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コネクト・クエスト  作者: ノリト ネギ
デフィアーク共和国の業
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第四十八章 赤い髪の女

 体に染み付いた潮の香りを堪能しながら歩く。

 踏みしめる道の白さもなつかしい。

 耳に届く潮騒も心地よい。

 ネッテはうれしそうに歩みを進める。

 左手には大きな手が握られており、歩く度に大きく揺れる。

 後少しで最高地点に辿り着く太陽に照らされながら、二人は我が家を目指す。

 ここはサラミア港。イリックとネッテの故郷であり、平和な田舎の港町だ。

 整備された道などない。踏み固められた白い砂が地面であり、歩く場所だ。

 建物は比較的小さい。巨大な建築物はギルド会館と町長官邸くらいだ。次いで各種ギルドの拠点や宿屋が競い合う。

 実家はたいして広くはない住宅密集地帯にあるため、二人は手を繋いでそこを目指す。アイール砂丘へ続く出入り口近くがそこに該当する。


「今日はゆっくりできるね~」

「うん」


 ネッテは空を仰ぐように隣のアジールを見上げる。身長差は実に三十センチ。並ぶと必然的にそうなってしまう。

 二人はサラミア港で留守番の最中だ。

 イリックは第五陸軍から依頼を受け、彼らと行動を共にする。

 ロニアはリンダから様々な知恵を吸収しており、当面は帰ってこない。

 少なくともそう聞いており、二人はまだ帰ってこない。

 ゆえにネッテとアジールは二人だけで生活している。もちろん、実家でただ遊んでいるわけではない。

 随分と空けていた家の掃除。

 サラミア港のギルド会館で発行されているクエスト。

 この二つを連日こなしている。

 アイール砂丘はカルック坑道に生息するアーリマンの影響をあまり受けていないが、それでも多少のモンスター増加が確認されている。騒ぎ立てる程ではなく、しかし、それに伴いクエストがじわりと増える。

 アイール砂丘のサンドスコーピオン討伐。

 アイール砂丘の砂ウサギの討伐。

 テホト村ないしワシーキ村への商人護衛もしくは物資の輸送。

 サラミア港に常駐する冒険者は多くない。イリックが日々の見回りで、周囲に生息するモンスターを根絶やしにし続けたからだ。

 しかし、イリックはもうここにはいない。それに伴い徐々にクエストは増え始めるが、それを嗅ぎつける冒険者は少なく、何よりそれでも三大大国の方が圧倒的に稼げてしまう。

 ここに根を下ろす冒険者は急に忙しくなる。イリックが去ったことと、じわりとモンスターが増え始めたせいだ。

 もちろん、うれしい悲鳴であり、彼らは全力で日々を駆け回る。

 そこにネッテとアジールも加わり、アイール砂丘とサラミア港は平和を維持できている。

 テレポートがないため、二人は遠出をできない。もちろんしてもいいのだが、イリック達がいつ帰ってくるか聞かされていないため、日帰りのクエストを選んで達成し続ける。

 稼ぎはあまりよろしくない。一日の収入は八百から千ゴールドを行ったり来たり。

 モンスター討伐という命がけの仕事でこれは決して多くない。平均的な世帯を少し下回る程度であり、生活はできてしまうが夢のない金額に変わりない。

 それでも構わない。大金を手に入れたいがためにしているわけではない。旦那の帰りを待つ間の、副業のようなものなのだから。

 二人にとってここでのクエストは、難易度的にも金額的にももはやぬるま湯過ぎる。

 そして今日は休みとした。

 ネッテは台所周りを整理したいと考えている。

 アジールは自室のレイアウトを変更するつもりだ。

 宿屋生活が長かったせいか、ネッテは我が家にしっくりきていない。改善したい箇所をあちこちに見つけてしまう。何より今は四人。料理の手間は今までの倍だ。そういったことを踏まえて、今日という休日を有効に使おうと考えている。


「わがーやー」


 黒茶色の自宅に辿り着く。ネッテは当然ながら、アジールもすっかり慣れている。今では第二の実家として、完全にくつろいでみせる。


「ただいま。そうだ、武器の手入れしてあげる」

「ありがとー。私はご飯作るね!」


 アジールはネッテの部屋へ、ネッテは台所へ向かう。

 二人だけの生活。最初は感じた違和感も今では払拭できている。それでも二人は待ちわびる。

 イリックの帰りを。

 ロニアの帰還を。

 四人が当たり前だったのだ。やはりどこか寂しい。


 そんな二人が玄関から中へ入っていく様を、その女は遠くから眺める。

 血のように赤い髪は束ねられることもなく、腰を越えてダランと垂れ下がっている。

 瞳の色も真っ赤に染まり、大きさも相まって非常に映える。

 ネッテよりは幾分高い背丈は、赤い髪と黒いローブのせいでどこか毒々しい。

 誰から見ても明らかだ。この女はサラミア港の住人ではない。見かけたことがない、という理由ではなく、その異質さが和やかな町の風景に溶け込めていない。

 完全な異物。

 自分がそうであることを隠すことなく、その女は一階建ての家を目指す。


(前に見かけた女が二人。ここに住んでるんだ)


 ネッテとアジールには面識がある。ガーウィンス連邦国で会い、会話すら交えている。その時はイリンと名乗り、摩訶不思議な症状を指摘して終わった。

 イリンの豊富な知識を持ってしても知り得ないネッテとアジールの奇妙な呪い。

 どこの呪いなのか、そもそもどんな症状が発症するのか、誰の仕業か、それすらも解明できない。そんな呪い。

 研究対象に成りえる存在が、再び自分の前に姿を現した。

 イリンは喜ぶ。ウーディの一件が終わりを告げ、手持ち無沙汰に襲われていた最中だった。他にもやることはいくらでもあるのだが、それらを急ぐ必要もなく、今は眼前のおもちゃでただただ遊びたい。


(せっかくだから、両方生け捕りにしよう。片方はギリギリまで飢えさせて、もう片方はどうしようかな)


 歩みを進め、辿り着く。眼前には茶色い玄関。開けて中に入ればすぐに済んでしまう。しかし、その前にやることがある。

 獲物を逃がすつもりはなく、そのための手段を講じる。

 女の体から弱々しい風が放たれる。それは副産物でしかなく、一瞬にして町の半分が飲み込まれる。

 人間の意識を刈り取るようなその威圧感が、範囲内の住民達を一斉に卒倒させる。一部の人間は耐えてみせるが、それは不幸でしかなく、死よりも恐ろしい恐怖心を植えつけられる。

 冒険者や軍人の一部は一歩も動けず、歯をカチカチと震わせながら絶望する。

 残りの人間は意識を失い、受身も取れずに倒れこむ。

 これは何だ?

