毛利への敵対を決めた元清主従が、播磨三木城の羽柴本陣を訪ねる。竹中半兵衛は元清が幼い頃に出会った活気ある面影はなく、顔色は優れなかった。軍師半兵衛の健康に不安を感じる元清主従であった。
竹中半兵衛との十七年ぶりの再会。三木城を囲む羽柴陣営の勢いに、小鴨元清と南条元周は毛利への叛旗を固める。天正六年(千五百七十八年)元清二十九歳。人生の正念場を迎える前夜であった。
十.【因州の混乱と播磨上月城の攻防】
南条入道宗勝急死による、東伯耆諸将の動揺を抑えるため、羽衣石九代城主南条伯耆守元続は、十月十四日付けの起請文を吉川元春・元長宛に送付した。
家臣団は、別に十四名の連署にて起請文を作成し、元続の家督相続を懇願した。
(南条信正他十四名とは、山田出雲守重直・一条市介清綱・油木々工助清次・山田久助久清・津村新兵衛尉基信・南条彦二郎清綱・鳥羽安芸守久友・中村八郎左衛門・橋本大蔵大輔景正・豊嶋宗介隆・春日彌兵衛尉定信・泉養軒長清・小鴨左京介経基・小森民部方高であった)
葬儀は、十月十七日に城下の南条家菩提寺、景宗寺にて厳かに執り行われた。
吉川元春・元長父子は、南条一族と杉原の私怨による伯耆の混乱を恐れ、十月十七日の返書にて元続の家督相続を追認した。
表面上は事態を収拾したように見えたが、南条家中は杉原盛重誅殺の勢いが高まった。
宗勝の七七忌(四十九日)を迎え景宗寺にて法要がとり行われ、元清主従は、久を伴い仏前に焼香を立てた。
元続が、二人きりで話したいと別室に元清を誘った。
「元清、四十九日の忌中を終えたので、親父殿の遺言を伝えたい。父の死の直前に渡されたもの」
そう言って懐から取り出した文を、元清に渡した。
文を開いて読んでいた元清に、涙が溢れた。
(遺言:元続殿、元清殿へ 父の死を悲しまない事。先日元続が、福山玆正殿を連れて参り、今後の南条家の行く末を私に語った。私は聴いていて憤慨し、その場で元続と玆正を大声で罵った。しばらくして冷静になり、玆正殿の申した事を再考すると、東伯耆の情勢分析は明瞭で、元続と玆正殿の申す通りと得心した。杉原と山田重直は、元続の若輩を良い事に、吉川元春様へ諫言を擁して、南条家の領地を奪うか、南条家自体を滅ぼす行動を採るであろう。今は、南条家中と周辺の領主を一つにする大義名分が必要と考えた。私の一命で、家中を一つにまとめてほしい。我が亡き後は、兄弟で力を合わせ、今後の苦難を乗り越えてほしい。 南無八幡大菩薩 十月十日入道宗勝 花押)と結ばれていた。
読み終えた元清が
「兄上、親父は死に場所を求め、我らに大きな遺訓を残してくれた」
「父から死の直前に、四十九日後に開封するようにと私に渡されたもの。この文からすると、父は杉原の屋敷を出た直後に、自身で砒素を飲んだものと推察される」
「家督を守るとは実に難しき事よ。なあ元清」
宗勝の覚悟を知った二人は、お互いの手を握り、宗勝を懐かしんだ。
(宗勝の急死を廻っては、杉原盛重の暗殺説が資料に見うけられるが、高齢の宗勝を暗殺し、南条家中が一つにまとまる方が盛重にとっては脅威。思慮深い盛重がわざわざ、火種を大きくする筈がない。盛重の想定を超えた宗勝の決断実行であった)
「兄上、今はまだ兵を挙げる時期ではありませぬ。お互いの家中をまとめ、羽柴殿と連携し必ず、杉原を討ちましょう。これから山陰は、冬を迎え、当面戦はありません」
「織田様の勢いは留まるところを知らぬ、昨日、元徳から上方の情勢を聴いた。明日には岩倉へ出向くように言っておった。小鴨衆の結束をよろしく頼む」
二人は、互いの手を固く握りしめた。
翌朝、母里と元続に見送られ、元清主従と久は、岩倉城へ帰って行った。
打吹城下の茶店で、元清の一行を待っていた元徳か
「左近殿、元清様」と呼び止めた。一行は足を止め、元徳の待つ茶店で一服した。
打吹城は、竹田川と小鴨川の交差する地形を天然の外堀に活用した。城下には水路を巡らしたことで、水運に恵まれた商業の城下町として栄えた。商人の交流が多く、全国の色々な情報が持ち込まれた。薬売りの元徳もその中で暗躍していた。(打吹城下にも、佐治衆が営む薬問屋があった)
「殿、昨日は大殿の七七忌お疲れ様でした」
「父の葬儀では、佐治谷衆に世話になった。何事もなく、葬儀と七七忌を終え安堵しておる」
「殿、事態は水面下で動いております。詳細はお館にて」と言って元清主従に同道した。
打吹城下から美作街道に入るあたりで、黒松と杉森の近衛隊が元清主従を待っていた。その後、元清主従と元徳は、打吹城下から近衛隊に守られながら岩倉城へ帰城した。
主従は、昼食を食した後に元清の書斎に集まり、元徳の話を聴いた。
元清が上座に着座し、佐治元徳・永原玄蕃・黒松将監・早瀬左近・加瀬木元亮・岡部新十郎と近衛隊長の杉原善右衛門と北村甚九郎が加わった。
元徳が、上方の情勢を伝える。
「今年五月二十一日、織田・徳川連合軍と武田勝頼率いる甲州国衆が長篠で戦いました。織田方三万八千に対し、武田方は、一万五千。織田方は、武田騎馬隊の突撃を恐れ、周囲に馬防柵を三段構えて守りを固めました。織田方は、兵を林に隠しお互いの兵力均衡を装ったようです。勝頼様は、母を幼少の頃無くし、諏訪家預かりの身で武田家嫡流ではなかったためか、思慮深く用心深い性格のようです。武田の諜報に不審を想った勝頼は、長篠城攻略のみを主張したようです」
主従は、意外な話に驚く。伝え話の
「活気盛んな、二十九歳の勝頼が、老臣の反対を押し切り、猪突猛進の命を下した」と聴いていた。
「事の真相はいずれ判りますが、山の民情報では、信玄公からの勇猛果敢な老臣と、勝頼時代を迎えた、経済主導派の勝頼側近との軋轢があったようです」
「領地拡大主義と、商い主導主義の摩擦です。勝頼様は、信長様の商いを基本にした領国経営を目指されていたようです。しかし武田家には、信玄公からの武勇を貴ぶ老臣が多く、商いで領国経営することを蔑む家臣が多かったのです。織田・徳川連合軍の誘因の策に乗せられ、勇猛果敢に全軍で馬防柵に何度も突撃をくり返し、八時間の死闘を演じたのです。三段構えの柵を越えた頃には、信玄公から仕えた勇将は、殆んど討ち死にしたようです。信長様の用意した鉄砲三千丁、三段構え撃ちは武田騎馬隊の前では、完全に機能しなかったようです」
「鉄砲足軽の夜話によると、武田騎馬隊の迫りくる速さと、騎馬隊の武者姿と雄叫びに手が震え、引き金が引けなかった者が多かったとの事。五千騎の騎馬隊が、一斉に攻め懸って来る恐怖は、構えて待つ側にとっても恐ろしい光景だったようです」
(一秒間に、約十メートルの速さで、騎馬武者五千騎が一糸乱れず死に物狂いで、雄叫びし迫ってくる状況は、確かに恐怖を感じ想像を絶するものがある)
聴いていた元清主従も
「鉄砲三千丁で段構えつるべ打ちも凄いが、勇猛果敢で知られる武田騎馬隊の五千騎突撃にも圧倒される。そんな戦いに勝利する、信長様の天下布武は本物よ。毛利では太刀打ちは出来ぬ」
さらに元徳の話は続く
「七月には、越前一向一揆を鎮圧し、越前は信長様の領地となりました。先月二十日には、播磨国衆の赤松氏・小寺氏・別所氏の三家が上洛し信長様の謁見を済ませたとの事。また同日の夕方には、備前浦上遠江守宗景様・但馬守護山名祐豊様も謁見され、織田方への忠誠を誓われたとの情報が入っております」
「今まで毛利へ靡いていた、播磨・但馬・備前の有力国衆が、長篠の戦いで織田の武勇を聴き明日は、我が身と恐れたのでしょう。毛利も織田の情勢を様子見で、当面はお互い敵対しないよう接すると想われます」
「将監殿、その通りでござる。毛利は、信長様に都度但馬・因幡の状況を報告し、伺いを立てています。これは、羽柴様の軍師竹中様からの情報です
一息置いて元徳の話は続く。
「この度、正親町天皇より信長様は、右大将を授かりました。織田家の家督は、嫡男信忠様に譲り、ご自身は近江の国安土に、天下普請の城を造り移られるとの事。上方情報は以上です」
「当面は模様眺めで、今後の因幡・播磨情勢と畿内の情勢次第と言うわけか。備前の浦上宗景殿が反 毛利へ転身したことは、備後・美作国にも影響するな」
「殿、久米郡は、美作街道が通じておりますので、街道の要所を固める必要があります」
「確かに左近の申す通り、永原・黒松の守る亀井城と湯関城は、特に備えを万全にするように致せ」
と指示した。
「また、犬狭峠には関所を設け、領内に入る者を厳重に取り締まる様に致せ」と付け加えた。元徳が
「殿、打吹城下で気になる事を聞きました。この数か月、米の相場が上がっているようです。どうも来年当り因幡・播磨・但馬での騒乱が激しく成る事を予想した、各領主が籠城米を確保するため買占めに走っているようです。どこの鍛冶屋も忙しく、岩倉の里も兵糧米確保が急がれます。鉄砲弾薬の補充も、早めの対応が肝要です」と申し添えた。
「毛利が、防長二国で満足すれば、信長公も毛利を家臣の列に加えるだろう。しかし毛利には、猛将吉川元春様が居られる。元春様は、信長公には臣従しないだろう。吉川の領地はほとんど無くなるからな。当主毛利輝元様には、織田と戦う気力は無い」
左近が
「当面は、信長様のご不興を買わない様に、毛利与力を装うしかありませぬ。我らは、領内をしっかり固めましょう」と言って元清の賛同を得た。
書斎で一刻ほど評議をした後、久と夏が用意した夕げに皆を招いた。
黒松が
「今日は、皆様に我が家臣の仕留めた鹿を馳走致します。鹿肉は、にんにく醤油で焼いた物と干し肉にした物を用意しました。酒は、打吹の造り酒屋の清酒です。どうぞご賞味下さい」と言って予め、夏にお願いし各人の膳に据えていた。
「国定殿は若いのに中々気が利く。親父殿は無愛想だったが、どなたに似られたのか」と左近が言ってからかった。
「我が畑で採れた山葵もお持ちしております。黒松殿の鹿肉と一緒にご賞味下さい」
玄蕃が、言葉を添えた。
「今日は、久しぶりに元徳の話を聴いて我が耳も生き返った。やはり情報が命よ。なあ玄蕃、国定」と言って小鴨家代々の重臣に声をかけた。聴いていた甚九郎が
「殿、我ら下々の者でも、元徳殿の話を聴けば織田様への加勢が大事と判ります」と目を輝かせた。
元清が、元服して小鴨家に養子に入り、岩倉城に来てから十三年が経過していた。
天正三年の年末は、警戒体制の中無事に終え、天正四年(千五百七十六年)の正月を迎えた。正月早々に「鵯尾城の武田高信殿、但馬塩谷高清殿の居城芦屋城へ逃れる」との情報が入って来た。
因幡武田家の本拠、鵯尾城を、嫡子徳吉丸の家督相続承認の見返りに豊国が奪ったため、身の危険を察した高信は密かに但馬の芦屋城へ逃れた。
高信は、元亀二年(千五百七十一年)の但馬芦屋城攻めで、二人の息子(嫡男又四朗と二男与十郎)を失った。この時の敵将が、皮肉にも従弟の塩谷高清であった。高清に命乞いをしなければならない程、切羽詰まった状況となっていた。
塩谷高清は、吉川元春に高信助命嘆願の書を送ったが、元春はこの嘆願を放置した。
身体極まった高信は、昨年来からの福山玆正の提案を受止め、織田方への内応を受託し毛利と決別した。しかし高信の行動は、山名豊国の間者によって把握されていた。
桜の花が咲く四月に入り、高信から織田信長宛ての密書が、豊国の手に渡った。
豊国は、芦屋城に追っ手を仕向け、五月に入って捕縛し、大義寺にて即日切腹を強要。高信の死は闇に葬られ、元清に伝わったのは六月に入ってからであった。
元徳からの書状で事の経緯を知った元清は、吉川元春の冷徹さに高信の無念を想い憤慨した。
「左近、我が義兄高信殿の無念を想うと、胸がつぶれそうじゃ。毛利の盾となって因幡を治めて来た忠義の士に対し、この仕打は納得が行かぬ。今に見て居れ、山狐の元春」
「殿、声が大きい。この城にも杉原、山田の手の者が忍んでおります。高信様には申し訳ございませんが、今は辛抱が肝要です。南無阿弥陀仏」と言って合掌した。
「高信殿と私は、義兄弟の間柄。南条家にとっても、親父殿が浪々の身であった時、羽衣石城奪還時に武田家の多大な支援を頂いておる。親子二代の恩は、返さねば武門の恥。
今となっては、遺児徳充丸殿を引取り、小鴨家で養育させて頂く。元亮、急ぎ佐治谷衆に使いをやり、高信殿のご遺児を岩倉城へお連れせよ」と指示した。
左近と元亮は、突然の指示に驚いたが、元清の義兄高信に対する気持ちを理解した。
翌日、元亮と新十郎は善右衛門と甚九郎を伴い、徳充丸君を救出するため因幡鵯尾城に向け出立した。数日後、二人の若者が元亮と新十郎に伴われ、岩倉城を訪れた。
元清と対面した若者が
「左衛門尉様、この度は我ら兄弟を救出頂き御礼申し上げます」と丁重に挨拶した。
「堅苦しい挨拶は無用。今後は、拙者を兄と思い岩倉城内にて我が家と思って暮らして下され」
「久、弟が二人出来たのでよろしく頼む」と言って二人を紹介した。
「奥方様、拙者は源三郎で、弟は源五郎と申します。お言葉に甘え、お世話になります」二人は丁重に挨拶をした。武田源三郎十五歳、源五郎十四歳であった。
(後日源五郎は、田尻城の元周に養育が任される事になり、居住を田尻城へ移した)
東伯耆の覇者、南条入道宗勝と因幡の覇者武田三河守高信。両雄の死は、一つの時代の終わりを告げ、新たな時代の激動期を迎えることを暗示したようであった。
