第十一章 三国制覇
吹き荒れる雪が視界を遮る。しかし、ここに生息する者にはこれが当たり前だ。空は厚い雲で覆われており、太陽の光は地上まで届かない。
白く、薄暗い極寒の土地。ここは、そういう場所だ。
あらゆる場所が雪で覆われている。茶色い地面はどこにも見当たらない。
ここは人の住める土地ではない。しかし、彼らなら問題ない。そして、彼らの土地だ。
二人の神に感謝する。この世界を作ってくれて。
主に感謝する。この世界に連れてきてくれて。
しかし、まだその時ではないらしい。待ちきれないが仕方ない。今は我慢しよう。戦力が足りないと主が言っている。その言い分もわからなくはない。
北と南は高い岩山で囲まれており、東と西にも同じような雪原が広がる。
南北の岩山が原因で、時折地面をえぐるように突風が吹く。しかし、人類はそのことを知らない。ここまで足を踏み入れた者は極少数しかいないからだ。
ヴァステム渓谷。名前は既についている。岩山に囲まれた極寒の大地。
そう名づけただけで人間はこの土地についてはほとんど何もわかっていない。ここを禁足地域と定めたのだから、調査が進むはずもない。
もっとも、そうしなければならないだけの理由があり、そのまま今に至っている。
その理由の権化が、ヴァステム渓谷の洞窟でそっと顔をあげる。部下が近づいてきたからだ。
「フブキ様。ご報告したいことがございます」
「何?」
小さな羽根を動かしながらふわふわ漂うそれに、黒い影が返答する。
「パニとカバンダが戻りません」
「ここを抜け出してどれくらいになるのかしら?」
「一ヶ月ほどです」
「そう……。それは変ね。もしかして、手当たり次第、人間を殺し続けてるとか?」
「かもしれませんが、実は……、先ほどカバンダの封印が破壊されました」
日差しの差し込まない洞窟以上に黒い姿がピクリと体を揺らす。
「どういうこと? あ、そういうこと……。にわかには信じられませんね」
「はい。ですが、そうとしか考えられません」
一旦会話が途切れ、黒い影が洞窟の外に視線を向ける。
この土地が生物の住めない土地であることを証明するように、横殴りの吹雪がさらに雪を積もらせる。
ここは岩山にできた単なる横穴だが、フブキと呼ばれた存在はこの場所を大層気に入っている。部下達はもっと居心地の良い場所を提供したいと考えているのだが、黒いそれは別の場所に移ろうとは思わない。
「おそらくですが、パニも人間にやられたと思われます」
「それはありえないでしょう。四選の二位ですよ。あれを倒せる人間などいるとは思えません」
「しかし、カバンダと同行していたことを踏まえると、そうとしか……」
「彼女のデモニックオーラは特別です。デーモンであれを使いこなせるのは半分もいません。だからこそ四選に選んだのです」
「そ、それはごもっともなのですが……」
「ウジウジ言うんじゃねーよ。こいつも頭ではわかってるんだ。ただ、理解したくねーだけだよ」
男の声が空気がピリッとこわばらせる。
「さ、左様ですか……」
「で? カバンダが倒されたせいで封印のエネルギーが空になって、ついには破られたんだろ? 今どうなってる?」
「コットスとカンペが押さえ込んでおります。しかし、それも長くは持たないかと」
「つまりあれだ、俺が相手をしろ、と」
「そ、それには及びません! こちらで再度封印を施します。そこで一つお願いがございまして……」
「あーん? 何だよ?」
「この件で私達の誰かは負傷するかもしれません。そうでなくとも、大きく疲弊します。そこで、しばらくの間は煉獄の扉は開かないで頂けると助かります」
「開けって言ったり開くなって言ったり、どっちなんだよ」
「申し訳ありません!」
「そもそも私は反対なんです。今回の件だって自業自得です」
「ち、何度も言うんじゃねーよ。第一、扉を開いてるのは俺じゃねーんだし、そもそも俺だってあの力はやばいと思ってるんだよ」
「あら、呼んだー?」
「呼んでません。あなたは黙っててください」
「こわーい。まぁ、お呼びじゃないよーだし? 静かにしててあげるわ。また煉獄の扉を開きたくなったら呼んでね~」
「もうけっこうです」
「へ、あいつの前じゃ、俺達も肩無しだな」
「そ、それでは、私はコットス達の加勢に行って参ります」
ここはヴァステム渓谷。人類はこの地をこう呼ぶ。
北の地、と。
◆
「ここがガーウィンスか~」
「え? 本当にわかってないの?」
四人は定期船を降りる。
サウノ商業国を出発して丸一日。やっと目的地に到着したからだ。
まばらに立ち並ぶ木製の建物はどれも古びており、草の生える地面はまるで故郷のサラミア港を彷彿とさせる。
定期船が辿り着いたのはフキン港であり、ここはまだガーウィンス連邦国ではない。
ガーウィンス連邦国はスムルス平原の中心に位置するため、南東の小さな港町が定期船の最寄り駅となっている。
「なんかサラミア港みたいだね~」
