天正七年からの東伯耆三郡騒乱
天正七年三月の上旬、岩倉の里に初春の訪れを伝える梅の開花。南条家家臣の広瀬出羽が岩倉城の城門を叩いた。
「羽衣石城のお館様の口上をお伝え申す。急ぎ開門願いたい!」
天正七年の早春が東伯耆騒乱の始まりであった。
数日後、岩倉の里の山々に梅の花が咲き始めた初春の頃、岩倉城へ急ぐ一騎の騎馬武者が駆け込んだ。
「開門。南条家家臣広瀬出羽でござる。早々に開門願いたい」
大音声に声する武者に門番の次郎衛門が
「これは出羽様ではございませんか。ささお通りなされませ」
「おお、次郎衛久しいの。まずは元清様へ急ぎ目通りさせてくれ」
大広間に通された広瀬出羽は、元清主従に羽衣石城主南条伯耆守元続からの口上を伝えた。
元続からの口上は
「三月の十五日に家臣の総登城を命じる。元清様には、親戚衆として参加してもらいたい」との事であった。
「出羽、兄上も覚悟を決めたようだな」
「先日先代宗元様舎弟の元信・信正・宗信様の長老御三方が宗元様の無念を晴らすためお館様をご説得されました。お館(元続)様は叔父上方の申し出は舎弟元清の同意あっての事と存じます。早々に重臣を集め合議を図りましょう。と仰せられ、某が使い番として早速田尻城の南条元周様・長江城の南条元秋様に出向き最後に岩倉城へ伺いました」
「元周様・元秋様はすべてご存知のようで、某に使いご苦労と仰せでありました。その折に元周様より元清様へ伝言を仰せつかりました」
「登城される折には最小限の護衛で羽衣石城へ登城するように。何分色々不信を抱く輩もおり登城する折の暗殺を警戒し、登城を辞退する者も出るとの事でございます」
元清主従は頷きながら
「それは山田重直と、川口刑部の事だろうな」
「噂によると、昨年末より重直殿は羽衣石館に多くの使い番を忍ばせ、今回の総登城では我が身の暗殺を警戒されておるようで。不測に事態に備え、すでに堤ノ城下は戦支度で八橋城の杉原兵も多く参集しているとの事でござる」
「さすがに用心深い出雲守(重直)の事よ。すでに戦支度とはな」
聞いていた左近が
「杉原播磨守の陰謀に踊らされた出雲守の姿ですな。まったく誰の家臣か判りませぬ」
「出羽殿事の子細は判った。兄上によしなにお伝え願いたい」
広瀬出羽守が去った後で元清主従は、羽衣石城へ元清登城における警備体制を整えた。
元清に付き従い羽衣石城へ出向く従者は(早瀬左近・岡部新十郎・加瀬木元亮と元清親衛隊の岩倉十二勇士)の計十五名とした。いずれも騎馬で出向く事にした。
移動中の杉原配下による襲撃に備え、佐治源太(元徳の舎弟)に情報活動を支持した。羽衣石登城の当日卯の刻(午前6時頃)源太が岩倉城へ駆け込んだ。
「お館様。騎馬での移動は避けて下され。昨日より堤ノ城から杉原配下の甲冑武者数十名が千坂峠に移動を我が手のものが見届けました。騎馬での移動は危険です」
岩倉城を出立の準備で装備を点検していた元清主従は、予期していた杉原勢の動きに緊張が走った。
左近が
「皆の衆、ここが正念場でござる。杉原勢は我が殿を血祭りにあげ、南条勢の気勢を損なうつもりらしい」
緊張の面持ちの元亮も
「我が殿を討てば、南条配下の与力衆も山田重直に流れる。ここが正念場ぞ」
出立前の状況に緊張感が生まれ、十五名の従者はこの時に事の重大さを知った。
元清の傍で身支度の介添えをしていた久にも、夫(元清)に迫る危機を感じた。
そんな状況の中で、元清不在の時の岩倉城代黒松将監国定が
