第十二章 風の洞窟探検
見渡す限りの草原とこの大地に根をはる木々が、この土地の豊かさを物語っている。樹木が傘のように日陰を作り、そこには垢抜けていない冒険者が休憩のために腰を落ち着かせる。
もちろん、休んでいる冒険者だけではない。
一人で武器を振り、鍛錬に励んでいる少年。
黄色と呼ぶには少しだけ赤い、ゼリーのようなリトルスライムと戦って苦戦している二人組み。
雑草の中で佇むリトルスライムに狙いを定めて、ひ弱ながらも炎の弾を作り出す女性。
皆、何かを目指してがんばっている。
今回の旅、その一日目。
目的地はヨール原野に存在する訳ありな洞窟。急げば十日前後での到着も可能だが、裏を返せば最低でもその倍を要する長旅だ。
イリック達は緑の香りが漂う草原を歩く。
朝というよりは昼に近い時間。ゆえに、太陽の日差しは容赦ない。一同は右手側に影を作りながら南下する。
先ずはテイア渓谷を目指す。そこもまだまだ途中でしかない。
イリックは昨日も遠目に目撃したモンスターを西に発見する。大きさはスイカ程度。もっとも、ここのそれは固体毎に大きさがかなり異なる。プリプリと揺れるゼリーのような黄土色の物体はリトルスライムだ。先ほどの冒険者達が戦っていた種族だ。
トリストン大陸に生息する最もひ弱なモンスターと言われており、ガーウィンス連邦国を拠点とする冒険者達にとっては初めての戦闘相手となる。
やがて、行く手を遮るように流れる底の浅い川が見えてくる。フキン港からも見える川だ。
少しずつ、周囲から冒険者がいなくなる。それも当然だ。かれこれ数時間は歩き続けている。
橋を渡って川を越えたこのタイミングが丁度良いかもしれない。イリックはそう判断し、休憩も兼ねてここでの昼食を提案する。
午前十一時過ぎ。
一同はやっと腰を下ろす。
ここはまだスムルス平原。
風の洞窟を目指す旅は始まったばかりだ。
「なーに作ろうかなー」
「魚釣ろうか?」
ネッテは久しぶりに防具を身に付けている。胸や肩、腰を白い皮が守ってはいるが、どういうわけか腹は丸出しだ。それを見る度にイリックは思ってしまう。お腹が冷えそうだ、 と。
「ぱぱっと釣れそう?」
「とりあえず試してみる」
イリックの提案にネッテは悩む。すぐに四人分釣れるのならそれもありだが、時間がかかるようなら却下だ。なぜなら、早速作り始めなければならないのだ。悠長に、釣れるかどうかわからない魚を待ち続けるわけにはいかない。
「ロニアさーん。この川ってどんな魚いるんですか?」
「知らないわよ、そんなこと」
ロニアからは冷めた答えしか返ってこない。
こうなってしまうと、自ら試すしかない。
イリックは釣竿をしゃっと伸ばし、糸に餌を付ける。餌はもちろん釣り用のダンゴ。汎用性の高い餌であり、こういう時はこれに限る。
川は西から東にゆったりと流れている。深さは一メートルもない。浅いため、魚影は点々と見つけられる。
ならば勝負すればいい。
「ほんと、釣り好きだね? その釣竿って何ていうの?」
見回りをするほどでもないため、特にすることもないアジールが興味はないがイリックに釣りの話題を振ってしまう。
「ファイナルモード流の中硬四百です」
「……え?」
「ファイナルモードながれのちゅうこうよんひゃくです」
別に大事なことだから二回繰り返したわけではない。アジールにきちんと伝わらなかったため、イリックは復唱した。
「それは、すごいの?」
「極々普通の釣竿です。本当はツーウェイの四百五十くらいが欲しかったのですが、ちょっとお値段がするのでこれで妥協しました。その前は父のお古を使っていたのですが、五年くらい前だったかな? ぽっきり折れちゃいまして、それでこれを購入しました。釣りの最中は竿を持ち続けるので軽めのを選んだのですが、竿の長さが伸びたせいで持ち重りするんですよね。当時は慣れるまでに少し時間がかかりました。長い竿の宿命ですしね。それに」
イリックは一人で語り続ける。しかし、アジールはとっくについていけておらず、ロニアは完全に無視しており、ネッテは昼食の準備に励む。
「柔軟性がいいので振り込みやすくて気に入ってます。いつかは五百くらいのツーウェイを買いたいのですが、それはまぁ、これがダメになってからでもいいかなぁ、と思ってます。そうなると」
イリックの独白は続く。既に誰も聞いていないがそれでも続ける。
「細くて柔らかいところを活かした釣りは楽しいですしね。ただ、やっぱり複数本を使い分けるべきなのは承知してるんです。こういったところはファインモード流でいいんですが、風が強い場所や海だと……。お、食いついた食いついた。うし、かかったー」
三人に無視されながらもイリックは一匹目を釣り上げる。
イリックが掴む糸の先には十五センチくらいの魚が体を震わせる。体は少し丸っこく、全身は灰色だが、背中だけはぼんやりと赤く染まっている。顎が発達しており、何でも食べてしまいそうだ。
「お、ピラニーが釣れましたよー。トリストン大陸の東側に生息する魚です。やっぱりこいつだったか~」
イリックはもちろんこの魚を知っている。塩焼きにすると美味い淡水魚だ。一匹釣れてしまえばこっちのもの。そう言わんばかりにこの調子で残り三匹も釣ってみせる。誰も褒めてくれず、そもそも相手をしてくれなかったが、釣りを満喫できたので良しとする。
ネッテとロニアの作ってくれた昼食は実に美味い。釣り上げたばかりのピラニーの塩焼きも最高だ。しかし、女性陣はどこか余所余所しい。
(どうしたんだろう?)
わからないまま、旅は続く。
◆
ガーウィンス連邦国を出発して二日目の昼過ぎ。
四人はスムルス平原を越え、二つ目の土地、テイア渓谷に辿り着く。
四方に存在する小さな山のような茶色い丘が、この土地のやっかいさを物語っている。上がっては下り、下っては上がりの繰り返しだ。
スムルス平原と比べ、草木は圧倒的に少なく、禿げ上がっているわけではないが、茶色い地面の上にぽつぽつと存在する緑色のカーペットがどこか寂しい雰囲気を感じさせる。
見かけるモンスターはスムルス平原から変化する。
虫のそれよりも十倍くらいの大きさを誇る蜂のモンスター。
根っこで歩く球根のような何か。
全身が黒く、耳も心なしか大きく見える黒いウサギ。
そして、比較的どこにでも生息しているゴブリン。
ゴブリン。トリストン大陸全域に生息する人間に近い姿のモンスター。背丈は子供程度であり、手足や体はやせ細っている。体毛を一切生やしておらず、顔つきは人間のようにバリエーション豊かなのだが、人間には見分けがつかない。
テイア渓谷の場合、気をつけなければならないモンスターはゴブリンだけだ。他のモンスターは比較的大人しい。
イリック達は足止めされることなく、スイスイと前進を続ける。
小さな山のような、丘のような、そんな勾配だらけな土地を上っては下り、そしてまた上る。
カルック高原の延々と続く坂道と比べると変化に富んでいるため退屈しないが、それゆえに少々疲れてしまう。
二時間くらい歩いた頃、ロニアが大口を開けて呼吸をし出したため、イリックは休憩を提案する。
ロニアは冒険者であり、決して足腰は弱くない。そもそもトリストン大陸を徒歩で横断したばかりであり、そういうことも可能な程度には強い肉体を持っている。
しかし、イリック達はそれ以上の身体能力を誇るため、この程度では息切れ一つせず、その上ペースを落とさず前進できてしまう。
さすがのロニアもその進行速度に終始ついていくにはしんどく、こうして時折休憩が必要になる。
「三日くらいのつもりでしたが、案外二日くらいで越えられそうですね」
イリックは水筒の水を一口飲み、広げた地図を見つめる。
現在地はテイア渓谷の北東。
ここは入り組んだ形をしている。端的に言えば山に囲まれたくぼ地のような土地であり、東西に広がっている。東から西に歩くとなると三日ほどはかかるが、イリック達は北東から南西へ縦断するため、二日くらいで通り抜けられる。
「そうかもしれないわね。ちなみに地図には詳しく載ってないでしょうけど、西にはビサラ山脈が広がっていて……、あれね。ドラゴンが生息しているわよ」
「ドラゴン!」
ロニア先生の授業にネッテが反応する。
ドラゴン。それは誰もが恐怖する存在。圧倒的な巨体と破壊力で人々に恐れられている。滅多に姿を現さず、ゆえに脅威ではあるものの、人と共存できていると言えなくもない。大きさはモンスターの中でも最大級であり、冒険者や軍人が一人二人でどうこうできる相手ではない。
「ビサラドラゴンがいるようだけど、まぁ、二百年前に現れたっきりだから、実際のところはどうだか誰にもわかららないの。まだ生きてるのか、それとも子孫を繋いでいるのか……。ドラゴンの生態は未だに謎過ぎて、何もわかってないわ」
「二百年! 生きてたらおじいちゃんだね~」
「そういうことになるわね」
ロニアとネッテが微笑ましく笑う。とても楽しそうだ。
ドラゴンがいるのか、とイリックは西に見つめる。どこまでも続く険しそうな茶色い山が君臨しており、その標高から人が登れる場所とは思えない。
(ふ~ん。こんなところにドラゴンっているのか……。まぁ、寄らないけど)
それよりも今はやることがある。風の洞窟を目指し、ピクシー出現の真相を確かめねばならない。
「ところで、ピクシーってどんなモンスターなんですか?」
探すぞ、と息巻いてここまで来たが、冷静に考えるとイリックは何も知らない。ロニア先生の授業に耳を傾ける。
「少なくとも百年以上も昔に滅びたモンスターよ。元々数が多いわけじゃなかったのに、ガーウィンス連邦国が乱獲したからいなくなっちゃったみたい。モンスターであるにも関わらず、人間を襲うことは決してなかったらしいわ」
「そんなモンスターいたんだ」
ロニアの説明にアジールが反応する。この中では比較的冒険者歴が長いアジールも、ピクシーについては多くを知らない。当然、ネッテも初耳だ。
「どんな外見してるんですか?」
「羽根の生えた小さな女の子よ」
「ほう……」
「兄上!」
「ぐえっ!」
別に変な妄想はしていないのだが、ネッテが神速の手刀を兄に打ち込む。死ぬかと思ったが、イリックはギリギリ耐えて抜く。
「チビな妹より、ピクシーの方がかわいいかもな」
「何を!」
「それがこれから向かう場所にいるんだ。不思議」
「ええ。滅びたはずのモンスターが突然出現。その調査に、デーモンを倒した私達が指名されたってこと。それにしても、一ヶ月はかかる依頼の報酬が五万じゃ少ないわよね」
アジールが不思議がる一方、ロニアは金の勘定を始める。ちなみに兄妹喧嘩は当然スルーだ。
一食の食事代が五十ゴールドとして、もちろん外食をすればもっとかかってしまうが今は考えない。
自分達は四人組。
一日三食。
それを三十日。
すなわち、この往復の旅だけでかかる食費は一万八千ゴールド。
(あら? 随分かかるわね。一食五十ゴールドは高すぎたかしら? まぁ、いいわ。水は私が生み出せるとは言え、間食もするし、水以外も飲むし、消耗品だって減っていく。となると……)
今回の報酬は五万ゴールド。概算だが、この旅で三万ゴールド近くの出費が発生する。プラスかマイナスで言えばプラスだが、なんとも心もとない金額だ。
それでもイリックが行くと言った以上、ロニア達はついていくしかなく、もちろん反対すれば聞き入れてくれるだろうが、そんなことをつもりもない。
デーモン討伐の報告が済み、丁度自由になったタイミングだ。報酬の少なさに目をつぶれば、おもしろそうな依頼でもある。
ピクシー。お目にかかれるのなら一度は見てみたいモンスターだ。
知的好奇心が刺激される。ロニアは大きな胸を昂ぶらせながら、兄妹喧嘩を観戦する。
「浮気ダメ! 絶対!」
「してねーだろ!」
コネクトを使い、さらにアサシンステップまで使っているイリックと、戦技無しのネッテが互角にやりあっている。何ともレベルの高い兄妹喧嘩だ。
◆
ガーウィンス連邦国を出発して五日目。
曇り空の下、一同は荒廃した茶色い土地を歩く。
時折吹く風は強く、アジールのミニスカートをゆらゆらと揺らす。しかし、ギリギリのところで中身は見えない。ロニアのタイトワンピースも丈だけはかなり短いが、布地に余裕がないため、風で揺れたりはしない。
イリックは妄想する。アジールの腰にくっついているうさぎのぬいぐるみに乗り移ってアジールの感触を堪能したい、と。アジールの下半身を眺めながら一日中歩いていれば、そんなことも考えてしまう。
土の匂いが濃い。けれども、安心感のようなものを感じてしまう。
風が砂煙を巻き上げるため、油断していると目や口に砂が入ってしまう。こういうところもアイール砂丘を連想させる。
すなわち、似てはいないが故郷を思い出させる。
この土地の地面には、あちらこちらに大きな裂け目が存在している。万が一落ちてしまえば底なしの地下まで真っ逆さまだ。命は助からない。
もっとも、地面の裂け目は大きく、遠くからでも一目で認識できる。そこから落ちる人間などそうはいない。イリックとしては落ちた先がどうなっているのか見てみたいが、命と引き換えである以上、試す訳にはいかない。
地面はどこまでも茶色く、草はほとんど見つからない。木は少なからず生えているが、緑の葉をつけていないことから、どこか弱々しい。
ここはミラクス山地。この旅における三つ目の土地。枯れた大地が何も生み出さない不毛な世界だ。
それでもモンスターは生息しており、このあたりから強さも凶暴さも一段跳ね上がる。
だからと言って警戒する必要はない。このような荒廃した場所に生息できるモンスターは限られており、そもそも数が他所の土地と比べて圧倒的に少ない。
現に、四人は昨日からミラクス山地を歩き続けているが、見かけたモンスターは遠目に一体だけだ。比較的どこにでもいるトカゲのモンスターだったため、一同は無視して進行を続けた。
「あれ、何かしら?」
ロニアが異変に気づく。実はイリックも気づいていたのだが、あえて黙っていた。
四人の前方から、白い何かが近づいて来ている。
姿はトカゲに似ており、後ろ足二本で走っている。前足二本は使わないのか、随分と小さく退化している。
トカゲよりは凶暴そうな顔には、これまた凶暴そうな大口が備わっており、鋭い歯が生え揃っている。
大きさは一メートル程度。前のめりでそれだけあるのだから、決して侮れない体長の持ち主だ。
「元気に走ってますね」
そのやる気にイリックも駆け出したくなったが、疲れるだけなので止める。
「こっちに来てる来てるー」
「あれは……、ラプトル」
ネッテと同時にアジールも気づく。イリックはその名を食堂でよく見かける。つまり、食べられるモンスターだ。
「それって、かなり凶暴なモンスターよね?」
「うん。こっちを認識して近づいてきてる」
戦いは避けられない。久しぶりの戦闘だ。
もっとも、ラプトルという単語を聞いた時点でイリックは倒すつもりでいた。食糧は無限でもなければ無料でもない。食べられるモンスターがあちらから向かってきている。倒さない理由はない。今晩はラプトルの肉料理で決定だ。
相手は一体。しかもただのモンスター。四人がかりで相手をする必要はないだろう。イリックは知らないなりに想像して分析する。
「アジールさん、さくっと倒せますか?」
「戦ったことある。任せて」
イリックの要望に、アジールは胸を張って答える。
「おー、がんばれー」
「やばそうなら下がりなさい。ネッテちゃんが仇をとってくれるわよ」
「わかった」
アジールが先行する。
ラプトルがグングンと近づく。
大きくはないが、走る速度はかなりの速いため、減速せず体当たりでもされたら、さすがのアジールも軽症では済まない。キュアがあるためいくらでも無茶はできるが、痛いものは痛い。
アジールの武装は片手剣と盾、そして両手剣だ。
素早い相手には、リーチはあるが重たい両手剣は不向きなため、片手剣と盾で戦う。
アジールが背中の片手剣を右手で抜く。
足を止め、じりっと腰を下ろしラプトルに備える。
両者の距離がある程度縮まった時だった。白い体に茶色い模様を浮かべるそれが、勢いよく跳ねる。後ろ足の爪で獲物の肉をいっきに切り裂く魂胆だ。
アジールは慌てない。慌てたのはイリックくらいだ。
盾でラプトルをガチンと受け止める。受けきったアジールもすごいが、盾を足場にピョンと後方に跳ねたラプトルも素晴らしい。
「重い」
アジールがつぶやく。今の衝突エネルギーはそれほどにすさまじかった。魔眼による痛感遮断を行っているため痛みは感じないが、体への負担は相当だ。
ラプトルが怒りを顕わにしながら体を激しく揺らし、アジールの様子をうかがう。そして、動かない人間を中心にゆっくりと時計回りで歩き出す。距離は縮めない。慎重なモンスターゆえの行動だ。
今度はアジールがじわり、じわりと接近を開始する。睨み合っていても埒が明かないのは事実であり、アジールもそれはわかっている。
駆け出したタイミングは同時。
アジールが片手剣を振り下ろすも、ラプトルは素早く横に跳ねる。
再び両者の距離が開いたが、それは一瞬だけ。
いっきに詰め寄られたアジールは、体を屈め、飛び掛ってきたそれをなんとかやり過ごす。
互角の攻防が続く。
(あれ、随分といい勝負してらっしゃる。加勢した方がいいのかな?)
