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コネクト・クエスト  作者: ノリト ネギ
冒険の始まり
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第二章 きょうだいの旅立ち

 アイール砂丘。

 サラミア港の周囲に広がる砂丘地帯を指す。どこまでも続く白い地面は、太陽の日差しに晒されその白さに磨きをかける。

 周囲を岩山と海に囲まれており、南側は海岸とサラミア港によって構成される。

 段差部分には灰色の岩壁が見え隠れしており、乾燥地帯に生える葉の少ない木がところどころに生えている。天候によってはしっとりと汗をかく程度には暑く、また、地理的な理由から強風が吹きやすい場所でもある。


 サラミア港を出発しておよそ二時間。

 この時間帯にアイール砂丘を出歩くのはいつ以来だろう?

 イリックは赤く染まった世界を見渡す。普段なら太陽の照り返しで眩しい地面が、今はやんわりと夕日色に染まっている。

 この辺りはまだ潮の香りが届くため、故郷から離れたという実感はまだ湧いてこない。


「ゴーゴーネッテちゃーん」


 作詞作曲ネッテ。

 両手を大きく振りながら、楽しそうに歌う。この旅がそうさせるのだろう。


「ゴーゴーお兄ちゃーん」


 以降、振り出しに戻りループする。二つのフレーズで打ち止めなあたり、ネッテらしいと言えばネッテらしい。


「見えてきた。今日はオアシスまで行くぞ」

「ガッテン!」


 イリックは歩みを止めずに前方を指差す。あたり一面に広がる砂浜の地平線に、ぽつんと林のような場所が顔を覗かせる。

 サラミア港の東にはオアシスが存在する。小さな湖を中心に草木が生え渡っており、休憩するもよし、夜を明かすもよし、まさに旅人や冒険者にとっての憩いのオアシスだ。

 ネッテは今日の目的地を視認し、やる気をみなぎらせる。

 腰の左右には一本ずつ短剣をぶらさげており、服装も普段とは異なり戦闘体勢。

 胸部や腰、足を皮製の生地が申し訳程度に覆っており、皮製のハーネスがそれらをがっちりと体に固定している。お腹丸出しだけど冷えないの? ネッテの本気装備を眺める度にそう思うが、本人は至って平然と着こなす。問題ないのだろう。

 この防具は最も安い入門用の装備、トラベラーハーネスだ。冒険者になるため腕を磨く若人や、もしもの時に備えて商人や旅人が購入する。

 本当ならもう一ランク上の防具をネッテに買い与えたいのだが、そんな財政的余裕はどこにもない。


 武器や防具は、使われている素材のランクが上がると金額がグンと上昇する。

 ゆえに、イリックに至っては普通の服を着ている。腰の短剣もネッテのお下がりだ。

 背負っている片手剣に関しては少し前に新調したが、最も安い片手剣、カッパーソードだ。こんな安物を装備する冒険者など見かけない。それまで使っていたカッパーソードが折れてしまったため、渋々同じものを買い直しただけ。

 新調したところですぐに刃こぼれするのだが、アイール砂丘のモンスター程度なら普通に倒せてしまう。少なくとも、イリックなら……。


「楽しいね~」


 ネッテの満面の笑みも雄弁にそう語っている。

 その笑顔を見れただけでも、イリックはネッテを連れてきて正解だったと思うことができる。

 昔から、旅に出たい、冒険したい、と散々言っていたのだから、精一杯堪能してもらいたい。兄にできることはこの程度なのだから。


「見回りとそう大差ない気もするけど……」


 イリックはつい嘘をついてしまう。実はこの状況に感動している。

 十日前後の旅の初日。

 夕日のアイール砂丘。

 もうすぐ野宿。

 楽しそうなネッテ。

 走り出したい気持ちをぐっと堪える。素直にはしゃげない理由は、隣にネッテがいるから。兄として、つい見栄を張ってしまう。

 サラミア港を出発して二時間。

 前方遠くに見えるオアシスまでおそらく一時間から二時間。

 当初の予定通りに一日目は終わりそうだ。



 ◆



「それじゃ見回り行って来る」

「行ってらっしゃい!」


 片手剣を背負い、短剣を腰にぶらさげ、イリックはすっと立ち上がる。

 周囲はすっかり暗闇に飲み込まれ、自分達を照らすのは夜空の星々と足元の焚き火くらい。

 ネッテは慣れない調理器具に四苦八苦しながらも夕食の準備を進めている。

 テントを張り終えたイリックは、自分の役割を果たしに出かける。

 イリック達は東のオアシスに無事辿り着いた。そのタイミングで太陽は沈み、二人はいそいそと夜を越える準備を始めた。

 ここはアイール砂丘のど真ん中であり、それはすなわちモンスターの生息域でもある。周囲の警戒は必須だ。


(夜になるとアンデッドが出るんだよな~。この辺りは大丈夫なんだろうか)


 アンデッド。モンスターの一種。生を持たずに動き続ける、まさにモンスターを代表する存在だ。

 アイール砂丘の東側には全身が骨だけのアンデッド、スケルトンが出現する。体を構成する骨は人骨なのだろうか、骨格は人間そのものだ。

 スケルトンがオアシス周辺にも出現するのか、そこまでは把握できておらず、それを調べるための見回りでもある。


(まぁ、負けはしないし、怯える必要はないか)


 ギルド会館の冒険者曰く、この周囲に生息するスケルトンはさほど強くはないらしい。日中に遭遇するモンスターに勝てるのなら問題ないとお墨付きをもらえた。実際に戦うまではなんとも言えないが、そういうことなら無駄に緊張する必要もない。

 イリックは密集するように生える木々を避けながら前進する。

 焚き火から離れると先は見えなくなる。マジックアイテムの一つ、マジックランプで周囲を照らしながら進まないとまともに前進もできない。握りこぶしよりは二回り程度大きいそれをぶら下げれば、周囲はたちまち明るくなる。

 オアシスだからだろうか? 先ほどからいくつものモンスターが闇に潜んでいる。モンスターにとっても水場は貴重な場所なのだろう。

 イリックはじっと地面を見つめる。

 丸く、弾力のありそうな物体が静かに佇む。大きさはスイカくらい。形も潰れたスイカのよう。しかし、柔らかいのだろうと容易に想像できるその質感から、それが別の何かだと一目で見抜くことができる。


(そうそう、この辺にけっこういるんだよな)


 イリックはしみじみと見下ろす。

 アイール砂丘のオアシス周辺に生息するサンドスライムが、その体をわずかに揺らしながらじっとしている。

 色は肌色よりはやや茶色気味。弾力はゼリーのようだが、質感はざらざらと乾燥した踵のよう。乾燥地帯ゆえ、モンスターの肌も荒れてしまうのだろう。目や口といったものは見当たらない。

 サンドスライムは大人しいモンスターなため、こちらから攻撃をしなければ襲ってくることはない。


 モンスターは大きく分けて三種類に分類される。

 認識した人間に問答無為用で襲い掛かる危険な種類。

 人間を警戒するが、すぐには襲ってこない種類。

 サンドスライムのように、攻撃されない限り、決して人間を襲わない種類。機嫌を損なわなければ、ナデナデと撫でることすら可能だ。

 例外はいるが、モンスターはこの三種類に区別できる。

 割合としては、一つ目が若干多いと主張する人間もいるが、ほぼ同じという意見が主流だ。

 アイール砂丘に関しては、三つ目のモンスターがほとんどを占める。唯一、サンドスコーピオンだけが凶暴な性格をしている。個体数が少ないため、お目にかかることは早々無いが、出会ったら最後、倒すか倒されるかだ。


 無害なモンスター達を踏まないように、イリックはせっせと小さな林を抜ける。オアシスの中にはサンドスライムの気配しか感じられないため、見回りの本番は木々を抜けてからだ。

 アイール砂丘やオアシスに生える木は枝をイリックの頭上で展開するため、ここを横切るのにさほど苦労はしない。視界の悪さが楽をさせてくれないが、走り抜ける必要もなく、イリックは数分でオアシスから抜け出すことに成功する。

 マジックランプを消す。その途端、イリックは完全な暗闇に飲み込まれる。しかし、目が慣れると、夜空からもたらされるわずかな光によって再びこの世界が見えてくる。


(さて、アンデッドはいるかな?)