ネッテはまだ気づかない。
ロニアさん、教えてあげてください、とイリックはロニアにアイコンタクトを送る。
フキン港のことはさっき話したわよ、とロニアは返す。
つまり、ネッテはバカということが証明された。
ロニアが再びその旨を説明しつつ、一同は歩き始める。
目指すはガーウィンス連邦国。当然、イリックは道などわからない。北西にあることは把握しているが、その程度の知識すらここでは不要だ。
周りの商人や冒険者がこぞって歩き出す。自分達同様、定期船を降りた人達だ。彼らもガーウィンス連邦国を目指しており、何も考えずにその後ろをついて歩けばいい。
「というわけで、一時間くらい歩けば着くわよ」
「ほほー」
ロニアの説明にネッテは大きく口を開けて納得する。やっとここがガーウィンス連邦国ではないことを把握する。
フキン港。港としての機能に特化した、それほど広くはない港町だ。昔はいくらか栄えていたが、ガーウィンス連邦国の発展に伴い、徐々に寂れていく。だからと言ってここが滅びることはない。サラミア港ほどではないが、漁を行っていることと、港町として物資の輸送に追われるからだ。
フキン港から一歩踏み出すと、視界は一面の草原で満たされる。平らな大地にも、緩やかな丘の上にも、緑が例外なく茂っている。あちこちに大小様々な樹木がまばらに生えており、そこで腰を落ち着かせている冒険者が行き交う人々に視線を向ける。
豊かな土地なのだろう。一目でそう知らしめる。風に乗って潮の香りが漂ってくるが、負けじと草の匂いも立ち込める。
土が露出しているのはほんの一部。大勢の人間が歩いたことでできあがった自然の通り道もその一つだ。
この道を進めばガーウィンス連邦国に辿り着く。そんなこは考えるまでもない。なぜなら、フキン港を一歩出てしまえば、右前方に大きな町が現れる。そして、そこに向かってむき出しの土が伸びている。
その町は周囲を高い壁で覆われており、それ以上に背の高い建物がポツポツと頭を覗かせている。
(あれがガーウィンスか。随分大きいな)
イリックがそう思うのも当然だ。ガーウィンス連邦国の敷地は三大大国で最も広い。人口に関しても二番目と言われている。
この国の最大の特徴は魔法学校と六つの研究機関の存在だ。魔法の扱いに関しては建国以降、他国を圧倒している。
ガーウィンス連邦国のもう一つの特徴は、作物の成長が非常に速いことが挙げられる。豊かなスムルス平原の土壌がそれを可能としている。
豊かな土地にはモンスターも多く、駆け出し冒険者の半数以上はデフィアーク共和国よりもガーウィンス連邦国を出発地点に選ぶ。
スムルス平原のモンスターは弱く、そして数が多い。冒険者が腕を磨く場所としては最適だ。
「着いたらどうするの?」
「とりあえず宿屋寄って、少し休憩してから昼飯?」
丸一日の船旅は全員を疲弊させる。さらに一時間歩かされるのだから、イリックの提案は魅力的に聞こえる。
「そうね。ギルド会館に寄るのはそれからで十分でしょう」
ロニアが賛同したことで、今日の予定は決定する。
後はひたすら歩くのみ。
「ゴーゴーネッテちゃーん」
陽気な日差しを浴びながら、ネッテの陽気な歌が披露される。観客は周囲を歩く冒険者と商人達だ。
「ゴーゴーお兄ちゃーん」
イリックは他人の振りをして歩く。
「ゴーゴーアジルさーん」
アジールがびくりと体を震わせる。名前を歌われてしまったからだ。
「ゴーゴーロニアさーん」
ロニアもアジール同様驚く。このパーティの名前はイリック以外、ばれてしまう。
「ゴーゴーネッテちゃーん」
以下、ループする。アジールとロニアは顔を赤く染めるが、イリックだけは何ともない。なぜなら、名前を歌われていないからだ。少しだけ離れて、他人の振りを続ける。
「ゴーゴーお兄ちゃーん」
(あぁ、お兄ちゃんでよかった)
平和な草原を歩くこと一時間。四人は三大大国の最後の一つ、ガーウィンス連邦国に到着する。
冒険者がガーウィンス連邦国とフキン港間のモンスターを都度討伐してくれるため、冒険者でなくとも、この間は安全に行き来することができる。
高い壁がそそり立っていない境目が入り口であり、一同は他の訪問者同様そこを通り抜ける。
イリックは驚く。街並みが想像とは大きく異なるからだ。
道はほとんどが土のまま。苔むしている建物すら存在している。しかし、寂れた雰囲気は感じられない。木々や植物の多さが豊かさを表現しており、何より、行き交う人々は満足そうな表情を浮かべている。
はるか遠くには、小さな岩山に掘られたトンネルさえ存在する。
どこか牧歌的な街並みが、デフィアーク共和国やサウノ商業国とは根本的に違うことを感じさせる。他国が灰色の町なら、ここは茶色と緑色の町と言える。
人が足を踏み入れない場所は、林のように樹木が競って生えている。そこからもたらされる匂いが土の匂いと混ざり合い、ここが大国だとはこれっぽっちも思わせない。
