1998年のクイニーアマン
1998年、秋。
「はぁ、つまらない」
秀実はリビングで録画したテレビドラマを見ていた。夏に流行った「GTO」や「神様もう少しだけ」など。確かに内容は面白い。特に「神様もう少しだけ」は秀実と同じ女子高生が主役で、演じている深田恭子も可愛い。内容はHMVを扱ったもので重い。命の大切さなんてものを考えたりもする良質なドラマだ。
それでも秀実の心は重かった。時計を見ると午前十時。本来なら学校に通い、授業を受けている時間だが、夏休み明けから登校拒否をしておた。家で勉強もせず、テレビドラマを見て、お菓子を食べる毎日だった。
リビングのテーブルの上には、じゃがりこやアルフォート、きのこのやまなどのお菓子の空が散乱していた。特にじゃがりこは1995年に初登場したものだが、カリカリ食感のポテトスナックであとを引く。人差し指サイズの棒状で食べやすい。まさにテレビドラマを見ながら食べるお菓子としてぴったりだ。
飲み物は桃の天然水。ペットボトルの清涼飲料水だ。ほんのり桃の味がするミネラルウォーターだ。歌手の華原朋美が「ヒューヒュー」などといってCMに出ていた。そのおかげか、桃の天然水は大ヒット商品らしい。
テレビドラマも面白い。お菓子も桃の天然水だって美味しい。
それでも秀実の心は、うっすらと憂鬱だった。登校拒否中だが、勉強の遅れも気になるし、それ以上にクラスの中に戻るのが嫌だった。
原因はいじめだった。クラスの中でも派手なギャルに目をつけられ、悪口や嫌がらせを受けるようになってしまった。秀実は流行にはついていけず、ルーズソックスやギャルメイクもせず、学校指定の制服通りに着ていた。成績優秀の優等生だった。両親も教師で厳しく育てられ、本当はテレビドラマも禁止だった。今見ているのも陰でこっそりと録画したものだった。アニメも漫画も「バカになるから」の一点ばりで見せてもらえなかった。こう言った娯楽は陰でこっそりと見るもので、堂々と出来ない。
今通っている高校も受験の失敗の結果だった。本当は両親のおすすめの私立高校に入り、エスカレーター式に大学まで入る予定だったが、失敗した。仕方なく第二希望の女子高生に通っていたが、ギャルに目をつけられ、いじめにあい、結果的に登校拒否をやっているところだった。
これでも受験は寝ずに勉強し、塾も通っていた。毎日暗記三昧で心は壊れそうだったが、ここを乗り切れば素敵な未来になるんじゃないかと思っていた。両親に褒められ、立派な優等生になれると信じて疑わなかった。
これが、このザマ。
自分もギャルのようなファッションやメイクをしていればよかったのか、わからない。もっと受験を頑張っていればよかったのか、わからない。一つ言える事は、何もかも失敗したという事なのだろう。これからの人生を思うと、憂鬱でしか無い。
そんな事を思いまがらじゃがりこのカラを潰す。録画していたテレビドラマも消す。今の気分で何を見ても面白くは感じられないだろう。
ふと、リビングにある小型本棚に目がつく。そこには、母が集めた新書や文庫本が入っていた。
秀実について何か思うところがあるのか。新書は「引きこもりになる若者」とか「なぜ子供は引きこもるのか」といったタイトルのものもあった。新聞によると今年は引きこもりが社会問題にもなっているようだった。
秀実はその新書を引き抜き、ペラペラとめくった。若者の引きこもりを扱っているが、実質は高齢者の引きこもり問題をクローズアップしている本だった。高齢になり、親にも頼れなくなった引きこもり末路も詳細に書かれ、秀実の表情は真っ青になっていた。
本によると、引きこもりは決して怠けではなく、社会生活に失敗したものがなりやすいと言う。高齢の引きこもりの半数以上は就労経験者であり、そこでいじめ、嫌がらせなどを受け、引きこもりになるしか無い状況だったと事も書かれていた。
ついに秀実は本を閉じた。ため息をこぼしがら、本棚に戻す。
憂鬱な気分はさらに深まっていた。もしかしたら、こんな世界に順応して生活している方が変な気もする。社会に馴染めず、引きこもりになってしまう人の気持ちは、痛いほどわかってしまった。
神様、私はこれからどうすれば良いでしょうか。
そう祈りたくなるぐらい、秀実は将来に全く希望が持てなかった。
その数日後。
秀実は母に連れられて病院に向かっていた。自宅からタクシーを呼び、隣町にある心療内科のクリニックに行く予定だった。秀実が行きたいと希望したわけではなく、登校拒否を繰り返している事に母が憤り、中ば無理矢理行く事になってしまった。
「今はうつ病も心の風邪っていうしね。たぶん、それよ」