イリックは落ち着いているようで、実はかなり動揺している。
「そろそろ助太刀した方がいいんでしょうか?」
「大丈夫でしょ。ほら、今だって一打浴びせたし」
一人でハラハラするイリックとは対照的に、ロニアは冷静に戦いを観戦する。ネッテは大声で応援している。
「あなた、ネッテちゃんが戦ってる時はクールというか突き放す感じなのに、こういう時は落ち着かないわね。ほら、もうすぐ勝……あ」
裂傷を気にせず、ラプトルが体当たりをしかける。盾で受け切れなかったアジールは、その衝撃で片手剣を落としてしまう。
さすがのイリックもコネクトの使用を覚悟する。しかし、アジールは落ち着いていた。
ラプトルが口を開いてアジールの右手を狙う。
ここでアジールが考えた戦法は二つ。
このまま右手を噛ませ、その内に倒す方法。
さっと避け、盾で殴りかかる方法。
痛覚はいつものように遮断している。噛まれたところでイリックが治してくれる。しかし、それだと締まらない。
どちらの戦法でも勝てるだろう。なら、スマートに勝利をつかみたい。
アジールは右手をさっと動かし、ラプトルの鋭い歯から逃げる。そして、間髪入れず盾で殴りかかり、相手を怯ませる。
反撃開始。そして、これで終わり。
盾を捨て去り、背中の一際大きな剣に手を伸ばす。
「おぉ」
「すごーい」
兄妹二人してこぶしを握る。その戦い方は予想していなかった。まさに手に汗握る攻防だ。
盾の一撃が効いたのか、ラプトルは立ち上がるも、動きに繊細さはない。
距離を詰め、リーチの長い両手剣をいっきに振りぬく。
刃が切れ込みを入れながら、茶色がかった白い体を弾き飛ばしていく。
どさっと地面に叩きつけられたそれは、もう動かない。
アジールの勝利だ。
「ぶい」
アジールがピースサインをこちらに向けるが、至る所から流血している。
イリックはいそいそとキュアを唱える。
ネッテはうれしそうに跳ねてアジールに抱きつく。傷はまだ癒えていないため、少々フライング気味な行動だ。
「次、ラプトルが来たら私の出番かしら?」
「いえ、大人しく俺がやります」
無駄にハラハラするのはもう嫌なため、今後あ自分が倒すとイリックは誓う。
その後、ラプトルはネッテによって可食部を切り落とされていく。その手つきにはロニアも感心する。
その後、一行は西に歩き続け、もうすぐヨール原野というところでタイムリミットを迎える。太陽が地平線に隠れだしたからだ。西にそびえる岩山のふもとを野営場所とする。
丁度良さそうなくぼみが見つかる。ここなら周囲からは見えづらい。モンスターの生息数は少ないが、用心に越したことはない。
薄暗いふもとで、各々は行動を開始する。
イリックはテントの設営。
ネッテは夕食の準備。
アジールは見回り。
ロニアは雑用とネッテの手伝い。
すっかり慣れたもので、各々、何も言わずに互いのやるべきことに取り掛かる。
食べきれない量の肉をゲットしたことから、今晩の夕食は豪華だ。もっとも、明日の朝も肉だ。
テントの設営を終えたイリックは、二枚の地図を広げる。ミラクス山地とヨール原野の地図だ。
現在地はミラクス山地とヨール原野の境目あたりであり、ものの一、二時間でヨール原野に辿り着ける。
ヨール原野にはミエト村と風の洞窟がある。
ミエト村には明日中に着くだろう。そこでピクシーについて聞き込みをしつつ、いくらか買出しを行って、翌日出発する。イリックは頭の中でそう組み立てる。
風の洞窟はそこからまる一日の距離だ。まだ微妙に遠いがそれは仕方ない。
イリックは地図から顔を上げる。
ネッテとロニアは仲睦ましく夕食を作っている。肉の焼ける匂い、音、どちらも空腹にはたまらない。
アジールは見回りの最中でまだ戻っていない。
ついに暇になる。イリックは日課になりつつある鍛錬を始める。
鍛錬。そう、イリックはもっと強くなりたいと思っている。アイール砂丘を見回るだけなら現状の強さで十分だった。しかし、今は冒険者。現状のままでいいわけがない。
何より、デーモンという存在がイリックを刺激した。あんなに強いモンスターがいるとは思いもしなかった。レッドエクスで死にかけはしたが、勝てない相手ではなく、ネッテと二人がかりで無事倒せた。
デーモンも倒すことはできた。しかし、コネクトという奇跡がなければ間違いなくやられていたのも事実。
モンスターに負けたくないのではない。ネッテを守りたいのだ。もちろん、アジールとロニアも守りらなければならない。
妹を守るのは兄の義務。
自分を慕ってくれている仲間を守るのはリーダーの務め。
ゆえに、イリックは刃先が砕けている片手剣を握り締める。
夕食の準備は任せた、と言わんばかりに、イリックは野営地から離れる。
周囲には誰もいない。静まり返った暗い大地が広がっているだけ。
斬る。斬る。斬る。
モンスターがそこにいると想像し、それを斬る。今回の戦闘相手はラプトルだ。アジールとの一戦がつい先ほどだったこともあり、イメージし易い。
斬る。斬る。噛み付かれる。少し油断した。
気づけば汗だくだ。そして腹がさらに減った。
冒険者と言えども、本気で体を動かせば疲れるし汗もかく。スタミナの絶対量が常人より圧倒的に多いだけであり、それを枯らしてしまえば、そこからは過酷な鍛錬の時間となる。
「お兄ちゃーん、できたよー」
焚き火の方からネッテの元気な声が届く。
待ってました! とイリックは駆ける。汗だくだが構わない。飯を食べたいのだ。
「うわ……」
「汗すごい」
「先に水タオルで体拭いてきなさい。今用意するから」
女性陣にドン引きされた。
十分後、ロニア水で体を拭き終えたイリックも合流し、ラプトルの肉祭りが開催される。もっとも、三人は先に食べ始めていた。
肉、肉、肉、野菜、肉。
干物でいいから魚も食べたかったが、今日は肉で我慢する。
ラプトルの肉は調味料を駆使して飽きないように工夫されている。
「そうそう。言い忘れてたのだけど、実はガーウィンスで調べ物をして、一つわかったことがあるわ。前からそうなんじゃと思ってはいたのだけど」
「何です?」
ロニアが唐突に切り出す。イリックは話題が何なのか予想できず、ラプトルのグリルをかじりながら視線を向ける。
「アジールのその目、間違いなく魔眼だわ」
しーん。誰も反応を示さない。ロニアが何を言っているのか、ネッテとアジールは理解できない。イリックは以前聞かされており、しかし、具体的なことは何一つ知らない。
そう来るか、とロニアは冷静に説明を開始する。
「魔眼が何なのか、はっきりとはわかっていないわ。ただ、極稀にそれを持って生まれる人間がいるの。アジールのように。ちなみに、現在の神の名代も魔眼持ちと言われているわ」
再び沈黙が訪れる。三人は微塵も理解できていない。
言わなきゃよかった、と少し後悔しつつ、ロニアは続ける。
「魔眼かどうかは、その特徴的な目を見ればわかるわ。アジールのその目、黒目の部分に赤い線が円を形作ってあるでしょ。それが証拠よ。ちなみに魔眼持ちは体の感覚をコントロールできるらしいわ。アジールもやってるでしょ?」
「うん」
ロニアの言う通り、アジールは痛覚を遮断することで戦闘を有利に運んでいる。痛みに怯まず戦える。これは人間にとって凄まじいアドバンテージだ。ただし、痛くないだけで傷を負えば体の自由は利かなくなっていく。そのことから、やはり攻撃を食らわないことが重要なのだが、盾役はモンスターの攻撃を引き付けるのが役割であり、理想論を語っても意味はない。
「魔眼を使いこなせるようになると、さらに他のこともできるらしいけど、そのあたりの詳しい記述は見つからなかったわ。腕が生えるとか書いてあったけど、いまいち意味がわからないのよね」
「腕増えるの?」
「便利そう!」
アジールが不思議がる一方、ネッテは実用性だけを語る。確かに腕が増えれば盾を持ちながら両手剣も持てるかもしれない。
「実際のところはどうなのか、あなた自身が確かめていきなさい。これといってデメリットはないようだし」
「わかった」
ロニアが話の落としどころを決め、アジールもそれに納得する。
アジールの目は魔眼。
イリックは常々思っている。魅力的どころか魅了されかねないほど綺麗な瞳。デーモンの真っ赤な目を少しだけ連想させるアジールの瞳。
その正体は前から気になっていた。以前はスルーしてしまったが、今回はきちんと頭の引き出しにしまいこむ。
もっとも、まだ魔眼について全てがわかったわけではなく、今後もロニアには期待してしまう。こういうことはロニアの管轄なのだから。
「アジールさん、美人だけどその目も関係あるのかな? いいな~」
ネッテの発言をイリックは警戒する。とりあえず沈黙を選択する。こういう話題に男が関わるとろくなことにはならないと知っているからだ。
「ネッテはかわいい」
「そ、それほどでも~。ロニアさんも美人だし、私も美人さんになれるかな~?」
「ネッテちゃんはかわいくて美人な女性になれるわよ」
アジールとロニアがネッテを持ち上げる。ここは一切つっこまない。肉を食べ続けるのみ。
「お兄ちゃんはかわいい系より美人さんがいいみたいだからな~。うぅむ」
ネッテがちらりと兄を見つめる。当然、イリックはそれを無視して肉に噛り付く。
アジールとロニアがイリックに視線を向ける。何か言ってあげなさい。目がそう物語っている。
(え、何でわざわざそんなことを……)
しかし、そのリクエストを無視する方が恐ろしい。イリックは肉を飲み込む。
「俺は、背が高くてがたいが良くて強い女性が好ぶほっ!」
言い終える前に何かが飛んで来た。おでこが濡れている。どうやら水の魔法を使う誰かの仕業らしい。ここは追求しない。
「そうなんだよね~。お兄ちゃんって大きい人も好きだよね~」
ネッテはくずけない。イリックの好みなど把握済みだ。兄として、それはなかなか脅威なことなのだが、ばれてしまっている以上、開き直るしかない。
いつ頃からだろうか? 少なくとも、子供の頃はそんなことはなかった。いつからか、イリックは背の高い女性、肉付きのいい女性に惹かれるようになっていた。気が強ければなおいい。そうなると該当する女性は自然と冒険者に限られてくる。
しかし、サラミア港のギルド会館には冒険者は少ないため、寂しい青春時代を過ごす。
三大大国のギルド会館は冒険者で溢れている。当然、好みの女性もいっぱいだ。理想はマリィだが、この際贅沢は言わない。
背が高くてがたいが良い。これだけならアジールも十分ストライクゾーンなのだが、どういうわけか恋愛対象としては食指が動かない。隙あらばミニスカートを目で追ってしまうが、それは男なら当然の行為だ。
仲間ということで一線を引いているのかもしれない。
この輪を乱したくないという考えが働くのかもしれない。
イリックは自分のことながらよくわかっていない。とにかく、現状では目の前の三人に恋愛感情は抱けそうにない。もちろん、妹は最初から論外だが。
「きっとこれから背が伸びていくわよ」
ロニアが可能性の低いことを言い出す。
「そしたら、お兄ちゃん振り向いてくれる?」
「あぁ? ぐはっ!」
再びおでこが濡れる。命中精度の凄さに脱帽だ。
「大丈夫。あれが世に言うツンデレだから」
「なるほどー!」
アジールの意味不明な発言にネッテが納得する。
(まぁ、そういうことでいいや。一生ツンのままだろうがな!)
