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第13巻:如月令嬢は『無頭の雛を飾らない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『灯火』 ~section4:追跡と、海の見えない街~

 錆びた極小の金属球を革の手帳へとしまい込んだ彼女の瞳には、すでに足元に置かれた二十キロのヴィンテージ・アンプへの興味など一ミリも残っていない。ただ、六十年前の月見坂市に隠された物理的ルーツを最後まで解体し尽くすという、純粋で冷徹な知的好奇心だけがアメジストの輝きとなって宿っていた。

 僕は大きく息を吸い込み、マウンテンパーカーのポケットから最新型の薄型タブレット端末を取り出した。指紋と虹彩のデュアル認証で素早くロックを解除し、月見坂市の郷土史データベースと、過去の商工名鑑の統合検索ツールを起動する。


「まずは、この底面の『逆文字』の画像データ化からですね」


 僕はスマートフォンのカメラアプリを起動し、マクロ撮影モードに切り替えた。如月さんが純白の手袋で固定してくれている真鍮の底面へとレンズを極限まで近づける。店内の埃っぽい空気を乱反射する自然光だけを頼りに、フラッシュを焚かずに微細な凹凸の影を的確に捉える。

 カシャッ、という電子音が静寂に響く。

 撮影した高解像度のRAWデータを、即座にローカルネットワーク経由でタブレットへと転送した。スマートシティのインフラの恩恵を受けなくとも、僕のカスタマイズしたガジェット間の通信速度は極めて優秀だ。

 僕はタブレットの画像処理ソフトを開き、取り込んだ底面の画像を画面上に大きく展開した。


「さすがに六十年の摩擦で摩耗が激しいな……。エッジの抽出と、コントラストの強調をかけます」

 僕は仮想のダイヤルを指先で回し、画像の白黒の閾値(しきいち)を極端に調整していく。不要な傷や、緑青(ろくしょう)と呼ばれる銅特有の錆のノイズが黒く潰れ、意図的に削り出された人工的な溝だけが、白い線となって画面上に浮かび上がってきた。


「よし。そして、これを水平方向に反転させれば……」


 画面上の画像を左右反転させた瞬間、そこには今まで意味を成さなかった幾何学的な模様が、明確な『文字列』として整然と並ぶ姿が現れた。


「……出ました。読めますよ、如月さん」


 僕はタブレットの画面を彼女の方へと向け、そこに浮かび上がった文字を読み上げた。


「中央にある大きなマークは、鳥の羽ばたきを抽象化したシンボルマークのようです。そして、その周囲を円形に囲むように彫られている文字は……『月見坂私設通信・飛鳥便(あすかびん)』。下部には、小さく『配達完了之印』とあります」


「飛鳥便、じゃと?」


 如月さんはアメジストの瞳を画面へと向け、興味深そうに呟いた。


「はい。待ってください、今データベースで照会をかけます」


 僕はその名称を検索エンジンの入力フォームに打ち込み、月見坂市の過去の行政記録や、ローカルな歴史アーカイブの深層へと検索の網を広げた。スマートシティの洗練された検索アルゴリズムは、現代の最適化された情報ばかりを上位に表示しようとする。僕は意図的に検索式の演算子を駆使してそれらのノイズを弾き、デジタル化されて間もない古いスキャンデータの山へと潜行していった。


「見つけました。昭和三十年代後半から四十年代にかけて、月見坂市の旧市街を中心に活動していた民間ベースの郵便事業者のようです」


 僕は画面に表示された、セピア色に変色した古い新聞記事のスクラップ画像をタップして拡大した。


「当時、月見坂市は急激な人口増加と都市開発の過渡期にあり、公的な郵便網がまだこの地域の隅々まで完全には整備されていなかった時代です。そこで、地域密着型で荷物や手紙、時には現金書留に類するものまでを確実に届けていた『メッセンジャー』たちの組織……それがこの飛鳥便ですね。各戸への確実な手渡しを原則としていて、配達員はその証明として、受取人の管理台帳に各自に支給された金属製の『専用スタンプ』を押印するルールになっていたようです。それが、この真鍮の底面に彫られた逆文字の正体です」