タクシーの中で母はそんな事を呟いていた。まるで自分に言い聞かせるようだった。隣にいた秀実は、ただただ白けた顔をしていた。
一応、学校でギャル達にいじめにあった事を話していたが、何も解決しないようだった。むしろ、秀実を病人のレッテルをつけて、全部病気のせいにしているのかもしれない。
そんな母を隣で見ていると、引きこもりは怠けでは無いと実感してしまう。今の秀実のように、自分の身を守るために仕方がない選択だったのかもしれない。どうも今の世は、正気を保っている方が病人扱いされ、いじめをやる方が世間に適合していると認めているらしい。実際、いじめをしたギャル達は、何のお咎めがない。
そうは言っても秀実の主張などは無視され、診療内科のクリニックにつく。意外と綺麗なクリニックで、イメージと違い、待合室にいる患者達はおとなしかった。大人すぎるぐらいだった。中には秀実に気を遣って声をかけてくれるものもいた。そう思うと、いじめっ子のギャル達の方がよっぽど病人に見えてしまった。
診療内科といっても、ろくに話は聞いてもらえなかった。実際に事情を話したのは福祉士の方。医者は、秀実の目を一切見ずに五分ぐらいで診断を下した。うつ病だと。
「あぁ、そうだったんですか」
それを聞くと、母は安堵のため息をこぼしておた。
おかしい。
秀実は単にいじめっ子がいる学校から避難しているだけだ。なぜ病人のレッテルが貼られるのだろうか。人を傷つけても平気な顔でいるギャルの方がよっぽど病人ではないか。怒りで声も出ない。
ただ、このままだと母や雑な診察をする医者に殺される気がして、逃げた。病院の前にタクシーが止まっていたが、母の手を振り解き、全速力で走る。
なぜか逃げないといけないと思った。ビビビときた。歌手の松田聖子が再婚相手と出会った時、「ビビビときました」と語っていた。この言葉がメディアで多く取り上げられ、今年の流行語になっていた。本来なら運命の人にあった時に使いたい言葉だったが、目に見えない何かが「病院から逃げて」と発信している気がする。それをビビビと受け取っただけだ。
めちゃくちゃに走り回ると、気づくと、隣町の駅の方まで来ていた。
今日は平日の昼間なので人通りはないが、駅の近くにある飲食店街に紛れ込んでしまったようだった。ラーメン屋や弁当屋、ワッフル屋もある。去年、ベルギーワッフルが流行り、こういった店が増えていた。今はベルギーワッフルは下火になったようで、閑古鳥が鳴いていた。見た目は可愛いお菓子の世界もなかなか厳しいようだった。
しかし、土地勘の無い場所に迷い込んでしまい、道に迷ってしまった。ラーメン屋や弁当屋はまだ開いていない。ワッフル屋の店員はガラが悪そうだし、困った。すれ違う人もルーズソックスを履いてるギャルが二人。この時間に歩いているという事は、学校にも行っていないギャルだろう。絶対話しかけたく無いタイプだ。もしかしたら援助交際をやっているかもしれない。それは偏見だが、援助交際は去年から社会問題になっていた。引きこもり、援助交際、いじめ、毒入りカレー事件、神戸連続児童殺傷事件……。去年から今年にかけて世相は暗かった。バブルが崩壊した1993年〜1995年ぐらいから世の中の雰囲気は薄暗く、世も末なのかもしれない。
「あれ、このカフェは……」
どうしようかと迷っていたら、目の前にあるカフェは気になった。ちょっとビビビときる。白い壁の可愛らしいカフェだった。周りはラーメン屋や定食屋が多いので、このカフェはオシャレ過ぎる気がした。庭はハーブや花も植えられ、余計に可愛らしい。ミントグリーンの看板にはカフェ・未来とある。
未来か。
今はあまり見たくない単語だったが、このカフェは気になる。ビビビときた。
このカフェの人だったら道に迷った自分も、助けてくれそうな気がした。
秀実は思い切ってカフェの扉をあけた。ドアの前のプレートには「open」とあったので、営業中だろう。
店の中に入ると、バターの焼けるような良い香りがした。壁は明るいイエローで花や観葉植物が多い癒し系のカフェだった。席の数は少ないようだが、ビビビという勘は間違ってなかったようだ。
「いらっしゃいませ」
しかも店員に温かい笑顔で迎えられた。三十後半から四十歳ぐらいの男だった。白いシャツにジーンズ、黒いエプロンをしていた。背筋もスッと伸び、カフェの雰囲気とよく似ている店員だった。おそらく、この人が店長だろう。バイトには見えなかった。
「どうされました?」
店長は小柄な秀実の背丈に目線を合わせて言う。このカフェに入ってよかったと思う。少なくともギャルのようないじめっ子タイプには見えなかった。ビビビという勘もなかなか侮れない。
