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 雲州月山富田城で中国八か国を治めた尼子一族は毛利元就の軍門に降る。平和な時間は長くは続かず、山中鹿之助幸盛は尼子新宮党の遺児を担いで蜂起する。混迷が深まる伯耆の国で南条家は生き残りの戦術を練る。

 尼子再興をかけた、尼子勝久主従の籠る上月山城の攻防戦に参戦する。小鴨元清は、純真な義兄勝久に接し、毛利への叛旗を意識するようになった。尼子新宮党の血脈は、小鴨元清の嫡子徳丸に受け継がれ東伯耆の戦乱は拡大する様相を見せた。


八、【尼子再興の夢】

 永禄十二年(千五百六十九年)の三月、元清と久の婚儀が行われた。元清十九歳、久十五歳であった。三月の桜が咲く松ヶ崎城へ、小鴨家重臣黒松将監と永原主税の両名が、家臣を連れ新婦の久を出迎えに訪れた。小森方高は、久を養女とし小鴨家へ嫁がせた。

 これは里と元清が、方高にお願いしたことであった。久の面目も立ち、小鴨家の面目も立った。

 方高は、松ヶ崎城内へ小鴨家の重臣を丁重に迎え入れ、出立の儀を執り行った。

 久は、里と方高の両人に挨拶を澄ませ、牛の刻に久の行列は桜咲く松ヶ崎城を後にした。久の行列を一目見ようと、大勢の城下の民衆が集まり、久は籠の中で涙を流した。

 大手門の前には、南条兵庫頭元周に連れられた室津の船宿女将の、お誠の姿があった。

「元周様、久の顔を一度だけでも見せて頂けませぬか」

「おお、そうであった。もう会えぬかもわからぬ」

 そう言って、行列の先頭の黒松将監へ

「黒松殿、拙者は小鴨元清殿の従弟兄南条元周でござる。嫁がれる久様へ、お祝い言上させて頂きたい。しばし行列を止めて頂けぬか」

 将監が慌てて、下馬して元周へ駆けより挨拶をする。

「これは、兵庫頭様、わざわざの御見送り御礼申し上げます」と挨拶しながら、行列を止めた。

 元周は、久の籠の側に寄りお誠を招く。

「久殿、お祝い申し上げる。今日は、大切なお方を連れて参りました」と言ってお敬を目通しした。

 籠の扉が開き、久が顔を出して

「元周様、お礼申し上げます」

 傍にいた、お誠の眼には、涙が溢れ声が出ない。

 久は、お誠の姿を見て事を察したのか

「元清様より伺っております。室津の母様ですね・・・」

 二人は手を取って、しばらく無言でお互いを見つめ合った。

 二人の眼には涙が溢れていた。

 元周が周囲に気をつかい

「皆が見ておりますので、それでは」と言って、籠を出立させるように将監へ合図する。

 久の行列は、松ヶ崎城下を後にして岩倉城へ向かっていった。この様子観ていた、元清と元亮、新十郎の三名は、元周の配慮が嬉しかった。(この日元清主従は、久の行列が心配で、早朝から馬を駆け、忍んで松ヶ崎城下まで出向いていた)

 岩倉城下へ続く街道沿いには、各所に小鴨家の武者を配置して、かがり火を焚き、厳重な警戒態勢を整え久の行列を警護した。

 沿道には、一目、城主の奥方様を見ようと、城下の民衆で溢れていた。

 酉の刻を過ぎた頃に、行列が岩倉城下へ差し掛かった。夕暮れ時を迎え、辺りは薄暗くなり、周囲は物々しい警戒態勢であった。城下の沿道の桜の木の下に、提灯が掛けられ、夕闇に桜の花が浮かんで観えた。岩倉城の大手門前で、籠を降りた久の手にお夏が手を添えて、城内へ導いた。