「なるほど。配達完了の物理的証明を残すための打刻印じゃな」


 如月さんは、手の中の真鍮の棒を見つめ直した。


「長期間にわたり、屋外で強く握り締められていたという摩耗痕のルーツとも完全に合致する。配達員が、雨の日も風の日も、この重厚な金属印を右手に握り締め、月見坂市の街を歩き回っていたわけじゃ」


 これで、一つ目の謎が完全に解けた。

 この真鍮の塊は、私設郵便の配達員が持ち歩いていた実務用のスタンプだったのだ。

 だが、僕の胸の中には、それ以上に巨大な疑問が膨れ上がっていた。


「……でも、如月さん。だとしたら、ますますおかしいじゃないですか」


 僕はタブレットから顔を上げ、彼女の完璧な横顔を見つめた。


「ただの配達員がスタンプを持ち歩くのはわかります。でも、何故そのスタンプを『燭台の柄』に偽装して、さらに内部を『風で鳴るベル』に改造する必要があったんです? 普通に考えたら、配達を知らせるためなら、自転車のベルを鳴らすか、普通のハンドベルを手で振って鳴らせばいいだけのはずです。わざわざ風を動力源にするなんて、回りくどすぎますよ」


 僕の指摘に対し、如月さんはアメジストの瞳を細め、フッと冷たい吐息を漏らした。


「愚鈍な疑問じゃな、サクタロウ。お主の思考回路は、常に事象を『人間の手による能動的な運動』に結びつけようとする癖がある。ハンドベルを手で振る。それは確かに最も簡単な音の発生手段じゃ」


 彼女は、純白の手袋で真鍮の側面にある微小なスリットを指し示した。


「だが、思い出してみよ。この空洞の中に隠されていたのは、赤茶色に錆びついた質量の高い金属球じゃ。あれほど重い球を、真鍮の分厚い壁面に打ち付けて共鳴音を発生させるには、人間が歩行する際の上下の振動程度では物理的エネルギーが全く足りぬ。意図的に激しく振り回さねば、あの金属球は壁面を叩かぬ構造になっておる」


「ええ、ですから、わざわざ手で強く振らなくても鳴るように、スリットから『風』を取り込む構造にしたんですよね?」


「その通りじゃ。そして、そこが最も重要な物理的矛盾なのじゃよ」


 如月さんの声が、一段と低く、絶対的な響きを帯びる。


「サクタロウ。この狭いスリットから空気を取り込み、内部で流速を上げて重い金属球を転がすほどの『強烈な風』が、人間の歩行速度によって生じる相対風だけで発生すると思うか? 否じゃ。人間が走った程度の風圧では、スリットの抵抗に負けて内部の気圧を押し上げることは不可能じゃ」


「それじゃあ、どうやって音を鳴らしていたんですか?」


「最初から『強烈な風が吹き荒れている環境』で、この道具を使用していたのじゃよ」


 彼女の断言に、僕は息を呑んだ。


「この道具は、手で振って鳴らすためのものではない。右手に強く握り締め、特定の方向へと向けて歩くことで、正面から吹き付ける『一定の風速を持った強風』をスリットへと取り込み、自動的に共鳴音を発生させ続けるための物理的装置(オートマトン)なのじゃ」


 強烈な風が常に吹き荒れている環境。

 僕はタブレットの画面から視線を外し、アンティークショップのすりガラスの窓の向こう……現代の月見坂市新市街の景色を思い浮かべた。

 現在の月見坂市は、完璧な環境制御システムと都市計画によって守られている。巨大な高層ビル群が風の通り道を計算して配置され、ビル風を相殺するように防風林や遮蔽物が設計されているため、街の地上付近では常に制御された微風しか吹かない。少なくとも、真鍮の空洞の中の重い金属球を転がすほどの暴風が定常的に吹いている場所など、この街のどこにも存在しないはずだ。


「そんな場所、今の月見坂市にはありませんよ。台風が直撃した日でもない限り……」


「今の月見坂市には、な」


 如月さんは、僕の言葉の尻を的確に捉え、冷ややかに言い放った。


「サクタロウ。お主は先ほど、この『飛鳥便』が稼働していたのは昭和三十年代から四十年代にかけてだと言ったな。約六十年前じゃ。その時代、この月見坂市はどのような物理的地形(トポロジー)を持っていたのか。都市の表面に張り付いたコンクリートとアスファルトの装甲を引っ剥がし、過去の地形データを復元してみよ」