「あの、ちょっと道に迷ってしまったんです」
「そうですか。ちょっと待ってください」
店長は一旦レジの方に行き、メモ帳や地図を持ってきて見せてくれた。道自体は単純ですぐに帰れそうだが、お腹が空いた。店内のバターの匂いに逆らえず、ぐーと情け無い音がして恥ずかしい。
「ちょっと座って休憩していきません? 試食のクイニーアマンでも食べましょう」
「え、でも」
「いいんですよ、ただで。お客さん、ちょっと疲れているっぽいし、ビビビときました。このお客さんには特別に好くしようって」
断るタイミングを失ってしまい、結局、カウンター席に座らされた。
しかもアイスコーヒーや皿に乗ったクイニーアマンも秀実の前に置く。
「クイニーアマンだっちゅうの!」
店長は流行語の冗談まで言いながら、笑っていた。「だっちゅうの」はパイレーツという女性二人組の一発ギャグだった。胸の谷間を強調したギャグで、父や母は眉を顰めていたが、巷ではよく流行っていた。こんな流行語のギャグを言う店長は意外にもミーハーかもしれない。年齢はわからないが、意外と若く三十五歳ぐらいかもしれない。黒い目は生命力が宿り、野生の鹿のような印象だった。
「クイニーアマンは、去年のベルギーワッフルの後釜として今年人気があるんですよねぇ」
「へえ」
目の前にあるクイニーアマンは、丸いパイ状のパンだった。カラメル色をし、照り照りと輝いている。バターの良い匂い。カフェに漂う匂いの正体は、これだったようだ。普通のパンよりバターや砂糖を多く使っているよいだ。パンというよりお菓子と言っていいだろう。秀実は、母にお菓子やファストフードも禁止されていたので、こういったものは滅多に食べられない。誕生日とクリスマスケーキぐらいだろうか。
「どうぞ、召し上がれ」
「いいんですか?」
「ええ。なんかこのクイニーアマンは、お客さんに食べて貰うのが一番だとビビビときました」
また流行語を使っていた。そんな店長に苦笑しつつ、クイニーアマンをいただく事にした。
「いただきます」
クイニーアマンは、想像以上に甘い。パリパリ生地にバターの風味が最高に美味しい。普段、甘いものは滅多に食べられないせいか、余計に美味しい。
「美味しい!」
「喜んでいただけて良かったですよ。こんな素直にリアクションしてくれて嬉しいです」
「そんな……」
「クイニーアマンは、失敗から生まれたパンなんですよね」
店長はクイニーアマンの起源を語る。今から百年以上前のフランスで生まれたパンだそう。当時小麦粉が不足し、バターが余り、その分量が多いパン生地を作った。レシピ通りではなお失敗した生地だったが、焼いてみると、美味しいパンができたという。これがクイニーアマンのルーツだった。
「失敗から生まれたお菓子っていっぱいあるんですよね。ポン菓子やタルトタタン、アイスキャンディーなんかもそう。肉じゃがも失敗作だったんです」
「嘘」
驚いてしまう。失敗なのに、こんな美味しいクイニーアマンができるものなのか。
「私だって失敗ばかりです。去年は店をちょっと改装し、ベルギーワッフルの店にしてましたから」
「ええ? 本当?」
「まあ、意外と売れ行きが悪くて、カフェに戻しましたけど。いい勉強になりました。そう思うと、世の中には失敗なんて無いんでしょうね」
店長は穏やかに笑っていたが、納得できない気持ちもある。確かにクイニーアマンは美味しいし、失敗が成功を生むというのも理解できるが。
「でも、今の世の中って失敗を許さない世界じゃないですか?」
「うん、特に日本はそうだねぇ。でも、それは世の中の方が問題アリって事かも。世も末かもね。ノストラダムスの大予言も当たったりしてね」
そういえば、来年の夏、世が終わるという噂があった。
「ま、そうでなくても大丈夫」
店長の笑顔を見ていると、秀実も少し心が軽くなってきた。
現状、今の人生は失敗でしかない。でもクイニーアマンのように良いものに変わるように願うしか無いようだ。
「実は私、登校拒否してるの」
「ええ、いい判断じゃないですか。学校なんて行っても、ねぇ。私のような自営業者は、学歴もそんなに必要ないですし」
登校拒否を褒められてしまった。こんな事を言う大人は初めてで秀実の目は丸くなる。
「だったら、明日からうちで勉強でもしませんか。ここは暇だったらいつでも来て良いからね。どんな人でも来て良いからね」
そんな優しい事まで言われてしまい、秀実の頰は涙で濡れていた。
未来はどうなるかわからない。でも、自分の人生が全部が失敗だとは思いたくなかった。




