第三章 ワシーキ村での遭遇戦
村に着いたら初めにやること。イリックは既にそれを学習しており、ネッテに用事を押し付け宿屋に直行する。
寝床の確保。これが最優先事項だ。
金がない、空き部屋がない、そういった事情があるなら野宿でも構わないが、今回は宿屋に泊まりたい。この考え方は贅沢だろうか? だとしても宿屋に泊まる。初めての旅なのだから、優雅に満喫したい。
ネッテには錬金術師についての聞き込みを頼んだ。人懐っこく、礼儀は知らないが子供ゆえそこは許されるはずだ。そんな打算の元、適材適所な人選をイリックは行う。
何より、こっそりと一人部屋を二つ押さえたかった。ばれたらギャーギャー言われるだろうが、別に構わない。最初で最後の贅沢だ。
うれしい誤算もあった。ネッテが錬金術師の名前を覚えていた。
リンダさんね、わかった! と承諾してくれた。そういうことなら聞き込みは捗りそうだ。
テホト村と比べると、ワシーキ村は圧倒的に広く、活気もある。
予想通り、宿屋はすぐに見つかった。村の入り口であるアーチをくぐって左前方にすぐの場所。
二階建ての薄茶色な建物がいかにもそれっぽい。
イリックはそそくさと中に入り、カウンターの若い女性に声をかける。
一人部屋が見事二つ空いていた。ギリギリセーフだったらしい。混んでいるわけでもなく、冒険者が一人の他は買いつけに来た商人がちらほらいるだけ。
普段からこの程度らしい。むしろ、今日はイリック達のおかげで繁盛気味ということになる。
カギを受け取り、来た道を戻る。ネッテと合流するためだ。
「あっちだって」
ネッテは村に入ってすぐの広場で仁王立ちしていた。どうやら聞き込みはあっさり成功したらしく、村の奥を指差す。店が立ち並ぶ大通りを道順に歩いて進めばいいらしい。
いざ出発。夕焼けゆえに、少し暗くなり始めている。二人は急ぎ村の奥を目指す。
道すがら、様々な店が二人を誘惑する。
武器屋。
防具屋。
マジックアイテム屋。
雑貨屋。
衣服屋。
サラミア港にはない店がいくつもある。買うつもりはないが、明日はブラブラ散策させてもらおう。イリックは左右の店を眺めながら、早速明日の予定を計画する。
真っ直ぐな土の道を歩き続けると、前方にも広間が見えてくる。なぜかその手前には橋がかかっており、イリックは思わず目を凝らす。どうやら小さいながらも川が流れているようだ。
「釣りは後でね」
ネッテに釘を刺されてしまう。先手を打つとは、さすが妹ということか。
川を眺めつつ広間を越えて、さらにもう少し歩く。
まるで新築と見間違えるような家がいくつも並んでいる。
一階建てだが奥行きも横幅も十分な白い家。
二階建てで窓が多い茶色をベースにした家。
そんな家々がいくつもの道に沿って立ち並ぶ。
裕福な人達が住んでいそうだ、イリックはそう推測する。報酬を弾む錬金術師もきっと金持ちだろう。ならこの辺りだろうか?
「あ、お兄ちゃん!」
先に見つけたのはネッテ。指差す白い家の表札には、確かにリンダと書かれている。
周囲の家と比べるとややこじんまりとしているが、茶色い屋根が白い外壁との対比で鮮やかだ。目立ちはしないが、霞んでもいない。
イリックは胸を撫で下ろしつつ、玄関の扉をノックする。
奥から女性の声。年齢を感じさせる声質だ。
扉が開くと、白髪で眼鏡をかけた高齢の女性が姿を現す。町長の言ってた通り、胸は確かに大きいが、そこは見ないようにした。
「サラミア港から荷物を持ってきました。イリックです」
「待ってたよ。遠いところ、わざわざご苦労さん。まぁ、入んな」
イリック達は家の中に通される。
錬金術師は儲かるのだろうか?
それともこの人が特別なのだろうか?
外壁がそうであったように、内壁も清潔感漂う白で統一されている。
無駄な装飾品は一切飾っていないが、家自体が綺麗なため必要そうにない。
玄関に一歩足を踏み入れただけで、立派な家だと思い知らされる。
客間に通されたイリックとネッテは、あてがわれた椅子にそれぞれ座る。
この部屋には、小さなテーブルと四つの椅子、そして部屋の角に棚が二つ置いてある。それだけだが、景観はそれだけで十分美しい。
リンダが紅茶を三つ運んでくる。
そのコップは無駄に凝った柄が描かれており、イリックはすぐにでも手を伸ばしたいが思わずためらってしまう。
リンダがテーブルの反対側に座る。
リンダ。元錬金術師。かつてはデフィアーク共和国にて第一線で活躍していた。引退後、余生を満喫するため故郷のワシーキ村に戻る。研究に没頭したせいか、ついに結婚とは縁のないまま年を重ねてしまうも、そのことを後悔したことはない。多少の未練はあるが、今となっては諦めざるをえない。現在でも独自の研究に没頭しており、その成果のおこぼれで村に貢献している。
白い髪は女性にしては短く、耳は完全に出ている。年はいくつだろうか? 顔のしわから四十から五十くらいと想像できるが、たずねることはできない。そこまで目の前の女性に興味もない。
「これが荷物です」
イリックはマジックバッグから包みを取り出し、テーブルにそっと置く。
「ありがとね。中、確認させてもらうよ」
「どうぞ」
リンダが包みにそっと手を伸ばす一方、おー、おー、とネッテはきょろきょろと周りを見渡す。
手持ち無沙汰のイリックは、ついにコップを掴む。落とさないよう注意を払って口まで運ぶと、紅茶の匂いが濃くなりそれだけで楽しめてしまう。今まではお茶派だったが、今日から紅茶派になってもいいかもしれない。
「うん……、依頼通りだね、上出来上出来。それじゃ、礼を持ってくるからちょっと待ってな」
リンダが立ち上がる。包みを持って奥の部屋に消えると、二人はポツンと取り残される。いよいよ紅茶を飲む以外にすることがない。
「そういえば荷物の中身って何だったんだろうね?」
「赤ガニの体液しか知らんな~」
ネッテの問いかけに、イリックは天井を仰ぐ。錬金術師が何をやろうとしているのか考えたところでわかるわけもなく、そもそも興味もない。
「若返りの薬でも作るのかな?」
「そんなもん、聞いたこともない」
女の子らしい発想だが、いささか失礼なことを言ってるようにも思えた。
「おうち綺麗だね~。台所もきっとすごいんだろうな~」
「多分な~」
ここからでは、残念ながら台所までは見渡せない。
もうすぐ日も暮れる。宿屋に戻ったらどうしようか? そんなことを考えながら、イリックはちびちびと紅茶を味わう。
「少し村をブラブラ歩いてみるか? それともさっさと宿屋行って、荷物置いて飯にする?」
「お腹は……減ってる!」
ネッテの言う通りだ。一際大きな羊から全速力で逃げた。その後も歩き続けた。ゆえに、イリックも例外なく空腹だ。
太陽は沈みきっていないが、イリックは早めの夕食を決断する。
夜に小腹が空いたら適当につまめばいいし、食堂に行ってもいい。
イリックはすることがないためさらに考える。ここの宿屋も一階は食堂だったが、この形式が一般的なのだろうか? 少なくともサラミア港の宿屋は一階も二階も宿泊用の部屋で埋め尽くされている。外食はギルド会館か居酒屋が相場と決まっている。自分達はしたことないが。
じっとしていられないのか、いよいよネッテは立ち上がり、窓の外を眺め始める。歩き回らないだけよしとする。
イリックはコップを口に運ぶ。名残惜しいが、そろそろ飲みきってしまいそうだ。
「お待たせ。帰りの駄賃も加えておいたよ」
「ありがとうございます」
廊下から現れたリンダの右手には小さな袋が握られている。
イリックは素早く立ち上がり、頭を下げつつそれを受け取る。緊張してしまったが仕方ない。初めての旅が無事達成される瞬間でもあるのだから。何より金額が金額でドキドキしてしまう。
二万ゴールド。こんな大金、手に取ったことなどない。さっさとマジックバッグにしまい、重圧から開放されたい。
「あんた達、随分若いけど冒険者じゃないんだろ?」
「はい。一応、アイール砂丘の見回りをしてたのでモンスターとは戦えますが、冒険者ではないです」
