表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
第13巻:如月令嬢は『無頭の雛を飾らない』  作者: アリス・リゼル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/21

第1話『断絶』 ~section9:剥き出しの殺意と、銀のルーペ~

 冷たく湿った地下室の空気が、さらに一段階、致命的なほどに凍てついたように感じられた。

 藤堂家が百年間守り続けてきた『血脈の嘘』。その前提そのものが、百年前の当主の狂気が生み出した妄想であり、今朝方まで百貨店に飾られていたお内裏様は、その妄想を適当にあしらって作られた『安価な化学染料の偽物』に過ぎなかった。

 僕が両手で構える高輝度LEDライトの光束の中で、如月さんの放ったその残酷すぎる論理の刃は、祭壇に並ぶ無数の木製のデスマスクたちを沈黙させ、この巨大な地下空間の怨念を根底から解体してしまった。

 藤堂正和は、自分が本物の直系であるにもかかわらず、偽物の記録に怯え、本物の血を引いているからこそ家名を守るために、無意味な破壊工作という凶行に手を染めてしまったのだ。これほど滑稽で、これほど救いのない悲劇があるだろうか。

 情動の視座を通して流れ込んでくる、見えない藤堂正和の絶望と自己嫌悪の重さに、僕の心臓はひどく嫌な音を立てて脈打っていた。


「……行くぞ、サクタロウ、黒田。事象の終息を、あの愚鈍な男に物理的な事実として突きつけてやるのじゃ」


 如月さんは、解体された歴史の残骸にはもう一瞥もくれることなく、灰色のヴィクトリアン・ドレスの裾を優雅に翻し、僕のライトの光軸を横切って地下室の出口へと歩き出そうとした。

 その、瞬間だった。


「……嘘だ……」


 石段の暗がりから、地を這うような、ひどく掠れた声が響いた。

 僕と黒田さんは弾かれたように声の方向へライトと視線を向けた。

 いつの間に下りてきていたのか。石段の一番下の段に、玄関の上がり框で泣き崩れていたはずの藤堂正和が、幽鬼のような姿で立ち尽くしていた。

 彼の深い藍色の着物はさらに乱れ、土間の泥を引きずった足袋は真っ黒に汚れきっている。しかし何よりも異常だったのは、その顔だった。先ほどまでの病的なプライドも、威厳を保とうとする虚勢も、すべてが削ぎ落とされている。そこにあるのは、己の人生と一族の百年間を全否定された人間の、完全に限界を超えて破裂してしまった『剥き出しの狂気』だった。


「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ! 我が藤堂の血脈が、先祖の記録が妄想だなどと……そんな馬鹿げた作り話が、あってたまるかぁっ!!」


 藤堂の喉から、人間のものとは思えない、獣のような絶叫がほとばしった。

 彼は石段を蹴り下り、ぬかるんだ土の床を泥を跳ね上げながら、僕たちの方へと一直線に突進してきた。その血走った双眸は、僕でも黒田さんでもなく、事象の真実を暴き出した特異点――如月瑠璃ただ一人にのみ、強烈な殺意の焦点として固定されていた。


「お嬢様ッ!」


 黒田さんが瞬時に反応し、巨大な体躯を滑らせて如月さんの前へと出ようとした。

 しかし、藤堂の行動は狂気にブーストされており、常人の運動能力の計算式を完全に逸脱していた。彼は如月さんへ向かって直進するのではなく、その軌道を不自然に右へと逸らし、地下室の最奥、漆塗りの台座の方へと身を躍らせたのだ。

