【羽衣の里】前篇完結のあらすじ
幼少期を東伯耆の国(現在の鳥取県湯梨浜町)松ヶ崎城下東郷湖畔で過ごし戦国騒乱の戦国時代を生き抜く、南条左衛門尉元清の六十四年の生涯。その前篇は元清と正妻久の縁を通じて、毛利と尼子の騒乱の中で徐々に反毛利への意志を固ていく姿を描いた。
【羽衣の里】前篇のあらすじ
天文十八年(千五百四十九年)東伯耆の里(現在の鳥取県湯梨浜町)松ヶ崎城で生を受けた幼名三郎(後の南条左衛門尉元清)は東郷湖畔にて同郷の童と天真爛漫な子供時代を過ごす。
東郷湖の湖水を外堀に引き込んだ松ヶ崎城は湖面に聳え、天守からの眺めは西に伯耆大山、東に中国山脈、北には日本海の海岸線が見えた。
十二歳の元服前に堺へ旅立ち、因幡守護代武田高信と義兄弟の契りを結び堺では小西兄弟・竹中半兵衛と出会い日ノ本の広さと南蛮交易の重要さを知る。義兄の佐治元徳から世の中の動きを聴き、東伯耆の戦乱を予感する。
堺への旅立ちの中、松ヶ崎城下の東郷湖湖畔で愛らしい少女、久と再会する。
久の養父平助より、久は赤子で新宮の燕と刺繍された絹の産着に包まれ、松ヶ崎神社の境内に捨てられていたと聴き、三郎(後の元清)と四朗(後の元秋)は驚いた。後に、南条兵庫頭元周より久は尼子新宮党の乱で憤死した、尼子新宮党嫡子尼子誠久の実の娘であることを告げられる。
永禄五年(千五百六十二年)十三歳で元服した三郎は、自分の実父が東伯耆の覇者羽衣石城主南条備後守宗元と知る。松ヶ崎城主小森方高の主君でもあった。東伯耆の国では鎌倉時代から続く伯耆守護山名氏の勢力が衰退し、河村郡の地頭南条家と久米郡の地頭小鴨家がお互いの領域を侵さず支え合った。両勢力の均衡状態を維持し、小鴨家の安泰を願うため岩倉城主小鴨元伴は、南条宗元の諸子三郎を養子に迎える事を決断をする。
三郎は、元服し名を小鴨左衛門尉元清と改め、拠を河村郡松ヶ崎城から久米郡岩倉城へ移した。その時三郎に従う松ヶ崎城下の同輩達がいた。(後の岩倉十二勇士)
十五歳で小鴨家の家督を継いだ元清は、松ヶ崎の久を岩倉城へ生涯の伴侶として呼び寄せる。しかし東伯耆には、戦乱の嵐が迫って来ていた。防長二か国の太守毛利元就が、雲州の月山富田城を本拠とする中国の雄尼子義久攻めを行うため、伯耆の諸将へ出陣令を発した。
尼子と毛利が雌雄を決する戦いは激烈極めたが、永禄九年(千五百六十六年)尼子義久が守る難攻不落の月山富田城は、降伏開城し中国八か国を治めた山陰の雄尼子氏は滅んだ。
ひと時の平和が岩倉の里にも訪れる。
しかしこの頃、新興勢力織田上総介信長が足利義昭を伴ない上洛し、中央での覇権を着々と固めていた。その織田勢力下に、元尼子の旧家臣が尼子再興のため集結した。
山中鹿之助幸盛が、新宮党の乱で京都に逃れた尼子新宮党遺児の孫四朗(還俗し尼子孫四朗勝久と名のる)を擁立し、反毛利の盟主に掲げて尼子再興を図る騒乱を仕掛ける。
この勝久の蜂起により、東伯耆と因幡は騒乱に巻き込まれ、因幡守護代武田高信は無念の生涯を遂げる。また勝久の妹久と夫元清は、毛利・尼子の間でさらに苦しい立場に立たされる。
天正六年(千五百七十七年)七月の上月城の戦いで、義兄尼子勝久と嫡子豊若丸(当時五歳)親子の自刃と、高梁川での山中鹿之助の誅殺で尼子再興の夢は絶たれた。
反毛利を固める南条一族と、伯耆吉川勢力の属将杉原播磨守盛重の確執が表面化してきた。そんな中で、杉原領八橋郡と領地を接する小鴨家当主元清の暗殺事件が発生した。
また時を同じくして、杉原盛重から八橋城にて饗応を受けた宗元が、羽衣石館に帰還し突然吐血して生涯を終えた。南条家中では、杉原盛重の毒殺を疑い杉原討伐で南条家中が動揺した。
次第に混迷の度合いを深める東伯耆に、新たな混乱の勢力が加わろうとしていた。
中央の覇者、織田軍中国方面司令官羽柴秀吉の先鋒が、播磨攻略を進め隣国の因幡に迫っていた。
吉川家属将杉原盛重との私闘と、織田と毛利の中国地方での覇権争いが新たに加わり東伯耆の情勢は混沌とした情勢になってきた。
いち早く織田方への与力を決めた、小鴨元清と南条元周は東伯耆の覇者南条伯耆守元続を織田方への取り込みに成功した。
激動の騒乱が始まる天正七年(千五百七十九年)を迎えようとしていた。
前篇完結に続きいよいよ東伯耆の動乱(天正七年~天正十年)が始まる。
中央では本能寺の変が起り、中央の覇権を確立したかに思えた織田信長があっけなく生涯を終えた。南条兄弟の思惑は、信長の死を迎え絶体絶命の危機を迎える。そんな中で元清を支える妻久の献身的な姿があった。