魔法で完全犯罪を目指そう(事件編)
「お前には失望した」
目の前の老人は、真っ赤なワインを飲み込むと同時に、ポツリとそう言った。ともすれば、聞き逃してしまいそうなほど小さな声であったが、幸いにも、彼はその消え入りそうな声を、正確に理解することができた。その意味も、そして言葉の裏にある感情もだ。その上でたったひとつの事実を、彼は改めて理解する。
(つまり、父さんは正直者ってことだ)
パチッ! と音がなる。彼は音のした方向に、視線だけを向ける。そこには、オレンジ色の炎を灯した暖炉があった。どうやら先程の音は、この暖炉にくべられた薪が弾けて鳴った音らしい。彼は何気なく視線を暖炉の横に移す。そこには、使用前の薪と石炭が几帳面に積んであった。薪と石炭の二つを常備している理由を老人に尋ねると、普段暖炉を使用する際は薪を使用し、ひどく寒い時には発熱量が多い石炭を使用する、との解答が返ってきたことを思い出す。
彼は視線を目の前の老人に戻すと、中断された思考を再開する。
(そう、正直者だ)
老人の失望は仕方がない。自分は彼を、満足させることができなかったのだから。
「お前は頭が良い。器量も--親の欲目かもしれんが--悪くはないだろう。わたしはそのどちらも、並か、あるいは少し優れている程度だ。母から受け継いだ才能なのだろう。その点に関しては、自慢の息子だ。しかし残念だが、お前はわたしの唯一と言っていい才能を受け継ぐ事はなかった。分かるな? そう、魔法だよ。お前は魔法の才能だけは、恵まれなかった。それを認めるのに、長い時間をかけてしまったよ」
そう言った老人に対し、彼は素直に首肯した。老人は正直者だ。嘘はない。
老人は--年齢を差し引いても--、決して優れた頭脳と容姿を持っているとは言えないだろう。どちらも並か、少し優れているか。だが魔法においては、間違いなく国を代表する術者のひとりだ。
(なんせ、三十年前に起こった、聖戦の英雄の一人だ)
そう考えると、彼は視線を動かさずに、周囲を探った。
全体的に派手さのない、落ち着いた色で整理された調度品の数々。一見すると安物と見紛うその品々は、一流のデザイナーによりオーダーメイドされた一級品ばかりだ。彼が腰かけている椅子も例外ではない。以前聞いた話によると、シンプルなデザインでありながら、腰などに負担がかからないよう計算された、人間工学に基づいた逸品らしい。確かに、かれこれ一時間以上、老人と会話を続けているが、腰に痛みは感じられない。そしてこれら一流の品々はすべて、老人が聖戦によって得たものだ。
老人は聖戦での働きを評価され、ここローラン領の統治権を与えられた。それまでどちらかといえば、貧しい家の生まれだった老人は、わずか一ヶ月間の聖戦の働きによって、多大な富を手にすることができた。
だからこそ、老人は固執したのだろう。能力の優劣に。自身はもちろん、他者にもそれを強要するほどに執着した。息子であれば、なおさらだったに違いない。
だがそんな老人も、ついにサジを投げた。息子の魔法に対する才能を見限った。どうにもならないと認めた。魔法の才能は先天性のものだ。自分は生まれた時から、この老人の期待に応えることはできないと、約束されていた。
「次期からは普通の…一般の学科に転入させる。もうお前を魔道学科に入れている意味はない。金の無駄だ。そしてそれを期に、お前との親子の縁も切る。姓も捨てろ。お前がフィリップ姓を名乗ることは、今後一切許さん。もう顔を合わせることもないだろう」
しわがれた声で老人が言う。
彼は表情には出さず苦笑した。
(まったく、本当に清々しいぐらい正直な人だよ)
だから彼も決めていた。この老人に対しては、自分も常に正直であろうと。
偽ることなく、この殺意に身を委ねようと。
老人がグラスを傾ける。赤ワインを口に含ませ、数秒転がしたのちに飲み込むと、音もなくグラスをテーブルに置いた。それをじっと観察した彼は、静かな声で老人に言った。
「完全犯罪を見たことがありますか?」
痙攣したように震えだした老人の瞳を見つめながら、彼--アーロン・フィリップは柔和な笑みを浮かべた。
「先生! こっちですこっち!」
彼女は後ろを振り返ると、手招きしながらそう言った。年齢の割に幼さの残る甲高い声で、羞恥心をあざ笑うかのように豪快無双な爆声(?)を上げた彼女に、通りを歩く人々が一斉に振り向いた。通勤途中と思われる中年の男性や、通学途中の少年や少女、エクセトラエクセトラ。
だが彼女が呼びたかった人物はといえば、声が届いていないのか俯き加減にのそのそと通りを歩いている。こちらに一瞥もくれようとしない。亀と競争しても接戦が期待できるその人物に、彼女は口を尖らせて、再び大音量で呼びかけた。
「先生! 聞こえないんですか? 先生! 先生! 先生! 先生! 先生! 先生! セーンセー! セーンセー! セーセー! セー! セー! セェエええええ!」
手をメガホン代わりにして声を張り上げるも、その人物は相変わらず無反応だった。ただ何故か分からないが、頭を手で抱えている。それはまるで、なんらかの原因によって頭痛を起こしているようにも見える。無論そんな原因に心当たりのない彼女は、憤慨やるせなしに腕をブンブンと上下に振り、怒りをあらわにする。
「もう。世話がやけるんだから」
