後編
「こんにちは〜」
いつもと同じ声色で、彼女は扉を開いた。
絹のような黒髪と、レンズの奥に綺麗な瞳を覗かせる篠宮先輩が、そこには立っていた。
初めて見た時と同じ、凛とした綺麗な佇まいで。
「こんにちは」
「こ、こんちゃす……」
「誰かと思えば昨日の子かぁ。それに橘くんも一緒なんだね」
先輩はそう言って、何の迷いもなく委員長の目の前の席に座り、体をこちらに向けた。
「ぅっす……」
「橘くん、しゃんとしてなさい」
無理な話だ。
昨日のことが現実だったとしても、憧れの人が目の前にいるのだから。
「橘くん、体は大丈夫? 昨日はごめんね」
「あ、謝るってことは……昨日のあれって、やっぱり篠宮先輩の仕業なんですか……?」
「そうだよ、私の仕業」
悪びれる様子もなく、あっけらかんとしている。
可愛すぎるその姿とは裏腹なその言葉に、思わず鳥肌が立った。
「じゃあ、あの、噂になってる障害事件の犯人も?」
「そう、私のこと」
「大勢怪我してるって……知ってますか?」
「うん、知ってる」
「先輩のその力は、一体何なんですか?」
「さぁ、よく知らないかな」
「昨日は……僕を殺そうとしたんですか?」
「そうでもないかな。結果的にああなっただけ」
「でも、死んでも構わないとは思ったんですよね?」
「そうだね。そうかも」
「…………」
悲しい。
この感情を表すなら、その言葉が最も適しているだろう。
何かの間違いであって欲しかった。
「ど、どうしてなんですか?」
「だってほら、橘くん、私のこと嫌いでしょ?」
「……は?」
なんだそれ?
なんでそうなる?
僕が先輩のことを嫌いだって?
僕は世界中で一番、先輩のことが好きなのに。
「ち、違いますよ! そんなことないです!」
「嘘つき」
「嘘なんかじゃないですって!」
「私もこの女は嫌いね。性格悪すぎ」
「今は黙っててくれお願いだから!」
思わず委員長に怒鳴ってしまう。
そんな状況でも、先輩はいつも通りの穏やかな表情のままだった。
「本当に、僕は先輩のこと嫌いなんかじゃないです」
「じゃあどうして橘くんは、いつも私のことを邪魔そうに睨んでいたのかな?」
「に、睨んでいたつもりは――」
「もういいから、そろそろ黙りなさい」
泣きそうになりながら前のめりになる僕を、委員長は軽く制した。
でも、それが少しだけ有り難くもあった。
今すぐにでも誤解を解きたいのに、上手くできる自信がこれっぽっちも無いのだから。
「やる気満々だね。じゃあ早速始めよっか」
「いえ、まずはルールを確認させてください」
「そんなに複雑なルールはないよ? 大体普通のしりとりと一緒。最初は『しりとり』から始めて、濁音や半濁音で終わった場合は、ちゃんと濁音半濁音から始まる言葉じゃないとダメ。最後に伸ばし棒がついたら、次の人は伸ばし棒の1つ前の文字からにしてね。当然だけど存在しない言葉は無効。それから、答えるまでの制限時間は3分間。それを超えたら放棄とみなして失格。最後に『ん』が付いたり、もう使われてる言葉を使ったら負けね」
「放棄の場合は、最後に相手が言った言葉に襲われる」
「そう」
「負けた場合は、相手が最後に言った言葉に襲われるけど、自分が最後に言った言葉が守ってくれる。それで合ってますか?」
「それね。正直私も知らなかったけど、昨日の橘くんを見る限りそうみたい」
「分かりました。同じ文字列の言葉も使っちゃ駄目ですか? 橋と箸とか」
「それは大丈夫だよ。酢とか、1文字の言葉も大丈夫」
「相手が『ん』で終わったとして、ンジャメナとか、んから始まる言葉を言えば続行可能ですか?」
「ううん、それは駄目。『ん』で終わったら負けってルールだからね。その時点で強制終了だよ」
「キャラクター名とか、人名は有りですか?」
「全然ありだよ。ただしその場合はフルネームでね。あと、人名は同名の人物が何人いても一度きりだよ」
「なるほど。他に細かいルールは?」
「うーん。大体それで全部かな」
「了解しました」
やけにしっかりとルールを確認して、委員長は頷いた。
どうやら本気で勝つつもりらしい。
今からでも止めるべきだろうか?