 夕闇に浮かぶ久の面影に、民衆が

「何と美しい奥方様よ」と歓声をあげた。

 十五歳の久の姿は、穢れの無い、純粋で神秘的な美しさを漂わせた。

 集まった民衆の誰かが、久の姿に、つい手を合わせ

「ありがたや、岩倉の里に春燕が舞い降りた」と小声で言った。

「久様は、岩倉の春燕よ」とまた誰かが言う。

 あっという間に、集まった民衆の口から

「岩倉を幸せにする春燕」と念仏のようにこだました。

 大手門前に集まった民衆には、帰る気配が見られない。あまりの事態に、城内で待っていた元清が、大手門前に駆けつけ、久と一緒に民衆へ挨拶をする。

「皆の者、今日は祝福ありがとう。明日の婚儀もあるので、また明日会おう」

 元清と久、若い夫婦を観た民衆は、さらに感激した。

 婚礼は、三日三晩大広間で行われた。

 初日は、小鴨家の親戚一同、二日目は家臣を交えての披露宴。三日目は、近親者でのささやかな宴で終わらせた。二日目には、南条兵庫頭元周が、南条家代表で岩倉城へ訪れお祝い言上を告げた。傍らには、久の実母(お誠)も一緒であった。

 再会した久とお誠は、親子水入らずの時間を過ごした。久の父、尼子新宮党誠久に対して、二人で手を合わせた。お誠は、元周の献身的な愛に支えられ、亡き夫、尼子誠久に対する務めを果した。

 この後、お誠は元周の側室として田尻城に迎えられた。

(岩倉城主小鴨家と田尻城主南条家には、新宮党尼子家の血縁が芽生えていった)

 元清は、久と一か月の新婚生活を岩倉城で過ごし永禄十二年の五月、南条宗元と一緒に、九州筑前へ出陣した。

 この年は、毛利氏の豊前侵攻で、九州大友宗麟との抗争が激化した。手薄になった山陰各地で、大友宗麟に呼応し、尼子の再興を願う残党が兵を上げた。宗元と元清の出陣は、後ろ髪を引かれる想いの九州滞陣となった。

 このため元清は、精鋭を岩倉城に残さなければならなかった。元清は出陣に当たり、側近の早瀬左近と、岡部新十郎の両名を、久の護衛に残した。他に、岩倉十二勇士の中で松崎衆の三名を就けた。

「元亮、佐治元徳を至急岩倉へ呼んでくれ」

 元清は、山中鹿之助の動向を気にした。

「元亮、どうも、あの鹿之助殿がこのまま大人しくするとは思えない。尼子の情報が聴きたい」

「私も気にしております。山中殿は、吉川様の幽閉館を逃亡し、後の動向が判りません。尼子の遺児を探して、各所を探索しているとの噂を耳にしております」

「久の兄は、京都に逃れ出家したと元周殿から伺った。妙な縁で、尼子家との繋がりは出来たが、毛利から離反することは出来ない。今はどうにも動けぬわ・・・」

 元亮が、元清の言葉を制して

「滅相もない。毛利を離反すれば、松ヶ崎のお母上様の小森家、南条家全てが敵になります。毛利家へ謀反など口に出すだけでも疑われます。山中殿が、大人しくしておれば良いのですが・・・」

「いや、遅かれ早かれ、山中殿は蜂起するよ。その時、岩倉城は攻められる」

「殿、豊前への出陣は、少数精鋭で参りましょう。岩倉城の守りを第一にし、不審な者は城内へ入れないように、新十郎へ申し付けておきます。今の時期は、疑われる行動を警戒する必要があります」

「いずれにしても、元徳の情報を分析し、手を打ってから出陣しよう」

 そう言って久の待つ寝所へ向かった。

 元亮は、月山富田城で戦った、山中鹿之助の雄姿を思い出していた。

「殿の申す通り、あの御仁が、大人しくしているはずがない、すっかり忘れていた。まだまだ、俺は思慮が浅いな。殿が兄の元徳を頼りにするはずよ・・・」と呟きながら、その場を去った。


