吉川元長と安国寺恵瓊・佐治元徳は小早川隆景の居城沼田郡新高山城に出向いた。隆景は誰が天下の主に成れば、毛利家が安泰かを聴いた。三人の見解は「羽柴秀吉」で一致した。水面下で羽柴秀吉と隆景の連携が進む。
毛利家安泰のため天下の主を誰にするか、四人は密議した。
四人の共通認識は「織田信長では毛利家安泰は難しい。羽柴秀吉であれば毛利も栄え天下も統一できる」との認識で一致した。京都の吉田兼見からの情報を元徳から聴衆した智将隆景・毛利家軍師恵瓊と元長は「信長暗殺」を決める。
元清主従が田尻城で懇親していた同じ日の夜、安芸沼田郡の小早川隆景の居城には吉川元長・安国寺恵瓊・佐治元徳の三人が参集していた。
小早川隆景は幼い頃から四書五経に通じ、毛利の智将の名にふさわしい知略の持ち主であった。この年、隆景四十六歳の働き盛りであった。
隆景は、毛利元就と正室妙玖(吉川国経の娘)の三男として生まれ、兄隆元と元春を支えた。八歳で竹原小早川興景の養子となり、竹原小早川家の当主となる。
その後、沼田小早川家当主小早川正平の娘を正室に迎え、義兄繁平から家督を譲り受け小早川水軍の総帥となった。隆景が瀬戸内海の水軍を統率することで、隆景自身にも大きな変化があった。
隆景は、海洋進出にこの頃から興味を持った。領地の境が無い海洋に接する事で、自身の性格・考え方・物の見方・価値観が大きく変わった。
兄元春との考え方の違いがこの頃は埋める事が出来ない程、大きくなっていった。
「兄じゃの思考では、毛利家安泰は無い」と事ごとに恵瓊に愚痴っていた。
その初戦が、備中高梁川での山中鹿之助幸盛誅殺事件でもあった。この事件で明らかに輝元・隆景の二人は面目を失った。
何事も、兄吉川元春の了承無には、事が進まない体制を表面化させてしまった。陸の猛将・海洋の智将では物の見方にも大きな隔たりが生まれた。
この頃の隆景には、固定概念が無い。良い物は素直に受容し活用する。その点は秀吉と考え方が同じであった。
元春は、中国地方での覇権を意識し、武将としての尊厳を大切にした。将来この点で両者の命運は、大きく分かれる。それは後の事。
新高山城の隆景の元に集った三人は、壮大な密謀を謀っていた。
安国寺恵瓊が、早くから信長の生涯を予見した話は有名であったが、恵瓊自身が謀事を遂行する中心人物となっていた。有言実行とはこの事である。
隆景・恵瓊・元長の三人の共通の目標は、二十六歳の毛利輝元を支え毛利家の所領を守るためには、誰を天下の主に据えるか。残念ながら輝元には、その器量がなかった。
四人の共通認識は「織田信長では、毛利家の行く末は難しい」で固まっていた。
そこに吉田兼見の元へ早くから出入りしている、佐治元徳の諜報活動が四人の密謀を実行して行く重要な役目となった。
四人の密謀とは「信長暗殺であった」信長に代わる人物については、恵瓊は早くから隆景に羽柴秀吉を推挙していた。
恵瓊は、羽柴秀吉の軍師半兵衛・官兵衛とも早くから情報交換し「信長の恐怖政治では、日本の国は崩壊する」との見解で一致していた。
恵瓊の予言は、このような背景から生まれたものであった。
後に秀吉が天下人になった最大の功労者は、小早川隆景と安国寺恵瓊と言っても言い過ぎでは無かった。それは後の事。
新高山城の一室に集まった隆景・恵瓊・元長は、お産後の薬売り佐治元徳から京都の情勢を聴いた。
元徳の話が始まる。
「先月の二十日に、明智様と羽柴様ご両名が、播州有岡城に籠る荒木摂津守村重様を説得に出向かれました。村重様の嫡子長五郎村安様は、明智様の娘婿です。御二方は、一昼夜有岡城で村重様の説得を試みましたが、村重様の信長様への畏怖は収まらず、懐柔は不調に終わりました。光秀様はその後、娘婿村安様と二人きりでお会いになり、娘の離縁を承諾させ丹波の坂本城へ連れ帰ったとの事です。その折の逸話が(村重殿の無念は、何れ晴らすことができる。村安殿は、拙者と一緒に城を出てしばし丹波に忍んでおれ)と申され、村安様をお誘いしたとの事です」
