1995年のカヌレ
1995年。
バブルが崩壊し、価格破壊なども叫ばれていた。「同情するなら金をくれ」という台詞のドラマも流行り、就職氷河期に入ったと報道されていた。世相は決して明るくなく、1995年は厄年のようだった。1月にはマグニチュード7.3の阪神大震災、3月には地下鉄サリン事件、警視庁長の襲撃、オウム真理教の村井秀夫の刺殺。他にもハイジャック事件、もんじゅの事故など暗い一年だった。その代わり「がんばろうKOBE」と日本人が一つになったりした。一方、オウム真理教の影響は日本人にとって大きなインパクトとなり、宗教への偏見は一層濃くなっていた。
「おたくのキリスト教会は、サリンでも作ってるのか?」
また、この手の電話だ。
愛は教会の牧師室で電話の受話器を握り締めてしまう。愛は三十半ばの女性だったが、キリスト教のプロテスタントの教会で牧師をしてうた。元々両親が牧会していた教会を引き継いだ。日本人はクリスチャン人口が低く、牧師の成り手も少ない。本来なら女が教えるのは聖書通りでは無いという批判もあるが、事情もあり、仕方がなかった。愛も海外で宣教師の仕事を希望していた。今は同じく宣教師をしている兄と色々と話し合いながら、将来のことも考えているところだった。
牧師はストレスの多い仕事と言われている。教師や医者など聖職者とみられやすい仕事は、そういう傾向があるという報道が新聞でもされていた。確かに仕事は神様の為に頑張ってはいるが、心が折れない事はゼロではない。特に今はオウム真理教の影響で、宗教全体に偏見の目があり、色々と誤解されている。それにオウム真理教も聖書を悪用していたのは事実だったので、誤解してしまう人の気持ちもわからなくはなかったりする。
「うちはサリンなんて作ってないです。勧誘とかもしてません。勝手に人も来ますしね」
愛は丁寧に電話の主に、カルトでは無い事や暴力や犯罪行為とは無縁である事を説明した。相手は一応話をよく聞いてくれて納得してくれたようだ。
「はぁ、疲れた」
電話を切ると、どっと疲れてしまった。
牧師といっても普通の人間だ。仕事中はだいたいスーツか白シャツと黒スラックス姿だ。黒いガウンを着る事は、洗礼式などの特別な時だけだ。もちろん、聖書の真理を伝えるという役目はあるが、普通の人間。好きな音楽はX JAPAN、ドラマも「愛してくれと言ってくれ」をドキドキしながら見たりする。さすがに細眉のアムラーやちびTなどの流行りのファッションを追いかけたりはしないが、愛は自分の事は平凡で地味な女だと思っていた。顔つきも目が小ぶりで、北海道に生息する野鳥・シマエナガに似ていると言われた事もある。まあ、結婚などの縁はないが、その分仕事に集中できるから良いと思っていた。
「はぁ、疲れた」
愛はあの電話に想像以上に疲れ切っていた。牧師室から出ると、気分展開の為、庭に出る事にした。少し外に出て空気を吸えば、ストレスも軽減されるだろう。
この教会は民家を改造した所なので、一見二階建ての家の見える。派手なステンドグラスやマリア像などは何も置いていない。基本的にプロテスタントはシンプルな教会だった。
ただ、住宅地にある教会なので防音には気を使う。窓は全部二重の防音にし、讃美歌や説教の音声が周囲に漏れずに気を使っていた。万が一音漏れしてしまった時は、近所に謝罪行脚もそていた。町内会にも参加し、積極的に雑用を引き受けたり、お菓子や野菜などもお裾分けをし、近所付き合いもかなり気を遣っていた。今は特に宗教への偏見が強い時なので、わざわざ人に嫌われる行動は一才できないと気がはっていた。近所に住む人の顔や名前も全員覚え、挨拶も積極的にしていた。もちろん、勧誘などもやっていない。今は本当に気を遣う時期だった。
「はあ……」
庭に出て、深呼吸をすると、少し楽にまってきた。庭は愛が趣味で植えているアロエが植っている。棘があるアロエだが、自然の緑色を見ていると癒される。
