2.覚醒
一人で、校門を出る。
もう、あの絵本は、見たくもない。それを読んでいる母の声も、聴きたくない。それ以外の時は、母のことは別に嫌いじゃないけれども。
むしゃくしゃした気分で歩いていると、気づけば、見たこともない建物の前に来ていた。古い建物。いかめしい、という形容が、よく合う。その厳粛さが、周りの空気をピシリと引き締めているような。石造りで、ツタのような植物が、さらにいい雰囲気を出している。誰かの家にしては、大きい。城にしては、小さい。ぼろぼろだけど、なんだかカッコいいのだ。惹きつけられ、門をくぐった。
長い石畳の道をぬけ、表札にたどりついた。
うっすらと、「図書館」の文字が見え、その横に、ラッカーで乱暴に「閉館」「撤廃予定」と記されている。
引き寄せられるままに、中に入った。
それが、すべての始まりだったとは、思いもよらずに……
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中は、これまた荘厳だった。上を見上げても最上部がよく見えないほどの大きな本棚に、らせんのように、書物がぎっしりと詰まっている。
カウンターらしきものは、見えない。それどころか、私以外の人間は、見受けられない。人間以外でいえば、時折、ネズミのような声が聞こえたくらいだ。
窓はクリアじゃない。そうでなくとも、ツタが巻き付いている。だから、館内は薄暗い。しかし、一部、上の方の窓が割れているらしい。ほこりっぽいのもあり、そこに光の筋がうまれていた。その光は、一冊の分厚い本を照らす。
まるで、私をそこに誘い出すかのように。
らせん階段を駆け上がり、その本のところに来た。運動不足の私にはきつい。心臓が、いきなり走った私を咎めるように、高鳴っている。いや、ほかにも理由はあるだろうが。
柔らかく、しかししっかりと照らされている、分厚い本を手に取る。
あの絵本と、同じ大きさ。あの絵本と、同じ重さ。そして、あの絵本と、文字の詰まり具合が一緒だ。
しかし、よく見ると、書かれている文字は、日本語ではない。
英語ではない。アルファベットでさえないから、ゲルマン語派ではないだろう。
かといって、キリル文字にも見えない。スラブ系ではない。
漢字でもないし、ハングルでもない。また、アラビア語でもなさそうだ。
私は言語学など知らないから、傾向を分析して読み解く、とかそういうことは不可能だ。本棚に戻そうとする。が、ここで、一つの考えが浮かんだ。
あの絵本とすり替えれば、母もきっと読めないだろう。もう、読み聞かせされることも、なくなるかもしれない。そう思って、 ”借りパク” を実行したのである。
そおっと、カバンにその本をいれ、らせん階段を駆け下りる。ドアから出た時、何か目の前が光ったように感じたが、気のせいだろう。
全然知らない場所かと思ったが、見知った風景が広がっていた。後ろを振り返ると、そこに、あの建物はなかった。不思議に思いつつも、無事家に着いた。カバンには、しっかりと、分厚い本がある。
書斎に入る。あの絵本を取り出し、カバンの本を代わりに入れた。なんだか似通った、二つの本を見比べながら、まさかと思って、絵本を開いてみた。
次の瞬間、息をのむ。毎晩聞かされていた、あの声は確かに日本語だったのに。
絵本の文字は、日本語ではなかった。英語でもない。キリル文字でも、漢字でもハングルでも、アラビア文字でもない!!
いやもしかすると、日本語かもしれない?母が読めるのだから、きっと私にも読める。頑張れば、読み解けるのかな。
無意識のうちに、自分の指を、文章の上に当てていた。
当てるや否や。
「――っ?!」
本から発せられる、白とも黄色とも言えぬ、強い、強い光。目を覆おうとするが、それより先に、耳の奥でひどい耳鳴りがし始めた。お寺のお鐘を、頭の中で気狂いのようにガンガンと打ち鳴らしているよう。
気を失う直前に、母が入ってきた。
母が、何かを理解したような冷静さで、でも上ずった声で、何かをつぶやく。
すると、耳鳴りが遠く、遠くなっていき、光が弱くなっていった。
目を開けると、目の前に、小さな本棚がある。後ろを振り向けば、母がいる。二冊の本が床に散らばっている。その一つが、開かれていて、私の指を乗せている。指の乗っているところが、光っている。しかし、さっきのように、強い、鋭い光ではない。
柔らかな、白い光が発せられ、そこに、ホログラフのように、黒い文字が空中に浮かんでいる。
それは、正真正銘、日本語であった。