 それから二日後に、岩倉城に元徳が現れた。

 この日は、午後から元清主従と、岩倉十二勇士のみで元徳の話を聴いた。

 元徳の話が始まった。

「永禄十二年の正月、山中殿は、京都東福寺で僧となっていた尼子誠久様の三男、尼子孫四朗様を探しあてました。山中殿は、早々に孫四朗様を還俗させ、尼子左衛門尉勝久と名を改め、織田家重臣明智日向守光秀様への面会を果したのです。織田の但馬、丹波方面軍司令官の光秀様としては、尼子勝久主従の支援を行う事で、信長様に中国毛利攻めの総指揮を認めてもらう機会を得たのです。光秀様から武器と資金の支援を受けた尼子主従は、さっそく尼子旧臣に尼子再興を下知し、今年の四月に奈佐日本之助の拠点、但馬国の城崎郡香住に集結したようです。今後は、海路にて渡り美保関に上陸し月山富田城を奪い返す所存かと思われます。尼子主従は、反毛利勢力を結集して織田の援助を得ることで尼子の再興を図る所存です。いよいよ中国地方の各所で、毛利と織田の勢力が覇権を賭けた争いを始めます」

「元徳、織田殿の勢力は、勢いを増しているのか」

 元徳が、織田方の近況を説明する。

「昨年の十月に、信長様は、足利義昭様を伴い京都へ上洛し、二十二日には、義昭様を足利十三代将軍に据えました。畿内の勢力は、織田方で固まりましたが、越前の朝倉義景の動きが未だに読めない状況です。信長様は、朝倉義景に上洛するよう迫っております。義景には、上洛の意志は無さそうです。今後の朝倉の動きで、北近江の浅井親子が、どう出るか状況は読めません。義景は、越前の名門朝倉一族の面目があるのでしょう。尾張の成上り大名の信長様には、従わないと思われます。そうなると、朝倉と浅井の連合軍が織田勢力と正面からぶつかり、畿内は大混乱となります。

 当然、毛利も朝倉義景を支援し織田方は、絶体絶命の危機を迎えます。

 しかし、最終的には、信長様の天下布武の勢いは、旧勢力が結集しても滅ぼせないでしょう。堺衆の豊富な軍資金と、物資の支援があります。少々時間はかかりますが、信長様はいずれ畿内を平定されます。信長様の器量は、周囲を圧倒しております。世を視る考え方と物事の価値観が違うのです。

 こんな事例がありました。

 信長様は、将軍義昭様からの副将軍宣下を断り、代わりに堺奉行の設置と、京都所司代を要求されました。名目より実益を取る、現実重視な君主なのです。朝廷は、信長様に気を遣い、右大臣の位を打診しますが拒否されました。越前の朝倉義景とは各が違います。賽の目は時として、想定外の結果を出すこともあります。当面は、織田方にとって、一時は困難な時期を迎えますが盛り返します」 

 元徳の冷静で、客観的な分析に聴いていた皆は驚いた。また、佐治谷衆の情報探索、収集網の凄さを認識させられた。

 元徳の話は、尼子の話に戻る。

「尼子の残党は、海路にて美保関から雲州に乱入するはずです。尼子本拠の月山富田城を奇襲して、奪い返し、旧尼子勢力を月山に参集させます。無難な攻め方です。この時期は岩倉城を堅く守り、尼子方へは、奥方様が勝久様の実妹であると知られては成りません。東伯耆は、大混乱に陥ります」

 聴いていた、皆の顔が暗くなる。

「元徳が申す通りよ。事は重大、城を守る左近を筆頭にして、新十郎、五平、佐助、松五郎、弥助そしてお夏、心して頼むぞ」

 一同は、元清の言葉に頷いた。

「元徳、田尻城の元周殿にも、事の子細を伝えておいてくれ。松ヶ崎城の、母上にもよろしく頼む。少し心が晴れた。今日はゆっくり飲もう」

 久に頼んでいた膳が、部屋に運ばれた。

 南条元周と、元清の心は、織田勢力の隆盛を心待ちにしていた。

 元徳には、二人の気持ちが良く解っていた。二人とも、尼子に縁のある奥方を大切に想っていた。

 久しぶりに元徳は、弟の元亮と、新十郎の三人で寝た。

「元亮、新十郎。岩倉城は、久米郡の山里。城を囲まれると逃げ場がないな。今回の元清様の豊前出陣は、尼子残党の反撃の絶好の機会となろう。それを見逃す山中殿ではない。伯耆、雲州は戦乱に巻き込まれる。久様を、実家の松ヶ崎城へ一時的に帰郷させた方が、良いと思うが如何に・・・」