 何が起きた?

 そんな疑問さえ抱けない。

 絶対的な差を見せ付けられるように、抗う気持ちさえ湧いてこない。

 これはそういう力であり、対抗できる人間は決していない。

 そう、本来ならばいない。


「ネッテ!」


 アジールは自室を飛び出す。左手には自身の武器、ブロードソードを握り、右手にはネッテの部屋から拝借したウェストポーチ型のマジックバッグをぶら下げる。

 台所を目指す。突如発生したこの重圧が何を意味するのかはわからない。それでもこれがどういったものなのかは経験済みだ。

 北の地を統べていたモンスター、フブキと同質の波動だ。

 正確には、ゴブリンだった体に宿る三つ目の人格、ネルの放つ異質な何かだ。

 モンスター特有の魔力でもなければ、煉獄のそれでもない。全く別の威圧感をネルはまとっていた。

 サラミア港を半分も包み込んだこの圧力はまさに同質のものであり、アジールは急いでネッテとの合流を目指す。

 あの時は動くことさえできなかったが今は違う。イリックとコネクトで繋がったため、対抗できるようになっていた。

 ゆえに、鍵のかかったドアを燃やして家に侵入したイリンは目を疑う。アジールが当たり前のように動いている。その上、こうして目が会ってしまった。


「なんで」


 想定外の状況にイリンは赤い目を大きく見開く。

 一方、アジールは敵の姿を確認しつつも、急ぎ台所へ消えていく。相手は人間、もしくは人間の姿をしたモンスター。状況把握はそれで十分であり、戦うか逃げるかはネッテと合流してから考えればいいと判断する。


「これって!?」

「わからない。だけど、すぐそこまで追ってる」


 呆然とするネッテにウェストポーチを手渡し、アジールはブロードソードを背負う。鞘からは抜かない。ここで戦うには狭いからだ。迎え撃つにしても、一旦外へ出なければ話にならない。

 そして現われる。わずかな足音をたてながら、赤い髪のイリンが廊下から姿を披露する。


「なんで動けてるの? 意識を保ててるの?」

「くっ!」


 冷徹な声と共に、今なお人間を蹂躙する威圧感は継続して放たれ続けている。アジールはネッテの前に腕を伸ばし、庇うように後退する。

 そして気づかされる。この女とは雷の図書館で出会ったことを。そこの職員であり、自分達の呪いについて指摘した唯一の人間だと。


「勝手にあがらないで!」


 ネッテはオレンジ色のウェストポーチを握り締めながら、大きな声で訴える。眼前の女が何者かは全くわからない。しかし、危険な相手だと本能で察しており、警戒心を顕わにする。


「ますます不思議。どっちも捕まえたい」


 その発言で二人は理解する。狙われているのは自分達であり、赤い髪の女はそれを達成できるだけの実力を備えていると。


「でも、抵抗されると難しいのかな。大人しく降参して」

「やだ!」


 イリンが何を言っているのかはわからない。それでもネッテは抵抗する。そもそも掴まる気などないのだから、当然の決意表明だ。


「だったら、動けなくなるまで痛めつけてあげる。あ、もし死んじゃっても、死体は有効活用してあげる」


 表情一つ変えずにイリンに言ってのける。

 二人は心底恐怖しながらも、闘志だけは減退させない。放たれている重圧は人間を完全に屈服させるが、ネッテとアジールの心を折るには至らない。


「こっち!」


 ネッテがアジールの手を引いて駆ける。居間を経由してそのまま玄関から脱出するつもりだ。

 直後、目の当たりにする。玄関とその周辺が真っ赤に燃えている。イリンがドアを燃やして不法侵入したため、その火が燃え移っていた。


「そんな……」


 ネッテの心が大きく揺らぐ。

 大事な家が燃えている。

 兄と自分の家が焼かれている。

 両親の思い出が詰まった我が家が失われようとしている。

 火の勢いは凄まじく、今から消火活動に徹すれば間に合うかもしれないが、それをするには大きな障害が存在する。

 イリン。この人間が原因で、周囲の人間は動くことはおろか意識を保つことすら難しい。唯一活動可能なネッテとアジールも、今は狙われている。

 逃げるか戦うか。その二択は一つに絞られる。

 倒して火を消す。

 呆然としながらも、ネッテはその意思を固めていく。同時に普段は眠っている感情を叩き起こす。漆黒の悪意を宿す黒い感情で、自身の意識を塗り替えていく。

 人間だから。

 大人の女性だから。

 傷つけようとは思わなかった。しかし、今は違う。傷つけ、突き刺し、殺す。

 許してと懇願されようが、もう止めてと泣かれようが関係ない。赤い髪の女を、完膚なきまでに殺す。黒いローブを真っ赤に染めて、動かなくまるまで切り刻む。

 ネッテがふつふつと怒りに身を委ねる中、アジールは居間の窓を凝視する。火を突破して逃げることも自分達なら可能だ。冒険者の体はその程度の炎に晒されようとも、せいぜい軽い火傷で済む。

 しかし、窓という選択肢があるのだからそれを使わない理由もなく、今度はアジールがネッテを引っ張りながら窓を開く。


「先にネッテから」


 ネッテからの返答はない。倒すべき相手を倒すために、ネッテは表情を失いながら力を内側から引き出している。アジールの声も騒音程度にしか届いていない。

 アジールはネッテの変化に気づきつつも、冷静に言葉をかける。


「ここで戦うとおうちが壊れちゃう。せめて外に行こう」

「うん……」


 家を守るために戦うのだからそれは当然であり、ネッテは殺意の中にもわずかに理性を取り戻す。


「逃がさない」

「逃げない」


 二人を追いながらイリンは殺意を向ける。

 アジールはそれを正面から受けつつ、はっきりと言い放つ。


「そういえばあなたも魔眼持ちね。うん、あなたはその目だけでも持ち帰ろうかな」


 イリンの発言を最後まで聞かず、アジールはネッテの後を追うように窓から外に飛び出す。

 当然イリンは逃がすつもりなどなく、壁の向こうにいる二人を追うため、それを阻む黒茶色の壁にそっと手を触れる。

 途端にそこは溶けるように焼け落ち、イリンが通れるだけの穴が出来上がる。

 ネッテは目を見開く。家の壁に穴を開けられただけならまだしも、その穴周辺は炎を宿したままとなっており、勢いを失わずに燃え広がっていく。


「あら、逃げないの? 手間が省けて助かる」


 赤い長髪を揺らしながら、イリンは白い砂の道を踏みしめる。

 住宅街と言えども、家と家の間隔はいくらか離れており、ネッテとアジールは武器を構えながら戦場をここに選ぶ。


「何でこんなことするの?」


 アジールの疑問は当然だ。雷の図書館で言葉を交わした職員が、自分達を捕まえようとしている。生死を問わないと公言しており、もはや正気の沙汰とは思えない。

 相手がモンスターなら全力で戦える。しかし、相手は人間。戸惑わずにはいられない。


「あなた達の呪い、調べてあげる」


 イリンの動機はそれだけだ。調べるといってもそれは二人のためではない。自分が知りたいだけ。そのためならネッテとアジールが死んでも構わない。抵抗する以上、片方は殺してしまうだろうと覚悟している。