 いないならそれに越したことはない。そう願いながら、イリックは周囲をじっくりと見渡す。

 断言はできないが、どうやらこの方面にはいないようだ。

 オアシスの外周に沿いながら、イリックは半周ほどぐるりと歩く。

 本当は一周すべきなのだが、これだけ歩いてもモンスターを一匹も目撃できないのだから、過剰な警戒は必要無さそうだと判断する。

 何より、腹が減って仕方がない。ネッテの元へ戻ることにした。

 夕食は何だろう? 手の凝ったものは作れないだろうから、あまり期待しないでおく。一人旅だったら干し肉やパンをかじって終わりだったのだから、ネッテが作った料理に文句を言うつもりもない。

 せっせと木々を抜けていく。やがて、明るい場所が遠くに見え始める。湖のほとり、今晩の野営地で間違いない。


「あ、ただいまー。どうだったー?」


 焚き火を正面に、二人分の料理が白いシートの上に並べて置いてある。その一つにネッテが陣取り、体育座りで兄の帰りを待っていた。

 広めのシートを購入して正解だったな。イリックはこの光景を見て自画自賛する。


「この辺にはサンドスライムがいるだけっぽい。アンデッドが生息してるのはもうちょい東なのかな」


 自信はないがそう結論付ける。少なくとも、スケルトンはサラミア港周辺には出現しない。オアシス周辺にもいないのだから、消去法でもそう導ける。

 ネッテの隣にそっと腰を下ろし、自分用の夕食と見つめ合う。

 おにぎり。

 魚の干物。

 ガーウィンス風サラダ。

 焼きリンゴ。

 豪華とは言えないが、予想以上の献立にごくりと喉を鳴らしてしまう。


「そっか。んじゃ、食べよう!」

「頂きます」

「いただきマンイーター!」


 二人の合図で夕食が始まる。


「それ、意味わかって言ってんの?」


 イリックはネッテの発言につっこみを入れる。

 マンイーター。現在、所在が不明のいわくつきな短剣。数十年前、サウノ商業国でこの短剣を用いた連続殺人が発生し、一時話題になった。

 大量殺人を犯した犯人は最終的には自殺するも、なぜか凶器のマンイーターは見つかっていない。

 この事件の恐ろしいところは、犯人がただの町民にも関わらず、被害者の中には何人もの冒険者や衛兵がいたことだ。彼らは正面から襲われたらしく、しかし、ただの町民に太刀打ちできず殺されたらしい。

 この事件の真相は未だに解明されておらず、マンイーターも所在がわからずじまいのままだ。

 持ち主に呪いをかけるとも、性格を変貌させるとも言われているこの短剣は、一説には西の大陸に渡って生き血をすすっているとも噂されているが、真相は誰にもわからない。


「知らない」

「あ、そう」


 単語だけ覚えているようだ。マから始まる単語の収集に熱心なネッテらしいと言えばネッテらしい。

 気を取り直してイリックは夕食に視線を向ける。

 普段とたいして変わらない献立に感謝しつつ、先ずは干物にかじりつく。自分が釣り上げたイサシはどう料理されようとも美味である。

 魚と言えばお米。というわけでおにぎりに手を伸ばす。出発前、ネッテがにぎっていたことを思い出しながらほうばる。

 もっとも、お米はこれでお終い。明日からはパンや肉の生活が始まる。それはそれで構わないが、少しだけ名残惜しい。


「今日はモンスターとの戦闘なかったね!」


 ガーウィンスティーで口の中の料理を流し込み、ネッテがイリックの顔を覗きこむ。戦闘能力に長けているがゆえに、少し物足りない。


「多分だけど、ワシーキ村まで一度もないと思うぞ」


 そう思う根拠は二つ。

 アイール砂丘には凶暴なモンスターがサンドスコーピオンしかいない。その数も他のモンスターと比べるとかなり少ない。カルック高原についても似たような状況だ。

 もう一つ。こちらが主な理由だが、サラミア港とワシーキ村を定期的に行き来する商人や冒険者によって、道中のモンスターが狩られている可能性が非常に高い。


 ワシーキ村。そして途中で寄る予定のテホト村は陸の孤島である。名産品の輸出、物資の輸入にはサラミア港が地理的に適しており、頻度はそれほど多くはないが、いくらかは物の流れが存在している。

 以上から、そのルートを進む自分達もまた安全であるとイリックは結論付ける。


「な~んだ……。つまんないの~」


 ネッテが口を尖らせる。ネッテが望む冒険には、モンスターとの戦いも含まれているようだ。


「あ、でも、食材が少なくなったら、モンスター倒して肉をゲットするのもいいかもしれないな。東の洞窟付近にはトカゲやウサギが大勢いるんだし」

「おー、いいねいいねー。ウサギはこの前散々倒したから、今度はトカゲ倒そう!」


 楽しそうにさらりと言ってのけるネッテとは対照的に、イリックの顔色が青くなる。思い出したくない記憶が蘇ってきた。悪鬼羅刹のごとく暴れたネッテの姿が鮮明に浮かび上がる前にイリックは心を空にする。

 ガーウィンス風サラダをかきこむ。何種類もの野菜を混ぜ込んだ、ガーウィンス連邦国発祥のサラダであり、ようは野菜を切って盛ってドレッシングをかけただけなのだが、どういうわけか女性には人気の料理だ。

 野菜は嫌いではないため、イリックはもしゃもしゃと草食動物の如く租借する。


「トカゲうんぬんは、まぁ、進行状況次第だな。明日中には洞窟の入り口……、いや、できれば出口まで辿り着きたいんだよな」

「洞窟!? ワクワク!」


 冒険に憧れているネッテがその単語に反応しないわけがない。


「あ~……、洞窟って言ったって、アイール砂丘とカルック高原の境目に存在する岩山をくりぬいたただの一本道だぞ。昔はモンスターが生息したらしいけど、今はもう一匹もいないってさ」


 イリックは容赦なくネッテに現実を突きつける。な~んだ、とつまらなそうな表情をされてもどうすることもできない。

 デザート以外を平らげたイリックは、焚き火を眺めながらゆっくりと焼きリンゴをかじる。甘い匂いが鼻と口から入り込む。

 考えなければならないことが多すぎて、何から手をつけようか悩んでしまう。というかこのリンゴ甘すぎない? 表面だけを食べるとそう感じるようだ。


「明後日どうしよっか」

「もぐもぐ~?」


 イリックの問いかけに、ネッテはリスのように頬を膨らませながら何かを発言しようとする。訊くタイミングが悪かったようだ。


「何事もなければ、明後日の……多分、昼前にはテホト村に着いちゃうんだけど」

「もぐ~」


 ネッテは何かを言いたいようだが、残念ながら兄には伝わらない。仕方ないので少し待つことにする。


 テホト村。カルック高原の北西に位置する小さな村。かつてカルック高原で栄えた伝統文化を今でも継いでおり、その一つである小麦粉の製粉はこの村を支える重要な産業となっている。

 目的地のワシーキ村はカルック高原の南東。

 自分達はアイール砂丘から向かっているため、カルック高原に到着すると同時に、目の前にテホト村が現れることになる。


「――んぐ。テホト村って何?」

(散々待たされてそれか……)


 ガクっと崩れそうになったが仕方ない。一般教養を全く身に付けていないネッテに説明する。もしかしたらワシーキ村についてもまだ把握できていないのでは……。そう考え、併せて説明する。


「ちょっと語弊はあるけど、サラミア港とワシーキ村の中間くらいにあるのがテホト村。カルック高原には明日の晩か明後日の朝には到着する予定だけど、そうしたらすぐにテホト村が見えてくる」

「ほほ~」

「ここからテホト村まで丸一日かもうちょい。んで、テホト村から……、多分、二、三日で目的地のワシーキ村に行けるんだけど、中間地点のテホト村ではどうしようかな、と」


 どうしよう。つまり、食糧や消耗品を買って出発するか、どうせなら宿屋で一泊してしまうか。そういうことだ。

 出費的には痛いが、初めての旅ゆえ、少しくらいの贅沢は許されるはず。疲れが溜まって体調を崩すことだけは避けたいという思惑もある。


「あ! お買い物したい!」

「それは当然するけど」


 ネッテが右手を挙げて必死に主張するが、イリックはその熱意を軽く受け流す。それを前提にサラミア港で出発の準備を済ませた。通り道ゆえ、しない理由はない。


「後はお兄ちゃんにお任せ!」


 判断はイリックに委ねられる。

 テホト村で一泊するか否か。

 この議題をこれ以上考えたところで、今は答えに辿り着けない。現地で状況に応じて判断するしかないのだから。

 何時に到着するか?

 買出しにどれだけの時間がかかるか?

 行ってみないことにはわからない。

 他にも考えなければならない案件があるのだが、イリックは思考を停止する。本日の脳内会議はこれにて閉会だ。

 夕食で腹も満たされたため、イリックはそっと立ち上がる。後は水浴びをして寝るだけだが、その前にやりたいことがある。


「あれ、釣りするの? 釣れるの?」

「わからん。試してみる」


 イリックはマジックバッグから釣り道具一式を取り出し、目の前の湖に向かう。

 魚がいるかどうかもわからないが、いれば何かしらが釣れるはず。釣り人としては挑戦するしかない。


「好きだね~」


 背後からネッテの呆れたような声が聞こえてきたが、そんなものは無視して準備を進める。

 シャっと釣竿を伸ばす。餌はダンゴを選ぶ。容器から少しつまみ、丸めて針に埋める。

 暗くて水中がよく見えないがやるしかない。

 餌をぽいっとやさしく放り、水面に着水させる。そこを中心に波紋が広がるが、やはりよく見えない。

 後はひたすら待つ。

 背後からはカチャカチャと金属音が聞こえてくる。ネッテが夕食の後片付けをしているようだ。

 耳をすませば、カサカサと葉っぱの音色が耳に届く。どうやら風が吹いているらしい。

 自然に溶け込みながら、イリックは釣竿を握る。焦る必要はない。釣れなくても構わない。ゆえに、ただただ楽しめばいいだけ。


(でも釣りたいな~)


 十八歳の少年がそこまで達観できるはずもなく、イリックは当たりを期待する。

 そのまま待つこと十数分。ついにその時が来た。

 ツンツン。弱々しいが確かな手ごたえ。思わず、おっ? とうれしくなる。しかし、まだ釣竿を動かさない。タイミングは今ではないと経験からわかっている。

 ツンツン。

 ツンツン。

 グイーッ。


(今!)