 彼の狙いは、如月さんの首を直接締めることではない。台座の上に放り出されていた『アレ』だった。


「やめろッ!」


 僕が叫ぶよりも早く、藤堂の右手が台座の上の凶器を鷲掴みにした。

 刃の表面に紫の絹糸と古い木屑をべっとりと付着させた、反りの美しい一振りの『小太刀』。昨夜、分厚い桐材の首を一太刀で断ち切った、実在する恐るべき質量。


「すべてお前が悪い……! お前のような如月の小娘が現れなければ、藤堂の血は、俺の誇りは永遠に守られたんだ! 死ねェェェェッ!!」


 藤堂は小太刀を上段に振り被り、泡を吹かんばかりの形相で如月さんへと襲いかかった。


 その瞬間、僕の脳内で極度の恐怖とアドレナリンが化学反応を起こし、時間の流れが泥のように遅く、引き伸ばされていくのを感じた。

 狭い地下室。無数に並ぶ木製の棚が障害となり、黒田さんの巨体では藤堂の変則的な軌道からの斬撃にコンマ数秒だけ干渉が遅れる。

 小太刀の鈍い銀色の刃が、頭上の空間を引き裂きながら、如月さんの華奢な肩口へと向かって落下してくる。

 僕は、考えるよりも先に身体を動かしていた。


「如月さんッ!!」


 両手で構えていたLEDライトを放り出し、僕は無防備な背中を晒して、如月さんの灰色のドレスを覆い隠すようにその前へと飛び込んだ。


 ガラン、ガランッ!


 僕の手から離れたライトが、土の床に落ちて激しく回転する。純白の光束がストロボのように地下室の壁を、歴代当主の不気味なデスマスクたちを、そして振り下ろされる小太刀の軌跡を、コマ送りのように乱反射して照らし出した。

 刃が空気を切り裂く『ヒュッ』という風切り音が、僕の鼓膜のすぐ横を通過する。

 斬られる。死ぬ。

 圧倒的な死の恐怖が全身の毛穴を全開にさせ、僕は目を固く閉じて、来るはずの刃の激痛と熱さに備えて全身の筋肉を硬直させた。


 ガシィィィィンッ!!!


 僕の背中で、骨と筋肉、そして金属が激しく衝突するような、凄まじい衝撃音が弾けた。

 しかし、予想していた肉を裂かれる激痛は、いつまで経っても訪れなかった。

 恐る恐る薄目を開け、背後を振り返る。

 回転を止めたLEDライトの光が、その信じられない光景を強烈なコントラストで浮かび上がらせていた。


「……ぐ、ぅぅおおおおッ! 離せ、離せェッ!!」


 藤堂の絶叫が、至近距離で響き渡る。

 僕の頭上わずか十センチの空間で、振り下ろされた小太刀の刃が、ピタリと静止していた。

 否、静止させられていたのだ。

 黒田さんの丸太のように太い右腕が、藤堂の小太刀を握る右手首を、まるで鋼鉄の万力のように下から完全にホールドしていた。藤堂は全身の体重と狂気を乗せて刃を押し込もうとしているが、黒田さんの広背筋と腕の筋肉がスーツを破らんばかりに膨張し、その運動エネルギーをミリ単位のブレもなく完全に相殺し切っている。


「これ以上の無礼は許さん」


 黒田さんの声は、驚くほど低く、そして静かな怒りを孕んでいた。


「あ、ぁぁ……黒田さん……!」


 僕は腰が抜けそうになるのを必死に堪えながら、震える声でその巨大な背中に感謝した。間一髪だった。あと一瞬でも黒田さんの踏み込みが遅れていれば、僕の背中は袈裟懸けに両断され、その後ろにいる如月さんごと、この冷たい地下室の床に血の海を作っていただろう。

 生と死の境界線をギリギリで綱渡りした極度の緊張感に、僕の心臓は早鐘のように打ち鳴らされ、息をするたびに肺が引き攣るように痛んだ。


 しかし。

 僕が庇い、僕のすぐ背後に立っているはずの『彼女』からは、悲鳴も、安堵の吐息も、一切の情動のノイズが聞こえてこなかった。

 僕は弾かれたように振り返った。

 如月瑠璃は、先ほどから一歩も動いていなかった。逃げようとも、身をすくめようともしていなかった。

 彼女は、狂気に染まった藤堂が凶刃を振り下ろし、僕が盾となり、黒田さんがそれをギリギリで受け止めているというこの極限の死地において――ただ静かに、ドレスのポケットから『銀のルーペ』を取り出していたのだ。


「……見事じゃ」


 彼女の薄い唇から漏れたのは、恐怖による震え声でも、命を救われたことへの感謝でもなかった。

 純粋な、知的な感嘆の吐息だった。


「如月、さん……?」


 僕は自分の耳を疑った。彼女は今、何と言った?

