2006年のバウムクーヘン
いい加減、目覚めなさい。
日本という国は、そういう特権階級の人たちが楽しく幸せに暮らせるように、あなたたち凡人が安い給料で働き、高い税金を払うことで成り立っているんです。
こういう特権階級の人たちがあなたたちに何を望んでいるか知っている?
今のままずーっと愚かでいてくれれば良いの。
世の中の仕組みや不公平なんかに気付かず、テレビや漫画でもぼーっと見て何も考えず、会社に入ったら上司の言うことを大人しく聞いて戦争が始まったら真っ先に危険なところに行って戦ってくれれば良いの。
(テレビドラマ・「女王の教室」より引用)
2006年、秋。
夫はテレビドラマばかり見ていた。特に去年放送された天海祐希主演の「女王の教室」がお気に入りだった。一日中、リビングのテレビに齧り付いてる事もあった。
定年退職して家にいるせいか、夫は見なりに気を使わなくなった。ジャージ姿でボサボサ頭でだらしない格好でテレビを見ている。まあ、ボサボサ頭といってもだいぶ後退気味で、今はバーコード状態だが。
「女王の教室」は、悪魔のような女教室と小学生の生徒達をめぐるテレビドラマだった。夫も定年前は私立中学校で数学を教えていたので、気になる内容らしい。
妻の幸子は、正直、好みではない。それよりジャニーズアイドルや可愛い女優が出てくるコメディの方が好きだ。今放送されているのだったら「のだめカンタービレ」が面白い。ほぼ原作通りだ。特に主役・上野樹里は漫画から抜け出してきたみたいだ
しかし、わからない。
夫が見ている「女王の教室」から聞こえてくる台詞は、かなり塩分量は多いもので、幸子も耳が痛くなってくる。だから、このドラマが苦手なのかもしれないが、ぼーっと見ている夫が理解できない。
そもそも定年退職後、家にいるのが苦痛で仕方ない。仕事をしている時は、身なりも整え、生き生きと頑張っていたのに、今は毎日ドラマ三昧。引きこもりやニートという問題を新聞で見た事があるが、今の夫はそれと似ていた。
一方、幸子もずっと専業主婦として生きていた。年齢も五十過ぎている。自然と老いやこの先の未来なんかを想像するが、何も考えてい風の夫を見ていると、さらにイライラが募ってくる。新聞を見ると格差社会や老人のボケ問題も載っている。特に後者の問題は他人事では無いので、書店では脳トレのクイズブックを買い、少しでも対処したいと思っていた。今は脳トレがブームで、そういったゲームも人気があり、幸子も影響されていた。
同世代の友達も似たような悩みを抱えていて熟年離婚を本気で考えているものもいた。去年あたりから流行っていた。「熟年離婚」というテレビドラマも放映されていた記憶があるが、夫はハマっていなかった。
「はぁ」
テレビの齧り付き、お菓子やコーラを貪る夫を見ているとため息しか出ない。
熟年離婚の対処法が載った新書を買ってみたが、定年退職後は、夫婦それぞれ生きがいを持とうと書いてある。
生きがいって何?
三人の娘を育ててあげ、ずっと育児に奔走していた。それが突然、夫は家にいるし、娘達も独立していった。突然、生きがいを持てと言われても困る。
家のある町は、田舎で娯楽も好きない。軽い運動でもしようとも思うが、それが生きがいになる気もしない。
だったら夫と一緒にのんびりとテレビドラマでも見ていれば良いかとも思ったが、「女王の教室」を見るのはしんどい。せめて「のだめカンタービレ」や「野ブタをプロデュース」を一緒に見てくれれば良いが、それもない。少し前は、のだめを見ていたら、あからさまに文句を言われて、電源を切られた事もあった。
町ではおしどり夫婦と言いたくなりような可愛い老夫婦もいる。幸子だって、そういう夫婦になれるものだと信じていたが、現実は違った。
結婚自体もそうだった。娘時代は、可愛い奥様になって幸せになれると思っていたが、そうでもない。むしろ現実的な問題ばかり襲ってくる。実際、結婚生活を送ってみて、現実的で地味で、地道な努力が必要だと悟った。
結婚式で「病める時も健やかなる時も誓います」と言った時が頂点だった。むしろ戦いのゴングが鳴った瞬間だった。
でも、今は、そんな戦いを終わらせられる?