ふと、教会の門の方を見ると、近所に住む平野成一の顔が見えた。なぜかこちらを覗いている。
愛は笑顔を作り、成一の方へ向かった。
成一は隣町でカフェを運営していると言う。年齢は愛と同じぐらいで三十半ばぐらいだ。客商売をやっているせいか、にこやかな笑顔が板についている。おっとりと穏やかな雰囲気の男という印象だった。ただ、ちょっとミーハーなのか「ああ言えば上祐」などの流行語も口走ったりしていた。上祐はオウム真理教の人でよくメディアに取り上げられていて、流行語にもなったようだが、愛は全く笑えなかった。
「成一さん、こんにちは。どうしたんですか? うちの教会に何か?」
愛は極力笑顔を作り、成一に話しかけた。このご時世では、近所の人にも何か誤解があってはならない。愛は背筋を張り、気を引き締め、成一に挨拶をした。
「ええと、実はうちにこんなチラシが入っておりまして」
「え?」
成一は心底困ったように一枚のチラシを愛に見せた。それを受け取ると、愛は深いため息を溢す。チラシは愛の教会を悪く書かれたものだった。サリンを作っているとか、生贄儀式をやっているとか。全て誤解だが、今のご時世だったら仕方ない。
愛はこにチラシをぐしゃぐしゃに丸め、スラックスのポケットに入れた。
「全部誤解ですよ。サリンなんて作って無いですから」
「ですよね」
なぜか成一はホッとしたような表情を見せた。カフェ店長と言っていたが、白シャツとジーンズ姿がよく似合っている。髪の毛は黒く、きちんとセットされている。ちょっと真田広之にも似てるかも。愛はX JAPANのhideが好きなので、全くタイプではなかったが。
「見学でもして行きます? 本当に犯罪行為と無縁の教会ですから」
「いいんですか?」
「ええ」
「じゃ、まず、二階の礼拝室から行きましょう」
こうして愛は成一を案内する事にした。まず、二階の礼拝室へ向かう。
「なんか大学の教室みたいですねぇ」
目から鱗といった風に成一は驚いていた。成一は初めて教会に入ったのだろう。一般的なイメージと違いマリア像やステンドグラスが無い事に驚いていた。
「プロテスタントはシンプルなんですよ。カトリックは識字率が低い地域にも根付いているので、聖人の像なども多いんですが」
「へぇ。あの教卓で説教するんですか?」
「ええ。あのピアノで讃美歌を演奏します。時々ギターを使う事も。ね、サリンなんて作ってないでしょう?」
愛は冗談っぽく言うと、成一も笑っていた。
こうして誤解も解けたのか、なんだか成一とも打ち解けてしまった。礼拝室の隣にある多目的室に案内し、二人でお茶などもする。温かい紅茶とクッキーをテーブルに出す。さすがカフェ店長というべきか、成一はクッキーの銘柄は見てすぐに当ててきた。
「という事で教会運営も大変なんですよね。今は特に色々と誤解もされちゃって」
成一は聞き上手のせいか、思わず愚痴もこぼれてしまった。
「なんか私もすみませんね。誤解していました」
「いえ、いいんですよ。今はしょうがないです」
元カルト信者が愛の教会に来る事もある。彼らの話を聞いていると、カルトと普通の教会も紙一重だと思わされる。所詮、人間が運営している教会なので、いつのまにかズレてしまう事もある。そう思うと、誤解されてしまうのも、ある程度は仕方ない。そう思うしかない。
「カフェの店長さんだって大変では無いですか」
「そうなんですよ。特にスイーツは当たり廃れもあって、お客様に何が受けるかわからないのです」
穏やかそうな成一だったが、弱いところを見せてきた。自分の仕事だけが大変だと誤解していたのかもしれない。目の前の成一の姿を見ると、どの仕事も大変そうだった。聖書によれば人間の仕事も呪われていると書いてあった事も思い出した。
「本当はカヌレを作りたいんですよね」
