束縛彼氏×奔放彼女
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携帯を握りしめて待機すること三時間。ついにその時を迎え、男は期待に胸を大きく大きく膨らませ過ぎてうっかり吐きそうになっていた。しかし彼が生まれた記念すべき祝日が、一分、二分と過ぎてゆくにつれ、顔から色が失せてゆく。そして五分を過ぎても、彼の手に収まる機械が鳴り出すことはなかった。
「そんな・・・」
驚愕と絶望に表情が染まった次の瞬間には、マッハで数百件ものメールを作成していた。
その日、成人の仲間入りを果たした黒山蛍は、ひどく衰弱した様子で大学にやって来た。同じゼミ生で同級生の友人たちは正直、心底彼と関わり合いたくなかったが、相手が携帯を握りしめたまま、あまりに挙動不審で構内をうろうろしているものだから、やむを得なかった。
「よ、よぉ蛍」
先陣を切ったのは坂田という小麦色の肌の男。テニスサークルで日々汗を流す彼は面倒見のいい性質だった。しかし爽やかなスポーツマンのオーラでも、心の闇まで照らせはしない。黒い感情の渦巻く瞳を向けられるのが坂田は本気で嫌だったが、なんとか踏ん張った。
「確か今日、誕生日だったよな? おめで」
「凪を知らないか?」
精一杯の坂田の言葉を遮り、呪詛のような声が漏らされた。
やっぱりか・・・
坂田は予想通りの状況に心が重くなるのを感じた。
蛍が求めている人物、そして話している間も絶えることなく電話をかけメールを送りつけている相手こそ、蛍の彼女である猫矢凪である。
「返信ないし電話に出ないしなぜか携帯電源切れてるしアパートは留守だしドアの前で五時間待ったけど帰って来ないし俺の誕生日なのに事故に遭ったのかまさか他の男のところにいるんじゃああうそだいやだ信じたくないその男ぶっ殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる」
「おお落ちつけっ!」
画面を見つめたまま瞬きもせず殺意を羅列する蛍を坂田は全力でなだめようとした。
蛍は病み気質な束縛男だ。異常なまでに彼女を愛している。一緒にいる時は常に彼女に触れていなければ落ち着かず、ゼミも授業も全部彼女と同じものを選び、離れている時は一分一秒ごとにメールを送りつけあまつGPSで行動を監視、その上での尾行、彼女宅の郵便物やゴミのチェックまでこなす変態優等生。なまじ顔がいいだけに残念な、いや、顔以外にいいところなどこの男にはない。自分以外の男と彼女が口を利こうものなら暴力沙汰も厭わないため、毎度周囲の人間が止めに入らねばならなくなる。病院に行け、と誰もが口にせずとも思っていた。
「まさか、お前じゃないだろうな?」
不意に、そんな考えに思い至った蛍がぎょろりと再び坂田を見た。
「俺の凪をどこに隠した!?」
「だーもう隠すかぁっ! いつものことだろぉが!」
首を絞められながら坂田は叫んだ。そう、いつものことなのだ。
蛍が超優秀な看守であるとすれば、凪は凄腕の脱獄囚。十重八十重に張り巡らされた包囲網をすり抜け、衛星電波にすら感知されず彼氏の知らないところで遊び呆ける天才だ。
凪は異常なまでに広い交友関係を持っていた。先輩後輩同級生にかかわらず連絡先は他学部に至るまでほとんど網羅されており、とりあえず凪を通せば誰とでも繋がる。賑やかなことが大好きであり、入ってもいないサークルやゼミの飲み会になぜか当然のごとく混ざっているだけでなく、隣で飲んでいたまったく無関係のグループまで巻き込む。あまつ意気投合して朝までハシゴした伝説を持つ。某IT社長と飲み仲間であるかと思えば、駅前でホームレスたちと乾杯していたという目撃談もある。子供っぽい可愛い顔をしていながらの酒豪。授業とゼミ以外では24時間常にあちこち動き回って一か所に留まらない。果ては宇宙人の知り合いがいるとの噂がまことしやかに囁かれていた。
凪と交流のある者は口をそろえて言う。彼女にはしたくないな・・・と。
お互い異性に敬遠されている束縛男と奔放女。ある意味ではお似合いで、しかしまったく噛み合わない二人であった。
「凪・・凪・・俺の凪・・・どこに行ったんだ・・・」
深夜からずっと彼女を求めてさまよっていた蛍は心なし痩せたように見える。今は憔悴しきっているが、この前には昨夜凪と飲んでいたというワンダーフォーゲル部とひと悶着があった。執念で凪の足跡をそこまでは突き止めたのだ。だが、凪が隣の食品会社の新人歓迎会に混ざってしまってからの消息は不明であった。二丁目のほうへ行ったという目撃情報もあったが定かではない。
心配と不安と嫉妬で蛍は今にも狂いそうだった。