魔力を制御し、空中で体を反転する。足元からざわめきが聞こえた。五メートルほど上空で静止している彼女を、珍妙な動物を見る目付きで見上げていた、ギャラリーの声だ。彼らはなんとなく危険を察知したのか、誰ともなく素早く左右に移動し始め、人ひとりが通れるぐらいの隙間が人垣にできた。彼女はそこをめがけて、ビュンっと滑空した。地面すれすれで体制を入れ替え、地面と水平に高速飛行する。ぐんぐんと目的の人物に接近し、手前まで来ると慣性を無視したようにピタッと止まった。
地面から十センチほどふわふわと浮かびながら、彼女は三度その人物に声をかけた。
「先生。聞こえてますか?」
「…聞こえている」
ようやく返事が返ってきた。その人物--つまり彼女の先生は、俯いた顔を億劫そうに上げる。彼女はフムっと、改めて自身の先生となる人物を、まじまじと観察してみた。
名前はシモン。姓はない。身長百八十弱の細身の男だ。寝癖のついたボサボサの髪と、前髪の隙間から覗く垂れ気味の瞳からは、まるで活力を感じられない。常日頃から猫背ぎみで、せっかくの長身も活かされることがない。爽やかさとは無縁の根暗真っ盛りの男。確か年齢は三十路手前だったと記憶しているが、生命エネルギーの残量だけでいえば、死ぬ間際のバッタ並の量しかないに違いない。
彼女は嘆息して呟いた。
「まったく…これがあたしの先生かと思うと悲しいですよ。恥ずかしいです」
「…いきなりなんだ? アリス」
アリスとは彼女の名前だ。ちなみに彼女にも姓はない。地位によって適切な姓が与えられるこの国では、姓のない、名前だけの人間の方が多いのだ。
シモンは肩をすくめると、再びのそのそと歩き始めた。彼女も彼の後をプカプカと付い行く。空中浮遊は難しい魔法ではないのだが、長時間継続するとなると、それなりに骨が折れる。彼女は、シモンが現場に急ぐ気がないことを悟ると、魔法をスッと解いた。無重力状態から、徐々に身体が重みをまとい、地面に吸い寄せられる。彼女は身軽にタンっと着地すると、パタパタと小走りにシモンの横に並んだ。
シモンは、隣を歩くこちらをちらりと一瞥すると、嘆息交じりに言った。
「恥ずかしいのはどっちだ?」
「はえ?」
一瞬彼の言った言葉の意味が分からなかったが、すぐに先程の会話の続きだということに気がついた。
「そんな格好で浮くな」
「別に変な格好していないですよ?」
彼女は両手を広げて、自身の格好を確認する。
白のブラウスと、胸元に大きな赤いリボン、そして紺色の膝丈のスカート、さらにその上から、小柄な彼女の体躯 十六歳にもなって百五十センチ弱 を覆い隠す、黒のマントを羽織っている。確かにこれが私服とあっては、問題があるかもしれないが--
「魔道学科の制服です。ほら、胸ポケットにも校章がプリントされてるじゃないですか。何ひとつおかしいとこなんてありませんよ」
シモンは面倒くさそうに、アリスの格好を指差して言う。
「スカートで浮くな」
そういうことか。つまり彼が言いたいのは、はしたないということらしい。無気力人間の癖に、変なところ真面目だったりする。もっとも、彼女にも反論はある。スカートの端を軽く摘みながら言う。
「大丈夫ですよ。みせパンですから」
「お前の心配なんかしてない」
にべもなくシモンは言った。
「体裁の話をしている。阿保の子供が下着見せびらかしながら飛び回ってたと、そしてその子供が俺の仕事のバイトをしているなんて噂にでもなってみろ。俺の面目が立たないだろ」
シモンは肥溜めのような黒い瞳をしながら、肥溜めのような悪臭放つセリフを、淡々と言った。アリスは、あまりの言い草に口元をヒクヒクと引きつらせるも、そんなこちらを無視して、彼は最後にこう締めくくった。
「ただでさえ、探偵業は胡散臭く思われているんだからな」
テオドール・フィリップ。五十四歳。アリスやシモンが住んでいるこの都市、ローラン領の領主だ。精悍な顔つきをした老人で、その筋肉質な身体は、老いをまるで感じさせない。なんでも、三十年前の聖戦で活躍をした英雄だという話だ。すでに退役しているとはいえ、その戦闘技術は老いてなお健在らしい。嘘か誠か、彼を狙った暗殺者を返り討ちにしたという武勇伝もあるぐらいだ。もっとも、そのような話は瑣末なことでしかない。彼という人物を語る上で全く足りていない。彼を語る上で特筆しなければならないこと。それは間違いなく、魔法使いとしての実力だろう。彼は、国内でも数えるほどしかいない、S級資格を所持している。知識と実力を兼ね備えた魔法使いのみが取得できる、最高難度の国家資格である。彼は三十年前に、聖戦の実績をもって、それを取得したのだ。
テオドール・フィリップ。これまでに幾つか挙げた彼の人物像。それらを踏まえて導き出される結論のひとつ。それは、彼を殺すことは非常に困難であるということ。
そんな彼が殺された。
アリスとシモンはテオドール邸のリビングを訪れていた。テオドール・フィリップが殺害されたのがこのリビングであるため、いわゆる現場検証を行うのが目的だ。
アリスはぐるりと頭を巡らし、部屋の中を観察した。カーペットや壁紙、テーブルなどの家具が焼け焦げ炭化している。この部屋で何が起こったのかは、聞かずとも一目瞭然だろう。つまり--
(火事ですね)
しかしアリスは首をかしげた。不審な点がある。テオドール・フィリップは--誰もが認める--資産家だ。彼女は、火事が起こる前にこの部屋を訪れたことはないのだが、恐らく立派な調度品や絵画、骨董品の類があったと推測される。事実、それと思われる焼けた黒い塊は、ちらほらと確認できた。ただ奇妙なのは、そのどれもが、部屋の隅の方にギュッと寄せられているということだ。
(いや、それは正確な表現ではないですね)