「そういえば、他にも仲間がいなかった? 胸の大きなバカそうな女と……、男がいたような」


 その発言がネッテの感情を刺激する。既に頭の中は殺意で塗りつぶされており、本能の赴くまま、体のやりたいように行動を開始する。

 南から吹く潮風よりも速く、イリンとの距離を詰める。

 そのまま命を奪うつもりだった。そうするための接近だった。ネッテは油断していたわけではない。相手は魔法を使う人間。ゆえに、これに反応されるとは思っていなかった。ただそれだけだ。

 イリンは赤い目を見開きながらも、ネッテよりも先に右手を前に突き出す。その瞬発力に小さく驚きながらも、やるべきことをやるためにぐっと腕をネッテに向ける。

 ネッテから繰り出される攻撃を防ぐためではない。

 ネッテの首を掴み、そのままへし折るつもりだ。

 ネッテはその対応の早さに臆することなく行動を変化させる。上半身にエイビスを突き刺すつもりでいたが、突き出された右手が目障りだ。ゆえに、先ずはその部位を切り裂く。

 イリンの左側面へ進路を変えつつ、すれ違いざまに短剣の刃を右腕に走らせる。

 その先は燃える我が家であり、ネッテはまだ残っている外壁に飛び乗り、体を横に傾けたまま走り抜ける。

 手応えはあった。だからと言って満足はせず、ネッテは地面に着地すると同時にイリンへ向き合う。

 一瞬の攻防にアジールもまた驚かされる。ネッテの即断即決の動きには一切迷いがなく、相手が人間であろうと殺す気概で溢れている。

 なにより、その動きに反応してみせたイリンはもはやただの職員ではない。

 アジールのはさらに目を疑う。手のひらから肘付近まで切り裂かれたにも関わらず、イリンの表情が一切変わらないからだ。負った傷をちらりと確認し、それでもなお平然としている。普通ならこれで勝負有りだ。人間は痛がりなのだから、泣き叫んで戦意を失ってもおかしくはない。例外はアジールのような魔眼持ちであり、痛覚を遮断していなければ成しえない芸当だ。

 唯一の救いは、イリンから放たれていた殺気とは異なる圧倒的な重圧が、今の攻防により消え去ったことだろうか。人間に対して格の違いを感じさせる何かは消え去り、サラミア港は本来の牧歌的な雰囲気を取り戻す。


「人間にしては機敏な動き。思わずシンイを解除しちゃった」

(シンイ?)


 アジールはその単語を耳にしたことがない。意味がわからず、反芻してしまう。

 イリンは正面に立つアジールと右方向のネッテを交互に眺める。

 アジールは鎧を着込む暇などなく、ノースリーブニットのままブロードソードを構える。

 ネッテも普段着のままだが、腰のウェストポーチに必要なものは一通り収納されている。今はエイビスを構え、敵意をむき出しにしてイリンを睨む。

 バチバチと木材の燃える音だけが周囲に響く。やがて鈍い音や何かが倒れる音が聞こえ出す。部分的だが家が崩れ始めた証拠だ。


「とりあえず」


 イリンの発言と同時に、ネッテは自身の体に違和感を覚える。何もしていない。何もされていないにも関わらず、体が傾き始める。それだけなら構わない、体勢を立て直せばいいのだから。

 次の瞬間、一切抗うこともできず、見えない糸を体に巻かれいっきに引っ張られるように、アジールへ引き寄せられる。

 状況を飲み込めない上に突然過ぎたため、ネッテは成す術なくアジールと衝突する。


「う!?」

「え?」


 二人はそのまま倒れこむ。その衝突は傷を負うほどではないにしろ、驚くには十分だ。

 ネッテは混乱しながらも、イリンに視線を向けなおす。

 アジールは痛覚遮断のために何ともなく、不思議そうにネッテを眺める。

 何が起きたのかわからない。ゆえにネッテは考えない。

 押された?

 引っ張られた?

 吹き飛ばされた?

 わからない。わからないが、行き先がアジールだったことで被害はなかった。今はそれで十分だと捉える。


「これで捕まえ易い。シンイは……、もういいか。効果ないみたいだし。ねえ、教えて? なんで耐えられるの?」

「何を……言ってる?」


 イリンの問いかけにアジールは答えられない。それもそうだろう。何を言っているのか理解できないのだから。答えようがない。シンプルだが当然のことだ。


「訊いてるのはこっち。なんで動けるの? 気絶してもおかしくないのに」


 イリンの発言にアジールは耳を傾ける。何か重大なことを話している。そう思えて仕方ない。

 ネッテは鼻息荒くじっとイリンを睨む。本当は今すぐにでも飛びかかりたいのだが、何をされたのかわからない以上、軽はずみな行動は危険だと本能で察知する。

 イリンは本来、口数の少ない女性だ。しかし、今回は異なる。眼前の二人はイリンにすら想定外な存在だ。

 イリンの言う通り、先ほどまで撒き散らしていた威圧感は人間の意識を根っこの部分から刈り取ってしまう。人間の威厳や尊厳すらも奪いかねない毒であり、範囲内にいた町民達は意識を失うか身動きが取れなくなった。