でも、うまくこの場を納めたとしても、これからずっと二人を監視できるわけじゃない。
なら一体、僕はどうすれば良いんだ。
「じゃあ、始めましょうか」
いつも通り無表情な委員長がそう言うと、先輩もいつも通りの穏やかな顔で頷いた。
僕が固唾を飲んで見守る中、口を開いたのは委員長だった。
「しりとりッ!」
「――ッ!?」
次の瞬間、自習室に鈍い音が響き渡り、僕は目を疑った。
「フ、フランスパン……?」
委員長は『しりとり』と発声しながら、机に隠していたフランスパンで、篠宮先輩の頭を殴打したのだ。
「うぅっ……」
突然のことで混乱したのか、先輩は殴られた側頭部を抑えて、唖然とした表情を浮かべている。
しかし委員長は間髪を入れず、半開きになった先輩の口の中にフランスパンを突っ込んだ。
「んぐぅっ! オェッ!」
苦しみもがく先輩の髪を鷲掴みにした委員長は、椅子から引きずり落とし、あっという間にマウントポジションを取っていた。
あまりに一瞬の出来事で、僕も唖然としてしまったが、苦しむ先輩の姿を見て我に返った。
「お、おい! それはルール違反じゃないのか!? ってかやめてやれよ!」
「私はしっかり確認したけど、そんなルールはなかったじゃない。これはしりとりとは関係ない行動、私の自由でしょ」
「そ、それは……」
しりとりとかじゃなくて、社会のルールに反してるだろうが。
目に涙を浮かべて苦しむ先輩の姿が痛々しい。
「さぁて、あなたが負けるまでの3分間、何かお話でもしましょうか」
「いや委員長、こんな勝ち方したって何の解決にもならないだろ」
しりとり、という言葉で終われば物理的なダメージは無いだろうから穏便に終わるかもしれないが、現在進行形で先輩はダメージを受けている訳で、委員長が何をしたいのかさっぱり理解できない。
「橘くんは、しりとりって知ってる?」
「……は?」
もう本当に、委員長は何がしたいんだ。
そして何を言っているんだ。
「知らないわけないだろ。少なくともお前が今やってるのは、しりとりじゃない」
「そっちじゃなくて、もうひとつの『しりとり』のこと」
「もうひとつの……?」
「そう、妖怪の方。妖怪『尻取り』」
元々オカルトには疎いのもあるが、全く知らない。
「島根県に伝承がある鬼の一種よ。お尻を取ると書いて尻取り」
「そんなの、本当に居るのか?」
「疑うなら調べてみたら? 時間はまだあるから」
「いや、別にそこまで疑ってはないけどさ」
「いいから、調べて」
「……わかったよ」
委員長の圧に負け、スマホで『尻取り、妖怪、島根県』を検索すると、それらしきサイトがヒットした。
どうやら、日本各地に伝わる妖怪や怪異関連の伝承をまとめたサイトらしい。
「本当にあった……」
そこには妖怪尻取りの説明が書いてあるが、何より目を引くのはイラストだ。
鬼といえば、筋肉質で巨躯というイメージがあるが、尻取りは手足が異常に長く、蜘蛛のような四つん這いで、グネグネと歪曲しながら伸びる首の先には、悍ましい女の頭が付いている。
はっきり言って気持ち悪い。
「それ、貸して」
「あ、ああ」
委員長はスマホを受け取ると、「そうそう、これこれ」と、篠宮先輩にもその画像を見せつけた。
「先輩、私が言ったしりとりはこれです。説明も読んであげますね。『尻取りとは鬼の一種。しりとり遊びで悪さをした者のもとに現れ、長い首を伸ばしてその者の尻を貪り食う』ですって。先輩、今からこんなのにお尻食べられちゃうんだ。可哀想」