ネッテとアジールがキャッキャと騒ぐ。普段は無口なアジールも、ネッテを前にすると比較的よくしゃべる。
「ちょっと、イリック」
ロニアが小声でイリックに話しかける。
「なんでネッテちゃんをそんなぞんざいに扱うのよ。気持ち分かってるんでしょ?」
「そう言われましても……」
「何よ?」
「妹ですもん」
途端、ロニアがピタリと動きを止める。正論過ぎて、言い返せないようだ。
「あ、愛の前にはその程度の障害関係ないでしょ? 他の大陸なら禁止されてないんだし……」
「俺はこの大陸の人間なので」
この件に関してはロニアに勝ち目はない。イリックの言っていることが正論だと理解した上で、戦いを挑んでいるのだから。
「ああ言えばこういうんだから……」
「事実なんですもん」
ロニアが大人しく引き下がる。
イリックはネッテのことを嫌いではない。妹としては好きだ。妹として。必要とあらば命を投げ出す覚悟もできている。両親を殺された際、そう誓ったのだから。
運よく、コネクトという力を手に入れることができた。これがあれば、死なずともネッテを守れるかもしれない。
妹が望むなら二人の関係が一歩前進するかと問われれば、それはノーだ。
確かにかわいい。憎めない存在だ。
しかし妹だ。何より、胸は平らで体もまだ幼児体形から抜け出ていない。肉付きが足りていない。却下だ。
胸が大きければ時折揉ませてもらったかもしれない。しかし、ネッテではそれができない。
アジールとロニアという比較対象が現れたせいで、ネッテの株は絶賛急降下中。これが事実。
アジールも巨乳というわけではない。しかし、十分な大きさだ。
ロニアに至っては、イリック的に百点満点だ。
イリックはネッテが好きだが、決して愛したりはしない。今はここから揺るがない。
夕食後、イリックは再び地図を広げる。明日のルートを再確認するためだ。
ふと視線を動かすと、アジールが鼻血を流しながらネッテの胸を揉んでいる。二人の間にどんなやり取りがあったのか、それはイリックには想像すらできない。
ネッテは誇らしげに胸を張っているが、まっ平らだ。
ロニアはそんな二人を称える。
楽しそうな光景だ。
こうして今日も無事終わっていく。風の洞窟を目指す旅はもう少しだけ続く。
◆
ヨール原野。この旅における四つ目の土地。ミラクス山地の西に広がる緑豊かな平地であり、むき出しの地面と雑草が生い茂る場所とが混在している。丘のような地形は見当たらず、ただただ真っ直ぐな平面が延々と西へ続く。
風の洞窟が近いためか、様々な向きから風が吹き荒れる。
その風が草の香りを運んでくる。テイア渓谷とミラクス山地では嗅げなかった匂いゆえ、イリックはなつかしく感じる。
ミラクス山地での肉祭りを満喫した翌日、一同は膝まで伸びる雑草を掻き分けながら歩き続ける。
ガーウィンス連邦国を出発してここまで、トラブルのようなものは一切ない。モンスターとの戦闘も数える程度だ。予定より少し早く進めている。
現在の時刻は午前十一時。昼飯のタイミングを考えていい頃合いだ。しかし、今日はもう少し歩き続ける。なぜなら……。
「もうちょっとー!」
「久しぶりにベッドで寝れそうね」
ネッテとロニア、どちらも笑顔を浮かべる。アジールは無表情を貫くが、内心では喜んでいる。
四人の前方には低めの柵で囲まれた村がドンと広がっている。
初めは遠目にしか見えなかったいくつもの建物が、今ではもう目の前にある。ただそれだけのことで胸躍る。
二階建ての一際大きな茶色い建物は何だろう? 大きさから言って宿屋かもしれない。
白くて小さい家が道沿いにいくつも並んでいる。どれも比較的最近建てられたようにピカピカだ。
その奥には市場特有の出店がずらっと並んでいる。
そして、四人は柵に辿り着く。ヨール原野にぽつんと存在する人里、ミエト村に到着の瞬間だ。ここまでかかった時間は約六日。疲れた体を癒すにはもってこいのタイミングと言える。
今日はここで一泊するのだが、他にも色々とやるべきことがある。
食糧や消耗品の補給だ。ただし、数日分で構わない。なぜなら、風の洞窟の調査が終われば、再びここへ戻ってくるのだから。
そしてこちらが本命、ピクシーの目撃情報の聞き込み。
本当に西から現れたのか?
どの程度の数を目撃したのか?
風の洞窟を調査する前に、少しでも情報を仕入れておきたい。
いつものように宿屋を予約した四人は、一階の食堂でゆっくりと昼食を楽しむ。
この村では様々な野菜を作っている。したがってメニューも野菜料理が多い。昨晩は肉ばかり食べたせいか、自然と四人はヘルシーな料理ばかり頼んでしまう。
その後、四人は二手に分かれる。
買出し組のネッテとアジール。
聞き込み組のイリックとロニア。
妥当な人選だと自画自賛しながら、イリックは行動を開始する。
イリックとロニアは目に付いた村民に訊いて周る。小さな女の子のようなモンスターを見かけたか? と。
驚いたことに、ほぼ全員が目撃していた。一匹だけ、二匹見た、数日かけて四、五匹、と数に関してはばらつきがあったが、情報としては信憑性がある。
どこから現れたか? これについても予想通りだった。村民は皆、西の方角を指差す。
ゴルドの予想通り、西に存在する風の洞窟が有力だ。
この聞き込みでわからないことが一つだけあった。ピクシーはこの村に現れ、何をするわけでもなく、西へ帰って行くらしい。
(自分達の存在を人間に知らせるためだけに姿を現した? 何のために?)
イリックは考える。しかし、その理由まではまだわからない。そもそもそれをこれから調査しに行くのだ。
聞き込みは一時間ほどで切り上げる。これだけの情報が得られたのだ。十分だろう。
イリックとロニアは念のため、この村のギルド会館にも足を運ぶ。クエストが案外多く驚いたが、冒険者はたいして見当たらない。それもそうだろう、今は外でモンスター退治に励んでいるのだから。
この村に常駐している冒険者も村民と同じことを証言する。しかし、気になったからと言って風の洞窟には近づかない。なぜなら、結界が張られており、そもそも近づくことを禁止されているからだ。
今日のお勤めはこれにて終了だ。イリックとロニアは宿屋に戻る。後はゆっくりとくつろぐつもりでいる。
食堂ではネッテとアジールがお茶を楽しんでいた。
イリック達もそれに合流する。
「あ、おかえりー。どうだったー?」
「まぁ、ぼちぼち」
ネッテに迎え入れられ、イリック達も同席する。
聞き込みの出来高は十分だ。得られた証言はどれも予想の範囲内。それでいい。仮説が正しかったと喜べるのだから。
「これ美味しいよー」
ネッテが差し出したのは、透明ながらも小さな泡がポツポツと生まれては消えていく不思議な水もどき。
ネッテが美味しいと言うのだから、それが何かわからずともイリックは警戒せずに飲んでみる。
喉がシュワッとした。甘いがフルーツ類のそれとは違う。初めての喉越しに戸惑いつつも、美味しさには胸打たれる。
二口目を飲み始めたタイミングでネッテが手を伸ばす。返せ、と。
「ヨールソーダだって。ヨール原野でとれる天然のなんかで作るみたい」
ネッテの説明には一番大事なところが不足しているが、誰もたいして気にしない。
「ここでやるべきこともやったし、明日の出発はいつも通り朝一かしら?」
「そうですね。洞窟にはその翌日到着予定です」
ミエト村から風の洞窟までは丸一日分の距離。それでやっと旅も折り返しだ。なんとかここまで来れた、と実感が湧いてくる。
「そこには何があるのー?」
「そういえばまだ言ってなかったかしら?」
「私も知らない」
ネッテとアジールがロニア先生に教えを請う。もっとも、イリックも何もわかっていない。
今日の授業が始まる。
「う~ん……、どこから話そうかしら。先ず答えを言うと、風の洞窟には風の大精霊がいるわ」
当然、ロニアが何を言っているのかイリックとネッテにはわからない。ここは黙って聞くことに徹する。
なお、アジールは今の説明で理解し終える。
この世界には、時折精霊と呼ばれる存在が紛れ込んでくる。
発生する、でもなければ生まれる、でもなく、どこからともかく現れる。ではどこから?
この世界とは別の世界と言われており、人々はそれを精霊界と呼んでいる。
精霊はモンスターと定義することができる。しかし、彼らは人を襲わない。モンスターも襲わない。そういう意味では、中立な存在と言える。
この世界に現れた精霊は、やがて大精霊の元に辿り着き、自分達の世界に帰っていく。
大精霊。この世界が作られた直後に現れた八つの精霊を指している。
火の大精霊。
氷の大精霊。
風の大精霊。
土の大精霊。
雷の大精霊。
水の大精霊。
光の大精霊。
闇の大精霊。
合計八体。もっとも、水と光と闇についてはまだ見つかっておらず、大精霊は五体もしくは六体という説も濃厚なのだが、四百年ほど昔に、ガーウィンス連邦国の国家元首である神の名代が、八属性に応じた大精霊が存在すると宣言したため、未だ所在は確認されていないものの、大精霊は八体説が主流だ。
大精霊。それがこの世界で何をしているのか? 何をもたらしているのか? それは誰にもわからない。
しかし、人間は本能的に理解している。大精霊には関わってはいけない、と。ゆえに、ガーウィンス連邦国は物理的にそれを不可能とするため、大精霊が存在する洞窟や遺跡には結界を張って封印している。
風の洞窟はその一つであり、そこには大精霊が存在する。
風の大精霊。風の属性を司るそれは周囲に影響をもたらしており、ヨール原野で吹き続ける風もそれが原因だ。
あまり知られていないことだが、イリック達がこれから向かう場所はそういうところであり、本来ならば気を引き締めなければならない。
そういった重要性など一切気にも留めず、イリックはコネクトを使いネッテのヨールソーダを飲み干し、ネッテはそんな兄に手刀をおみまいする。
兄妹はどんな時でも通常運転だ。
「風の洞窟からピクシーが現れた理由。それを探らないといけないわね」
「実は全滅してなくて、そこでひっそりと生息してた?」
「かもしれないわね」
ロニアとアジールが議論を交わす。
イリックとネッテが拳を交える。
「だとしても、なんで今更人前に現れたのかしら? 嫌な予感がするわ」
「うん」
ロニアとアジールは気を引き締める。
ネッテがイリックの首を絞める。
食べ物の恨みはこわいと改めて実感したところで、ロニアもヨールソーダを注文する。
ガーウィンス連邦国を出発して六日目。一同は一旦羽根を休める。
風の洞窟までもう少しだ。ゆえに今は英気を養う。兄妹喧嘩をしている場合ではないのだが、今回はイリックが悪い。それを承知しているため、アジールとロニアも止めに入らない。
「し、死ぬ……」
妹が兄の首を絞め続ける。
◆
八日目の朝。すなわち、ミエト村を出発したその翌日。
雑草の匂いに包まれながらの一夜が明け、ゆっくりと昇る太陽が朝の到来を告げる。
止まない風がテントを吹き飛ばさないか心配だったが、杞憂に終わりイリックは胸を撫で下ろす。
朝食を済ませた四人は、野営の後片付けを済ませて出発する。
西へ。風の洞窟は目の前だ。
吹き続ける風にも慣れてきた。わずらわしいとは感じてしまうが、だからといって腹を立てるほどではない。
不思議なことに、ヨール原野に辿り着いて以降、モンスターとの遭遇はほとんどない。冒険者が村の周囲でモンスターを狩っているからだ。
一方で、どういうわけか緑色の渦のようなモンスター、風の精霊とは何度も遭遇する。
風が吹き荒れる場所を好むのだろうか?
それとも風の洞窟から発生するのか?
それはロニアにすらわからないが、一日に何体も精霊を見かけることは本来珍しい。
ヨール原野の南側には、天を貫かんと伸びている巨大な山脈が東から西へどこまで続いており、イリック達はそれを左手に歩き続ける。
膝の高さまで伸びる力強い雑草達が、周囲の地面をどこまでも覆う。足元が見えづらいが、別に何があるわけでもないため、一歩一歩、草をかき分け進むしかない。
一時間ほど歩いた時だった。さんさんと地上を照らす太陽が雲に隠れたタイミングで、正面からそれが現れる。真っ先に気づいたのはネッテであり、イリックもワンテンポ遅れて認識する。
前方からフード付きの黒いローブを着た何者かがこちらに向かって歩いてくる。
フードを深々と被っており、顔は見えない。しかし、そこそこの身長と肩のはり具合から男だと推測できる。右手には灰色のマジックバッグを背負わずに握っている。
なぜここにいる?