 抗う術などない。人間である以上それは絶対であり、イリン自身もそのことは誰よりも理解している。

 しかし、ネッテとアジールには当てはまらない。ゆえに、不思議で仕方ない。本人達の口から教えてもらいたい。


「気持ち悪い殺気みたいなことを言ってる?」

「あなた達にとってはその程度なのね。ますますおもしろい」


 イリンが放っていたシンイは殺気などではない。それよりも高貴で、絶対的な力だ。

 蝶はドラゴンに勝てない。

 体の大きさが異なるから。否。

 強さがかけ離れているから。否。

 ただの虫と最強のモンスターだから。シンイはこれに当てはまる。

 そう。人間には抗えない。だからこそイリンはサラミア港の半分以上を巻き込みながらも二人を捕まえるためにそれを使った。

 捕まえる前に。

 殺す前に。

 聞いておきたい。

 教えて欲しい。

 それが叶わないのなら、自力で研究する。運良く、目の前には研究対象がいる。いかようにも実験ができる。

 死なないようにじっくりと時間をかけてもいい。

 死んだとしても肉体は残るのだから、それを詳細に調べればいい。

 想像するだけで、退屈な時間が塗り替えられていく。


「ふふ」


 イリンが目を伏せ小さく笑う。そんな些細な行動すらもどこか奇妙に映るが、アジールとネッテはほぼ同時に気づく。切り裂いた右腕の出血が完全に止まっている。裂傷具合は自分達の立ち位置からはうかがえないが、骨に至るほど深く切り裂かれた以上、流血は決して止まらないはずだ。しかし、赤く染まる指先からは、血液が滴り落ちない。


「ああ、これ? 便利な体でしょ。研究の成果」


 イリンが右腕をくまなく二人に披露する。傷は既に見当たらない。指を筆頭にあちこちはまだ赤いが、それは単なる流れ終えた血液に過ぎない。


「あなた、人間?」

「失礼な言い方。当然でしょ」


 アジールの抱く疑問は至極当然だ。イリンは回復魔法など唱えていない。にも関わらず、軽症と呼ぶには深すぎる傷が癒えている。痛がりもしなかった。

 煉獄の力を操るフブキと同質の重圧を周囲に撒き散らす時点で既に人間とは思えない。そしてこの治癒速度。アジールはイリンの返答に耳を貸さず、人間ではないと決め付ける。


「片方だけでも生きたまま連れていくから。手加減するけど、簡単には死なないでね」


 挑発的な発言がネッテをさらに奮い立たせる。アジールのように会話をするつもりなど毛頭なく、もはや我慢などできない。

 相手が人間であろうと構わない。

 人間のような何かならなおさらどうでもいい。

 やるべきことは一つ。右手の短剣で絶命させる。

 たいした距離ではない。はなから両者は比較的狭い戦場で戦っている。

 ネッテが距離を詰め終える速度はまばたきよりも速く、黒いローブ目掛け銀色の刃を刺しに行く。

 しかし、それすらも叶わない。


「無駄。ビックリするくらい速いけど、工夫がないもの」


 ネッテはイリンの眼前まで迫るも、再びアジールへ引っ張られる。足を地面に伸ばし踏ん張ろうとするも抗えず、結局はアジールに受け止められてしまう。


(近寄れない?)


 アジールはこの状況に恐怖する。ネッテが何をされているのかはわからない。わかることは一つ。ネッテが自分に引き寄せられてしまう。

 つまり、イリンに近寄れない。それは困る。なぜなら、自分達は接近戦主体の冒険者だ。近寄らなければ相手を倒せない。

 ネッテの武器は二本の短剣。

 アジールの武器は今は片手剣のみ。

 遠距離戦など不可能だ。


(こういう時、イリックならどうする?)


 アジールは考える。

 自分達はこういった状況に何度も遭遇した。

 空を飛ぶモンスター。

 近接攻撃に反撃をしかけるモンスター。

 動きを封じるモンスター。

 周囲に強力な攻撃をしかけるモンスター。

 その都度、打開策を見出してきた。ほとんどがイリックのごり押しだが、裏を返せばそれでなんとかできてしまう。

 例えばアーリマン。

 空を飛ぶモンスターゆえ、斬りかかることができない。では、どうするか?

 ネッテが死角から飛びかった。

 イリックが武器を投擲して撃ち落した。

 ロニアが攻撃魔法で倒した。

 この状況で自分達にも真似られる方法は一つ。武器の投擲だ。アジールはそっと口を開く。


「もう一本の短剣を投げつけて。お兄ちゃんのように」


 アジールは抱きかかえていたネッテをそっと地面に降ろす。

 お兄ちゃんのように。その発言がネッテの黒く染まった感情に光をもたらす。


「うん」


 闇雲に戦ってどうこうできる相手ではない。短時間の攻防で既に思い知らされている。ネッテは我に帰り、イリックのように考えながら戦うことを選択する。

 すっとウェストポーチに左手をつっこむ。イリンから見えないようにもう一本の短剣、ビーニードルを抜き取り、鞘だけを中に落としこむ。


「面倒だから半殺しにしたいのだけど、加減がわからな」


 ドスン。イリンは言い終えるより先に、違和感を覚える。体にわずなな異物の侵入を感じつつも、小さな衝撃が加わったと認識する。錯覚にしては生々しく、そっと黒いローブを見下ろす。

 刃はどんな色なのか、形なのかはわからない。オレンジ色の柄がそこにはあり、そこから先が鳩尾に深々と突き刺さっている。


「いちいち抵抗す」


 それすらも言わせない。元より、これで倒せるとも思っていない。

 ネッテはイリンの左側面から、アジールは右側面へ周り、それぞれの攻撃を繰り出す。

 ネッテのエイビスがイリンの首に切れ込みを作る。

 ワンテンポ遅くアジールもブロードソードを振りぬくが、自身の置かれた状況を理解したイリンが素早く跳ねたため、左腕を肘から両断するだけに終わる。それでも成果は上々だ。