もう子供は独立し、止めるものは何もない。経済的な問題はあるけれど……。
熟年離婚。
幸子の中で現実味のある言葉になっていた。
数日後、長女の晶子からカフェに誘われた。晶子は都内で事務職をしているが、オシャレなカフェを見つけたというので誘ってきた。
たぶん、気を遣ってくれたのだろう。晶子も彼氏がいるし、仕事をして忙しいが、「お父さんとの生活は辛い」と愚痴ったら、誘ってくれた。
久々の夫の顔を見なくて済むと思うと、ご機嫌だ。ニコニコ顔で待ち合わせの駅に向かい、晶子と落ち合った。
「晶子、どんなカフェなの?」
「お母さん、ウキウキしてるねぇ。これから行くカフェは値段の割にいいから、楽しみにしてて」
晶子は、いわゆる就職氷河期にもぶつかり、就職は大変だった。待遇面はあまり良くない事務職だったが、それでも正社員なので本人は満足しているようだった。そのせいか、やたらと現実的でクールな視点も持っている。長女だからしっかりしているというのもあるかもしれない。顔立ちも荒川静香に似ている。親バカだが美人だと思う。
次女は結婚、三女はアメリカに留学中だった。娘の中だったら晶子が一番堅実かもしれない。幸子は専業主婦の道を選んだ次女については、微妙な気持ちがあった事は否定できない。
「ついたよ」
晶子に案内され、カフェにつく。裏道の飲食店街の端にカフェがあった。
白い壁のオシャレなカフェだった。大きくはないが、女友達同士でお茶をするならピッタリだろう。ミントグリーン色の看板には「カフェ・未来」とある。良い名前だ。そういえば女王の教室に出演していた子役・志田未来と同じ名前だと思いだす。あの子役は絶対美人に成長するだろう。
そんなどうでも良い事を考えながら、カフェに入った。
四人がけのテーブル席が二つ、カンター席が四つで確かに狭いカフェだ。ただ、窓が大きく、秋の日差しが降り注ぐ。観葉植物や花も多く、癒し系のカフェだ。癒し系は1999年ごろに流行った言葉だ。バブルが崩壊し、世相が暗くなっった反動で流行った言葉らしい。具体的には井川遥のような美人女優、可愛い動物、ヒーリングミュージックなどをさすそうだ。2006年の今も格差社会や熟年離婚がクローズアップされている。今もお癒し系は流行っているというか、定着してしまったのだろう。
「いらっしゃいませ」
すぐに店員に案内され、四人がけのテーブルにつく。
テーブルの上には花はないが、端には小さなサボテンが飾ってあったりして可愛い。
「店長、何がおすすめ? 今日は母と来てみたの」
晶子はこの店員と親しいらしい。店員ではなく、店長だったようだ。確かにおじさんだし、アルバイトには見えない。笑顔もプロフェッショナルだ。何より目がイキイキとしている。夫の死んだ目と大違いだと比べてしまった。
「今日はバウムクーヘンがおすすめなんですよ。今は焼きたて風バウムクーヘンが人気ですから、対抗してみました」
他に客がいないせいか、店長はバウムクーヘンの豆知識なんかを教えてくれた。
日本ではユーハイムというお菓子メーカーが広めたという。
創業者のカール・ユーハイムは、第一次世界大戦で日本では捕虜だった。カール・ユーハイムがいた捕虜は広島だった。広島物産陳列館でバームクーヘンを出品した事もあったそう。1919年の出来事だった。ちなみに広島物産陳列館は原爆の爆心地の近くにあった。のちに原爆ドームといわれる場所だった。
カール・ユーハイムは神戸に拠点を移し活動していた。これが現在のユーハイムの礎になったが、終戦間近に亡くなる。戦後、弟子達はユーハイムを再興していったが、阪神大震災で被害を受けてしまう。
「あらぁ、ユーハイムって波瀾万丈だったのねぇ」