冒険者ではない。では今の自分は何だろう? 考えるまでもなく、無職だ。さっさと仕事に就きたい。
「道中、大変だったんじゃないかい?」
「いえ、妹が料理できるので、これといって苦労はなかったです。モンスターとの戦闘もほとんどありませんでしたし」
肉目当てでカルックシープを一体倒した。
カルックラムと遭遇したが死ぬ気で逃げた。
せいぜいこれくらい。振り返ると、随分平和な旅だ。
「ふふ、その余裕は腕に自信があるからなのかな?」
リンダは笑みを浮かべて紅茶を飲む。そんなことはないのだが、そういう風に聞こえてしまったのだろうか? イリックは不思議そうに視線を向ける。
「ところで、町長のじいさんは元気かい? ここんところ会ってなくてね」
「ええ。少なくともここ十年は変わりないですよ」
「この前なんか若いお姉さんのお尻触ってました!」
ネッテが会話に参加する。最悪の入り方だが、事実ゆえ致し方ない。
「相変わらずなのね~。死ぬのはまだまだ先かしら」
「そう思います!」
笑う女性陣とは対照的に、イリックからは渇いた笑いしか出てこない。
「あら?」
突如、リンダの表情が曇る。眉をひそめ、何かに気づいたように窓の外を見つめる。女性はトイレを我慢しにくいと聞く。尿漏れかもしれないからそっとしておこう。イリックは無い知恵を絞って変な気遣いを見せる。
「誰かが……いえ、何かが結界を破って村に侵入してきたわね」
(結界? そんなのがあるのか。あぁ、テホト村でもそんなこと言ってたな。この人は結界とやらに関与してるのか? 錬金術師は伊達じゃないんだな)
尿漏れではなかったらしい。
そして、リンダの発言からイリックは三つのことに気づく。
一つ。結界はリンダないし他の錬金術師が開発し、村の平和を維持するため張られている。
二つ。テホト村同様、ワシーキ村にも張られている。
三つ。その結界とやらが、どうやらたった今破られた。
リンダとイリックは神妙な表情で考え込む。
ネッテは事態を飲み込めず、ヘラヘラ笑ってる。
「結界はどの部分が破られたんですか?」
イリックの問いかけにリンダは感心する。
「村の入り口付近よ。あなた賢いわね。私、頭の良い子は好きよ」
「ありがとうございます。ネッテ、行くぞ」
「どこに?」
「村の入り口に。リンダさん、これにて失礼します」
イリックは立ち上がり、一礼してすぐさま玄関に向かう。
未だによくわかってないネッテは、さようならーと手を振ってイリックの後に続く。
モンスターを寄せ付けない結界。
それを破って村に侵入した何か。
嫌な予感しかしない。
「走るぞ、全速力な」
「競争? ガッテン!」
まだ競争だと思っているネッテに頭が痛くなってきたが、競争で終わってくれればそれはそれでありがたい。
「気をつけるんだよ」
リンダの声が背後から聞こえてきたが今は振り返らない。
「よーい、ドン!」
「ドーン!」
杞憂に終わってくれ。そう思いながらイリックは入り口を目指し全速力で走る。
空はまだ赤いままだが、遠くはじわりと黒く染まっている。そういう意味でも急いだ方がいいかもしれない。
二人は風を切り裂く。ネッテの方が少し速い。
こんな速度で走る人間を見たことがないのだろう。周囲から驚きの視線を向けられる。痛々しいものを見る時の視線もまじっていたような気がするが、きっと気のせい。
小さな川にかかっている橋を渡ったタイミングで、不安は的中してしまう。村の入り口方向から、いくつもの悲鳴が聞こえてきたからだ。
予想だにしない場所で、思いもしないタイミングで、戦うハメになりそうだ。この状況では腹をくくるしかないだろう。どんなモンスターでも相手になってやる。イリックは意気込む。
(あ、でっかい羊だけは勘弁してください)
それはさすがにこわい。
村の入り口前には広場のような空間が広がっている。ネッテが聞き込みを行った場所でもある。
「そこで止まって姿を隠せ!」
先に到着したのはネッテ。しかし、イリックの指示で大人しくその手前の建物に身を隠す。
広場方向から逃げてきたであろう村民を横目に、イリックも少し遅れて到着。い……息を整える時間をください死んでしまいます。
「モンスターがいるよ」
声を殺してネッテが報告する。
太陽は沈みかけており、日中と比べると視界は悪い。しかし、ネッテには関係ない。
「ほんとだ……。あんなの初めて見る」
イリックとしては、建物にもたれかかってもう少し休んでいたかったが、どうやらそうもいかないらしい。視線を向けると、目玉のような何かがふわふわと漂っている。
ワシーキ村の入り口には、村を囲う石壁の切れ目を繋ぐようにアーチがかかっている。目玉のモンスターは、そのアーチと同じ高さを維持して浮いている。
そのモンスターを構成するパーツは、人間の上半身より大きな目玉一つと、両端に生える一対の小さな青黒い羽根。
ただそれだけのシンプルなモンスターだが、それゆえ、こんなモンスターなど聞いたことも見たこともないと一目でわかる。
小さな二つの羽根はパタパタと上下しているが、浮力がそれだけでまかなえるとは思えない。魔力も利用しているのだろうと容易に想像できる。
もっとも、そんな考察はどうでもよく、イリックはじっと観察を続ける。
よく見ると目玉のモンスターはひどく充血している。全体ではなく瞳孔の隣接部分が局所的に真っ赤だ。慣れないことをして披露が溜まるとこうなることが人間にもあるが、同じ症状だろうか? モンスターも苦労しているようだ。いや、こういうことを観察したいわけではない。
モンスターと対峙するように、一人の女性が立っている。初めは逃げ遅れた村民かと思ったが、どうもそういうわけではないらしい。
右手には銀色に輝く刃が幅広い片手剣。
左手には逆三角形の青い盾。
上半身は白とオレンジが織り成す重厚な鎧。
下半身はミニスカートと膝近くまでを覆う白とオレンジのグリーヴ。そしてハイソックス。
ここまでは普通の盾役タイプの冒険者だが、背中には一際大きな黒い剣を背負っており、どうやら戦況に応じて戦い方を変化させる冒険者らしい。
どうでもいいことだが、ミニスカートの丈近くまで伸びている黒いハイソックスが作り出す絶対領域の破壊力がすさまじい。イリックはギロリとそこに視線を集中させる。
「あの人助けなきゃ!」
イリックに続き、ネッテも女性に気づく。しかし、今の発言は少々ずれていると言わざるをえない。
「まぁ、待て。先ずは様子を見るぞ」
「なんでー?」
「冒険者だろうから、俺達より腕が立つ可能性もある。となるとあの人に任せて俺達はここで待機してるのが正解かも」
そういうことだ。ネッテの言い分も十分わかるが、ここは静観がベストだろうとイリックは分析する。
あの冒険者は目玉のモンスターについて知っているかもしれない。
一人で立ち向かうあたり、腕のたつ冒険者なのかもしれない。
自分達が加勢したところで足をひっぱるだけかもしれない。
かもかも尽くしだが、現状ではそう思わざるをえない。
ここは慎重に行動して損はないと自分に言い聞かせ、イリックはじっと戦況を見守る。ネッテもそれに従い、建物の影からこっそりと覗き込む。
「そっか。でも、もしあの人がやられちゃったら?」
ネッテがそう思うのも当然と言えば当然。
モンスターの力量も冒険者の実力もわからない状況では、先の展開が全く読めない。不安になるなと言う方が無茶な話だ。
「そうなる前に俺がなんとかしてやる」
「か、かっこいい……。後で抱いて!」
蹴り飛ばしたくなったがここは我慢する。
二人の視線の先では、目玉のモンスターと冒険者がそれぞれ睨みあいを続けている。
どちらが先に動くかイリックは考察する。あの冒険者の攻撃は、空中に浮いているモンスターにはどうやっても届かない。ゆえに、モンスターが先手を打つに決まっている。
「偵察に来ただけなんだがなぁ。生意気に障壁なんか張ってあったからつい壊しちまったぜ」
(しゃべった!?)