「殿、ここは無理に騎馬で出向かず、小鴨川から天神川に船を進め元周様の田尻城へ出向き、元周様・元秋様と合流され羽衣石城へ登城されるのが得策です」
この国定は、元清より六歳年下ではあるが若くして城代家老国時から家督相続され、今では親父以上に軍師としての才能を発揮していた。
「さすがに我が軍師殿は、知恵者よな。皆の者、早々に船支度をするように」
「また、我の影武者として佐治源太を大将として騎馬武者二十名で千坂峠を越えるように致せ。源太を守る武者の装備は、将監に任せる」と言って元清は源太の手を握った。(元清は源太が母親違いの弟であることは元徳から聞いていたが、源太は兄元徳からこの事実を聞かされていなかった)
指示を受けた源太は、まさかの大役に覚悟を決め
「殿の影武者ですか。ご下命に従い役目を果たしてまいります」と力強く答えた。
兄で高城城主の元亮が
「源太、敵に背を向けず戦って生きて帰って来るのだぞ。屈強の佐治衆も徒歩で連れて行くように致せ」
この時以降佐治源太は、岩倉落城の折まで小鴨左衛門尉元清の影武者を務め佐治三兄弟の役割を果たす。
八代羽衣石城主南条備後守宗元より
「元徳その方らは、南条家を守る影の役目を果たしてほしい。難しい役割を担ってもらうが三兄弟が一致団結して佐治衆を纏め舎弟の元続・元清を補佐してほし」
元徳は、実父宗元の下命を忠実に守り佐治衆を纏め南条家を守って行く。
辰の刻(午前八時)頃に、大手門を陣羽織姿の源太を先頭に騎馬武者十五名と徒歩武者十名が出立した。数刻遅れで、裏門から陣笠姿の元清主従十五名の武者は、小鴨川の船着き場に急いだ。
雪解け水が岩倉川に注ぎ、小鴨川へ流れ天神川に合流しこの時期は水流も激しく三艘の小舟は激流に押し流されるように天神川河口へ向かって下って行った。
元清はふと父宗元が臨終の間際に、元続・元清二人に話した遺命を思い出した。
「命は天にありとも云えども、吾この度の病は杉原の毒害と覚えたり、日頃彼と然したる遺恨も無けれども、吾を害し、その後に汝ら若輩なるに乗じて巧みに毛利家へ讒言し当家を滅ぼし、伯耆一国を領有する陰謀と覚えたり、汝らその様に構えて彼に心を許す事無かれ。時を待って吾の仇を討つべし」
波間に揺れる鴨を見ながら、元清の眼には涙が溢れていた。
一刻ほどして天神川河口を外堀にした、田尻城の外堀船着き場に船が着船した。
「兄上、無事の到着何よりでござる」
遠くから舎弟元秋の甲高い声が聞こえた。元秋と行衛の夫で船越重敬が出迎えた。
「元清殿、行衛が心配症で出迎えるよう最速があってのう。妻は城内で母と朝の支度をしながら皆さまを待っておいでじゃ」
元清・行衛・元秋の三兄弟は、松ヶ崎城内で自然の中で天真爛漫に過ごし、母里の愛情を受けて育った。それに反して兄の南条元続は、幼いころから羽衣石城下の館で南条家嫡男として鬼吉川から嫁いだ母によって厳しく育てられた。
「虎熊、そなたは南条家嫡男であると同時に鬼吉川の血が流れておる」
男勝りの吉川元春の従妹であった。その母も、元続が十歳の時にすでに他界していた。
田尻城を出た一行は、途中長江城(城山城)で元秋配下の甲冑武者が加わり総勢百名で羽衣石城下へ向かった。田尻城からは、長江村・門田村・埴見村を通過して高野宮城を経由し約三里ほどの行程であった。羽衣石城下は、各武将の家臣で溢れていた。