高信、享年五十歳、武田家菩提寺の大義寺(鳥取市河原町佐貫)に「開基大義院殿従三位参議良嶽英将大居士」の法名がある。(中央の宝筺印塔は高信の墓で、高信の墓を囲むように殉死した家臣の墓が、数十基視うけられる)
羽衣石城の南条元続は、顧問の福山次郎佐衛門玆正(元尼子倫久の重臣)の執政能力を高く評価し、領内の重要案件も玆正に相談するようになっていた。
玆正は二年がかりで、東郷池周辺の湿地干拓による農地拡大と、羽衣石川水路整備事業を重点的に行った。羽衣石城下より羽衣石川を船で下り、東郷池から日本海の橋津港に出る事を容易にした。城下への物資の往来を増やすことで、商いの活性化を狙った。
工事が完成すると、城下町にも活気が漲った。領民からは、元続の人材登用と玆正の執政を高く評価し、今後の城下の発展を期待した。
玆正の羽衣石館への出仕回数も増え、元続は、羽衣石館の近くに玆正の屋敷を設けた。玆正は、一族郎党を呼び寄せ、元続に対しさらに忠勤を励み、信任を深めて行った。
この時、玆正は四十七歳の働き盛りを迎えていた。
しかし、福山の過去の経歴と才知を廻り、事態は思わぬ方向へ展開しつつあった。
天正五年(千五百七十七年)の正月、だれの口から告げられたのか、月山富田城の吉川元春に「尼子の旧臣福山と申す者が、南条元続に重用されて、重臣の列に加えられようとしている。毛利への謀反を考えての事」と伝わってきた。元春は、尼子全盛期時代の尼子倫久の養育係であった、福山次郎左衛門玆正を思い浮べた。
「元長。元続は、厄介な奴を家臣に加えたものよ。出雲守重直を呼び寄せ、密かに福山一族を誅殺するよう命ぜよ」と厳命した。
「父上。福山殿は清廉潔白な人柄で、その人柄は高く評されております。元続殿も、人柄と領国経営の才知を高く評価し、採用したもの。何も、他家の家臣を誅殺する命を下さなくてもよいのでは」
と元春の過剰反応を戒めた。(元長は、二十八歳で正義感が漲っていた)
「玆正が、吉川家へ奉公するなら殺しもすまい。有り難いかぎり。あの者は、才が有りすぎる。元続が重用し南条家が将来、隆盛するのは目に見える。元長、そちは思慮が浅い」
「南条家が栄えるとどうなる。ああ・・情けない」
元春は、元長を睨みかえす。
(元長は、人柄は良いが国を統治するには、人が良すぎると元春は思った)
「いずれ織田方へ与力して東伯耆一帯に、反毛利の強力な防御線をつくる。その時因幡と但馬・播磨はどうなる・・・」と諭すように言った。
聴いていた元長は、父とは基本的に考えが異なると実感した。(元春の考え方には、常に覇権を意識した考えがある。元長としては、曾祖父元就公の遺訓「天下取りには関らず、領国を守ることに専念するように」を守るため無益な戦をさけ、私利私欲に囚われず、周辺諸侯の領地争いに巻き込まれたくないと思っていた)
思案顔の元長に
「もうよい。重直には直接申す」と不機嫌そうな態度で、座を立った。(いつの世でも、親子特に嫡子とは摩擦を起こすようである)
正月三日、年賀の挨拶に南条元続の名代で、月山富田城へ山田出雲守重直が登城した。
元春が、重直の年賀の挨拶を制して
「出雲守よ、よくも呑気に素知らぬ顔をして、我が面前に来れたものよ」
心当たりの無い顔をする重直へ、元春は核心を言った。
「元続が、元尼子家臣の福山を重用しているように聴く。そちは福山が、八橋城主であった時、直接戦った間柄であろう。福山の才知は、毛利家にとって脅威になるとは思わぬか。福山の処置をどうするかは貴殿に任すが、毛利家に対し忠義ある行動を示せ」と語気を荒げた。重直は、元春の傍に座っていた、元長と杉原盛重の顔を見た。
杉原の顔付きから、元春に諫言した者が誰かを悟った。(杉原の東伯耆三郡統治への野望が、南条家排除後の利害関係を含め、水面下で動き始めている事と思った)
雲州路の帰路重直は、元続への「福山誅殺について」どう説明するか悩んだ。
「南条家の親戚衆は、因幡武田家に対する毛利の仕打に、疑念を持っている。単純に福山を誅殺すれば、我が身も危ない。東伯耆は、南条兄弟の固い絆で統治されている。元春様は、南条家の力を侮っておいでじゃ」
馬の背中に揺られ独り言を呟く。
「南条家与力ではあるが、毛利家の属将である我が身が情けない。いっそ、元続様と一緒に織田へ寝返るか」
重直にも、二者択一の難しい選択が迫っていた。
「今は、元春様も、盛重殿から福山の事を聴いて驚いているだけ。行動を起こすのは、しばし様子を視てからでも遅くはない。事を急げば、収集のつかない事態となる」
自分に言い聞かせるように頷く。
重直の性格は、思慮深く口数が少ないので、何を考えているか判らない。南条家中では毛利の目付家老の色彩が強く、元続の近臣達からは、目障りな存在であった。
特にこの時期、元続から重用されていた玆正にとっては、お互い敵対し戦った間柄であったので、会話を交わしても、どこかかみ合わない事が多かった。
岩倉の里にも春を告げるように桜が咲き、温かい日々が続くようになった。
岩倉城下の小鴨神社では、武田源三郎と源五郎の元服式が執り行われた。烏帽子親は小鴨元清と南条元周であった。武田家重臣の武田丹後守と、西郷因幡守も祝に駆け付けた。
「源三郎、これは高信殿より頂戴した四つ菱家紋入りの脇差である。そちが持つ事を高信殿もあの世で願って居ろう」と言って脇差を手渡した。
源三郎と源五郎兄弟は、烏帽子親の元清、元周を見て
「感謝致します。今後は南条家・小鴨家へのご恩を忘れず、我らは武田家の再興を果します」と謝辞を述べた。
源三郎は、名を武田助信と改め、武田丹後守と西郷因幡守に守られ因幡へ帰国した。
弟の源五郎は、名を武田元信と改め、南条元続の小姓衆頭として仕えた。(こうして、武田三河守高信の血筋は守られた)
四月に入り吉川元春が、七千の兵馬を従え、伯耆の八橋城に入った。羽衣石城下の山田屋敷に吉川家重臣、小寺佐渡守元武の姿があった。
「出雲守殿、元春公はたいそう立腹のようです。出雲の本気を観るまでは、八橋城に滞在する。何時でも羽衣石城を攻める。と仰せられ我らに当たり散らす始末」
元武が、困ったように話す。
「事ここに至っては致し方ない。近日中に処置致す」と確約し、元武を返した。
重直は嫡子信直を呼び、福山玆正一族の暗殺を指示し家臣の中から使い手を選りすぐり二十名ばかり召集するように手配させた。重直は、一人書斎に籠り、前後策を考えた。
その夜、岩倉城を夜陰に紛れ、訪ねる人影があった。
「開門、拙者は、山田出雲守重直。元清様に、急ぎ取次願いたい」
門番の次郎衛門が
「これは、出雲守様」と驚いたように、急ぎ城内へ案内する。
(次郎衛門は、何で家中では敵愾心の高い出雲守様が、こんな夜分にと不振がった)
早瀬左近と元亮・新十郎が慌てて出雲守を元清の書斎へ案内する。
書斎で待っていた元清が
「重直殿、こんな夜分に如何された」と声をかけ労う。
「元清様、もはや我が力ではどうする事も出来ぬ。元清様のお力をお借りしたい。まずはお人払いを」と言って元清の態度を伺う。
左近と元亮・新十郎は
「大事なお話の様で、某は別室にて控えて居ります」と子細を察して席を立った。(三人の態度を見た重直は、この三人が元清の側近か、噂には聞いていたが良き家臣を持っていると内心想った)
重直が、これまでの経緯を元清に打ち明ける。
「今年の正月、年賀の挨拶で、富田城へ登城した折、元春公はご立腹で、拙者に辛く当たった。元続様が、元尼子家重臣の福山次郎左衛門玆正を、羽衣石城下に住まわせ、重用している事が気に喰わない」と説明し、元清の反応を視た。
元清は、気にしていた事が起ったと平然とした態度で聴いていた。
「なぜ某に、福山殿を兄に推挙したのは拙者です。私には福山殿を殺せる筈がない」
「それは承知しております。福山の誅殺は、私が手を下します。元清様には、その後の事態収拾をお願いしたいのです。今、福山一族を討たねば、八橋城に駐屯している七千の兵馬が一気に羽衣石城下へ攻め込みます。元続様には、とても私から話せません。あの方は福山殿を守るために戦うでしょう。今は戦えば、南条・小鴨一族郎党家族まで抹殺されます。今はその時ではありませぬ」
と多弁に語る。元清は重直の本心に触れた様で驚いた。
「重直殿は、毛利方の目付で南条家へ出仕していると思って居った。先ほどの、今はその時では無いとは、どの様な事か」と聞きただす。
「拙者は、先代宗勝公からの南条家の与力衆、小森方高殿も同じ立場。南条家あっての山田・小森なのです。南条家を滅ぼしてまで、我が一族を栄えさせても意味が無い。立場や手法は違っても南条家は守ります。杉原の賊将と一緒に語られては困ります」と初めて重直の本心を聴いた。
「事の子細は承知した。玆正殿は、致し方無いとして妻子は、助けてくれ」
「妻子までは、元春公も詮議は致しませぬ。福山殿の首は、必要になります」
「それとは別に、南条家重臣の方々への執成しが必要です。毛利輝元公へ、南条家重臣五名にて、申し開きする必要があります。ここは、輝元公を立てるべきです。人質も親戚衆の中で一名と、重臣からも差し出すように説得をお願います。後は、某が吉川・毛利家に対して手を打ちます。元清様は、元続様と親戚衆にこの事を説明し、短気な行動を起こさない様、説得し監視願いたいのです」
元清は、重直の事態収拾策を聴いて感服した。
重直が申す通り、事ここに至っては、重直に協力して危機を回避するしかなかった。
「玆正には申し訳無いが、確かに重直殿の申す案しか南条家・小鴨家の生き残る道はないな。事の子細を説明頂き感謝する」と重直の手を握った。
「それでは、今日から五日以内に事を起します。福山殿には、元清様より内密に説明をお願いします。それでは、夜分に失礼しました」
と言って席を立ち、闇に紛れるように帰って行った。
(重直には、元清が玆正を説得することを見越していた)
別室で控えていた三人が、心配そうに元清の指示を待っていた。
「左近、元亮・新十郎良く聴くように。今から密かに兄上に会いに行く。黒松と永原を直ぐに呼ぶように」
元亮は、佐治衆の忍びの中から源太を呼び出し、羽衣石城へ使いに走らせた。
新十郎は、近衛隊を集め協議し、杉森と北村の両名を随行させる事を決めた。
反刻程して、黒松と永原が
「殿、何事ですか」と心配顔で現れた。
元清は重直との密談内容を、側近の五名に明かした。聴いた五名は、事の重大さに驚いたが皆が
「重直殿に、協力するしかありませぬ。殿、羽衣石館へ急ぎましょう」
戌の刻(午後十時頃)に岩倉城を発った元清主従が、羽衣石館の元続を訪ねたのは、丑の刻(午前二時頃)になっていた。すでに源太を通じて元続は元清来訪を聞いていたので館の城門は警備の兵で守られ、大手門には篝火が灯されていた。
「元清、よくぞ参った。八橋城に元春様の兵が七千も駐屯しておる。調度相談したいと思って居った」と言って元清主従を、書斎に招き入れた。
部屋には、元続からの知らせで先に到着していた、兵庫頭元周と元秋が控えていた。
元清は、いずれ判る事と思い皆で書斎に着座し、元続に近習の人払いをお願いした。
「昨夜遅く、重直殿が岩倉城を訪れ、今後の対応について、私に協力するよう提案がありました。元春公は正月早々に、福山殿の誅殺を重直殿へ命じておられたが、重直殿は、躊躇し事を先延ばしにしておったようです。四月に入り元春公は、但馬に兵を動かす事態が生じ、この件も一気に片づけたいと、重直殿を八橋城で牽制しておるとの事。拙者も色々考えましたが、ここは重直殿の策に協力して、今の危機を脱するしかありませぬ」
いきなり核心をついた。
聴いていた元続・元周・元秋の三名はさすがに驚き、顔が青ざめた。
「兄上、玆正殿を見捨てると言う事か」
元秋の単純な問いかけに、元清は頷く。
「残念だが、重直殿の申す通り。今、吉川と戦っても織田方の支援は無い。玆正殿には申し訳ないが、南条家のために身を投じてもらうしかない」
元周は、元清を援護した。
元続は、三人の話を聴いて
「己の力が及ばす、得難い忠臣を失う事になるとは。この度の件は、どうせ杉原が元春公に諫言し画策したのであろう。おのれ盛重、この恨み覚えておれ」と元続は、策謀家の杉原へ恨みを向けていた。
元清の提案は三人に了承され、南条家重臣および親戚衆への説得は南条兵庫頭元周が対応することで理解を得た。(重直の狙いは当たった)
朝方、玆正は元続に呼び出され、事の次第を元清から説明を受けた。元周と元秋も同席していた。
「拙者は、尼子倫久様を養育し今年で四十七歳になりました。勝久様の異母妹、久姫様のご縁で南条家に仕え、この二年間は思う存分仕事をさせて頂きました。今また南条家のために、死に場所を得たことは武門の誇り。感謝します。心残りは播磨で尼子再興のため働く山中殿、亀井新十郎、勝久様へ今生の別れの挨拶が出来ない事。播磨の皆様には、何分よろしくお伝え願います」
四人は水杯を交し、毛利打倒への志を約束した。
自宅へ帰った玆正は、家族と家臣に別れを告げて、夕暮れに切腹して果てた。
玆正の辞世の句
「羽衣をまといて飛べば打吹の、春はまだかと心が騒ぐ」は、南条家への忠義半ばで、あの世へ旅立つ我が身の無念の想いが詠まれていた。
岩倉城で事の一部始終を聴いた久は、玆正の無念を想い早すぎる死を悲しんだ。
翌日、山田出雲守重直は、八橋城の元春を訪ね、事の子細説明と、福山次郎左衛門玆正の首を届けた。また南条家の重臣四名を伴い、毛利輝元へ申し開きするため、安芸吉田城への下向を了承された。こうして、天正五年四月の福山事件による南条家の危機は去った。