どうして正面から歩いてくる?
この人間の異常性はこれに行き着く。
この先にあるのは風の洞窟だけであり、近寄ることは禁止されている。破ったところでお咎めがあるわけではないが、何より結界があるため中に入ることはできない。
それにも関わらず、この男は風の洞窟方面から現れた。
可能性としては冒険者だ。風の洞窟は好奇心を刺激する場所としては十分だ。
イリックは首を傾げるだが、ロニアだけがその異常性を誰よりも感じとる。男の体内から、人としてはありえないレベルの、それでいてどこか圧迫感漂う魔力が感じられる。もはや人間とは思えない。しかし、モンスターにも見えない。
(な……何なの?)
ロニアの額から嫌な汗が流れ落ちる。関わってはいけない。本能がそう訴えかける。
イリックは魔力の感知を行えない。魔法の才能がないゆえに、魔法が使えるにも関わらずそんなこともできない。
その男はイリック達を無視しながら横を素通りし、東を目指す。
黒いフードのせいでやはり顔は見えない。背丈はイリックよりやや高く、体は少々痩せている。右手にぶら下がるマジックバッグは、年季を感じさせる程度には薄汚れている。
後衛系の冒険者かな? イリックはそう結論付ける。
冒険者と言っても、全員が社交的なわけではない。他人と関わることを避け、一人ないし仲間とだけ行動する冒険者も少なくはない。社交的ではないという意味では丁度自分達のパーティにも一人いる。
会話を避ける理由を他に考えるなら、立ち入り禁止の風の洞窟に立ち寄ったことへの後ろめたさだろうか? こんなところを目撃されれば、さっさと逃げ帰りたい気持ちもわからなくはない。
イリックはこの男と依頼を結びつけない。それも当然だ。今回の事件は滅んだはずのモンスターが突然現れたことであり、人間が関われる余地などどこにもない。ゆえに、怪しいだけの冒険者か何かと結論付ける。
黒いローブの男が見えなくなった頃、ネッテがそそっとイリックに近寄る。
「お兄ちゃん、今の人誰?」
「黒い男」
そんなことはわかってるよ、とネッテが頬を膨らませる。
「こんなところで、いえ、風の洞窟で何をしようとしたのかしら?」
「さぁ? まぁ、一般人ではないんでしょうね」
四人は再び風の洞窟を目指す。今の男がやってきた方向に進むと、灰色の岩山に小さな横穴が見つかる。
遺跡らしいものを想像していたイリックは、大きく肩を落とす。
穴の大きさは縦横共に四メートル程度。身長の倍以上はあるが、これから潜る穴としては狭い上に殺風景極まりない。
先ずはロニアに調べてもらう。その間はやることがないため、イリックは水筒を取り出し、周りの景色を眺めながら水を口にする。
風に揺られて雑草達がたなびく。
ふと、誰かに見つめられているような感覚に襲われる。
(ネッテ、何じろじろ見てるんだ? いや……、一人じゃない。三人、四人、それ以上から見られてる?)
耳をすますと、大地をかける風と揺れる草木の音以外に、小さな笑い声が聞こえてくる。気のせいだろうと思えるほど小さな笑い声だ。それは女の子の声であり、クスクスと大勢で笑っている。
(あぁ、これが……。まぁ、笑いたいならいくらでも笑って。今からちょっとお邪魔するんだから、客として姿を見せておこう)
イリックは察する。害のないモンスター、ふと、そんな単語が頭をよぎる。
「やっぱり、結界が消えてるわ。こんなことができる人間がいるなんて……」
暗くて奥が見えない洞窟を覗き込みながら、ロニアが状況を説明する。
「その結界とやらは、簡単に壊せないほど頑丈なんですか?」
「ええ。冒険者が十人二十人集まったところでどうこうできるもんじゃないわ。できるとしたら、ガーウィンスの結界について知っている人物よ」
何もわかっていないイリックに、ロニアは答えつきで返答する。なるほど、犯人はガーウィンス連邦国の関係者なのね、とイリックは理解する。
一瞬、先ほどの男が頭をよぎる。しかし、証拠も何も無いにも関わらず無実の罪を被せるわけにもいかないため、その考えはさっと振り払う。
岩山にできている横穴は、奥深くまで続いている。そこから漏れる風が、ここの異常性を物語っている。
「ロニアさん、この風は大精霊の仕業なんですか?」
「そうとしか考えられないわ。魔力もビンビンに感じるもの」
「洞窟の長さとかわかります?」
「いいえ。感覚的に、随分奥から魔力が漏れているようだけど……。具体的なことは何とも言えないわ」
この横穴が風の洞窟だろうと確信できたことから、イリックは侵入を決定する。もとよりそのためにここまで来たのだ。引き返す理由もここで足を止める理由も見当たらない。
何より、あちこちから感じるいくつもの視線が、肯定してくれる。リクエストに答えるため、イリックは一歩を踏み出す。
「それじゃ、行きましょう」
「ガッテン!」
イリックの合図で全員が進軍する。
ここからが本番だ。
どんなモンスターが生息しているかわからない以上、油断はできない。
穴の奥は真っ暗で何も見えない。マジックランプで照らそうと、一寸先は闇だ。それはモンスターも同様だろうと言い聞かせ、イリックはグングンと闇を照らしていく。
慎重に、静かに進むことを心がけながら、風を正面に浴びながら歩く。
「あはははは!」
楽しそうなネッテの笑い声が洞窟に反響する。
イリックはすぐに理解できない。何が楽しいのだろうと一瞬考えたが、正面から吹く風がネッテの何かを刺激するらしい。
向かい風が全員の髪をばっさばっさと揺らす。とりわけ、ネッテのサイドポニーがすごいことになっている。それが楽しくて仕方ない。
ロニアのボブカットもふわふわ上下している。
アジールの首元まで伸びている茶色い髪も、ゆらゆらと後ろへ押しやられている。女性にとっては、足を踏み入れたくない場所だ。
「あーあーあー」
ネッテの声がみすぼらしい洞窟で跳ね返る。この行為はモンスターの接近を感知するのに邪魔でしかないため、本来ならばすぐにでも止めさせるべきだ。しかし、誰も注意しない。
ネッテが楽しそうだから。
ネッテの夜目がいち早くモンスターを見つけてくれるから。
ゆえに、やりたいようにさせる。
ネッテを先頭に、少し後ろをイリック、その左斜め後ろにロニア、右斜め後ろにアジールという陣形で歩く。この布陣に意味はない。たまたまこうなっただけだ。
(できれば前を歩いてもらいたいんだよな~)
イリックは悶々とする。この強風なら必ず仕事をしてくれるからだ。具体的にはミニスカートをめくってくれるはずだからだ。しかし、アジールは斜め後ろにいる。こんな時に限って。
マジックランプはイリックが持っている。このランプをアジールに渡し、ネッテの隣を歩いてもらうのもありかもしれない。盾役ゆえに、誰も不審がることのない案と言える。
しかし、それだとネッテの夜目の邪魔になるかもしれない。それは避けたい。
いかにアジールの後ろを歩くか思案しながら進むこと二十分、ついにモンスターと遭遇する。気づいたのはもちろんネッテだ。
ネッテはその場に立ち止まり、腰の短剣に手を伸ばす。それを見てイリック達も足を止める。
正面から何か近づいてくる。しかし、足音がしない。
それなら、とイリックはマジックランプを持ち上げ前を照らす。
そこには、肌が薄緑色の小柄な女の子が浮いている。小柄どころか随分と小さい。五十センチくらいだ。証言通り、羽も生えている。
「うわ~。かわいい~」
ネッテが歓喜の声をあげる。
背中には六枚の羽が生えている。色は肌よりも濃い緑色をしており、左右に三枚ずつ展開している。
顔は人間に、いや、少女のそれに近い。しかし、目はやや大きく、クリクリしている。人間とは違い、白目の部分がなく、瞳全体が黒いが違和感はない。
そして肌の色は薄い緑色。
ピクシーだ。
「まさか実物を見れるなんて……。来てみるもんだわ」
ロニアも驚く。モンスターには興味がなくとも、ピクシーのような絶滅危惧種を目の当たりにすれば、知的好奇心も刺激される。
「友好的なモンスターらしいぞ」
「わーい」
イリックの説明を合図に、ネッテはとことこと歩み寄る。手を伸ばすと、ピクシーもそれに応じ小さな手を差し出す。
ネッテがピクシーの手をやさしく握る。
イリックはこの光景から、ネッテも女の子なんだなと再認識する。同時に今までのことを振り返る。
ネッテは時々、アジールが普段から腰にぶら下げている白いぬいぐるみを触らせてもらっていた。そういったかわいいものに興味があるからだ。
その内、何か買ってあげようとイリックは常々思うのだが、どんなものがいいのか、これっぽっちも思いつかない。こういうところが自分のダメなところなのだろうと反省するが、そもそも兄なんてこんなものだろうと都合の良く開き直りもする。
イリックは違和感に気づく。この状況においてアジールが黙っているはずがないからだ。
うさぎのぬいぐるみを常用しているアジール。
普段から隙さえあればネッテを愛でるアジール。
イリック以上の巨体でありながら、実はこのパーティで一番女の子らしいアジール。
そのアジールの様子が気になる。そっと視線を向けてみる。
両手をワキワキさせながら、鼻血を流しているアジールがそこにいた。見なかったことにした。
ネッテとアジールがピクシーを愛でる。過剰な接触は嫌がられそうだが、小さな女の子はそんな素振りを見せない。
洞窟の奥からピクシーが姿を現した。一匹だけとは言え、これは十分な証拠になる。自分達の予想は間違っていないと確認する。
滅びたはずのピクシーは、風の洞窟に隠れ住んでいた。
もちろんまだわからないことがある。なぜミエト村に姿を現した?
誰かによって結界が破られたから、興味本位で洞窟を抜け出してみた。現状だとこの考え方が本命だ。
外見がどんなにかわいかろうとも、ピクシーはモンスターだ。人間とは根本的にものの考え方が異なる。人間の物差しは通用しない。
「それじゃ、そろそろ進むぞー」
休憩も兼ねたピクシーとのじゃれあいは終了だ。イリックは先を急ぐことを選ぶ。
ピクシーがなぜ現れたのか?
結界がなぜ破られたのか?
