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第13巻:如月令嬢は『無頭の雛を飾らない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『灯火』 ~section2:調律の儀式と、掌の温もり~

「……お嬢ちゃん。いくら綺麗な身なりをしていても、冷やかしならご遠慮願いたいね」


 如月さんの冷徹な断言が店内の空気を凍りつかせた直後、レジカウンターの奥から、くぐもった、しかし明らかな不快感を伴う声が響いた。

 声の主は、この『レトロ・メトロ』の店主だった。分厚いべっ甲縁の老眼鏡を鼻眼鏡にし、油汚れと埃が染み付いたキャンバス地の大きなエプロンを身につけた初老の男だ。彼は僕のアンプの引き渡し手続きを終えた後、木箱の前で突拍子もないことを言い出した如月さんを疎ましく思ったのだろう。わざわざカウンターから出てきて、僕たちの横へと歩み寄ってきた。


「それは二ヶ月ほど前、旧市街の古い長屋が取り壊された時に、出入りの解体業者が二束三文で持ち込んできたガラクタの山に紛れていたものだ。上も下も折れて無くなっちまった、ただの壊れた真鍮の燭台さ。そこに隠された機能だの偽装だの、探偵小説の読みすぎじゃないのかい」


 店主は、如月さんの手の中にある真鍮の棒を鼻で笑い飛ばした。アンティークを扱う人間でありながら、彼の目には、それが単なる『欠損した無価値な金属ゴミ』にしか映っていないのは明白だった。


「あ、いや、すみません。この人はちょっと、モノの見方が独特というか……悪気はないんです」


 僕は慌てて間に入り、愛想笑いを浮かべて場を収めようとした。こんな埃っぽい店内でトラブルを起こして、せっかく手に入れたヴィンテージ・アンプの持ち帰りに支障が出るのは御免だったからだ。


 しかし。

 如月瑠璃という少女の辞書に、『空気を読む』とか『他者の機嫌を取る』といった社会的な妥協の概念は一ミリも存在しない。


「……愚鈍なことを言うな。お主のその濁った眼球では、物質が発している物理的な叫び声すら知覚できぬようじゃな」


 如月さんは、店主の顔を一瞥もすることなく、氷のように冷たく、一切の温度を持たない声で切り捨てた。


「な、なんだと……?」


「己の店に置かれた品物のルーツすら正しく観測できぬから、この店にはこれほどまでに無価値な死臭が充満しておるのじゃ。わしの思考の邪魔をするでない。ただ黙って、そこから事象が解体される様を眺めているのじゃな」


 店主が怒りで顔を真っ赤に染め、抗議の声を上げようとしたその瞬間。

 如月さんは深い紺色のケープコートの隠しポケットから、一つのアイテムをゆっくりと取り出した。

 鈍い銀色の輝きを放つ、分厚いアンティークの懐中時計。

 彼女はそれを右の手のひらに乗せると、親指で静かに蓋を弾き開けた。


 チク、タク、チク、タク。


 ゼンマイと歯車が物理的に噛み合うことで生じる、重厚で、そしてひどく不協和音のような機械音が、埃舞う店内の静寂を切り裂いて響き渡る。


「なんだ、その古時計は……」


 店主は毒気を抜かれたように戸惑い、口を噤んだ。

 僕はこの光景を知っている。幾度となく見てきた、彼女の絶対的な儀式だ。

 如月さんはゆっくりとアメジストの瞳を閉じ、その秒針の刻みに、自身の脈拍と呼吸を完全に同期させていく。


 『調律』である。


 人間の脳は、店主の不快感や僕の焦りといった周囲の情動のノイズによって、常に視界にバイアスをかけられている。それらすべての不純物を精神から削ぎ落とし、世界を純粋な『質量、構造、運動』の集合体として再定義するための、物理的なメトロノーム。


 十秒、二十秒。


 チク、タクという音が響くたびに、店内の重苦しい空気が彼女を中心とした絶対零度の重力場へと作り変えられていくのがわかった。光の柱の中を舞っていた埃の粒子すらも、彼女の周囲だけは静止しているかのように錯覚する。

