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十二章 Today is picture of peaceful vacation―――但し、あと数時間で去りゆく


  

「ちょっと先輩!?しっかりして下さい!」ミストレイク市東端に呆れ混じりの声が木霊する。


 後輩に幾ら叱咤されても、とっくに肉体は限界を迎えていた。久し振りに全力疾走した膝は生まれたての子鹿よりもガクガクな上、視界は先程から白く霞みっ放しだ。

「まだたったの二十分ですよ!普段どれだけ運動不足なんですか!?」

「た、たかがジョギングなのに、宝君が速過ぎるんだ……うっ、はぁはぁ……!」

 服は汚れるが止むを得ない。湖畔にドッカリ腰を下ろし、絶え絶えの呼吸を整える。

「軟弱ですね、槌使いなのに」

「あれに必要なのは筋力だ。肺活量までは鍛えていない……!」

 息一つ乱れていない那美へ弁解しつつ、湖の向こうからの涼やかな春風に身を任せる。最初にぼんやりしていた視力が戻り、続いて脚の震えが治まった。パチャッ。相方が湖へ掌を差し入れ、透明な水を掬って口にする。

「大丈夫そうですね。商店街まで戻らないとスポーツドリンクは手に入らないようですし、先輩も飲んだらどうですか?」

「大胆だな。寄生虫がいるかもしれないのに」

「昔から胃腸は丈夫なので。これも『鬼憑き』の影響でしょうか?」

 ごくごく、ぷはっ!その何とも美味しそうな姿に惹かれ、ラントもふらふら歩み寄って一口。乾いた咽喉を潤す水は成程、特に妙な味はしなかった。後で腹を壊す可能性もあるが知った事か。

「ふぅ……宝君はいつもこんなハードな練習を?」

「これでも今日は大分合わせていますよ。以前使っていたパンチングマシンが偶々壊れてから、先輩達も顧問もトレーニングルームへ入れてくれなくなってしまって。全く、私はスプリンター志望じゃないのに」

 シュッ、シュッ!シャドーボクシングがカマイタチを起こす音を聞きつつ、ぼんやりと遠くに聳える山々を眺める。そして、ぽつり。


「……こんなにのんびりしたのは久し振りだ」「そう言えばそうですね」

 

 日常生活と言えば裁判官になるための司法の勉強か、単位取得のための講義出席。あとはライフワークである四天使研究か、その他生活のための細々した用事だ。

 その何れも出来ない辺境の街で、気のおけない後輩と二人きり。自身が提案者とは言え、まさかこうも安らぐとは想像もしていなかった。

(案外、治療を必要としていたのは宝君でなく、本官の方だったのかもしれないな……)

 どうやら目標に邁進する余り、肩に力が入り過ぎていたようだ。せめてこの小旅行の間だけは気を緩め、学業の一切を忘れる事にしよう。 

「回った感じ観光する所も無さそうですし、ボート借りて遊覧でもしますか?」

 湖岸沿いの一キロ程北、コテージ風の白い小屋を指差す。

「乗っている間は脚も休められますし。あ、丁度一艘出てきました」

 小舟に乗っているのは対照的な体格をした老夫婦だ。太っちょの夫がオールを漕ぎ、岸を約百メートル離れた後、こちらへ進路を取る。

 しばらくの後、小舟は不意に停止。細身の妻が手にした透明なアクリルケースを湖面に沈め、水中を覗き込み始める。どうやら何か探しているようだ。

「学者か?」

「何を見ているんでしょう?」

 釣られて学生達も水面を覗いてみるが、特に魚影などは確認出来ない。と言うか動く物が見えなかった。

 その間にも、船上では夫へアクリルケースが渡っていた。よいしょよいしょ、体重移動に苦労しながら観察再開。

「……矢張り駄目だ。しかも相当深いな、この湖は。底が見えない」

 ちゃぽちゃぽ。

「おまけに魚もいないし」

「もっと暖かい時期なら素潜りも出来るんだけど……折角の旅行だし、お互い若くないのだから止めておきましょう」

 朗らかに諦め、付き合ってくれてありがとう、一礼する妻。

「お婆様には私から言っておくわ。大丈夫。本人ももし運良く見つけられたら、って前置きしてたもの」

「そうか……うん。ではまた別の土産を用意しないとな」

 残念ながら探し物は見つからなかったようだ。しかし興味を引かれ、あのー!ボクシング部員が声を張り上げた。

「あら、学生さん?―――ああ、『星睡蓮』よ。この湖にあるって聞いて来たんだけど、噂通り昼間は見えないみたい。一応夜にもう一度来てはみるけど、余り期待しない方がいいかも」

「夜にしか現れない睡蓮なんですか?―――へえ、変な植物ですね」

 身に着けている装備と言い、夫婦はどうも一観光客らしい。ところで、と優雅に手を差し出す夫人。

「折角だから乗らない、学生さん達?料金は前払いしたから、あそこへ戻すついでに」

「えっ、いいんですか?」

 渡りに舟、しかもタダと言う好条件にラントは目を丸くする。

「ええ。漕ぎ疲れたし、丁度もうホテルにチェックインしたいと思っていた所なの。ちょっと待ってて。岸に横付けするから」

 キィ、キィ、キィ……ガッコン。先に上陸した夫が紳士的に差し伸べた手、それを恭しく取った妻の仕草は実に洗練されていた。まるで御伽噺の女王様のようだ。

「では二人共、宜しく頼む。行こう、シスカ」

「ええ」

 二つの旅行鞄を提げた夫に続き、油紙の袋を手に市街地へ引き返していく妻。その平和な後ろ姿を眺め、若人二人は早速ボートへ乗り込んだ。



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