低いのか、高いのか、それすらもわからない声が広場から響く。
イリックは驚きのあまり声を上げそうになったが、ギリギリのところで飲み込むことに成功する。
目玉のモンスターが言葉を、しかも自分達と同じ言語を話したことはそれだけ衝撃的なことだ。
モンスターの中にも言葉を話す種族はいる。
オークやゴブリンがまさにそうだ。
東の大陸にはさらにいくつかの種族がいると言われている。
しかし、それらは自分達の言語、例えばオークならオーク語を用いるのであって、人間の言葉を話すことはない。そんなモンスターなど聞いたことがない。
嫌な予感がした。
新種、知能の発達したモンスター、特異固体。どれも違うような気がした。想像を越えるモンスター、そう思わずにはいられない。
「しゃべるモンスター……。私が戦う。降りてきて」
冒険者が透き通った抑揚のない声で話しかける。
モンスターは宿屋の二階付近の高度を維持して浮いており、地面からの攻撃は届かない。ゆえに、降りてきてもらうしかないのだが、目玉のモンスターはそこまで親切ではないらしい。
「はっ! 人間風情がえらそうに……。おまえの相手はこれで十分だ」
モンスターが血走った目玉をギラリを光らせる。それと連動するように、前方の地面に二つの魔方陣が形成される。
攻撃魔法か何かかと冒険者は身構えるも、次の瞬間、冒険者とイリックは言葉を失う。
二つの魔方陣から骨のモンスターが一体ずつ、片手剣を携えて這い上がる。
上は頭から下はつま先に至るまで、骨だけにも関わらず動くその姿はまさにモンスターだ。
スケルトンと呼ばれるアンデッドだ。このモンスター自体はそう珍しい種族ではないが、問題は魔方陣から現れたことに尽きる。
「さぁ、どうするよ」
冒険者を見下すように目玉のモンスターがケタケタ笑う。
呼応するように二体のスケルトンも骨だけの体をカタカタと鳴らす。
イリックは冷や汗を流しながらじっと観察する。
(召喚魔法!? いや、それで呼び出せるのは精霊だけだよな……。ますます意味がわからない)
「お兄ちゃん、どうしよう」
ネッテが心配そうにイリックの服を引っ張る。伸びるから止めて欲しいが、それを伝える余裕はない。
一対一だった戦況が一瞬にして一対三に。ネッテが心配するのは当然と言えば当然だろう。
しかし、イリックは別のことを考える。
(呼び出せるのはこの二体で打ち止めか? それとももっと呼び出せるのか? それとももう一体くらい?)
スケルトンの追加召喚があるのかないのか。イリックにとって重要なのはその一点。とは言え、いくら考えたところでわかるはずもなく、それならそれで作戦を立てるまで。
「とりあえず、もうちょっとだけ様子見るぞ。それと、一つ勘違いしてるみたいだから正しておくけど、この状況はまだこっちに有利だからな」
「そうなの?」
イリックの発言が慰めでも勇気付けるためでもないということは、ネッテの足りない頭でも理解できたが、具体的なことまではさっぱりだと頭上のハテナマークが雄弁に語る。な、何それ!? どうやって出したの!? 俺もそれやってみたい!
「これで三対三になったってこと。しかも相手は俺達に気づいてない。一対三だと思って油断してるはず」
「なるほどー」
もちろんこれは、一度に召喚できるスケルトンの数が二体まで、という条件が前提にある。次の瞬間に追加でスケルトンを召喚された場合、状況はいっきに悪くなる。
息を殺し、イリックは冒険者を見つめる。冷静なのか、困惑しているのか、心境までは読み取れない。絶対領域が無駄にいやらしいが今は気にしない。
ネッテという秘密兵器がいる以上、作戦はあっさりと決まる。空中に漂っているモンスターなど、いかようにも倒せる。ネッテがいずれ証明してくれる。
後は実行するタイミングだけ考えればいい。
「ぼちぼちしたら俺も参戦するから、先に説明だけしておく」
「う、うん!」
イリックがネッテに作戦を伝え始めた時だった。
二体のスケルトンが冒険者に襲い掛かる。
冒険者は冷静に、右から迫り来る攻撃を片手剣で、左からの攻撃を盾で受け止める。数の上で不利であっても、その女性は眉一つ動かさない。
「これくらい」
左のスケルトンを盾で吹き飛ばす。間髪入れず右のスケルトンも押し返し、勢いそのままに斬りかかる。しかし、左肩から肋骨にかけて斬撃を当てることに成功するも、たいしたダメージには至らない。
「やるじゃねーか。まぁ、人間じゃその程度だろうな」
冒険者を見下ろしながら、モンスターが大きな目玉を光らせる。
「グラニート」
殺意のこもった声と共に、冒険者の足元から土の塊が激しく押し寄せる。
「ぐぅ!?」
突然の攻撃魔法。
冒険者は反応すらできず、うめき声を上げる。地面から盛り上がってきた土の塊が、右腕と右脇腹に叩き付けられる。
グラニート。攻撃魔法の一つ。土を操りそれを相手にぶつけることで攻撃の手段とする。土属性の攻撃魔法だ。
基本的な攻撃魔法であり、威力は魔力によって上下する。
「んじゃ、行ってくる。後は頼んだぞ」
「任されました!」
(声が大きい……)
イリックは行動を開始する。
「ま、まだ……」
負傷しても、冒険者はこの程度で怖気づかない。よろめきながらもその場に踏ん張り、右のスケルトンを見据える。
顎の下まで伸びている茶色い髪を揺らし、一撃を浴びせたスケルトンに追撃をしかける。素早く距離を詰め、左から右へ払うように斬り付けた結果、新たな傷をつけることはできた。しかし、倒れる素振りすら見せてくれない。
隙を見つけたと言わんばかりに、もう一体のスケルトンが片手剣を振り上げながら走り始める。
(捌ききれない)
冒険者の顔に焦りの色が浮かぶ。その時だった。
「キュア」
決して大きな声ではない。しかし、その声は力強く空気を振動させ、冒険者、二体のスケルトン、そして、目玉のモンスターにはっきりと届く。
白く、それでいて透明な光が冒険者を包み込む。右腕と右脇腹の傷が少しだけ癒える。残念ながら完治には至らない。イリックの魔力はそこまで高くないからだ。
魔法の発動先を感じ取ったのか、片手剣を振り上げながら走るスケルトンが顔を横に向ける。
異変に気づいた時にはもう遅く、次の瞬間、骨だけの体は大きく吹き飛ぶ。イリックが全速力からドロップキックをおみまいしたからだ。あわよくばこれで倒せるかと期待したが、そこまで甘くはないらしい。
「ふ~、間に合った」
イリックは目玉のモンスターを見上げ、挑発するように笑みをこぼしてみせる。
イリックの登場に一番驚いているのは冒険者であり、一旦目の前のスケルトンから離れ状況の整理を開始する。
「君も冒険者?」
この質問は想定内だ。しかし、答えまでは用意しておらず、どう返答しようか悩んだ結果、渾身の一言を思いつく。
「いえ、荷物を届けに来た無職です」
言ってて悲しくなってきた。頬を伝う何かはきっと汗だろう。そう思い込む。
「戦えるの?」
冒険者は念のため確認する。その立ち回りから、ただの無職ではないとわかっている。それでも意思を確かめる必要はある。
「はい。さっさと倒しましょう」
イリックが力強く言い切る。無職をスルーされたがきっとやさしいからだろう。
「はっはー! おもしろいこと言ってくれるじゃねーか。しゃしゃり出るんじゃねー!」
突然の増援を警戒してか、ゆっくりと浮上していく。そして、湧き上がる怒りを押さえ込みながら、目玉のモンスターが大きく吠える。それに呼応するように、足蹴にされたスケルトンがイリックへ、もう一方が冒険者へ襲いかかる。
(このまま向かってきてくれてもいいんだけど……)
その時は返り討ちにするつもりでいた。しかし、イリックの予想通り、スケルトンがこちらに向かってくることはない。
「ウォーシャウト」