部屋の中心から外側に向かって、円形状に押し出されている、といった表現が適切だろう。とここで、彼女たちより先に現場検証を行っていた警官の一人と、シモンとの会話が聞こえてきた。
「……です。死亡推定時刻は本日の一時二十三分。その時間に、近所の住民が大きな爆発音を聞いています。その民間人の話によれば、爆発音を聞いてすぐに外を確認したところ、この部屋が燃えているのが見えたとのことです。死体の状態を見る限り、その爆発による火災で亡くなったものと思われます」
なるほど、とアリスは一人得心した。つまり、爆発によって部屋の家財などが吹き飛んでしまったため、このように、物が部屋の隅に固まってしまったということか。ふと見上げると、部屋の天井にはポッカリと大きな穴が開いていた。恐らく爆発があったのは、この穴の真下なのだろう。
おおまかな状況を把握したアリスは、授業参観で張り切る子どもよろしく、元気よくハーイと手を挙げる。
「遺体はどこですか? もう検死にまわしちゃいましたか?」
「え…あ、はい。あ、でもほら、写真はありますよ。ご覧になりますか?」
「あ、見せて見せて」
ピョンピョンと跳ねながら催促する。まるで、愛らしいトイプードルか何かの写真をねだるように、アリスは目を輝かせた。だが、警官から受け取った数十枚にも及ぶ写真は、クリンとしたつぶらな瞳でこちらを見つめるトイプードルの写真などではなく、クリンとした眼窩で明後日を見つめる焼死体の写真である。しかし彼女は「わぁああ。グロいですね♪」などと言いながら、キャピキャピとはしゃいでいる。彼女は写真を指差しながら、「ほらほら」とシモンを呼ぶ。
「口の中まで真っ黒ですよ。先生があたしの作ったイカスミパスタを食べた時とそっくりですね」
「黒絵の具のパスタな。なかなかの高熱と腹痛に苛まれた」
「そうですね。すみません。パスタを茹でる時、塩を入れ忘れたせいだと思います」
「違う。死体を見てお前が気づくことは、そんなくだらないことだけか?」
「安心してください先生。あたしはすでに、事件を解決しました。あと先生が心配しなければならないのは尺と取れ高だけです」
「助手の頭が心配だ」
「無視します。あたしの推理では犯人はボクサーです! テオドールさんと犯人はボクシングをしていて、何かしらの拍子に大爆発が起こったんです! その爆発の原因は重要ではないので割愛します! なのでボクサーを探せば犯人はすぐに見つかるはずですよ」
「…お前のその推理。まさかとは思うが、死体が手足をたたんだ、いわゆるボクサーみたいな格好をしているからか」
「ふっ…先生もようやく、あたしの高みに到達しましたか」
「焼死体は、焼ける際に筋肉が収縮して、大体がこんな格好になることを承知の上での発言だろうな?」
沈黙。両手を神々しく広げ、天を仰ぐ格好でピクリとも動かなくなったアリス。それを極寒の瞳で見つめるシモン。時間にして十秒。アリスは広げていた手を静かに下ろし、目を閉じる。フムッと顎に指を当て、確信めいた口調で言う。
「迷宮入りですね」
「黙ってろ」
冷たく言われ、シモンに写真を取り上げられる。「ああ」と抗議するアリスを無視して、シモンは一枚一枚、ペラペラと写真を眺めていく。そして一通り見終わると目を閉じる。考えをまとめているのだろう。彼は目を開けると、アリスに写真を返して、静かに喋り始める。
「手首と足首に縛られたような跡があるな」
「え…あ、本当だ。ありますね。縛った物は燃えちゃったみたいですが……じゃあ、テオドールさんは拘束された状態で殺害されたってことですかね?」
「拘束の跡がある以上、事故ではない」
「ふと思ったんですが、テオドールさんは本当に爆発で死亡したんでしょうか? その前に亡くなっていた可能性はないんですかね」
「ようやくまともなことを言ったな」
シモンが肩をすくめる。
「だが、ないな。死体の気道、食堂、胃内から煤片が見つかっている。これは焼損死体、つまり死亡後に焼かれた死体にはない生活反応だ。生きながら焼かれたことは間違いないだろう。もっとも、焼かれる直前まで意識があったかは、断定できないがな」
シモンは目線だけをアリスに向けて、「ちなみに、魔法で人の意識を奪うことは可能か?」と訊いてきた。彼女は少しだけ考えると、「うーん」と唸りながら答える。
「……難しいと思いますよ。基本的に魔法は、限定空間の保有エネルギーの操作ですから。モノを動かすとか、熱を与えたり逆に奪ったりだとかは得意ですが、精神面の制御は、まだ研究段階で実用性はなんですよ」
「精神も突き詰めれば物理現象だ」
「その通りですが、精神は関連する要素が複雑で多すぎるんですよ。『風が吹けば桶屋が儲かる』ってありますけど、魔法使いは風を吹かせることはできても、桶屋を儲けさせることはできないんです」
「……なら薬物で意識を奪ったのかもな。もっとも、今の検死では焼死体から薬物の検出はできない。証明は難しい」
「テオドールさんは、眠ってたんです?」
「可能性はある。魔法使いを生きたまま拘束することは難しい。眼が潰れようが、喉に風穴開こうが、魔法は使える。そうだな?」
シモンの残酷な表現に対して、アリスはケロっとした表情で首肯する。
「そうですね。腸を引きずり出されてハンマー投げの要領よろしく、ブンブン身体を振り回されてる最中でも、生きてさえいれば魔法は使えますよ」
「それは普通死んでる」
シモンが冷静にツッコミを入れる。アリスは「あ、でも視覚は正確に狙いを定めるために重要ですから、あまり潰されるのは良くないですね」などと補足して、さらに続ける。
