その笑顔を向けて欲しい
ウルフィエナ。命溢れるこの世界の名称であり、人間以外にも様々な生き物がこの世界を謳歌している。
緑色の葉や甘い匂いの花をつける植物。
大地に根を降ろし、長い年月を生き続ける樹木。
小さい体に驚異的な力を秘めている虫。
水中を独占している魚。
大小様々な力で、時に縄張りを争い合う動物達。
文化を築き、この世界の頂点に君臨する人間。
この世界の異物と呼ばれているモンスター。
多くの命達が互いに殺し合い、そしてその日の糧として生きている。それはこの世界の摂理であり、仕方のないことでもある。
人間とモンスターが殺し合うその理由だけは異なるが、これもまた抗えない仕組みの一つだ。
なぜこんなことになっているのか? それを考えたところでわかるはずもなく、イリックはそんなことを疑問にも思わず、今はただ海に向かってお気に入りの場所から釣り糸を垂れる。
どれだけ久しぶりであろうと、どこまで離れようと、一旦ここに戻ってしまえば一瞬で思い出せる。
耳にこびりついている波の音。
正面から運ばれてくる命が溶けた海の匂い。
踏みしめる白い土の固さ。
ここはサラミア港。イリックとネッテの故郷であり、いつでも帰ってこれる場所。
イリックは朝日を左側面に浴びながら、足元に釣り道具を広げつつ釣竿を握る。買ったばかりの真新しい竿ということもあり、その長さと重みに胸躍る。
重量はほとんど変化していない。竿の長さが増した分、ほんのわずかに重くはなったが、その差は誤差と呼べる。
釣竿は長さが増すと、体感的に感じる重みがその分グンと増す。イリックはそれを感じ取っており、しかしうれしい悲鳴だと喜んでいる。
新しい釣竿。実に五年振りの新調だ。ロニア達から許可をもらえて買えたのだから、今は感謝の気持ちを胸に秘め、じっと当たりを待ち続ける。
「ニャア」
「お」
小さいながらも居場所を特定させるその声は足元から聞こえた。イリックはすぐさまその方向に顔を向け、四本の白い足で歩く小さな来訪者と目を合わす。
人懐っこいそれは港なら当たり前のように生息しており、サラミア港も例外ではない。
「見かけないシロネコだな。まぁ、それもそうか」
イリックは釣竿を握ったまま、そっと屈む。
ネコ。小さく、そして軽いこの動物は人間の身近に生息するポピュラーな動物だ。
イヌを好む人間も多いが、ネコ好きな人間も多く、その二種類がペットとしてかわいがられる傾向にある。
どちらも他の動物とは異なり、人間の生活に役立つことは少ない。より小さな動物を減らしてくれる程度だろうか。
しかし、ネコもイヌも人間に好かれている。愛らしい姿と動作が見るものを虜にするからだ。
イリックはネコが好きだ。イヌも好いているが、優劣をつけるならネコと答える。
久しぶりの故郷ということもあり、イリックは真っ白いこのネコを初めて目撃する。白一色の体とは対照的に、耳の中や口は桃色をしており、目は黄色く凛としている。
決して耳障りではない鳴き声から、イリックは魚を求めているのだろうと推測する。
「一匹やるよ」
イリック既にイサシ二匹を釣り上げている。最低四匹釣らなければならず、本当は少しためらいを感じるが、そのかわいらしさに根負けする。
海に垂らした網を引っ張り上げ、中からピチピチと体を曲げるイサシを一匹掴み上げる。ネコの視線を感じながら、ぽいっと地面に落とす。
「ミャウミャウ」
よっぽどうれしいのか、ネコにしては少しだけ野太い声でそのネコはガシッとイサシをくわえ込む。すぐには動かず、抵抗するイサシの動きが鈍くなり始めたタイミングでもしゃもしゃと租借を開始する。
その後姿はかわいいが、口元はいささかグロテスクなことになっているため、イリックは正面を向き、釣竿を握りなおす。
ここはサラミア港の釣具店近くの釣り場だ。釣果が得られているように、目当てのイサシは釣れる。しかし、当たりは決して頻繁には訪れない。
イリックが気に入っている場所はアイール砂丘の浜辺であり、モンスターが出現する危険地帯だが、そんなことはイリックには関係ない。
少々遠く、見回りのついでに寄るのならまだしも、釣りのだめだけに向かうには少し抵抗がある。
ゆえにここで釣り糸を垂れているのだが、思ったようには魚が釣れない。もちろんそんなことは重々承知しており、イリックは気長にその手応えを待ち続ける。
「にゃー」
腹が膨れたのか、それとも満足したのか、雪のように白いネコがイリックのズボンに頭を擦る。