冒険者がそうつぶやくと、イリックを目指していたスケルトンが足を止める。次いで、抵抗するように体中の骨をカタカタと震わせる。
ウォーシャウト。魔法とは異なるもう一つ神秘、戦技の一種。周囲のモンスターの注意を自身に強制的に向けさせる。
盾役に分類される冒険者には必須の戦技だ。裏を返すと、これを習得できたら盾役に抜擢されると言っても過言ではない。もちろん、例外は存在するが。
イリックを目指していたスケルトンは、渋々攻撃目標を冒険者に変更する。しかし、それで終わり。
足を止めた時には勝負がついていた。
イリックは、方向転換したスケルトンの背後に素早く移動し、力いっぱい片手剣の柄尻を叩きつける。スケルトンの体、正確には背骨がバキリと砕かれる。
先ず一体。
「な!?」
目玉のモンスターは言葉を失う。
召喚したスケルトンは強化されたスケルトンであり、夜になったらどこからともなく現れる雑魚とは一線を画す。そのスケルトンがいとも容易く倒された。
不本意だが、警戒せざるをえない人間のようだ。モンスターはイリックをそう認識する。
「そちらのはお願いします」
ふぅ、と息を吐き、イリックは冒険者に声をかける。スケルトンと片手剣で鍔迫り合いの最中なため、随分と急がしそうだ。
「任せて」
冒険者はそう言った手前、切り札を見せる。スケルトンを片手剣ごと後方に押し返し、自身は片手剣と盾をドサッとその場に落とす。
すぐさま背中の黒い両手剣を引き抜き、両手で構えてみせる。
戦闘スタイルの変更で、いっきに片を付けるつもりだ。
このお姉さんなら大丈夫だろう、と都合良く解釈し、イリックはふわふわ浮いているモンスターを見上げる。見下ろしはいいのだろうが、そろそろ降りてきてくれないだろうか。見上げ続けていると首が痛くなりそうだ。
「次はおまえだ」
イリックは黒がかった茶色い片手剣を向ける。ただの挑発行為、正確には演技。
ただかっこつけているわけではなく、きちんと理由があっての行動なのだが、言ってていよいよ恥ずかしくなってきた。一種の才能が必要だと痛感させられる。お姉さんを置いて逃げたくなったが、作戦が失敗に終わるためグッと堪える。というかまだだろうか?
(何度かチャンスあったんだけどなぁ……。何やってんだ?)
さりげなく視線を泳がせてネッテを探す。その結果、ワシーキ村の入り口付近でこちらを見つめるネッテと目が合った。
(かっこいい! お兄ちゃんかっこいい!)
モンスターではなく兄しか見ていなかった。
(ふ・ざ・け・る・な! こっちじゃなくてあっちを見ろ!)
怒りの視線を向ける。
(あぁん、見つめないで~)
ネッテがうれしそうに体をクネクネと動かし始める。逆効果でしかないらしい。
(こ、このバカ妹……)
イリックは呆れつつもふつふつとたぎらせる。
「コラー!」
普段は温厚なイリックも、今回ばかりは怒る。状況が状況なため、いつもより我慢の閾値が低くなっていた。
大声で叱られたため、さすがのネッテもまじめに動き始める。
「あぁん、なんだ? 誰にもの言ってんだ?」
(あ、違うんです)
剣先を向けられたと思ったら今度は突然怒り出す。その行動はモンスターの機嫌を逆撫でするのに十分だったらしい。一応、作戦は成功だ。
「燃え死ね。フレイム」
混じりっ気無しの殺意がイリックを襲う。
フレイム。攻撃魔法の一つ。火の塊を生成し対象にぶつけるシンプルな魔法だが、高温の炎をぶつけられて耐えられる生物はそう多くは存在しないため、優秀な攻撃魔法であることに変わりはない。
突然現れた火の塊がイリックに直撃する。なんの前振りもなければ躊躇もないその攻撃に、虚をつかれたイリックは回避行動すら取れない。
腹にぶつかった炎が周囲に燃え広がり、上着に至っては一瞬で焼け落ちてしまう。数秒もすれば、胸や腹の皮膚もあっという間に焦げてしまいそう。
「キュア」
しかし、そうはならない。火の塊が直撃すると同時に、イリックは回復魔法を唱える。火傷による痛みを感じる前に、傷は幾分癒えてくれた。服は燃えてしまったが、それについては後で考える。
実は全然完治していない。まだヒリヒリするが、今はやせ我慢で誤魔化す。
(反応が早い。何より落ち着いてる)
イリックを心配した冒険者だったが、逆に感心させられる。
一方、目玉のモンスターはより一層苛立ちを募らせる。大きな目玉が震えるのをイリックは見逃さない。
「貧弱な魔法だな」
イリックはさらなる挑発を被せる。自分で言っといてなんだが、もう耐えられない。恥ずかしさのあまり赤面しそう。というかきっと顔は赤い。
しかし、効果は十分だったと次の瞬間に知る。
「調子に乗るなー!」
モンスターの中で怒りが爆発する。叫び声は風に頼らずとも村の奥まで響き渡る。
両手剣でスケルトンを粉砕し、目玉のモンスターに注力しようとした冒険者すら、叫び声にまじる殺意に思わず身をすくめる。
作戦通り。兄妹には、勝利の鐘でしかない。
「おまえがな」
イリックは勝利を確信する。
人間の言葉を話せる程度に頭は良くても短気じゃ意味なかったな。そう言ってやろうと思ったが、視界の端からものすごい速さで移動するそれが猶予を与えてくれない。それならそれで構わない。
「コロス!」
ワシーキ村を取り囲む壁の高さと、驚異的な身体能力から繰り出される飛翔距離の合計は、空中のモンスターに届く高さとなる。
ネッテは怒りに打ち震えた。
壁の上からイリックが燃える様子を目撃してしまったからだ。一瞬にして回復魔法を唱え事なきを得たとはいえ、到底許せる行為ではない。
モンスターの咆哮を聞いた瞬間、攻撃のチャンスだと直感的に理解できた。
しかし、ネッテの体を動かしたのは別の衝動。イリックを燃やそうとした存在が目の前にいるだけでも我慢ならない。その上、耳障りな大声まで上げ始めた。ネッテは殺意に支配される。
左腰の短剣を右手で抜き、左手は足元に伸ばし、石壁の上で器用に体のバランスを保つ。
両足に力を籠める。助走などネッテには必要ない。
狙いを定める。本当は一秒でも見ていたくない相手だが、今だけは我慢する。
殺意を力に変えて跳ねる。
バランスを取る必要がなくなり、自由になった左手で右腰の短剣を素早く引き抜く。
目標地点を目掛けて、風のように風を切る。
両手の短剣にも殺意を乗せる。
そして、一切の迷いなくモンスターの眼球に右手の短剣を突き刺す。
コンマ何秒の遅れもなく、左手の短剣で眼球の右下から左上へ切り込みを入れる。振り切った左手を即座に止め、逆手に持ち直し振り下ろすように短剣を刺し込む。
既に致命傷と思われるが、ネッテは手を休めない。
左手の短剣は刺したまま、右手の短剣を素早く何度も刺す。
モンスターは事態を把握したのか、それとも痛みに気がついたのか、ネッテの攻撃から少し遅れて先ほどとは異なる叫び声を上げ始める。
「そこまでやれとは言ってないんだけどなぁ……」
目を背けたたくなってきた。
叫び狂うモンスターに構わず、ネッテが攻撃を続けている。
右手の短剣は既に何十という刺し傷を作っている。
ネッテの体重を支えていた左手の短剣が重さに耐え切れず、眼球を切り裂くようにずり落ちる。
それに気づいたネッテはすぐさま対応する。即座に右手の短剣をモンスターの上部に突き刺し、今度は左手の短剣で目玉を切り刻み始める。
「あれは君の仲間?」
「一応……」
呆然としている冒険者からの問いかけに、イリックはやんわりと答える。他人の振りをしたかったが、さすがに兄としてそれはしないでおく。
やがて、命の火が燃え尽きるようにモンスターが地面に落下する。当然ネッテも地面に叩き付けられるが、そんなことには一切怯まず両手でモンスターを切り刻み続ける。
「どうどうどう……」
ネッテの背後に近づき、イリックは細い両腕を掴んでゆっくりとモンスターから引き離す。
「ふーふーふー!」
