1990年のティラミス
去年、年号が変わった。
小渕恵三内閣官房長官が掲げた「平成」という新しい年号は記憶に新しい。「国の内外、天地とも平和が達成される」という意味がつけられているようだが、どうだろう。
成美は、未来の事は何一つわからなかった。去年、短大を卒業し、化学薬品を扱っている企業に就職した。営業部のサポートをする事務職で、お局一人以外はおじさんばかりの職場だった。
就職は簡単すぎるぐらいだった。企業からは山のように資料が届き、選び放題だった。ただ、親は「安定したところに行きなさい」と口酸っぱく言われ、結局コネ入社でここに入った。違う部署では、製品の実験をする社員もいて白衣のものも多い。ずっと文系で育った成美だったが、景気には左右されていなさそう。今はバブルでみんなが騒いでいるが、成美の両親はやけに冷静だった。株などにも手を出さず、「このバブルが弾けた時が怖い」が口癖だった。そのせいか、成美も何となくこの流れに乗れなかった。
月曜日、会社で課の全体会議があった。成美も一応出席するが、特に言う事もなく、端っこの席で聞くだけだった。隣の席は、お局の小坂玲子がいる。確かもう年齢は三十三だった。分厚いメガネをかけ、体型も太っていた。髪もショートカットなので、一見男みたいだが、制服は成美と全く同じスカートのものを着ていた。上司達からは、「苔が生えてるぞ」とか「結婚できんぞ」などと揶揄われていたが、玲子はクスリとも笑わず、淡々と仕事をこなしていた。
成美はこんな玲子を見ていると、何だかとても微妙な気持ちになった。正直、自分がこんな風になったらどうしようという思いもある。バブル期で女性は顎で男性を使っているようにも言われていたが、成美はそういった事には無縁だった。正直、流行のふわとした前髪や長めの髪も似合っていない。流行に流されて美容院にカットしてもらったが、なんだがしっくりこない。この時代は染める人は少数派で黒髪が一般的だった。成美はもう少し明るい色に染めてみたい気がしたが、周囲と浮くような事をするには、勇気がいった。
そんなどうでも良い事を考えながら、会議が終わった。これから給湯室へ行き、上司のおじさんの為にコーヒーや緑茶を作らなければならない。いわゆるお茶汲みだ。こんな仕事ばかりなので、正直なところ、やる気は出ない。いわゆる腰掛けの仕事で、結婚して寿退社をする女性は一般的だった。
会議室から給湯室まで、上司のおじさんと歩くハメになってしまった。もう五十過ぎぐらいのおじさんだったが、今流行ってる言葉「社畜」について語っていた。
「社畜ってなんですか?」
「成美ちゃん、知らないの? 俺みたいな仕事ばっかりおじさんの言葉だよ」
「へぇ」
「何だかこの言葉は三十年後も使われてそうな気がするわ。仕事は無くならんしな。勤続疲労はギャグ過ぎる」
上司はそう言うと、大きな欠伸をした。こんな上司と別れた後は、給湯室へ出向き、お茶やコーヒーを作った。狭い給湯室は、お局の上司と二人きり。会話もなく、息もつまりそうだった。コーヒーや緑茶の良い香りが救いという状況だった。
「成美さん、あなた、ティラミス食べた事ある?」
なぜか玲子はティラミスの話題を持ち掛けてきた。今、ティラミスは大流行していた。雑誌「Hanako」が仕掛けたブームで、従来のショートケーキなどと違い、チーズの味とコーヒーの香りが楽しめる大人な一品。かくいう成美もティラミスは好きで行きつけにカフェで、よく食べていた。
「ありますよ」
「あれ、美味しいよね」
なぜかティラミスについて語る玲子は、顔が赤くなり、目も少しキラッとしていた。
「なんか玲子さん、元気ですね。もしかして、男性に奢ってもらったりして」
何気なく言ったつもりだったが、玲子の頬は赤くなっていた。このお局に? 最初は驚いたが、まあ、一応上司なのでティラミスの話題を合わせて話す。ティラミスのおかげか不明だが、何だか玲子とは盛り上がってしまった。単なるとっつきにくいお局というわけでは無いようで、案外二人で会話するのも楽しかった。玲子は悪い人ではないだろう。上司のおじさん達に色々言われている事は、少し不敏になってしまった。
