91.追想
長い戦いの果て。
黒髪の少女が、その場で倒れこむ。そのまま、深い眠りに落ちた。
その脇には、壮年の男が一人。不思議な光を帯びている。彼もまた、意識を手放している。
そして、この森の広場には、もう一人の少女がいた。黒髪の少女の親友で、可愛らしい栗色のくせ毛。しかし、それも、今は乱されていた。額には、微かながら、その男性と同じような光がある。
そして、たった一人、そこに立っていた。
彼女はその時、記憶を失っていた。
一体なぜ、自分はここにいるのか。
なぜ、目の前で人が二人も倒れているのか……?
何も分からなくて、怖くなった。
ちょうどその時。
この広場に、偶然に通りかかった人物がいた。
銀色の瞳が特徴的な少年。
この少女たちと、同い年といったところか。
大人びてはいるが、どこかに幼さのある少年である。
彼は、まず倒れている二人に目を止めた。
「これは……何があったんだ?」
予想外の光景に、そう口にすることしか出来ない。
しばらくして、彼は瞑目し、意識を集中させる。
少年のもとに、微かな光が集まる。
……あぁ、魔力反応が忘却魔法っぽいな……
……ということは、ここに居るのは魔法使い……?
そう思った時、ふと、黒髪の少女に見覚えがあることに気づく。
「……っ! 魔女集会の、時の……」
確か、竜山さん、といったっけ。下の名前は……奈波、だったか。
ますます、何があったか、見当がつかない。
少年は、一度周りを見渡す。
それから、彼女の体の、その中でも特に傷の多い左の手の平に、自分の手をかざす。そして、彼の意識を集中させる。
まばゆい、暖かな白い光が、彼の手の周りに集まって来る。
その光の収束と共に、彼女の傷は、跡形も無くなっていた。
他の所についていた傷も。
ついでに、とばかり、その隣の男性にも同じ操作をした。
この少年は、白魔法に長けていた。
よく見れば、その人の忘却魔法が完成していない、ということも分かったのだ。
完成した忘却魔法は、後戻りが出来ない。
しかし未完成ならば、彼の魔法でもとに戻すことは出来なくもない。
今の彼の状態なら、放っておいても記憶はまた戻るはず。
それにはどれほどかかるか分からないが。
そう思って、さっきのように、外傷だけを治した。
栗色の髪の少女は、この様子をじっと見ていた。
なぜだろうか、この少年を一目見たときから、頭痛がするのだ。
それは、彼の手から発せられる光を見るたびに、激しくなっていく。
さらに、耳鳴りは、頭の中で大きな鐘が気違いのように鳴っているようなのだ。
そのまま、彼女もまた、痛みに堪えられずに、意識が遠のいていった。
そこで、少年は彼女に気づいた。
彼女にも、軽く忘却魔法が掛けられている。
巻き添えをくらった、というところか。
彼女に近づき、顔を見るが早いか、ハッと気づいた。
それは、さっき奈波を見たときより、はるかに大きな驚きであった。
息を呑んだまま、何の声も出ない。
見間違えようもない。
少年の幼馴染み。
小さい頃の事故以来、疎遠になってしまった少女。
黒魔法に長けていた、可愛らしい少女。
この時、忘却魔法が未完成なのが救いだ、と強く感じた。
疎遠にはなってしまったが、彼女には、魔法使いとして活躍してほしかった。
だから、魔法のことを忘れてほしくはなかったのだ。
――それに、僕と過ごした日々も――
そう考えて、ふと、あの"事故"を思い出す。
彼女が少年に放った魔法の強さ。あの時、彼はその少女に対し、恐れを抱いた。
いや、「畏れ」といったほうが近いものだったのだ。
誰よりも自分に優しく接してくれて、誰よりも魔法の訓練に精を出して頑張る少女。
でも、魔法では絶対に負けないと思っていた。
その彼女の魔法に、もう少しでやられそうになった。
舐めてかかってはいられない、という思いは、いつしか尊敬へと変わっていったのだった。
しかし、彼女は、あの日から罪悪感を抱いていたらしい。
少年は引っ越してから、彼女が塞ぎこんでいて魔法の練習もしていないのだ、という話を母から聞いた。
恐らく、彼女の母から伝わってきたのだろう。
――もし、彼女があの時のことを覚えているならば……むしろ、僕との思い出は忘れた方がいい。
前を向いて、歩いてほしいから。
なら、そのままにする?
いや、その後で積み重ねた日々もあるはずだ。絶対に。
尤も、彼の魔法がなくとも、彼女の記憶は回復するだろう。
だが、それでも――
彼は、彼女の額に手を置いて、さっき以上に意識を集中させた。
彼女が帯びていた不思議な光は、初めから無かったように消えた。
それと同時に。
彼女の体が透き通り始める。
これには、彼はまたも驚愕せねばならなかった。
「……生命力まで使ったのか……ルルーらしいな。そんな無茶をするなんて……」
彼が、別の魔法を構築し始めた。
回復魔法というものに近いものだ。
万感を込めて。
こうして、三人は何事もなかったかのように、荒れに荒れた広場の中で、穏やかに眠っている。
さぁ、最後に一息。
少年は、転移魔法の詠唱を始める。
夕方、もうほぼ夜と言ってもよいような暗闇の中、まるで昼間のような光が、彼らを包んでいく。
転移が完了したとき、広場には彼だけが取り残された。
誰もいない森のなか。
そこで少年は、初めて、遠くの瓦礫の山を見た。
いや、瓦礫だけではない。
近寄ってみれば、魔導書であった。
中には、見覚えのあるものも。
すると――、それらは、ひとりでに、動き始める。
風はない。
しかし、ページが勝手にめくられる。
それは、それら自身が意志を持っているように、動きたいのに動けなくてもどかしいというようにさえ、思わせる動きだった。
やがて。
その一つが、空高く、飛び上がる。
そしてもうひとつ、またひとつ……
空に羽ばたく鳥のように、それらの本が、自由に舞っていた。
そこで、少年はひとつの言葉を思い出す。
――しかし、魔法使いは、村を出てから広い世界に広がっていきました。魔法の教科書、つまり「魔導書」は、魔法使いに運ばれたり、自身の魔法で空を飛んだりして、これも広がっていきました。そういうわけで、いまも、魔法は世界中に存在しているのだといいます。――
昔読んだ、魔法使いの伝説の一節であった。




