【羽衣の里後編】天正七年から東伯耆(鳥取県中部地方)の東郷湖畔を舞台にした攻防が始まる。吉川勢との死闘は、三年に及び東伯耆三郡は荒れはてた。
天正七年(1579年)東伯耆の動乱は久米郡岩倉郷の小鴨家分裂から始まる。小鴨四朗次郎経春は小鴨家当主小鴨左衛門尉元清と決別し、吉川元春の先鋒として岩倉城と打吹城の分断を図るため社村に今倉城(島田城)を築城する。
小鴨家分裂は八橋城主杉原播磨守盛重の奸計でもあった。元清は家中の杉原盛重憎しを誇張させ家中をまとめ南条家との同盟関係を深める。
天正七年の正月から東伯耆の混乱がはじまる。
十三、【東伯耆での戦乱】
年末から降り続いた雪で、岩倉の里は大雪の中に静かな新年を迎えた。混迷する天正七年(1579年)の静かな幕開けであった。
岩倉城の小鴨館には、大晦日の夕方から高城城主の元亮家族が常若丸(後の南条孫四朗元信)君の養子縁組を祝うため登城していた。元清は元亮夫婦を労うため、家ノ城主岡部新十郎と市場城主早瀬左近夫妻を招き寄せ松ヶ崎城下での思い出話に花を咲かせた。
左近が「殿が小鴨家を相続し、岩倉城主として今年で十七年目になりますな。あの頃は鎌倉時代から続く名家の小鴨家を束ねることが出来るか内心は不安で一杯でした」
元清も深く頷き「某、一人では難しかった。今思えば松ヶ崎城を出立する前、元徳から元亮と新十郎の二人を身辺警護の武者として付けられた。二人の献身的な姿に接して家臣の大切さを教えられた。あれから多くの家臣に守られ今日まで来た。三人にはこれからも一緒に我らを支えてもらいたい」
新十郎が「殿の善政で、小鴨親戚衆にも不平を言いだすお方も無く小鴨家中はよく纏まっております。ご親戚筆頭の小鴨四朗次郎様だけが、殿の善政を快く思ってないようで困ったものです」
南条左衛門尉元清が、南条家から十三歳で小鴨家当主に迎えられた時からこの両者の確執は始まっていた。小鴨四朗次郎経春は、伯父の当主小鴨元伴に子供が無いので当然正統な小鴨家当主は自分だと理解し、周りの側近もそう思っていた。四朗次郎は、伯父の元伴が東伯耆の覇者南条備後守宗勝に屈した結果が招いた惨劇と理解した。
四朗次郎には、鎌倉時代からの小鴨家と南条家の東伯耆三郡を廻った確執が脈々と受け続がれていた。幼い頃から小鴨家当主として、東伯耆での覇権を南条家から奪い返す夢を抱いていた。そんな四朗次郎を叔父の元伴は小鴨家を滅ぼす元凶と考え、早い一手を打った。それが南条宗勝の諸子三郎(元服して名を南条左衛門尉元清と改めた)との養子縁組であった。元伴は南条家との融和による東伯耆三郡の安定化をねらい、東伯耆の覇者南条家を支える小鴨家を目指した。そんな四朗次郎の不満を西伯耆の覇者杉原播磨守盛重は見逃さなかった。盛重は着々と東伯耆の南条家切り崩しを図っていた。男盛りを迎えた四朗次郎を唆す事は、盛重のお家芸であった。
盛重は昨年の暮れに、四朗次郎を八橋城に招き
「小鴨家当主は貴殿が正統。吉川元春様も経春殿の武勇を高く評価され、いずれは打吹城を与え久米郡を治めてほしいと言っておられる。泊城主の我が婿川口刑部大夫氏久殿も貴殿を支援すると申し出があった。もう南条家を恐れる必要はない。想うがままにされるが良い」元春からのお墨付きを得た四朗次郎は、帰りの道中で小鴨元清との決別を決めた。杉原盛重の南条家弱体化の陰謀は、この頃から密かに進められていた。何事も蟻の一穴から土台が崩れるように、四朗次郎の謀反は小鴨家にとって元清を悩ます最大の元凶であった。
正月五日に岩倉城では年賀の家臣の総登城があった。年始にあたり当主元清より家臣一同に年始の一言が伝達された。城内大広間には各出城の城主・重臣および親戚衆とその重臣一同が集まり元清の言葉に集中した。
「今年の年始に当たり皆に申し述べる。但馬では織田の攻勢で但馬守護山名祐豊様が羽柴秀長殿に全面降伏された。荒木摂津守村重殿の謀反と三木城別所長治殿の反乱も勢いが無く播磨と摂津は何れ織田様によって鎮圧される。いよいよ織田様の因幡進攻が今年から始まる。皆も気にはなっておると思うが小鴨家は南条家と行動を共にする。これが先代の父上元伴様の遺訓でもある。同心できぬ者は早々にこの岩倉の里を立ち去っても構わぬ」
元清の言葉には勢いが感じられた。聴いていた諸将・重臣・親戚衆は元清の必勝の弁舌に確信を得た。
筆頭家老の永原玄蕃惟定が
「先代の遺訓に背くことなく小鴨家は、南条家と一体で東伯耆の領地を守ります。小鴨家の武士魂を皆も心得ております」
小鴨家家老で軍師の黒松将監国定が
「昨年より羽柴様からの兵糧・弾薬が密かに贈られ籠城三年分は岩倉城二の丸倉庫に確保しております。いずれ因幡は織田の勢力下に蹂躙されます。われらはいち早く織田方への与力を決め南条家を支え東伯耆の覇権を奸臣杉原の手から守る必要があります」