そんなティラミスのばかり話したせいで、成美も食べたくなってしまった。仕事中もティラミスばかり考え、書類を多くコピーをしたりミスも連発していたが、特に怒られずに終わった。やっぱり自分は腰掛けなんだろうなぁと実感してしまったが、今のところ結婚の話題は一つも出てこない。未来は全く未定の状況だった。新しく変わった平成という時代は、どうなっていくのか。一つも想像できなかった。
定時、仕事が終わると、更衣室へ直行し着替えた。グレイの地味な制服から、赤の派手なジャケット式の服だ。今がこんな服でも浮かず、かえって溶け込んでいた。前髪とメイクも軽く直し、逃げるように退社した。
早くティラミスが食べたい。
成美は会社から最寄りの駅を降り、近くにある飲食店街に直行した。ここはラーメン屋や定食屋などおじさんっぽい店も多いが、今はオヤジギャルという言葉も流行っている。成美は一人で入っても浮かないかもしれない。でも今はティラミスだ。行きつけのカフェの前まで直行した。
この店は、カフェ・未来といった。小さくて白いカフェだ。外観はオシャレ。庭にはハーブや花も植えられている。店の前には、黒板式の立て看板もあり、今はティラミスがオススメな事も書いてあった。
「あ!」
その看板の目の前を黒猫が横切って行った。この辺りの野良猫だろう。確か黒猫が目の前を横切るのは不吉なサインと聞いた事がある。ティラミスの事を考えて浮かれていた成美だったが、少し嫌な予感がした。
今はバブルでみんなが盛り上がっている時期だ。そう、今は良い。でも、これ以上良くなる気はしなくなってきた。消費税も3%になったし、何となくバブルが崩壊する伏線は貼られている気がした。両親はバブルは崩壊するとよく言っていたが、その通りかもしれない。両親も戦争経験者で「みんなが同じ方向にわーっと行っている時は危険」とも言っていたっけ。
せっかくティラミスを食べようと浮かれていたが、気分は落ちてきた。
「店長、こんにちは」
そうは言っても今はティラミスだ。さっそく店に入ると、カウンターの内側にいる店長・平野成一に挨拶をした。店長はゴリゴリとコーヒー豆挽いていたが、手を止め、にこやかに成美を出迎えた。
「こんにちは。いえ、こんばんはかな」
店長は不器用な笑顔を見せてきた。たぶん三十歳ぐらいの男で、少し長めの前髪がよく似合ってるいる。ちょっと俳優の真田広之にも似てるが、本人に言ったら調子乗るので言わないでおこう。
この店は去年の秋にオープンしたばかりで、まだ新しい。観葉植物や花も多く置いてあり、ナチュラルで居心地の良いカフェだ。テーブル席は二つ、カウンター席は五つほどなので、広くはないが、天井が高く、窓も大きいので、意外と閉鎖感は全くない。窓からは夕陽が差し込み、カフェ全体は柔らかな色に満たされていた。
中途半端な時間に来たせいか、他に客は一人だけだった。テーブル席にいる男性客だった。大人しそうなメガネの男で、何か必死に書物をしていた。ゆるい雰囲気のカフェの中で、彼は少し異質だった。
成美はさっそくカウンター席につき、コーヒーとティラミスを注文していた。
「かしこまりました。少々お待ちください」
店長はそういうと、厨房の方に行ってしまった。
待っている間暇になり、あの客に声をかけて見る事にした。
「ね、話しかけていい? 何やってるの?」
男はハッと顔をあげた。テーブルの上には、原稿用紙が散らばっている。
「小説書いているんだ
「え、作家さん?」
「違うけど、今になるよ」
彼はそう言うと再び原稿用紙に齧り付いた。その目は真剣で、少しキラキラしていた。成美はこれ以上男と会話をするのは難しいと思い、カウンター席に戻った。
彼は夢を置いかけているのだろう。全く計画性もなく、流れるままに生きてきた成美にとっては、眩しく見えてしまった。男は決してハンサムではなかったが、少しそう見えた。何か目の錯覚かもしれないが。