もはやどっちがモンスターなのかわからない。返り血で真っ赤だが、普段はかわいい自慢の妹だ。
「よくやったよくやった。よしよし」
落ち着きを取り戻さない妹にしてやれることを考えた結果、イリックはネッテの頭を撫でる。効果は期待できないが、それでもやってみる。
「あぁ~ん、もっと褒めて~」
効果は絶大だ。
「さて、少しくらいは話できるかな?」
我に帰ったのならもう用はなく、ネッテを放り出してモンスターの正面に移動する。しかし、落下のタイミングで絶命したのか、既に事切れている。
「一体なんだったんだ、こいつは……」
死体を見下ろしながら冷静に考え込むイリック。
体をくねらせるネッテ。
そんな二人を眺めながら冒険者は思う。
(この二人こそ何者なんだろう……)
今回のモンスターよりも二人の方が怖い、冒険者はそう結論付けた。
◆
「いや~、しかし倒しちゃうとはね。町長が自信満々にあんた達を指名した理由がわかったよ」
ここはリンダの自宅。太陽は沈み、外はすっかり夜の始まり。
そして、宴の始まり。
目玉のモンスター討伐は、瞬く間に村中に知れ渡る。最後の断末魔は、それまでの絶叫とは明らかに異なっていた。
動かなくなったモンスターを見下ろすイリックと、少し離れた場所にネッテと冒険者。
おそるおそる近づいてきた村民達が勝利の歓喜を上げるまで、たいして時間はかからなかった。
今度は喜びの声が村を駆け巡る。
ネッテと冒険者は瞬く間に大勢の人達に囲まれる。イリックだけには誰も近寄らない。足元にモンスターの死体があるからだ。
遠目からは声をかけられる。よくやったぞあんちゃん! ありがとう! でも誰も近づいてこない。と思ったら一人やってきた。
白髪の女性、リンダが澄ました顔で現れる。
モンスターの死体をつんつんと突く。終いには、二枚の羽を短剣で目玉から引き裂く。どうやら戦利品のつもりらしい。
なんでも錬金術の素材にしてみようと企てているらしい。併せて、このモンスターの正体を暴くために色々調べてみたいらしい。
戦いの様子を眺めていたのはごく一部の村民だけ。ゆえに、その他大勢の村民は、モンスターを倒したのは女冒険者だと思い込む。
ただの服を着ている少年。一応、片手剣を握っている。
返り血で真っ赤に染まっている背丈の低い女の子。一応、短剣二刀流。
そして、白い鎧を身にまとい、大きな黒い両手剣を握っている背の高い冒険者。
三人を見比べたら、冒険者が倒したと思うのは当然だ。
リンダがこっち来い、と手招きしてくれたため、イリックは黙ってついていく。ネッテを置いていこうとしたが、兄上! と背後から抱きつかれたためそのままおぶって連れていく。血だらけで汚いから、途中で川に落とした。
リンダの家に再び招かれた二人は、真っ先に着替えを受け取る。
イリックはフレイムのせいで上半身裸。
ネッテは兄のせいで水浸しだ。
「空飛んでるだけでたいして強くなかったです」
「楽勝です!」
リンダの服を着ているせいか、ちょっとドキドキしながらもイリックはさらりと言ってのける。
「ふふ、そういうことにしといてあげるよ」
リンダは途中からながらも、戦いの様子を観戦していた。冒険者一人ではやられていたかもしれない。素人ながらにその程度のことはわかる。
イリックとネッテは冒険者だけでなく、この村も救った。それは紛れもない事実。
「あ、もしかして、アイール砂丘の赤ガニもあんた達が討伐したのかい?」
「はい、そうです」
「そうかい……」
サラミア港から運んできた包みの中には赤ガニの体液も含まれている。それを入手したのはイリックとネッテだ。
赤ガニと比べてしまえば、先ほどのモンスターなどただの雑魚と言っても過言ではない。
「赤ガニ、正式名称はレッドエクス。デフィアークではウォンテッドモンスターとして過去に討伐依頼が出されたんだけど、挑んだ冒険者が次々に倒されちゃって、終いには軍隊が出向いて始末した曰くつきのモンスターなんだよね。そうかいそうかい」
リンダが不気味な笑みを浮かべる。美人はどんな表情をしても映えるな、とイリックはいらぬ知識を得る。
「へ~、そんなすごいモンスターなんですか。いやまぁ、確かに強かったですけど」
「死ぬかと思いました!」
ネッテの言う通り、本当に死闘だった。二度と戦いたくない相手ナンバーワンは永遠にこいつかもしれない。
「それにしても、こんなところにアーリマンが現れるなんてね。何が何やら……」
「アーリマン?」
リンダの口から飛び出した単語にイリックが食いつく。まるで、目玉のモンスターについて何か知っているような素振りだ。いや、間違いなく知っている。
「そう、さっきのモンスターはアーリマン。禁止区域の一つ、北の地に生息していると思われるモンスターよ。何でこんなところに……」
目玉のモンスターについて説明しつつも、リンダは深刻そうに考える。
北の地。そこは様々な理由で未開のままになっている。一年中吹雪いている厳しい天候も去ることながら、どういうわけか三大大国が北の地への移動自体を禁止している。
足を踏み入れられない以上、開拓などできるはずもなく、手つかずのまま、今も雪だけが積もっている。
その結果、そこに関する情報はほとんど出回っておらず、未開の土地という単語だけが一人歩きしている。
アーリマンがこの村に現れた理由、イリックはそれをモンスター自身の口から聞いた。
「偵察って言ってましたよ。っていうか、人間の言葉をしゃべってましたよ」
「ほう、それは大収穫じゃないか」
人間の言葉を話すモンスター。その時点で世紀の大発見だが、今はそれよりも重要なことがある。
偵察。すなわち、目的を持ってワシーキ村に現れたことになる。自発的かもしれないが、もしかしたら誰かの指示によってアーリマンが動いた可能性も考えられる。
ここから導き出されることは一つ。
アーリマンは何らかの組織に属しており、そいつらは人間の偵察を開始したらしい。
「アーリマンは何で人間の言葉を話せるんですか?」
訊きたいことは山ほどある。リンダがそれに答えられるとは思えないが、イリックはたずねずにはいられない。何でもいいから情報を得たい。興味本位ではなく、本能がそうさせる。
「さぁ? 私だって、デフィアークにいた頃、調査隊が得た情報をちょろっと盗み見した程度なのよね。確か、アーリマンともう一体……、なんだったかしら? デーモン? そんな名前のモンスターを確認できたとかなんとか」
「デーモン……。アーリマンの仲間みたいなのがまだいるのか」
アーリマン自体、聞いたことも見たこともないモンスターだった。そんなモンスターが他にもいるという事実にイリックは寒気を感じる。
「あぁ、思い出した。十年くらい前だったかしら? サラミア港に現れた黒いモンスターがデーモンよ。デフィアークとガーウィンスがそれぞれそう結論付けてたわ」
イリックとネッテは固まる。忘れたい記憶が鮮明に色を帯びてしまう。
「あいつが……デーモン」
内側から湧き上がる怒りを押さえ込みながら、イリックは小さくつぶやく。
「あら、知ってるの? って、サラミア港だから当事者か」
「はい。あいつに両親を殺されましたから」
それは八年前の出来事。忘れたいが決して忘れられない、忘れてはいけない記憶。
その日、イリックはネッテを守ると決意した。
◆
今日も鍛錬に出かける。鍛錬の目的? もちろん釣りのため。
仕事が休みらしく、父さんが家にいる。久しぶりの一家団欒。だからネッテがはしゃいでる。
昼食を食べ終え、居間でごろごろと食後休憩。腹をさするとパンパンだが、エネルギーはいくらあっても構わない。
もうすぐ鍛錬に出発するのだから。
場所はもちろんアイール砂丘。といっても、サラミア港を出てすぐの場所だから、モンスターに出くわすことはない。今はまだ勝てない。不本意だが仕方ない。もうちょっとで勝てそうなんだけど。