「んー……筋は通ってると思うんですが、なんか面倒ですね。眠らして縛って爆破ですか? 眠らせることに成功したなら、すぐ殺しちゃえばいいと思うんですが」
「ああ。殺すだけなら拘束する必要はない。拘束するということは生かしておく理由があったということだ。しかし魔法使いに拘束は意味をなさない。この事件の不可解な二つの点のうち、ひとつがこれだ」
シモンは指を一本だけ立ててそう言った。アリスが「ひとつ?」と小首を傾げて訊くと、シモンは静かに二本目の指を立て、こう続ける。
「二つ目は殺害方法だ。人ひとり殺すためだけに、どうして爆発という非効率なやり方を取ったのか。意識を奪うことに成功したのなら、果物ナイフひとつあれば人は殺せる」
魔法使いを拘束する意味。
爆発という非効率な殺人の手法。
この殺人事件における奇妙な二つの謎。
この謎を解明することが、この殺人事件を解決することに繋がるのだろうか。
「なんにしろ、まずは聞き込みからだ。テオドールの親族を当たるぞ」
シモンの言葉に、アリスは首肯した。
アーロン・フィリップは優秀な人間である。それは、自身でもよく理解していた。何故なら、彼の優れたスキルは才能によって無償で得られたものではなく、多くの時間を犠牲にして得られたものだからだ。周りの同級生がくだらない遊びに興じている間も、彼は黙々と自己研鑽に努めた。そしてその努力の積み重ねによって、彼は自分の中に強固な自信を構築していった。
(だから僕は決して捕まらない)
彼はノートにペンを淀みなく走らせていた。これからあるであろう、警察との会話をシミュレーションしているのだ。思いついた言葉を無心で書きなぐりながら、頭の中を整理していく。何十、何百という会話のパターンを模索し、出力し、構造化し、一部の矛盾もない、堅牢な思想を構築する。
この癖はテオドールの模倣だ。父も重要な会議がある時は、こうしてシミュレーションを繰り返していたのだという。当時の自分は、少しでも父に認められたくて、彼の一挙一動足を観察し、その真似をすることで、彼に近づこうとした。なんとも、いじらしい話だ。そう思い苦笑する。
(その結果がこれか。まあ、昔のことはいい。大事なのはこれからだ)
昨日、自分とテオドールが会ったことを知っている人間はいない。テオドール自身が--何十人といる使用人を含めて--屋敷内の人払いを行ったためだ。一方的に息子を切り捨てる。そんな場面を第三者に目撃されれば、自身の立場を悪くすると、テオドールは考えたのだろう。
(自分が周りからは、善人だと思われているなんて、勘違いも甚だしいけど)
結果として、テオドールが自身の立場を守るために取った行動は、自身を殺めた殺人者の立場を守ることとなった。
(つまり、息子である僕を守ってくれたわけか。最高だよ。お父さん)
アーロンは表情を変えずに笑った。ここまでは問題はない。面白いほどに順調だ。あとは最後の仕上げをするだけだ。
テオドールを始末したあの爆発。あれほどの爆音に、近所の住民が気付かないなんてことはないだろう。すでに警察はその正確な時刻を把握しているはずだ。
(必要なのはアリバイだ)
完璧なものでなくていい。
むしろ、不完全であることが望ましい。
--と
コンコン。
自室の扉がノックされる。彼はペンを置きノートを閉じると「はい」と、扉に向かって返事をした。
「アーロン・フィリップ。貴方に来客です。至急校長室へ来てください」
「……分かりました」
来たか。もう一度警察との会話を、頭の中でシミュレーションする。問題ないだろう。すべて上手くいく。
彼がサッと手をふるうと、ノートは小さな炎に包み込まれた。
(似てない親子ですね)
それが、アーロン・フィリップを初めて見た、アリスの率直な感想だった。テオドール・フィリップは精悍な顔つきに筋肉質な老人であったが、目の前で消沈している少年は、どちらかといえば中性的な顔立ちに、華奢な体躯をしていた。長いまつ毛の隙間から、涙を湛えた碧眼がかすかに揺れている。彼が父親の訃報にショックを受けているのは明白だった。だがそれを必死で堪えている様はいじらしく、つい母性本能をくすぐられてしまう。もっとも、彼は確か自分と同じ十六歳だったはずなので、そう思われることは、彼にとって喜ばしくはないのだろうが。
どちらにしろ、傷心した者に鞭打つような発言だけは控えよう。アリスは心にそう固く誓った。
「ジジィが死んだぐらいでウジウジするな」
「うぉおおおっしゃああああああ!」
絶叫とともにシモンの頭をスリッパで引っ叩く。スパーンと思いのほか良い音がしたが、その恍惚もほどほどに素早くシモンの胸ぐらを掴み上げて、顔を近づける。
「馬鹿。先生の馬鹿。阿保。カス。トンチンカンのデッボゴガンソン」
「デッボゴ……とは何だ?」
「意味はありません。取り敢えず、最高級の罵倒だと思ってください。それはともかく、もう少し弁えた発言をお願いします。先生も世間的には大人の部類に属するんですから」
アリスはシモンを放すと、テーブルを挟んで向かいのソファに座っているアーロンに「すいません。うちの社会非適合者が」と誠心誠意謝罪をする。アーロンはしばらく目を丸くしてポカンとしていたが、すぐに「いえ……」と弱々しい声で言った。
「こちらこそ、申し訳ありません。お恥ずかしいところをお見せしました」
「そんなことないですよ。身内が亡くなったんです。当然ですよ。先生が人の心というものを子宮に忘れてきてしまったんです」