「どうして電話に出てくれない? 一体ああ、誰が今、凪と一緒にいるんだ? どうして凪は俺のところにいてくれないんだどうしていつもいなくなる? 他の誰とも喋らせたくなんかないのに、ずっと俺の傍にいてずっと俺だけのために笑ってくれたらいいのに・・・そうだ、ケージを買ってこよう。毎日世話をしてあげれば俺だけに懐いてくれるはず」
「おい誰か通報しとけ」
坂田はふらふらとホームセンターに向かいかけた蛍を羽交い締めし、講義棟のほうへ引きずっていった。そろそろゼミの始まる時間だったのだ。
最初は抵抗しようとしていた蛍だったが、やがて心も体も疲れ果てて大人しくなった。
蛍にとって凪は人生のすべてで、蛍の世界には凪しかいなかった。だが、凪の世界には蛍以外の人間がたくさんいる。はっきりと浮気されたことがあるわけじゃないが、凪にとって自分は特別ではないのかもしれないといつも思う。こんなにも愛しているのに、凪からの応答がないためにますます束縛したい心を止められない。それこそ本当に鍵をかけて誰の目にも触れない場所へ閉じ込めてしまいたい。彼女の世界にいる人間を自分だけにしたい。
彼女を支配したい。
身も心もすべて。自分がいなければ何もできない人間に凪がなってくれれば幸福だ。目の前の自分だけに愛を注いでくれるように。確かに彼女の『特別』であることを実感したかった。
虚ろな視界を、薄桃色の色彩が横切った。
「―――?」
今は六月。木々には青葉が茂っているというのに、場違いに宙を舞う花びら。通りがかった学生たちは皆、空を見上げた。
「誕生日おめでとう、蛍!」
講義棟入り口のアーチの上に座った幼な顔の女が、腕いっぱいに抱えた桜の花びら全部、蛍の頭上に盛大にまき散らしていた。
ゼミに向かう蛍を待ち構えていたのか、わざわざ登ったらしい。桜も造花ではなく本物だった。一体全体どこから調達してきたのかわからない。突拍子もない、この女こそが猫矢凪だった。
「―――凪っ!!」
蛍は即座に坂田の手を振り払い、花びらまみれになりながらアーチの上の彼女に呼びかけた。
「どこに行ってたんだ!? 何度も電話してメールしてアパートの前でも待ってたのに!」
「そなの? あ、私のカバン金属製だから、きっと電波受信できなかったんだね」
「なんでカバンが金属製なの!?」
「ナゴルノカラバフ人の友達にもらったんだー」
「また聞いたこともない国の友達作って! 恋人の誕生日にどうしてメールの一つもくれないんだよっ、どうして傍にいてくれないんだよ!? あまつ他の男と飲みになんか!」
「いやー、ついさっきまで蛍の誕生日だってこと忘れてたんだよね」
蛍は凍りついた。言った本人はアーチの上で足をぶらぶらさせながら、まったく悪びれず笑顔のままだった。
「ねえ、凪にとって俺って何なの?」
蛍は、どうしても尋ねずにいられなかった。
「ほえ?」
「なんで凪は俺だけを見てくれないの? なんで俺のことだけを考えてくれないの? 花なんかいらない。俺は凪が欲しい。他の物なんていらない。凪を俺だけの物にしたいのに。ナゴルノカラバフ人とも他の奴とも誰とも話して欲しくないのに。どうしたら凪は俺の物になってくれるんだ? どうしたら俺から離れないでいてくれる? もう、朝も昼も夜もずっと凪を感じていないと気が狂いそうだ!」
その発言自体がすでに狂っている証であると本人は自覚していない。
凪は「んー?」と首を傾げ、しばらくしてから、思いついたようにぽんと手を打った。
「じゃあ、結婚しよう」
「・・・へ?」
居合わせた周囲も、蛍ですら、ぽかんとしていた。凪はアーチから飛び降り、呆然とする蛍の元へにこにこしながら寄って行った。
「私も蛍も、二十歳になったから自分の意志で結婚できるのよ。ほんとはもっと後でよかったんだけど、蛍がそんなに早く私が欲しいってゆーなら、いいよ! あげる!」
蛍は彼女の言葉をゆっくり咀嚼し、飲み込み、理解し・・・歓喜に打ち震えた。
「け、っこん・・・」
それは合法的に彼女を束縛できる魔法の言葉。
蛍はもう衝動を抑えきれず、凪に抱きついて自分の所有である証を彼女の柔らかい肌のあちこちにつけ始めた。公然と。
「凪、凪、あぁ、夢みたいだ、凪から言ってくれるなんて・・・ありがとう、大好きだよ。愛してる。結婚しよう。どうか俺だけの物になって、永久に、俺だけのために生きて」
「くすぐったいよー」
凪はくすくす笑って蛍の顔を押しやろうとするが、更に強い力で蛍が抱きしめる。決して、どこにも逃がすまいとするように。
最終的に奔放女は自ら束縛男のお縄についた。
後日、それを不思議に感じた友人が彼女に理由を尋ねると、至極単純な答えが返された。
「だってあんなに愛してくれる人は他にいないでしょ?」
しかし束縛はきつくないのかと重ねて訊くと、彼女はいたずらっ子のようにぺろりと舌を出してみせたのだった。
「束縛されてるのは、私じゃなくて蛍なのよ」