致する『特異点』を抽出すべく演算を繰り返す。

 配達エリアは、海風が吹き抜ける旧市街の丘陵地帯。そして、受取人は十代の若い少女。当時の配達台帳を、光学文字認識でテキスト化されたデータと照合していく。

 やがて画面上に、一つの古い『配達記録の台帳』の画像データが、赤いハイライトと共に浮かび上がった。


「……見つけました。如月さん、これです」


 僕はタブレットの画面を彼女に向けた。


「六十年前、この丘陵地帯……当時の地名で『潮見坂(しおみざか)』と呼ばれていた丘の頂上付近に、一軒の小さな平屋がありました。そこに住んでいたのが、『白川(しらかわ)』という一家です。そして、その家には当時十六歳になる娘さんがいました。名前は……『白川(しらかわ)千代(ちよ)』」


「白川、千代」


 如月さんは、その名前を物理的なデータとして網膜に刻み込むように呟いた。


「はい。彼女は幼い頃に高熱で視力を完全に失っていたようです。そして、この飛鳥便の配達台帳によれば……」


 僕は、その台帳の記録をスクロールしながら、言葉を失った。


「どうした、サクタロウ。演算が停止したか?」


「いえ、その……この記録、少し異常なんです」


 僕は震える指で、画面上のカレンダーのマス目を指し示した。


「飛鳥便の配達員が、この『白川千代』宛てに郵便物を届けていた頻度です。週に六日。月曜日から土曜日まで、毎日欠かさず、海風が最も強くなる午後三時きっかりに、彼女の元へ配達が行われています」


「それがどうした。熱心な文通相手がおったというだけの物理的事実じゃろう」


「違うんです。如月さん、ここを見てください」


 僕は、受取人のサインの横に記載されている、『差出人』の欄を拡大した。


「毎日届いているはずの郵便物なのに……差出人の欄が、すべて『空欄』か、あるいは『判読不能』として処理されているんです。飛鳥便のような手渡しと確実性を売りにする私設郵便で、差出人不明の荷物を毎日届け続けるなんて、システムとしてあり得ません」


 その事実が意味することを理解した瞬間、僕の胸の奥で、カチリ、と錆びついた歯車が噛み合うような音がした。


「……そうか。手紙なんて、最初から存在しなかったんだ」


 僕は、タブレットを持つ手を震わせながら呟いた。


「郵便配達員の青年は……ただ、彼女に会いに行くための『口実』が欲しかっただけなんだ。目の見えない彼女の家に、毎日通い詰めるための正当な理由。それが『郵便配達』という職務であり、架空の手紙だった」


 何という愚直で、不器用な情動だろうか。

 彼は、中身のないダミーの封筒が入った鞄を提げ、この真鍮のベルを右手に握りしめ、毎日午後三時の海風の中を、丘の上の彼女の元へと歩き続けていたのだ。チリン、チリンという高い音を響かせながら。

 失われた手紙。そして、六十年間鳴ることのなかった、錆びた共鳴器。

 二つの物理的な嘘が交差した地点に、あまりにも巨大な『想いの質量』が隠されていた。


「……無駄な往復運動じゃな」


 如月さんの氷のような声が、僕の思考を現実に引き戻した。


「中身の存在しない封筒を輸送するために、毎日丘を登る物理的エネルギーを消費するなど、熱力学の法則に対する冒涜じゃ。情動とは、これほどまでに人間を非合理な行動へと駆り立てるバグの集合体なのじゃな」


 彼女は、その青年が費やした毎日の途方もない時間と労力を、純粋な『エネルギーの浪費』として冷酷に切り捨てた。

 だが、僕にはわかっていた。彼女がそうやって冷たく事象を解体すればするほど、その裏側に隠された人間の『非合理な想い』の美しさが、強烈なコントラストとなって浮かび上がってくることを。


「さて、サクタロウ。情報のルーツの抽出はこれで完了した。次は『現在の座標』の確定じゃ」


 如月さんは、ケープコートの裾を翻し、出入り口の扉へと向かって歩き出した。


「その『白川千代』という老婦人が、六十年経った今も生存しているのか。そして、現在この月見坂市のどこで物理的な呼吸を続けているのか。お主のタブレットで即座に特定せよ。この『音なき道標』を、本来の観測対象の元へと持ち込むぞ」


「あ、ちょっと待ってください、如月さん!」


 僕は慌ててタブレットを小脇に抱え、彼女の背中を呼び止めた。


「持ち込むって……その真鍮の柄、この店の商品ですよ! 勝手に持っていったらただの窃盗になっちゃいます!」


 僕が叫ぶと、如月さんはピタリと足を止め、心底不思議そうな顔で振り返った。


「何を言うか。これはただの壊れた燭台であり、ガラクタであると、この店の主自身が物理的に定義したではないか。無価値な金属ゴミを回収してやるのだから、むしろ感謝されるべきじゃろう」


「そういう理屈は世間では通用しませんって!」


 僕は頭を抱え、レジカウンターの奥で幽霊でも見たかのように震え上がっている初老の店主の方へと向き直った。彼の長年のアンティークに対するプライドは、如月さんの論理的解体によって完膚なきまでにへし折られ、もはや廃人のようになっている。


「あ、あの! すみません店主さん、これ、おいくらですか! 買い取らせてください!」


 僕が声をかけると、店主はビクッと肩を震わせ、力なく首を横に振った。


「……も、持っていってくれ……。そんな恐ろしい曰く付きのガラクタ、もう私の店には置いておきたくない……。金なんか一円もいらないから、そのお嬢ちゃんと一緒に、早く出ていってくれ……」


 店主の悲痛な声には、真実を暴かれたことへの恐怖と、圧倒的な論理に対する畏怖が滲み出ていた。


「ほれ見ろ、サクタロウ。所有権の放棄が物理的音声として確認されたぞ」


 如月さんは我が意を得たりとばかりに鼻を鳴らし、再び扉へと歩き出す。


「いや、いくらなんでもタダってわけには……!」


 僕は罪悪感に耐えきれず、ジーンズのポケットから五百円硬貨を一枚取り出し、カウンターの上の小皿にカチンと乱暴に置いた。


「これでお願いします! 色々とお騒がせしてすみませんでした!」


 僕は急いでカウンターを離れ、足元にある二十キロのヴィンテージ・アンプが入った段ボール箱の底に両手を差し込んだ。


「うぐぐっ……! お、重い……!」


 腕の筋肉が悲鳴を上げるが、如月さんが手伝ってくれるはずもない。彼女はすでに店の扉を開け、外で待機しているであろう漆黒のリムジンへと向かっている。

 店内に残された古時計たちのチク、タク、という重苦しい歯車の音が、僕の背後で遠ざかっていく。

 六十年間、完全に停止していた真鍮のベルの時間が、孤高の天才令嬢の冷徹な論理によって、今、再び動き出そうとしていた。僕は重いアンプの箱を必死に抱え直しながら、海の見えない街に隠された『失われた音の終着点』へと向けて、早足で店を後にしたのである。



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