「……生まれつきって言いたいのか?」
シモンがボヤいているが無視する。
アリスとシモンは、国営教育機関魔道学科学生寮の応接間にいる。亡くなったテオドール・フィリップの唯一の親族、息子のアーロン・フィリップから、テオドールの近況や親子関係などを調査することが目的だ。
アーロンに事件のことを話すと、彼は--当然のことだが--ひどくショックを受けたようだ。信じられないとばかりに、何度も「本当なんですか?」と確認をしてきた。事件を否定したかったのだろう。その様は痛々しい限りだった。だが、事件を早期解決するためには、唯一の親族であるアーロンから、話を聞かないわけにはいかない。
アリスは、またシモンが余計なことを言わないうちに、アーロンに話しかける。
「お悔やみ申し上げます。お辛いと思いますが、捜査の協力をお願いできませんか?」
そう言うと、アーロンは首を左右に振り、気丈にも笑みを浮かべた。
「こちらこそ、宜しくお願いします。本当に、先程は取り乱してしまい、申し訳ありませんでした。もう、大丈夫です。偉大な父の無念を晴らすために、協力は惜しみません。僕の知っていることであれば、すべてお話しします。ただ、えっと……」
ここでアーロンは歯切れ悪く、少し押し黙った。こちらをチラチラと遠慮がちに見て、こう続ける。
「失礼ですが……その……警察の方ではないですよね? その格好、の制服ですし」
アーロンは自分の格好を手で示しながらそう言った。彼が着ているのも、アリスと同様に魔道学科の制服だった。彼女との違いはスカートがズボンになった程度で、色使いも基本的には男女共通である。もちろん、魔道学科の生徒だからといって、常に制服を着なければならないわけではない。彼も恐らく、朝の授業に参加するために、あらかじめ制服に着替えていただけだろう。補足ではあるが、アリスは服を選ぶのが面倒なため、仕事中も制服を着ていることが多かったりする。
兎にも角にも、アリスはアーロンの疑問に答えることにした。
「ああっと、そうでしたね。あたしはアリスって言います。こっちの消すゴムのカスみたいな人がシモンです」
「おい」
「あたしたち、いわゆる探偵でして、今回の事件の捜査を警察に依頼されているんです」
「探偵? ああ、あるんですね。本当にそんな小説みたいなことが」
「まあ特殊なケースですが。だから安心して話をしてください」
「もちろんです。先程も申し上げましたが、殺された父のために……」
「随分と父親のことを立てるんだな」
アーロンの言葉を遮って、シモンがそう言った。彼は肘掛に頬杖をついて、いかにもやる気がなさそうな態度を取っているが、その言葉はナイフのような鋭さを帯びていた。
「聞いた話じゃ、ほとんど会うこともないそうだが。最後に顔を合わせたのはいつだ?」
「……二年前……です。この魔道学科に入科する時に手続きで父の屋敷に……」
「とても良好な親子関係とは思えないな」
シモンは辛辣に言い放った。アリスは「ちょっと先生!」と声を上げるが、シモンはこちら抗議などどこ吹く風と、大きな欠伸などしている。
「……親子のあり方は、人それぞれでしょう。確かに会う機会は少なかったですが、ここの学費など含め、父には良くして頂いていました。もちろんそれがなくとも、領主という責任のある仕事をする父は尊敬していましたし、亡くなった今も、その気持ちに変わりはありません」
そう言うアーロンの表情は少しだけ強張っていたが、口調はあくまで落ち着いたものだった。シモンは「そうか」と気のない返事をすると、頬杖をやめて少し前のめりになる。
「それなら結構だ。で、その尊敬する父親は誰かに恨まれるようなことはなかったか? あるいは恨んでいるかもしれない人物に心当たりは?」
「……あまり気分のいいことではありませんが、父を恨んでいる人間は大勢いたでしょう。仕事柄そういうことは避けて通れませんから。ただ特定の人物となると、心当たりはありません」
「……そうか。ちなみに、一時二十三分頃何をしていた?」
「私が……ですか? どうして?」
「テオドールが殺された時間だ」
「アリバイ……まさか、私が疑われているんですかI 」
「いえ……あくまで形式的な質問なんですよ。お気を悪くしないでください」
身を乗り出すアーロンを宥めるように、アリスは言った。アーロンはぐっと感情を押し殺すように目を瞑ると、ドカッと背もたれにもたれかかった。彼はゆっくりと頭を振りながら、「すみません」と謝罪を口にした。
「当然の質問ですね。どうかしていました。普段はこんな考えもなしに、人様を怒鳴ることなんてないんですが」
「普通でなくて当然ですよ。むしろ冷静に話をして頂いて、非常に助かっています」
「そう言って頂けると気が楽になります」
「こちらのほうこそ、うちのアレが非人道的な発言を連発して申し訳ないです。後で爪を十枚剥いで反省させますので、それで許してください。もちろん、物的証拠として剥いだ生爪は新鮮なうちにお送り……」
「それは遠慮させてください」
食い気味にアーロンはそう言った。こちらの不手際を紳士的に許してくれた少年に、アリスは好感を抱いた。ただ、彼は何故か怯えるような眼でこちらを見ていたりする。
コホンと咳払いひとつすると、アーロンは話を再開する。
「えっと……一時二十三分でしたね。確か、寮の自室で勉強をしていました。筆記試験が近かったので、少し頑張ろうかなって」
「それを証明することってできますか?」
「証明……ですか。うーん、難しいですね。アリスさんはご存知と思いますが、寮はひとり部屋なので」