「村安様は、(義父上、我らの無念は、何れ義父上が晴らして下さるものと信じております。今、我が父を見捨て、この城を出るなど武門が立ちませぬ)と申され拒絶したとの事です。村安様には、この勝敗の行方が見えているようです」
聴いていた隆景が
「恵瓊。そちは村重殿をどう唆したのじゃ。毛利の援軍を送ると言ったのか」
「隆景様。それは当たり前の話でしょう。毛利と荒木で織田を挟撃し、摂津本願寺を支援すれば信長様も秀吉殿も苦境に立ちます。そこで我らを高く売りつけます」
元長が
「恵瓊殿には、初めから援軍を送るつもりはなかったのですね。拙者にはできぬ」
「元長殿。村重殿が、今後も織田の先鋒を務めると毛利は危い。明智・羽柴・荒木の三勢力が競合し信長様に認めてもらうため、死に物狂いで三方から攻め懸ってきます。秀吉殿の好敵手は、早めに摘んでおくのがよろしいかと思った次第ですよ」
「恵瓊様。官兵衛様には、その事はお話しされておられるのですか」
恵瓊が元徳を見つめ
「元徳よ、今の時点で官兵衛殿に言えるわけがなかろう。拙者が水面下で動いている事を知られると、将来の禍に成る。この件は、毛利が荒木を調略しただけの事じゃ」
「それで合点が行きました。明智様と秀吉様の説得が不調に終わった後で、小寺官兵衛殿が単身で有岡城へ出向かれたようです」
元徳の話で、恵瓊の顔色が変わった。
「これは一大事。官兵衛殿の命が危ないわ。元徳に急ぎ有岡城へ出向いてもらわねば」
隆景も
「官兵衛の仕える、小寺政職から拙者宛に、毛利家への与力申し入れが来たばかりじゃ。恵瓊の申す通り、官兵衛の命が危ないな。しかし政職は、官兵衛を村重説得に出向かせながら、その裏で毛利与力の打診とはあきれ果てた領主じゃ。官兵衛を死なせては、毛利家にとって大きな損失じゃ。元徳すまぬが、明日早く毛利の使いで有岡城へ出向いてくれ」
元長が、政職の所業に呆れたように
「叔父上。播磨の諸将は、使えませぬな。但馬の山名祐豊と、因幡の山名豊国も評判が良くない。毛利が命を懸けて救う価値があるかどうか疑問ですぞ」
恵瓊も頷くように
「羽柴方へ与力する東伯耆南条兄弟や、亀井新十郎玆矩・磯部大夫とは雲泥の差よ。ところで元長殿。南条兄弟にお会いに成られましたか」
「叔父上・恵瓊殿。南条兄弟と元周殿はすでに織田与力を決め、羽柴秀長より兵糧弾薬を補充してもらっております。小鴨元清殿へは、叔父上と恵瓊殿の考えを説明しました」
隆景と恵瓊が
「元清殿は、理解が早い男。いずれ我らと一緒に、羽柴殿の天下取りを手伝ってもらわねばならぬ同志よ。それまでは、東伯耆で兄上を止めておいてもらわねばならぬ」
恵瓊が頷き、元長に
「元春様が戦線を拡大する程、毛利家の危機が拡大します。元長殿。御父上の覇権主義を諌めて下されよ。元徳も、そなたの義理の兄弟(南条兄弟)への連携よろしく頼む」
四人の密談は、夜遅くまで続き、途中で酒を交え情報交換は、京都の色町(河原町)の話にまで及んだ。類は累を呼ぶとはよく言ったもので、隆景の元にはこの三人に加え、秀吉の天下取り後も智将が多く参集した。隆景の知的で、開放的な性格が魅力的であったのだろう。
早くから羽柴秀吉の軍師半兵衛・官兵衛と接していた安国寺恵瓊は「信長は高転びに転びける。されど秀吉はさにあらず」と早くから予言していた。その十年後に本能寺の変で信長は非業の死を遂げる。後に秀吉の天下となり、小早川隆景は筑前・筑後・備前で三十七万石の太守となり、恵瓊も伊予で五万石の大名となった。この事からも秀吉の天下取りに貢献した事が伺われる。