鎌倉時代より約二百年南条家が、本拠にした城下は山裾を広く開拓し、羽衣石川を前面の外堀で守り、羽衣石山の山頂を本丸とした中世特有の典型的な山城を形成していた。各武将・重臣は、城下の大手門を潜り羽衣石館の大広間に参集した。参集した面々の顔には緊張感が漲り、誰も口を堅く閉ざし元続の着座を待った。
一族衆には、南条備前守元信を筆頭に信正・宗信の長老が揃って着座し、その傍に元周・元清・元秋・船越重敬と続く。
与力衆として打吹城主山名小三郎元氏・泊城主川口刑部大夫氏久、客将各として用ケ瀬城主の磯部兵部大夫豊直(元続の義兄)が着座する。毛利家属将各として堤ノ城主山田出雲守重直・松ヶ崎城主小森和泉守方高・由良城主一条清綱が対座した。
南条家重臣および家臣は、塩谷若狭守・広瀬出羽守・進ノ下総・津村長門守・五十島駿河守・豊島土佐守・津村備中守・森下駿河守・山田越中守・一条一之介・由良大蔵・徳吉新三郎・相賀棚之助・津波八郎・大熊修理・山田半之助・相賀彦七・佐伯彦三郎・生駒新蔵・戸田清八・大熊黒正・海老名源八の面々が参加した。
羽衣石館の大広間で衆議が始まる一亥前に、千坂峠では佐治源太一行と杉原の伏兵が一触即発の状況にあった。すでに佐治衆の忍びが、杉原勢を遠巻きに囲んでいた。
騎乗している源太を狙った矢が放たれた瞬間、弓を放った武者に、佐治衆の放った鉄砲が容赦なく連射された。と同時に、あっという間に二~三名の雑兵が切り伏せられた。
杉原の武将各が慌てて
「罠だ、これは変え武者だ。皆の者、引き上げじゃ。急げ・・・」
源太の一行は、杉原の武者を一人生け捕りそれ以上の深追いはしなかった。
源太は、事の子細を羽衣石館の元清には伝えなかった。今、伝えると、南条の荒くれ武者が勢い余って杉原討伐に動きかねない。「先に動いた方が危うい」と思った。
ここは、何事もなかったように振る舞い、急ぎ兵をまとめ岩倉城へ帰城した。源太の処置は、正しかったと言える。
この時点で、杉原の襲撃を羽衣石城へ知らせると参集していた重臣・家臣の暴発は抑える事が出来ず、杉原の反撃で吉川討伐軍の到来が早まっていた。
羽衣石館で、評議が始まる。
皆が揃った頃合いを見て、元続が大広間の上座に着座した。元続の後見役で、長老の元信が評議開催に当たって口上を述べる。
「皆の衆本日は、急遽参集願い感謝致す。今日の評議は、八橋城主杉原播磨守盛重の狼藉に対して南条一族の今後の対応を評議するものである」
と一気に口上した後で舎弟の信正に目線を向ける。
信正が兄元信の催促に
「盛重は、吉川元春公の寵愛を後ろ盾に、八橋郡の領地を未だに明け渡さず勝手放題。元就公の約定では、南条家の領地として東伯耆三郡は治める事になっておる。そればかりか昨年末には、久米郡の福光村に今倉館を城郭として拡張し、小鴨経春と正寿院利庵を城代として岩倉城と打吹城の抑えとしている」
さらに舎弟の宗信が
「先代兄上の亡くなられた行状にも不審な点があり、盛重父子の関与は疑いようがない。このまま盛重の換言で、我らの父祖代々の領地を杉原に奪われる事は、心外である」
「我ら三兄弟は、先代の兄上にあの世で合わせる顔が無い」
聞いていた家臣の中に涙の流す者もある。
塩谷若狭守が、大きく頷きながら
「先君入道宗勝様が、八橋城で饗応後受け帰城後、俄に発病。某は随行しておったので、今思えばあの折に盛重は奸計を図りお館様を・・・。先君の無念を想うと、腹を切っても償えるものではない」
衆議の場は、奸臣杉原討伐の勢いを増す。そんな状況に水を差すように山田重直が