ガーウィンス連邦国。建国当時から変わらぬ姿を保ち続ける緑豊かな国。
田舎町とは異なる風景を楽しみながらイリックは歩く。直後、冒険者の多さに圧倒される。
「このあたりには冒険者ギルドや宿があるし、スムルス平原と行き来できるところでもあるから、自然とこうなるのよ」
右にも左にも正面にも、冒険者がぞろぞろと練り歩く。サウノ商業国のギルド会館ほどではないが、同業者がこれだけいれば、自然と胸も高鳴る。
宿屋で部屋の確保を済ませ、四人は一旦腰を休める。
「こういうところもいいねー」
ネッテがうれしそうに窓の外を眺め、緑の多さに感動する。アイール砂丘にはあまり木が生えていい。ゆえに、そういうものに憧れてしまう。
「無駄に広いし、お店もあちこちに散らばってるから不便だけどね」
ロニアが早速故郷の愚痴を言い出す。故郷に戻ってきた人間あるあるだ。
「ところでネッテさんや。なぜ四人部屋?」
「諦めなさい」
イリックの疑問はロニアの一言で片付けられる。
(俺よりも女性陣が抵抗すべき状況では……。俺、一応男なんだけど)
ロニア達はこの状況を受け入れている。すなわち、四人部屋に男一人の女三人。通常なら成立しない構図だ。
「明日からはどうするの?」
アジールが口にした疑問は、イリックもずっと考えていた。
今日の報告でデーモンの一件からは開放される。ここから先は自分達で考えなければならない。
何をするか?
どこへ出かけるか?
いつ出発するか?
イリックにとって、この生き方は未知の領分だ。毎日、アイール砂丘の見回りを規則正しくこなす日々を過ごしてきたのだから。生き方がガラリと変わる。
だからと言って怯みはしない。むしろ望むところだ。
冒険者になると決意したあの日に、こんなことは全て織り込み済みだ。
不安がる必要はない。冒険者の場合、仕事を斡旋してくれるギルド会館が存在する。迷ったらとりあえずそこに足を運べばいい。クエストも、きっかけも、目的も、そこで見つけることができる。
「今日次第ですが、とりあえずここのギルド会館でクエスト探してみましょう。その後、ここに残るかサウノに向かうかを含めて検討ってことで」
一人で迷う必要はない。仲間が三人もいるのだ。一人は当てにならないが、他二人は頼りになる。
「了解」
「うん」
「ガッテン!」
その後、四人は昼時までくつろぎ、腹ごしらえのため食堂へ向かう。
ガーウィンス連邦国は豊かな土地のおかげで食材も豊富らしく、とりわけ野菜を使った料理が多い。
魚を食べたいイリックも、今回は大人しく肉と野菜で腹を満たす。
そして一同はギルド会館に出向き、デーモン討伐の報告を行おうとするのだが、どうやら既にこの情報はデフィアーク共和国から伝わっているらしく、証拠品の提出だけで構わないと説明される。肩透かしだがうれしい誤算でもある。
その証拠品、つまり、デーモンの左手は氷の図書館に提出すればいいらしく、そういうことならとロニアに押し付けようとしたが失敗に終わり、結局イリックとロニアの二人が出向くことになる。
ネッテとアジールは初めてのガーウィンス連邦国を二人で満喫するつもりだ。この構図も気づけば出来上がっていた。
「氷の図書館って何ですか?」
「モンスターの研究をしているところよ。私は火の図書館くらいしか興味なかったから、他の研究機関のことはあまり詳しくないよのね」
イリックとロニアは氷の図書館がある研究区画を目指す。
ガーウィンス連邦国には六つの研究機関が存在する。
火の図書館。
氷の図書館。
風の図書館。
土の図書館。
雷の図書館。
水の図書館。
それぞれが異なる分野を受け持っており、日々、研究に勤しんでいる。
イリック達が向かっている氷の図書館はモンスターの研究を専門としており、それは北の地のモンスターと言えども例外ではない。しかし、物的資料も戦闘記録も無いに等しいため、北の地のモンスターについては何もわかっていない。
イリック達がデフィアーク共和国で証言した情報は、すぐさまガーウィンス連邦国にも伝わり、その結果、氷の図書館はてんやわんやな毎日を過ごしている。
その上、これからデーモンの左手が届くのだから、それは火に油を注ぐに等しい。
「そういえば、ロニアさんは実家に戻らないんですか? ここなんですよね?」
「どうせ顔出したところで歓迎されないでしょうし、帰るつもりはないわ」
「そうなんですか」
二人の間に気まずい沈黙が訪れる。訊いてはいけない話題だったのだろうと今更ながらに察したが、いささか遅かった。
(となると、ここで活動するのはロニアさん的には嫌なのかもな~。うぅむ、活動の拠点をデフィアークかサウノに移すか)
イリックが珍しくリーダーらしいことを考える。
だが、そんなこととは関係なしに、変なことを思いついてしまう。自分でもなぜこんなことが頭によぎったのかわからないが、思いついてしまったのだから仕方ない。
アジールとロニアには彼氏のような存在がいたのだろうか?