幸子は思わず声を出す。
「そうでしょうね。同盟国のドイツ人といっても、戦中に日本にいるってだけで大変だったでしょうに。私達にも見えない努力もいっぱい重ねてきたんでしょうね」
晶子もしみじみと呟く。店長の豆知識は意外と面白く、母娘二人で聞き入ってしまっていた。
「阪神大震災でユーハイムは被害を受けましたが、昔のレシピも発掘されたとか。悪い事ばかりじゃなかったんですね……。木の年輪のように重ねていくバアムクーヘンは、人生みたいですね」
そんな話を聞いたら、バウムクーヘン以外を注文する選択肢がなくなってしまった。母娘は、バウムクーヘンとアイスティーを注文した。
白い皿の上には、丸ドーナツサイズのバウムクーヘン。一枚一記事がギッシリと詰まっている。その周りにアイスやフルーツもトッピング。マンゴーやイチゴ、キゥイなどのフルーも目に鮮やかだった。
「美味しそう!」
「ねえ、お母さん、食べよう」
こうして二人でバウムクーヘンを食べる。バウムクーヘンはしっとりと優しい味だった。生地の一枚一枚が口に中で解ける。
長い年月、日本でも地道な努力の上で育ってきたバウムクーヘン。一枚一枚しっかりと重ねていった。
こんなスイーツを食べていたら、夫との結婚生活も思い出してしまった。もちろん、何かを成し遂げたわけでもない。カール・ユーハイムのようにお菓子の会社を作ったわけでもない。
それでも、重ねていった日々を思い返すと、いまさら熟年離婚する気も失せてきた。
そういえば結婚式の時、式をあげてくれた牧師が「結婚って約束を守る事ですからね。感情や愛情じゃないです」と言っていた事も思い出す。
おしどり夫婦や可愛い老夫婦なんてイメージしていたから、今の状況が苦しかったのかもしれない。夫とは趣味が合わなくてもいい。別にずっと仲良くなくても良い。毎日ウザいなぁと思っていても良いのかもしれない。自分で勝手にハードルを上げていただけだったのかもしれないと気づくと、楽になってきた。
なぜかわからないが、このバウムクーヘンを食べていると、自由な気持ちになった。
「お母さん、離婚だけはしないでね」
まるで晶子は、今の幸子を見透かすような事も言う。
「やっぱり、大人になってそれやられるの、子供としては悲しいかも」
「う、うん……」
「それに現実的な事言うけど、ずっと専業主婦だったお母さんが、経済的に今から独立するのは難しいと思うよ。私みたいに働いていたら、選択肢もあると思うけどさ。今は格差社会ってテレビでも言ってるの知ってるでしょう? これからどんどん景気悪くなるよ。たぶん、これから貧乏な老人も増えていくと思う」
耳が痛い。
確かに今の現状を顧みずに、熟年離婚を夢見ていたのは、現実的ではなかったようだ。お金の為に離婚出来ないというのも情け無いが、今は夫と別れたくない気持ちもあったりした。
「まあ、私なんかからしたら、お母さんにような生き方もちょっと羨ましいから」
なぜか晶子は苦笑していた。
「そう?」
「うん。会社で働くのは、案外キラキラしないから。責任も男性と同じっていうのは、しんどいよ。私は初めてお父さんって凄かったんだなぁって気づいたよ。うちの会社では鬱病とかになって定年退職まで働けない人もいるしね。私もお母さんもかなり恵まれてる方だよ」
そんな視点も今までになかった。
やはり、幸子は世間知らずだったと恥ずかしくなってきた。家に帰ったら夫と一緒に「女王の教室」を見ようか。今は、あのドラマの耳の痛い台詞も受け入れられそうだった。いい加減、目覚める時期かもしれない。
「アイスティーのおかわり、いかがですか?」
店長は相変わらず笑顔だ。癒し系の笑顔で、幸子もつられて笑っていた。