 ネッテの斬撃は浅くない。それを裏付けるように、イリンの首からは噴出すように血が流れ出る。さっと右手で押さえるも、手遅れにしか見えない。

 肘から先を失った左腕からは滝のように血液が流れ落ちる。アジールの足元に転がる残骸が、どちらの勝利かを物語っている。


「私達の勝ち!」


 ネッテは大きな声で宣言する。本来ならば不要な行為だ。イリンは今すぐにでも絶命するのだから。

 それでもそうしたかった。そうでもしなければ腹の虫が収まらない。

 後はイリンが前か後ろに倒れるのを待つだけ。自分達の勝利は揺るがないのだから。

 そのはずだった。


「人間であろうとモンスターのように殺すのね。いいわ、気に入った。絶対に持ち帰る」


 イリンは表情一つ変えずにしゃべりだす。つまり、まだ死なない。

 発言内容はもはや気にならない。倒れないことがただただ恐ろしい。死んでもおかしくない致命傷だ。死なない方がありえない。

 ネッテは再認識する。目の前のこれは人間に化けたモンスターだ。

 アジールは推測する。この女は人間型のモンスターか何かだ。

 次の瞬間、両者は目を疑う。考えを改めようと、その光景は常識の範囲外だからだ。

 アジールの足元に転がっていた左腕が、本来あるべき場所へ独りでに飛んでいく。イリンは首を右腕で押さえたまま、左腕の結合には見向きもせず、ネッテ達を眺める。


「な……」


 アジールの肺から空気が漏れる。人間ではないと認識しようと、そんな芸当を見せられれば驚きもする。

 流血も徐々に落ち着き、ついには左手の指がワキワキと動きだす。


「こんなに負傷したのはいつ以来? 前の戦争? あ、精霊界か」


 イリンは右手を首から離す。傷が塞がったからだ。次いで体に刺さっている短剣を引き抜き、後ろへポイッと投げ捨てる。

 ビーニードルがゴンと白い地面に打ち付けられようと、当然拾いには行けない。眼前の女は隙だらけだが、身体能力はネッテに匹敵するため、自分達の行動に後追いで対応してみせる。隙のあるなしなど関係ない。

 ネッテはイリンの発言内容を全く理解できない。ゆえに考えない。

 アジールはその戯言に耳を貸さない。嘘はついていないのだろうが、こういったことを考えるのはロニアの専売特許であり、帰ってきたら伝えればいいと今はスルーする。

 そして状況は悪化する。イリンにとっても、ネッテやアジールにとってもこのままではまずい。

 シンイから開放されたことで、周囲の町民や軍人、冒険者達が集まりだしてしまう。それもそうだろう、家が一軒燃えている。その上、軍人や冒険者は小さな戦場を嗅ぎつけてしまう。

 ざわざわと大勢の人間が騒ぎ出す。遠巻きに眺めながら、次々と火事や三人に視線を集中させていく。

 町民達は知っている。この家がネッテ達の自宅だと。

 冒険者は困惑する。三人の女性が戦っている。

 軍人は迷う。仲裁すべきなのか、そもそもできるのか。

 冒険者と軍人は気づいている。先ほどの決して抗えない重圧は、この三人の誰かによる仕業だと。


「考えてもわからん。俺が行く」


 その男は黒いヘルムと黒い鎧をまとっており、誰よりも優秀であるがゆえに立ち向かうことを選択する。

 第五陸軍第三部隊の隊長であり、右手のミスリルソードは既に鞘から引き抜かれている。

 少しやせ細った顔とは対照的にヘルムから覗く眼光は鋭い。長身を包み込む鎧からカチャカチャと音を鳴らしながら、自分達に背を向けている赤髪の女に接近する。


「おまえ、ここで何をしている?」


 低い声で威圧的に問いかけるも、黒いローブをまとった女からは何も返って来ない。

 アジールは慌てる。イリンへの接近がいかに危険か知っているからだ。このままでは軍人らしき男が殺される。そう察知し、警告を鳴らす。


「それ以上は危険! 離れて!」

「ほう。こいつが元凶か」


 アジールの叫び声から、隊長は全てを察してみせる。

 町を包み込んだ仰々しい威圧感。

 目の前で燃えている木造の家。

 相対する冒険者風な二人組。

 わかってしまえばシンプルだ。倒してしまえばいい。ゆえに、歩みを止めずに行動を開始する。


「ウォーシャウト」


 隊長から発せられた風圧がイリンを飲み込む。


「ゴッドガード。エレメンタルアーマー。こんなところか」


 矢継ぎ早に三つの戦技を披露し、その男は戦闘の準備を終える。

 先ず、イリンの動きに制約をかける。ウォーシャウトにより、自身との戦闘を強制的に仕向ける。

 周囲の安全が確保できたため、女を倒すために過剰なまでの強化を整える。


 ゴッドガード。盾役が習得できる戦技。物理攻撃を一度だけ無効化する。効果時間は三十秒。再使用時間は十分。一度の戦闘で何度も使える戦技ではないが、その分効果は絶大だ。


 エレメンタルアーマー。盾役が習得できる戦技。魔法への耐性を高める。効果は三十秒間しか継続しないが、裏を返せばその間は幾分タフになれる。再使用時間は四分。


「わずらわしい」


 イリンにとって背後の男は邪魔でしかない。研究対象ではないため、殺しても構わない。振り返り、目障りな虫を焼き払うように、右手を向けて燃えたぎる業火を発射する。

 魔法の威力は魔力に依存する。それだけではない。魔法の規模も魔力によって上下する。この場合、すなわちフレイムの場合、生み出される火の塊の大きさは詠唱者の魔力が高いほど巨大化する。

 イリンが生み出した丸い炎は、イリン自身はおろか獲物である長身の軍人よりも巨大だ。小さな太陽のようであり、アジールや部下達、そして冒険者達はその瞬間に諦める。先ず、一人殺されてしまう、と。