 過去の地形データの復元。

 僕は生唾を飲み込み、再びタブレットの仮想キーボードへと指を走らせた。

 月見坂市の郷土史データベースのさらに奥深くから、一九六〇年代の都市計画図と、米軍が撮影したと思われる古い航空写真のアーカイブを抽出する。さらに、気象庁の過去の観測データバンクへとアクセスし、当時のこの地域における風向・風速の年間平均データをダウンロードする。

 僕はそれらの膨大なデータを、タブレット上で稼働する3Dマッピングソフトへと一気に流し込んだ。


「スマートシティの現在の構造レイヤーを非表示にします。高度な環境制御ドーム、林立するガラス張りの高層ビル群、地下の巨大な共同溝、そして……海岸線を大きく前進させている広大な埋め立て地のデータをすべて削除して……六十年前のベースレイヤーを抽出します」


 僕の操作に合わせて、タブレットの画面上で、ガラスと鋼鉄で構成された現代の月見坂市が、まるで早送りの逆再生のようにパラパラと崩れ落ち、消え去っていく。

 ビルが消える。アスファルトの幾何学的な道路網が剥がれ落ちる。巨大な港湾施設が砂と波に呑み込まれ、海岸線が数百メートルも内陸へと大きく後退していく。

 数秒の演算処理の後、画面上にレンダリングされたのは、僕が全く見たことのない、しかし間違いなくこの街の本来の姿である『原風景』だった。


「……信じられない」


 僕は思わず声を漏らした。

 現在、僕たちがいるこの新市街の中心エリア。巨大なビルが林立し、そのさらに海側には最新のテクノロジーが結集した人工島が広がっているはずのこの場所は、六十年前の地形図では、ただなだらかな傾斜を持った『海へと直接続く丘陵地帯』に過ぎなかったのだ。

 風を遮るようなビルの遮蔽物は一切なく、低い木造の平屋やトタン屋根の家屋がまばらに点在するのみ。丘の斜面には、おそらく一面にススキや背の高い野草が生い茂る広大な草原が広がっていたことが、土壌データの記録から読み取れる。

 そして何より決定的なのは、海との距離と、その間に遮るものが何もないという事実だ。


「如月さん。当時の気象データと地形図を重ね合わせました。……驚くべき結果です」


 僕は震える指で画面をタップし、風の軌跡を示す青い矢印のアニメーションを3Dマップ上に表示させた。


「六十年前のこの一帯は、海からの障害物が何一つない広大な草原の広がる丘陵でした。そして、海陸風(かいりくふう)の気象データによれば、この丘陵地帯には毎日午後になると、海から陸に向かって強烈な『海風(うみかぜ)』が吹き上げていた記録が残っています。日射によって暖められた陸地の上昇気流を補うために、冷たい海から大量の空気が流れ込む現象です。その平均風速は……秒速五メートルから七メートル。地形の収束効果(チャネリング)も手伝って、時には局地的に十メートルを超えることもあったようです」


「秒速七メートルの定常風、か」


 如月さんはアメジストの瞳を細め、僕のタブレットの画面に表示された青い矢印の軌跡を、まるで緻密な方程式の解を眺めるように見つめた。


「ベルヌーイの定理と、この真鍮のスリットの開口面積、そして空洞の容積を計算式に代入すれば、秒速五メートル以上の風速がスリットに対して正面から吹き込んだ時、初めて内部の気圧が閾値(しきいち)を超え、あの錆びた重い金属球を転がすだけの物理的エネルギーが発生する。……すべてが完璧な計算通りじゃ」


 彼女は、純白の手袋で真鍮の棒の側面を撫でながら、事象の全貌を明確な言葉として定義していった。


「六十年前。飛鳥便の配達員の青年は、この海風が吹き荒れる午後の丘陵地帯を配達ルートとして担当しておった。彼は、強風に煽られながらこの真鍮の柄を右手に強く握り締め、海からの風を正面に受けて歩いていた。その結果、スリットから風が吸い込まれ、内部の共鳴箱が機能し……チリン、チリンという高く澄んだ音を、周囲の野原に響かせながら歩いていたのじゃよ」