「カヌレ? あの修道院のお菓子?」
カヌレは知っていた。正式名称は、カヌレ・ド・ボルドー。小さな円柱型のお菓子だ。元々フランスの修道院で作られていた菓子で、時を経て今のような形になった。一応牧師である愛は、修道菓子のカヌレも知っていた。確かフランス人の宣教師の先生からもらったカヌレは絶品だった。独特な食感や濃厚な味、お酒の匂いなど和菓子には無い魅力がある。
「最近流行ってるみたいなんですが、どうしてもカヌレ型が入手できないんですよねぇ。今はカヌレが人気が出てるみたいで、輸入でも手に入らないとか」
「そんな人気があるんですね」
カヌレがそこまで人気がありとは意外だった。こんな話を聞いてしまうと、またあのあカヌレも食べたくなってしまう。なんとか成一に協力できないかと思う。
「もしかしたらカヌレ型、入手できるかも。フランスの宣教師の知り合いもいますし」
「本当ですか?」
「ええ」
確実ではないが、コネを使えば、なんとか手に入れられるかもしれない。それに成一の顔を見ていたら、なんとか協力できないかと思ってしまった。こんなご時世だ。誤解しない人がいるだけでも、嬉しくなってしまった。
「愛さん、ありがとう」
「ええ。もし型が見つかったら、カヌレ作ってくださいね。カヌレの話なんてしてたら、食べたくなってしまいましたよ」
愛が笑顔を向けると、成一はなぜか顔を赤らめていた。
こうしてフランス人の知り合いにあたり、なんとかカヌレ型を入手した。成一は「これでお客さんに良いから喜んで貰える」と大騒ぎだった。なぜか愛にも握手をし、喜びを露わにしていた。
その翌日、成一は約束通りに出来上がったカヌレを持ってやってきた。試食のカヌレを是非食べて欲しいのだという。
さっそく礼拝室の隣の多目的室に紅茶を出し、皿の上にカヌレを盛る。
「わぁ、見た目も可愛いですね」
思わず声を出してしまう。手の平サイズのカヌレは、綺麗な溝がつき、可愛らしい円柱だった。こんがりとした茶色い焦げ目も綺麗だ。
「どうぞ、召し上がってくください」
「ありがとう」
さっそくカヌレを食べていた。表面はカリッとし、中はもっちりしている。ふわっとラム酒とバニラの匂いもし、本番のカヌレに全く負けていない。日本ではゴムみたいな食感のカヌレも多いらしいが、このカヌレは美味しかった。
「美味しい」
思わず笑顔になってしまう。現実は、相変わらず誤解も受けていたが、こんな美味しいお
カヌレを食べていると、どうでも良くなってきた。
今の世相は暗い。だからこそ、こんな美味しいスイーツも必要なのかもしれない。実際、今の愛もこのカヌレを一番必要としていたのかもしれない。そんな気がした。
「成一さん、これからの未来はどうなりますかね? ずっと暗いですかね?」
「そんな事は無いですよ。オウムの教祖も逮捕されましたしね。ね、神様が見てますよ」
まさか未信者の成一にこんな風に褒められるとは思わなかった。そうだ、神様が見ている。ずっと暗い世の中では無いはずだ。終末になったら大艱難も来るが、今のところ聖書の予言された終末では無いようだ。
「ええ。そうね。神様が見てるわ」
「ところで牧師さんって結婚できるんですか?」
なぜかそんな質問をしてきた。
「え? シスターや神父はできませんが、牧師はその点は大丈夫です」
「そうだったんですね!」
ここで成一は声を大きくし、笑顔を見せていた。どういう事か全くわからないが、今度食事にでも行かないかと誘われてしまった。
予想外の展開だったが、どこからかドリカムの「LOVE LOVE LOVE」が聞こえてきそうな気がした。ドラマ「愛してくれと言ってくれ」の主題歌だったラブソングだ。愛もドラマで曲を聴きながら、何度もときめいていた。
確かに未来はずっと暗いままでは無いのかもしれない。地震、テロ、ハイジャックが続いた厄年は今年で終了だ。そういう事にしておこう。




