プロローグ:『供物』
月見坂市新市街の夜は、決して完全な眠りにつくことがない。
無機質なガラスと鋼鉄で構成された摩天楼の合間を、見えない情報の束が血液のように絶え間なく循環している。スマートシティとして極度な発展を遂げたこの都市では、街路樹の葉音すらも環境センサーによって数値化され、無数の監視カメラの眼球が瞬き一つせずに網の目のように交差している。地下深くを走る光ファイバー網から、成層圏を周回する通信衛星に至るまで、この街の呼吸は隅々までシステムによって監視・統制されていた。この徹底された論理と電子の空間において、完全な死角など存在しないと誰もが信じて疑わない。
だが、どれほど高度な電子の網を張り巡らせようとも、それを構築しているのは物理的な質量を持った建造物であり、電力を消費するハードウェアに過ぎない。光があれば影が落ちるように、物質が存在する三次元空間には、必ず設計図面上の『論理的な隙間』が生じる。
私は今、新市街の象徴でもある高級百貨店『聖羅』の、最上階催事場へと続く広大な空調ダクトの中を這っていた。
特殊な断熱材と電磁波吸収繊維を何層にも織り込んだ漆黒の作業着が、私の体温と微弱な生体反応を赤外線センサーや熱源探知機から隠蔽している。皮膚呼吸すらも制限されるような密閉性の高いフルフェイスのマスクの中で、自分の荒い息遣いだけが不気味なほど大きく反響していた。
百貨店『聖羅』の警備システムは、民間施設としては過剰なまでに強固だ。指定ルートを秒単位の正確さで巡回する警備員、床面の絨毯の下に等間隔で埋め込まれた高感度の重量センサー、そして空間を幾重にも交差する不可視の赤外線レーザー網。通常の物理的な侵入は一〇〇パーセント不可能とされる要塞である。
しかし、数ヶ月の時間を費やして裏ルートから収集した建築当時の旧式の物理図面と、現在のセキュリティシステムの稼働周期を照らし合わせれば、システムが自らの膨大なデータ処理負荷を軽減するために生み出す『コンマ三秒の盲点』と『監視エリアの物理的な境界線のズレ』は容易に割り出せた。最新鋭のシステムは、往々にして基礎となる物理的な建築構造の古さに足を引っ張られる。私が這い進んでいるこのメインダクトも、赤外線センサーの有効範囲からわずか五センチだけ上方に逸れた、旧式の配管ルートの死角だった。
息を殺し、埃一つ立てないようにダクトの接合部を這い進む。右手に握りしめた漆塗りの鞘が、異様なほどの質量を持って掌に食い込んでいた。
ただの刃物ではない。
これは我が藤堂という血族が、代々深い闇の中で受け継いできた、極めて特殊な用途を持つ小太刀だ。幾重にも折り返して鍛え上げられた玉鋼の重みが、私の血管を流れる血の温度を否応なく引き上げる。ダクトの無機質な乾燥した空気の中で、刀身の手入れに使われた丁字油の古い匂いが、ひどく生々しく鼻腔にまとわりついていた。
私の目的は、これから対面する『標的』を盗み出すことではない。
あの人形を裏の美術市場に流せば、億を下らない莫大な金に換わるだろう。それが目的ならば、このような鈍く光る旧時代的な凶器を持ち込む必要などない。ガラスを切り裂き、中身だけを奪って逃走すれば済む話だ。
だが、私の目的は金銭的な価値の搾取ではない。美術品としての所有の欲求でもない。
『断ち切る』こと。
ただそれだけが、この身を焦がし、正気を削り取る衝動のすべてだった。
なぜなら、あのお内裏様は、ただの美しい工芸品などではないからだ。
あれは、我が藤堂家の忌まわしい歴史、直系血族の「嘘」を内部に抱え込んだ、物理的な呪いの記録装置そのものである。私が藤堂の当主として君臨し続ける限り、あの人形が完全な形でこの世に存在していてはならない。
一族の誰もが口をつぐむ、百年前の醜聞。
正妻の子が次々と謎の死を遂げ、妾腹の子――それも、到底藤堂の血を引いているとは思えない素性の知れぬ赤子が、本妻の子としてすり替えられたという狂気の歴史。そして、その赤子の身代わりとして、呪いを受けるための『形代』として特別に作られたのが、あの巨大な雛人形なのだ。
人形の内部には、当時の職人が封じ込めた『血の入れ替わりの証拠』が隠されていると伝え聞いている。それが何であるかは明確にはわからない。しかし、あの人形が専門の鑑定家や科学的な分析の目に晒されれば、私の体に流れる血が藤堂の直系ではないという事実が、物理的なルーツとして白日の下に引きずり出されてしまう。
お前の中にある『秘密』が暴かれれば、私が血を吐くような思いで築き上げてきた藤堂の現当主としての地位も、財産も、名誉も、すべてが根底から崩れ去る。そのルーツの証明を、ここで完全に、そして物理的に破壊しなければならない。人形そのものを燃やしたり破壊したりすれば、かえって過剰な調査を引き起こす。だからこそ、『首を断つ』という猟奇的な怨恨の偽装工作が必要だった。