 如月さんは、黒田さんの万力によって空中で完全に固定され、小刻みに震えている『小太刀の刃』へと、ゆっくりと顔を近づけていった。そのアメジストの瞳は、自分を殺そうとした藤堂の顔など一ミリも視界に入れていない。彼女の網膜に映っているのは、眼前に突きつけられた『凶器の質量と形状』だけだった。


「サクタロウ、よく見るのじゃ。わしの眼前に固定された、この極めて特異な刃の形状を」


 如月さんは、銀のルーペのレンズを右目に当て、凶刃の表面を舐めるように観測し始めた。


「先ほど台座の上にあった時は気づかなかったが……こうして空中で、強烈な下方への運動エネルギーを孕んだ状態で静止させられると、この刃の持つ『物理的な機能美』が恐ろしいほどの解像度で浮かび上がってくる」


 正気の沙汰ではない。

 刃先からわずか数センチの距離。藤堂が少しでも力を押し込めば、その美しい顔面が真っ二つにされるというゼロ距離で、彼女はルーペ越しに刃物のミクロの世界へと没入しているのだ。


「日本刀の最大の特徴は、この『()り』にある」


 如月さんの透き通るような声が、藤堂の荒い息遣いと僕の動悸を完全に無視して、地下室に理路整然と響き渡る。


直刀(ちょくとう)が対象物を『叩き割る』ことに特化しているのに対し、日本刀の湾曲した反りは、対象物を『引き切る』ことに極限まで特化させた幾何学的な奇跡じゃ。対象物に刃が触れた瞬間、曲面に沿って力が分散し、摩擦抵抗を最小限に抑えながら繊維の奥深くへと侵入していく。刀身が対象物を滑るように移動することで、人間の限られた腕力や体重を、何倍もの切断力へと変換する物理的ブースターの役割を果たしておるのじゃ」


「な、何を……貴様、何を言っている……!」


 藤堂が、手首を砕かれんばかりの激痛と、目の前の少女のあまりにも異常な反応に、恐怖で顔を引き攣らせながら呻いた。

 自分が全力で殺意を向け、今まさに命を奪おうとしている相手が、自分のことを『人間』としてすら認識しておらず、ただ自分の持っている『モノ』の性能だけを評価している。その絶対的な温度差は、藤堂の残された僅かな正気すらも凍りつかせるには十分だった。


「だが、この小太刀はさらに特殊じゃ」


 如月さんは藤堂の呻き声を完全に環境ノイズとして処理し、ルーペの角度をわずかに変えた。


「通常の刀剣よりも刃渡りが短い小太刀でありながら、身幅(みはば)が異常に広く、そして『重ね』が分厚い。刀剣というよりも、(なた)や斧に近い重心のバランスを持っておる。これは対人戦闘用の武器ではない。……そうか。これは最初から、太い木材や分厚い絹の束を『断ち切るためだけ』に、特殊な質量計算を用いて鍛造された、完全なる儀式用の特注品じゃな」


 彼女の指先が、空中で震える刃の(みね)のラインを、手袋越しになぞるように動いた。


「見事な鎬造(しのぎづく)りじゃ。対象に刃が食い込んだ後、この厚みのある鎬筋(しのぎすじ)が楔となって対象を左右に押し広げ、刃が木材の繊維に挟まって抜けなくなる『噛み』の現象を物理的に防いでいる。だからこそ、昨夜の百貨店で、藤堂正和のような武術の心得のない老人でも、あの分厚い桐材の首を一息に、摩擦の焦げ跡一つ残さず滑らかに断ち切ることができたのじゃ」