こういう話題を振っていいのかどうか、彼女いない歴イコール年齢のイリックにはわからない。
いた、と返答された場合、変に意識してしまいそうで訊くに訊けないという事情もある。
アジールもロニアも美人だ。スタイルも良い。
今この瞬間は、こうして旅をしているのだから独り身なのは間違いない。しかし、過去にそういった存在がいてもおかしくない。
イリックは何の根拠もなく、アジールから同じ系統の匂いを嗅ぎつけている。失礼な思い込みかもしれないが、そう思えてしまうのだから仕方ない。
しかし、ロニアは明らかには毛色が違う。
ギルド会館を歩けば、男達から視線を向けられる。少なくともイリックには、そういうった経験はない。
服もおしゃれだ。いつ買ったのか覚えてすらいない服をいつまでも着続ける自分とは違う。
一方、ロニアの場合、体にぴたりと張り付く水着のようなミニスカートのワンピースをずばっと着こなしている。
イリックは時々考えてしまう。ネッテがタイトワンピースを着たらどうなるのか。間違いなく、似合わない。そしてただただおもしろいだけ。
そんな服を、ロニアはきちんと着こなしている。
ネッテとロニアでは、そもそも年齢が離れている。
十五歳と二十三歳。
人生経験も違う。
専業主婦のようなことしかしてこなかったネッテ。
魔法学校に通い、ついには先生にまで登りつめたロニア。
イリックはネッテをバカにはするが、心の底では感謝している。自分を支えてくれたとさえ思っている。安い給料でやりくりを続け、文句も言わずにそんな生活を何年も続けてくれたのだから。
イリックはネッテが好きだ。もちろん、異性としてではなく家族として。頻繁にうざいと思ってしまうが。
一方、ロニアのような大人の女性には異性として心を惹かれてしまう。自分達にはない教養と、ネッテに足りない抱擁力。それらを持ち合わせているのだから、自然なことなのかもしれない。
気まずい雰囲気のせいでイリックはロニアについて考えてしまう。嫌われたくないという弱い心がそうさせる。
イリックは芯が強い男だが、女性に対しては案外小心者だ。
悶々としながら歩いていると辿り着く。
丸みを帯びた茶色の建物と、別棟とも言うべき小さな建物が両脇に連なる不思議な建築物が目の前に現れる。
ここは氷の図書館であり、ロニアは丸い扉をガッと開けて堂々と建物に足を踏み入れる。
イリックもおそるおそるそれに続く。
中の光景がイリックを怯ませる。図書館。そう呼ばれる理由が眼前に広がる。
広い建物の中には図書館のようにぎっしりと本棚が並んでおり、当然、そこには隙間なく本が納められている。
これらを全て読みきるには膨大な時間が必要だ。人間一人が自身の人生を全て費やそうと、決して読み切れる量ではない。
「ギルドから話が来ていると思うのだけど、デーモン討伐の証拠品を持ってきたわ」
「え? あ……、お待ちして……ました」
ネッテよりもやや背の低い黒髪の女性が顔をうつむけながらロニアの応対を始める。黒いローブは正装であり、職員全員がそれを着ている。
長い前髪で表情を隠しながら、その女性はロニアと話を進める。
イリックは暇なため、右の壁に設置してある本棚に歩み寄り、ずらっと並ぶ背表紙を眺めていく。
スムルス平原モンスター全集。
テイア渓谷モンスター全集。
ベイル半島モンスター全集。
人間型モンスターにおける他との相違。
モンスターにおける魔力の波動とその同一性。
モンスターを研究する氷の図書館は伊達ではなく、モンスターに関する本がずらっと並んでいる。おもしろそうな本に手を伸ばしてみようと思っていたが、手はぴくりとも動いてくれない。
仕方なく、イリックは周囲の観察を始める。
本を睨む若い女性。
熱い討論を交わす二人。
用途のわからない装置をいじくりまわす茶髪の男性。
それぞれが何かに全力で打ち込んでいる。
「少々……、お待ちください……」
「わかったわ」
状況が進展したらしく、ロニアと話していた女性が奥へ消えていく。館長を呼ぶからデーモンの左手を直接渡してくれ、つまりはそういうことだ。物が物なため、一職員にはどうこうできない。
「本の数すごいでしょ?」