台所では母さんとネッテが後片付けの最中。いつもの光景だ。微笑ましいとは思うが手伝う気にはなれない。妹よ、兄の分もがんばってくれ。
窓から外を見るとまぶしいくらい。絶好の鍛錬日和だ。そろそろ出かけるとしよう。
片手剣を背負う。ボロボロのカッパーソードは今日も頼りない。何を斬ったわけでもないのに刃は欠けている。それでも相棒ゆえ、大事に背負う。
行って来ます。そう言おうとした矢先だった。
家を揺らすほどの轟音。なぜ? 考えたところでわかるはずもなく、家を飛び出す。
いくつもの叫び声。
燃える民家。
逃げ惑う人々。
空は青いが、もはや視界は真っ赤だ。
こんな光景は見たことがない。思わず家の中に引き返したくなったが、火に引き寄せられるように足を進めてしまう。
町の入り口に近い家ほど轟々と燃えている。つまり、これを引き起こした人間もしくは何かは外から来た可能性が高い。目に付いた物から燃やしているのだろう。
誰がこんなことを? その疑問は次の瞬間に吹き飛ぶ。
犯人は燃える建物の炎をもろともせず歩いている。ゆっくりと、二本の足で近づいてきている。
人間? いや、違う。
身長は随分高い。冒険者でもこんなに背の高い人は見たことがない。二メートルかそれ以上。
手足の寸法は人間のそれとほぼ同じ。だから、一瞬だけど人間と思ってしまった。
最も違うところ。それは全身の色。頭、体、手、足、至るところが真っ黒だ。炎に焼かれ焦げてしまった? いや、それよりもっと黒い。
じっとこちらを見つめる赤い目がとても綺麗だ。美人とすら思えてしまう。
美人。そう、近づいてきている黒いモンスターは女の人に似ている。
人間の女性に近い顔。体つきも同様だ。黒い鱗のようなものが全身に貼り付いているが、それでもドキッとさせられる。
胸はこぶりながら膨らんでおり、この部位だけでも女性を連想させる。
腰はくびれており、長い足は細くないがゆえに色っぽい。
胸が高鳴る。こんな感覚は始めてかも。
でも、その感情は黒いモンスターによってあっという間に塗り替えられる。
こちらを見たまま、口角を釣り上げた。
コロス。
喋ったりはしなかったが、そう言われたと確信できた。
追い討ちをかけるように、黒いモンスターは右手を大きく開く。指先から伸びている鋭い爪で獲物の肉を切り裂くのだろう。そして、それは自分なのだろう。死を悟りながら、冷静にそう分析してしまう。
この人になら殺されてもいい。なぜそう思ったのかわからない。
生きることを諦めたがゆえに混乱したのだろうか?
美しさに魅了されたのだろうか?
どちらにせよ、もう殺される。抗えない。これは決定事項だ。
「逃げなさい!」
背後から現れた誰かがそう叫ぶ。考えるまでもなく父さんだ。
体から溢れ出る魔力を凝縮させ、父さんがまるで風のようにモンスターの懐に飛び込む。
父さんは魔法の天才だ。昔は夫婦揃って冒険者をやっていたらしい。
父さんは特別な攻撃魔法を扱える。
距離に応じて、すなわち離れれば離れるほど威力が激しく減衰する攻撃魔法。これだけ聞くと、デメリットばかりが目立つが実際その通り。
攻撃魔法のメリットは離れた位置からの一方的な攻撃だ。それを否定する父さんの魔法は誰にも理解されなかった。いや、母さんだけはすごいと褒め称えた。
距離に応じて威力が減衰する。すなわち、相手に近寄れば近寄るほど威力は高まる。その結果、接近時の破壊力は他の冒険者を圧倒する。
一撃必殺の魔法使い。父さんは自分をそう言った。まさに自称。父さんの実力を知っているのは他には母さんしかいない。自分で名乗るしかなかったらしい。
父さんと母さんは二人だけで、サラミア港を中心に冒険に励んだ。
父さんの魔法は、アイール砂丘のサンドスコーピオンやカルック高原のカルックラムを一撃で倒すらしい。それが本当なら人間技ではない。
一方、母さんは回復魔法や強化魔法の扱いに長けている。
二人して後衛の魔法職だが、不自由はなかったらしい。
たった今見せた父さんの超スピードは、母さんのおかげかもしれない。
父さんが黒いモンスターを押し戻す。しかし、それは結果的にそうなっただけであり、目的は別にある。
密着状態からの攻撃魔法。
威力は最大。代償を伴うほどの絶対的な破壊力。
建物を燃やしている炎とは桁が違う魔力の炎がモンスターと父さんを包み込む。人間などあっという間に燃やし尽くす。そう、父さんも……。
当然、モンスターもこれで終わりだ。
炎の中で立ち尽くす人影が、父さんの幻影だろうと目に焼き付ける。
ありがとう。
さようなら。
涙が溢れ出る。
もう立っていられない。地面に向かって、涙をこぼす。
消えない黒い影が、ゆらゆらと炎の燃え続ける。
消えない。
崩れない。
倒れない。
今も立っている。
おかしい。これは明らかにおかしい。
父さんは、真っ先に燃えて無くなった。
なのになぜ、この影は存在している。
影じゃない?
モンスターの死体でもない?
だとしたら……。
ここでイリックの思考は一旦停止する。しかし、次々と新たな感情が沸き起こり、それが黒く混ざり合う。
最悪の可能性は具現化する。
あらゆる物体を炭に変える業火の中で、その化け物だけは生を貫く。
黒い姿がゆっくりと炎の中から現れる。
恐怖。
悲しみ。
絶望。
怒り。
様々な感情を抱き、イリックは立ち上がる。
拾い上げた片手剣を鞘から抜き、歯を食いしばって睨みつける。
勝てるはずがない。仇をとるなんて到底不可能。一撃を浴びせることすらできないかもしれない。
戦力差は子供でもわかる。それでも、やらなければならない。
背後には、母と妹がいるのだから。
ネッテの叫び声が聞こえたような気がした。
視界には、ここは地獄かと錯覚するほどの炎と黒いモンスター。
匂いに至っては最悪だ。木と肉が焼け焦げているのだろう。鼻での呼吸を困難とさせるほどの異臭がツンと突き刺さる。
それらがイリックを奮い立たせる。地面を蹴り、いっきに加速。姿勢を低くし、カッパーソードをモンスターの右足に叩き込む。
手ごたえはあった。金属音がそう錯覚させただけかもしれない。随分と威勢のいい音が周囲に響いた。
カッパーソードに視線を向ける。あっけないほど綺麗に折れていた。
その瞬間、心も折れてしまう。
絶望する子供であろうと、黒いモンスターは容赦しない。
さっと右手を走らせる。
途端、イリックは首に違和感を感じる。体が熱い。しかし、どこか寒い。
体が熱いのは、火が燃え広がっているからだろう。
寒い理由? そんなものはわからない。
とりあえず首に手を当ててみる。何かが流れ出ている。それを確認しようとしても、体はもう動いてくれない。バランス感覚も既におかしい。地面が近づいてくる。
「お兄ちゃん!」
その声だけは聞こえた。ネッテの叫び声だ。
逃げてくれ。
そう願うも、黒いモンスターは母と妹に真っ直ぐ近寄っていく。
やめてくれ。
モンスターが腕を振り下ろす。先ず、母が切り裂かれた。一瞬で絶命したと、なぜかわかってしまった。それほどまでに、容赦のない一撃だった。
誰かネッテを守ってくれ。
自分にはできそうにない。力が足りない。子供だからできない。理由は多すぎてもはやどうでもよく、とにかく、誰かあれを倒してくれ。
薄れ行く意識の中、最後に見た光景は二人の冒険者。
白い鎧と大きな盾を持った、茶色い長髪の女性。
白いローブをまとい、左手に本を持った眼鏡の男性。
頼むから、大人になったら俺が守るから、今は代わりにネッテを守ってくれ。
子供のイリックにできることは、願うことだけだった。
◆
(おっぱいの形整ってたな)
最悪なことを考えていると重々承知しているが、事実なのだから仕方ない。今ではそのことで欲情したりはしないが、自身がおっぱい好きになったのはこのせいかもしれない。だとしたら本当に最悪だ。