「ご一同の想いは某も同じでござるが、元春公の寵臣播磨守を討てば元春公の討伐は免れまい。南条家謀反として毛利家全軍で攻めかかって来ますぞ」
居並ぶ家臣の反応が、重直の脅しととれる口上で杉原討伐の気勢が削がれた。
元秋の甲高い声が、衆議の場の流れを一蹴した。
「後にも先にも、今盛重の輩を誅殺しなければ百年の後悔となる。元春公が、南条を討伐すれば我らは戦うのみ。なあ兄上」
と言って元清の同意を誘う。
「我らの目的は、あくまで八橋郡の領有の約定を守る事。この一点は譲れない。杉原殿があくまで領地と城を返納せず、交戦を望むのであればやむなしと存ずる」
「某も元清殿の意見に賛同致す。あくまで毛利家への謀反でなく、杉原と南条家の八橋郡領有争いでござる」
と元周が意見をまとめる。
「同意・同意」
と重臣・家臣一同が元周の発言に喝采する。
この展開になっては、毛利家属将の山田出雲守・小森和泉守も同意しないと命の保障がない。お互い場の雰囲気に抗うより、時期を改め、次の一手を考える事が得策と悟った。
衆議の状況を観て元続は
「我らの領地東伯耆三郡は、鎌倉時代より父祖代々命をかけて守り抜いたもの。我が領地を犯すものには徹底的に戦う。毛利公に恩はあるが、この地で杉原の輩にこれ以上勝手放題させるわけにはいかない。犯す者には、徹底抗戦で立ち向かう」
と穏やかな元続が語気を荒げた。
重臣・家臣一同は、当主元続に南条家八代当主の威厳を感じた。誰かが
「お館様の仰せごもっとも!杉原討つべし・・・」
と声が上がった。今まで堪えていた、杉原憎しの反動が一気に表面化した。
衆議の流れが見えたところで、長老の元信が
「皆の衆、お館様の命が下った。各自戦支度を怠りないように致せ。追って命を下す」
と言って衆議の場を取りまとめた。
状況に危機を感じた山田出雲守一行は、家臣の護衛を受けて羽衣石城下の山田屋敷へそそくさと帰って行った。
元清は、叔父の小森和泉守を気づかった。和泉守も南条家中では、毛利家の族称扱いで
重直と同様に微妙な立場であった。
「叔父上。今日は、久しぶりに松ヶ崎城に一泊したいと存ずる。なあ元秋」
聞いていた元周が
「田尻城の妻と行衛も呼ぼう。なあ重敬殿よかろう」
「叔父上、有りがたいな。この時期は素魚と公魚が楽しみでござる」
「義兄、東郷湖のしじみ料理を忘れてもらっては困る」
と元秋が和泉守に聞こえるように話す。
上座からそれとなく聴いていた元続が
「某も、叔父上の松ヶ崎城へぜひ伺いたい。小森の叔父上あっての南条家だからな」
方高は、皆の想いが嬉しかった。
「それでは、皆さまをお迎えする支度もありますので、一足先にこの場を引き揚げます」
と言って溢れる涙を見せない様にその場を去った。
様子を観ていた元清が
「元秋、叔父上が山田出雲守に組しない様頼むぞ。兄上、小森の叔父上を・・・」
「元清、和泉守は短慮な人ではない。今以上に和泉守を頼りにしている。安心せよ」
一抹の不安が残った元清であったが、元続の言葉に不安が打消された。
その夜は、松ヶ崎城に久しぶりに四兄弟が参集して東郷湖の珍味を味わった。この日が後にも先にも、四兄弟で最後の酒宴になるとは誰にも予想出来なかった。
誰が言ったか
「四月の桜が、満開の頃に訪れたかったな。松ヶ崎城の桜は情緒があって良い・・・」
「明日からは、戦支度で忙しくなるな・・・。本当に戦が起きるのか・・」