 魚がダンゴを飲み込んだ瞬間を狙い、イリックは釣竿を横に素早く倒す。

 手ごたえは継続中。どうやら針がかかったようだ。

 となればやることは一つ。魚以上の力で釣竿を引き続けるのみ。

 イリックが力負けするはずもなく、二十秒ほどの格闘の末、体力を消耗した魚がだらんと水面に現れる。


「あ、釣れたんだ」

「これは……マンルルスカープだ。どこにでもいるな、こいつ」


 戦利品はマンルルスカープ。大陸の川や湖など、至る所に生息する淡水魚だ。目と口が小さく、鱗が大きい。体は黄色がかった茶色をしている。大きさは比較的大きく、今回釣り上げた固体は二十センチを優に超えている。料理に使われることはあまりなく、しかし、淡水魚特有の臭みはほとんどないため、塩焼きにすれば十分食べられる。


「明日の朝食にする?」

「お、そうするか。んじゃ、もう一匹釣る。あ、二匹ずつにする?」

「どっちでもいいよー」


 それなら、とイリックは釣った魚を網に入れ、湖に一旦垂らす。

 もう一匹、できればもう三匹。妹からノルマが課せられた。

 釣るという行為自体が楽しいにも関わらず、実益まである。やはり釣りは止められない。

 明日からは当分できないため、今日はこのままガッツリ楽しむ。

 寝るにはまだ早い時間ゆえ、ネッテも許してくれるだろう。そう自分に言い聞かせ、イリックは小さな針に餌を取り付ける。



 ◆



 精神的に疲れているのかもしれない。突然の眠気に抗いながら、イリックはぼーっと焚き火を見つめる。この行為と、枯れ木の焼ける音が眠気を助長させている。

 明日の朝食を四匹釣り上げたイリックは、ネッテと焚き火を囲みながら他愛ない会話を続けていた。

 寝るにはまだ少し早い時間。だが、今日はもういいだろう。

 なぜなら眠いから。


「寝る」

「はーい」

「寝る時は焚き火を崩して消すように。んじゃ、おやすみ」


 イリックはもそっと立ち上がり、テントに向かう。初めて張ったため、テントが崩れないか若干心配だが、今のところ大丈夫そうだ。

 ネッテはまだ起きているのだろうという想定で話を進めたが、ふと振り返るとうれしそうについてきている。

 どうやらネッテも寝るらしい。

 二人してテントにもぐりこむ。既に寝袋は敷いてあり、後は体をズボッとつっこむだけ。イリックは素早く上着とズボンを脱ぐ。


「んじゃ、おやすみ」


 ズボッ。


「おやすみ~」


 ズリ、ズリ、ズズズ。

 ネッテが同じ寝袋に入り込もうとする。


「自分ので寝ろ。二個買ったろ」

「ううん、ギリギリのタイミングで一個に減らしたよ?」

「なんてことを!」


 ネッテにしては珍しく頭を働かせたようだが、残念ながらその作戦は見事に大成功だ。余計なことを……。イリックはうぐぐと悔しがる。


「あ、微妙にでかいのはそういうことか!」


 自分一人ではどうも持て余すサイズだが、つまりはそういうことらしい。二個買わずに済んだのだから費用面では貢献してくれたが、その代償はあまりに甚大過ぎる。


「この密着っぷりがたまらない~」


 ネッテが頬を染めながら、体をもぞもぞと動かす。どうも何かを堪能しているらしい。

 今から寝るにも関わらず、息を荒げている妹を無視してイリックは目を閉じる。思考も停止する。疲れているのだから、すぐにでも寝たい。

 ぎゅっと腕に抱きつかれたが、無心ゆえ何も考えないし感じない。


「はぁはぁ」


 鼻息か何かが首元にかかる。生暖かくてくすぐったい。

 ネッテに背を向けたくなったが、腕をがっちりとホールドされているため難しい。こんな甘えたがりだったろうか? こんなもんだったな。そう気づかされる。

 ネッテの素足が足にからみつく。妹に劣情を抱きはしないが、肌の接触はいささか意識させられる。


(だが! 俺は屈しない!)


 イリックの意気込みも去ることながら、何よりこの状況下に置いても睡魔が容赦なく襲いかかってきている。今日だけは睡魔に感謝の気持ちを抱いてしまう。

 すやぁ。

 テントの中に、ネッテの荒い息づかいとは別の穏やかな呼吸音が響き始める。


(お、お兄ちゃん寝てるー!)


 イリックは見事やり遂げる。ネッテの過剰なスキンシップをもろともせず、意識を深い場所まで落としてみせる。どんな状況でも眠れる男、それがイリック。

 しかし、ネッテはめげない。それならそれでこの状況を謳歌するまでだ。

 ネッテが寝静まるまで、二人を包み込む寝袋は終始もぞもぞと動き続けた。荒い息づかいも途切れることなく響き続けた。


 旅の一日目はこうして終わる。

 目的地のワシーキ村まで四、五日。往復にして約十日程度の、初めてにしてはやや壮大な旅。

 町長から預かった荷物を届けるだけの、たいして難易度が高いわけでもなければ面白味もない旅。

 ネッテを満足させるための、最初で最後のつもりでいる旅。

 しかし、イリックはまだ知らない。

 この旅が単なる序章に過ぎないということを。

 巻き込まれ、戦い、決断し、手を差し伸べる。そんな出来事が待っているのだが、それを知るのはもう少し先のことになる。


 何かに疲れたネッテが寝息をたてる。

 それを合図に、テントの中も周囲も完全に静まり返る。

 アイール砂丘に南風が吹く。潮の香りをまとったこの風とも当分お別れ。明日からはいよいよ内陸に進出する。

 二人にとってそこは未知の土地であり、冒険の醍醐味はそういうことだと知る場所でもある。



 ◆



 翌朝、何事もなかったように起床したイリックは、妙に肌がツヤツヤしているネッテのことが気になったが、元からこんなもんだったと思うことで違和感を回避した。なぜなら妹は十五歳だ。

 普段より早く目覚めた理由は野宿ゆえの緊張感が原因だろう。心身ともに十分休息できたことから、イリックはこういったことには向いてそうだと実感する。

 朝食はパン、リンゴ、そしてネッテが調理したマンルルスカープの塩焼き。お米が食べたいが、贅沢は言えない。

 朝食後、片付けを済ました二人は早々に出発する。

 アイール砂丘にしてはどこか湿っぽい気がしたが、早朝はこんなものだろうと納得して東を目指す。

 今日の目的地は東の洞窟。

 洞窟の長さは相当長いらしく、冒険者から、二時間以上はかかると脅かされた。もっとも、モンスターが生息していないのなら安全地帯でしかなく、アイール砂丘を歩くよりも気楽そうに思える。

 理想は出口を目指したいが、到着時間によっては入り口を野営地にする。

 町長の話では、依頼者である錬金術師は首を長くして荷物を待っているらしく、そういうことなら急いであげたいと思うのは報酬の金額も関係しているのかもしれない。親切心だと思いたいが、それは怪しい。


「天気が良くて気持ちいいね!」


 ネッテが笑顔で現状の心地よさを述べる。もっとも、そんなことを言っていられるのは今の内だけだ。

 もう少し日差しが強くなれば、足元の白い砂達が途端に牙を向く。頭上からの日差し、地面からの照り返し。眩しくて仕方ないが、アイール砂丘の名物でもあるがゆえに、耐えながら歩くしかない。

 二人は砂漠のような土地を突き進む。

 サンドスライムや砂ウサギには遭遇したものの、それ以外にこれといった出来事もなく、淡々と洞窟に近づく。

 あーだこーだと話しかけてくるネッテに相槌を打ちながらも、正面を注意深く眺めていると、岩山のふもとに予想よりも早く洞窟の入り口を発見できた。

 東の洞窟。その入り口が大口を開いてイリック達を歓迎している。


「んじゃ、ここいらで昼飯にしよう」

「ガッテン!」


 頭上の太陽は最も高い位置から自分達を見下ろしている。素敵なタイミングだとイリックは喜ぶ。


(これは……もしかして)


 今日中に洞窟を抜けることは容易い。二時間前後の道のりなのだから。早朝の出発が功を成したようだ。

 洞窟を抜ければそこはカルック高原であり、中間地点のテホト村も目と鼻の先だ。


(今日中にテホト村に着けるかも……)


 それこそうれしい誤算だ。そうなれば、迷わず宿屋で一泊できる。買出しは翌朝すればいいのであって、出費は痛いが心と体は間違いなくリフレッシュできる。


「体調というか体力は大丈夫か?」

「もちろーん!」

(だろうな)


 イリックの問いかけに、ネッテは腹から声を出して返答する。

 ネッテは十五歳の女の子だが、かなりのスタミナを誇る。それだけならイリックの方がネッテを上回っている。見回りのおかげで足腰は鍛えられているからだ。


(洞窟を抜けてからテホト村まで、どれくらいで辿り着けるんだろう?)