 隊長は迫り来る業火の大きさに見惚れる。何かしてくるとは思っていた。それでも、このようなフレイムを撃たれるとは想定しておらず、ただただ感心してしまう。


「なるほど……な。こういう人間が相手か」


 言葉が先か、剣撃が先か、それは本人にしかわからない。

 太陽は両断され、その隙間には黒い鎧をまとった隊長がミスリルソードを振り下ろして立っている。

 魔法の発射速度は初めから最高速度を実現する。加速などせず、詠唱者から発射された時点から獲物だけを目掛けて瞬時に襲う。

 攻撃魔法の回避は困難だ。それは人間もモンスターも同様であり、不意を突かれればそれは絶対的なものになる。

 この男もそれは同じだ。しかし、他にやりようはある。避けられないのなら払えばいい。

 魔法は剣で斬れる。当然だ。物理的な干渉が不可能なら、そもそも攻撃魔法で物理的な肉体を持つ人間やモンスターに傷を負わせられない。

 ゆえにこの男はやってのける。強化された身体能力と、レアな鉱石であるミスリルから作られた片手剣でフレイムを縦に二分する。

 このような芸当は、この場に居合わせた誰一人として真似できない。

 アジールも不可能だ。

 部下達も驚きを隠せない。

 サラミア港に常駐する冒険者達も目を見開く。

 唯一、ネッテだけは可能かもしれない。それでも、短剣を使っている内は難しいかもしれない。

 裂かれた業火は隊長の背後で小さく爆発する。

 フレイムによる被害は最小限で済む。そう、少なからず、隊長は影響を受ける。


「ふむ……。一発でこれか。代えをよこせ」


 男は右手のミスリルソードを眺め、状況把握を済ます。銀色に輝くミスリル製の刃が、どろどろに溶けて今なお地面にミスリルを垂れ流している。

 遠くから見守る部下達は呆然とする。

 冒険者達は開いた口が塞がらない。

 ミスリルソードが溶けることなどありえない。モンスターの鱗や殻がどれほど硬かろうと、この剣でなら野菜を切るかの如く裂いてみせる。

 普通のフレイムは当然だが、モンスターが吐く炎すら受け止めるこの武器が、今は日光に晒されたチョコレートのように溶けていく。


「隊長! 受け取ってください!」

「おう」


 その掛け声と共に、鞘に収まったミスリルソードが放物線を描いて男の元に届く。不要になった方は足元に捨て、隊長は再び前だけを見据える。

 十秒が過ぎ去る。すなわちイリンはウォーシャウトから開放される。それでもなお、イリンはこの戦いを強制させられる。


「パシファー」


 隊長は一瞬で詠唱を済ませる。元よりそういう魔法であり、ウォーシャウトのような、しかし指向性の高い圧力がイリンだけを飲み込む。


 パシファー。神聖魔法の一つ。すなわち数少ない光属性の魔法であり、効果はウォーシャウトと同質だ。対象は一体であり、そういう意味では異なるが、効果時間は十秒と同じことから、やはり使い勝手は全く同じと言える。盾役だけが習得する魔法であり、これを使える軍人ないし冒険者は、何のリスクも負わずに相手を二十秒間束縛できてしまう。


「ほんと、邪魔ね」


 イリンはこの程度で腹を立てない。ただただ見下すように黒い装備をまとう男を視界に捉える。

 単なる雑魚ではないとは認識できている。最大出力ではないものの、自慢のフレイムを切り払われたのだから。

 それでもこの男は相手にならない。イリンにとって、人間は本来そういう相手だ。

 途端、イリンから神経を捻じ曲げるほどの圧力が放たれる。それは人間をひれ伏すばかりか、正気さえも奪い去ろうとする。

 この場に駆けつけた者達にとって、これは二回目だ。一度目は耐えてみせたが、今回はそうもいかない。磨り減っていた精神がいっきに飲み込まれてしまう。

 町民と冒険者は例外なく全員が気を失う。

 軍人もほとんどが意識を失うが、隊長を筆頭に数人はまたも耐えてみせる。だからといって抗うことはできず、この状況を疑問に思う以上のことはできない。

 隊長は膝から崩れるも、歯を食いしばってイリンを目で追う。もはや興味を失っているのか、既に自分達から背を向けており、赤い髪が腰の下まで垂れ下がっている様子を眺めることしかできない。

 一瞬にして変化した状況が、三人の異常性を際立たせる。

 黒いローブをまとった、髪と目が赤い女、イリン。

 灰色の髪を左耳の後ろで束ねる女の子、ネッテ。

 白いノースリーブニットと黒いミニスカートを身に付けた茶色い髪の冒険者、アジール。

 人間性さえ奪いかねない重圧の中、三人は平然と立っている。


「わかってたけど、驚き」


 イリンはつぶやく。予想はしていたが、やはりネッテとアジールには効果がない。例外などいないはずの能力だと誰よりもわかっているからこそ、誰よりも驚いてしまう。


「これがシンイ?」

「そう。普通こうなる」


 アジールの問いにイリンは眉一つ動かさず言い切る。

 イリンの背後では駆けつけた人間達が動けなくなっている。体が動かないのではない。心が折られてしまったからだ。

 ほとんどが気を失っており、意識を保てている軍人達も戦意は完全に吹き飛ばされている。もはやイリンに立ち向かおうとは思えず、心はゆっくりと死を受け入れ始める。

 身体能力の強さなど関係ない。

 精神がどれほど強靭であろうと意味は成さない。

 人間である以上、これには逆らえない。絶対的な格の違いがそうさせるのだから、生物である以上成す術などない。

 そのはずだった。

 ネッテとアジールは立ち向かう。おめおめと殺されるつもりなどない。実験台に成り下がる気などない。


「あなた、何者?」

「教えない。プロテクト」


 アジールの問いには答えず、イリンは戦闘準備を始める。

 その行動はアジールの頭を真っ白にする。発言通り、イリンがプロテクト特有の青い光に包まれたからだ。

 ここまでの戦いにおいて、ネッテとアジールは一つだけ見抜いていた。

 イリンは後衛攻撃役だ。

 事実、間違いではない。正解だ。正しかった。ところが、この行動によってあっさりと否定される。

 プロテクトは強化魔法だ。すなわち、後衛補助役と後衛回復役だけの特権であり、他の分類に当てはまる人間は決して唱えることができない。

 しかし、イリンの体は青い光に包まれる。詠唱が完了した証拠だ。


「ブレスベール。あぁ、いらないか」


 次いで、イリンは緑色の光をまとう。確かにネッテとアジール相手には不要な魔法だ。

 プロテクトは物理耐性をわずかに上昇させ、ブレスベールは魔法への耐性を高める。前衛と戦うのなら魔法への対策は必要ない。


「グレイスウォール」


 イリンの眼前に一瞬だけ茶色い半透明の壁が現れる。物理的な攻撃を一度だけ肩代わりする強化魔法だ。


「ブレイズ」


 白、黒、赤の三色が入れ替わるようにイリンを包む。冒険者歴の長いアジールですら、この魔法は知らない。習得確率が極めて低い魔法だからだ。


 ブレイズ。後衛補助役が習得できるかなり希少な強化魔法。対象の身体能力を全て上昇させる。腕力、脚力、反射神経、そういった要素をわずかながらも強化できるのだから、己が肉体で戦う存在には最高の援護となる。


「これで」


 準備完了。人間二人を相手にするには過剰な強化だが、シンイが効かない相手とあってはさすがに警戒せざるをえない。


「終わろっか」


 イリンは後衛攻撃役だ。

 それでも、今は前衛のように接近戦を仕掛ける。

 理由は単純だ。攻撃魔法では殺してしまう。先ほどのフレイムですら全力ではない。命中すればミスリルすらも溶かしてみせる。人間なら骨すら残らない。

 イリンはネッテとアジールを生け捕りにしたい。どちらかは遺体でも構わないと諦めているが、理想は両者を連れ帰りたい。

 なぜシンイが効かないのか研究したいから。

 見たこともない呪いの正体を暴きたいから。

 楽しい時間を過ごせそうだから。

 ゆえに、イリンはネッテの首をへし折ろうとする。

 眼前に迫る細い腕。まるで子供のようなそれを、ネッテは寸でのタイミングで避けてみせる。警戒していたがゆえに間に合ったが、もしアジールが狙われていたら間違いなく殺されていた。