「そうですか……」
つまりアリバイは不成立。この無害そうな少年が父親を殺したなどと考えているわけではないが、可能性のひとつであることは否定できない。できればそれを、早い段階で潰しておきたかったのだが。
するとアーロンは、「あっ」と思いついたように付け加えた。
「そういえば、夜中にペンを借りました。隣の部屋にいる知り合いに」
「ペン?」
「使ってたペンの先が折れてしまって。買い置きの分もなくて。深夜だから申し訳ないと思ったのですが仕方なく」
「それはいつ頃ですか?」
「確か、一時半だったと思います。二時には寝ようと思っていて、あと三十分なのについてないなって思ったのを覚えています」
それが本当ならば、アーロン・フィリップのアリバイは成立する。アリスはひとまずほっと胸をなでおろした。事態が好転したわけではないのだが、息子が父親を殺すなど、そんな憂鬱な結果だけは避けられそうだ。
ただし、とアリスは沈痛に思う。
仮に彼のアリバイが証明されても、それは完璧なものにはならないだろう。事件が起こった一時二十三分から一時半の七分間。この間で殺人が不可能だと証明しなければならない。これは非常に難しいものとなるだろう。その最たる原因が、魔法の存在である。魔法の存在が、本来では不可能な事象を可能としてしまう。魔法学科に通っている以上、アーロンも魔法使いなのだろう。数多ある魔法を駆使しても、この殺人が不可能だったと証明しない限り、アーロンの無罪は確定されない。つまり、まだ彼のアリバイは不完全なものということだ。
とはいえ、元々あってないような彼への疑いが、さらに小さくなったことは間違いないだろう。それだけでも話を聞きに来た甲斐があったというものだ。そうアリスが考えていると、今まで黙っていたシモンが、ボソッと呟いた。
「昨日は何をしていた?」
「え……」
「住み込みの使用人に聞いた話だ。テオドールは昨日誰かと会う約束をしていたらしい。だが、そいつが誰なのか、男なのか女なのかも分かっていない。もしかして、お前なんじゃないかと思ったんだが?」
「……いえ、僕ではありません。先程も申し上げましたが、父とは二年間顔を合わせていませんから」
「父親が誰かと会っていたという話は?」
「すみません。初耳です」
「なら、その人物に心当たりは?」
「いえ、それも」
「そうか。なら、そいつを目撃していそうな人物でもいいんだが、何かないか。目撃者がいなくてな。ほとほと困っているんだ」
「そうは言っても……父の屋敷は住宅街とは少し離れたところにありますし。屋敷から一番近い家に住んでいる人はどうでしょう。話を聞いてみましたか?」
「……そうか。いや、まだ聞いてない。見込みは薄いが、やはりそれしかなさそうだ」
「すみません。お役に立てなくて」
「いえいえ。とても参考になりました。ありがとうございます」
無言で立ち上がったシモンの代わりに、アリスが慌てて感謝の言葉を述べた。
魔法は万能である。
魔法使いはよく、その錯覚に陥る。特に優秀な者ほど、その傾向が強い。一般人では不可能な事柄を、念じるだけで可能としてしまう。長年鍛え続けた屈強な戦士を、見習いの魔法使いが指先一つ動かさずに、屈服させてしまう。その事実は、魔法を--魔法使いを万能と錯覚させるには、十分すぎる麻薬となる。魔法使いの多くは能力至上主義者だ。それは、多くの魔法使いが自身の能力をおごり過大評価しているという、歪みが生み出した価値観なのかもしれない。
(物事を考える基本は、できることではなく、できないことを知ることだ)
前にシモンが言った言葉だ。
(目の前にあるリンゴを取る方法を考える必要はない。なぜなら、手で取ればいいからだ。対して、十メートル先にあるリンゴを取る方法は考えなければならない。なぜなら、手が届かないから。ここまではいいな)
アリスはコクンと頷いた。するとシモンは馬鹿にするように嘆息して見せた。
(やはりお前は分かっていない。どうしてさっきの話に納得できた。手が届く? 届かない? どうしてそう分かった。もしリンゴを取ろうとしている奴の腕が十メートルあったらどうする)
この返答に、アリスは憤慨した。そんなこと馬鹿げていると。そんな人間がいたら、トイレでお尻も拭けない。どこに腕が十メートルもある人間がいるのかと。そんな彼女に向かって、シモンは平然と言った。
(魔法使いだ)
その言葉の意味を、当時のアリスは理解することができなかった。今でも、完全に理解しているわけではない。ポカンと口を開けるアリスに向かって、シモンはこう続ける。
(自分の腕の長さを知らない奴はいない。脚の幅を知らない奴もな。だから、人間は自分ができる物事の範囲を、ある程度は正確に把握している。だが魔法使いは違う。俺から言わせれば、奴らは自分の腕の長さを理解していないのさ。普通の人間が取れない、十メートル先にあるリンゴを取って、はしゃいでいる。それはいい。問題なのは、奴らは自分が二十メートル先にあるリンゴも取れるって、錯覚してることだ。十メートルの腕しかないのにだ。魔法使いにも限界があることに、当の本人が気づいていない。できないことを知るって言うのは、そういうことだ。簡潔に言うなら、身の程をわきまえろ。そうすれば、相手が魔法使いだろうと何であろうと、出し抜くことはできる)
そこまで言うと、シモンは珍しく笑みを浮かべ、こう締めくくった。
(俺たち人間と魔法使いなんて、所詮は腕の長さ程度の違いしかないんだからな)
ヒュウウウウウ!
