2004年のフォンダンショコラ
今年の夏は暑かった。
1993年は冷夏で米騒動もあったものだが、1994年から2002年までずっと猛暑。
そして2004年。熊谷では39°も超えたらしい。日本は、アテネオリンピックで盛り上がっていたが、祐司は毎日のように夏バテしていた。妻の成美には、「しっかりしろ! 原稿書け!」と尻を叩かれていたが、どうも筆も進まず、今回の新人賞は見送った。
裕司は作家志望の男だった。平成元年から原稿を書いて各種新人賞に応募しているが、受賞までは至っていなかった。
そんな中、結婚は勢いでしてしまった。妻の成美とは行けつけのカフェで知り合った。なぜかわからないが、成美に一目惚れされ、何となく付き合い始めて、勢いで結婚してしまった。当時はまだバブル景気も残っていたし、若かった事もあるのだろう。
そんな裕司は一度は就職し、中小企業で営業の仕事をやっていたが、やはり小説の夢が諦め切れず、2001年頃から投稿を繰り返していた。仕事も比較的時間の都合がつきやすい工場で仕事をしていた。ネットショッピングサイトの工場で毎日同じように梱包や袋詰めを繰り返しいた。
意外にも成美には反対されなかった。子供がいないという事もあるのだろうが、本当にこのままで良いのか悩んでいた。転職してまた普通に企業で営業マンをやるべきか。夢はすっきりと諦めるべきか。事実、筆はあまり進んでいなかった。平成元年から十数年もたち、もうわかくない。三十代半ばになり、色々と思うところがあった。同じ創作仲間も最初はお互いに褒め合って楽しかったが、時が経つにつれて、一人じつ脱落していった。プロ作家の知り合いもいたが、締切に追われ、酷評に苦しめられたりしている。その道に行くべきか、未来が不透明になっていた。
そう悩んでばっかり居るのも時間の無駄だ。裕司は休みの日、行きつけにカフェに行くことのした。
店の名前はカフェ・未来という。看板に書かれたその文字を見れいると、胸が締め付けられた。今の裕司にとっては、不透明で目にも見えず、手にも取れないものに見えた。
大学生やサラリーマンが好みそうな飲食店街にある癖に、カフェ・未来はオシャレで女性受けしそうな外観だった。白い壁で小人の家のような雰囲気だ。ここでは浮いている。
カフェの隣には、たい焼き屋やベルギーワッフル屋、タピオカ屋もあった時もあったが、今はマンゴープリン屋になっていた。甘くて可愛いスイーツだが、時代の流れは厳しいようだ。そして残酷。
「店長、こんにちは」
裕司はそんな事を考えながらカフェに入る。すぐに指定席化している椅子に腰を下ろす。カウンター席の端っこの一番暗い席だったが、この席でも店の窓が大きく、日差しが入る。天井も高く、外観は小人の家のようだが、中が意外と広く感じた。観葉植物や花も溢れ、ナチュラルで安心できる雰囲気でもある。そんな雰囲気が好きで、ここで執筆すると捗る。
「ああ、裕司くん。いつものでいいね?」
「ええ、お願いします」
店長の平野成一は、厨房の方に行ってしまった。この店を一人で切り盛りする男だった。確かもう年齢は四十半ばだったが、おじさ臭い嫌らしさは全くない。むしろちょっとダンディ。若い頃はちょっと俳優の真田広之にも似ていた。ちゃんとカリスマ美容師に髪を切ってもらえれば、そこそこオシャレになりそう。そういえば、カリスマという言葉も数年前に流行っていたが、もう聞かない。一時の流行語だったようだ。一方、社畜という言葉は1990年ぐらいからずっと聞いている。昨日も上司が「俺って社畜だわ」と言っていた。おそらくこの言葉は、ずっと定着していくだろう。
今の流行語の自己責任もそんな予感がした。イラクに向かったジャーナリストに批判が相次いで、この言葉が流行っていた。ネットでは痴漢の被害者にも自己責任というものがいて、なんだか怖い。かくいう裕司も、いつまでも夢を追いかけているこの状況に色々言われていた。特に親からは自己責任と言われてしまっていた。母は泣いていた。一方妻の成美は、そんな事は一切言わなかった。そんな事を思うと、自分にとっては勿体無い妻なのかもしれない。