「ええ。こんなの初めて見ました」
「これが人類の叡智よ。ちなみに、他の研究機関にも本がどっさりあるの。以前は火の図書館に入り浸って本を読ませてもらったわ」
ロニアが過去を振り返りしみじみともらす。
氷の図書館がモンスターについて研究しているのに対し、火の図書館は魔法の研究を専門としている。子供の頃から魔法に興味があったロニアが通うのは当然のことだ。
こんな本を読んでいれば頭も良くなるな、とイリックは納得する。
ガーウィンス連邦国にいる間はネッテに本を読ませようかと思ったが、つまんないと言い放つ姿が目に浮かぶ。
「ところで、あっちこっちにある不思議な装置は何なんですか? あれなんか、煙吹いてますよ」
「さぁ? ちなみにフラスコね」
その後も二人は、立ち話を続けながら室内を見回す。
やがて、奥から茶色いローブを着た女性が二人の元に向かってくる。頭にも茶色いとんがり帽子を乗せており、他の職員とは異なる地位にいるのだろうと一目で推測できる。
「お待たせしました、ここの館長を務めるススリリです。遠いところわざわざお越し頂きありがとうございます。あら、あなたは……」
ススリリと名乗った女性の年齢はわかりにくい。顔がやや童顔なため、若いようなそうでもないような、微妙なところだ。
オレンジ色の髪は肩まですらっと伸びており、口元のホクロが色っぽい。
落ち着いた雰囲気や目元の小じわから、イリックの目には三十代後半に映る、実は正解だ。
「ロニアよ。会ったことあるかしら?」
「以前、魔法学校に勤めてませんでした?」
「ええ。先日辞めて、今は冒険者だけど」
世間話が始まる。しかし、聞いているだけでどこか楽しい。仲間の過去についての話は非常に有意義だからだ。
「火の図書館で何度もお見かけてしまして。そうですか、冒険者に」
「知識欲に負けちゃってね。いよいよ自分の目で見ないと満足できなくなっちゃったの」
それは初耳、とイリックはロニアの発言に耳を傾ける。
仲間に迎え入れてからまだ日が浅いとはいえ、ロニアが冒険者になった理由はまだ聞かされていなかった。
魔法学校の先生を辞めて冒険者になった。その程度は把握できていたが、その理由までは明かされておらず、そういうことなのか、とイリックは納得する。
ロニアは色んな物を見て聞いて触ってみたいのかもしれない。同時にそう推測する。
「ふふ、わかります。それでは、デーモン討伐の品を見せて頂いてもよろしいですか?」
「イリック」
「ガッテン!」
イリックはいそいそとマジックバッグから包みを取り出し、それをススリリに手渡す。むき出しで譲れるほどかわいいものでもない。
包みをそっと開いたススリリは、軽く仰け反り小さく息を飲む。
「これは……確かに左手ですね」
「ええ。このイリックが倒したデーモンの左手よ。イリック説明」
「は、はい!」
なんだか尻に敷かれている気もするが、それも悪くない。むしろゾクゾクする。
「デーモンは、左手から見えない何かを放出して俺達を攻撃してきました。衝撃波なのか何なのかはわかりませんが、冒険者じゃなければ即死する威力です。もしかしたら右手からも出せたのかもしれませんが、そっちは片手剣を握っていたため、左手からしかくり出さなかったようです」
「なるほど。貴重な資料の提供、誠にありがとうございます。謝礼の方ですが、デフィアークからは十万以上を用意すれば喜ばれるだろうと助言されたのですが、残念ながら我が氷の図書館はそこまで潤っているわけでもなく、申し訳ないのですが五万ゴールドが限界なんです」
「そう。確かに少ないわね。まぁ、判断はイリックに任せるわよ」
(ずるい。こういう時だけ判断を仰ぐなんて……)
とはいえ、五万ゴールドも決して少ない額ではない。手持ちに足せば当面困ることはなくなる。
イリックは、ススリリのお淑やかなオーラに免じて、あっさりと折れる。
「わかりました。その額でけっこうです」
「大変感謝致します。謝礼は今からお持ちします。そうそう、みなさんに会いたがっているエロじじもとい館長がおりまして」
(今、エロじじいって言おうとしなかった? え? この人猫被ってるの?)