その答えが奥にあるように思えて仕方ない。
ネッテは名残惜しそうに手を振る。ピクシーとは帰り道で会えるかもしれない。もしかしたら奥にまだまだいるかもしれない。ゆえに悲しむことはないのだが、ネッテとアジールは涙を流しながら歩く。
(ネッテにはぬいぐるみか何かを買ってやろう。アジールさんは知らん)
五分ほど歩き、イリックは気づく。
先ほどのピクシーがついてきている。一緒に来たいのだろうか? だとしたらなぜ? 考えたところでわかるはずもない。しかし、このままというのもどこかむず痒い。
イリックは立ち止まり、振り返る。
小さな女の子が、ひょこっとマジックランプに照らされながら再び現れる。
「一緒に来たいのか? それとも、先に進むと危ないって教えてくれてるのか?」
問いかけてみても、当然返事はない。
わからない以上、今は好きにさせるしかない。ネッテとアジールが目を輝かせる。同行してくれるのならそれはそれで構わない。不都合などないのだから。
その後も一同は暗闇の通路を歩き続ける。
ピクシーと遭遇してから二十分が経過した頃、、ロニアが足を止める。誰よりも早く異変に気づけたからだ。通常、こういう役目はネッテなのだが、、魔力に関する案件ではロニアに分がある。
「何かいるわよ……。大精霊とは別の何かが」
ロニアはわずかに震える。すなわち、それほどの何かがいるということだ。
(嫌だな~、帰りたいな~)
イリックは不安にかられながら前だけを見つめる。当然、まだ暗闇しか見えない。その先で何が待っているのか、微塵も想像できない。それでも、一つだけわかることもある。
ロニアだけが真っ先に反応できる相手。すなわち、先で待ち構えている何かは魔力を放っている。
魔法を巧みに操る相手とはあまり戦いたくない。これがイリックの本音だ。
攻撃魔法は初速から既に速く、えてして避けにくい。イリックは回復魔法を使えるが、たったの十一回だ。回復量も乏しい。傷つきながらの戦いは苦手でしかない。
歩みを進めた結果、次いでネッテが声があげる。
前方に広い空間を見つけたからだ。イリック達には見えない。夜目の成せる業だ。
「ピクちゃん、ここで待っててね」
ネッテがピクシーの手を握ってゆっくりと上下させる。
前進するにつれ、うっすらと緑色の光が見え始める。前方の空間がその光で満たされているからだ。
そしてイリック達は辿り着く。
今まで通ってきた洞窟はただの横穴でしかなかった。しかし、目の前に広がる空間はまさに人工的な広間と言って差し支えない。
丸みを帯びた球状の空間。平らなのは立っている足元の床だけ。
壁と天井の境目はわからない。球体を真ん中で水平に切ったような形ゆえ、壁をなぞればいつの間にか天井に辿り着く。
その天井は随分と高く、数十メートルにも及ぶ。
天井がその高さなら、横幅と奥行きはその倍の長さになる。
この丸い広間はイリック達が通ってきた通路以外にもう一つの道と繋がっている。イリック達が立っている場所からでもそれを広間の奥に確認できる。
三メートル前後の狭い道ではない。奥に続く新たな道は、今まで歩いて来た洞窟よりも縦横共に倍以上を誇る。
そして、この広間を満たす薄い緑色の光は、そこから漏れ出ている。
では、そこに向かいましょう、とはいかない。なぜなら、この広い空間の真ん中には、ロニアを震え上がらせる存在が四本の足で立っているのだから。
イリックはいつか冒険者から見せてもらった絵を思い出す。東の大陸には、四本足で走る動物がいる。そんなものはどこにでもいるが、それは人間より速く、しかも人間を背に乗せて走る。
ウマと呼ばれる動物だ。イリックが見えてもらった絵には、躍動感さえ漂うウマの走る姿が描かれていた。
その動物と姿だけは瓜二つのモンスターが目の前にいる。
しかし、明らかにこれはウマではない。
大きい。丸太のような太い足が既に自分達より長い。胴体には手を伸ばさなければ届かない。
頭には角が一本生えている。大層立派な角だが、それで獲物を突き刺すには随分と頭を下げなければ届かない。少なくとも、人間を突き刺すためには見えない。
全身が黒がかった青色をしている。目だけは赤く、ゆえに一際目立っている。
「そんな……。モノケロスまでいるなんて」
「ご存知なんですか?」
たじろぐロニアにイリックは問いかける。しかし、視線は目の前のモンスターから外さない。ロニアがモノケロスと呼ぶそれもまた、自分達を赤い目でじろりと観察しているのだから。
「ピクシー同様、滅んだと思われているモンスターよ。ここはあれかしら。滅びかけたモンスターの避難所なのかしら?」
「だとしたら、大人しく帰ります?」
ロニアの言う通り、ここはモンスターにとって最後の楽園なのかもしれない。そう思うと、人間が土足で踏み込んでいいとは思えない。さっさと戻ってゴルドに報告しよう。イリックはそう提案する。
何より、こいつはまずい。デーモンとは違うベクトルのやばさを感じる。長居は危険だ。今すぐ逃げるべき。本能がそう叫んでいる。背筋は突き刺さる圧倒的な存在感で凍りそうだ。例えるなら、腹をすかせたトラと遭遇したうさぎの心境だろうか。
イリックはじりっと後ずさる。広間に踏み込み過ぎたことを後悔する。緑色の光が綺麗でついふらふらと進んでしまった。
左手を横に突き出し、全員に合図する。このまま下がれ、と。
しかし、もう遅い。
友好的ではないと一目見た時からわかっていた。自分達に向けられているそれが、殺意なのか敵意なのか判別できずにいた。冷静に考えれば、どちらも同じようなものだ。
モノケロスの灰色な角が先ほどからキラキラと白く輝いていた。光を放っているというよりは、広間の奥から差し込む薄緑色の光を反射させている。
それが何を意味しているのかわからなかったが、どうやら謎は解けてしまう。
「お兄ちゃん、道が塞がれてるよ!」
ネッテの叫び声でイリックは察する。
こいつは、俺達を逃がすつもりはないらしい、と。
イリック達が通って来た洞窟が分厚い氷の壁で蓋をされている。ネッテが本気で叩いても、びくともしない。
ネッテの腕力は相当だ。冒険者ゆえ、細い腕からは想像できないほどの力を秘めている。大人一人ならさくっと持ち上げてしまう。それにも関わらず、氷の壁はヒビすら入らない。魔法の壁ゆえ、腕力だけではダメなのか、もしくは相当な力が必要なのか、現状ではわからない。
そもそも問題は、いつこんな壁を作られてしまったのかだ。先ほどからモノケロスの立派な角が白く輝いていた。それが詠唱だったのかもしれないと推測する。
ロニアがモノケロスの魔力に怯んだこと。
今こうして壁で退路を絶たれたこと。
以上のことから、目の前で佇んでいるウマのような巨大なモンスターは、知能があり、魔法を効果的に使う強敵だと判明する。
ピクシーを洞窟側に置いてきたのは正解だ。他のモンスターまで攻撃するのかどうかまではわからない。とにかく、これからの戦いに巻き込むわけにはいかない。
パカラン。
ひづめの音が広間に響く。モノケロスが体をこちらに向けた合図でもある。
獲物の退路を断った。ゆえに、次の行動に移る。青黒い巨大な体がそう物語っている。
「ネッテ!」
「ガッテン!」
戦闘開始だ。イリックとネッテは右前方に走り出す。モノケロスの左側面に素早く移動し、二人は黒に近い青色の足に斬りかかる。
イリックは左前足へ。
ネッテは左後ろ足へ。
斬撃はほぼ同時に繰り出される。しかし、モノケロスは全く怯まない。この程度の攻撃は、大木をナイフで切り倒そうとしているようなものだ。
「ウォーシャウト」
「ウォーターインカーネイト!」
ワンテンポ遅れて、アジールとロニアも参戦する。
アジールはイリック達とは反対側に、すなわち、モンスターの右側面に走り出す。同時に、ウォーシャウトで注意を自分に向ける。
ロニアは氷の張られた通路を背に、攻撃準備を開始する。主人の命を受け、四本の水柱が出現する。
ひづめの音を鳴らしながら、モノケロスがその巨体をゆっくりとアジールに向ける。顔はウォーシャウトをかけられた時からアジールに向けられており、体が遅れて連動する。
イリックは分析する。このモンスターはそれほど俊敏に動けない。おそらく魔法攻撃に特化したタイプだろう、と。冒険者で例えるなら、後衛攻撃役に該当する。
その証拠に、振り向く動作も、アジール目掛け走り出すこの一歩目も、どんくさいと言わざるをえない。
イリックはネッテを一旦後退させる。そもそも、短剣程度でどうこうできる相手とは思えない。モノケロスの巨体からすれば、短剣の刃などたかがしれている。ネッテには、自分の代わりに全体を見渡してもらうことにした。
モノケロスが走る。イリックも追走する。
(ふむ、走り出しは鈍いけど、勢いに乗ると速いな。そういう体つきしてるもんな)
太い足は異常な脚力を秘めている。体の肉付きも、まさに走るためのそれだ。しかし、今はまだイリックの方が速い。この広間はモノケロスが全力で走るには狭すぎる。なんでこんな場所にいるのか、それは誰にもわからない。
(待て。どうやってここに入ったんだ?)
突如、イリックは言いえぬ違和感を抱き、足を止める。
モノケロスのサイズは明らかに通って来た洞窟のそれよりも大きい。屈んだところで頭をつっこむ程度が関の山だ。つまり、ヨール原野から続く洞窟を通ってここに辿り着いたのではない。
昔は通れる程度に小さく、ここで成長した可能性も考えられるが、その場合、新たな疑問が生まれる。ここで何を食べていたのか、だ。候補はピクシーだが、そもそも今は周囲に見当たらない。黙って食べられるほど無能なモンスターとも思えない。
となると残された可能性は二つ。
広間の奥から緑色の光が差し込んでいるが、その先にはモノケロスに関する何かが存在する。
もしくは、誰かがここでモノケロスを呼び出した。
しかし、考えたところでわかるはずもない。目の前のウマに訊いたところで教えてくれるとは思えない。ゆえにこれ以上は考えない。今は戦うことに集中する。
「スカウリングドロップ!」
ロニアが水柱の一本から大量の水滴を発射する。相手は巨体ゆえ、それほど狙いすまさずとも、半分以上はヒットする。しかし、予想通り、平然と走っている。
でしょうね、とロニアは二本目の柱を変形させる。
ぐにゃりと渦を発生させながら水の塊が姿を変える。真っ先に支えとなるスタンドが完成する。とても細く、簡単に折れてしまいそうだが、全く問題ない。その上に、水の槍が作られていく。先端の刃は螺旋を描き、持ち手など存在しない柄が後方に伸びる。
完成。ロニアは狙いを定める。
モノケロスはアジール目掛け走っている。あっという間に、ロニアからは離れてしまう。それでも撃てば当たるかもしれないが、今は狙いを定めることに集中する。なぜなら、体当たりを回避されたモノケロスと、それを跳ねてなんとかやり過ごしたアジールがロニアから見て微妙に重なっている。
モノケロスはゆっくりと反転し、アジールを狙い直す。ウォーシャウトの効果時間は十秒。その時間は既に過ぎ去っているが、目の前にいる人間を狙わない理由もない。
ゆっくりと加速し、いっきに速度を上げる。
ギリギリだったが、アジールは再びその巨体を回避してみせる。大木のような前足で蹴られでもしたら、盾で受け止めようと軽症では済まない。それだけの体格差が存在している。太い足はアジールよりも長く、そもそも胴体や首、頭まで含めれば、自分達の三倍近い高さだ。体が大きいということは、体重もやはり重たい。可能な限り、避けてやり過ごすしかない。
獲物を仕留められなかったことを悔やむように、モノケロスは再び減速し、ついには停止する。前方にはイリックが立っているにも関わらず、狙った相手から仕留めようとする強い意思が感じられる。
立ち止まったその隙をロニアは見逃さない。
「いきなさい!」
主の命が下る。スタンドに鎮座していた槍が発射される。モノケロスと違い、加速などしない。最初からトップスピードだ。グンと空気を切り裂きながら、黒い巨体にズンと命中する。
一瞬、突き刺さったように見えた。しかし、見えただけでそうではない。槍は水に戻り、あっけなく飛び散っていく。
魔法防御が高い。ロニアの予感は確信に変わる。
魔法を得意とする存在は、それこそ人間、モンスターの隔てなく、魔法防御も高い傾向にある。
また、モンスターの中には魔法防御が元から高い種族も存在する。この世界に時折現れる精霊がまさにそれの代表だ。
以前戦った相手では、アーリマンやガーゴイルも魔法防御が高い。
そして、目の前にいるモノケロスもまた、魔法防御がずば抜けて高い。
ロニアの水槍は並のモンスターなら一撃で葬る。しかし、その槍で傷一つ付けられないのだから、モノケロスの魔法防御の高さは疑いようがない。そして無慈悲な現実を受け入れるしかない。
(じゃあ、どうしろって言うのよ!)
ロニアは奥歯を食いしばる。攻撃魔法が通用しない相手には、自分は何もできない。もっとも、後衛攻撃役は元からそういう宿命なのだが、ロニアはそれでも悔しがる。仲間が目の前で戦っているのだ。活躍できないにしても、助けにはなりたい。しかし、それすらも今の自分にはできない。そういう現実を突きつけられてしまう。
(お~、ロニアさんのあれでもダメか。なら、がんばって倒すしかないな)
ロニアの攻撃魔法が通用しない。必殺の魔法と言っても過言ではないのだが、モノケロスとは相性が悪い。それなら自分の出番だ、とイリックは攻撃を開始する。
モノケロスはアジールを殺すため、再び反転する。それは同時に、隙だらけな後姿をイリックに晒すことになる。
イリックは後ろ足に斬りかかる。先端が割れたハイサイフォスでも、この戦いにおいてはなんとかなりそうだ。モノケロスの青黒い体はまさに獣のそれだが、野生動物と比べると随分頑丈だ。それでも、ハイサイフォスの切れ味程度でどうにかなる相手らしく、野菜のようにすぱっと手ごたえなく斬ることはできないが、そこは自慢の腕力でどうにかできる。
モノケロスの後ろ足を真後ろから二回、三回と素早く斬りつける。血のようなものがドバドバと流れ出る。このまま戦えばいずれ倒せそうだ。
「お兄ちゃん!」
(!?)
ネッテの声が聞こえた。しかし、自分の身に何が起きたのかわからない。声が出せない上に、どういうわけかものすごい速さで景色が移ろう。
体に加わる重い衝撃と共に、どかっと鈍い音がイリックの耳に届く。どうやら壁か何かに叩きつけられたらしい。なぜ? やはりわからない。
そもそも、なぜネッテが叫び声をあげた? それすらもわからない。何もかもがわからない。
(う!?)