(しかし南条元続主従にとっては、後味の悪い出来事でもあった。この一件から元続は、出雲守重直を遠ざけるようになった)
後顧の憂いを絶った元春は、五月四日に因幡守護山名豊国の兵を加え一万の兵で、但馬水生表にて信長の軍と戦った。
毛利軍が初めて織田の先鋒軍羽柴秀吉と激突し、毛利と織田の敵対関係が表面化した。但馬表での戦いは一進一退で、但馬は膠着状態となった。
秀吉は、十月二十八日、羽柴小一郎秀長を竹田城へ籠らせ、自らは播磨へ取って返し、十一月二十七日、上月城を守る赤松政範を三万の兵で攻めた。
赤松本隊七千に、宇喜多広維(宇喜多直家の実弟)の援軍三千を加えた一万の兵で迎え撃った。攻防は一か月続き、多勢に無勢兵糧も尽き、城将赤松政範は妻と一緒に自害し果てた。哀れ西播磨の雄将、赤松政範四十二歳の男盛りであった。
「我が命尽きて播磨の武士に、突いて奏でる白鐘の音」
織田に寝返るか、毛利家に属すか、播磨の領主は揺れていた。情勢分析を誤れば、哀れな末路が待っていた。一族の栄枯盛衰が、問われる時代でもあった。播磨の国名門赤松氏はこうして滅び、一族郎党は抹殺された。この惨劇は、周辺諸国の領主に動揺を与えた。
秀吉は、山中鹿之助幸盛と立原源太久綱に兵五百を与え上月城を守らせ年末を迎えた。
「尼子勝久主従が上月城へ入る」の報は、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景を刺激した。
天正六年(千五百七十八年)正月、安芸吉田城毛利輝元より、西播磨攻めの兵力動員令が山陰の各領主へ発せられた。山陰方面軍総帥吉川元春、山陽方面軍総帥小早川隆景、後詰め本軍毛利輝元の毛利軍総勢三万が、海路および陸路から西播磨の上月城を目指した。
東伯耆衆は、山陰方面軍の吉川元春を総大将に、東伯耆衆の大将南条元続、副将は小鴨元清・南条元周・山名氏豊が務め、属将として山田重直・小森方高・川口刑部が従った。
西播磨へ毛利の大軍が来襲する、との報に驚いた播磨の織田方与力の領主は動揺した。
二月に入ると東播磨の雄、別所長治が、三木城にて織田信長に叛旗を掲げた。
播磨の諸将は、こぞって毛利へ靡き、播磨御着城主小寺政職も黒田官兵衛の反対を押しのけ織田との決別を決めた。播磨および但馬・因幡・美作・備中の情勢は地方領主の覇権が絡み合い混迷を深め骨肉相争う状況になって行った。
そんな中、織田信長の最大の強敵「越後の虎」上杉景虎が信長征伐を決めた。しかし、上洛途上の三月十三日の午後、あっけなく四十九歳の生涯を遂げた。
「越後の虎」上杉景虎(謙信)も甲斐の好敵手武田晴信(信玄入道)に先立たれ、気が緩んだのか、晩年特に飲酒量が増えたことが突然死の脳溢血を引き起こした原因と言える。
織田信長にとっては、後方の最大の脅威が無くなり、中国の毛利征伐をしかける好機を迎えた。(これ以降、信長は信玄、謙信二人の強敵が相次いで亡くなった事で、眼に見えぬ力を過信し、天下無敵の増長した態度が鮮明になって行った)
四月に、上月城を包囲した毛利軍三万は、力攻めをせず羽柴軍を牽制した。仁位山に陣を張っていた東伯耆衆は、上月城への兵糧補給を遮断する役目を担った。
「左近、上月城の義兄上(勝久)と、鹿之助殿が心配よ。羽柴様の援軍は、高倉山に陣を構えたまま動かないのは、何か妙だの」
「殿、羽柴勢も毛利の三万が相手では、戦いませぬ。織田本隊の到着を待っているのでしょう。しかし尼子主従が、上月城内に留まる理由がわかりません。あの城では、この二年間で二人の城主が籠城して自刃しております。赤松政範様と、上月十郎景貞様の怨念でもあるのでしょうか。天守からの眺めは、絶景のようですが」
「確かに。上月城の兵糧は底をついておるし、毛利の大軍に囲まれた上に、三木城の別所長治殿謀反では、上月城の戦略的な価値はないはず。勝久殿はまだ若い、まさか城を枕に討ち死にする覚悟では。元亮、元徳を呼んでくれないか」と指示をする。
仁位山の陣には、東伯耆衆三千の兵が駐屯していた。元清主従は、南条元続の陣幕へ出向いた。元続の陣幕には、南条家の諸将が集まっていた。
「元清、調度使いを出すところであった。先ほど吉川元長様より使いがあり、明日早朝に杉原殿が熊見川を渡り敵陣へ切込むとのこと。東伯耆衆は、後方支援を頼むと仰せじゃ」
「しびれを切らしたのは我が軍ですか。元春様への印象をよくするため、杉原殿は功名が欲しいのでしょう。あの御仁には、困ったものです」
「しかし、熊見川を渡るのは、危い。羽柴様には、軍師竹中殿・黒田殿が控えて居ると言う。杉原殿は、我らを危機に誘う疫病神になるぞ」
元周の見解に、思案顔の元続が
「我らは、羽柴勢の迎撃体制で後方支援する。熊見川を渡らず、敵が川を渡って襲撃して来るところを両翼に別れ挟撃する。それまでは葦原に潜んで敵を待つ」
聴いていた諸将は、元続の策に同意した。
「兄上、それでは元周殿と小鴨勢で右翼を任して下され。兄上と諸将は左翼を」と申し入れ、明日の戦に向け各陣へ帰って行った。
「左近、兄上も南条家当主としての威厳が備わってきたな。軍師竹中様に劣らぬ策士よ」
「殿、しかし我らが杉原殿を助ける役目をせねば成らぬとは。我らが射て留めを刺してやりたいくらいです」「まあ、そう申すな。まだ杉原殿が退却してくるかどうかは判らぬ」
「元亮、新十郎。急ぎ黒松へ明日の兵の配置を準備するように先駆けしてくれ」
元清と左近は、熊見川沿いを騎馬で下見していた。
二人の後方より
「おうい、元清殿」と声がかかる。振り返ると数人の騎馬武者に守られ吉川元長が駆け寄ってくる。
「調度、貴殿の陣へ参ろうと思っていた。久しぶりよ」
「元長様もお元気でしたか」
元清は、元長の精錬な物言いに好感を持っていた。
二人は妙に気が合った。元長は元清の一歳年上であったが、二人の間には歳の差はあまり意識されなかった。
お互いが一目見た時から好感を持っていた。
「昨年からの杉原の無礼を想うと、南条家には、不快な思いをさせて相すまぬ。またこの度は、盛重の策を押える事が出来ず危ない戦を仕掛けてしまう。東伯耆衆の後方支援をよろしくお願いする」
「元長様、我らは毛利家に対し異心はありませぬ。元春公が、盛重殿を懐刀と重宝されている事で杉原の家臣が増長し、南条家と小鴨家は難儀しております。相変わらず、我らの領内を荒らす行為が絶えませぬ」
「杉原の家臣には、荒くれ者が多く、毛利家中でも評判はよろしくない。親父殿にも苦言を呈しているが聞き入れてもらえない。我らの時代が来るまでもう少し辛抱して下され。元続殿にも、よろしくお伝え願いたい」と丁重に、頭を下げて元清と別れた。
(吉川元春の嫡子、元長が長命であれば、その後起る、関ヶ原の戦いは、西軍勝利となっていたであろう。歴史には、「もしか」がない事は判っているが、吉川少輔次郎元長の命脈は、あまりにも短かった。後の事)
翌早朝、朝霧の熊見川を杉原勢が徒で渡り、一斉に鬨の声を上げて高倉山嶺の羽柴陣地へ襲いかかった。
「百姓上がりの猿の軍勢、馬で蹴散らせ。進め」
盛重が、激を飛ばす。
陣太鼓と敵襲を知らせる狼煙火が上がる。熊見川岸で合図を待っていた、吉川元長の騎馬隊が、川の浅瀬を騎馬で一斉に駆け渡る。
羽柴陣営は、すでに毛利勢の奇襲を察知していたように、川岸にて中村孫平次(後の伯耆守米子城主中村一氏)、神子田判左衛門の伏兵二千が応戦する。
川霧が晴れて、戦いの全容が見えて来ると、杉原勢は川中に押し戻され元長勢も苦戦を強いられている。そこへ山内一豊と、美藤甚右衛門の率いる本隊、三千が襲いかかって来た。絶体絶命の杉原・元長勢の形勢を観た元続は
「全軍突撃、羽柴勢を高倉山まで押し返せ」
元清の小鴨勢も
「押し返せ。元長様を救い出せ」と猛進する。
東伯耆勢三千の伏兵が突然現れ、山内一豊は
「毛利の本体が伏兵で潜んでおる、返せ、返せ」と全軍撤退の合図を出す。
そこへ南条元続の家臣末石弥太郎が、一騎で山内一豊を目がけ
「敵将とお見受けする。一騎打ちを願いたい」と駆け寄る。一豊は、その形相に恐れを感じ、末石を無視して撤退を急ぐ。その時数発の銃弾が、末石の体を打ち抜いた。
落馬する末石に、羽柴方より一騎の若武者が駆けより
「一騎打ち口上無視した、我が鉄砲足軽のご無礼お許し下され。ささ我が肩に」と言って末石を助けようとする。
この光景に、一瞬戦場は停戦状態となり、二人の所作に皆が注目する。
末石が
「拙者は、南条伯耆守騎馬隊、末石弥太郎で御座る。胸に銃弾を受け、どうも身動きが取れぬ。我が兜首はそなたに進ぜ様。介錯頼む」と言って座り込み、自身の脇差で腹を間一文字に切り裂いた。
余りの事に驚いた若武者は、大刀を抜き末石を介錯した。この羽柴方の若武者が福島市松(後の福島正則)で、この時が十八歳の初陣であった。
末石の最後を視た東伯耆衆は、弔い合戦で猛攻した。
元清主従も小鴨騎馬隊二百騎で中村孫平次の隊に襲いかかった。
騎馬二百騎が一糸乱れず突入する雄姿に、孫平次の兵は恐れを成した。徒で馬上の元清に向かって、槍を突いた若武者を元清は一撃で倒した。
元清は、倒れた若武者に
「その方はまだ若い。命を大切にせよ」と声をかけ一命を助けその場を駆け去った。この若者の名は、加藤虎之助でこの時が十八歳の初陣であった。
虎之助は、馬上の元清の形相に恐れを成したが、元清の騎馬武者姿に憧れを抱いた。
(市松は初陣で意味深い兜首をあげたが、虎之助は元清の十文字槍の柄で一撃をくらい、右肩を脱臼していた。虎之助には苦い経験であったが、二人の初陣は無事に終わった)
羽柴勢は、山内一豊の引き上げ合図で浮足立ち総崩れの状況に陥ってしまった。
高倉山の陣で両軍の攻防を眺めていた秀吉が、全軍の撤退を指示した。
「半兵衛、あの川岸で押し返した兵はどこの兵じゃ」
「あの旗刺し物は、東伯耆の南条元続と、小鴨元清の兄弟です」
「あ奴らは、敵にしたくない。早々に織田方へ寝返るよう、策を巡らす様に致せ。南条兄弟を味方に出来れば、因幡攻略は容易になる」
「仰せの通りでございます。すでに尼子勝久殿を通じて小鴨左衛門尉殿へは、手を打っております。何せ、尼子勝久殿と元清殿は義兄弟ですので。当然毛利は、この事は知りませぬ。ここに控えております佐治元徳は、南条兄弟にとっては異母兄になります」
「さすがは半兵衛。すでに、東伯耆の南条兄弟に手を回しているとは。ここから見れば、東伯耆の兵は良く調練されている。兵の移動が素早い。特にあの二名の騎馬武者は、勇猛果敢に我が兵を蹴散らしている。ああ、また倒された。早く撤退せんか」と苛立つ。
半兵衛の傍に控えていた、元徳が
「あれは、小鴨左衛門尉様の家臣で、我が舎弟の加瀬木元亮と義弟の岡部新十郎です。今後は、手加減するよう申しておきます」
秀吉に拝謁する。
「おお、その方が、佐治谷衆の佐治元徳か。半兵衛と秀長より聴いておる。因幡と東伯耆の領主の勧誘はそちに任せる。半兵衛と秀長の下知に従い、今後も励め」
秀吉は、元徳を労った。
上月城での戦いは、熊見川(現在の佐用川)の戦いが両軍を交えた最初で最後の攻防戦となった。この戦いでは、宇喜多勢の一万の兵は全く動こうとしなかった。
「隆景、宇喜多の一万が動いて高倉山を攻めておれば、羽柴勢は総崩れであったものを。やはり直家は、信用できぬ奴。宇喜多の一万は、不気味じゃ」
吉川元春と小早川隆景は、宇喜多に疑念を抱き、安国寺恵瓊を呼んで宇喜多の内情を探らせた。また羽柴方でも、摂津有岡城から五千の兵で参戦した荒木摂津守村重が、羽柴勢苦戦を見ながら、全く動かなかった。
両軍の中で疑心暗鬼が広がり、さらに膠着状態が続くこととなった。
そんな中で上月城の兵糧は、底を突き、多くの城兵が逃亡して行った。
六月に入って、突然安土城の信長より
「高倉山の陣を引き払い、三木城の別所長治攻めに集中せよ」と織田勢に軍令が発せられた。この軍令にはさすがの秀吉も驚いた。
「半兵衛、官兵衛。信長様の命には逆らえぬが、上月城を守る尼子衆にどう説明する。播磨の諸将は、この所業をどう思うか。上様の所業は冷徹じゃで」
官兵衛は
「信長様の命は絶対です。しかし、尼子主従を見捨てたとあっては播磨中の諸将は動揺します。何とか上月城へ入り、勝久様と鹿之助殿を救出しましょう。拙者が配下を連れ夜闇に紛れ忍び込みます」
半兵衛が
「元徳の佐治衆に案内させましょう。小鴨殿の協力で、上月城内には入れましょう。亀井新十郎もお連れ下さい」と言って官兵衛を援護した。
その日の夕闇に紛れ、小鴨元清の陣を五名の武者が訪れた。
「某は、佐治元徳でござる。元清様へ御目通り願いたい」
陣幕の中で元清の声がする。
「おお、元徳か。早く入れ」
元徳と四名の武者は、小鴨衆の陣幕に入って行った。
陣幕の内には、南条兵庫頭元周・田原市之進と元清主従が、床机を囲んで戦談義をしていた。
「元清様・元周様、連絡が遅れ失礼しました。今宵は、折り入ってお話があり参上しました。こちらの方は」と言い官兵衛を見る。
「拙者は、播磨姫路城主黒田官兵衛孝高と申します。傍に控えるは、我が家臣栗山善助と井上九郎右衛門でござる。この度、羽柴筑前守秀吉様の命にて上月城へ密かに参り、尼子勝久様主従に城を退出するよう説得したい。半兵衛殿より、左衛門尉殿へ協力願うよう申し渡された。無理を承知で、ぜひご協力願いたい」