と言って今宵は更けていった。
播磨の三木城攻略は、城中の兵糧不足で籠城は限界に達していた。城主の別所長治は、毛利の援軍を天正六年三月から待ち続けた。
佐治元徳の姿が、書写山の羽柴秀長の陣にあった。
「元徳。そろそろこの籠城も終盤じゃなも。伯州の南条はどうなった」
秀長が兄秀吉に急かされ、元徳を呼び出していた。
「元清様から昨日連絡が、届きました。三月十五日南条家重臣会議にて、吉川公寵臣杉原播磨守討伐を決着したとのこと。南条伯耆守元続様は、支配の城将へ戦支度を支持されました。また秀長様には、(元清様からの伝言は、これより三年間は吉川勢を東郷湖で止めおきます。因幡攻略をお急ぎ願いたい)との事です」
「元清殿は、律儀なお方よ。これで三木城は落ちた。宇喜多・南条・草刈の国衆が備前・因幡・伯耆で毛利勢を遮断した。半兵衛そろそろ因幡攻めを開始じゃな」
「元徳。安国寺恵瓊には、これからも羽柴と毛利の繋ぎを頼むと申し添え願いたい」
「宇喜多家の家臣となった弥九郎(小西行長)の親父殿も、兄者の推挙で堺の代官となり織田家の経済力を高めておる。小西家は、交易で才を発揮しておるわな」
「秀長殿、我らが戦えるのも南蛮交易の財力があってのもの。財力あっての天下布武でござる」
軍師竹中半兵衛重治も天正七年の春には、医者から余命僅かと知らされていた。
「元徳よ、元清殿の故郷(羽衣の里)を生きている内に出向き、東郷湖の珍味を食したかったが、もう我が余命はその時を待ってくれないようだ。元清殿には、早くから織田方への与力を申し出下され感謝しておる。この後の事は、この書簡に書き留めておいたので必ず本人に手渡し願いたい。くれぐれも他人に渡らぬように」
と言って、元徳の手に書簡を渡し元徳の手を握った。
半兵衛の手は、やせ細り痛々しく顔は頬が欠け、余命僅かと誰もが感じられた。
この後二か月後、五月の陽光を浴びて稀代の軍師半兵衛は、羽柴秀吉の天下を夢見るように息を引き取った。
天正七年三月の東伯耆動乱は、援軍を待つ別所長治の落胆を誘った。毛利の援軍を期待しての籠城であったので、城内の士気は低迷し当主長治の威厳も瓦解した。
東伯耆で毛利と南条一族の攻防が、以後三年に渡り続いたことで因幡・但馬・丹波の毛利勢力は壊滅していった。
杉原播磨守と、南条伯耆守との私闘から始まった東伯耆動乱は、毛利家内での吉川元春の覇権主義を砕き、羽柴秀吉の天下取りに向けた毛利輝元・小早川隆景との蜜月な関係を構築する事になる。
中国地方での吉川元春の権勢は、終焉を迎える事となる。
歴史にもしもは無いが、吉川元春が、東伯耆の動乱を短期に沈静化させていたら、因幡鳥取城の落城は無く、三木城の落城もなかった事だろう。
その結果、元春の勢いは増し、勢いに乗った吉川軍は、武力を以て中国地方を席巻し、覇権を確立した事で主家毛利を超える権勢を誇り、元春は因幡・伯耆・但馬・播磨・丹波五か国の勢力を織田壊滅の兵力として総動員した事だろう。誰も元春の勢いを止める事は出来なかっただろう。
毛利輝元と小早川隆景の二人は、毛利元就の遺訓「天下を競望することなかれ」を堅く守り、覇権を唱える吉川元春との距離は広がっていった。
天正七年からの東伯耆三郡の騒乱により、元清の実弟元秋と妹行衛夫妻が戦乱の中で非業の死を遂げる。岩倉城・羽衣石城の落城で岩倉十二勇士も壮絶な戦死により九死に一生を得た元清夫妻は備前に逃れ宇喜多家臣で幼なじみの小西行長に救われる。