ススリリの発言にイリックは目を丸くする。
「エロい館長……、ゴルドね?」
「はい。火の図書館の館長です。お時間あれば、ご足労頂けないでしょうか?」
ロニアとススリリは不気味に微笑んでいるが、イリックは状況を飲み込めず、一人置いてけぼりをくらう。
火の図書館。次の目的地はそこに決まる。
◆
褒賞金五万ゴールドを受け取ったイリックとロニアは、氷の図書館を後にする。
「二人で行きます?」
イリックは問いかける。
火の図書館の館長が自分達に会いたがっている。話があるのだろうとイリックは推測するが、そもそも何もかもがわからない。
火の図書館がどこにあるのか。
その人物は何者なのか。
自分達に何の用がるのか。
ゆえに、少なくとも場所とその人物について把握しているロニアに問いかける。自分はわからないから、自由に決めてくれ、と。
「近いし、そうしましょう。話だけ聞いて、面倒事なら断るもよし、全員でまた訪ねるもよし」
ロニアの決定に従い、イリックは火の図書館を目指す。
ここは六つの研究機関が存在する研究区だ。火の図書館も比較的近くにある。
二人で肩を並べて歩いているとカップルに見えるのだろうか? などとくだらないことを考えながらイリックは歩く。
街並みはやはり三大大国のそれとは思えない。足元には土しかなく、道端には雑草が青々と茂っている。
ここは研究区ゆえ、周囲を湖から流れてくる水で囲まれている。あちこちに木の橋がかかっており、巨大かつ立派な田舎町を歩いているような気分になってくる。
しかし、イリックはこの国を既に気に入っている。
豊かな土地であることを裏付ける草木の多さと、湖がもたらす水場の多さがどこか安心感を与えてくれる。
とりわけ、周囲の水には感動すら覚えている。早く釣り糸を垂れたいくらいだ。
「そういえばゴルドさんってどんな人なんですか?」
「エロいじじよ」
それは知っている。もっと他の情報を教えてもらいたかった。
火の図書館を筆頭に、そこの長がどれほど偉い人なのか、そもそもどういった人なのかイリックは知らない。この場はロニアに任せ、自分は大人しくしておこうと胸に誓う。口を挟もうにも挟めないのだから仕方ない。
二人は先ほどと同じような建物に到着する。
丸みを帯びた黒茶色の建物。それにつらなる小さな建物。
ロニアは迷いなく入り口から中に入っていく。
火の図書館。氷の図書館同様、ところ狭しと本棚が置かれており、本もぎっしりと詰まっている。
「館長いるかしら? ロニアが来たって言えばわかると思うわ」
「あ、はい! 少々お待ちください」
はつらつな女性がロニアの登場に驚く。他の研究員同様、グレーのローブを着ており、茶色い髪は女性にしては短い。
慌てながらもとことこと建物の奥に歩いていき、ゴルド館長! お客様です! と呼びかける。
やがて、白髪だが若干髪の量が心もとない老人が姿を現す。まるで冒険者が着るような、しかも前衛攻撃役が好んで身に付ける動き安さを重視した皮と金属をあしらった軽鎧を着ており、もはやこの人物が何者なのかわからない。
体つきも装備に負けていない。ネッテがいたら、筋肉モリモリ! くらいは言いそうなくらいには筋肉隆々だ。
しわだらけの顔は年寄りであることを物語っているが、それでもどこか若々しく見えてしまう。
「お~、久しぶりじゃのう。元気にしとったか?」
「ええ。今は冒険者をやっててね。サラミア港まで出向いてたの」
「ほう、反対側まで……。若くていいのう」
老人はロニアと受け答えを進めながら、目の前の女体を舐めるように眺める。その行動だけで、イリックはススリリとロニアがこの老人を軽蔑する理由を飲み込む。
「紹介するわ。冒険者仲間のイリック。パーティのリーダーよ」
「あ、イリックです。初めまして」
「ほう、お主が……」
小さく頭を下げるイリックを、老人は目を細め眺める。
「で、このじじいがゴルドよ。一応、ここの館長」
「一応て……。まぁ、いいんじゃが」
「氷の図書館に寄ったら、あなたが会いたがってるって言うから来てあげたんだけど、何か用かしら?」
さっさと用件を言え、とロニアが圧力をかける。まるで知り合いのような掛け合いだ。イリックは黙って見守ることを選ぶ。
「せっかちじゃのう。再会を祝して、そろそろそのおっぱい触らせてくれんか。人差し指で突くだけでええから、な?」
「イリック、帰るわよ」
ゴルドが本気なのか冗談なのかわからないことを言い出す。ロニアは当然のようにそれを受け流し、踵を返す。
ゴルドの人柄と今の言動から、イリックは察する。ロニアが火の図書館に通っていた際、ゴルドはロニアに今のようなちょっかいを出し続けたのだろう、と。
「ま、待てい。本当に帰ろうとするやつがおるか。相変わらず冗談の通じんやつじゃのう。そんなんだから彼氏の一人もできグフッ!」
ピシューン。
ロニアの水魔法、スカウリングドロップがゴルドのおでこに炸裂する。
本来は自分の背丈より高い水柱を呼び出し、そこから弾丸のように水滴を発射させる攻撃魔法だ。今回は水を一粒だけ作り出し、間髪入れず発射した。
ゴルドの軽さによってイリックは知る。そう、ロニアには彼氏のような存在はいなかった。高い理想と合致する男性と出会えないまま、二十三歳を迎えていた。