 今のアジールは呆然としている。フレイムを使う人間が強化魔法を唱えたからだ。たったそれだけのことだが、冒険者の常識が根底から覆されたのだから、無理もない。

 後衛攻撃役は攻撃魔法と一部の弱体魔法と移動魔法フリッカーしか使えない。これは絶対であり、人間にはどうすることもできない。

 この世界の真理であり、設計図からしてそうなっている。

 これを書き換えることは人間にはできない。

 抜け道などない。

 破ることもできない。

 いや、一人だけいる。イリックだ。

 コネクト。この魔法を使うことで、イリックは後衛回復役でありながら、他の分類の戦技と魔法を扱える。

 ネッテ。前衛攻撃役。アサシンステップとデュアリズム。

 アジール。盾役。ウォーシャウトとインビンシブル。

 ロニア。後衛攻撃役。オムニシエンス。

 そう、イリックなら可能だ。イリックにしかできない。

 イリックがすごいのではなくコネクトという魔法が異常なのだが、眼前のイリンは似たようなことをやってみせた。

 イリックとイリン。

 奇しくも似ている名前。

 アジールはそのことに気づき、両者の関連性を名前以外にも探り始める。何かあるのは間違いない。けれども、思いつかない。自分の頭の悪さに腹が立つ。

 そして我に帰る。

 今はそれどころではない。イリンとネッテが戦っている。

 耐久性を上げつつ腕力と機動力を高めたイリンが、素手でネッテを押し始めている。

 ネッテは短剣で斬りかかるも、時に避けられ、時にグレイスウォールで無効化され、徐々に体の肉を削ぎ落とされていく。

 イリンはネッテを捕まえたい。握ってしまえばそこを破壊できる。四肢を握りつぶす勢いで腕を伸ばし、掴み損ねたとしても肉を切り裂き削るくらいのことはできる。


「痛い!」

「ちょこまかと」


 ネッテの左手首が掴まれかける。何とかイリンの拳から逃げ延びるも、指先はきっちりと肉に届いており、その部分は大きくえぐれてしまう。

 利き腕ではないことが幸いし、ネッテはすぐさまエイビスを右から左に振りぬく。

 イリンは上半身をさっと下げて回避したつもりだが、エイビスの刃はしっかりと喉元を切り裂いてみせる。


(接近戦は本職に分がある? いっそ殺そうかな)


 イリンが方針を変更しようとした矢先に異変は起きる。

 アジールは気づいていながら少しだけ待つことにした。ネッテがイリンの相手をしてくれているがゆえに可能なことであり、タイミングをじっとうかがう。

 イリンは強化魔法で自身をさらに強くした。アジールはそのことでこれ以上悩みはしない。事実そうなのだから今は受け入れる。

 この状況は自分達にとって不利な状況だ。イリンがさらに強くなったのだから。

 しかし、強化魔法には弱点がある。

 アジールはそれを知っており、そこを狙う。

 効果時間。強化魔法は自身ないし味方を強化するのだが、それは効果時間内だけだ。

 プロテクトなら一時間。

 グレイスウォールなら十分。

 ブレイブなら一分。

 もしこの時間が過ぎ去るとどうなるか。当然、その魔法は消え去り、対象の強さは元に戻る。

 その瞬間は冒険者にとって鬼門だ。もしモンスターと戦っている最中に効果が消滅したら、その瞬間に痛手を受けるかもしれない。調子が落ちると同義なのだから。

 それは強化魔法の効果が高ければ高いほど顕著となる。

 腕力が高まり、普段は持てない巨大な岩を持ち上げていたとする。もし腕力を高める強化魔法が途中で消えた場合、その人間は岩に潰されてしまうかもしれない。

 弱体魔法にも言えることだが、強化魔法は効果が切れた瞬間に危険を伴う。ゆえに後衛回復役や後衛補助役は、効果が失われる前に強化魔法をかけなおす。それが可能ならの話だが。

 アジールの狙いはまさにこれだ。

 イリンは強化魔法で自身を強くした。ゆえにそれ前提の戦い方をしている。

 もし、強化魔法がタイムリミットよりも先に消え去ったら、その時は調子を崩すはずだ。

 その仮説を確認するかの如く、アジールは目を青く輝かせる。

 その目は素早く動き回るイリンを捉え、幾重にもかかっている強化魔法を一度に全て消滅させる。

 首を斬られたイリンは、右手でその部位を抑えながら一旦後方へ下がろうとする。それと同時に身体能力が低下したため、川や海で泳ぎ終えた後のように、頭と体に感覚のずれが生じる。

 下がりながらもよろめくイリン。当然、隙だらけだ。

 ネッテは追い越しざまにエイビスで斬りかかる。黒いローブを巻き込み、イリンの右脇腹を深々と切り裂く。

 その切れ味は凄まじく、ローブや皮膚は当然ながら、肋骨やそれに守られている内臓すらも破壊してみせる。

 人間ならこれで終わりだ。動けなくなる。しかし、相手はイリン。原理や仕組みなど全くわからないが、ネッテとアジールは戦いが続くことを予見している。

 そして的中する。


「面倒臭い。さっさと片方殺そう」


 独り言を言い終えて、血だらけのままイリンはネッテに飛びかかる。

 この状況はネッテにとって非常にまずい。強化魔法が消失しようと、傷つくことを恐れずに戦われたらもはや手に負えない。

 ネッテの方が速さだけなら上回っている。だからと言って、大きな開きはない。

 もし斬られながらも反撃された場合、ネッテはイリン同様傷を負う。それはよろしくない。このままではそうなってしまう。

 ゆえに、アジールは次なる行動を開始する。


「ウォーシャウト」


 シンイの威圧を押しのけるように、アジールのウォーシャウトがイリンに覆いかぶさる。

 こうなってしまってはイリンはどうすることもできない。眼前のネッテに手出しできず、ただただ睨むことしかできない。

 振り返りアジールへ向かえばいいのだが、それはできない。そうさせてはもらえない。

 ネッテはあらん限り斬りつける。

 自ら近づいてきてくれたのだ。そして何もしないのだから、それは的以外の何者でもなく、ネッテは黒いローブを切り裂くように、自分より少しだけ背の高い人間のような化け物を全力で細切れにする。