 如月瑠璃の瞳に映っているのは、死の恐怖ではない。

 モノがそこにある理由。モノがそのような形をしている理由。

 そのすべての物理的なルーツが、今、目の前にある小太刀の『反り』と『質量』によって完璧に証明されたという、圧倒的な知的な恍惚感だけだった。

 僕は、床にへたり込んだまま、その横顔をただ見上げるしかなかった。

 情動の視座を持たない彼女は、藤堂正和の絶望にも、僕の命懸けの庇いにも、一切の価値を見出していない。彼女の心臓の脈拍は、懐中時計で調律したあの時と全く同じ、完璧な一定のリズムを刻み続けているに違いない。

 人間が剥き出しにした殺意など、彼女の強固な論理の城壁の前では、ただの『物理的な運動エネルギーの一形態』に過ぎないのだ。


「……恐ろしい人だ」


 僕は無意識のうちに、引き攣った笑いを浮かべながらそう呟いていた。

 だが、同時にどうしようもないほどの安堵感が、僕の全身の力を抜けさせていくのを感じていた。

 彼女がどれほど冷酷で、どれほど他者の感情を切り捨てる存在であろうとも。この絶対的なブレのなさが、世界を構成するすべての嘘と欺瞞を解体し、ただ一つの純粋な真実だけを照らし出してくれる。僕はその論理の光に、強烈に惹きつけられている自分を否定できなかった。


「……ここまでだ、藤堂」


 黒田さんの静かな、しかし有無を言わさぬ最後通告が下された。

 ギリィッ、と黒田さんの腕の筋肉がさらに収縮し、藤堂の手首の関節を容赦なく締め上げる。


「あぎぃぃっ……!」


 耐えきれない激痛に、藤堂の手のひらが開き、美しき反りを持った小太刀が、カラン、と乾いた金属音を立てて地下室の土の床へと滑り落ちた。

 それと同時に、藤堂は完全に両膝を突き、糸の切れた操り人形のようにうずくまって、嗚咽すら漏らせないまま崩れ落ちた。彼の百年に及ぶ血脈の妄想と、己の正体を隠蔽しようとした愚鈍な足掻きは、こうして物理的にも完全に制圧されたのである。


「サクタロウ」


 如月さんは銀のルーペをゆっくりと折りたたみ、ドレスのポケットへとしまい込んだ。

 そして、床に落ちたLEDライトの光軸を遮るようにして、僕の目の前へと歩み寄ってきた。


「無様な姿勢じゃな。早く立ち上がってライトを拾うのじゃ。光軸が乱れておると、地下室の温度変化による結露の観測に支障が出る」


 彼女は僕に向かって手を差し伸べることも、庇ってくれたことへの礼を言うこともなかった。ただ、僕が光源としての『機能』を果たしていないことを、冷ややかに指摘しただけだ。


「……はいはい。わかってますよ、如月さん」


 僕は土で汚れたカーゴパンツの膝を払いながら、ゆっくりと立ち上がり、ライトを拾い上げて再び光束を安定させた。


「本当に、如月さんは……ブレないですね」


「愚鈍な感想じゃな。わしの論理は常に真実に対してのみ最適化されておる。ブレる要素など、最初から存在せぬ」


 如月さんは、床に転がる小太刀と、うずくまる藤堂正和に冷ややかな一瞥をくれ、踵を返した。


「黒田、その男と小太刀を回収し、警察へと引き渡せ。これで、藤堂家のお内裏様の首に関するすべての計算式は終了じゃ。このカビ臭い地下室で消費する時間は、もう一秒たりとも残されておらぬぞ」


 彼女は灰色のドレスの裾を翻し、一切の未練もなく石段の方へと歩き出した。

 僕は、彼女の絶対的な論理によって完全に解体された藤堂家という『過去の遺骸』に最後の一瞥を投げかけ、孤高の天才令嬢の背中を追って、地上へと続く石段を上り始めた。

 スマートシティの無機質な光が待つ、あの清浄な外の空気へと戻るために。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