「元清様、玆正殿の無念を想うと、尼子再興の悲願を叶えるためにも、勝久様救出は目前の急務です。どうかご協力をお願い致します」
元周と元清は、暫く考え
「上月城の勝久殿が、城兵を捨てて我が身大事で逃れる事は無いでしょう。しかし我らが信義を明かす良い機会です。城内への案内は元徳に任せましょう。我らも城門前まで、兵を連れて同道します」
と言って協力を約束した。
黒田官兵衛三十歳、元清二十九歳初対面ではあったが、お互いの人柄に好感を持った。
「元亮と新十郎は、元徳と一緒に黒田殿をお守りせよ」と言って、元周の同意を誘った。
「勝久殿を御救い出来なければ、せめて勝久殿の嫡子、豊若丸君と通久殿を御救い願いたい。黒田殿・亀井殿よろしく頼みます」と言って支援を約束した。
その夜、七名は小鴨隊の夜警部隊に紛れ込み、上月城の南門より密かに城内へ入った。
南門に出迎えた、山中鹿之助幸盛と立原源太兵衛久綱の両名が、官兵衛を迎え城内の勝久の元に案内した。(鹿之助には元徳の配下の者が、官兵衛の入城を事前に知らせていた)
「勝久様、秀吉様よりの命をお伝えします。先日、信長様より(上月城を引き払い、三木城攻めに注力せよ)と命が下りました。早々に上月城を脱するように」
鹿之助が、天井を視て
「我らが、武門の定め。この上は、城を枕に討ち死にするか、毛利に降伏して城兵の命だけは救うか、皆の意見を聴き決めねばなりませぬ。殿、我らが非力をご容赦下され」と言い無念の涙を流す。
聞いていた官兵衛も
「明日の夜、南門で待ちます。皆様で今後の進むべき道を決めて下さい。我らは、勝久様の決定に従います」
と言って勝久主従の意志を尊重した。
「新十郎、そなたは秀吉様に仕え、我妻と妹の行く末をよろしく頼む。また尼子再興はそなたに任せる」
鹿之助が、別れを惜しむ亀井新十郎を叱咤激励した。
翌日、夕闇に紛れ上月城の南門から、尼子通久が退出してきた。
「官兵衛殿、勝久様は、最後まで城に籠り戦うことを決められました。拙者も共にすると懇願したのですが、尼子新宮党の血脈を守り、秀吉様に仕え、毛利と戦うようにと諭されました」
「元徳殿、甥勝久の形見の脇差を、元清殿の元に届けるように依頼されました。元清殿へお渡し下され」
尼子通久は、官兵衛と一緒に秀吉の陣に引き上げて行った。
亀井新十郎と元徳は、上月城の評定の結果を伝えに元清の待つ陣へ向かった。
撤退を決めた羽柴勢の動きは早かった。六月二十五日には、本陣を高倉山から書写山へ移し織田勢は三木城攻略に臨んだ。
織田勢の退陣に孤立した上月城の尼子勢へ、毛利方の使者として安国寺恵瓊・南条伯耆守元続が元清を伴い上月城へ入城した。
恵瓊が同道する元続に「拙者は安芸武田氏の末裔。毛利に滅ぼされた一族です。織田に見捨てられた尼子の兵は、何としても救いたい。元続どのご協力願いたい」
「恵瓊殿、我らも一度は尼子勢に領地を奪われた家柄であるが、遠い昔の事。尼子勝久殿の御命は救えまいが、籠城している兵の命は、何としても救いたいと思っております」
二人の想いは同じであったが、城内の兵の決死形相は、討ち死にを覚悟している。鹿之助が、使者の三人を城将尼子勝久の待つ評定の間へ導く。
「おお、元続殿・元清殿ではないか、良く来られた。そちらのお方は」と尋ね。恵瓊は、勝久の南条兄弟に対する態度に少々驚きつつも
「拙者は、毛利家正使安国寺恵瓊と申します。これ以上の籠城攻防は、お互い無益な事です。お互い刀を収め、この戦いを終えましょう」と率直に言上する。
「恵瓊殿は、物腰が柔らかいお方の様じゃ。家臣の評定は、籠城討ち死にを決めたようじゃが、私は事ここに至っては、家臣の命を救いたい。毛利殿の条件には、大筋従うが一転無理なお願いをしたい。我ら尼子一族は、切腹して果てるが、山中・立原の命は御救い願いたい。山中・立原は忠義者の鏡である。二人には、我が新宮尼子一族の行く末を託したいと思って居る。難しい頼みではあるが、輝元殿の寛大な配慮をお願いしたい」
「元春様の説得は、山中殿に苦しめられた経緯があるので中々難しゅうござる。しかし輝元様と隆景様は、山中殿と立原殿には、敵ながら天晴な忠義者として認識しておられる。難しい条件ですが、私にお任せ下され。勝久様の武勇は、世の人々に広く示されました。今は多くの将兵の命を救うことが先決です」
それとなく鹿之助と源太兵衛を視る。
「鹿之助殿、源太兵衛殿ここは、勝久様を立てて従われる事が肝要と思うが如何」
「恵瓊殿の仰せはごもっとも。我らの身勝手は許されぬ」と言って悔し涙をこらえた。
「恵瓊殿、勝久様の御内儀と末子は、昨夜密かに、羽柴の陣へ我らが逃した。ご容赦下され。もう尼子家再興の戦も無かろう。これぐらいはご容赦下され」
率直に伝えた。
「元続殿のお好きなようになされよ。我らは、何れ手を結ぶ間柄。何かと今後通じて行かねばならぬ事も多かろう。なあ元清どの」
恵瓊は、意味深そうに、元続と元清を見る。
元清と恵瓊は、元清が堺へ訪問した若い頃より面識があり、その後、佐治元徳を通じてお互いの情勢を伝え合う間柄でもあった。
(杉原盛重憎しが、安国寺恵瓊を通じて小早川隆景との結びつきを強めたと言える)
「恵瓊殿と我ら東伯耆衆は、通じるものがあります。今後も色々と、ご指南願いまする」勝久の面前で、恵瓊と南条兄弟は、後々の協力関係を約束した。
(この後、恵瓊と元清の関係は、二十一年後の関ヶ原の戦いまで続く事になる)
「元続殿・元清殿、拙者は一足先に吉川様への報告に戻る。ご両人は勝久殿と今後の事もお話して帰られたら良い。心配ご無用でござるよ」
恵瓊が、南条兄弟に配慮した。
「恵瓊殿、ご配慮感謝致す。私は恵瓊殿と一緒に退出致す。元清、後をよろしく頼む」と言って元続は、恵瓊と一緒に、上月城を退出した。
勝久が家臣に
「豊若丸を呼べ」と伝えると、奥より女中に付き添われた童が現れた。
「豊若丸、そちの叔父伯州久米郡領主の小鴨左衛門尉元清殿じゃ。ご挨拶致せ」
「叔父上、伯母上様はお元気ですか。徳丸君もお元気でしょうか。出来れば、岩倉城へ伺いご一緒に遊びたかったのですが」
豊若丸のしっかりした口調に、聞いていた尼子家家臣と、元清主従も涙を流す。
「豊若丸君は、たしか今年五歳になられたか。徳丸とは一歳違い・・・」
豊若丸の屈託のない笑顔を視て、また涙が溢れて来た。
傍の左近と、元亮・新十郎も涙を流す。
「叔父上、私は父上と一緒にあの世とやらに行きます。誠久のおじい様が待って居られるとの事。笑顔でお別れ致しましょう」
気丈な豊若丸に、聴いていた皆も心を打たれた。
「元清殿、尼子新宮党の当主として、妹の婿殿と見込んで我儘なお願いがある。我が二男の常若丸の行く末をお願い致す。また久には、勝久は善く生きたとお伝え下され。それでは是にて、今生の別れでござる」と言って勝久親子は、奥の院へ戻って行った。
元清主従は鹿之助に見送られ、上月城南口から密かに退出した。
下城途中で
「元亮・新十郎。佐治衆で、何とか、豊若丸君を御救い出来ないものか。あまりに愛おしい」と二人の見詰め寄る。
「殿、お言葉ですが。尼子新宮党当主の嫡子としてのお勤めを誰かの身代わりで済ませることは礼節に反し、後に発覚したとき豊若丸君は、苦しい立場に立たされます。ここは勝久様とご一緒に生涯を遂げることが大事です。お二人の生き様は、後世でも語られます。ここは感情に流されてはなりませぬ。我らは、勝久様と豊若丸君の菩提を弔いましょう」
「元徳の申す通りよ。あの親子の覚悟を小賢しい手口で汚す訳にはいかぬ。良く解った」
元清主従は、豊若丸の凛とした物言いと笑顔を思い出し、再び目に涙が溢れ出た。
「元亮・新十郎。今日の事は久には話せぬ。三人の胸に収め、勝久父子の菩提を弔おう」
七月二日、尼子老臣神西三郎左衛門元通が切腹し、三日の早朝、毛利の検使を迎えた。勝久は、城内の奥書院で最後の杯を含み終え割腹した。その後、勝久の実兄尼子氏久、加藤政貞ら十余命が勝久の後を追うように切腹して果てた。
勝久の嫡子豊若丸(この時五歳)は、勝久が死の前によく言い聞かせ、勝久が手を添え旅立たせた。勝久を介錯した池田甚三郎久規は、尼子氏久の介錯を終えた後に割腹して果てた。七月五日、上月城を開いて籠城兵士は一同、落ちて行った。
勝久の辞世の句
「都渡劃断す千差の道 南北東西本郷に達す」
勝久が、家臣に語った感謝の言葉がある。
「僧として一生を送るはずだった自分を、一度は尼子の大将にしてくれた。各自は命を大切にするように」
尼子孫四朗勝久は、二十五歳にて生涯を終えた。
(十七歳まで寺の僧侶として修業に励み、生涯を読経で終えると思っていた若者が、突如時代の風雲児として山中鹿之助幸盛と立原源太兵衛久綱に尼子家再興の当主として擁立され、歴史の表舞台に躍り出た。その後は、雲州・伯州・但州・播州・丹州の各地で転戦し一時は、雲州の尼子宗家月山富田城を奪い返し、毛利の勢力を震撼させる事もあった。勝久の二十五年の生涯は、不遇な生涯と言うより尼子新宮党の当主として宗家尼子晴久の騙し討ちで誅殺された、尼子新宮党の国久・誠久・敬久一族の無念を晴らした生涯として評価される)
勝久は「長く生きる」のではなく「善く生きる」人生の選択をした。
尼子家再興の夢に奮闘した尼子十勇との武勇は、後々の時代でも語られ、今も多くの旅人が上月城を訪れ哀悼を送る。(今も勝久父子の墓標は、上月城下に存在している)
(尼子十勇士とは、横道兵庫之助・深田泥之助・小倉鼠之助・寺本生死之助・植田早苗之助・山中鹿之助・秋上伊織之助・薮中荊之助・早川鮎之助・秋宅庵介とされている)
永禄十二年(千五百六十九年)から始まった尼子家再興を賭けた戦いは、天正六年(千五百七十八年)上月城の戦いで終焉した。九年間の雲州・伯州・因州・但州・播州で戦いを続けた勝久主従の不屈の精神は、その後、亀井新十郎玆矩によって受け継がれた。
その数日後、山中鹿之助幸盛と立原源太兵衛久綱の身柄は、毛利輝元の籠る備中高梁の松山城へ伴われた。この時点でも両名の処遇については、毛利家中では衆議一致せず混迷を深めていた。
杉原播磨守盛重が実力行使に出た。
「鹿之助は生かしてはおけん。奴が我が城を逃亡したおかげで杉原の面目はつぶされ、その後の戦で多くの兵を失った。刺客を放って誅殺する。輝元様と隆景様は、鹿之助を生かすつもり。元春様は賛同して下さる。鹿之助を生かしておけば我が命も危うくなる。剛の者を揃え、早々に刺客を放て」
と配下に指示した。
元清主従は、鹿之助と源太兵衛が囚われている兵舎を夜陰に紛れて密かに訪ねた。
鹿之助は毛利方の諸将にも人気が高く、我も我もと面会の者が絶えなかった。そんな中で元清主従は、鹿之助との面会を実現した。
「鹿之助殿、元春様の御命を狙っておいでの様じゃが、しばらくは休息されよ。元春様の側近はたいそう警戒しておるようです。くれぐれも短慮な行動はされないように」
「ご忠告感謝致す。ところで元清殿、ご嫡子の徳丸君は今年で六歳になられるな。尼子新宮党の血筋をお守り願います。どうせ私はもう長くは生きられぬ。盛重が我が命を狙っているともっぱらの噂です。可笑しなもので、毛利家の重臣の方々からも用心するよう言葉をかけられます。毛利家中も一枚岩では無いようですな」と笑みを浮かべる。
「さすが、鹿之助殿は感が鋭い。最近特に小早川家と吉川家の両家が、水面下で毛利本家の主導権争いを展開しておるようです。鹿之助殿の件も複雑に絡んでおります」
「小早川方は鹿之助殿を生かし、吉川方を牽制すると共に鹿之助殿を通じて、内々に羽柴方への友好関係構築を画策したいのです。恵瓊殿は隆景様の意向を汲み動いております」
「確かに、毛利本家は織田方との全面戦争は望んでいないだろう。織田方の尼子勢力が一掃されたこの機会は重要。織田方との全面戦争を回避する機会が訪れたな」
「武闘派の元春様は、織田方に対して徹底抗戦を主張し、智将隆景様とぶつかります。今は、ご兄弟は表面上仲睦まじくしてはおられますが、配下の安国寺殿と杉原殿が真正面から対立しているのです。鹿之助殿の処遇に対しても、お互い譲らぬ状況が生まれております。我らは佐治衆の手で、鹿之助殿の命を守る所存です。くれぐれも油断なさらぬようお心がけ願いたい」と言って鹿之助の手を握った。
「元清殿、かたじけない。我が事より久様と徳丸君をよろしくお頼み申す」
鹿之助は、これが元清主従との今生の別れと感じたのか、後の事を元清に託した。
この面談が、山中鹿之助幸盛三十三歳、小鴨左衛門尉元清二十九歳の今生の別れとなるとはこの時点で元清主従には、予想出来なかった。
訃報が、元清の元に届いたのは、東伯耆衆が上月城を退陣し、元清主従が岩倉城へ帰城した七月の末日であった。その日は、突然訪れた。
岩倉城の館で久しぶりに家族水入らずで、久と徳丸三人で真夏の星空を眺めていた時に北西の夜空に、大きな流れ星を視た。
「北西の空に輝く流れ星、だれか亡くなられたのでしょうか」
久が呟いた。
「戦国の世は、我らが知らぬ英雄の死がある。しかし秀吉様か信長様では困るな」
「殿、やはり小鴨家は織田方に与力するのですか。元続の兄上様は辛い事でしょう」
「兄上の意向に小鴨家も従うが、元周殿と私は、秀吉様に従いたい。信長様より秀吉様の家臣の列に加わりたい。あのお方は、人としての優しさをお持ちのようじゃ」