アリスは住宅街の約十メートル上空を高速飛行していた。眼下に広がる軒並みが、次々と後方に流れていく。どれほどの速度で飛行しているのか。自分でも正確には分からないが、鼓膜を叩く風切り音や眼下の景色を見る限り、時速六十キロほどと予測を立てる。自身の魔法で飛行しているとはいえ、ちょっとした恐怖心を感じる。
(やっぱり、人間は地に脚つけて生活するようにできてるんですかね)
目的の建物が近づいてくる。高台に建てられたオレンジ色の屋根の建物。テオドール・フィリップの屋敷だ。
アリスは徐々に減速し、屋敷の上空にピタリと停止した。ふわふわと高度を落とし、屋根の上にタンっと着地する。彼女は素早く懐から懐中時計を取り出し、時刻を確認する。
「はぁ、はぁ、五分四十五秒……」
彼女は今、アーロンのアリバイの検証を行っていた。彼のいる寮からここテオドール邸までの時間を計測し、犯行の実行可否を判断する。もちろん、アーロンは魔法使いであるため、魔法の使用を考慮してのものだ。犯行時刻から彼がペンを借りた時刻。その差は七分間。単純な移動だけならば、全力飛行で七分以内に収めることはできる--が
「はぁ……微妙ですね」
自分が全力を出して約六分かかってしまう。しかもこれは、何度も往復を繰り返しての最高タイムだ。初めて計測した時は、彼女でさえ屋敷と寮を七分以内に移動することはできなかった。仮にアーロンが彼女と同レベルの魔法使いで、かつ一回目にして最高タイムを叩き出せたとしても--
「ふぅ……」
この疲労は一分やそこらで回復するようなものではない。果たして、ペンを借りに行ったという同級生に、この異変を気づかせずに済むことができるだろうか。
彼女はテオドール邸の屋根の上から、アーロンが暮らしている寮の方角に視線を向けた。テオドール邸は高台にあるため、他の建物に邪魔されることなく、寮を直接視認--米粒よりも小さいが--することができた。アーロンの自室の窓は、テオドール邸の方角を向いている。つまり、この屋敷と寮の最短距離は、単純にこの視線をなぞった直線ということだ。そして、彼女はその直線を正確にトレースして時間を計測した。やはり、これ以上の時間短縮は望めそうにない。
「日が暮れてきましたね……」
どちらにしろ、シモンに計測の結果を報告する必要がある。彼は今、爆発の起こった部屋を改めて調査しているはずだ。
重力を制御し、彼女は屋根から跳んだ。
日が沈みかけたこの時間帯、爆発の起こった部屋は冷たく薄暗かった。アリスは手のひらを上にあげ、慎重に魔法を紡いだ。
部屋の中心、ちょうど爆発によって天井に空いた穴の真下に、ポッと小さな白色の光球が生まれた。アリスが魔法によって造り出した熱源。中心部は500℃以上になるが、対流した空気の層で周りをコーティングすることで、その熱の拡散を一定の半径内に留めている。もっとも、熱源付近に可燃物があれば当然着火することもあるため、使用には注意が必要だ。
なんにしろ、アリスの造り出した光球は薄暗い部屋を照らし出した。彼女はキョロキョロと部屋の中を見回す。シモンはすぐに見つかった。彼は部屋の隅で屈み込んで、何かゴソゴソとしている。彼女はトテトテとシモンに近づいていった。
「何をしているんですか?」
シモンは何やら黒い塊を手に取り、それをじっと見つめていた。アリスが再度「何をしているんですか?」と訊くと、チラッと一瞥して、手に持った黒い塊をポイッとこちらに投げて寄越した。「あわわわ」と、彼女は慌ててその黒い塊をキャッチする。彼女はその受け取った黒い塊を光球にかざして観察する。一見するとただの黒ずんだ石ころのように思える。彼女は小首を傾げて訊く。
「何ですかこれ?」
「石炭……」
「ああ……暖炉の燃料ですか」
シモンが屈み込んでいる前には--火事で黒ずんでいるが--立派な暖炉があった。そのことに気づき、アリスは得心する。
「……のようにも見える」
「って違うんですか?」
思わず肩をこけさせる。
「石炭に比べ光沢が弱い。これは……コークスに近いな」
「コークス?」
「だが、質が悪い」
シモンはそう言うと、暖炉に頭を突っ込んでガサガサと中を探り始める。アリスも暖炉の中を覗いてみると、そこには手に持っている黒ずんだ石ころ--コークスが大量に積んであった。彼女は、コークスを暖炉から掻き出しているシモンに、再度質問する。
「あの、コークスって何です?」
「石炭を乾留--つまり蒸し焼きにしたものだ。石炭から、一酸化炭素・水素・メタンを主成分とするガス、そして液状のタールなどの副産物を取り除いた後に残る固形物。石炭と比べ発熱量が多く、製鉄など工業で使用されることが多い」
「暖炉じゃ使わないってことですか?」
「全くないわけじゃないが……」
と、コークスを暖炉の外に掻き出していたシモンの動きがピタリと止まる。
「どうしたんです?」
アリスが声をかけると、シモンは暖炉から手を引っこ抜き、その指先をスッと彼女にかざした。その指には、何か黒い泥が付着している。彼女は頭に疑問符を浮かべながら、そっとその泥に顔を近づける。
「う……何ですかコレ。ひどい臭いです」
アリスの質問は無視して、シモンはさらに暖炉の中に身体を潜らせる。そして身体を反転すると、暖炉の天井をガンと叩いた。
「……ダンパーが閉じてる」
「あの……そんなことより、アーロンさんのアリバイ検証の報告したいんですけど」
「……分かった」
シモンは暖炉から身体を出すと、スクッと立ち上がる。身体中についた煤を叩いて落とし、アリスに向き直ると「どうだった?」と、彼女に尋ねた。彼女は頬をポリポリと書きながら、歯切れ悪く答える。
「……どうなんですかね。絶対無理とも言えませんし、だからと言って無理でないとも言えませんし」
「簡潔に報告しろ」
「えっと、とりあえず移動だけなら七分で行けました。あたしが全力を出せばですが」
「お前が全力でか……時間は」
「六分弱……正確には五分四十五秒です」
「移動の手段は?」
「重力加速度のエネルギー制御。えっと、つまりビュンっと飛んだわけです。この屋敷と寮を一直線で移動できますから、恐らくこれが一番早いと思います。魔法でも瞬間移動みたいな真似は、まだできませんから」
「……テオドールをここで殺害し、屋敷から出て寮に戻り、すぐ隣の部屋にペンを借りに行く。難しいな。せめてあと一分は欲しい」