委員長はそう言って、再び画面を先輩に向ける。
恐怖心からか、それとも単に苦しいだけなのか、先輩は呻き声を上げ、涙を浮かべながらもがくが、一向に抜け出せそうな気配は無い。
「しりとりを始めたのは32分丁度です。もうすぐ34分になりますね。私も妖怪を見られるのでしょうか? ちょっと楽しみになってきました」
「委員長、ちょっと待て」
「どうしたの?」
「しりとりで悪さをする奴が、古今東西、篠宮先輩以外に居たのか?」
「居ないでしょうね。そんな変なの」
「それじゃあおかしいだろ、こんな妖怪本当に居るのか?」
「さぁ? 私が昨日、適当に考えただけだから。そのサイト、誰でも編集できちゃうのよ」
「…………」
手の込んだことをしやがって。
物理的な方法で先輩に勝つだけじゃ飽き足らず、こんな物まで作って少しでも先輩の精神まで削ろうとしたらしい。
「よかった……。それなら先輩が大怪我をする心配は無いのか」
「それはどうかしらね。篠宮先輩、もう何か見えちゃってるみたいだけど」
「……え?」
気づけば、さっきまで暴れていた先輩が、空中の一点を見つめて小刻みに震えている。
「先輩……?」
「んんんんんっ! あぁあああああああっ!」
そして突然、発狂したように叫び始めた。
まるで、目の前に異形の怪物が現れたかのように。
「先輩! 篠宮先輩! おい委員長! これどうなるんだよ!?」
僕には何も見えないが、先輩には間違いなく何かが見えている。
「知らないけど、お尻を貪り食われるんじゃない?」
「駄目だろそんなの! 死んじまうって! どうすりゃ助かるんだよ!? なんか無いのかよ!?」
「そうね、このサイトによると弱点は硫酸で、尻取りに向かって3回『硫酸』と唱えると逃げるらしいわ」
「白々しいんだよ! 先輩! 硫酸です! 硫酸って3回言ってください!」
「りゃ、りゅあ! りゅうあ! あぁああぅあああっ!」
「委員長何やってんだ! 早くフランスパン抜け!」
「残り15秒〜」
「この野郎っ!」
「キャッ!」
抑え難い怒りに任せ、僕は委員長にタックルをした。
委員長は小さく叫び声を上げたが構わず押し倒し、左手でフランスパンを抜き取ると、先輩は激しく咳き込んだ。
「先輩早く! 硫酸!」
「ゲホッ! りゅ、りゅうさん! 硫酸硫酸っ!」
一体どうなったのだろうか。
食いしばるように目を瞑る先輩を見つめたまま、微動だにすることが出来ない。
硫酸で『ん』がついたからしりとりは終了したが、尻取りを追い払うことは出来たのだろうか。
何も見えない僕には分からないが、委員長が残り秒数をカウントしてから、少なくとも30秒以上が経過した今現在、先輩の体に異変は見られなかった。
「助かった……のか?」
「そうね、だからさっさと退いてくれない?」
「委員長、お前なぁ!」
「さっきからずっと私の胸触ってるの、気づいてる?」
「ほえ?」
頭に血が昇って思わず叫んだが、委員長の言葉に視線を落とすと、一気に血の気が引いていくのを感じた、
僕の右手は、思い切り委員長の胸を鷲掴みにしていた。
「ご、ごめん! ごめんなさい!」
「謝ってないで、さっさと離しなさいよ」
「あ、そっか! すみません!」
慌てて手を離すと、委員長は呆れたように溜息をつく。
「私のことはいいから」
そう言って、委員長は顎で先輩を指した。
時計の針はとっくに35分を超えて、37分に差し掛かっている。