鉄の味が口いっぱいに広がる。
その直後、イリックはありえない量の血を吐き出す。コップ一杯なら軽く溢れさせる量だ。これは軽症ではない。直感的にわかってしまう。
もっとも、そんな不安は意味を成さない。既に体が動かない。指一本くらいは動かせそうな気もしたが、それすらも叶わない。意識の輪郭すら、ぼやけ始めている。
ネッテが体を揺らしている? それは何となくわかる。
お兄ちゃん、お兄ちゃんと声だけは届いている。普段ならうるさいと言ってやるところだが、既に声を出すこともできない。
視線がゆっくりと下を向く。イリックの意思とは関係なく、顔が下を向きだしたからだ。
自分の腹を見て理解する。服が腹部付近で破れている。斬りつけていた後ろ足で蹴り上げられたからだ。
イリックは納得する。
モノケロスの足の構造を思い出す。人間の足同様、膝から下は前に折れない。しかし、後ろには曲げられる。動きからも、足の形からもそう推測できる。
動きが鈍いことから油断していた。あれだけの巨体を支えているのだ。足の脚力は尋常ならざる強さだ。
体を前進させるのではなく、後ろ足一本を蹴り上げるだけなら、かなりの速さでできるのかもしれない。いや、できるのだ。
イリックは悟る。自分は後ろ足で蹴り上げられ、今、こうして壁にもたれかかっている。
冷たい床の感触ももはや感じられない。
指先も動かない。
顔も上げられない。
眼球を動かせない。
そういえば、息をできていない。
もう、何も考えられない。
それでもネッテの声だけは聞こえる。不思議だ。もう、死んでいるというのに……。
ネッテは動かなくなった兄の体からそっと手を離す。これ以上揺らしても、無意味だと理解させられたからだ。
「――――」
声にすらなっていない叫び声がこだまする。
まさかの事態に、アジールとロニアも言葉を失う。遠目から見ても、イリックの様子がおかしい。全く動かない。体に力が宿っていない。
そんな中、モノケロスの足音が広間に響く。満足そうに、アジールに狙いを定める。
ひづめがリズムよく音を奏でる。徐々に加速し、狙い続けていた獲物に迫る。
それよりも速く動く存在がいた。瞬く間にモノケロスに飛び乗り、黒い背中に二本の短剣を突き刺す。
十回。二十回。三十回。
その突き刺しは誰の目にも見えない速さで繰り返し行われる。
ロニアは言葉を飲む。無表情のネッテが、とり付かれたように両手だけを動かしているのだから。
傷一つ一つは浅いが、この回数にはモノケロスも怯まされる。
前進を止め、後ろ足で地面を蹴り上げ背中の異物を振り払うように体をばたつかせる。しかし、ネッテは両足で黒い背中にしがみつき、両手を動かし続ける。
それに気づいたのはアジールとロニア。しかし、モノケロスが何をしようとしているのかまではわからない。
モノケロスの角が魔力と冷気を帯び始める。しかし、それ以外の変化は見受けられない。少なくとも、アジールとロニアには何が起きているのかわからない。
気づけたのは、ネッテだけ。
突き刺した短剣が突然抜けなくなった。どんなに引き抜こうとしても、一ミリも動かない。左右どちらの短剣も同じだ。
ネッテは異変を察知する。しかし、その内容がわからない。わからないが、これはまずいと理解できる。
モノケロスが体を揺らす。たしいた動きではない。しがみついていれば振り落とされることはない。その程度の揺れだ。先ほどまでと比べれば、随分と大人しい動きと言える。しかし、それで十分だとわかっていての行動だった。
次の瞬間、ネッテは自分の目を疑う。
パキン。
両腕が肘の先で折れてネッテから断裂する。キュウリをへし折るように、簡単に分離してしまう。
もう遅いかもしれないが、ネッテはモノケロスの背中から飛び降りる。その際も違和感を感じた。体の感覚が鈍い。そもそも、折れてしまった腕が全く痛まない。
地面に着地したネッテは、そのままペタンと座る。立てない。体に力が入らない。
ここにきて一つだけ悟る。体が酷く冷えている。両腕も完全に凍っている。外から見ると何ともないが、少なくとも内側は凍っている。
そして、下半身もそれに近い状態だ。跳ねることはできたが、もう動かない。認識してしまった以上、手遅れだ。
もう戦えない。これでお終い。武器はもうない。体も動かない。
悔しくてたまらない。
勝てないことではない。死ぬことでもない。
兄の仇を討てない。ただただそれが悔しい。
先ほどのように涙が溢れてくる。
泣き声が漏れ出す。
広間に、悲痛な叫び声が響き渡る。
それを音楽として、モノケロスは駆け出す。灰色の角は冷気を帯びたまま。それがモノケロスの行動を読みづらくさせる。
アジールは再び目の前の敵に集中する。ネッテの様子も心配だが、今はそれどころえはない。一度でも蹴られれば敗北に繋がる。
三度目の体当たりが迫る。アジールは盾を構え、左右どちらかへの回避を検討する。
しかし、予想は外れる。
モノケロスはアジールの直前で前足を体ごと振り上げる。踏み潰すつもりだ。
驚きはしたが、アジールは三度、ギリギリの回避を成功させる。これで終わりなら問題はなかった。
モノケロスの攻撃は続く。
丸太のような二本の前足が硬い床を踏み叩くと同時に、モノケロスの巨大な体から、冷気を伴った衝撃波が発生する。
空気の揺らぎといくつもの氷の結晶のようなものは見えた。しかし、それは衝撃が体に叩きつけられた後であり、アジールもまた、遥か後方の壁まで吹き飛ばされる。
その一撃はアジールの体を使って壁をへこませる。崩れた壁の石がぐったりとしているアジールの体にポロポロとこぼれ落ちる。
この場に立っているのはモノケロスとロニアだけになってしまう。
意味のないことだと理解しながらも、ロニアは三本目の水柱を変形させる。
モノケロスはロニアが何をしようとしているのか理解しており、その場から動かず首だけをグインとロニアに向ける。
突然、床から氷の刃が発生し、それがロニアめがけ連鎖反応のように次々と作られていく。
モノケロスとロニアが、氷の刃で作られた一本線で繋がる。ロニアの槍が完成する前に、いくつもの刃がロニアの体と足に突き刺される。
致命傷であることを、誰よりもロニア自身が理解させられる。体に走る痛みよりも、その冷たさがロニアの命を奪っていく。
回復魔法を使えるイリックが倒された時点で、この状況を覆すことはできない。
ロニアは薄れいく意識の中で負けを認める。
こうして、あまりにあっけなく、アジールとロニアも倒される。
残されたのは死に掛けのネッテだけ。
それはモノケロスも理解している。
一人目はもう死んでいる。
残りの二人もすぐに死ぬ。もしくは死んでいるかもしれない。
最後の一人はこれから踏み潰す。どうせ立つ事もできない。両腕も失っている。心地の良い悲鳴を奏でているが、そろそろ聞き飽きた。
泣きじゃくるネッテに近寄る足音。この音が後何回聞こえたら妹を殺されるのだろう。どちらにせよ、もう遅い。
そう、遅いのだ。
◆
(いたたたたた!)
声は出ない。しかし、感覚が戻ってしまう。そのせいで痛い。いっそ殺して欲しいと懇願したいくらいの激痛だ。
そんな状況でも聞こえてくる。ネッテがむせび泣いている。
なぜだかわからない。ネッテに何が起きたのか。なぜ泣いているのか。
わからないことはもう一つある。先ほどから体が淡い光に包まれている。見覚えのある白い光は何だ?
そして気づく。これはキュアだ。
暖かい。痛む体と酷く疲れた頭が癒されていく。このまま目を閉じて寝てしまいたいくらいだ。
しかし、イリックは眼を見開く。ネッテが泣いているのだから、兄として、やらなければならないことがある。
自分の身に何が起きたのか、そもそもこのキュアは何なのか、わからないことが多すぎる。
それらを一旦後回しにし、イリックは顔を上げる。体が動く。腹は相変わらず痛むが、それも幾分和らぐ。
前方に大きなウマのようなモンスターがいる。広間の中央でネッテが座り込んで泣いている。
そして思い出す。
同時に、イリックは予想外の人物を見つける。すぐ隣に、人ではないが人に見えるかわいい女の子が浮いている。薄緑色の肌をした小さなモンスター、ピクシーだ。六枚の羽をパタパタ動かしながら寄り添うように浮いている。
体を包み込む白い光はピクシーのキュアだ。イリックを圧倒的に上回る魔力は、みるみる体を正常な状態に戻す。自分の才能のなさに愕然とさせられたが、今は感謝の気持ちしかない。
「ありがとう。もう大丈夫」
実はまだちょっとだけ腹が痛い。しかし、今は急ぐ。
アジールの状況は掴めていないが、死にそうなロニアが視界に飛び込んだからだ。
「あのおかっぱでボンキュッボンなお姉さんを頼む」
イリックの率直な表現はピクシーに伝わる。
言われた通り、ピクシーはパタパタとロニアの元へ向かっていく。
それを見届け、イリックも歩き始める。
モノケロスは真っ直ぐネッテに近づく。後数歩でネッテに到着してしまう。
モノケロスとイリックの距離は十五メートル以上離れている。しかし、イリックは落ち着きを保ち続ける。
(ふむ、流暢に歩いてるからだ。走れば間に合ったかもしれないのに。いや、それもないか)
自分のやるべきことは既に理解できている。
モノケロスが何をしようとしているのかもわかっている。
しかし、それは間に合わない。
動きが遅いから。
阻止するから。
誰が? 当然、イリックだ。
(遅い)
イリックは駆ける。
「コネクト」
薄緑色の光が満ちる広間から急激に色が失せていく。
それと同時にネッテの泣き声とひづめの音も聞こえなくなる。
モノケロスは動かない。
動けるのはイリックだけ。
吹き飛ばされようとも片手剣を握り続けていた自分には賛辞を贈りたい。おかげで反撃に至る工数が減ったのだから。
イリックは誰も動かない広間を一人で走る。一秒経過。
前足を持ち上げようとしているモノケロスの左目をハイサイフォスで潰す。二秒経過。
着地ついでに後ろ足に斬りかかる。三秒経過。
そしてモノケロスの前足がネッテに振り下ろされる。
「アサシンステップ」
イリックは間に合わせる。
一方、モノケロスは二つの出来事に驚く。
一つ目。前足の手ごたえがおかしい。人間を踏み潰したつもりが、地面の感触しかしない。
当然だ。ネッテはモノケロスのはるか前方でイリックに抱きかかえられている。
二つ目。こちらの方が重要だ。左側が見えない。なにより左目が痛む。後ろ足も痛むが、そちらに関してはどうということもない。
「お、お兄ちゃん!?」
「ど、どうしたその手!?」
兄妹仲良く驚く。
ネッテは死んだ兄にお姫様だっこされているこの状況に。
イリックは妹の両腕がぽっきりなくなっていることに。
「そうかそうか。俺の大事な妹によくもやってくれたなこのウマ野郎」
ネッテをそっと降ろし、イリックはその場から一瞬で消え去る。
「デュアリズム」
そのつぶやきと共に、イリックは物音一つさせず、モノケロスの腹の下に移動する。
そのまま先端の欠けた片手剣を振り上げ、モノケロスの引き締まった腹部にハイサイフォスを深々と突き刺す。デュアリズムによって発生した追撃が破壊力を生み出し、巨大な体内をかき乱す。
左目の痛みにさえ耐えたモノケロスも、これには抗えない。激痛の度合いを示すように暴れだすが、イリックは構わず片手剣を振りぬく。このまま内臓がドロリと降ってくるかと思ったが、イリックの予想は外れる。
その代わりに、イリックは右手に違和感を覚える。
手首を曲げようとしてもうんともすんとも反応しない。右肩は動かせるが、肘も曲がらない。
ネッテの傷を思い出しイリックは悟る。これはやってしまったかも、と。
イリックはその場から脱出する。右手が使い物にならなくなってしまったがゆえ、致し方なし。
(さて、どうしたものか)
右手は動かないが、ハイサイフォスを握ったままだ。そういう意味では攻撃を続行できるのかもしれない。しかし、やはりそれも難しい。何より、そんなことをしたらネッテのように腕が折れてしまう。それは避けたい。
(んん?)
イリックは気づく。モノケロスの腹を切り裂いた際、いくらか出血した。しかし、それは既に止まっている。
さらに観察すると、潰した左目からの出血も既に止まっている。斬った後ろ足もそれは同様だ。
右手が凍ったこととそれらの事象を考慮し、イリックは推測する。
モノケロスの体は魔法か何かで超低温に保たれている、と。
この推理は正解だ。これはモノケロスの強化魔法であり、近接攻撃をしかける相手へのカウンターと出血の停止を可能とする。
イリックにとっては厄介な話だ。接近戦しかできないのだから、相性は最悪と言わざるをえない。両腕がダメになる前に倒すしかなく、しかし、右手はもう役に立たない。
この強化魔法をどうにかできれば勝てる見込みはあるのだが、そんな方法は持ち合わせていない。ならば、殺される前に殺すのみ。愚直なその戦法に今はかける。
◆
油断していたわけではない。
予想していなかっただけ。
予測できなかったとも言える。
反射的に盾で少しだけ防げた。そのことだけは自分を褒めてあげたい。
冷気を伴った衝撃波で吹き飛ばされた。
その後、壁に打ち付けられた。
背骨が砕けたかと錯覚するほどの威力で背後の壁に叩きつけられた。鎧を着ていなかったら即死だったろう。
しかし、生きている。こうして意識を取り戻せている。我ながらタフな体だ。
痛覚遮断が解除されたため、今は体中が痛い。とりあえず再開させよう。ふぅ、楽になった。
アジールは体に圧し掛かるいくつもの石を押しのけ、ゆっくりと立ち上がる。
驚くべきことに、イリックが戦っている。死んでいなかった。うれしくて堪らない。ネッテも後方で息をしている。
自分にもできることはないか? アジールはそれを探すため、イリックとモノケロスの戦いを観察する。
そして気づく。イリックの戦い方がおかしい。素人よりも劣悪な斬撃。それを見てアジールは悟る。イリックの右腕が動かなくなっている。
次の瞬間、アジールもそのからくりを見抜く。
イリックが片手剣をモノケロスに突き立てる。それと同時に、右腕が断裂する。まるで凍りついた結果、折れてしまったように。
このことから、モノケロスが何らかの作用を自身にもたらしているとアジールは見抜く。
同時にタイミングも予想する。ネッテが背中に飛び乗った時だ、と。
状況は飲み込めた。そして、ますます自分にできることが見つからなくなる。
今できることはウォーシャウトを使ってモノケロスの注意を十秒間自分に向けることだけ。しかし、この体では攻撃を防ぐことも回避することも難しい。
十秒以内に殺されて、またイリックが狙われるだけ。それでもしないよりはマシかもしれない。