イリックが視線を向けると、ちょこんと座り、前足を舐めて顔を拭き始める。
(本当にかわいいな)
イリックは腰を降ろし、自由な右手でチョロチョロとネコの頭を撫でる。嫌がる素振りすら見せないことから、このネコは随分と人懐っこいらしい。
「太ってはいないけど……、やせてもないな。まだ子供か?」
その問いかけには答えてくれない。目を細めてイリックの指にされるがまま、頭を撫でられ続ける。
「ここにいたんだ。あ、ネコ」
小さな、それでいて透き通った声が足音を立てながら近づいてくる。
袖のついていない服のせいで肩が丸出しになっており、それが健康的な妖艶さを漂わせる。
アジールだ。上は黄色いノースリーブニット、下は長ズボンの姿は、長身のせいか非常に映える。
一人と一匹に歩み寄り、その光景をうらやましそうに見つめる。
「こいつ、触れますよ。どうしたんですか?」
イリックは一旦ネコから手を離し、そのままの姿勢でアジールを見上げる。百八十センチ近い身長ゆえ、近寄られると迫力がある。
「散歩。よしよし」
アジールはイリックと交代するようにシロネコの背中をそっと撫で始める。
今日はクエストには挑まない。昨日もそうだったが、今日もゆっくりと過ごすことにしている。
久しぶりの連休であり、だからと言って暇なわけではない。
ご無沙汰していた実家の掃除は昨日の内にある程度終わったが、それでも完了には至らない。
ロニアにも部屋を宛がったため、そこをどうにかしないという重大な任務も残っている。
イリックは食費を浮かせるために海魚を釣らなければならず、もちろんそういう名目で釣りを楽しんでいる。
アジールは自室の掃除を終えたため、訪問回数の少ないサラミア港を満喫中だ。
そして、イリックとネコに行き着く。
ぬいぐるみの類が好きなアジールにとって、小さなイヌやネコももちろんその範疇だ。愛でない理由がなく、抱きかかえたい衝動を抑えながら撫でることに徹する。
「ネッテもネコ好きなんですよ」
「そうなんだ」
もちろん、アジールも知っている。初めての出会いから既に半年近くも経つのだから、互いの好き嫌いはある程度把握できている。
いくつもの土地を巡った。
焚き火を囲んで食事を食べた。
同じテントの中で寝床を共にした。
宿屋の四人部屋で、ベッドは違えど夜を明かした。
数え切れないほどのモンスターを倒してきた。
いくつもの死線を潜り抜けてきた。
イリックはアジールに、アジールはイリックに助けられた。
今はこうして、互いに白いネコを撫でている。
「こいつ、なかなかかわいいですよね」
「目がパッチリしてる」
安らぎを感じているのか、そんな行為は不要なのか、ネコは一切鳴かない。イリックの指とアジールの指が、頭や喉、背中を撫でてくれることを受け入れ続ける。
イリックとアジールがネコの耳と耳の間に手を伸ばす。そのタイミングは重なり、二人の指はちょんと触れ合う。
互いに内心ではドキリとするが、だからと言って声を出したりネコから手を引っ込めたりはしない。
コネクトで繋がった仲なのだから、そんなことで騒ぎ立てる必要もない。
「ミアァ」
シロネコがイリックを見上げて小さく鳴く。さっきはありがとう、そういう意味なのだが、人間には決して伝わらない。
「よしよし」
イリックはやさしく微笑み返す。チョンチョンと眉間をつつき、一旦手を引っ込める。
その表情を見てアジールは驚く。そんな顔は見たことがないからだ。
イリックは温厚な人間だ。戦いの最中は当然別だが、普段のイリックは非常に和やかな感情に支配されている。アジールとロニアのせいでエロいことも頻繁に想像するが、アジールにはばれていない。ロニアには若干見透かされているが。
イリックはやさしい。それは間違いない。
ネッテが過剰なスキンシップを求めようと、時と場合によっては真正面から受け止める。眉をひそめはするが、それでもその表情は暖かい。
アジールやロニアにも、基本的には穏やかな表情で接する。隙あらば胸や太ももを盗み見ているが、男ゆえに当然の行為だ。
今のイリックは眼下のネコに微笑んでいる。その表情はまるでかわいくて仕方ないわが子を見ているようであり、アジールはドキリと鼓動を高めつつもある感情を抱く。
(私にも、そういう顔して欲しいな)
いつの日かそんな時が訪れるかもしれないが、今はネコを介さなければ目撃できない。