「そうなの……。思い出させちゃったのね、ごめんなさい」
「いえ。むしろ名前がわかって感謝してます」
デーモン。イリックはその名を胸に刻む。今更そんなことをしても意味はないのだが、なぜだかそうせずにはいられない。
「今日倒したアーリマンとデーモンは仲間のようだし、ある意味敵討ちができたってことになるのかしら?」
「それは別に……。あの時のデーモンは居合わせた冒険者が倒してくれましたし」
父の攻撃魔法ですら倒せなかった黒いモンスター、デーモン。それを倒したのは二人の冒険者らしい。
らしい、というのは、その最中は気絶していたから。というか死にかけていたから。
事の真相は後から町長とネッテから聞かされた。
丁度サラミア港に辿り着いた二人の冒険者が、デーモンを倒した上に自分の回復すら行ってくれたことを。
あんな化け物をたった二人で……。にわかには信じられないが、まぁ、そうなのだろう。自分もネッテも生きている。それが何よりの証拠だ。
◆
もう少し早く着けていれば。
そう後悔しても意味はなく、長い茶髪を揺らしながら、女はいっきに距離を詰め、黒いモンスターに斬りかかる。
背後から切りかかったにも関わらず、こちらの殺意に気づいたのか、無駄に硬そうな爪で受け止められた。まぁ、それでも構わない。目的は達せられたのだから。
目の前の女の子は救えそうだ。母親らしき女性については……手遅れか。
「この子、まだ生きてるぞ!」
背後から相棒の声。女はニヤリと笑みを浮かべる。もう一人、救える命があるようだ。おっと、喜んでないで指示を出さないとか。
「なら回復してあげて! それまでは一人で耐える!」
言われるまでもない、とずり落ちた眼鏡を元の位置に戻しながら、黒髪の男はすかさずキュアを唱える。
倒れている男の子は首が切り裂かれている。流れ出る自身の血で今にも溺れてしまいそうだ。
しかし、魔力には自信がある。治してみせる。その意思が宿ったキュアは、傷口をみるみる癒していく。
「こっちよ! ウォーシャウト!」
ウォーシャウトの効果時間は十秒。その間、影響下のモンスターは使用者しか攻撃できない。
たったの十秒だが、今はそれで事足りる。
殺意のこもった黒い右腕を盾で受け止め、誰もいない方向へ誘導する。
町を囲む岩壁へ、じりじりと後退。これで女の子からは離れられる。母親らしき女性の死体もこれ以上傷つくことはないだろう。
キュアをかけながら、男はその行動が百点満点だと褒め称える。ついでに倒してくれていいのだが、今回の相手は雑魚ではないと仲間の表情から読み取る。
「おー、強い強―い。う? なんか右手から衝撃波出してきた!」
デーモンの猛攻に晒されながらも、女は笑みを浮かべる。片手剣で、盾で、デーモンの両手から繰り出される重い攻撃を全て叩き落す。
右手から発せられた見えない攻撃も殺気から先読みし、あっさりと盾で受けきる。相当な圧力が加わったはずだが、女はわずかに押されただけで涼しい顔を見せる。
「うわっ! 今度はフレイムまで!」
(随分芸達者なモンスターだな。接近戦主体でありながら、これだけの建物を燃やすフレイムまで……。油断しない方がいいか)
男は、男の子の傷が癒えていく様子を眺めながら、仲間の悲鳴で状況を察する。
しかし、攻撃魔法を使う相手と自分達は抜群に相性がいい。男はそのことを十分理解している。
女が左手に持っている灰色の盾。まだ使いこなせていないが、攻撃魔法をほぼ完全に防ぐこの盾にとって、攻撃魔法は意味をなさない。
傷口は閉じた。血の生成もいくらかできただろう。息もしている。もう大丈夫。目の前の男の子はこれで一命を取りとめたはず。自信満々には断言できないが、医者じゃないのだからこれ以上のことはわからない。
「お待たせ。先ずはどうしようかな?」
男は立ち上がり、戦闘体勢に移行する。
白いローブがゆらゆらと揺れる。左手の本が手のひらから少しだけ浮き上がり、素早くページがめくれていく。
「強化よろしくー! このままだと押し切られそう!」
「はいはい」
大げさな。見た目には互角かそれ以上に見えるけど。まぁ、そう言うのならリクエストにお答えするまで。
手元の本がぴたりと静止する。お目当てのページに辿り着いたからだ。
一つ、二つ、三つ、四つ。
男は強化魔法を連続して詠唱する。
素早い詠唱から繰り出される、豊富な、それでいて適切な強化魔法。
この時点で勝負は決した。
「いらないと思うけど、弱体魔法もかけとくよ」
「よろしくー」
手元の本が再び騒ぎ出す。
一つ、二つ、三つ。
戦闘時に有効な弱体魔法をありえない速度で詠唱する。三つの弱体魔法の詠唱にかかった時間は数秒。すなわち、詠唱時間はほとんどゼロ。魔力の高さでどうこうできる芸当ではない。
こうなってしまえば後は一方的。
女の片手剣がデーモンの命を確実に削っていく。最後までペースは落ちず、あっという間に戦いは終わる。
よろよろとよろめきながら、デーモンは燃え盛る民家に倒れこむ。その衝撃がきっかけとなり、民家はモンスターの死体を包みながら焼いていく。
「戦いづらそうだったね」
「場所が場所なんだモン」
汗一つかかず、二人の冒険者はやってのけた……らしい。
町長やネッテの証言ゆえ、どこまでが本当か、実はちょっとだけ疑っている。
それほどまでに、あの時のモンスターは常軌を逸している。
そんなモンスターすら倒す冒険者がいてもおかしくはないのかもしれない。少なくとも、イリックはそう思いたい。
強いモンスターがいるなら、強い人間がいてもいいだろう。だって不公平じゃないか。きっとこの世界はそういう風にできている。
◆
両親を亡くしたイリックとネッテは、それでも二人でなんとか生きてきた。
家は無事だった。
見回りを任せてもらえた。薄給過ぎてネッテには苦労かけたが。
あの戦いの後、二人の冒険者は怪我人の手当てを手伝い、その後、早々に旅立って行ったらしい。今はどこで何をしているのだろう? 会って礼を言いたいが、この世界は広い。もしかしたら二度と会えないかもしれない。だとしたら残念だ。
二人の冒険者に憧れた? その問いかけには首をどう振ればいいだろう。
憧れはしたが、あくまでも少しだけ。
その後も鍛錬は続けたが、それは釣りのためであり、二人を目指したわけではない。
手の届かない夢を追えるほど、自分は強くない。
それよりも身の丈にあった人生を送ることにした。そうすれば、ネッテを危険な目に合わすことはない。
「それにしても、あんたらも相当腕が立つようだね。冒険者じゃないのに」
スケルトンを一方的に倒したイリック。
高い跳躍力でアーリマンに飛び掛り、そのまま切り刻んだネッテ。
リンダは思い出す。アーリマンとデーモン。それぞれ一回ずつ、戦闘記録が残されていたことを。
北の地を調査するために結成された部隊。
それはデフィアーク共和国とガーウィンス連邦国の二国からなる合同調査隊。
戦闘力を買われ選ばれた者。
モンスター調査の有識者。
土地研究の専門家。
様々な方面から選ばれたエキスパート達だ。
数度目の調査の時にそれは起こった。宙に浮く目玉のモンスターとの遭遇および戦闘。
吹雪の中での死闘は熾烈を極めた。
真っ先に一人が絶命し、その後は戦況を立て直すも、二人目の死者がでた時点で敗走を決意したらしい。
その結果、北の地の調査は一旦打ち切られる。
半年後、再び調査が実施される。北の地の危険性をもう少し解明したいという思惑が働いてのことだった。
前回の出来事から戦力を増員し、万全の体制で合同調査隊は北の地を目指す。
結果、今までで最も奥まで足を踏み入れることができた。しかし、その弊害として出会ってしまう。黒い化け物、デーモンに。