 イリックは購入したての地図を広げる。そこにはL字のような地形が描かれている。次の目的地であるカルック高原だ。イリックは左上に視線を向ける。

 アイール砂丘および東の洞窟が見つかった。

 出口からテホト村にすすーっと指を這わす。


(この距離だと……数時間ってところか。昼食をさっさと済まして、洞窟を三時間以内に抜けられれば行けそうだな)


 現在の時刻は十二時。

 頭の中では、日が沈んだ頃には着けそうに思えた。若干甘い見通しかもしれないが、初めての二人旅ゆえ、それくらいが丁度いい。


「やる気出してるとこ悪いんだけど、手短に作れる? ぱぱっと食べて、さっさと出発したら、もしかしたら夜までにはテホト村に着けるかも」

「お~。ガッテン!」


 献立が貧相になるかもしれないが、それはどうでもいい。一人旅の食事と比べれば、どんな状況であろうとネッテの手料理の方が勝っているに決まっている。

 手伝えることはないか、とたずねたら、無い! ときっぱり断られたため、シートの上で洞窟の中を眺めることにした。

 入り口の高さは大人の二倍以上。横幅も同じくらい。


(こんなの、人が掘ったもんじゃないだろ)


 途中は細くなるのかもしれないが、少なくとも先人達がこんな横穴を掘りきれるとは到底思えない。

 デフィアーク共和国の軍人や専門家ならそれも可能かもしれないが、それですら何年かかるのか全くわからない。想像しようとしたが、それすらも難しい。

 ではこの洞窟はどうやってできたのか? 周囲にそびえ立つ岩山をぐるっと見上げながら考えてみる。

 最初から穴が開いていた。

 よくわからない自然現象により開通した。

 モンスターがせっせと掘ってアイール砂丘とカルック高原を繋いだ。


(う~む……)


 どれも違う気がする。しかし、どれだけ考えたところで、何一つ答えのようなものは導けそうにない。

 デフィアーク共和国の専門家や調査部隊、ガーウィンス連邦国の研究機関、そういった頭の良い大人でもない限り、調べることすら難しそうだ。

 それでも、こんな大穴を前にするとワクワクしてしまう。

 未知の場所に足を踏み入れるということは、きっとこういうことなのだろう。冒険者になればこんな経験をいくつも味わえてしまう。

 そんな考えが頭をよぎるのは、ネッテに毒されてしまったからかもしれない。


「お待たせー」


 予想よりも早く昼食の準備が整った。

 さぁ、さっさと食べて出発だ。



 ◆



「暗いよ~、ジメジメするよ~、でも涼しいよ~」

 ネッテの発言には完全に同意だが、少々やかましい。

 二人が洞窟に突入してかれこれ二時間。そろそろ出口が見えてきてもいいのだが、まだ前方から光は差し込まない。

 天井の高さも横幅も入り口よりはやや狭くなったが、それでも巨大な一本道は、どこかその脅威性を維持している。

 暗い。太陽の光が差し込まないのだからそれは当然だ。マジックランプのおかげで周囲は照らされているが、進むべき先は暗闇のまま。

 じめっとしている。アイール砂丘のそれとは比べ物にならないほど湿度が高い。今朝も幾分そう感じたが、その何倍も空気が濡れている。

 涼しい。楽園と思えるほど心地よい気温。アイール砂丘は砂漠ではないためそれほど暑くはないのだが、ここと比べてしまうと暑いと言いたくなってしまう。

 何らかのトラブルが発生してここで一夜を過ごすことになったら、喜んで受け入れるだろう。それほどまでにここの環境は快適だ。

 とはいえ、やはり宿屋の方が遥かにまともなのも事実であり、このまま洞窟を抜け、さっさとテホト村に辿り着きたいとイリックは願う。


「もうちょっとで出口が見えてくるんじゃないかな。っていうか、本当にモンスターいないんだな」

「お宝とかないのかな~」


 そんなものはないと断言できる。

 ここはアイール砂丘とカルック高原を行き来するための一本道であり、商人や冒険者が往来する貴重な道でもある。

 分かれ道もなければモンスターもいない、安心して通り抜けられる岩山の単なる穴でしかない。

 

「昔はあったのかもしれないけど……」


 こんな一本道にあるとは思えないが、慰めも兼ねて言ってみる。


「お宝どこー!」


 辛抱ならなくなったのか、ネッテが大声をあげて駆けていく。マジックランプで周囲を照らしているのはイリックなため、当然だがネッテの姿は暗闇に溶けて消える。

 一本道の洞窟ではあるが、真っ直ぐに伸びる整備された道ではなく、ぐねぐねと曲がることもあれば足元に段差も存在する。

 間違いなくネッテは転ぶ、もしくは壁にぶつかる。そう断言できる。

 足音も聞こえなくなり、随分遠くまで進んだようだが、そろそろ叫び声か救いを求める声が聞こえるだろうと考えていた時だった。


「あ! 光が見えた!」

(何だと……)


 どうやら暗闇の中でもネッテは普通に進めたらしい。身体能力が高いことは重々承知していたが、夜目が利くとは夢にも思わなかった。

 とんでもない妹だと再認識させられたが、今はそれどころではない。

 どうやら出口が見えてきたらしい。

 イリックは歩く速度を上げる。本当は走りたいが、こんな暗闇でそんな芸当はできそうにない。というか転びたくない。

 歩けど歩けど出口はおろかネッテにすら会えないが、焦る必要もない。なぜなら、気配だけは前方から感じ取れる。


「早く早くー!」


 ネッテから催促が来てしまう。焦る必要はないが急ぐ。

 やがて遥か前方から、すなわちネッテが立っているであろう場所よりもさらに先から、新鮮な空気が流れ込んでいると気づかされる。

 カルック高原の風だ。


「お待たせ。ん~……、二時間ちょいか。急いでもこんなもんなのか」


 ネッテとの合流を果たしたイリックは、マジックアイテムの一つ、帯時計に目を向ける。

 丸い形の、手のひらにすぽっと納まるそれは、長針と短針で今の時刻を教えてくれる。


「ほら、行こう!」

「というかよく灯りも無しによく歩けるな」

「何とかなった!」

「あ、そう……」


 イリックの到着を喜びつつ、やはり我慢ならないのか、ネッテが再び先行する。

 出口はもう目の前。

 二人は光の射す方を目指す。


(良い風だ)


 正面から吹いてくる風が体をやさしく撫でる。その匂いは、アイール砂丘では決して嗅げない命をまとったものだ。

 ここからでもわかってしまう。この先に広がっているであろう大地は、きっと広大かつ緑に溢れた場所なのだと。

 ネッテよりも先にその光景を見たくなった。歩く速度を速める。これだけの明るさがあれば、転ぶこともないだろう。

 ふんふん、とペースアップ。

 あ! とネッテが追い越されたことに驚いたが、それでもイリックは減速しない。

 マジックランプはもう必要ない。既にしまっている。

 洞窟の役割はここで終わり。

 自分達をここまで連れて来てくれた洞窟に感謝を言い忘れたが仕方ない。この光景を目に焼き付けるのに忙しかったから、今回は勘弁してもらう。

 目の前に緑色の大地が広がっている。緩やかな傾斜がどこまでも続く風が吹きつける土地だ。

 おそらく地理的には最も低い位置なのだろう。南に広がる光景は、どこまでもずっと、それこそ山なのかと錯覚するほどに上り坂だ。

 樹木は思ったよりはずっと少ない。しかし、昔の人が作ったであろう土の道や、ところどころに露出している土や岩以外は、どこまでも緑色に覆われている。

 砂で覆われたアイール砂丘しか知らない二人にとって、冒険の第一歩は見事成功する。

 現在地はカルック高原の北西。ここから南東に進み、ワシーキ村を目指す。

 その前に、まずはテホト村に寄ろう。進行方向に見える小さな村がきっとそうなのだから。

 ネッテに至ってはもう走り出している。

 東を見ればとてつもない高さの岩山。

 西を見ても同じ。

 南にはなだらかに続く坂。頂上は遠すぎてよくわからない

 遥か前方で、ネッテがこちらを向いて手を振っている。

 急げと言っているのだろうか?

 早くと言っているのだろうか?

 走れと言っているのだろうか?

 とにもかくにも、今は前進しよう。



 ◆



 テホト村に到着した二人は宿屋を探す。もっとも、すぐに見つかった。


(サラミア港よりも田舎な場所があるとは……)


 イリックは周囲を見渡しながら失礼なことを考える。

 サラミア港は港町である。漁を産業とし、近隣の海でしか獲れない魚を他国に輸出している。若干寂れてはいるが、港であり漁が盛んな以上、ある程度までは発展する。

 一方、三大大国の発生およびそれらが海を移動する機船により繋がった現代では、内陸の村々はよほどの存在意義がない限り、消え去るしかない。

 テホト村は歴史ある村だ。伝統文化を今でも継承しており、小麦粉の生産がこの村を支えている。

 地理的に不便な場所だが、それでも生き残れている理由はそういうことだ。

 とは言え、小さい村であることには変わりなく、あまり頑丈そうではない柵で覆われたこの村は、入り口付近からほとんど全ての店を一望できてしまう。

 お目当ての宿屋もあっという間に見つけることができた。


「買出しは明日でいいか」

「ガッテン!」


 そもそもそのつもりでいた。

 現在の時刻は午後六時。

 丁度日が沈み、村の灯りがありがたくなった頃合い。

 二人は宿屋を目指す。二階建ての、随分老朽化している白い建物がいかにもそれっぽい。何より看板が宿屋ですと宣言している。この村で二番目に大きな建物だが、こんなに大きくて経営は大丈夫だろうか? と意味もなく心配してしまう。