聴いていた一同が黒松の口上でどっと驚きの声をあげた。一兵卒は初めて聞く話ではあったが、久米郡の領地を分かち合う八橋城主杉原盛重の横暴には不満が溜った居た。
代々小鴨家家臣で岩倉十二勇士の尾崎三郎次郎が
「毛利の奸臣杉原の奸計にはまり領地を失うよりは、我ら小鴨武士の意地を通し父祖代々の領地を守る事が大事。我らの想いは殿の想いと同じでござる」
一同が喝采し「拙者も憎い杉原の下では働けませぬ」と誰かが発する声に
「南条家と一緒に奸臣杉原を討ちましょうぞ」と成田加助吉映が声を上げる。
小鴨家の家臣一同の心は、この時点で一体に成り反毛利で決する事となった。
吉川元春の誤算は、西伯耆の拠点尾高城を吉川家猛将杉原盛重に与えた事から初っていた。盛重は、尾高城主行松正盛を暗殺し正盛の妻を後妻に迎え尾高城を乗っ取った。
盛重は、正盛の嫡子が元服した時に尾高城を返還する約定を無視し、盛重の嫡男元盛に尾高城を与えた。自身は、久米郡の八橋城に入り東伯耆の攻略に当たった。
伯耆武者は、杉原の家臣の狼藉に癖壁していた。当主元清が反毛利・反吉川を決める事を心から望んでいた。
一同の視線は、親戚衆筆頭小鴨四朗次郎経春の挙動に注がれた。さすが小鴨家猛将の四朗次郎は衆意一致した状況を恐れず
「某は南条家の属将にあらず。毛利家属将で尼子討伐も戦って参った。今更吉川元春様に叛旗を立てるなど出来ませぬ。某は本日をもって小鴨家の別家を立てる」と言い残し年賀の席を退出した。
「己四朗次郎この期に及んで」と新十郎と元亮・左近が追っ手をしかけようとする。
一同騒然となって血気にはやったが、元清が大声を上げ一喝する
「皆の者静まれ。四朗次郎殿は態度を鮮明にされた。天晴な武者ではないか。今ここで四朗次郎を打ってしまうのは簡単だが、我らの行動は四朗次郎殿を城内に招き暗殺したとして敵方の大義に依る事になる。逃せてやれ」
元清の言葉を聴き、四朗次郎を慕って数名の親戚衆も同調し席を立った。元清のこの行動は、妻久の祖父尼子新宮党当主国久と実父尼子誠久が年始の登城で月山富田城出向いた時に当主尼子晴久より暗殺された事が後々晴久の評価を貶めた事を意識した。
「同じ間違いを起こしてはならぬ。去る者は追わずじゃ」しかし、ここで四朗次郎を誅殺していなかった事がこの後岩倉城の落城を早める事になる。この時点では誰にも予見できなかった。
四朗次郎も武者であったが、元清もまた清廉潔白な性格を持った武将であった。
それから数日して、高城城主加瀬木元亮からの早馬が岩倉城に入った。
使番は佐治衆の源太であった。
「昨日、高城城下にて不審な者を捕縛し密書を手に入れました。元亮様より急ぎ岩倉の殿へお知らせするようにとの事で参りました」密書を元清の手に渡す。
密書は、杉原盛重から小鴨四朗次郎・正受院西堂利安の両名宛であった。内容は
「三月の雪解けを待って、八橋城と堤ノ城の出城として社村の島田館を国府川の水を外堀に引き込み、大掛かりな城として改築し岩倉城と打吹城を牽制するように元春様より指示があった。工事費と人はこちらで差配する」との事であった。
先手を打ってきたのは、老練な武将の杉原盛重であった。島田館を本格的な城郭に改築することで岩倉城と打吹城の分断する事が容易となる。まさしく痛恨の一撃とはこの一手であった。小鴨の各城は分断され身動きが取れなくなる。
危機を感じた元清主従は、密書を手に入れた翌日に小鴨川を下り天神川河口の田尻城主元周を訪ね南条家長老方々への根回しに奔走した。
長老筆頭格の南条信正・宗信の両名からは
「雪解けを待たず羽衣石城にて杉原討伐を決める。あくまで毛利への反旗でなく奸臣杉原盛重を討つ事で衆議を一決させる事としよう」
「まずは南条・杉原の騒乱を起こして毛利本家へ申し開きする」
「吉川元春様が杉原を守るようであれば、我らは毛利と絶縁するしかない」
筆頭家老で元続の後見人である信正(先代羽衣石城主宗元の舎弟)の老練な知恵であった。毛利家に対する信義を思えば毛利宗家への反旗でなく特定の個人との諍いとした。
杉原摂津守盛重の伯耆での目に余る素行は、伯耆衆を追い詰めていた。
「お館様には拙者から説明し承諾を得る。吉川が杉原を守るのであれば織田の先鋒となり毛利と戦うしかない」
信正の言動に舎弟の宗信が
「杉原と命脈を通じている山田重直も、態度を鮮明にするであろうな」
「誰が見方で敵かはっきりさせる時が来たという事よ」
信正が元周・元清主従にため息交じりの声で呟く。
小鴨家中を織田与力でまとめた左衛門尉元清は、兄南条伯耆守元続を盟主に羽柴秀吉の因幡攻略を助成するため吉川元春の大軍を東郷湖畔で留める。攻防は熾烈を極め、伯父の南条備前守信正と南条右衛門尉元秋・船越摂津守重敬夫妻(行衛姫)が戦乱の中で非業の死を迎える。そんな中、天正十年(1582年)の本能寺の変を迎える。織田方へ与力した南条兄弟の運命やいかに。