 腕は千切りに。

 体は乱切りに。

 首から上はぶつ切りに。

 切れ味の落ちないエイビスと、耐性と実力のあるネッテだからこそできてしまう。

 イリンは立ったまま料理される。地面に零れ落ちる肉片と、滴り落ちる血液が絶対的な死を告げている。

 まともな部位は両足くらいであり、そこから上はパズルピースのようにバラバラだ。原型を留めている足も、自力での直立を維持できず、右足は右へ、左足は左へ倒れる。

 シンイは解除される。サラミア港は再び元の空気へ戻ろうとするが、イリンの死体がある限り、それは難しい。

 アジールはネッテの鮮やかな手つきに見惚れるも、倒壊する音に引っ張られて視線をずらす。

 自分達が帰る場所は今なお轟々と燃えており、傾斜の低い屋根からは黒い煙がモクモクと舞い上がる。居間を取り巻く壁に至ってはほとんどが燃え尽きている。イリンのフレイムは材木を燃やさずに溶かす。それほど強力だったことから、燃え広がる速度も凄まじい。何より火元は玄関と居間の二箇所であり、狭くもないが広くもない木造の家は瞬く間に炎で埋め尽くされる。

 鼻呼吸を阻害するほどの焦げ臭い匂い。

 バチバチと火が暴れる音。

 壁や柱が倒れる悲鳴。

 これらが勝利の余韻を打ち消してしまう。


「やるじゃない。シンイじゃなくてカムウタにしとけばよかった」


 その声は酷く冷たい。

 ネッテは驚きのあまり、キャッとらしくない声をあげて離脱する。

 アジールは愕然とする。

 身動きが取れるようになった軍人達は、その声に恐怖する。


「ここまでされたのは初めてよ。残念だけど、今回はここまで」

「何で生きてるのー?」


 淡々と聞こえる声に、ネッテはいつもの口調で問いかける。

 声の発生源はバラバラな死体から。輪切りにされた口部分が動いており、人体の仕組みを完全に無視しながら声を出し続ける。


「研究の成果よ。このままここで復元する様を見せてあげてもいいのだけど、邪魔されそうだから行くわ」


 ドキッ。忍び足のネッテは思わず硬直する。このまま接近し、まな板に置かれる野菜のように千切りにするつもりでいた。

 その目論見はイリンに見抜かれており、ネッテはもぞもぞと集まりだす部品を不思議そうに眺めることに徹する。


「また会いましょう。むかついたけど、少しだけ楽しかった」


 言い終えるや否や、返答すら待たずに死体はその場からパッと消え去る。まるでテレポートのような消え方だったが、そんなことよりも全ての部位がきちんといなくなったことが不気味過ぎて考えが及ばない。残された血液の水溜りもやはり気持ち悪く、ネッテとアジールは呆然とする。


「痛い……」


 ネッテは脱力と共に崩れ落ちる。左腕を筆頭に、あちこちから血が流れ出ており、このままでは意識を失うのも時間の問題だ。

 アジールはほとんど無傷なため、そっとネッテの隣に腰を降ろす。


「誰かに回復してもらおう」

「うん。お兄ちゃんがいれたなぁ。あ」


 アジールは軍人達に顔を向ける。後衛回復役か後衛補助役がいるだろうと予想し、助けを求めるつもりでいた。

 ネッテは燃える自宅に視線を向ける。そのタイミングで、イリックとロニアが炎の中から現れる。

 テレポートで帰還したのだろう。ネッテもその程度のことはあっさりと見抜く。


「お兄ちゃん、おかえりー」


 会いたい、傷を治して欲しい、そう願ったから駆けつけてくれたのだろうと解釈し、痛みに耐えながらいつもの挨拶で迎える。


「大丈夫か?」

「うん。倒したけど逃げられたー」


 イリックは当然ながら何もわからない。

 ネッテが傷ついている。

 家が燃えている。

 これくらいはわかるが、この程度では何もわからないに等しい。

 イリックは残りわずかなマジックポイントを消費し、キュアでネッテの痛みを和らげる。完治など到底不可能だ。ネッテはそれだけの傷を負っており、何よりイリックの魔力は非常に乏しい。

 コネクトを使い、ロニアの魔力を拝借すれば完治も可能だが、それは悪手だと考え、今は控える。

 この状況では何が起きるか予想できない。秘蔵のコネクトを無策なまま使うわけにはいかない。

 轟々と燃える自宅は様々な音を鳴らす。

 バチバチと燃え盛る泣き声。

 グシャリと柱や壁が崩れる叫び声。

 兄妹の思い出を消し去るように、両親の遺してくれた家が塵になる。

 天高く上る煙は、子供達の安全を祈る両親に届いてしまいそう。

 燃えるのはそれだけではない。

 イリックの中にも闘志がメラメラと芽生える。家を燃やし、あまつさえネッテを痛めつけた存在はどうやら逃げたらしい。そういうことなら話は簡単だ。

 ここから先は兄の務め。

 探し出す。どうやって? 相手の特定はこれからやればいい。

 倒す。相手はネッテやアジールはおろか、周りの軍人達すら退けている。もっとも、そんなことは関係ない。

 考えなければならないことは多いが、今はネッテとアジールの無事を喜び、笑顔を向ける。

 黒い装備を全身にまとうその男は目を見開く。部下に指示を出さねばならないのだが、それどころではなくなった。駆けつけた少年が誰なのか、それはわからない。それでも目を離すことはできない。

 アジールは目の前のイリックにドキリとする。惚れた男が眼前にいるからではない。なぜか髪の毛が伸びているからでもない。内側の変化に胸を打たれたからだ。

 ロニアは小さく驚く。やっとやる気を出してくれた。そう見抜いてみせる。

 イリックの根底は白だ。どんな色にも染まれる。しかし、どういうわけか白を貫こうとする。その純粋さが女性陣の心をくすぐっていた。

 真紅のピーコートを着ようとも、外見だけが赤い冒険者のままだった。それはそれでイリックの良さなのだが、この瞬間にそれだけではなくなる。

 既に原型を留めていない家が、炎に焼かされてさらに崩れていく。

 地面にべっとりと残留している致死量を遥かに上回る血の池。

 火の大精霊に祝福されしブレイズマーシャラー。

 イリックはそれらよりも赤い意思を内側に灯す。

 その瞬間、周りの人間達は目が離せなくなる。やさしい少年がそれだけではなくなったからだ。

 何かが起きた。

 何かが変わった。

 新たな何かが生まれた。

 その瞬間に立ち会えたことを、人々は驚きながらも小さく喜ぶ。


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