 扉を開けて中に入る。むわっと肉の匂いが立ち込める。宿屋なのになぜ? その疑問はすぐに解消する。一階は酒場になっているらしく、既に村民でごった返している。外で見かける人が少ないと思ったらそういうことらしい。

 なぜだか少し緊張してしまう。考えてみたら、宿屋に泊まったことなどなかった。ドキドキしてしまう。ネッテに至っては目を光らせている。いちいち感動してくれて兄としてはうれしい限り。

 イリックは受け付けと思われる場所に立っているふっくらした女性に声をかける。酒場の店員だったらどうしようと思ったが、杞憂だったらしい。

 手続きの仕方などわからないが、身構えるほどのこともなく、宿泊人数を伝え、部屋を提示してもらい、首を縦か横に振ればいいだけだ。

 イリックとネッテ、二人。ゆえに一人部屋を二つ。そのつもりでいた。


「二人部屋でお願いします!」


 ネッテが笑顔で言い切る。そういうことになってしまった。普通に嫌だが、もう遅い。

 手続きが終わると、イリックはネッテを部屋に先行させ、女性から様々なことを教えてもらう。

 宿屋兼酒場のここは、冒険者や商人、旅人のために携帯食糧の販売も行っているらしい。

 テホト村はモンスターを寄せ付けないマジックアイテムによって守られている。そんな便利なアイテムは聞いたことがない。どうやら比較的最近、導入されたらしい。

 ギルド会館は村の奥にあるが、クエストは多くないようだ。全くのゼロというわけでもないが、立ち寄った冒険者が小銭稼ぎついでにこなす程度だ。イリックは急いでいるため、今回は立ち寄るつもりはない。

 ここからワシーキ村まで、およそ三日。テホト村もワシーキ村もカルック高原の端と端に位置するため、それだけの時間がかかってしまう。

 事情はある程度飲み込めた。イリックは礼を述べ、二階に続く階段を上がる。部屋ではネッテが待っているはず。荷物を置いて、夕食にしよう。それと、二人部屋を選んだ理由を問い詰めよう。いや、わかりきっている。



 ◆



 村民達のどんちゃん騒ぎを聞きながらの夕食は楽しかった。騒々しいだけかと身構えていたが、杞憂だった。

 味も申し分なく、運ばれてくる料理一つ一つがきらめいていた。

 こういったところで、というか外食自体ほとんどしないため、ネッテは終始大騒ぎ。静かにしろ、と言う必要もなく、その笑顔だけでお腹一杯になりそうだった。

 部屋に戻ったイリックは、小さく息を吐きベッドに腰掛ける。腹を摩ると、満腹だ、と言い返される。

 時刻は午後八時。

 寝るにはまだ早い。

 ネッテは一階で食糧の買出し中。自分がやってもいいが、ここは専門家に任せる。

 邪魔者が帰って来る前に風呂に入る。ネッテがいると、何かとちょっかいをだされそうだから。一緒に入ろう、くらいは言ってくるはず。別に構わないのだが、できれば一人でゆっくりと体を流したい。

 一方、ネッテは一階の女性と話しこむ。

 干し肉、パン、水、この旅に必要そうなものは既に伝えており、女性は口と手を動かしながらネッテの話し相手になる。


「兄妹で旅なんてえらいわね~」

「初めてなんでドキドキです!」


 ネッテは歯を出して笑顔を振りまく。


「ワシーキ村までまだかかるから、この先も気をつけなさいね」


 テホト村からワシーキ村まで約三日。サラミア港からここまで一日半かかったことを考えると、目的地までまだ倍近くかかってしまう。


「ワシーキ村って遠いんですね!」

「そうなのよ。急げば二日ちょっとで行けるでしょうけど、それだって大変よ。初めての旅ならなおさら堅実に進んだ方がいいわ」


 休み時間、食事の時間、睡眠時間、それらを削るか、駆け足で移動すれば時間はいくらでも短縮できる。

 もちろん、イリックはそんなことをしない。今回は初めての旅なのだから、急ぎつつも、じっくり進むつもりだ。


「そうなんですね。あ、魚の燻製もあるんだ。それもください!」

「はいよ。持てるかい?」

「お兄ちゃんから鞄渡されてるので大丈夫です!」


 ネッテはマジックバッグをぐいっと持ち上げる。

 どれだけ食糧を購入しようと、これに放り込めばたちまち解決する。父親のお古なため、ぼろぼろで色あせているが、まだまだがんばってもらうしかない。二人にはどうしたって新調できない高級品なのだから。


「お待たせ」


 女性がどかっとネッテの指定したものをカウンターに置く。

 ネッテは金を支払い、一つずつマジックバッグに詰め込んでいく。

 まるで自分の娘でも眺めるかのようにネッテを見ていた女性が、思いついたようにごそごそと棚を漁り始める。


「はい、おまけ。お兄ちゃんと飲みなさい」


 カウンターに二本のオレンジジュースが置かれる。簡易的な皮製の水筒に入っており、それ自体もそこそこの値段がする。


「ありがとう! お風呂入ったら飲みます!」


 ネッテの笑顔が女性にも移る。

 やはり旅はいいものだ。冒険者になりたい。ネッテは今まで募らせていた想いをより一層強くする。

 部屋に戻ってお兄ちゃんに提案しよう! そう思いながら、二階に続く階段をせっせと上っていく。

 しかし、部屋に戻っても兄はいない。あるのは二つのベッドとテーブルと椅子。

 宿屋の入り口は一つ。しかし、そこには先ほどまで自分がいた。窓から飛び降りてどこかに行った? そんなはずはない。

 ベッドの下? いない。

 お風呂? まさか私を待たずに入るはずがな……入ってる!


「コラー!」


 ドンドンドン。ネッテは浴室の扉を叩く。入れろ、という意味を込めて叩く。

 私も入りたい、そう強く念じても中から応答がない。


「後二分待っとれ」


 やっと聞こえてきた返答は、諦めろ、という通告。一緒に入るという野望はあっさりと砕かれる。


「いけずー」


 負け惜しみをぶちまけ、ネッテはベッドに戻る。

 本当は風呂上りに飲むつもりでいたが、早速オレンジジュースに手を伸ばす。手持ち無沙汰ゆえ、致し方なし。


(あぁん、おいし~)


 味を反芻するだけで唾液が口の中に溢れてくる。多少のすっぱさがたまらない。絞りたてだろうか? こんなに美味しいオレンジジュースは飲んだことがない。

 サラミア港でもオレンジジュースは普通に飲める。オレンジジュースと言わず、大陸のあっちこっちから定期船で様々な食べ物が運ばれてくる。ゆえに不自由することはないのだが……。

 欠点は二つ。

 先ず、値段が高い。定期船で運ばれてくることから仕方ないのだが、サラミア港では食材がどれも高い。

 イリックの見回りの給料は少なく、その上食材の値段が二人の生活をより一層圧迫し続ける。

 イリックの釣りバカっぷりに文句を言い続けてきたが、実は助かっていた。

 次に、いくらか運ばれてくるまでに時間がかかるため、新鮮な食材にはなかなかお目にかかれない。

 自称料理人としては、これはなかなかもどかしい。もっとも、料理が成功しようが失敗しようが、イリックは何も言わず食べるため、食材に気を使う必要はこれっぽっちもなかったりする。


「出たぞー」


 浴室の扉が開く。髪がまだ乾ききっていないイリックが肌を赤く染めながら現れる。


「も~、一緒に入りたかったのに……」


 だろうな。イリックはその目論見を見抜いており、ゆえにさっさと入浴を済ませた。


「お、それ何?」

「オレンジジュース! もらったの! どうぞ!」


 テーブルの上には二つの水筒。イリックはどれどれ、と風呂上りの喉を潤す。


(こ、これは美味い。こういうのも旅の醍醐味なんだろうな)


 イリックは驚愕しつつ、さらにもう一口ゴクゴク喉を鳴らす。


「それじゃ、私もお風呂入ろ~っと。覗いてもいいよ」


 ネッテはちらりと流し目をイリックに送りながら、ゆっくりと浴室に向かう。


「おまえじゃないんだからそんなことはせん」


 ドキリ。イリックの指摘に心臓が跳ねる。ネッテは恐る恐る振り返る。


「俺が気づかないとでも思ってんのか。昨日だって思いっきり水浴び覗いてたろ。というか、家でも時々してたろ」


 気配感知にかけては、イリックはネッテを上回っている。並の冒険者にも負ける自覚がある。


「そうだったの? その割りには平然としてたけど……」

「当たり前だ。妹に裸見られたからって騒ぎはせん。見たいならいくらでも見せやる。いや、わざわざ見せたりはしないけど」


 見せて! と言おうとしたがイリックに先手を打たれる。


「じゃー、なんで一緒に入ってくれないの!」

「一人で入りたいから」

「あ、うん」


 それだけの理由。風呂に入る時は一人で入りたい。ただそれだけ。


「てっきり、裸を見られたくないとか、あそこに自信がないのかと思ってた」

「そんなこと思ってたのか……。いや、確かに自信なんかないけど。っていうか、どうせ覗く度にちらちら見てたんだろ」

「うん!」

「さっさと入ってこい」

「ガッテン!」


 このやり取りがアホらしくなってきたため、イリックは話を打ち切る。生産性の欠片もない、本当に無益な会話だ。

 一人になったらなったでやることもなく、イリックは部屋の窓を開けてみる。

 聞こえてくるのは付近を歩く人達の足音くらい。

 波の音と潮の香りがしない。ただそれだけのことが新鮮で仕方ない。同時に物足りなくなく感じてしまうのはわがままだろうか? 多分、そうなのだろう。

 窓から見える景色をイリックはじっと見つめる。カルック高原の傾斜がどこまでも続いている。

 明日からはこの山のような場所を登らなければならない。

 角度はなだらかゆえに、そこまで疲れるとは思えないが、そこを三日近くも進むのだからなかなか大変そうだ。

 ふっと風が吹く。

 カルック高原は風が強い土地だ。今は吹く風がただただ心地よく、初めての部屋にどこかドギマギしながらじっと暗い景色を眺める。

 思い出したように、テーブルの上のオレンジジュースに手を伸ばす。

 窓の外を眺めながら飲んでみる。かっこつけてるように見えるかもしれないが、そんなつもりは毛頭ない。ネッテに目撃されたらおちょくられそうだからそろそろ止める。

 窓は開けたまま、イリックはボスンとベッドに腰を下ろす。


(や、やわらかい。シーツもさらさらだ)