 海からの強風を受け、高い音を響かせながら、道なき草原を歩く一人の郵便配達員。

 その光景を脳裏に思い描いた瞬間、僕の胸の奥底で、なんとも言えない切なさが込み上げてくるのを感じた。


「でも、どうしてそんなことをする必要があったんでしょうか」


 僕は、無意識のうちに呟いていた。


「配達を知らせるためなら、黙って歩いて家に着いてから声をかければいい。わざわざ歩いている最中から、ずっと音を鳴らし続ける必要なんてないはずです。それに、何故それを『燭台の柄』という不自然な形に偽装しなければならなかったのか」


 僕の疑問は、ごく自然な人間の感情に基づくものだった。配達員が誰かに自分の存在を必死にアピールしながら歩いていたのだとすれば、そこには何か特別な思い入れがあったに違いない。


 だが、如月さんはそんな僕の感傷を一刀両断するように、冷ややかに言い放った。


「サクタロウ。お主はまた、事象を無意味な人間の心理から読み解こうとしておるな。物理的な機能から逆算すれば、答えは自ずと一つの結論へと収束する」


 如月さんは、真鍮の棒を僕の目の前でピタリと止めた。


「特定の条件下にのみ、自動的かつ継続的に音を発生させる機能。それはすなわち、『自分の接近を、遠くからでもリアルタイムで知らせ続ける必要があった』という物理的要件を満たすためじゃ。そして、その音を届ける対象が『視覚情報によって接近を感知できない存在』であったとすれば、すべての論理は破綻なく繋がる」


 視覚情報によって接近を感知できない存在。

 その言葉の意味を頭の中で反芻した瞬間、僕の全身の産毛が逆立つような感覚に襲われた。


「……まさか。その配達員が手紙を届けていた相手は……」


「そうじゃ。おそらくその特定の受取人は、重度の視覚障害……すなわち『盲目』であった可能性が極めて高い。配達員は、目の見えない相手に対し、自分が今、草原のどのあたりを歩いて向かっているのかを『音の移動』によって知らせるために、この特殊な風鈴(ベル)を作り上げたのじゃよ」


 如月さんのアメジストの瞳が、薄暗いアンティークショップの中で、真実という名の絶対的な光を放っていた。


「そして、それを普通のハンドベルではなく『燭台の柄』に偽装した理由。それも、盲目の相手と深く関わる上での、周囲の視覚的環境に対する何らかの『機能の隠蔽』じゃろう。……実に、実に興味深い構造じゃ。この道具を作った人間は、情動という非合理なエネルギーを、極めて精緻な物理的ギミックへと昇華させておる」


 愛する人、あるいは大切な人へ、自分の姿の代わりに風の音を届けるための道標。

 六十年という時間を超えて、ただのガラクタだと思われていた真鍮の塊から、一人の青年の不器用な優しさと、隠された想いが明確な輪郭を持って浮かび上がってきたのだ。

 他者の痛みに敏感に反応してしまう僕のお人好しな感情は、その見えない手紙の重さに耐えきれず、激しく心を揺さぶられていた。


「さあ、サクタロウ。感傷に浸っている暇はないぞ」


 しかし、如月さんは僕の感情など一切無視して、次の観測への指示を冷酷に下した。


「飛鳥便の当時の配達ルートと、この海風が吹き抜けていた丘陵地帯の座標をクロスチェックせよ。そして、当時の顧客名簿、あるいはそれに類する記録から、その『盲目の受取人』が住んでいたであろう家屋の現在の物理的位置(アドレス)を特定するのじゃ。この『音なき道標』のルーツを最後まで解体するためにな」


 僕は大きく息を吸い込み、こくりと頷いた。


「はい、わかりました。やってみます」


 僕は再びタブレットに向かい、六十年前の海の見えない街に隠された、たった一つの『音の終着点』を探し出すための、果てしないデジタルな追跡行を再開した。



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