子供の頃は当然だが、大人になり、魔法学校の先生になろうと知識の吸収に没頭した結果でもある。
「本当に帰るわよ」
「わ、わかったから、それはもう勘弁してくれ。昔と違って、魔力が半分しかないんじゃ。その分魔防も落ちておる。い、いたた……」
ゴルドは痛むおでこを涙を流しながらさする。ちなみに魔防とは、魔法防御のことを指す。攻撃魔法に対する耐性のようなものだ。
「ふん、あなたの都合なんか知らないわよ。で、呼んだ理由は何? というか、イリックのこと知ってるようだけど」
「ほっほ。当然じゃ。デフィアークから情報が流れてきたからな。お主、デーモンを倒したんじゃろ? まぁ、奥で話そう。こっちへ来い」
イリック達の活躍は、既に館長クラスには伝わっている。四人の名前は把握されており、ガーウィンス連邦国を訪れることも知らされている。
ロニアは随分と嫌そうな顔をするが、イリックはたしなめながらゴルドの後をついて行く。何よりロニアの体を見ない方が無理な話だと、誰よりも理解できてしまう。ゴルドの行動は男なら当然のことだ。
「確か、四人組みじゃなかったかのう?」
「残りの二人は観光を楽しんでるわ。ここは初めてらしいし」
「そうかそうか。まぁ、お主らが来てくれたなら話はできそうじゃな。その前に少し質問をさせてくれ。デーモンは強かったか?」
何を今更、と二人は呆れる。デフィアーク共和国から報告内容が伝わっているのなら、あまり意味のある質問だとは思えない。自分の耳で聞きたいという気持ちもわからなくはないが、改まって訊くようなことかと勘ぐってしまう。
「ええ。今生きてるのが不思議なくらいには。人間タイプのモンスターは手ごわいって文献で読んだことあるけれど、あれはそういう次元じゃなかったわ。知ってることがあるならさっさと言いなさい」
「ほっほ。まぁ、急くでない。で、坊主の方は?」
「俺は見聞がないので何とも言えませんが、まぁ、強かったです」
語彙の少なさを嘆きながら、イリックは正直に話す。アイール砂丘のモンスターしか知らないため、比較対象が圧倒的に少ない。例えようがないのだから表現もシンプルになってしまう。
「じゃが、倒したんじゃろ?」
「まぁ、はい」
「精鋭の合同調査隊を一瞬で全滅させるモンスターなんじゃが……。もちろん、今回の固体とその固体が同等の強さかどうかは誰にもわからんが」
ゴルドが唸る。イリックのデーモン討伐をにわかには信じきれていないがゆえに、半信半疑で疑ってしまう。
「うちのリーダーをなめてもらっては困るわ。それこそ、神の名代にだって勝っちゃうかもしれないわよ」
「何を根拠に……」
ロニアの突拍子のない発言にゴルドが眉をひそめる。
(かみのみょうだい?)
イリックは初耳の単語を反芻する。ついでにハテナマークを頭上に出現させようと試みるが、当然出るはずもない。
「まぁ、嬢ちゃんがそこまで言うなら、こやつの実力は相当なのじゃろう。頼りなさそうに見えてしまうが、外見だけでは判断できんしな」
そう見えるんだ、とイリックは落ち込む。
ださい服のせいだろうか?
顔だろうか?
体格だろうか?
(あぁ、全部か)
指摘されずとも、その程度のことはわかってしまう。冒険者には見えない風貌をしているという自覚はあるからだ。
通常、冒険者は自身に見合った装備で着飾る。
最低でもスチール製以上の武器。
前衛なら重鎧もしくは軽鎧。
後衛なら魔力を帯びたローブないし服。
これがスタートラインであり、人によってはゴールとなる。
イリックの場合、最低ランクの素材で作られたカッパーソード。
服は本当にただの服。
これでは、冒険者カードを道端で拾ったただの一般人に過ぎない。普通はカッパーソードなど携帯しないが。
「で、こんな質問が何を意味するの?」
「いや、実力を確認してみたかっただけじゃ。本題はここからでのう。一つ、頼まれごとをしてくれんか?」
「依頼内容と報酬次第ね」
本題に入った途端、ロニアが元も子もないことを言い出す。もっとも、的確且つその通りだ。
「ミエト村。お主も知っておろう?」
「ええ」
知っている前提で話が進むが、イリックは知らない。
「そこでおかしなモンスターの目撃情報が相次いでおる。真相を調べてもらいたい」
「どんなモンスターよ?」
「ピクシーじゃ」
ゴルドの返答を聞き、ロニアの眉がピクリと動く。
ピクシー。イリックにとっては初耳な名称だ。何もわからないため、イリックは黙って様子を見守る。それしかできないとも言う。
「適当なこと言って。とっくに滅びたモンスターじゃない。そんなはずないわ」
「だから調べてもらいたいんじゃ。あの付近で何かが起きてるのかもしれん」
「あのあたり……。風の洞窟?」
「その通りじゃ。ピクシーは西から現れたらしい。風の洞窟から現れた可能性が非常に高い」
ゴルドとロニアが何を話しているのか、イリックには全くわからない。そして眠くなる。
「そう。厄介そうな依頼ね。でも、結界はどうするの?」
「これで入れる。四人分用意してある」
「抜け目ないわね」
ゴルドが差し出したのは四枚の札。赤い文字のような、記号のようなものがグニャグニャと落書きのように書かれている。
これを所持していれば、ガーウィンス連邦国の結界を素通りできる。すなわち、入り口に結界が張ってある風の洞窟にも入れてしまう。