 この感触には心底驚かされる。

 仕事に就けたら、シーツくらいは買い換えよう。そう思わずにはいられない。


(暇だから一階をうろうろしたり、外出歩いてみようかな)


 そうは思っても実行できない。ネッテを置いてそんなことをしたら、再びワーワー騒がれてしまう。

 今はただ、ベッドの柔らかさに身を委ねてゴロゴロすることにした。



 ◆



「そろそろ寝るー?」


 気づけば十時を過ぎており、マジックバッグの中身を確認していたイリックは、ネッテの提案に頷く。

 テーブルの上はお祭り騒ぎの如く散らかっており、イリックはそれらをせっせとマジックバッグに戻す。

 宿屋で食糧を購入できたことはうれしい誤算だ。

 当初は明日の朝、店が開いてから買い足すつもりでいたが、これなら早朝の出発も十分可能だからだ。

 町長からの依頼内容は荷物の配達。

 待っている人がいる以上、可能な範囲で急ぐべきだと承知している。ゆえに明日も今日のように朝早くから出発するつもりだ。


「ふわ~。確かにもう眠いんだよな~」


 今朝も随分と早起きだった。十時で眠くなるのも当然と言えば当然かもしれない。

 さっと上着とズボンを脱ぎ、イリックは空いているベッドに潜り込む。どちらがどちらのベッドを使うか決めたわけではないが、ネッテが窓際のベッドに腰掛けている以上、イリックはもう一方のベッドを選ぶ。


「それじゃ、灯り消すね」

「ほい」


 ネッテがテーブルの上のマジックランプにそっと触る。スイッチをオフにした途端、室内の雰囲気がガラッと変わる。

 明るさだけでなく、音もどこかに消え去ってしまう。


(うん、いっそベッドごと買い換えちゃうか)


 普通の宿屋に設置してあるベッドでこの破壊力なら、高級品はもっとすごいのだろう。素敵な睡眠が約束されるのなら、せっせと働いていつかは購入してみたい。イリックはそんなことを夢見る。

 体がベッドに溶け込むような錯覚に陥りながら、イリックはゆっくりと意識を沈めていく。

 釣具店も漁師ギルドもダメな以上、とりあえずは何でもいいから働かせてもらえる場所を探そう。もしかしたら町長が良い仕事を見つけてくれているかもしれない。

 贅沢をするつもりはないが、こんな心地よさを味わってしまった以上、いつかは自宅でも堪能したい。

 やる気をみなぎらせながらも、ぞわぞわと意識が薄れていく。手足の感覚が切り離されて何も感じなくなってきた頃だった。

 もぞもぞ。

 侵入者発見。迎撃します。

 手足の感覚を蘇らせ、こっそりとベッドに潜り込もうとしている邪魔者を、イリックは体勢を変え足で押しのける。

 バタン。

 見事、ベッドから突き落とすことに成功した。


「なんで~?」


 答えないとわからないのだろうか? 多分そうなのだろう。


「自分のベッドで寝ろ」


 イリックは冷たく言い放つ。そのためにベッドが二つあるのだ。


「いいじゃ~ん」


 それでもネッテは食らいつく。諦めるという単語を知らないらしい。それはいいことなのだが、この状況下では邪魔なだけだ。


「一度知っちゃったら、もうお兄ちゃん無しじゃ寝れなくなっちゃったの」


 お願いだから人前では絶対に言うんじゃないぞ。誤解しか生まない。


「ダメ」

「入れてくれるまで続けるモン」


 イリックがいくら断ろうと、ネッテはめげない。

 その言葉通り、いくらイリックが足や手でガードしようと、ネッテは延々とベッドへの侵入を試み続ける。

 どうやら折れるしかないらしい。もちろん、イリックが。

 まさかこちらが諦めるハメになるとは夢にも思わなかったが、夢を見るには眠るしかなく、眠るにはネッテを受け入れるしかない。

 イリックは抵抗を止め、ネッテはいそいそとイリックの元へ向かう。


「むふふ。やっと観念した~」


 うれしそうに、ネッテはニシシと笑う。猫のようにゴロゴロと喉を鳴らしながらイリックに体を寄せる。

 兄の右腕には無駄な肉がついておらず、太くはないが男の腕をしている。ゴツゴツしているが、抱き心地は悪くない。


(右腕一本で満足してくれるなら安いもんか)


 諦めの境地に至りながら、イリックはやっと眠れると事態の沈静を喜ぶ。明日も朝早くに出発したいのだ、無駄なことで睡眠時間を削りたくはない。


「お兄ちゃん?」

「もう寝てます」


 そういうことにしたい。だが、ネッテは話すのを止めない。


「私、冒険者になりたい」


 ネッテの気持ちはわかっているのだが、イリックにも承諾できない理由がある。


「お兄ちゃんと冒険したい。色んなところに行ってみたい」


 ネッテの独白を聞きながらイリックは考える。ここまで自分の意思を率直に訴えるネッテを見たことがあっただろうか? 思い出そうとしても、記憶のどこにも見当たらない。

 きっと本気なのだろう。それはわかっている。しかし、やはり首を縦に振ることはできない。

 ネッテの身に危険がおよんだ場合、自分一人でどうにかできるとは到底思えない。ネッテの方が強いのだから、ネッテですら敵わないモンスターと遭遇した場合、自分ではどうすることもできない。

 二人仲良く殺されるか、ネッテか自分が命をかけて足止めするか、そんな状況しか思い浮かばない。

 そんなものは受け入れられない。ゆえに、冒険者にはならない。

 しかし、頭のどこかで冒険者になってからのことをシミュレーションしている自分がいるのも事実であり、冒険者になった自分の隣には、とても楽しそうなネッテが立っているのもまた事実だった。


「お兄ちゃんなら大丈夫だから」


 その言葉の意味はわからないが、妹を助けるのは兄の役目であり、それだけの実力を身に付けるにはどうしたらいいのだろう、と答えの出そうにない問いかけについてしばらく考えさせられる。


 この答えが見つかったら、冒険者になってもいいかもしれない。夢の中で、そんな結論を導いてしまう。



 ◆



 冒険者。モンスター退治、アイテム収集、商人の護衛や物資の輸送といった危険な仕事を生業とする人々を指す職業。

 三大大国である、デフィアーク共和国、ガーウィンス連邦国、サウノ商業国のいずれかで冒険者登録を行うと冒険者として認められる。


 冒険者、正確には全ての人間は次のような才能で分類される。

 盾役。

 前衛攻撃役。

 中衛攻撃役。

 中衛補助役。

 後衛攻撃役。

 後衛補助役。

 後衛回復役。

 合計七種類。

 人間は生まれながらにして、七種類のいずれかに該当する才能を持ち合わせている。そして、それに対応した魔法や戦技を扱える。


 戦技。魔法と対を成す神秘。魔法がマジックポイントを消費するのに対し、こちらはノーリスクでそれを発動させることができる。唯一のリスクは、魔法よりも再使用時間が長いこと。ゆえに、魔法よりも使いどころを考える必要がある。