「でもこれ以上は速くなりませんよ。やっぱり、アーロンさんは事件には無関係じゃないですかね? アーロンさんが人を殺すようには見えませんし」
「……なにか見落としてるかもしれない。飛行以外の手段で、高速移動が可能な……」
「そんな手段なんかないですよ。なんでアーロンさんを疑ってるんですか先生は」
「あとたった一分稼げれば犯行は十分可能だ。お前も考えてみろ」
「意地っ張りですね。ないったらありません。魔法でも不可能です」
アリスは少しムキになって反論した。どうしてシモンが、こんなにもアーロンを疑うのか、彼女には理解できなかった。確かに、アーロンには完璧なアリバイがあるわけではない。しかし、深夜一時過ぎに完璧なアリバイがある方が、普通はおかしいだろう。恐らく、他にめぼしい容疑者がいないため、拘っているだけなのだと思うが。
(だからって、無理やり犯人に仕立てて、冤罪とかになったら困りますし)
アリスの個人的見解としては、アーロンは無実だ。先程の検証の感触では、殺害から七分で寮に戻ることは、事実上不可能に近い。ただ、不可能と言い切ることができないのが問題なのだ。シモンの言う通り、あと一分、いや三十秒だけでも速く寮に帰る手段が見つかれば、アーロンの不完全なアリバイは崩れ、彼がテオドールを殺害することは--事実であるかどうかは別にして--十分可能だと断定して良いだろう。
(いっそ非の打ちどころがないアリバイでしたら、分かりやすくて助かるんですが)
などと考えていると、シモンがおもむろに懐から懐中時計を取り出した。彼は時間を確認すると「アリス」と彼女を呼んだ。
「お前、警察からアーロンのアリバイの確認が取れたか聞いてこい」
「ええええ! あたしがですか? しかも、いまから!」
アーロンが話したアリバイについては、警察に引き継いで調査してもらっている。アーロンと話してからだいぶ時間も経っているため、彼の証言が事実ならば、すでにその確認は取れていることだろう。ただ、てっきりテオドール邸の再検証が終わったら、今日は事件の調査を切り上げて、明日改めて警察から話を聞くものとばかり思っていた。
「飛べばすぐだろ。俺は飛べないからな」
「あたしだって結構疲れてるんですけど。ここから寮を何往復したと思ってるんですか」
「いいから行け。奴のアリバイの確認が取れれば、今日はもう休ませてやる」
「ぶぅうううう!」
唇を尖らせて抗議するアリスに対し、シモンはただ肩をすくめるだけだった。
「と、言うわけで帰って来ました♪」
「……妙に機嫌がいいな」
「べっつにぃい、そんなことないですよぉおおおおお♪」
正直体力はもう底をつきかけている。テオドール邸から警察までを全力で往復したのだ。本来であれば、一時間ほどの休憩と、全身マッサージ、あとはまあ、シモンが馬車で轢かれるといった面白映像で心の癒しが欲しいところである。しかしそんな疲労も、警察から聞いた朗報によって吹き飛んでしまった。このことを、シモンに報告したら、彼が一体どんな顔をするか、想像しただけで楽しくて仕方がない。
「なんだ……気持ち悪い。いや、いつもこんな感じだったか? そうか。常時キモいのか」
「ふーんだ。そんな偉そうなこと言うのもここまでですよ。残念でした。先生の推理は外れも外れ、地方のキャバ嬢のクォリティほどに外れですよ」
「……俺は嫌いじゃない」
「先生の趣味の話はいいんです! いいですか! よく聞いてくださいね! アーロンさんのアリバイですが、証明されましたよ! しかも完璧に!」
「完璧?」
「見てたんですよ! ペンを借りたっていうアーロンさんの隣の方が! 一時二十三分。自室の窓から外を眺めているアーロンさんを!」
「なに……」
シモンは珍しく目を丸くして、狼狽の声を上げた。それが嬉しくて、アリスは勢い込んで話を続ける。
「アーロンさんのお隣さんも試験間近ということで勉強していたみたいです。それで気分転換に外の空気を吸おうかと窓を開けたら、偶然隣のアーロンさんも窓を開けて外を見ていたそうですよ。それがなんと、一時二十分からの五分間。つまりアーロンさんのアリバイは完璧に立証されたってことですよ」
「……」
「ほらね先生。あたしの言った通りじゃないですか。アーロンさんは違うって。あたしは初めから気づいてましたよ。あたしって人の見る目は抜群にあるんですから。確かに先生と知り合いって時点で、その信憑性は低いかもですが。まあ先生もあまり落ち込まないで、気持ちを切り替えて真犯人探しに--」
「おい」
「--全力を……って、はい?」
気分良く喋っているところに、シモンの声が割り込む。さすがに調子に乗りすぎて怒らせてしまったのかと警戒するも、シモンはアリスのほうなど見てもいなかった。部屋の中心、なにもない虚空を見つめ、ブツブツとなにやら呟いている。まさか、ショックのあまり精神をやられてしまったのか。アリスがそんな心配をしていると、突然シモンがギロリとこちらを睨みつけてきた。
「さっきお前が使った魔法。あれは一般的なものなのか?」
「へ?」
思いがけない質問をされ、少々戸惑う。
「魔法って、あの、飛ぶやつですか?」
「光るほうだ」
「ああ、照明の……そうですね。一般的な魔法です。ああいう、使用頻度の高い魔法は、技術継承がしっかりされているんですよ」
「誰でもできるのか?」
「見習いでもできますよ。まあ、中心部の熱源は500℃以上の高温になりますから、その熱をどれだけ拡散せずに、一定の範囲に止められるかは、魔法の腕次第ですが」
「その熱源を造るのは?」
「ああ、それは初歩の初歩です。熱エネルギーをただ操作するだけですからね。500℃程度なら全然難しくないです。魔法使いの見習いだって1000℃ぐらいは軽いですよ。魔法で難しいのは、造り出したエネルギーに指向性を持たせたり、目標物以外にエネルギーが拡散しないよう隔離したり、そっちのほうが大変なんですよ」
シモンに解説したのは、魔法使いにとっては基礎の知識で、この程度の知識なら、魔法使いではない彼でも知っているはずだ。それでも、自分にわざわざ訊いてきたのは、より確信を得たかったからだろう。しかし、彼は何を確信したというのか--
アリスの話を聞くと、シモンはジッと黙りこんでしまった。なんとなく彼に話しかけ辛い雰囲気で、アリスも一緒に黙りこんでしまう。沈黙が数秒。しばらくして、「チッ」とシモンが舌を鳴らした。
「……やってくれる。あのガキ」
その言葉とは裏腹に、シモンの声には楽しげな響きが含まれていた。