「はい、裕司くん。いつものキャラメルラテホイップクリームだよ」
「ありがとう、店長」
店長はおっとりとした笑顔を見せながら、それをおいた。大きめなグラスの中には濃厚なキャラメルラテ、その上にこんもりとクリームが盛られ、チョコレートソースもかかっていた。
砂糖と脂肪の塊のようなラテだった。これは常連客だけの裏メニューだ。裕司が執筆中に糖分が切れて困ると騒いだら、店長がわざわざ開発してくれた。このメニューを知っているのは、裕司、妻の成美、あとは元たい焼き屋の果穂。果穂は店長の友人だった。
もう一人、店長の知り合いの飯田愛もこのメニューを知っている。愛は海外で宣教師の仕事をやっているので、滅多にこの店にはやってこないが、どうやら店長の恋人らしい。はっきりとは言わないが、二人の間には、ピンク色の空気があった。結婚はしていないらしい。確かに二人とも四十代の半ばだ。勢いで結婚できる歳でもないのかもしれない。
そんな店長の恋愛事情はどうでも良かった。裕司はノートパソコンを出し、さっそく執筆に取り掛かった。平成元年あたりは手書きで原稿を書いていたが、今はそんな作家は少数派だろう。あえて原稿用紙を使っている作家もいるらしいが。こんなパソコン一つとっても時代は変化しているようだった。
執筆中は集中してしまうので、もう周りの音は聞こえない。他の客も何人か出たり入ったりしていたようだが、裕司はキャラメルラテホイップクリームを飲みながら、キーボードを打ち続けた。書いている時は糖分の消費がすさまじく、この砂糖の塊みたいなラテが身に染みる。
今書いている作品は、ファンタジーだった。剣と魔法の異世界で勇者賀戦う物語だった。今の小説は純愛ブーム。純愛ものの「世界の中心で愛を叫ぶ」が大ヒットを飛ばしていた。通称・セカチューといい、書店では山積みされていた。
小説だけでなく、韓流ブームもあり、「冬のソナタ」も人気だ。これも純愛もので、妻の成美もハマっていた。夏には友達と「冬のソナタ」のロケ地に旅行まで行っていたっけ。主演のヨン様の目をハートにしている妻には呆れてしまうが、今はそういうブームだった。
「よし!」
きりの良いところまで書き上げ、上書き保存をすると、もう窓の外は夕陽に染まっていた。他に客もいない。
カウンター席の内側にいる店長は、ちょっと退屈そうにグラスを磨いていた。
「どうですか、執筆の方は?」
「うん、案外書けたよ」
裕司は苦笑しながら言う。
「でも、もう無理かもしれない。俺はセカチューみたいな作品は書けん」
「でも、一回ぐらい書いてみたらいいんじゃないですかね、純愛もの。私もセカチューみたいな作品が読みたいですよ」
案外ミーハーな店長は、そんな事も言い、裕司はさらに苦笑してしまった。マツケンサンバやハナミズキなどの今年のヒット曲も口ずさんでいる。ハナミズキは2001年の同時多発テロをテーマにした曲らしい。意外とヒット作も重いテーマを扱っているものもあるようだ。
「ところで、裕司くん。もうすぐ結婚記念日ではないですか?」
店長はハナミズキの鼻歌を歌え終えると、そんな事を言っていた。
「あ、そういえば」
すっかり忘れていた。毎年このカフェを貸切にして二人でお祝いをしていた。
「一カ月後ですよ。一応、通年通りに貸切の予定にしてましたが」
「わー、忘れてたわ」
結婚記念日を忘れていた事にショックだった。最近は自分の事ばかり考えていたのかもしれない。未来が見えないと不安になりつつ、一番大事な妻との記念日を忘れていたのは、恥ずかしい。これは本当に自己責任だ。どこからどう見ても裕司が悪い。
「店長、何かパーッと明るくてサプライズになるようなスイーツない?」
「それは、スイーツではなく、裕司くんが夢を叶える事だよ」