 盾役。モンスターの注意を引き付けながら、味方を守るための戦技を習得する者。回復魔法の習得も可能だ。


 前衛攻撃役。剣や斧でモンスターに接近戦を挑む者。ネッテはここに該当する、と思われる。

 言い切れない理由、それは、ネッテが未だに魔法も戦技も一切習得していないから。


 中衛攻撃役。弓やボウガンの扱いに秀でた者。一流の弓使いは後衛攻撃役よりも離れた位置からモンスターに攻撃をしかけられるが、分類としてはここに属する。


 中衛補助役。歌うことで周囲に良い効果をもたらす者。前衛や後衛の間を行き来するため、中衛に分類される。


 後衛攻撃役。攻撃魔法により離れた位置からモンスターと戦う者。魔法使いと呼ばれている者はここに当てはまることが多い。


 後衛補助役。強化魔法で味方をサポートし、弱体魔法でモンスターを弱らせる者。回復魔法も扱えるため、人気のある分類。


 後衛回復役。多くの回復魔法を習得する回復のスペシャリスト。一部強化魔法も扱える。冒険に出発する際、必ず一人は必要とされる。

 イリックはここに分類されると思われる。

 そう断言できない理由、それは……。


「寝違えたな、首が痛い」

「回復魔法使ってみたら?」


 テホト村を出発して二日目。二人はカルック高原の緩やかな角度の草原を上り続ける。

 首を押さえながらぼやくイリックに、ネッテが的確なアドバイスを送る。

 それもそうだな、とイリックは唯一使える魔法を自身に唱える。


「キュア」


 その声と共に、イリックの体が白く、それでいて透明な光に包まれる。その淡い光は、誰が見えも対象に良い効果をもたらすと理解させる。


 キュア。回復魔法の一つ。傷を癒す最も基本的な回復魔法。傷の癒え具合は詠唱者の魔力に応じ上下する。

 この魔法を習得できる分類は、盾役、後衛補助役、後衛回復役の三種類と言われている。

 後衛補助役は通常、強化魔法や弱体魔法を先に習得することが多い。

 盾役の場合、戦技の習得が先なことが多い。

 消去法で、戦技を一切使えず、キュアしか習得していないイリックは後衛回復役に当てはまると考えられる。


「どう?」

「お、治ったっぽい」

「さすが!」


 便利な魔法だな、とイリックは感心する。今後は寝違えても問題なさそうだ、とよくわからない安心感を抱くことができたが正直どうでもよい。

 イリックは回復魔法の一つ、キュアを使える。去年、何の前触れもなく習得した。自分はてっきりネッテと同じ前衛攻撃役だと思っていたため、大層驚いたが落ち込みはしなかった。むしろ喜んだくらいだ。

 キュアという魔法は傷を治すという特性ゆえ、非情に重宝される。誰もが憧れる魔法といっても過言ではない。

 その回復能力は詠唱者の魔力に依存するため、本来ならばイリックは魔法の修練に励むべきなのだが、面倒くさい、というかそもそもやり方がわからないため、それ以降も剣の腕しか磨いていない。

 ゆえに、回復能力は決して高くなく、そもそも他人と比べたことがないためイリックもよくわかっていないが、付け焼刃程度の回復しかできない。

 イリックはこう考える。瀕死の人間を一度のキュアで完治させることはできなくても、何度も詠唱すればいい、と。

 ところがこの考え方にも一つ欠点がある。

 イリックは、魔法の威力を左右する魔力も去ることながら、魔法にとってのスタミナ、マジックポイントも乏しい。

 キュアはさほどマジックポイントを消費しない魔法なのだが、イリックは十一回しか唱えることができない。

 マジックポイントはスタミナのように時間経過で回復するとはいえ、十一回はなかなかに悲惨な回数だ。

 駆け出しの冒険者ですら、二十回。凄腕と呼ばれる回復役はその数倍と言われている。

 どうやら魔法の才能はないらしい。この言い方だと他に才能があるように聞こえるが、剣の腕や身体能力もおそらく普通くらい。ネッテという天才と比べての感想だが。

 だからと言って嘆くことはしない。アイール砂丘のモンスター相手に傷を負ったことなどここ数年記憶にない。

 昔は一戦一戦が激戦だったが、それは子供の頃の話。

 今では目を閉じたままでも倒せるかもしれない。そんなことはしないが。というか、おそらく負ける。

 キュアしか使えない後衛回復役。冒険者を目指すのなら嘆かなければならない状況だろうが、イリックは普通の仕事に就きたいと考えており、ゆえに便利な魔法が使えてラッキー程度にしか思っていない。

 むしろ納得できたことがある。

 前衛系の人間と後衛系の人間では、身体能力に差があると言われている。

 前衛系は身体能力が高く、後衛系は魔力が高い。

 この説はおそらく正解なのだろう。イリックはそう考える。前衛攻撃役のネッテを見ているとそう思わずにはいられない。

 アイール砂丘で釣りをしたいがために鍛錬を始めたのは七歳の頃。

 モンスターに勝てるようになったのは四年後の十一歳。とは言え、この頃は勝つか負けるかのギリギリの戦い。

 三年後の十四歳でやっと圧勝となった。

 ネッテはどうかと言うと、鍛錬を開始したのは二年前、つまり十三歳。一緒に見回りに行きたいと言い出したためだ。

 アイール砂丘で最も弱い青ガニを倒したのは二週間後。四年かかった自分は凡人だとこの時思い知らされた。

 さらに二週間後には、サンドスコーピオンにすら勝ってしまう。アイール砂丘で一番手ごわいモンスターに、だ。

 さらに一ヶ月後、試しに模擬戦をしてみたら負けそうになった。ギリギリ勝てたため、兄としての面子は保たれた。

 イリックの十年間に、ネッテは二ヶ月で追いついてみせる。単なる才能の差かと思ったが、後衛回復役と前衛攻撃役の違いも関係していると考えたら、少しだけ納得できた。慰めかもしれないが。

 そもそも後衛回復役が片手剣と短剣で戦うこと自体が間違いなのかもしれない。

 もっとも、パーティを組んで行動する冒険者ではないのだから自分はこれでいいのだと言い聞かせる。

 一般的な冒険者のパーティは、それこそリーダーないし主催者によって千差万別だが、概ね次のような組み合わせが主流だ。

 盾役。

 前衛攻撃役もしくは中衛攻撃役。

 中衛補助役もしくは後衛補助役。

 後衛攻撃役。

 後衛回復役。

 パーティの人数や、それこそリーダーや主催者の好みや得意な戦い方、目的地によって、構成はいかようにも変化する。

 しかし、バランスよく組み合わせることが鉄板と言われている。

 ゆえに、盾役なら盾役としての役割を、後衛回復役なら回復役としての役割をこなさなければならず、イリックのようにキュアしか使えません、という人間は決して回復役としてパーティに入れてもらうことはできない。

 非情だが、死んだら人生終わりなのだから仕方ない。

 このことから、二人達は冒険者には向かない。

 イリックはキュアしか使えない。

 ネッテに至っては、戦技を一つも習得できていない。

 こんな冒険者など、普通はありえない。

 ネッテの場合は類稀な身体能力のおかげで普通にパーティを組めるかもしれないが、その場合、兄は置いてけぼりだ。

 では、二人で冒険に出よう。そう考えるしかなく、それだと自分達の不甲斐なさなど気にする必要はどこにもない。

 キュアしか使えないが、裏を返せばキュアは使えるのだから、案外どこにでも行けそうに思える。

 盾役も補助役もいないが、そもそもそんな大所帯でなければ倒せないようなモンスターがいる場所に行かなければいいのであって、身の丈にあった土地なり洞窟なりを選べば、食いっぱぐれることはない。

 この旅を楽しんでいる自分がいるのも事実であり、ネッテの願いを叶えてやりたいという気持ちも十分持ち合わせている。

 テホト村での一夜を思い出す。


「私、冒険者になりたい」

「お兄ちゃんと冒険したい。色んなところに行ってみたい」


 ネッテは本気で言っていた。昔から本気だったのだろうが、少なくとも今回ばかりはチクリときた。


「お兄ちゃんなら大丈夫だから」


 この言葉の意味は未だにわからないが、とにもかくにも、昔と違って今の自分は揺らいでいる。


(叶えてやりたい……なぁ)