それならば、この命、仲間のために投げ出す。
「お、アジールさーん。片手剣貸してくださーい」
アジールの生存に気づいたイリックが武器を求め声をかける。片手剣は右手首ごとモノケロスに突き刺さっている。左手で取り返そうとしても、左手が凍る危険がある。
アジールが復活してくれたのなら、片手剣を貸してもらえば済む話だ。
「わかった」
そんな二人のやり取りなどお構いなしに、モノケロスがアジール相手に放った衝撃波をイリックにくり出す。
イリックはそれを当たり前のように回避し、いっきにアジールへ合流する。
「それじゃ、お借りします。返せなかったらごめんなさい」
えへへ、とイリックは笑いながらアジールの片手剣を受け取る。
幅広な刃のブロードソードは銀色に輝いており、いかにも高級品っぽい。それでも今は使わせてもらう。
本当なら、こんなことはしたくない。なぜなら、アジールの戦力を落とすことになるのだから。戦いの最中にしていいことではないとイリックも自覚している。しかし、あまりに非常事態ゆえ、今は背に腹はかえられない
一方、アジールは考えを改める。イリックはこれっぽっちも諦めていない。それなら、自分も無駄に死ぬことを選ぶのではなく、貢献できる方法を探さなければならないと冷静さを取り戻す。
そしていくつかの候補を思いつく。
一つ。ウォーシャウト。
二つ。ネッテの前に立ち、万が一の攻撃に備え盾になる。
三つ。継続してモノケロスの動きを観察。
今のアジールにできることはこれくらいだ。
どれもイリックの役には立ちそうにない。無力な自分が悔しい。
そういえば、とアジールはロニアの言葉を思い出す。この目は魔眼らしい。いずれは腕が一本だか二本増えるらしい。
(腕なんか増えなくていいから、今はイリックを助けたい)
ワシーキ村ではイリックとネッテに助けてもらった。
テホト村ではイリックがデーモンを追い返してくれた。
アイール砂丘ではイリックがデーモンを倒してくれた。
そして今も、イリックが一人で戦っている。自分達を守るために。
あなたを守りたい。
私は、このパーティの盾役なのだから。
そして、転機が訪れる。一つ一つ積み重なった想いが、アジールを次のステップへ導く。最も大きな要因は、この目を好きになれたこと。
イリックが綺麗だと言ってくれた。
ネッテも綺麗だと言ってくれた。
ロニアが魔眼だと教えてくれた。
ゆえに、辿り着く。
アジールの目が青く輝く。それでもなお、瞳孔内の赤線で描かれた円は、青に飲み込まれず、力強く自身を主張し続ける。
自分の目が魔眼であることを知り、受け入れ、そして、大事な人を守りたいと願ったから。
想いが力となり、開眼する。
感覚制御が第一形態。これは、古い書物で調べればわかることだ。過去の魔眼持ちは全員これをやれていた。しかし、ほとんどがここまでで終わる。
第二形態。ここに登りつけたものは極小数。そして、アジールもその一人となる。
青い瞳が見つめる先には青い巨体を晒すモノケロス。
体には魔力の鎧とも言うべき強化魔法をまとっている。予想通りだ。これが接触した相手を凍らせている。しかし、それもこれで終わり。
魔眼第二形態。それは、見つめた相手の弱体魔法ないし強化魔法を問答無用で消し去る。
アジールは、モノケロスがまとう冷気の鎧を消失させる。
それは音を立てて、周囲に伝わる。まるでコップを落として割ってしまったような甲高い音。しかし、その意味はイリックに伝わる。
誰が何をしたのかわからない。わかることは一つ。今ならこいつを殺せる。
暴れるモノケロスに接近し、片手剣を心臓がありそうな胴体に素早く突き立てる。予想通り、もう冷たくない。
ふんぬ! と振りぬく。これまた予想通り、ドバドバと血液のようなものが流れ出る。
それでもまだ倒れない。タフな相手に変わりないが、動きは酷く散漫だ。時期に倒れて絶命しそうなほど弱っている。
イリックは勝利を確信する。それは同時に油断も招いてしまう。
イリックの予想通り、モノケロスはもうまもなく死ぬ。しかし、今すぐではない。体は満足に動かない。臓器がいくつもダメにされた。今の斬撃が完全にトドメだ。ほとんど限界に近い。
しかし、それでもなお抵抗できてしまう。
モノケロスは魔法を得意とするモンスターだ。ゆえに、イリックを道連れにできてしまう。
灰色の角が最後の力を振り絞ってさらなる冷気をまといだす。
それに気づけたのは一人。イリックは満足そうに右手を拾いに向かう。アジールによって強化魔法が解除されたタイミングで、イリックの右手もネッテの両腕もゴロンと床に転げ落ちていた。
モノケロスの角から魔力が開放される。その刹那、一瞬早く、水の槍が角に命中する。
折るには至らない。しかし、ヒビは入った。何より、イリックに気づかせることができた。
いくらか魔力が霧散したが、それでもモノケロスは攻撃を続行する。角に溜めた魔力を氷の塊に変換し、圧倒的な初速をもってイリックにぶつける。
ロニアのスカウリングドロップや水の槍に匹敵する速さだ。しかし、所詮はその程度。攻撃魔法が来るとわかっていれば、イリックに避けられないはずもなく、氷の塊はそのまま地面に激突し、床を破壊しながら自身も氷の欠片となって砕け散る。
「まーだ抵抗するのか。今楽にしてやる」
体力が尽き、前足の膝をついたモノケロスの首をイリックはすぱっと切り落とす。
(す、すごい切れ味だ、この片手剣! やっぱり高級品は違うな……)
予想以上の成果に、イリックが最も驚く。
「ありがとうございます、ロニアさん」
イリックは振り返り、水の槍を発射したロニアに礼を述べる。
「どういたしまして」
タイトワンピースには穴が開いてしまったが、ロニアの体と足には傷が見当たらない。ピクシーのおかげだ。
そのピクシーはネッテを癒しに向かう。しかし、両腕が必要だ。ゆえに、イリックが送り届ける。
そして、踵を返す。
「片手剣、ありがとうございました」
「ううん。右手、大丈夫?」
「だんだん痛くなってきました」
イリックは名残惜しい気持ちを押し殺して、片手剣をアジールに返す。指摘されたからというわけではないが、徐々に痛みが現れ始める。モノケロスの冷気が解除され始めているからだ。痛い。それも当然だ。手首付近でちびれているのだから。
「ピクちゃーん! 右手ならここにあります! 早くくっつけてください!」
一刻も早くキュアをかけてもらわなければならない。自身のキュアではどうにもならないと自覚している。
ピクシーを取り合う兄妹を眺めながら、ロニアはアジールに近寄る。魔眼の進化に気づいていた。
今はもう元の状態に戻っているが、それでも独特の波動は強まったままだ。
「魔眼、使いこなせたのね?」
「うん、多分」
感覚的に何かやれたという自覚はあるが、それが魔眼の進化だとはハッキリと認識できておらず、アジールは表情を変えずに小さく頷く。
「ええ。何をしたの?」
「モンスターの強化魔法? それを消せたみたい」
「そう。パージみたいなことができるのね。すごいじゃない」
パージ。弱体魔法の一つ。相手にかかっている強化魔法を一つ消し去ることができる。
ここだけ見ればアジールの魔眼はパージ止まりだが、この魔法は相手に弾かれる可能性があるのに対し、魔眼は必ず成功する。その上、かかっている強化魔法を一度に全て消し去れる。魔眼はパージの上位互換と言える。
さらに、魔眼は味方にかかった弱体魔法も全て消し去れる。
魔眼第二形態は、似ているようで非なるそれらを両立した性能を持ち合わせている。
「ぶい」
アジールはピースしてみせる。しかし、体はボロボロだ。これっぽっちも決まっていない。
「ほら、イリック達のところに行くわよ。回復してもらいなさい」
「痛くないから忘れてた」
「魔眼って本当に便利ね」
予期せぬモンスターとの戦いはこうして終わる。四人共こてんぱんにやられたが、心優しきモンスターのおかげで無事回復する。
なぜモノケロスがいたのか?
ここで何をしていたのか?
それはわからない。
会話ができる相手ではなかった上、そもそももう倒してしまった。
今は一旦休む。
風の洞窟はまだ続いている。薄緑色の光が差し込む奥へ向かえば、何かわかるかもしれない。
その前に、この小さな女の子にもう少しだけ癒されたい。一同はピクシーを囲むように座りこみ、勝利を祝福する。
◆
緑色の光が濃くなっていく。初めはそうでもなかったが、今では少々眩しいくらいだ。
四人と一体は、広間のさらに奥へ進む。今まで歩いた洞窟よりも幾分広い道が続いている。モノケロスが十分通れる大きさだ。
光が強まるにつれ、ロニアはより一層魔力を感じ取る。自分達は異なるそれに、思わず警戒心を強める。
ここまで来れば、イリックですら圧迫感に晒される。
そして、そこに辿り着く。
やや広がりを持つ空間が、行き止まりとして四人の足を止める。
その中心に、緑色の球体が浮いている。
球体の直径は大人三人分くらいの長さだ。広い部屋の真ん中に静止した状態で浮かんでいる。
自然界に緑色の光など存在しない。そんな光を放つ何かが完全な球体として浮かんでいる。いっそ神々しささえ感じてしまう。
「何ですかこれ?」
とは言え、イリックにはこれが何なのか全くわからない。二人の気持ちを代弁する。もちろん、ネッテとアジールだ。
「風の大精霊よ……。きっと」
ロニアは震えながら球体を見上げる。
巨大な球体が目の前で浮かんでいる。それだけでも異常な光景だ。透明感のある緑色が非常に美しいが、決して中の様子はうかがえない。
威圧感と膨大な魔力が溢れ出ており、自分達がいかに弱い生命か、思い知らされる。
よく見ると一箇所に小さなヒビのような傷が見つかる。
「人の子よ。よくぞ参られた」
「アジールさん、それは何の真似?」
澄み切った今の声はアジールのそれに似ていた。およそらしくない言い回しに、イリックがつっこみを入れる。
「人の子よ。よくぞ参られた。って、私じゃない」
「いや、そっくりじゃないですか」
「黙って聞きなさい」
「はい」
ロニアがぴしゃりとイリックとアジールを黙らせる。元先生ゆえ、こういう時の威厳は無類だ。
「私は風の大精霊。ウルフィエナ創造の直後に体現しました」
イリックは認識する。アジールに似ているこの声は、目の前の球体から発せられているのだろう、と。しかし、その内容まではわからない。
「モノケロスの討伐、感謝します」
「教えて。何でこんなところにモノケロスがいたの?」
ロニアが大精霊に問いかける。訊きたいことは山ほどあるのだ。一つでも多くのことに答えてもらう必要がある。これはその一問目に過ぎない。
「先日現れた人の子により精霊界から連れてこられたのです」
「ありえない! そんな魔法は聞いたことないし、普通の人間にできるはずもない!」
「それは私も同意権です。しかし、私の前に現れた人の子はそれをやってのけました」
「そう。もしかして、黒いローブの男?」
「その通りです」
あいつか。イリックは興味なさげにぼんやりと受け入れる。風の洞窟付近ですれ違った男の仕業だと認識する。
そしてイリックは端に移動し、硬い石の地面に寝転がる。回復魔法で傷は癒えても疲れまでは取れていない。先ほど少し休んだがそれでもまだ足りない。寝るつもりはない。横たわるだけだ。そもそもここは眩しい。普通なら眠れるはずがない。
「その男の目的は? このヒビみたいなのと関係あるの?」
ロニアは一点を指差す。緑色の球体には一箇所小さな亀裂があり、完全な球体の美観をわずかに損ねている。
「はい。その者がモノケロスを呼び出した理由は、私の結界に穴を開けるためです。そして、そこから漏れる魔力を二度奪い去って行きました。二度目はつい先ほどのことです」
「そう……。間に合わなかったってことね。でも、魔力の貯蔵なんて聞いたことないわ。まぁ、あいつから感じた魔力が事実だと証明してるようなものだけど」
魔力の吸収および貯蔵。そんな芸当をできる人間などこの世に存在しない。そんな魔法や戦技も当然存在しない。
しかし、風の洞窟前ですれ違った男からは、人間には達成できないであろう膨大な魔力を感じた。魔力が高い人間はいくらでもいる。彼らと比べてもその男は圧倒的だ。
何より、その質が異なる。およそ人間のそれとは異なる波動を体内から放っていた。
それが風の大精霊の魔力なのだと、今ならはっきりと理解できる。
(ん? 待って……。ゴルドはこの件を知ってそうね)
ロニアが気づく。魔力の略奪。少なくとも、これに関しては心当たりがある。なぜなら、ゴルドがその被害者だ。
「あなた方がモノケロスを討伐してくれたおかげで、私も結界の穴を修復できます。本当に感謝しています。ふふ、人の子に助けられる日が訪れようとは思ってもみませんでした」
「そう。まぁ、人間がしでかしたことだもの。人間が尻拭いしないと。ところで、滅びたはずのピクシーがどうしてこのタイミングで現れたの? あなたの仕業かしら?」
「そうです。結界に穴を開けられて以降、この危機的状況を人間に知ってもらうために、精霊界からピクシーにはせ参じてもらいました。それも終わりましたので、これから帰ってもらいます」
大精霊は精霊界とこの世界を繋げることができる。
発言一つ一つが勉強になるが、それでも訊きたいことは山ほどある。ロニアは質問を続ける。
「その男の目的は何?」
「それはわかりません。私の膨大な魔力でなければ成し遂げられないことなのでしょう」
ロニアは感じている。目の前の球体から漏れ出ている魔力は人の手に余る。もし、魔力量を測る装置が存在するなら、その装置の目盛りは一瞬にして振り切られるだろう。この魔力は、人間が頭で想像できるさらに上を行っている。
黒いローブの男は、風の大精霊の力無しで既に精霊界からのモンスター召喚を行っている。本来ならば大精霊の特権だが、その男は同等のことを成しえている。この時点で既に人の領域を外れている。
その上さらに、大精霊の結界にヒビを作り、漏れ出た魔力を吸収して去って行った。
目的はわからないが、何かをやろうとしていることは間違いない。それが人のためになることなら構わない。しかし、そうでない場合……、ここから先はゴルドに考えさせるしかない。
「そのヒビは、モノケロスを倒したから治せるみたいな口ぶりだけど、そもそもヒビが入ったことでこの世界に悪影響をもたらしたりしないの?」
「この程度なら大丈夫です。それに、漏れた魔力はあの男に吸収されましたから」
なるほど、とロニアは納得する。もっとも、大精霊の結界を破壊したのもその男なのだから、そいつは良いことをしたようで何一つしていない。単なるマッチポンプだ。
ロニアは一旦情報を整理する。