「お待たせいたしました」
店長は成美の前にティラミスとコーヒーをおいた。ティラミスからもふんわりとコーヒーの良い匂いがする。
丸い器に収められたティラミスは、表面にココアパウダーが引き詰められていた。まるで春の土にように生命力があるように見えてしまった。夢に向かって頑張っている男を見た後にティラミスに向きあったからかもしれないが。
「美味しそう」
「どうぞ、めしがれ」
「ありがとう。いただきます!」
成美はスプーンを持ち、ティラミスをすくう。ココアの味、コーヒーの味、そして濃厚なチーズの味。複雑な味がなんとも心地いい。さっきまで感じていた憂鬱さは、パッと消えてしまったようだ。
「ティラミスって『私を元気づけて』という意味なんですよね」
「イタリア語で?」
「ええ」
店長はティラミスの豆知識なんかを教えてくれた。
「ただ、本場のイタリアでは、このティラミはちょっと別な意味がありまして」
なぜか店長は顔を赤らめていた。そして小声でそっと教えてくれた。
「ちょっと性的な意味合いもありまして。意中に異性にティラミスを送る場合、夜遊びのお誘いという意味も」
「え!?」
そんな意味もあったとか。聞いている成美もちょっと顔が赤くなってしまう。バブルで性的な事も解放されつつあったが、まだまだ成美は初心だったのだ。正直、両親のようにお見合い結婚が良いと思う。確かに自由に恋愛するのも悪くないが、自由過ぎるのも幸せになれない気がする。モテる人は相手選びに困るし、奥手な人はどうすれば良いのかわからないはずだ。
「まあ、確かに元気は出るお菓子ですからね」
「え、ええ」
そう言うしかない。今は流行りのスイーツだが、そんな意味があったとは。
そういえばお局の玲子は、ティラミスの話題に顔を赤らめていた。もしかしたら、そんな出会いもあったのかもしれない。そうだと良いと思った。人の事だけど、幸せになって欲しいと思ってしまう。上司のおじさん達に色々言われているのは、やっぱり納得いかない。
そんな事も思い出しながら、ティラミスを食べる。店長にもちょっと愚痴ってしまった。
「まあ、今は女性の地位も低いですからね」
「酷いですよねぇ。私、上司のおじさん達嫌いよ」
「まあまあ。でも、そのうち寿退社なんて言葉は死後になりますよ」
店長はなぜか自信満々に言っていた。まるで未来でも見てきたかのようだ。
「私、寿退社目指さない方がいい?」
「私はおすすめしませんね。平成はもうそんな時代にはならないでしょう。たぶん、専業主婦とかも減ってきますよ」
イマイチ納得はできないが、玲子のようにお局になっても良いんじゃないかとも思い始めていた。不安だった未来が一つ解消されてきた。ティラミスのおかげか店長のおかげかはわからないが、確かに元気にはなってきた。
「あの彼、作家を目指しているんですよね」
店長はそっと教えてくれた。彼は相変わらず原稿用紙に齧り付き、成美達のことなど目に入っていないようだった。
再び彼の目を見たら、さっきよりもキラキラして見えた。未来を見ている目だった。
平成という世は、これからどうなるかわからない。ただ、彼の目を見ていたら、そうそう悪くない気もしてきた。どんなに世の中が暗くなったとしても、結局は希望があるかどうかだ。両親だって戦中や戦後を生き抜き、今の豊かな日本を残してくれた。
そう思うと「未来がわからなくて不安」なんて言ってられない。
「店長、ティラミスっておかわりできる?」
「おかわり?」
店長が苦笑していたが、ティラミスを作ってくれた。
「ええ。何だかもっと元気になりたい気分なのよ。別に性的な意味じゃないわよ?」
成美は悪戯っ子のように笑っていた。
きっと大丈夫。未来は何一つわからないが、希望はある。
例え世の中が暗くなったとしても、ティラミスのように美味しいスイーツが側にある。
平成も最後まで明るく生きていけそうな気がした。