 そう思えど、妹を死なせるわけにはいかない。なぜなら、あの時誓ったのだから。



 ◆



 翌日、すなわちテホト村を出発して三日目。

 宿屋の女性が言うには、ワシーキ村には今日中に着ける。

 空は灰色の雲で完全に覆われている。雨が降らなくてよかったと二人は胸を撫で下ろす。ネッテの胸はまっ平らゆえ、容易に撫で下ろせてしまう。

 この二日間、ずっと坂道を上り続けた。足腰が少し鍛えられたような気もするが、多分気のせいではない。

 モンスターとの遭遇は数度あったが、どれも襲ってくることはなく、むしろこちらから襲いかかってしまう。

 羊のモンスター、カルックシープ。この地方に生息する温和なモンスターであり、見た目はまさに羊そのものだ。羊毛や皮、肉目当てで狩られることが多い。


 モンスターは不思議な生き物だ。どれだけ乱獲しても、それこそ全滅させても、時間さえ経てばどこからともかく姿を現す場合がある。

 野生動物のように、絶滅させるとそのまま地上から消え去る種類もいるのだが、モンスターに限っては当てはまらないことがある。

 もちろん、仕組みも理屈も解明されておらず、しかし、時にそれは人間に恩恵をもたらす。


 カルックシープ。このモンスターはどうやら絶滅させることができないらしく、狩れど狩れど、再びカルック高原に出現する。

 この生態は不気味で仕方ないが、羊毛や毛皮、肉はどれも重宝されており、クエストを受注した冒険者が必要数を確保するため、日夜カルックシープを討伐している。

 必要数。すなわち全滅させる勢いで狩り尽くすのではなく、必要な数だけ倒すよう気遣っている。依頼する側としても、カルックシープのもしもを警戒しているからだ。

 もしも、全滅させたカルックシープが二度と姿を見せなくなったら。

 今までの経験上、それはないだろうが、もしそうなってしまったら、と考えると、無駄な殺生や目先の利益にとらわれた軽率な行動は控えたくなる。

 そんな事情は知らず、そもそもカルックシープの討伐を禁止されているわけではないため、イリックとネッテは肉目当てでカルックシープを一体倒す。

 体の大きさや姿は普通の羊とさほど変わりなく、強いて言うなら体が太く、頭も少し大きい。

 攻撃をしかけるまで敵対行動をとらない大人しいモンスターゆえ、倒すことは造作もない。ネッテがさくっと首を切り裂いて終わりだ。

 目当ては肉であり、となるとカルックシープの解体作業が必要なのだが、ここでもネッテがやってのける。

 魚の三枚下ろし得意だろ、やってくれ。と駄目もとで頼んでみた結果、ネッテは笑顔で解体してみせる。

 頼もしいが、ちょっとこわかった。

 これが昨日の出来事。

 昨晩に続き、今朝も羊肉の料理。

 献立は、シシケバブとキノコの塩焼き、そしてパン。

 シシケバブは羊肉と玉ねぎを串に刺し、味を調え焼くだけのシンプルな料理。しかし、美味い。

 玉ねぎなんかいらないだろうに、と思ったが、羊肉とマッチしており、コショウの風味も合わさり最強だった。

 とはいえ、羊肉の料理を味わうためにカルック高原へ赴いたわけではなく、二人は今日も坂道を歩き続ける。

 そして、いよいよ目的地が近いと確信したのは午前十時。朝食が完全に消化され、身軽になった頃だった。


「いい景色~」


 ネッテが南東を見下ろして大きく息を吸う。

 ここが通り道における頂上らしい。南に進めばさらに上ることになるが、自分達はワシーキ村を目指してるのであって、登山に来たわけではない。

 北東から南東にかけて、どこまでも平原が広がっている。

 目の前の下り坂を駆け下りれば、その後は平坦な大地だ。むき出しの茶色い地面と、草が生え渡っている緑色の足場が混在しており、白い点々も数える程度だがうろうろしている。


「お、風の精霊がいるぞ。初めて見た」

「どれどれ~」


 イリックが指差す方角を、ネッテは慌てて目で追う。

 緑色の渦のような何かがゆっくりと地上スレスレと移動している。大きさはイリックの腰あたりまで。飛ぶというよりは浮きながら、ゆらゆらと移動している。


「ほんとだ~!」

「ちょっかい出すなよ? 強いらしいから」


 精霊。精霊界からやってくる来訪者と言われている。パッと現れパッと消える。魔法防御が高く、そもそも倒したところで何を得られるわけでもないため、誰も手を出さない。

 こちらから攻撃をしなければ精霊も人間を襲わないため、もし遭遇しても眺めるだけでやり過ごせる。

 そういう意味では、無害なモンスターと言える。

 二人は初めてのモンスターをじっくり観賞する。まるで実体を持たないような緑色の渦は少しだけ透き通っており、そのままゆらゆらと南の方へ消えていく。


「さて。もうちょっとっぽいな。って言っても半日くらいはかかるだろうけど。夕方には着けるよう、もう一踏ん張りがんばるぞ」

「ガッテン!」


 地図を見る限り、そうらしい。

 テホト村から丸三日。宿屋のおばさんが言っていたことは本当のようだ。


「んじゃ、ちょい休憩しよう」

「お水ー!」


 やる気をたぎらせておいて先ず休憩。しかし、必要なことだ。

 イリックとネッテはその場に腰を下ろす。雑草がクッション代わりになり、尻は痛くない。

 マジックバッグを背負っているのはイリックなため、ネッテは水を催促する。


「ん」


 イリックは先に一口飲んで、水筒を手渡す。ネッテはうれしそうにそれを受け取り、舐めるように水を飲む。というか、舐める。


「お兄ちゃん成分、補充完了!」


 聞かなかったことにした。

 さて。東を見下ろす。

 広大な平原が眼下でどこまでも続くこの景色はまさに絶景だ。

 北東から南東までどこまでも広がっている平原の北と南には随分と高い岩山がそびえ立っており、南側の岩山に沿うように南東へ進めば、無事目的地に着けるのだろうと容易に想像できる。

 ふと、今まで歩いた坂道はどんなもんだろうと北西に視線を向ける。どこまでも続く下り坂の果てにテホト村があるのだろうが、ここからでは見えない。いや、随分小さい何かが見える。それがそうなのかもしれない。


(そういえば、気をつけろって言われてたカルックラムってのには遭遇しなかったな)


 イリックはギルド会館で冒険者からもらったアドバイスを思い出す。

 この地域には一際大きな羊がいるらしく、カルックラムと呼ばれ、恐れられているらしい。カルックシープとはどう違う? 冒険者曰く、とにかく巨大らしい。

 それなら一目で分かりそうだが、残念ながら今回は縁がなかったようだ。

 凶暴らしく、出会ったら戦おうとはせず一目散に逃げるべきだそうだが、そもそも出会わなければ逃げることもできない。

 残念だが仕方ない。これっぽっちも残念でもないが。


「ワシーキ村だっけ? 着いたらどうするの?」


 もう一口水を飲み、ネッテが潤った喉で質問を投げかける。

 あまり考えていなかったため、イリックはう~ん、と唸る。


「錬金術師さんに荷物届けるとして……」

(あ、名前忘れた! 町長なんて言ってたっけ!?)


 ここまで来て依頼主の、そして荷物を届ける相手の名前を忘れていることにイリックは気づく。


(まぁ、有名な人らしいし、適当に聞けばいいか)


 そういうことにした。


「その後は宿屋で一泊?」

「ん、そうだな。んで、翌日は買い出しついでに村をブラブラ見てまわって、さらに一泊するか?」


 荷物を届けてしまえば急ぐ必要もなく、報酬ももらえるだろうから懐も潤う。一泊どころか二泊も余裕だ。

 なんとも贅沢な話だが、一仕事終えた後くらいは許されるはず。


「わーい!」

「んじゃ、二泊ってことにしよう」


 ネッテが喜んでくれるのならそうするまで。帰りは帰りで来た道を同じ時間かけて逆走しなければならず、そういう意味では長旅はやっと半分だ。

 ゆえに、多少の休息は必要だろう。

 帰りは帰りで、もっとゆっくり進んでもいいかもしれない。

 食糧の買い出しは最低限に抑え、都度モンスターから現地調達する。それはそれで楽しそうだ。ネッテには料理面で苦労をかけるかもしれないが、その分、調理時間は長く確保してあげればいい。

 行きは四日半で移動したが、帰りは六日から七日程度かけてもいいかもしれない。そういったことも、ワシーキ村に着いたらネッテと相談しよう。

 二人旅なのだ。自分達で決めればいい。


「んじゃ、そろそろ行く……ん?」


 それに気づいたのはイリックが先だった。立ち上がろうとした矢先、地面から体に小さな振動が伝わる。

 直後、ネッテもすぐに異常を感知する。立ち上がろうとして動きを止めているイリックとは対照的に、ネッテはゆっくりと立ち上がり、耳を傾ける。


「聞こえる。足音?」


 ネッテのつぶやきに、イリックはそんなバカな、と呆れたくなったがまんざらハズレとも思えない。

 ドスン、ドスン、ドスン、と一定のリズムでそれが近づいてくる。その度に地面が揺れる。この時点で恐怖を感じずにはいられないが、何より音と気配が凄まじい。

 まだ近くにはいない? いや、もうそこまで来ている。

 方角は……。


「西か!」

「うん!」


 西もまた、北や東同様下り坂。ここは丁度、そういうポイントだ。

 西側に近づき、下を見下ろしたいが、今それをやると音の正体と鉢合わせそうで怖い。


「逃げる準備しろ」

「ガッテン!」


 水筒をマジックバッグに放り込み、片手剣の上からマジックバッグを背負う。

 目的地は南東。音の正体は西から。ある意味丁度良かったのかもしれないが、喜ぶ余裕はない。


「走るぞ」


 イリックは音のする方を睨みつつ、ジリ、ジリ、と東側に足を運ぶ。

 もうそこまで来ているはず。西の坂から今にも頭を覗かせそうだ。

 どんな姿だろう? 巨大な羊なのだから、相も変わらず白い毛に覆われたもこもこのモンスターだろうか?

 その姿を想像した時だった。予想通りの、白い毛がもさっと現れる。次いで、その顔も披露してくれた。真っ黒い顔はいささかチャーミングだが、角は随分立派だ。


「逃げろー!」

「でかーい!」


 必死の形相で全力疾走。イリックは歯を食いしばって、ネッテはなぜか笑いながら、坂道をものすごい速さで下り続ける。

 このペースを維持できれば、一時間後にはワシーキ村に着けそうな気もするが、おそらく途中で死ぬだろう。

 後ろを振り向きたい。

 巨大羊が追って来ているか確認したい。

 しかし、そんな余裕は今のイリックにはない。

 無理に姿勢を変えたら、多分ものすごい勢いで転ぶだろう。それほどの速度で走っており、今はとりあえず走り続けることにした。

 二人がワシーキ村に辿り着けたのは、予想通り夕方頃だった。

 いかに全力疾走でそこそこの距離を走りぬけようと、その後に長めの休憩を取ればプラスマイナスはゼロらしい。

 明日は筋肉痛かな。そんなことを考えながら、イリックは巨大なアーチをくぐる。

 その村は、入り口以外を高い石製の壁に囲まれており、壁の切れ目を繋ぐアーチが訪問者を見下ろしながらも真っ先に歓迎してくれる。


 二人の初めての旅は一旦終わりを告げる。

 同時に、長い長い冒険の日々の始まりでもあるのだが、二人がそのことを知るはずもない。


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