自分達がここに派遣された理由、それはピクシー出現の原因解明。これは、風の大精霊が自分の危機を人間に知らせるため行ったこと。
風の洞窟および大精霊の結界を破ったのは、洞窟手前ですれ違った黒いローブの男。
大精霊の強靭な結界を打ち破ったのはモノケロスで、それを呼び出したのもその男。
大精霊の結界はいずれ治る。
どうやら、自分達に課せられた依頼は完璧にこなせたらしいと認識する。男については何もわかっていないが、それは別件だ。そもそも、その男はガーウィンス連邦国の関係者である可能性が非常に高い。そうでなければ、風の洞窟に張られていた結界を破ることなどできない。
ここから先はゴルド達に調べさせればいい。少なくとも、冒険者の領分ではない。ロニアはそう結論付ける。
「どうやら、知りたいことは知りえたようですね。それでは、最後に一つだけ」
「ま、待って! 本当に知りたいことはここからなの!」
話を切り上げようとする風の大精霊にロニアは戸惑う。今までの質問は依頼のため。ここから先は自分の知的好奇心のために教えて欲しい。知りたいことはまだまだあるのだ。
「わかりました。一つだけ答えて差し上げます」
「一つって……」
「ふふ、全てを知ってしまっては、あなたの生きがいを奪ってしまうでしょう? それに、私が知っていることも限られています」
大精霊は神ではない。ゆえに、何でも知っているわけではない。その言い分は理解できる。だからと言って、一つだけというのは少なすぎる。しかし、そう言われた以上、ロニアは質問を絞っていく。
たった一つの質問で、この世界の仕組みを知るために。
緑色の光で溢れかえった部屋の中心で、風の大精霊とロニアは向き合う。
本当は何十という質問を投げかけたかった。この世界について知るためにはそれでも少なすぎる。しかし、たしかにそれは贅沢過ぎるかもしれない。知的好奇心を満たすために魔法学校を退職し、冒険者になったロニアの目的がいっきに達成されてしまう。
ロニアはイリック達との旅を気に入っている。今はまだ一緒にいたい。ゆえに、一つに絞れと言うのなら、絞ってみせる。
ロニアはぐっと拳を握り、すっと開く。
「あなた達、大精霊の正体は何?」
大精霊。
その存在ははるか過去から知られている。
それこそ、一万年前に滅んだ古代人の時代にまで遡ることができる。
大精霊は八体いると言われている。しかし、所在が明らかになっているのは五体だけ。水、光、闇を司る大精霊については見つかってすらいない。
大精霊についてわかっていることは少ない。調べようとも調べる術もなく、そもそも大精霊が存在する洞窟や遺跡への侵入自体、禁止されている。
ロニアが知りたがるのも当然だ。そして、大精霊を知ることができれば、この世界そのものについても知ることができる。ロニアはそう考える。
飽くなき知的欲求を満たすにはもってこいの存在だ。
「それを語るには、この世界について少し話さなければなりません。二人の神は、はるか昔にこの世界、ウルフィエナを創造しました。しかし、その際に一つだけ過ちを犯したのです。いくつもの世界の中心にウルフィエナを創造しましたが、その結果、ウルフィエナは独自の現象に悩まされることになりました」
「ちょ、ちょっと待って。あなたが言う二人の神は、男神ロイロルと女神ネゼオルのこと?」
さすがのロニアも突然過ぎる説明に困惑する。大精霊を語るために必要な前振りが既に突拍子もない。
「そうです」
「おとぎ話じゃなかったの?」
「もちろんです。神は実在します」
「ど、どこによ!?」
「神界です」
質問は一つと言われておきながら、ロニアは矢継ぎ早に質問を投げかけてしまう。しかし、それも仕方がない。明かされる事実があまりに信じがたい。黙って聞いていられるはずもない。
神。その伝承は人間にも、そしてモンスターにも語り継がれている。
男神ロイロル。
女神ネゼオル。
この世界には二人の神が存在し、空高くから人々を見守っている。これが定説。
男神が動植物を生み出し、女神が人間を生み出した。これも定説。
モンスターはこの世界にとって異物であり、ゆえに、人間と動植物は共存できるが、人間とモンスターは争うと言われている。
事実争っている。
「ふふ、特別ですよ。あなた達が古代人と呼ぶ彼らは、神界まで後一歩でした。理由は知りませんが、途中で諦めてしまったようです」
「か、神の世界に行けるの!? どうやって!?」
「それは私もわかりません。どこかに神の扉が存在するようです。私も、神に呼ばれただけの存在ですのでこれ以上は知りえません」
「そう、行けるの……」
ロニアは驚愕しながらも、ふつふつと新しい野望をたぎらせる。
神の世界。
神の扉。
二人の神に会える。
そんなことを聞かされてしまっては、知的好奇心が刺激されないわけがない。引きつりながらも口角がつり上がる。いつか必ず行ってみせる。そう思わずにはいられない。ロニアの中に新たな目標が芽生える。
「さて、話を戻します。いくつもの世界の中心に存在するウルフィエナですが、一つだけこの世界には欠点が存在します。隣接する世界と近すぎるため、他の世界から干渉を受けてしまうのです」
「それは、精霊界とやらから精霊が紛れこんでくる現象のこと?」
「それもその一つです。そして、それこそが我ら大精霊がウルフィエナに呼ばれた理由でもあります。精霊界とウルフィエナはとりわけ近く、その結果、精霊界の生き物がウルフィエナに紛れ込んでしまうのです。我ら大精霊は、迷い込んだ彼らを精霊界に戻す担い手として、神に呼ばれました」
精霊が大精霊の元へ帰っていく。そのような説もおとぎ話として存在するため、ロニアは驚かない。しかし、その理由が精霊界へ戻るため、となると話は別だ。
「モノケロスも精霊界のモンスターなんでしょう? ヒビなんか入れられてないで、さっさと帰せばいいじゃない」
「戻る、戻らないは彼らが決めることです。私が強制できることではありません。それに、先ほどのモノケロスは主の命に従っておりました」
「そう。まぁ、やれるのならやってたわよね……。つまり、あなた達は神が連れて来た精霊で、全部で八つ、と」
「その通りです。この膨大な魔力は神によって授けられました。しかし、あまりに強すぎるため、自分自身を結界に閉じ込め、世界への干渉を防いでいます。さて、ここまでとしましょう」
風の大精霊がそう言う以上、ロニアとしてもこれ以上食い下がれない。大人しく頷き、会話の終了を受け入れる。
「最後に一つだけ。助けて頂いたお礼に、魔法を一つ差し上げましょう。人の子が一万年前に編み出した秘法、転送魔法です」
「転送魔法!? それって実在したの!?」
ロニアが再び驚く。それも当然だ。
転送魔法テレポート。その存在はガーウィンス連邦国の古い書物に記されている。しかし、はるか以前に滅びた魔法らしく、詳しいことは何一つわかっていない。ゆえに、作り話やおとぎ話として扱われている。
「もちろんです。私の目の前でこの魔法は編み出されました。あなた達が古代人と呼ぶ彼らは、非常に魔法の扱いに長けておりましたよ」
少しバカにされているような気もするが、ロニアはめげない。そして、先ほどから出てくる古代人および一万年前。その単語が妙にひっかかる。
「古代人って本当に存在したの?」
「はい。一万年前にほとんど滅びてしまいましたが、今でもどこかで生存しているようです。わずかに魔力を感じます」
「んな!?」
ロニアの口から魂が飛び出る。そろそろ脳の容量が限界だ。
「さて、転送魔法ですが、あなた達の中で扱えるのは彼だけですね」
「イリック? 何でよ? 私の方が魔力もマジックポイントも上よ」
ロニアが口から飛び出ている魂で訴える。魔法に関しては、イリックより自分が上。それは紛れもない事実だ。ゆえに、テレポートを授けられるとしたら自分が適任だと考える。イリックが覚えるならそれはそれで構わないが、理由だけはハッキリとさせたい。
「この魔法は、あなた方で言うところの強化魔法に当てはまります」
「あぁ、そういうこと。納得したわ」
その一言でロニアは理解する。口から魂が出ているが、それでも元先生だ。頭の回転速度は伊達ではない。
強化魔法。身体能力や魔法防御を高める魔法。
この魔法群を扱えるのは、後衛補助役と後衛回復役だけであり、後衛補助役が最も多くの強化魔法を習得する。
転送魔法テレポートは強化魔法に該当する。このことから、後衛補助役か後衛回復役が習得できそうだが、風の大精霊の口ぶりでは後衛回復役が対象なのだろうロニアは推測する。
ロニアは後衛攻撃役であり、残念ながら強化魔法は使えない。大人しく諦める。
ふと、イリックが一言も喋らないことを不審がり、ロニアは右を見る。ネッテとアジールがピクちゃんことピクシーと戯れている。幸せそうだ。
左を見る。いない。後ろ? いない。ではどこに……。いた。
狭い広間の隅で、風の大精霊に背を向けながら、顔を腕で覆いつつ、横たわっている。
完全に寝ている。
ロニアは歩み寄り、イリックの鼻に人差し指をつっこむ。そして、自慢の水魔法を流し込む。
「ぶはっ!?」
「起きなさい」
「お、起きました……」
手荒すぎませんかね~、と頭の中で抗議しながらイリックは渋々立ち上がる。少し寝ていただけでこの仕打ち。ネッテより手荒な気がしてならない。
「イリック。この度の礼として、転送魔法をあなたに授けます」
「あ、ありがとうございます?」
風の大精霊が何を言っているのかイリックには理解できない。鼻からは水を垂れ流しながら、とりあえず心のこもっていない返事をする。
「大精霊が存在する場所と転送石の場所にしか移動できない魔法ですが、そこは改良してあります。さぁ、受け取ってください」
(まぶしい……)
風の大精霊が緑色の光を強める。
イリックが目を細めてそれを眺めていると、次第に体の内側が熱くなる。この感覚には覚えがある。魔力の胎動、そう、魔法の習得だ。
そして、イリックはこの魔法について理解する。
「これはすごい……。ありがとうございます」
イリックは鼻から水を垂らしながら頭を下げる。
「大精霊がいる場所と任意の十一箇所。それで十分でしょう。思う存分、役立ててください。わかってはいると思いますが、その四箇所はあなたの記憶から決定しておきました」
イリックの習得したテレポートは改良型であり、利用するには転送先の定義付けが必要となる。
大精霊の場所は訪れるだけで登録される。つまり、風の大精霊がいるここは既に登録済みだ。
それとは別に任意の十一箇所が移動先として登録できる。なぜ十一箇所なのかは習得したイリックにもわからないが、とにかく移動先として登録したい場所へ自分の足で訪れ、そこだと思うところを頭の中に書き加えなければならない。
風の大精霊は気前がいいらしく、既に次の四箇所が定義されている。
サラミア港。
デフィアーク共和国。
サウノ商業国。
ガーウィンス連邦国。
すなわち、故郷と三大大国がカバーされている。この時点でテレポートの使い勝手は完成だ。せいぜい、転送先の微調整くらいで済む。
風の洞窟とこの四箇所。イリックが現在移動できる先は合計五箇所となる。
「それでは、私は結界の修復に集中します。その前に……、さぁ、戻ってらっしゃい」
風の大精霊がやさしく呼びかける。澄み切ったその声はどこまでも響き渡り、彼女達を呼び戻す。
この気配には覚えがある。風の洞窟に入る際、自分達を眺めていた子達だ。
薄緑色の少女達が何匹も現れる。
真っ直ぐ飛ぶ子もいれば、右へ、左へ揺れながら飛ぶ子も、ネッテの目の前でクルンと一回転を披露した子もいた。
皆、クスクスと微笑んでいる。
そして、ネッテとアジールの相手をしていたピクシーもまた、二人からそっと離れ、緑色の球体に寄り添う。
「行っちゃうの?」
ネッテが寂しそうにピクシー達を見上げる。
その一人が、どこか物悲しそうに小さく頷く。
風の大精霊が光を強める。緑色の光は一瞬にして広間を覆いつくし、球体の内側に一際大きな姿を出現させる。
ピクシーによく似た姿。背中に二枚の羽。肌の色まではわからない。緑色に見えたがそれは風の大精霊が放つ光の影響かもしれない。
しかし、イリックは見逃さない。胸はわずかに膨らんでおり、腰はきっちりくびれている。太ももは太い。
実にけしからん。ちょっとムラッとしてしまう。
顔はピクシーのそれに似ており、白目と黒目の区別がない目はやはりクリクリしている。しかし、子供特有のあどけなさは残っておらず、体つきは大人の女性に近い。身長は二メートルから三メートル。抱きつきたくて仕方ない。
しかし、もう遅い。光が収束すると、広間は静まり返る。
大勢いたピクシーはもういない。
風の大精霊も眠ったように黙る。
これでゴルドの依頼は完全に果たせたことになる。
「さぁ、戻りましょう」
イリックが口火を切る。眠っていたため、ここでのやり取りはさっぱり理解していないが、そもそもあまり興味がない。
「ばいばーい!」
ネッテが風の大精霊にブンブンと大きく手を振る。
アジールも小さく手を振り、ロニアはじっと見つめる。
そして、イリックは詠唱を開始する。
二秒、三秒、四秒、随分長い詠唱時間だ。余韻を楽しむには丁度いい。
風の洞窟調査。八日間の旅。長かったような、短かったような、そんな初仕事はこうして終わりを告げる。大成功。文句なしだ。
得るものは多かった。
最後の最後で死にかけたが、今こうして生きている。なら、よしとする。
七秒、八秒、九秒……。長すぎる詠唱にイリック自身が驚く。
十秒、十一秒。そして発動する。
視界が一瞬白くなる。次の瞬間、今度は暗転して黒くなる。
体を浮遊感のようなものが包み込む。しかし、決して気持ち悪くはない。
さようなら、とは言わない。この魔法でいつでも会えるのだから。
その内ネッテが言い出すかもしれない。ピクちゃんに会いたい、と。その時は、風の大精霊に頼むつもりだ。
さぁ、目を開けよう。土と草木と水の匂いが漂ってきたのだから。
自分達が立っている場所は茶色い地面の上。周りを見渡すと、どうやらここはどこかの建物の裏側らしい。
大きな四角い建物と、それに連なる小さな丸い建物の背中がすぐ目の前にある。
川のような、湖のような水溜りも周りに見える。それにかかる木製の橋にも見覚えがある。
ここはガーウィンス連邦国。
そして、イリック達が立っている場所は火の図書館の裏側。
どうやら、無事帰って来れたらしい。
ゴルドへの報告が済んだら寝てしまいたい。今日は本当に疲れてしまった。
有意義だったかもしれないが、それにしてもヘトヘトだ。
出会いと別れと戦いと勝利。
まさに冒険。
冒険者になって良かった。そう思わずにはいられない。