「風の洞窟がどういう場所か、お主も知っておろう?」
「もちろん」
「できればピクシーの出現と併せて、それも確認してきてもらいたい」
「こんなこと、冒険者じゃなくてここの軍隊を使えばいいじゃない」
デフィアーク共和国に軍隊が存在するように、ガーウィンス連邦国にも軍隊は存在する。長い歴史において、モンスターと戦ってきたのは軍人であり、オークやゴブリンとの度重なる戦争においても、それらを退けてきたのは軍人だ。
ゴブリンとの戦争は今後起きる可能性はないが、オークとの戦争はまだ終わっておらず、モンスターに至っても未だに蠢いているのが実情だ。
軍事力を持たない国など存在せず、もちろんそれはガーウィンス連邦国も例外ではない。
冒険者という新たな職業の誕生によって、その必要性はほんのわずかに薄れはしたが、決して欠かすことはできない。冒険者も軍人もモンスターと戦う。しかし、国を守るために命を落とせる人間は後者なのだから。
「そうなんじゃが……。こんな出来事は初めてじゃろう? 嫌な予感がするんじゃ」
「嫌な予感がするのになんで私達なのよ」
ゴルドの言い分にロニアは呆れる。それこそ軍隊の出番だろう、と当然のことを思い浮かべる。
「デーモンを倒したお主らなら、と思ってのう。ここを訪れたタイミングもバッチリ!」
「何がバッチリよ、全く……。で、報酬は?」
冒険者は無料では動かない。生きていくには金が必要だ。ましてや命がけの依頼となれば、それ相応の金額を期待してしまう。
「それなんじゃが……。その札四枚じゃダメ?」
「殴られたいの?」
「お主になら殴られぶふっ!?」
ピシューン。
ロニアが作り出した水滴がゴルドの頬に突き刺さる。
「往復だけでも何日かかると思ってるのよ?」
「一ヶ月くらいかのう」
「わかってるならバカなことを言わないで」
ガーウィンス連邦国と風の洞窟は地理的に随分と離れている。
ガーウィンス連邦国の周囲にはスムルス平原が広がっており、その南にはテイア渓谷があり、さらにその南にはミラクス山地が存在し、その西にはヨール原野が広がっている。
風の洞窟はヨール原野の南西に位置する。
最短でも片道二週間近くはかかってしまう。洞窟探索が一日と想定すると、往復で一ヶ月程度。かなりの長旅だ。
「いくらくらいならええんじゃ?」
「そうね……。二十万くらい?」
「む、無茶言うでない! 研究機関は万年金欠なのを知っておるじゃろ……。払いたくても払えないんじゃ」
そんなことは知らない、とロニアは冷めた表情でゴルドの言い分を受け流す。
しかし、ゴルドは退かない。手はないが、それでも諦めない。
「五、五万ゴールドでどうじゃ!?」
また五万か、ロニアは呆れる。
一ヶ月近くかかるクエストの報酬が五万ゴールド。それを一人でこなすのなら十分な金額と言える。しかし、自分達は四人組みのパーティ。そうなると話は変わってくる。一人当たりの稼ぎは一万ちょっと。この金額は一ヶ月の収入としてはありえない。一般家庭の半分程度だ。命を懸けているのだから、という理由もあるが、冒険者は装備の新調等で金がかかる。ゆえに金はいくらあっても足りないくらいだ。
もっとも、この金額で良しとするか否かの裁量権はリーダーにある、とロニアは考える。氷の図書館でのやり取りを再現するため、ロニアはイリックに判断を委ねる。
すやすや。
そのリーダーは椅子に座ってぐっすりと眠っている。
「起きなさい」
「ぶっほ!」
ロニアが人差し指をイリックの鼻につっこむ。指先から水を流す。イリックが起きる。見事な連携が成立する。
「な、何事!?」
「やるかやらないか、決めなさい」
「え? え?」
イリックは鼻と口から水を流しながら慌てふためく。ゴルドは人選を誤ったと後悔するも、既に手遅れだ。
ロニアから事情を聞き、イリックは口元を拭きながら考える。鼻からは水が垂れたままだが。
「それって急ぎなんですか? その、ピクシーとやらは人を襲わないんですよね?」
「人を襲わないどころか友好的なモンスターなんじゃが、そもそもこれの出現が非常事態なんじゃ。もしかしたら一刻を争うことになるかもしれん」
なるほど、とイリックは納得する。ゴルドの心配は理解した。報酬が五万ゴールドなのも仕方ないのかもしれない。
ロニアの言う通り、一ヶ月働いてこの金額は少ないような気がする。しかし、冒険らしいことができると思うとワクワクしてしまうのも事実だ。
ネッテやアジールとも話し合った方がいいのだろう。それくらいのことはわかる。しかし、今は即断即決を迫られているように思えた。ここはリーダーらしく、この場で決めてしまう。
「わかりました。やります」
「おぉ! なんと話のわかる!」
イリックの判断に、ゴルドは大いに沸く。ロニアはやれやれ、と肩を落とすが、それでも本気で嫌がってはいない。
デーモン討伐の報告も済み、晴れて冒険者としての日々が始まる。
記念すべき一つ目の依頼は、風の洞窟調査。
火の図書館、その館長を務めるゴルドからの依頼であれば、第一歩として申し分ない。
先ずはネッテ達と合流し、作戦会議を開かなければならない。
その後は食糧や消耗品の買出しだ。
目的地は遠いのだから、準備を怠るわけにはいかない。
忙しくなる。それが冒険者らしいのかもしれない。
出発は明日の早朝。
ついに四人の冒険が始まる。