僕は安堵の息を漏らし、今だに震え続けている先輩の肩を揺らした。
「篠宮先輩、もう大丈夫ですから、目を開けてください」
「や、やだっ、まだ居るの! 視線を感じるのっ!」
「大丈夫、大丈夫ですから。落ち着いて、ゆっくり目を開けてください」
「ほ、本当に? 本当に何も居ない?」
「ええ、僕と委員長だけです。視線は多分、僕のものかと」
「わ、分かった……」
先輩はゆっくりと瞼を開き、怯えた様子で視線だけを泳がせた。
そして何も居ないことが分かったようで、最後に僕の目を見ると、その瞳いっぱいに涙を溜めた。
「……橘くん」
「はい?」
「君って目付きは少し怖いけど、瞳はとっても優しいんだね」
「あはは、なんですかそれ。っていうかほら、ね? 大丈夫でしょ」
「うん……ありがとう、橘くんっ」
「――ッ!」
感情が昂ったのか、それとも安心感を得たかったのか、先輩は突然僕に抱きついた。
良い匂いがするし、なんか色々と当たってる。
落ち着け、呑まれるな。
男として、ここは毅然とした態度で臨め。
「水を差す様で申し訳ないけれど、そのままでいいから聞いてもらえる?」
「お、おう! なんだ!?」
胸の中で泣きじゃくる先輩のおかげで、心臓とかそれ以外の部位が飛び出しそうだから、今は色々話しかけてくれると正直助かる。
「尻取りについて、まだ言ってない特性があるのよ」
しりとりと聞いた瞬間、先輩の身体がビクンと跳ねた。
可哀想に、相当怖かったのだろう。
「その話は、また今度にできないか?」
「そうしてあげたいけど、大事なことだから伝えておきたいの。良いかしら」
その問いかけに、先輩は顔を埋めたままコクリと頷いた。
「じゃあ言うわね。一度でも尻取りに目をつけられると、今後はしりとりをする度に尻取りは現れるの。それはあなたの力と全く関係ない物だから、しりとりで打ち消すことは出来ないわ。それに、一度目は言葉でも追い払うことが出来るけれど、次からはそうは行かない。そして例え本物の硫酸でも、完全に倒すことは出来ない。言ってること、分かるわよね?」
先輩はまた頷いた。
委員長は最初からこれを狙っていたらしい。
しりとりで人を襲い、凶器も残らない意味不明な力を封じ、二度としりとりをさせないようにするためには、案外この方法が1番平和的だったのかもしれない。
二度としりとりをすることが出来なくなっても、それは大した問題じゃないし、もう誰一人傷つかないのだから。
「はぁ、流石に疲れたから、先に帰らせて貰うわ」
「送ってかなくて大丈夫か?」
「傷害事件の犯人はここに居ることだし、1人でも大丈夫よ。その人のことは任せるわね」
そう言って、委員長は立ち上がった。
出口に向かって歩く後ろ姿が、とても頼もしく思える。
「またな委員長。ありがとな」
「別に良いわよ。また明日ね、橘くん」
委員長は振り返ることなく、扉を開いた。
だが――。
「ん? どうした?」
突然、彼女はその場で足を止め、廊下に顔を向けたままピクリとも動かなくなった。
そして。
「硫酸硫酸硫酸」
委員長はそう言うと、鎖から解き放たれたかのように動き出し、一度もこちらを振り返ることなく去って行った。
しりとりで悪さをすると現れる妖怪、尻取り。
この世の中に妖怪なんて居ないと、僕は子供の頃から知っている。
だけど、今日からその認識を改める必要がありそうだ。
少なくとも、しりとりで悪さはしないと心に誓った。