「殿はまだ秀吉様とはお会いになっていないのに、秀吉様の事をよくご存知なのですね」
「ああ、秀吉様の事は、いつも元徳や堺の小西如清殿から文で伺って居る。如清殿は、今では秀吉様より堺の代官を任されている。舎弟の弥九郎は、二十歳になり、名を小西行長と改め、秀吉様に仕えておる。弥九郎とは、もう十七年も会って居らぬ」
元清の顔が、堺を懐かしみ微笑む。
「殿には、毛利方より羽柴方にお知り合いが多いのですね」と久が、言葉を添える。
徳丸は、元清の膝で眠りについていた。
「そろそろ寝るか。しかし徳丸の寝顔は、可愛い」
三人で寝床に入ろうとした時、廊下を元亮と左近が、小走りに走って寄って来た。
左近が小声で
「夜分に恐れ入ります。元徳殿の使いが文を持ってまいりました。元亮」
「殿。奥方様は、徳丸様と寝所へ」
久は、先ほど見た流れ星を思い出し、心配そうな顔をして徳丸を連れて寝所へ入って行った。
三人は、密談するため、書斎へ移動した。(新十郎は、家老の黒松の元へ向かっていた)
「殿、訃報です。去る七月十七日未の刻(午後二時)頃に備中の甲部川(高梁川)と成羽川との合流点にて、鹿之助殿が天野の手勢に討取られたとの事です」
「川岸で涼んでいたところを、後方から右肩を袈裟掛に斬り付けられたようです。鹿之助殿はその場で絶命したとの事。刺客は、天野の家人河村新左衛門という強者」
「己、盛重め。天野の手の者を使い、己の所在を消したな。しかし剛勇武者の鹿之助殿があっけなく一刀両断か、刺客は道中で常に鹿之助殿の隙を狙っていたのであろう。到着寸前で暑さのあまり川岸で油断したのか。松山城では、輝元様と隆景様がお待ちであったろうに。天下に轟く武将を、後ろから斬り付けるとは」
元清は、暫く考え。
「左近。何かがおかしい。これは鹿之助殿がわざと一命を捨てて仕掛けた罠かも知れぬ。そう考えれば合点が行く。あの鹿之助殿が、背後に刺客が迫って来るのを判らぬはずがない。毛利の武勇が地に落ちた事を、天下に示すためではないか」
「刺客の、形振り構わずの所業には、力ずくの意志が感じ取れます。これで吉川方は、攻勢に出て毛利本家の主導権を握ります。隆景様と、恵瓊殿の面目は丸つぶれです」
「この所業には、盛重が、力ずくで毛利本家の主導権を握る意志を感じる。東伯耆の我らに対する戦線の布告と言っても過言ではない。これから盛重は、八橋城の家臣を使い、久米郡と河村郡の境で、わざと狼藉を謀り挑発するであろう。毛利本家の主導権は、吉川に移り、盛重は、念願の東伯耆三郡に手を出す口実を作る。臨戦態勢じゃ、明日の朝重臣を集めよ」
元清は、思案顔になり
「左近・元亮。城内を厳重に固めよ。何時、忍びが入るかも知れぬ。盛重は、手っ取り早く、また我が命を狙う。小鴨家の当主を、叔父の四朗次郎経春殿に替える動きをする。刺客は、もう放たれているだろう」と二人に小声で指示した。
鹿之助の死が伝えられ、一瞬にして、岩倉城の平和な日々は終わりを告げた。
十一、【竹中半兵衛重治との約束】
天正六年(千五百七十八年)八月、備前の太守宇喜多直家が、突如として毛利に反旗を翻した。この異常事態に呼応したのか、智頭郡新見村淀山城主、草刈三郎左衛門景継が織田方への内応が表面化した。因・伯州の国境は、毛利と織田の一触即発の危機を生じた。
草刈景継の織田方内応を察知した、小早川隆景の動きは、素早かった。草刈一族の有力者に加増を約束し、当主景継の失脚を画策した。当主景継は、足元をすくわれた形となり、織田方内応の罪を一身に背負わされ、遭えなく自害した。隆景は、景継の舎弟重継を草刈家の当主に据え替え、草刈一族の謀反を未然に防いだ。
美作と国を接する、久米郡岩倉城主の元清主従には、他人事と想えない出来事で、毛利の形振り構わぬ所業に、元清主従は、深い憤りと疑念を感じた。
「左近。因幡・五郡、美作・九郡を領する、名門草刈家の当主伊賀守景継殿の、無念の死を想うと、やるせなさを感じる。一族と、舎弟に裏切られるとは」
「毛利にとっては、宇喜多と草刈両家が、反毛利で結束することを何としても、回避したかったのでしょう。しかし、やりようが汚すぎる。元就公直伝の、毛利のお家芸ですな」
「我が一族も、叔父の経春派が動き出す前に、手を打たなければ。明日は、我が身よ」
思案顔の元清に、元亮が
「殿。杉原盛重の郎党が、久米郡の亀谷村付近に出没し、狼藉を働いておるようです」
「腹黒い盛重の策謀癖が、始まったか。いよいよ、行動を起こしてきたな」
「元亮。明日から、騎馬隊五十名と、鉄砲隊十名を率いて亀谷村付近の警護を行え。抗う者は、たとえ杉原の家臣でも、容赦なく誅殺せよ。遠慮は無用だ」
突然の元清の厳命に、元亮は、驚き困った様子を見せ、左近に助けを求める。
「何と殿。それでは、盛重の罠に懸るようなものです」
「左近、心配は無用じゃ。杉原が、仕掛けて来るのであれば、反撃するまで。草刈家の所業を想えば、杉原と一戦交えた後に、吉川元長様を通じて、一応は正当な申し開き試みる。どうせ元春公は、嫡子元長様の意見を聞き入れず、盛重の策謀を利用し、我らに無理難題を押し付ける。その時、吉川親子に亀裂が生まれる。我らはその後、織田方与力を明確にしつつ、元長様とは、裏で連携する策を講じる。いずれは、元長様の時代が来る。元春公と盛重のねらいは、東伯耆三郡を直接統治する事。いずれ小鴨家と南条家は、草刈家と同じやり方で、弱小化され滅ぼされる。一触即発の危機をあえて逆手に取り、反毛利で、東伯耆衆の結束を固める好機。杉原の悪行を公にし、東伯耆の諸将の同意を得る」
「織田方の先鋒、羽柴勢が三木城を落とせば、全軍を因州攻略に向けて来る。毛利の攻勢を一年持ちこたえれば、形勢は逆転し、我らが優位となる。ここが踏ん張りどころよ」
「なるほど、殿の深い思慮と、覚悟に感じ入りました。避けて通れない道であれば、大道の真ん中を、正々堂々突き進む。この役目は元亮、そなたしか勤まらぬ。殿が初陣で、山中鹿之助殿と弓ヶ浜で戦った折の、あの思慮深さと、機転が思い起こされる。殿のお考えをしっかり受け止め、大役を果してくれ」
「おお左近。そなたもあの折の、元亮の機転を思い出してくれたか。神業じゃ」
左近と元亮・新十郎は、元清の深い考えを聴いて安堵した。
「それと元亮。高城城下の山間に、勝負谷と言う隠れ谷がある。佐治衆配下を居住させ、八橋城に何時でも、夜襲をかけられる野戦部隊を調練してくれ。高城城主も、元亮に任せ近郷の所領、一千石も与える。すでに、家老の永原玄蕃と黒松将監は、快諾した」
「八橋城を手中に収めることが、南条家・小鴨家の存亡を左右する。高城城は、その最前線基地となり、攻めと守りの重要な拠点なのだ。もっと早く手を打って置くべきだった」
「敵は、真っ先に高城城に攻めかかる。急ぎ、高城城に入城し、城の縄張りを見直し、臨戦態勢を整えよ。高城城が落ちれば、岩倉城も容易に囲まれる。重要じゃ・・」
「明日、黒松将監を伴い、田尻城の元周殿と元秋と合流し、三名で羽衣石城の兄を訪ね、織田方への与力を言上する。左近・新十郎は、支度をせよ」
「殿。いよいよ勝久様、鹿之助殿の無念を晴らす機会がやってきたのですね」
「左近。親父殿の無念の死を忘れてもらっては困る。それと福山玆正殿の事も」
元清主従は、反毛利・反吉川で結束し、吉川との決戦を思い武者震いした。
その後の、元清主従の動きは早かった。
翌日の午後、元亮は、夏と二人の子供を連れ、高城城の城主として赴任した。
「お夏。心細くなれば、何時でも帰ってくるのですよ」
「久様。夫を、重要な高城の城主にして頂き、大変感謝しております。今後は、お傍で久様の世話が出来ませぬが、夫と力を合わせ、杉原の侵略を高城の城で防ぎます」
照れくさそうな、元亮夫妻を、元清主従と岩倉十二勇士が見送る。
「殿。それでは出立します。高城の城は、我らで死守します」
「左近様・新十郎。殿をお頼み申す」
元亮は、高城城主として馬に跨り、騎馬隊五十・鉄砲隊二十・弓隊・槍隊と総勢二百名を引き連れ、岩倉城を出立した。元清は、いつも傍で我が身を警護し、守ってくれた、元亮の独り立ちする姿を観て期待と不安が交錯した。
「元亮よ、許せ。難しい役目を任せる。しかしどう考えても、そなたしかおらぬ」
「殿。いよいよ戦いが、始まるのですね。早いもので徳丸も来年で、七歳を迎えます」
「久。そう言えば、兄の正室、吉川の方様は、臨月を迎えたとの事。正室の御子だけに吉川家は、男子誕生を祈願しておろうな。北の方(お豊の方)の長男、兼保君は、十歳になるが、目が不自由との理由で、兄が早くに出家させた。兄は、北の方を敬愛しておる。本当の処は、吉川家の、兼保暗殺をかわす狙いが、あったようだ」
「怖い話です。それでは、吉川の方様の御子が男子であったら、南条家の嫡子ですね。今の状況からすると将来、難しい事になりますね」
「確かに。吉川家と南条家は、敵になる。吉川の方様の御子が、男子であったら兄は、暗殺される恐れがある。兄もこの事を内心は、恐れている。吉川家は、幼少の当主を擁立して、南条家を乗っ取るだろうな。兄の吉川嫌いは、この陰謀が予見されるからよ」
「何やら難しい話になった。それより、我が家族と家臣・領民を守らなければ」
先発の元亮一行を送り出し、元清主従は、鋭気に満ちていた。
「左近。我らも明後日の早朝に、田尻城に向け出立しよう」
「新十郎。元徳に使いを頼む。また、各関所を厳しくし、間者の出入りを警戒せよ」
元清主従は、毛利との決戦に向け動き始めた。
天正六年(千五百七十八年)八月二十日の早朝、元清主従は、広瀬川から小舟に乗り小鴨川を下った。川辺には、初秋を迎えるように赤蜻蛉が飛び交い、今は亡き尼子勝久主従の無念を慰めるように舞っていた。
小舟は、小鴨川から天神川に入り、舟の左手に打吹山が見えた。河口に近く成るほど川幅が広く、行きかう船も多くなって来た。岩倉城を夜明け前の、牛の刻(午前四時頃)に出発し、卯の刻(午前六時頃)には天神川河口の船着き場に到着した。
船着き場には、新十郎の知らせで、南条右衛門督元秋と、南条兵庫頭元周の家老田原市之進が出迎えに来ていた。
「殿。岩倉城下から田尻城までは、川下りなので船が便利で早く、安全です」
「殿、左近様。元秋様と田原市之進殿がお迎えに参っております」
「兄上。待ちくたびれましたぞ。早く城に参り飯を喰おう」
「四朗、市之進。出迎えかたじけない。皆の者ご苦労」
天神川の河口から十町(約1㎞)ほど、内陸の東郷湖近くに、田尻城の城郭があった。
田尻城は、この時代には珍しい平城で、三層の天守の聳える本丸を囲むように・二の丸・三の丸を形成し、内掘りには天神川の河口から水を引き込み、外堀は幅広い空堀を形成して、戦時には、東郷湖の湖水を何時で引き込めるようにしていた。
田尻山と清谷山の山裾から、東郷湖周囲に集落が広がり、漁業と稲作で領民は、豊かに暮せた。田尻山を登って行くと、大平山の山頂に出る。(この山頂から望む、眼下の景色は素晴らしい)田尻城から清谷城の舟越重敬(妻行衛)へは、二十町ほどの位置。
元秋が城主の日下山城までは、羽衣石城を目指して、長和田ヶ原の手前の山裾に位置している。羽石衣城を守る出城としての機能を、果している配置であった。
田尻城に到着した、元清主従を舟越夫婦と元周夫婦が迎えた。
「ささ、皆様。まずは、温かいしじみ汁と鱚の焼き物でお腹を満たして下され」
誠と行衛が、元清主従を客間に案内し、女中が忙しなく膳を運んで来た。
「母上、叔父上、重敬殿、行衛。世話になります」
「久と徳丸は元気ですか。近頃全く顔を魅せませぬ。小舟で来れば、近いでしょう」
「なあ左近、新十郎」
「叔父上。母上の明るい声には、力が湧いてきます」
「兄上。最近、叔母上は、清谷の我が館に良く来られ、四朗を甘やかせます」
「四朗と徳丸は、一歳違い。よほど孫が、可愛いのでしょうね」
「殿。元続殿と良く話し、孫と我が一族を守って下されよ」
誠は、戦国乱世を生き抜いた女将であった。夫、尼子誠久が四十四歳で、尼子晴久に討取られ、息子の勝久と、孫の豊若丸は、上月城にて二十五歳と五歳の若さで、自刃して果てた。深い悲しみを打ち消す様に、田尻城で元周の妻となり、夫を支えている。
気丈に振る舞う誠の姿は、何故か久の面影を映し出していた。
「母上と久は、やはり親子ですね。身のこなしが、良く似ております」
「兄上。元秋も香苗を羽石衣屋敷から、日下山城の屋敷に引取ったのですよ」
「そうか四朗。香苗殿とは、何時祝言をするのだ」
「兄上。香苗は、まだ十五歳です。母上は、香苗が十八歳になれば許すと・・」
「行衛。それでは先に子供が出来るではないか。行衛も、重敬殿に嫁いで直ぐに・・」
「兄上も姉上も香苗の事は、私達で日取りを決めます。もう勘弁して下され」
照れ臭そうな、二十六歳の大男、元秋を観て皆が大いに笑った。
朝食を終え、元周・元清・元秋・重敬と左近・市之進の六名は、田尻城の客間で今後の相談をした。(この時点での総動員兵力は、元周の配下三百、元秋二百、重敬二百、元清千の合計千七百であった)南条家中をまとめるには、高野宮城主山田佐助、上ノ山城主進ノ下総、打吹城主山名氏豊の同意を必要とした。