 やがて、チク、という一際澄んだ音と共に、彼女はゆっくりと目を開いた。

 その瞳からは人間らしい温度が完全に失われ、すべてを論理のメスで切り裂く、冷徹な観測者のそれへと変貌していた。


「サクタロウ、よく見るのじゃ」


 如月さんは懐中時計をケープの奥へとしまい込むと、代わりに純白の綿手袋を取り出し、両手にゆっくりと嵌めていった。指の関節にシワ一つ残さない、完璧な所作だ。

 そして、手袋に包まれた左手で真鍮の棒を垂直に持ち上げ、右手で銀の装飾が施された折りたたみ式のルーペを取り出した。


「この真鍮の表面に彫り込まれた、植物の(つる)のレリーフ。お主の眼にはどう映る?」


 言われるがまま、僕は如月さんの手元へと顔を近づけ、窓から差し込む陽光に照らされた真鍮の表面を凝視した。


「どうって……長年の汚れで黒ずんでいますけど、細かい彫刻ですよね。でも、なんだか場所によって彫りの深さが違うような……」


「その通りじゃ。見え透いた真実じゃな」


 如月さんは、銀のルーペのレンズを真鍮の表面スレスレまで近づけ、ミクロの世界へと没入していく。


「このレリーフの摩耗の仕方は、極めて不自然かつ偏執的じゃ。もしこれが卓上に置かれる燭台であり、掃除のために時折布で拭かれたり、持ち運ぶために様々な角度から手で触れられていたのなら、表面の摩耗は全体的に均一になるはずじゃ。しかし、この真鍮の柄は違う。円柱の『特定の三箇所』だけが、レリーフの凹凸が完全に消失するほどにツルツルに削り取られておる」


 彼女はルーペを下ろし、純白の指先でその摩耗した三箇所を的確になぞってみせた。


「ここが親指の付け根。ここが人差し指と中指の第二関節。そしてここが、手のひらの下部の摩擦痕じゃ。サクタロウ、これが何を意味するか思考してみよ」


僕は自分の右手を虚空で握り込む動作をしてみた。


「……つまり、誰かがこの棒を、常に『全く同じ角度』で、しかも長期間にわたって『強く握り締め続けていた』ってことですか?」


「正解じゃ。卓上の装飾品を、親指の腹がすり減るほどの力で毎日同じ角度で握りしめる人間はおらん。この摩耗痕は、この道具が『屋内に飾られるもの』ではなく、人間の手に握られ、ある特定の目的のために『屋外へと持ち出されるための機動力を持ったツール』であったことの完全なる物理的証明じゃ」


 如月さんの論理は、店主の『ただの壊れた燭台』という前提を、根底から鮮やかに粉砕した。店主は押し黙ったまま、信じられないものを見るような目で如月さんの横顔を見つめている。


しかし、彼女の解体はこれで終わりではなかった。


「さらに、この真鍮の表面に形成された緑青(ろくしょう)と酸化被膜の層を観測するのじゃ」


 如月さんは再びルーペを目に当て、今度は真鍮の黒ずんだ変色部分を舐めるようにスキャンし始めた。


「銅と亜鉛の合金である真鍮は、人間の皮脂に含まれる塩分と脂肪酸、そして空気中の水分と反応してゆっくりと酸化していく。だが、この摩耗痕の周辺に定着している黒ずみの中には、微小な『ケイ素』の結晶……すなわち、細かい砂ぼこりが大量に、そして深く食い込むようにして練り込まれておる」


「砂ぼこり、ですか?」


「そうじゃ。しかも、ただ風に乗って付着したものではない。人間の掌から分泌された大量の汗と皮脂が接着剤となり、そこへ強風によって吹き付けられた砂ぼこりが衝突し、強い力で握り込まれることによって、金属のミクロの傷の中にまで完全にパテのように埋まり込んでいるのじゃ」


如月さんの口から紡がれる物理現象の解説は、まるで過去の映像をホログラムとして空間に投影しているかのような圧倒的な解像度を持っていた。


「この痕跡が示す事実。それは、この道具の持ち主が、雨の日も、強い風が吹き荒れる日も、常にこれを右手に強く握り締め、過酷な屋外の環境を長距離にわたって歩き続けていたということじゃ。単なる移動ではない。掌にじっとりと汗をかくほどの『緊張』あるいは『強い目的意識』を持って、これを握り締めていたのじゃよ」


