89.無我
目の前の視界が、急に開ける。
それが竜の消滅によるものだと気づくのに、時間がかかってしまう。
「いけ……た?」
そのことに気づくと共に、この言葉が口から出る。
言葉を発すると言うより、言葉がひとりでにこぼれ落ちるように。
「やった……勝ったんだ!」
ルルーは、叫ばんばかりに喜んだ。それにつられて、私の心に喜びが満ち始める。
一気に体が疲れを忘れる。それどころか、勝手に動き出すばかりに軽くなる。
勝手に動いた腕は、横にいる、一緒に戦って一緒に勝ち取った仲間に、ハイタッチを求めていた。
「いぇーい!」
彼女もそれに答えて、両腕を上げた。
近づく二人の両手の平。
このあと、快い音が鳴るはずだった。
しかし。
何の音も聞こえてこない。
それどころか、私の手は何も感じないのだ。
「……あー……もう、こうなっちゃったか」
ルルーの声。
ようやく、自分の目が、眼前の光景を捉えた。
「……ぁ……」
口から、何の言葉も出てこない。
ただ、固まってしまって、そこから少しも動けないのだ。頭も、石のように動きを失う。
一体、どれだけの時間を要しただろうか。ようやく、全てを思い出した。
ようやく、目が動き始めた。
ルルーの腕は透き通っていた。
幻のようだった。
そして、私の手は、それをすり抜けていた。
触れられなかった。
それほどまで、彼女は自身をこの戦になげうっていたのだ。
それに気づいたとたん、私は悲しくなった。
私は、何て馬鹿なのだろうか。
どうしてこんなに愚かなのだろうか。
何で、こんな大切なことを忘れていたのか。
確かに私は、彼が許せなかったし、勝ちたかった。
でも、大切な人を失ってまで、彼に勝つ必要など無かったのに。まして、彼の分身になど。
「……まー、私は後悔してないよ、さっきも言ったけど」
ルルーが明るい声でそう言うのが、かえって胸を締めた。
いっそ、私を恨んでくれたらよかったのに。
この戦いの元凶の一人で、そのくせ心のどこかでいつもいつもルルーの強さに甘えてばかりいた、卑怯な私を――
「これは、黒魔術師の仕事だからね」
そう、また彼女は言葉を繋いだ。
彼女の「覚悟」は、残酷だ。
彼女の「使命」は、悲壮だ。
そう、初めて感じた。
なぜ、今になって初めて思うの?
そんなとき。
「ふふ……もしかしたら、その仕事……とやらを果たせぬまま……自分の身だけ滅ぼして終わるかもしれないね」
徹だった。
もはや、彼の存在をも忘れていた。
彼は、そのまま逃げるらしい。手には、魔法のホウキが握られていた。
もはや、体に闘気を纏っていない。
がくがくと震える足でなんとか立っているが、魔力さえあれば、ホウキに乗るのに支障はない。
「だめっ!」
ルルーはそう言い。
魔法の詠唱を始めようとした。
「! ちょっと、ルルー……!! 何してるの?!」
「ほう……君が、その気なら……いくらでも、相手をするさ」
ルルーが呪文を唱え始めると共に、彼女の向こう側の景色がちらつくのだ。
彼女は構わず、その右手に水を集めていく。
そうして、ピシュ、という音と共に、水の矢が放たれる。
しかし……矢がその手を離れたその瞬間、私の目は彼女を見失ってしまうのだ。
一瞬、血の気が引いていく。
すぐまた、彼女の姿はそこに戻った。
もはや、危うい状態なのだ。
同時に、徹も光魔法を構築し始めていた。
私は気づく。
ルルーが臨戦体勢をとれば徹が応え、彼が挑発すれば彼女が応える。
それは無限ループなのだ、と。
もう、これ以上、ルルーが生命を削るのを見ていられなかった。
しかし、止めようとすれば、どちらも止めねばならない。
私の思考が以上のような結論にたどり着くより前に、体が動いていた。
私は、気づけば二人の間に立ち塞がっていたのだ。
頭が追い付かなくて、そのままただ突っ立っていたのだが。
もう、終わりにしたかった。この戦いを、私たちのこの互いの憎悪を。
ルルーを、なんとしても止めたかった。元の体に戻したかった。もし、このまま居なくなってしまったら……など、考えられない。自分が、罪悪感の塊になって動けなくなるのが、自明だった。
それで止めるのは、自分本位なのかもしれない。
しかし…………
それに、本当は、徹をも、失いたくなかったのだ。本当は、話をしたかったのだ。しかし、それを不可能にしているのが、彼の歪んだ心。
その原因は……彼の、類い稀なる魔法の才能?
その時、一つの考えが浮かんだ。そして、それに自分自身がぎょっとした。
忘却魔法。
魔力の発現をなかったことにし、その記憶もろとも消し去る魔法。
――いや、何考えてるの? 彼の記憶が無くなったら、何の話もできないでしょ?!
だが。
彼のためにも、全てが振り出しに戻ればいいのだ。
――なんという、自分勝手な論理だろう。本当は、ただ戦いを恐れているだけなのかもしれない。
そして、本当の私は、理性がこうして思案するのを遠巻きに見ていた。
気づいたときには、忘却の呪文を、高らかに唱えていたのである。