毛利家続将(南条家の目付役)堤ノ城主山田重直、松ヶ崎城主小森方高、河口城主川口刑部には、動きを察知されてはならない状況であった。(元清・元秋・行衛の三兄弟にとって、叔父の松ヶ崎城主小森方高との敵対は、何とかして回避したかった)この三城主の総兵力は、約一千程だが、八橋城主杉原父子の兵は、尾高城の兵も動員でき、月山富田城の吉川元長の加勢もある。
状況としては、誰が見ても不利な状況にある。しかし、毛利と一戦を交えることで、織田方の将として領地は、安堵され、生き残る事が出来る。
六名は、織田与力で衆議一決し、各戦術と役割について協議に入った。
お誠と行衛は、昼食と夕食の準備で忙しく、お互い女として戦話に参加できない立場を寂しく想った。(二人にとっては、夫の武運を信じるしかなかった)
夜も遅く、各自の役割と戦術案がまとまった。案が、まとまれば酒盛りが始まった。
「誠と行衛。酒の支度を頼む。今日は、久々に心が晴れた」
「叔父上、重敬殿。ご同意頂き、感謝します。これからが苦難の道ですが、我らの子孫存続のため、一命を落としても悔いは、ありませぬ」
「兄上。私もこのような大戦に加われ、武将としての誇りを感じます。さあ、今日は朝まで飲みましょう」
「四朗。明日はぶらりと、松ヶ崎城の叔父上を訪ねよう。二日酔いは、するなよ」
「さあ。皆に東郷湖で採れた、鰻を焼きました。天神側の鮎も、食して下さい」
「元周様。田尻城は海、川、山が近く魚介類も豊富。羨ましい限りです」
「そうか。確かに岩倉では、川魚と猪肉くらいよ。元清。左近が、愚痴を溢したぞ」
「左近は、私が想っている事を口に出しただけ。私も常日頃、そう思います」
二人の会話を聴いて、皆が大いに笑った。
この夜まとまった、大筋の戦術案は
まずは、元続と南条家老将(南条信元、信正、宗信)の了承を受ける。
元続の、了承を取り付けた上で
「元続の名代として、南条元周・小鴨元清・南条元秋の三名で、播磨の羽柴筑前秀吉に面談し、織田方への与力と申し入れする」
羽柴軍の丹波の国三木城の攻略が終了し、因幡進攻時期に合わせ、羽衣石城に南条家中を集め、衆議を行い「反毛利」で意見をまとめる。
「先代の宗勝急死の折、遺言を宗勝舎弟の南条信元(元周の父)から口上する」
「重敬殿と早瀬市之進は、山名氏豊殿を味方に誘う」
反毛利が評議されれば、この時点で吉川へ情報は洩れる。
「南条家衆議の場で、織田方与力が決定すれば、山田重直と杉原盛重が行動を起こす。両者の間者を捕え、襲撃の日時を逆に待ち伏せし、一気に殲滅する」
「その後は、吉川の大軍が伯耆へ来襲するので、長和田ヶ原に敵を誘引し、初戦の決戦を挑み鳥取城の救援を遮断する」
「羽衣石城を固く守り、鳥取城落城を待つ。その後に、羽柴勢の大軍で、雌雄を決する。我らは、本城の羽衣石城で二年間は、籠城できる防備体制を整える。
ここ半年で、羽衣石谷の守りを強化する。各出城は、吉川の大軍をかく乱させる拠点として、少数精鋭で防御する。城を捨てたり、奪い返したりして、かく乱戦を展開させる。
出城はいずれ、織田の天下になれば、取り戻す事が出来る。
一時の情に、流されないよう、城将には、戦い方を指南する必要がある」
「最後の、城を枕に討ち死にしないように」では、賛否両論し紛糾したが「吉川の鳥取城支援を此処で、足止めする事が目的」を説明し、了承を得た。
これは、三木城の攻めの最中に、竹中半兵衛重治殿の「南条家への戦術指南」として元徳に、手渡されていたもの。
「さすが、難攻不落の稲葉城を、二十名の近親者で、落城させた稀代の英雄。半兵衛殿の頭の中は、すでに因幡・伯耆攻略を進めておられる。敵に回すと、恐ろしい御仁よ」
「初戦は、大戦を仕掛け良く戦い。その後は、出城を拠点に、各所でかく乱戦展開する」この戦の難しさは、攻めと引きの、抜き差しならぬ時局を、城将が読めるかどうか。
この時局を、読み違えると、敵に各所で殲滅される恐れがある。
それから、数日後の夕暮れ。
元周・元清・元秋の三名は、羽衣石城下の南条信元の屋敷に出向き、参集した元続と、南条一族を交え密議を行った。この時、招集をかけた南条一族は、南条宗勝の舎弟三名であった。(宗勝の次弟、南条九郎左衛門信元・南条備前守信正・南条興兵衛宗信と続く)三名とも七十歳を超え、老齢を迎えた身であったが、南条家の重臣を務めていた。
元周が
「織田方与力に至る、詳細を語った」
元周の父、信元は涙を流し、毛利決別を感嘆して喜んだ。
「今は亡き兄上(宗勝)の無念を、我が命があるうちに一死を持って報いる事ができる」
「信正・宗信も異論はあるまい。我らが、寿命は限られておる。我らの一命を捧げよう」
「信正も同意でござる。杉原の所業には、我らも憤慨しておった。しかし、小鴨家が毛利に靡けば、南条家はどうにもならぬ。元清。よくぞ同意してくれた。感謝致す」
「宗信も同意です。若い衆が決心するのを待って居りました。ここは、竹中判兵衛殿の戦術を信じて、鳥取城攻防戦への吉川援軍を、この伯耆で足止めし、羽柴様の期待に応えようではありませんか。今日は、聴いていて胸が高鳴ったぞ。長生きして、良かった」
「叔父上様方に、ご了承頂き厚く御礼申し上げます。殿のお言葉を」
「元周殿・元清・元秋。福山玆正の自決の際に、我が心は乱れ、無念の涙を流すことも出来ず、今に見て居れと、自身に言い聞かせて参りました。しかし、あれから如何様にする術もなく、不甲斐ない我が才を嘆いておりました。今日は、心の痞えが執れましたぞ。いざ、杉原盛重・山田重直を血祭りに。今後の事は、元周殿と元清に任せる。急ぎ我が、内意の書を、播磨の羽柴様に届けてもらいたい。今日は、親父殿を想い飲みましょう」
屋敷には、元続の側室北の方(磯部兵部大夫康氏の妹)と元周の妻誠の方が、酒宴の支度をし、香苗を伴い、膳を運んだ。
「元秋殿。調度良いので、御一族の皆様方に香苗殿を、ご紹介なされませ。なあ元清殿」
「母上は、何と準備万端な」
「北の方様に里様が、頼まれたのです。元続の殿も承知です」
皆が、元秋に催促するような目線をおくる。
「事が、ここに至っては・・・。来年早々に、香苗と祝言を執り行います。皆様には、突然ではございますが、この場をお借りして、ご承知願います」
「殿、ご一族の皆様方。里様の御側付き、香苗と申します。元秋様を、今後ともよろしくお引き立て願います」
「何と。元秋より、香苗殿の方がしっかりしておるな」
元続の言葉に、皆が大いに笑い、酒宴は盛り上がった。
「兄上と北の方様には、仲人をお願い致します。元清の兄上には、恐れ入りますが、香苗を小鴨家の養女に迎え、私に嫁がせて頂けませぬか」
「なるほど、南条家と小鴨家の婚姻か、この時期に良い考えじゃ。これで南条家と、小鴨家の絆が、増々太くなる。両家の婚姻は、小鴨家の家臣も安堵する。任せておけ」
「元秋。これから忙しくなるの。当面は、子供づくりに励め」
元周の言葉に、大声で皆が笑う。
秋の収穫も終わり、元周・元清・元秋主従の姿は、播州の羽柴秀吉の陣に在った。佐治衆の案内で因幡の山路を越え、数日を駆けて播磨の三木城下へ入った。
三木城下は、秀吉の軍勢で溢れ要所には関所が設けられ、その都度竹中半兵衛重治の家臣として関所を通過した。(竹中家の家臣を証明する身分証は、あらかじめ半兵衛から元徳に渡されていた)
平井山本陣の竹中陣所を訪ねた数日後、竹中半兵衛が有馬温泉の湯治から戻ってきた。
「おおこれは伯耆衆の皆様、長らくお待たせした。元清殿、元周殿。堺の折以来でござるな。あれから十七年になりますが、その後の話は元徳から聴いております。五月の能見川の戦いでは、伯耆衆の奮戦を見させて頂いた。秀吉様も伯耆衆の武勇を絶賛しておられた。しかし、勝久主従には申し訳ない事をしました。義兄の勝久殿との縁であった元清殿・元周殿には、この場でお詫びしたい」
深く頭を下げる半兵衛に、元周が
「信長様の命には、何方も抗えませぬ。勝久も尼子新宮党の当主として、役目を果し本望でしょう。勝久親子の無念を想い我らは、あの折に元清と織田方への与力を決めました」
「元周殿。拙者は今年で三十五歳となり、最近は体調が優れず、数日前まで床に臥せって養生していました。二日前に元徳が、有馬の湯治宿を訪ねて参り、元周殿・元清殿が播磨の平井山本陣を尋ねて参ると聴き、急ぎ帰陣してまいった。もう我が命も長くない様なので、今後の伯耆の話をしたくてな」
聞いていた元清は、半兵衛の顔色の悪さに一抹の不安を感じた。
「平井山からは、三木城の本丸が一望に見渡せます。三木城の三重の囲みには、さぞ驚かれたでしょうな。別所勢は、全くの孤立状態。秀吉様の戦は、干し殺しと言う気の長い戦です」
元清の傍で控えていた元秋が
「半兵衛様には、お初にお目通りします。伯耆守南条元続が舎弟南条元秋でござる。三木城を二万の兵で攻めれば一月も持ちますまい。拙者であれば、一か月で三木城を落とします」元秋の率直な意見に、半兵衛が笑みを浮かべながら答えた。
「若輩者は、皆がそう申して困るのです。秀吉様の戦は、人を生かす戦。信長様のやり方とは全く異なります。三木城を囲み城兵の困窮を待ち、降参を迫る。無駄な殺し合いは、味方にも死傷者が出ます。籠城戦の力攻めの戦は、犠牲が多く後の復興が遅れます」
「元秋殿。よい面構えと、体格をしておいでよ。秀吉様にお目通りされれば、近習として所望されよう。秀吉様は元秋殿のような、精錬闊達な勇士がお好きなようじゃでな、与吉・・・」
半兵衛の傍に控えていた若武者、与吉が頷く。(後の藤堂高虎である)
「半兵衛様。元秋殿であれば、小姓衆の市松と虎之助と良い勝負が出来ますな」
半兵衛が、与吉を睨み付け
「与吉。その方は、市松と虎之助を持てあましているようじゃが」
与右衛門は、年長者である事を示したそうに
「あ奴らは、戦手柄を盾に拙者を臆病者扱いします。まったく武功者は困ります」
二人の会話を聴いていた元秋が
「貴公のお名前は」と与右衛門に向かって声をかける。
「拙者は、羽柴秀長様付き母衣衆の藤堂与右衛門高虎と申します。南条家の皆様、お見知りおき下さい」
「この与吉には、今後、南条家への使番を申し付けております。何でも申付け下され」
「明日は、安土より秀吉様が帰陣されます。午後には、お目通りが適うでしょう。色々お話ししたい事はありますが、秀吉様への謁見の後に相談しましょう」
「与吉。南条家の皆様方の持て成しを頼む。後で亀井新十郎を呼ぶように致せ」
半兵衛が、何か思い出した素振りで
「ああ、忘れるところであった。元清殿・元周殿。堺の小西の弥九郎が、今夜ここに訪ねて参ります。弥九郎は宇喜多直家殿に仕え、良い働きをしてもらっています」
「与吉。皆様を夕暮れに、秀長様の陣所へご案内致すように致せ。拙者は、これから軍議があるので失礼する。夕方、秀長様の陣所にてお会いしましょう」
半兵衛は与右衛門を置いて、陣所を退出した。
それから半時程して、亀井新十郎が半兵衛の陣所を訪ねて来た。
「元清様・元周様。上月城の攻防以来でございます。南条・小鴨の両家が揃ってお越し頂けるとは。これで因幡攻めも足場が固まりました」
「拙者は、上月城の開城後は秀吉様に仕え、宮部殿の配下で山陰攻めの準備を致しております。磯部兵部大夫殿も宮部殿与力衆として、先鋒役を務めておられます」
磯部(山名)兵部大夫は、南条元続の側室北の方の実兄で、北の方を通じて元続の織田方与力を誘っていた。
「北の方様の兄上、磯部(山名)兵部大夫康氏殿も、織田方与力とは聞いてはいたが。磯部殿の本城、夜久野城はどうされたのじゃ」
元清の問いかけに、新十郎は因幡攻めの一端を伝える。
「磯部殿は宮部勢の先鋒として、木下勢と一緒に因幡の若桜城攻略を仕掛けております。この事はまだ極秘事項です」
聞いていた元周・元秋・元清主従は羽柴勢がすでに因幡攻略に着手している事を聴き、さすがに驚いた。
新十郎の話は続く
「三木城の落城と播磨の統治は、もはや時間の問題です。すでに但馬一国は、秀長様によって統治されました」
「備前の宇喜多直家様も、秀吉様を通じて、織田方への与力を申されております。毛利の救援は、但馬口からも備前口からも入れません。別所勢には、打ち手がありませぬ」
新十郎の話を陣所の後方で、聴いていた早瀬左近が
「新十郎殿。羽柴の陣所は活気があるな。足軽まで元気で顔色が良いのはなぜじゃ」と新十郎に問いかける。
「秀吉様は、下々の者にまで声をかけ手を取り励まします。それと兵には、たらふく喰わせます。拙者も、今まで不満を言う雑兵を見たことがありません。また、秀長様の気配りも素晴らしい。秀吉様を要所、要所で旨く補佐しております」
聴いていた皆は、新十郎の自慢そうな言葉に勢いを感じた。
「三木城の囲み方も尋常ではありませぬ。羽柴勢は、戦う事よりも土木工事の方が上手い。三木城で籠城している兵も、あれでは討って出れませぬ。なにせ三重の柵で三木城を囲んでいます」
元秋が傍の与右衛門に視線を向けて
「与右衛門殿。三木城の兵はなぜあのような柵が出来るまで放置していたのじゃ。拙者には理解が出来ぬ」
与右衛門が、待ってましたとばかりに説明を加える。
「皆様。墨俣の一夜城を御存じですか。秀吉様はあの折の手法で、この三木城を一夜の内に柵で囲ったのです」
「墨俣の一夜城の話は、木曽川の上流で伐採した木材を、城の部材ごとに纏め水路で墨俣の中州に運び現地では、組立だけに専念したのです。各作業工程を分業したのです」
与右衛門の説明には、なぜか説得力があった。