目的の座標に到達した。
通気口のルーバーの固定ネジを、持参した特殊な工具で音もなく外す。磁力でネジを吸い付け、床への落下を防ぎながら、暗闇に沈む催事場へと静かに滑り降りる。
厚く柔らかな高級絨毯が、着地の衝撃と靴音を完全に吸収した。空間を満たしているのは、ショーケースを適温・適湿に保つための巨大な空調システムが吐き出す、微かな風の音だけだ。暗視ゴーグルの緑色がかった視界の中で、目的の物体は圧倒的な威容を放って鎮座していた。
『名家秘蔵・雛人形展』。
その最奥、特注の防弾ガラスケースに守られた巨大な七段飾り。金箔が張られた屏風を背に、その頂点に座す豪奢な衣装を纏った男雛――『お内裏様』。
数百年の時を経てなお色褪せることのない、深い紫に染め上げられた絹の衣。貝殻を砕いた上質な胡粉が幾重にも丁寧に塗り重ねられた、精緻で冷酷な顔立ち。暗闇の中にありながら、その人形が放つ独特の『念』のようなものが、私の肌に微かな粟立ちを生じさせた。
気のせいではない。あの人形は、作られた当初から『呪い』を吸収するための特殊な構造を持たされている。重厚な衣装の下には、当時の職人の異常な執念が物理的な形となって詰まっているのだ。ガラスの向こうから、その硝子玉の瞳が私を冷ややかに見下ろしている。お前は本物ではない、ただの泥水が混じった偽物だと、音なき声で嘲笑しているかのように錯覚した。
ガラスケースの電子ロック機構の解除に取り掛かる。
ネットワーク経由でのハッキングなどという不確実な手段は用いない。事前にケースの製造元から物理的な配線構造を解析し、自作したバイパスモジュールを取り付ける。これは、ロックの解除信号ではなく、『施錠が正常に継続されている』というダミーの電流を中央制御室に流し続けるための物理的な欺瞞装置だ。
微かな電子音とともに、分厚い防弾ガラスの扉がロックを解除する。
吸盤状の取っ手を取り付け、ゆっくりと、ミリ単位の慎重さで扉を引き開ける。
途端に、古い桐材と胡粉、そして絹の繊維と防虫香の匂いが、まるで何百年も閉じ込められていた亡霊の吐息のように溢れ出してきた。空調によって完全に管理されていたはずの冷たい空気が、その古びた匂いによって一瞬にして毒気を帯びたように感じられた。
震える指先で、小太刀の柄を握り直す。
恐怖ではない。警備員に見つかる焦りでもない。これは、己の血管を流れる『偽りの血』が、歴史の重圧に軋みを上げている音だ。
鞘から刀身を引き抜く。
澄み切った刃紋の輝きが、遠くにある非常口の緑色の誘導灯の光を反射して、暗闇の中で冷たく瞬いた。室温の影響を受け、玉鋼の表面にわずかな結露が生じ、それが刃の鋭利さを際立たせている。
両手でしっかりと柄を握り込み、お内裏様の首筋へと刃を添える。
紫の絹が幾重にも重なる襟の、滑らかで冷たい感触。その僅かな隙間の奥にある、硬質な木の髄。
「……供物だ」
誰に聞かせるわけでもない、肺の底から泥を吐き出すような低い呟きが、静寂の催事場に溶けていく。
私は全身の体重と、長年抱え込んできた底知れぬ劣等感、そして藤堂という名に対する呪詛のすべてを両腕に乗せ、一気に刃を押し引きした。
絹の繊維が刃に断ち切られる、布を引き裂くような甲高い音が響く。
続いて、十分に乾燥しきった古い木材が刃の侵入を拒む硬い感触が手に伝わった。しかし、代々受け継がれてきた名刀の質量と鋭利さは、百年前の木材の抵抗を許さない。次の瞬間、あっけなく抵抗を失う独特の空虚な感覚が両腕を貫いた。
ごとり。
精巧な冠を乗せた美しい頭部が胴体から完全に切り離され、下の段に敷かれた緋色の毛氈の上へと、無残な音を立てて転がり落ちた。
首の断面から覗く、不揃いに毛羽立った繊維の糸と、白木のささくれ。そして、胴体側の断面の奥にわずかに見えた、暗い空洞。その空洞の奥底にこそ、私を破滅させるルーツが眠っているのだ。だが、首を落とされたことで、それは『首のない呪物』という猟奇的な事件の証拠品へと成り下がり、容易に中身を改められることはなくなる。
それを見下ろしながら、私は長く、震える息を肺から吐き出した。
これでいい。これで、私の血は守られた。この醜悪な断面こそが、私が本物の当主であるという逆説的な証明となるのだ。
刃に付着した微かな木屑と絹の繊維を、持参した特殊な布で丁寧に拭い落とし、再び鞘に納める。転がった首には二度と一瞥もくれず、ガラスケースを元通りに閉鎖し、バイパスモジュールを回収する。
すべてを計算通りに終えた私は、再びダクトの暗く狭い闇の中へと踵を返した。
背後では、首を失った皇帝が、暴かれた己の空洞を暗闇に晒したまま、ただ静かに沈黙し続けていた。