奇襲されたということもあるが、何よりその圧倒的な戦闘力の前に太刀打ちすらできず、調査隊はあっさりと全滅。負傷しながらも、一人生き延びることができたのが唯一の救いと言える。
アーリマンとデーモン。最低でも二種類の凶悪なモンスターが北の地に生息すると判明した。
二国およびサウノ商業国は、北の地のモンスターを刺激しないために、そしてこれ以上の犠牲を出さないために、調査の凍結を決定する。
それから十年以上の月日が流れ、サラミア港にデーモンが現れる。
さらに八年後、つまり現在、ワシーキ村にアーリマンが現れた。
リンダは考える。
この事実が、三国をどう突き動かすのか。
そもそもなぜ北の地のモンスターがここに現れたのか。しかし、考えただけでは決して答えに辿り着けない。
「俺はサラミア港の周辺で見回りを任されてはいますけど、冒険者と比べたらまだまだヒヨッコです。すごいのは妹ですよ。アーリマンを倒したのも妹ですしね」
「妹さん、大活躍だったものね」
リンダがネッテに視線を向ける。美味しそうに熱いお茶を味わっていた。イリックも続く。紅茶もいいが、やはりお茶もいい。
「ん? 私なんかよりお兄ちゃんの方がすごいですよ?」
本心だ。
ネッテは常々こう考えている。兄と本気で戦ったら、十秒持たずにやられる、と。
「妹さんはこう言ってるわよ?」
「謙遜してるだけですよ。俺は凡人、妹は天才です」
「ま~たそういう言い方する。も~」
ネッテが口を尖らせる。イリックはその顔が好きだ。心底かわいいと思っている。しかし、同時にイラッとさせられる。
自分とネッテを比較した場合、イリックは決まってこういう言い方をする。
その真意がネッテには全く理解できない。兄がこの話題の時は必ず嘘をつく理由がわからない。
「事実だよ事実」
澄ました顔でイリックは受け流す。
そんな兄妹のやり取りを眺めていたリンダは、この二人が、正確にはイリックがそうなのだろうと直感的に理解する。
神を信じないリンダが受けた天啓。全てはこの時のためだ、そう結論付ける。
(最後の素材を持って現れた。しかも目の前で実力も証明してくれた。運命なんて信じたくないのだけど、今回ばかりは仕方ないわね)
リンダはすっと椅子から立ち上がる。
「ちょっと待ってなさい、いい物持ってきてあげる。本当は先に結界の修復をすべきなんでしょうけど、あんた達がいるなら急ぐ必要もないでしょう。明日もいるのよね?」
「ええ。明後日の朝出発するつもりです」
明日はワシーキ村の観光および買い物を楽しむ。イリックはそのつもりでいた。
リンダがワシーキ村に張った結界はそう易々と破れるものではない。少なくとも、カルック高原に生息するモンスター程度には傷一つつけることができない。
それをあっさりと破ったアーリマン。
そのアーリマンを涼しい顔をして倒した妹。
そんな妹ですら一目置く兄。
そして、素材を届けてくれた本人。
あらゆる状況が、イリックを指しているように思えた。
リンダが廊下へ消えていく。大人しく待っていよう。そう思いながら、イリックはお茶をすする。
◆
「いだだだだ!」
「降参!?」
「……あんた達、何やってんの?」
妹が兄の急所を握りつぶそうとしていた。
あれから二十分後、リンダは液体の入った小さな瓶を持参して客間に戻る。
イリックとネッテの兄妹喧嘩についてはそれ以上問い詰めず、とりあえず仲直りさせることで収拾を図ることにする。これぞ大人の対応だ。
「はい、これを飲みなさい」
リンダから差し出された透明な小瓶をイリックはまじまじと見つめる。未だに股間が痛むが、それとは関係なしに、飲めという指示に頷くことはできない。
「何ですかこれ?」
中身が何なのかわからない。そんなものは飲めない。
「私もよくわからない」
理解を越える返答を聞かされ、イリックはその場に崩れ落ちる。作った本人すら把握できていない謎の液体を飲めと言い出す錬金術師の頭の中がさっぱり理解できない。
「飲んであげたら~?」
ネッテのご機嫌はまだ傾いているらしい。面倒な妹だ。
「せ、せめて中身が何なのかだけ教えてください」
瓶の中にはわずかに白く濁った液体が入っている。試しに揺らしてみる。水のように震えるため、粘性は高くなさそうだ。でも濁ってる。
「そう言われてもね~。ある日突然、頭によぎったの。あぁ! こうすればきっと何かが作れる! みたいな?」
何一つ理解できないが、自分が実験体にされることだけはわかった。イリックはそっと立ち上がる。
「お世話になりました」
「お待ち! 悪いことは言わないから飲んでみなさい」
「悪いこと言ってるじゃないですか!」
引き下がらないリンダにイリックは困惑する。今すぐ逃げ出したいが、リンダは手を放してくれない。
「ぐいっと」
「飲め飲め~」
リンダとネッテがイリックを煽る。
「……死んだりしませんよね? というかなんで俺が飲まないといけないんですか? ご自身で飲めばいいじゃないですか」
自分が実験体にされる理由がわからない。こうなったら最後まで抵抗する。死ぬならせめて足掻いてから死ぬ。
「すごいものが作れてるって核心はあるのよ。だから安心して」
リンダの発言に説得力は微塵もない。
「飲~め飲~め」
ネッテは相変わらず不機嫌そう。一度機嫌を損なわせると、本当に面倒くさい。
「アーリマンを倒せたあなたならきっと大丈夫! さぁ、飲め」
「アーリマンを倒したのはそこのバカですけど」
「飲~め飲~バカですって!」
兄弟喧嘩が再燃する。イリックは即座に左手で急所をガードするが、ネッテの狙いはそこではない。
イリックが右手で握っている小瓶を掴み、中身をイリックの口に流し込む。鮮やかな動きに抵抗すらできない。今回ばかりは才能の差に絶望した。
「んぐぅ!?」
白い液体が喉を通っていく。今更口に手を突っ込んだところでもう手遅れだ。自分は後何秒で死ぬのだろう。
「ほっほっほ。反省した?」
ネッテが勝ち誇る。後で覚えてろよ。今回は宿屋を二部屋押さえたんだ。イリックの遺言は負け惜しみでしかない。
「よくやったわ。さて、体に何か変化はある?」
「変化って……。角や羽でも生えるんですか? あ……」
その時だった。角や羽は生えなかったが、代わりに体内で魔力の胎動を感じた。
この感覚はキュアの習得時に経験したことがある。何かしらの魔法を習得したようだが、それが何なのか、具体的なことは全くわからない。
習得した魔法がわからない。なんとも不思議な状況だ。
「これは……、魔法のようだけど」
リンダもそれは同様だ。イリックの体から一瞬だか発せられた異質な魔力。しかし、その正体までは予想すらできない。
「う~む……。でも、使える魔法は増えてないんですよね~。修行が足りてないのかな?」
魔法の習得。その方法は二種類存在する。
鍛錬による自動的な習得。イリックのキュアはこちらに該当する。
マジックアイテムによる外部的な習得。今回の件はこちらに該当する。
通常、マジックアイテムにより魔法を習得する場合、資質が足りていないと失敗に終わる。極稀にそれでも習得できてしまうことがあるが、そういったケースでは、自身がそれ相応に成長するまでその魔法を詠唱することはできない。
今回はこのケースらしい。
「かもしれないわね……。レアな現象だわ。現役だったら色々と研究したくなったでしょうね」
リンダは実験体を見つめるようにイリックを眺める。謎の液体を飲まされた時点で既に実験体なのだが、イリックはつっこまない。そんな余力はもうない。
ちなみに兄妹喧嘩の理由は、女性の足は細い方がいいか、太い方がいいか、である。
イリックは太い方がいいと主張する。ちなみにネッテの足は細い。
チビな上に足細いって……ありえな~い。イリックが煽る。
そして喧嘩に発展し、急所を掴まれた。
最終的には白く濁った謎の液体を飲まされた。