「ここまでご説明すれば、皆様には察しが付くでしょう。三木城の囲み柵はあらかじめ播磨の山で伐採した木材を、一万の兵で密かに運び、夜仕事で組み立てたのです。一夜城と同じ手法です。三木城を守る兵は、朝起きて皆が驚き、嘆くばかりでした」聴いていた皆は、成るほどと感心した。
新十郎が、与右衛門の話に付け加える。
「羽柴の兵は、皆が手柄を立て一国一城の主を目指しております。虎之助・市松などはその典型です。他に佐吉・紀之介など尾張者と近江者で競っております。そうでしょう与右衛門殿」与右衛門は、新十郎の問いかけに言葉を詰まらせた。
藤堂与右衛門の出身は、石田佐吉や大谷紀之介と同じ近江の里であったが、何故か佐吉とは親しく交わることが出来なかった。
佐吉より四歳年上の与右衛門は、佐吉が同僚を見下す態度には我慢できなかった。
「そう言えば、与右衛門殿は、近江者の佐吉を殴り倒した事があったな。同じ近江者でも反りが合わぬ事もあるのかの」
聴いていた元周・元清・元秋主従は与右衛門の照れくさそうな素振りを視て笑った。
与右衛門も皆につられて大声で笑い、半兵衛の陣所は和やかな雰囲気となった。
元清が、笑いを終え
「与右衛門殿。これからの、伯州南条家をよろしくお頼み申す」と丁重に声を掛けると
「これは、元清様。伯耆の南条家を守るため、拙者も一緒に戦います。これから毛利との大戦が伯耆の地で起こりますが、秀長様と一緒になってご加勢致します。ご安心下さい」
与右衛門の高揚した言葉と態度に、皆が好感を持った。
元清は、与右衛門の素朴な人柄の内に、真の強さを秘めた力強さを感じ
「この男は、将来一国一城の太守になるだろう」と思った。(藤堂高虎の若かりし日々であった)
それから半時後の夕暮れに成り、与右衛門は元清一行を羽柴秀長の陣所に案内した。
秀長の陣所では先ほどまで軍議が開かれていたのか主だった武将が集まっていた。
「秀長様。伯州の南条元続様名代、南条兵庫頭元周殿・小鴨左衛門尉元清殿・南条右衛門尉元秋殿の御三方をお連れしました」
与右衛門が声を上げ、陣幕へ導く。
「ささ、皆様方。陣所内の席へどうぞ」
半兵衛が三人を手招きしながら、秀長へ出迎えるよう目配せする。
「おお、これは伯州の南条の方々。羽柴秀長でござる」
秀長が慌てて席を立ち丁重に出迎える。席を立つ秀長の背の高さに三人は驚いた。六尺はあろうかと思えるほどの大男で、顔立ちは中々の男前であった。
羽柴小一郎秀長は、天文九年(千五百四十年)の三月生まれ。今年で三十八歳を迎えた男盛り。
尾張愛智郡中村の貧しい百姓農家に生まれ、兄藤吉郎は義父の「竹阿弥」を嫌い家出した事から小一郎が、一家の働き者として家を守った。小さい頃は「小竹」と呼ばれ、父「竹阿弥」母「なか」と姉「とも」妹「あさひ」の五人暮らしで、小さい頃から責任感が強く、村人の面倒見がよいので村人からは慕われていた。
「藤吉郎」と「とも」は木下弥右衛門と「なか」の間に生まれた子供で、「小竹」と「あさひ」は入り婿の竹阿弥と「なか」の子供であった。
(木下弥右衛門は、戦傷が元で破傷風にかかり、長く患い病没した)
小竹は、三歳年上の兄藤吉郎の顔をよく知らないまま育った。小竹が十三歳頃に、一度兄が家に舞い戻って来た。小一郎は、藤吉郎から初めて声を掛けられた言葉を今も思い出す。
「小竹か。百姓ばかりしておっては、立身出世できにゃあ。俺が、信長様に仕え立身出世したら、小竹を迎えに来るで。待っておりゃあええ。おっかあに元気と伝えてなあ」
そう言って竹阿弥に会わない様に、米を一俵置いて慌てて家を出て行った。
小一郎は、この時の兄藤吉郎の心の優しさに接して、兄が迎えに来れば兄を支え生きて行こうと決心した。もう二十五年前の話であった。
元清が羽柴秀長を見て
「元秋。秀吉様は小人で猿面冠者と聞いていたが、秀長様は何と大男ではないか」小声で元秋に話しかける。
「兄上。秀長様の武者振りはご立派でござる」
そんな事は気にも止めず、秀長は三人を席に迎え
「元周殿・元清殿・元秋殿。陣所内なので、何も無く持て成しが出来ず申し訳ない。まあ丹波の松茸でも焼いて、一献交えながら皆を紹介しよう。与右衛門よ、丹波の松茸を早く焼かぬか。虎之助、市松は鹿肉を焼いてくれ。佐吉と新十郎その方等も手伝え」秀長の若武者を扱う、人使いに皆が感心した。
半兵衛が、居並ぶ武将の紹介を始めた。
「我が席の隣より、織田家の与力衆、蜂須賀正勝殿・仙石秀久殿・宮部継潤殿でござる」
この三人は織田家中から、羽柴秀吉に与力衆として付与された武将であった。
「其方に居並んで座って居るのが、羽柴家直臣で侍大将格の堀尾茂助・山内伊右衛門・中村孫兵次で、その他は小姓の佐吉・市松・虎之助・でござる」
半兵衛の律儀な素振りに、秀長が心配顔で
「半兵衛殿。秋の夜風がお体を冷やします。半兵衛殿は、陣屋にてゆっくりお休み成されて下さい。明日は兄上が到着します。今日もお疲れのはず、まずは安静が第一でござる。ここは拙者に任せて下され。なあ方々」と秀長は、半兵衛の体を気づかった。
秀長は、半兵衛がかなり無理をして、有馬から平井山の陣に帰陣した事を知っていた。
「伯耆衆が平井山本陣を訪ねる」と元徳から聴いて、一番喜んだのは半兵衛であった。
この頃、半兵衛は自分の余命が残されていない事を察知していた。半兵衛は、内心播磨の情勢に焦っていた。そんな中に、南条元周・小鴨元清の平井山本陣への来訪。
半兵衛は「これで山陰方面の差配は、明智殿でなく、我が殿の差配となる」と秀長に語り、秀吉の今後の最大好敵手が、明智日向守光秀である事を教えた。
半兵衛には、将来の秀吉を支える人物は、秀長以外に居ない事を確信していた。半兵衛は秀吉より、仁徳のある秀長を信頼していた。
「秀長殿あっての秀吉様。秀吉様、舎弟の秀長殿を大切に」と秀吉にも直接言っていた。
秀長の好意を快く受けた半兵衛は、笑みを浮かべて
「南条家の方々。秀長殿のご厚意に甘え、拙者は陣屋にて養生致す。元周殿・元清殿、今日は本当に嬉しかった。良い死にみやげを頂き感謝致す。今後も秀吉様を御支え下され」
秀長に伯州の南条家を託して、満足したように席を立った。
半兵衛の言葉には、生死を掛けた想いがあった。元周・元清・元秋は半兵衛の言葉を聞いて身が引き締まった。
「叔父上・兄上。もう後戻りはできませぬな」元秋が小声で語り、元周・元清も頷く。
そんな重苦しい雰囲気の中で、与右衛門の声がした。
「秀長様。宇喜多直家様家臣、小西弥九郎殿がお目通りを願っております」
「おお。弥九郎が来たか。半兵衛殿より聴いておる。通せ」
与右衛門に付き添われ、弥九郎が入って来た。
「これはご一同様。拙者は宇喜多直家が家臣、小西弥九郎と申します。本日は、予てより半兵衛様より申し出の件に付き、主人の返答文をお渡しに参りました」
と言って懐から文を取り出し秀長に直接渡す。二人は、顔見知りの様であった。
「弥九郎。そこに居られるは、伯耆衆の南条元周・小鴨元清・南条元秋殿よ。挨拶せよ」
弥九郎は、のけ反るくらい驚きを見せ
「三郎の義兄上・元周様。お会いしたかった」と大声で元清に抱きつく。
傍らに居た諸将は驚き、秀長も無邪気な弥九郎を初めて視た。
元清が懐かしそうに
「弥九郎。大きくなったな。兄上の如清殿はどうしておるのじゃ」
「兄は、秀吉様にお仕えし、堺で軍事物資の調達を任されております。その縁で備前宇喜多家へ出入りしていた折に、直家様より直接家臣への取り立てがあったのです」
「弥九郎。思い出話は、酒の席でせよ。今日は、伯州からの客人を松茸で持成そう。与右衛門・市松・虎之助、早く酒を持って来い。松茸をどんどん焼かにゃ」
虎之助が、元清に酒を注ぎにやって来た。
「元清様。拙者に見覚えありませぬか」
元清は怪訝な顔で、顔の黒く眼光の鋭い虎之助を視た。
「おお、そなたは。能見川の川瀬で槍を突いてきた、あの折の若武者ではないか」
元清には、若武者の必死の形相が思い出された。
「これは有り難い。拙者は初陣でしたので、十文字盾の兜をかぶり、人馬一体の武者を忘れることが出来ず、後日、元徳に武者の姿を語り小鴨左衛門尉元清様と知ったのです」
「あの折は、一命をお助け頂き感謝します。いかに自分が、無謀であったかを知りました」
傍で話を聴いていた、山内伊右衛門も
「能見川の戦いでは、拙者も危うい所であった。吉川の武将杉原盛重を討取ろうと、羽柴方の大勝利を確信し猛追したところ、伏兵で勇猛果敢な、騎馬武者二千騎が襲いかかって来た。味方は総崩れで拙者も慌てて全軍を退却させた。あれは、御三方であったのか」
傍の中村孫平次も
「伊右衛門。あの戦は、俺も危うい所であった。しかし、南条伯耆守騎馬隊末石弥太郎と名のった武者の突撃は、恐ろしかったの」
酒を運んで聴いていた、市松が急に涙ぐみ
「末石殿は、御見事な最後でした。負傷して馬を降りると、初陣を告げた拙者に兜首を譲ると申して介錯を迫り、弥太郎殿は見事に割腹されたのです」
「福島殿に我が首を捧げ、拙者は幸せ者と。あの時の弥太郎殿が、思い起こされます」
「弥太郎を討ったのは、福島殿だったのか。弥太郎は、我が家臣で幼い頃からの竹馬の友でした」
元周が、思い出したように語る。
「播磨への出陣前に三男が生まれ、勢い込んでいたので、拙者の傍を離れない様に注意しておったのですが、深入りし過ぎたようです。末石家は、嫡男の弥一郎に相続させました」
市松を労うように
「福島殿。これも何かの縁でござる。立身出世の折には、弥太郎の三男を家臣の列に加えて弥太郎の、はなむけとして下され」
「弥太郎殿のご子息を家臣に迎えられるよう、手柄を立てねば亡くなった弥九郎殿に、申し訳が立ちませぬ。虎之助。どちらが先に一国一城の主に成るか勝負じゃ」
市松の大きな夢を聴き、焼き松茸を肴に酒を楽しんでいた諸将が
「我らもまだ、一国一城の主で無いのに、市松の夢は大きい物よ」
と大いに笑った。
元清は、市松と虎之助・与右衛門・弥九郎を視て、この若者達に夢があることが羨ましく想えた。(鎌倉時代からの名家小鴨家当主の元清には、守るべきものがあまりにも多すぎた)
「元清殿。うつむき顔でどうされた。明日は、兄秀吉との対面。きっと信長様からのお土産もあるので今日は一緒に飲みましょう。さあ、元周殿・元秋殿も」
「兄上。あまり深く考えなさるな。どうせ、小鴨家行く末の事でしょう。しかし、羽柴様の家臣は、皆が一丸となって勢いがありますな。それに比べ、南条家は老臣ばかりで考えが固すぎる。なあ叔父上、そうでしょう」
「元秋は良いな。羽柴家中に仕えた方が、才が発揮される。秀長様どうですか」
「元周殿・元清殿。我らは、前に進むしか生き残る道が無い。進撃を停滞すると、信長様の勘気を被り誅殺される。信長様は、恐ろしいお方よ」
秀長が、信長を想った瞬間、三人には秀長の顔色が暗く見えた。
「なんじゃ。拙者まで暗くなったではないか。小六殿、明るく飲もう」
秀長と蜂須賀小六は、秀吉が足軽大将の頃より仕える古参。二人は、妙に馬が合い何時も秀吉の傍らに寄り添っていた。二人は、秀吉の奥方ねね殿からも絶大な信頼があった。
まさしくここまでの秀吉を支えたのは、半兵衛を加えた四人であった。
「皆の衆。今宵はこれくらいにして休もう。与右衛門、南条家の方々を寝所に案内致せ」
「元周殿・元清殿・元秋殿。それではまた明日。明日の朝は、新十郎と伯耆で必要な武器・兵糧を視て必要な量を申しで下され。新十郎よ頼む」
と言って秀長と諸将は陣所を退出した。
伯耆衆の寝所は、毛利の間者を恐れ、秀長の配下によって厳重に警護されていた。
「叔父上、兄上。織田方への与力は間違いありませぬ。杉原の傲慢さにようやく一矢報いることが出来ます。父上も草葉の陰で、さぞ喜んでおられましょう」
「元秋。気になる事がある。播磨の諸将の姿が、この陣所では見られぬ。能見川の戦いの折に、摂津茨木城主荒木村重殿の日和見の情景が、なぜか気にかかる。伯耆に帰って、表だって織田への加勢を公言するのは、まだ早いかも知れぬ」
「元清。そちもそう感じたか。確かに、播磨衆の姿が見えぬことは気ががりだ。何か裏がありそうじゃな。元徳と早々に会う必要がありそうじゃ」
元周が、田原市之進を手招きして
「市之進。早々に佐治衆に下知して、摂津の情勢を探索いたせ。南条家にとっての命運がかかっておる」
その夜、田尻南条家の家老田原市之進は佐治谷を目指し、平山本陣を発った。
「叔父上。我らの織田方加勢は、伯耆では当面内密にしておいた方が良さそうです」
「そうじゃな、くれぐれも口外せぬように。元秋、そちが一番心配じゃ」
「拙者よりも、左近の方が心配でござる。なあ左近」
ほろ酔い状態の早瀬左近が
「それはないでしょう。元秋様のご冗談には、困ったものです」
と言いながら自身の口を塞ぎ、岡部新十郎に向かって
「新十郎は口数が少ないから、口外する心配はないの。やはりここで一番危ないのは、拙者と元秋様でしょうな」
普段笑顔の無い新十郎が、さすがにこの時は声を出して笑った。
重苦しい雰囲気を掻き消すように、皆の顔には笑みが戻っていた。
夜が明け辰の刻に、亀井新十郎が伯耆衆の寝所を訪ねて来た。
「岡部殿、お取次願います」
お互い新十郎なので名では呼びにくいのか、亀井新十郎がかしこまって、取次の岡部新十郎に声をかける。
「亀井殿。もう少々お待ち下され。殿と元周様は、今身支度しておられます」
そこに元秋が、顔をを出し