 掌の汗。強く握りしめられた指の力。

 ただの金属の棒切れから、それを持っていた人間の『体温』や『息遣い』といった生々しい質量が、僕の脳裏に鮮明に浮かび上がってくる。如月さんは他者の情動に一切共感しない。しかし、彼女の徹底した物理的観測が導き出す事実は、皮肉なことに、どんな感傷的な物語よりもリアルに『そこにいた人間の命の痕跡』を浮き彫りにしてしまうのだ。


「……そ、そんな馬鹿な。たかが摩耗の跡や汚れだけで、そんなことまでわかるわけが……」


 店主が震える声で反論しようとしたが、如月さんはその言葉を完全に無視し、真鍮の棒をくるりと反転させた。


「サクタロウ。お主の持っているスマートフォンのライトを起動し、この底面の平らな部分を照らすのじゃ。光軸を斜め四十五度から当てよ」


「あ、はい!」


 僕は慌ててポケットからスマートフォンを取り出し、ライトアプリを起動して、言われた通りの角度から真鍮の底面へと光の束を照射した。

 上部の断面と同様に、受け皿や土台が接続されていた痕跡はない。ただ平らに切り落とされただけの底面だ。

 しかし、斜めから強い光を当てられ、そこに生じた極小の『影』を銀のルーペで覗き込んだ瞬間、如月さんのアメジストの瞳が、知的な興奮に微かに、しかし鋭く光を放った。


「……やはりな。これですべての前提が覆った」


 如月さんはルーペを折りたたみ、満足げに薄く笑った。


「サクタロウ、お主も自分の肉眼の限界まで近づいて見てみるがよい。この底面に、何が刻まれているかを」


 僕はスマートフォンを片手に、真鍮の底面へと顔を近づけた。

 一見するとただの傷や打痕に見える微細な凹凸。だが、光の角度を微調整しながら目を凝らすと、それが無作為についた傷ではなく、何らかの意図を持って金属を削り出して作られた『人工的な線』の集合体であることがわかってきた。


「これは……アルファベット、ですか? いや、数字……?」


 幅わずか二センチほどの円形の底面に、ごく浅い彫りで、いくつかの文字のようなものが配置されていた。長年の摩擦でかなり薄れてはいるが、中央に大きなマークがあり、その周囲を囲むように小さな文字が並んでいる。


「でも、なんだか形がおかしいですよ。文字が裏返っているというか……」


「その通りじゃ、サクタロウ。これはただの刻印ではない」


 如月さんは純白の手袋の指先で、その底面をスッと撫でた。


「これは『逆文字』じゃよ。インクや朱肉をつけて紙に押し当てた時、初めて正しい文字列として読めるように設計された物理的構造。……すなわち、この真鍮の棒の正体は、燭台の持ち手などではなく、実務用の巨大な『金属印』の()として作られたものじゃ」


金属のスタンプ。

 その事実が突きつけられた瞬間、店内の空気が完全に一変した。


「き、金属印だと……?」


 店主が目を見開いて絶句する。


「左様。ただの燭台の柄であれば、底面にこのような精巧な逆文字の金型を彫り込む物理的理由が完全に欠落する」


 如月さんは、手の中の真鍮を軽く持ち上げ、まるでそれが極めて貴重な歴史的遺物であるかのように見つめた。


「誰かが、この月見坂市の旧市街で、雨の日も風の日もこれを強く握り締め、どこかへ向かって歩き続けていた。そして、目的地でこの底面のスタンプを押し、己の足跡を記録していた……。実に、実に美しい機能の隠蔽じゃ。これほどの純粋な物理的ルーツを『ただの壊れたガラクタ』と断じたお主の眼球は、もはやガラス玉以下の価値しか持ち合わせておらぬな、店主」


圧倒的な論理による、事象の完全な反転。

 店主は、もはや反論の言葉を一つも紡ぐことができず、ただ口をパクパクと開閉させることしかできなかった。


「さて、サクタロウ。この逆文字を解読し、この道具がどこで誰に使われていたのか、その情報のルーツをデジタルで引きずり出すぞ。お主の下僕としての演算能力の見せ所じゃな」


 如月さんは、深い紺色のケープコートの裏地の星図を鮮やかに翻し、僕へと視線を向けた。

 僕の休日の平穏な買い物は、こうして完全に終わりを告げ、六十年前の月見坂市に隠された『音なき道標』のルーツを解体するための、濃密な観測の旅へと強制的に移行したのである。



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