「それは……」
珍しく今日の店長は意地悪だった。いつもはおっとりと優しそうなのに。
「だけどさ……」
言葉に詰まってしまった。心は硬くなっていた。今書いている原稿も、モノになるかわからない。妻の成美を一番喜ばせる事は何かわかっていたが、現状、それは難しい。
「まあ、いいでしょう。今日は意地悪すぎましたかね」
「うん……」
「まあ、未来はどうなるかわからないですよ。裕司くんが書いているような異世界ファンタジーが急に売れ線になる事もあるかもしれませんよ?」
なぜか店長は、悪戯好きの子供みたいな表情に変わっていた。
その後、店長と打ち合わせをし、結婚記念日の予定を決めた。
スイーツはフォンダンショコラにした。中にとろっとしたチョコレートソースが入っているケーキだ。フランス語では「溶ける」「溶剤」の意味があり、その名前の通りにチョコが溶けるサプライズ感もあるケーキだし、成美もチョコレートが好きだ。それに店長によると、今年はフォンダンショコラが流行っているらしい。流行な敏感な店長は、1997年頃はベルギーワッフルの店にしていた事もあったが今はそんな暴挙はしていない。この事を突っ込むと、店長は顔を真っ赤にする。どんな人にも黒歴史はあるようだった。
こうして時が過ぎ、一カ月になった。
10月26日。結婚記念日だ。最近は新潟では大きな地震があり、メディアで大きく報道されていた。阪神大震災以来の大きな地震だったが、ネットでは南海トラフもくるとも騒がれていた。改めて地震の多い国に住んでいる事を感じてしまう。こうして成美と二人で結婚記念日を祝える事は幸せかもしれない。
夕方から店を貸切り、店の中央にテーブルをした。そこにホールケーキほどの大きなフォンダンショコラを店長が持ってきた。
「わあ、これ、チョコレートケーキ?」
成美は子供のように目を輝かせながら、フォンダンショコラを見ていた。出会った頃はバブリーな流行ファッションに身を筒んでいた成美だが、今はネイビーカラーのワンピースを着ていた。アクセサリーも上品にまとめている。髪の毛もショートカットにし、メイクも派手ではない。当時のファッションは、一種の魔法のようなものだったのかもしれない。もうバブルが弾け、魔法も解けた。経済は持ち上がる事もなく、自己責任の世の中になった。
「じゃあ、ケーキを切りますか。成美ちゃん、どうぞ」
「成美、このケーキはびっくりするぞ」
店長と裕司に促され、成美はナイフを持ち、フォンダンショコラを切った。その切れ目からチョコレートソースがジュワッと解けていた。同時にチョコレートの甘ったるい香りは広がった。
「ええ、何このケーキ。ナイフ入れたらチョコレートが溶けてきたわ」
予想通り、フォンダンショコラは成美を驚かせたようだ。思わず裕司は店長と目を合わせ、深く頷いた。
「成美、ごめん。本当は受賞のお知らせをプレゼントしたかったけどさ」
「いいのよ。私、このカフェで原稿を書いている裕司を好きになったんだからさ。私、あの時、あなたの姿見て元気が出たのよ?」
意外にも成美はサバサバとしていた。皿の上にはフォンダンショコラから溶け出すチョコレートソース。そんなケーキを見ていたら、ほんの少しだけ、心も柔らかくなってきた。なんだか泣きたくなってくる。
「あなた、未来はわからないわよ。まだまだよ」
その成美の言葉は、ポジティブなものだった。わからないから不安ではなく、まだまだ勝てるチャンスはあると励ましてくれているようだった。チョコレートのように甘い言葉だが、今はこの言葉が一番必要だと思った。
「ありがとう、成美。これからも宜しく」
「ええ。こちらこそ」
成美と握手を交わした。今は夫婦というより、一緒に戦う友のような気分だった。バブル崩壊後、決して明るくならないこの世を生き抜く戦友。
こうして二人で食べたフォンダンショコラは夢のように甘く、未来への不安も消えていた。
大丈夫、まだ未来はわからない。