「おお、亀井殿。本日は良しなに引き回し願います」
二人の会話の最中に、元周と元清が表に出てきた。
「それでは陣中をご案内致します。本日は、伯耆の国での戦で、必要な武器・弾薬の仮調達を命じて頂きたい。来年早々には、因幡と但馬の国境での初戦が始まります」
「今年中には堺へ鉄砲・弾薬を発注しないと、伯耆での戦に間に合いませぬ。織田方は丹波・北陸・本願寺攻めと各所で戦をしております。武器の調達は、早い者勝ち。先取りしないと他に回されます」
皆は「成るほど。これだけの戦を四方でやっているのだからな」と感心した。
この頃の亀井新十郎は、秀長直属の一軍の将として、旧尼子家臣三百名程を束ねていた。
因幡攻めの指揮官、宮部継潤・磯部兵部大夫と総勢三千名の兵力の一翼を担っていた。
羽柴軍にとって、播磨雄別所長治の謀反は、想定外の出来事であった。半兵衛にも、この出来事は予想出来なかったが、ここに至る原因はあった。
上月城攻防の最終局面で、織田信長が尼子勝久主従を見捨てた事が、迷っていた播磨衆の行動に拍車をかけてしまった。
毛利の外交交渉を担った、安国寺恵瓊は播磨中の城主に、信長の非道さと「信長は、高転びに転びける」を説いて回り、そこに松永久秀の謀反と、一向宗門徒の攻勢が決定打を与えた。播磨で羽柴勢は、苦戦を強いられていた。そんな状況を打開するために、秀吉は安土の信長を訪れ援軍の要請をしていた。
亀井新十郎の武器庫案内を終え、一同が外に出たその時、遠くから小走りに陣羽織を羽織った小男が走り寄って来た。その後を秀長主従が慌てて、追掛けて来るのが観えた。
「おみゃ様達は、伯耆衆の南条元周殿・元清殿でござるか」嬉しそうに二人の手を握る。
あっけにとられる元周・元清主従に
「待って居ったぞ。熊見川の戦いでは肝を冷やした。南条衆が、羽柴に与力してくれると半兵衛から聞いていたが、信じられなかった。伯耆は、毛利の領内ではないか」
「安土のお館様もたいそうお喜びで、南条元続には伯耆一国と、隠岐の島を与える朱印状を頂いて帰って来た。武器も兵糧も小一郎に申し付けて下され」
皆が秀吉の顔を見て
「これがあの裸一貫で、大名になった秀吉か、なんとみすぼらしい」と呆気にとられた。
秀吉の素振りと、姿に驚き、また可笑しくもあった。挨拶する事も忘れていた。
年長者の元周が、気を取り直し
「これは、秀吉様。わざわざお越し頂き、御礼申し上げます」
「よいよい。気を遣うな。その方が、南条元周殿か。そちらが小鴨元清殿で、してその方は良い面構えをしておるが」と秀吉が元秋に声をかける。
ようやく秀長主従が現れ
「兄じゃ。南条伯耆守元続殿の舎弟、南条元秋殿でござるよ」
「おお、どうりで立派な体格と面構えじゃ。南条家と小鴨家は、鎌倉時代からの名家と聞いておるぞ。元秋殿どうじゃ、しばらく我が傍で仕えよ。学ぶ事は多い」
元秋は、あっけにとられ
「拙者は、来年の伯耆での戦いの準備で忙しく、とても秀吉様のお傍に仕える事は、出来ませぬ。ご容赦願います」
屈託のない返答に、秀吉が満足そうな顔で
「何と、はっきり申したの。元秋よ、気に入った。そちは、毛利との攻防が終われば、我が傍で仕えよ。領地は、雲州の内で一国を与える。それまで待つとしよう。しっかり励め」
元清主従と元周は、二人のやり取りを聞いて、冷や汗をかいた。
「ささ、皆の者。陣屋にて、南条家の方々と一献交えよう。さあ、元秋も来い」
と言って秀吉は、元秋の手を握り陣屋へ歩いて行った。
「元清。秀長様と半兵衛様が、言っていた通りになったな」
「叔父上。秀吉様は、噂通りの人たらしですな。元秋の心を掴めば、東伯耆は手に入りますからな。しかし元秋も、良い返答をしましたな。今日は、元秋を見直しました」
この日の夜は、秀吉が諸将を集め、久しぶりに陣屋の大広間で酒を振る舞った。
「軍師殿。伯州の南条が羽柴方に加わったので、因州・伯州・雲州は勝手しだいじゃ。信長様からもお褒めの言葉を頂戴し、面目が立ったわ。日向殿は、苦虫を潰したような顔をしておったがな」
半兵衛が官兵衛を見ながら
「播磨の仕置きが思うように進んでいないので、信長様もさぞご立腹でしたでしょうな」
「おうよ。官兵衛その方の主君、小寺政職も煮え切らん男じゃ。最近、御着城には安国寺が出入りしていると聴いておるぞ」
官兵衛の顔が一瞬青ざめた。半兵衛が庇うように
「小寺なぞ放って置きませ。あのような者は宛になりませぬ。羽柴にとっては、官兵衛殿が居れば十分でござる。のう小六殿・秀長様」
聴いていた秀長が、話を播磨から但馬に移した。
「煮え切らぬ者が但馬にも居ります。山名祐豊でござるよ。裏でこそこそ、最近は重臣の太田垣を使って毛利へ密使を遣わしておるようです」
「小一郎。おみゃあは、あの爺に舐められとるきゃ。早よう隠居させや」
「太田垣なんぞは、曲者ではないか。あいつは裏で何を考えているか判らん。竹田城は即刻取上げ小一郎おみゃあが、常駐せんきゃなも。出石城に引っ込んでおると山陰路の要衝を毛利方に押えられる。なあ軍師殿」
半兵衛と官兵衛が口をそろえて
「秀長様。殿の仰せの通りです。竹田城は播磨・丹波・因幡へ通じる街道の要衝です。あそこを太田垣に任せては、なりませぬ。早々に打ち手を打ち成され」
秀長が困ったような顔で
「太田垣を攻めれば、但馬が混乱する。何か良い手は無いものかのう。半兵衛殿」
半兵衛が、元清をちらっと視て
「山名には、山名の縁のあるものを御使いなされよ。磯部(山名)大夫が大役をはたされましょう。南条殿もご加勢して下さる。策は、後日磯部殿に申し付けます」
「かたじけない、半兵衛殿」
半兵衛には、時間が無かった。傍に座っている官兵衛には、半兵衛の焦りが伝わっていた。
半兵衛の焦りを感じる程、官兵衛は播磨での自分の裁量の無さが悔やまれ、心を暗くした。
「官兵衛殿。思い通り行かぬ事もありましょう。上月城以来でござるな」
と元清が、官兵衛の傍に寄って来て酌をする。
「元清殿。かたじけない。上月城での失態で、増々播磨は混迷をしました」
「官兵衛殿のせいでは無かろうに。信長様の英断は、我ら下々の者には中々理解出来ませぬ」
元清の言葉を聴いていた秀吉が
「元清殿。そなたは思慮が深いの。よくぞ申してくれたぞ。拙者も、お館様の成され様には、時々うなされるのじゃ。何であのような所業が出来るのかの。情人には理解出来ぬ」
秀吉が官兵衛を労わる様に
「官兵衛。気にするな。まだまだ、その方にはやってもらう事が多い。半兵衛、官兵衛。二人そろってこそ、お館様の天下布武が成せるのじゃで。なあ小一郎」
「おうよ、兄様。半兵衛殿には、長生きして頂かねば。さあ暗い話は止めましょう」
「元秋殿、市松、虎之介。この大杯で飲み比べを致せ」
三人の若者の飲み比べは、大杯十杯目で元秋の勝利で終わった。
秀吉が元秋を
「伯耆者は、酒まで強いわ。あっぱれ元秋」褒め称え可愛がった。
「元清様。拙者は、明日の朝早く備前に帰ります。直家様には、南条家の事をお伝えします。我が殿よりまた連絡致しますので、連絡があるまでは行動を起こさない様にして下され」
小西弥九郎が、小声で元清の耳元でささやいた。
半兵衛はそれとなく聞き流し、南条家と宇喜多家が、備前と伯耆で盟約を交すことを期待した。
「弥九郎。よろしく頼む。叔父上と兄上ともよく相談し、直家様と行動を共にする」
「如清殿にもよろしくお伝え下され。小西殿」
元清は、二十歳になった弥九郎が頼もしく想えた。
「叔父上。弥九郎もいずれは、国持ち大名に成る素養を持っていますな」
「そうじゃな。幼い頃の思い出ばかりで、あの弥九郎がと驚くばかりよ」
酔いも深まり、各自がその場に眠り込んでいた。
「秀吉様、秀長様、半兵衛様。それでは我らは寝所にて休ませて頂きます」
「元秋は我の傍に居れ。明日まで付き合え」
皆は、笑って元秋を置いて寝所へ引き上げた。
明朝の朝早くから陣所は、騒然としていた。
与右衛門も何があったのか判らず、ただ心配そうな顔つきで立っていた。
秀吉の寝所から、元秋が慌てて出てきた。
「兄上、叔父上。一大事が発覚しました。今朝はやく目が覚めると、元徳が秀吉様、秀長様、半兵衛様、官兵衛様に何か申しておったのです。いきなり秀吉様が大声を上げたので、拙者は驚き飛び起きました。寝っころがっていた諸将も慌てて起きた次第です」
「元秋。それで元徳は、何を秀吉様にお伝えしたのじゃ」
「拙者にも良く聞えませんでしたが、秀吉様が(村重血迷ったか)の一言が聞えました」
元清、元周はお互いを見つめ「恐れた事が起った」と呟いた。
「田原市之進は何をしておるのじゃ。元徳は何故、我らを差し置いて」
「叔父上。これは元徳の深い思慮が感じられます。我らに、この情報を先に流すと、我らの身は危うく成ります。市之進と元徳が、相談して決めたのでしょう」
「成るほど。確かにこの情報が、我らに先に入ると命が無かったの。秀吉様から我らに伝わった方が良いな。元徳には感謝せねばな」
「荒木殿が謀反を起こすだろう事は、秀吉様も薄々感じておいでよ。しかし荒木殿は、信長様が一番可愛がっておった武将。秀吉様は、大げさに驚くしか無いでしょうな」
「あの半兵衛様が判らぬはずがない。我らも能見川の戦いの折、摂津勢の挙動には不審を抱いた。ここで我らも動揺せぬ様にせねば。逆に我らの価値は、高まったの」
「叔父上の仰せの通りです。この一件で、伯耆衆が寝返るのでは・・・。と秀吉様は心配するでしょう。しかし元徳の機転で、我らが驚き動揺せねば、秀吉様の信頼は深まります」
「しばらくの間、播磨は動揺するでしょうが、我らは着々と毛利との戦いに備えましょう」
「摂津の荒木が背こうと我らには関係ない。もう後戻り出来ぬわ。なあ元秋」
「叔父上の仰せの通り。我らの腹は決まっております。今更、心変わりなど出来ませぬ」
与右衛門は、三人の会話をそれとなく聴いていた。
「伯耆衆の結束は固い。しかし、村重様のお考えは判らぬ。摂津五十万石の太守で、何が不満なのか。ご恩のある信長様に謀反など。どうにも我が身では理解できぬ」
そうしている所に、秀吉への報告を終えた佐治元徳が、元周を訪ねて来た。
「皆様。お久しぶりでございます。元周様のご指示で、市之進殿と一緒に摂津に入りこんでおりました。十月に入ってから有岡の城下は慌しくなり、城内に兵糧弾薬を積んだ荷物が数珠ら状態で、城下の民はどこの兵が攻めて来るのじゃ。と噂話で持ちきりでした」
「我が手の者に、高槻城主高山右近殿と懇意の者が居たので、密かに右近殿の屋敷に忍び込みました。その折の会話より、荒木殿謀反の確証を得たのです。しかし荒木様の諸将は一枚岩ではありませぬ。高山右近様は、自刃しても反対。中川清兵衛様は優柔不断で利を追う方なので、何れ形勢が怪しく成れば荒木様を裏切ります」
聴いていた元清が
「要するに、荒木殿は何がしたいのじゃ」
「その点に関しては、某も手をつくし調べたのですが、謀反の動機がはっきりしません」
「中川家の下級の郎党が、石山本願寺に兵糧を横流しした事の発覚を恐れたとか、毛利の安国寺恵瓊から調略されたとか、足利義昭様のご下命とか。色々な情報は入っております」
「いずれも小事の話で、とても摂津五十万石を賭けるような話ではありませぬ」
安国寺恵瓊は、毛利領安芸国(現在の広島)安国寺の僧で、早くから毛利と織田家の外交を執り行い、秀吉とは何度か面識があった。
天正元年(千五百七十二年)秀吉が織田の中国攻め総督と知った時に、小早川隆景に秀吉の事を書き送っている。
「信長の世は、五年も経たぬうちに、高転びに、あおのけに転ばれるものと存ずる。秀吉さりとてはの者にて候」と秀吉を絶賛していた。
(天正十年の本能寺で、信長が討たれる十年も前に恵瓊は、信長の世は続かないと予言していたのである)
恵瓊は、秀吉に自分の価値を高く売りつけるため、播磨と摂津を縦横無尽に動き回り羽柴軍を苦境に追い込んでいた。
秀吉は、恵瓊の才を認めるしかなかった。秀吉は、この頃から官兵衛に、恵瓊と密かに気脈を通じる様に指示をしていた。
聴いていた元周・元清・元秋主従も
「摂津五十万石と言えば、伯耆の国全体より大国ではないか。村重殿は気が違ったのか」
「村重様のお傍に仕える女中からは、最近、村重様は夜な夜な、恐れおののき魘され眠れないようだった。との話を聴いております」
「戦に次ぐ戦で、精神がずたずたであったのだろうな。元徳色々ご苦労であった」
「我らは、本日の午後に播磨を発つ。秀吉様への与力は変わらぬ。安心せよ」
元徳は、事を告げてその場での長居を遠慮し、急ぎ京都を目指し旅立った。
その日の午後、南条家の諸将は、秀吉・秀長へ帰国の挨拶を終え、伯耆に向けて平井山の陣を後にした。
別れ際に秀吉は、三人の手を握り「伯耆の事お頼み申す」と涙ながらに訴えた。
半兵衛・秀長と傍に仕える諸将も芝居をする秀吉の姿に驚いたが、三人には心に残る秀吉の姿であった。
南条伯耆守には信長様からの朱印状と、奥方へ西陣の織物。それと帰る三人にも、奥方への京土産が容易されていた。
「この人は、本当の人たらしよ」と皆が思ったが、その配慮は嬉しかった。
伯耆南条家の運命を変える決断の天正六年(千五百七十八年)。三木城の羽柴本陣を訪れた、元清主従は羽柴軍の戦い方に終始驚く。
秀吉に仕える、若武者が一国一城の主をめざし日々奔走していた。そんな中、後の藤堂高虎と小西行長・加藤清正・大谷吉継・石田三成と出会う。