「兄上、良い考えです。大殿の元伴様は、信用できますが小鴨の親戚衆は、まだまだ信用できませぬ。ここは久様、大事です。私も同意します。明日、左近様へ相談致します」

 三人は今後の事を相談して、深い眠りについた。

 翌朝、左近もこの件は快諾し、左近より元清に伝えられた。元清出陣の翌日に、久はお夏と新十郎に付き添われ、河村郡の松ヶ崎城へ帰郷した。(この事で後に岩倉城は、焼失を免れ城内へ逃れた領民も救われる)

 元清主従が、豊前に出陣した頃、勝久主従は、賀露港で奈佐日本之助の用意した船に上船して隠岐への出航を待っていた。奈佐日本之助は、但馬守護山名祐豊の水軍を任されていた海賊の総帥。

 鹿之助が、不安そうな勝久に

「殿、心配無用です。隠岐守護代佐々木(隠岐)為清には、すでに密使を送り快諾を得ております」

 勝久は、鹿之助の鋭気ある言葉に圧倒された。傍にいた立原源太兵衛久綱が

「殿、鹿之助は、尼子再興を願い三年間準備してまいりました。鹿之助を信じて、旧領月山富田山城に尼子の旗を靡かせましょう。ご心配ご無用」

 鹿之助の眼には、涙が溢れていた。奈佐の用意した戦国船三艘には、勝久を頼った尼子浪人二百名と、山名祐豊が用意した、兵糧弾薬を乗せ賀露港を出港した。出航の日は、日本晴れで日本海の波は穏やか、天がまさにこれから尼子再興の夢を賭けた戦いを祝うようなご加護日和を演出していた。

 賀露港には、奈佐の

「尼子勝久様ご出陣」の声がかん高く木魂した。

 隠岐の島では、尼子勝久支援で、隠岐一族が揺れていた。

 当主の隠岐為清は、三十歳の男盛りではあるが、優柔不断で冷静沈着。弟は、隠岐清実と清家の二人。(末弟の景房は、永禄九年の月山富田城攻防戦にて尼子方支援で戦い二十歳の若さで戦没していた。初陣で華々しい戦死となった)

 清実と清家二人の意見は、真っ向から対立していた。

 清実と景房の母は、亀月城主尼子家家老亀井の能登守秀綱の養女で側室のお万の方。

(鹿之助が亀井家の養子となり、亀井家長女を娶っていたため、清実、景房とは義兄弟の縁でもあった。次女は、後に玉造り城主湯信濃守永綱の一子、湯新十郎の妻となる)

 為清と清家の母は、正室山名祐豊の長女お千代の方で尼子、毛利には無縁で尼子方への与力については、客観的になっていた。(山名祐豊からは、お千代の方に、双方へ肩入れをし過ぎないように。と連絡が入っていた)

 しかし、尼子勝久率いる二百の兵に抗うことも出来ず、三兄弟の衆議は、隠岐一族で武勇の勝る清実が、周囲を圧倒して決着した。(この三兄弟の命運も、尼子毛利の抗争で、波乱の生涯を迎える。人の運命とは儚く、疑心暗鬼で、兄弟での抗争が絶えない戦国の世であった)

 隠岐に上陸した勝久主従は、隠岐より山陰各地の武将に「尼子勝久蜂起」を知らせた。


 永禄十二年の六月二十三日には、島根半島に上陸し忠山に本陣を据えて同志の参集を待った。大山経悟院衆徒三百余に加え、西伯耆豪族の進左吉兵衛、日野氏一族と三千余騎が集まった。七月には山中鹿之助先陣にて、新山城を落城させ本陣を移し足場を固めた。

 尼子勝久の挙兵で、雲州、伯州の状況は一変した。尼子浪人に加え、毛利家武将の杉原盛重憎し、の武将が尼子再興で勢いを増した。

 六月末には、備前、美作の浪人衆が、尼子方に加わり山中鹿之助幸盛の指示で、下関勝山城へ駐留し留守の久米郡岩倉城を囲んだ。久米郡の岩倉城下は、突然の尼子勢の襲来で混乱した。

 城代の小鴨元伴は、隠居の身ながら此処を死に時と悟り、籠城を覚悟した。

 尼子勢は、岩倉城を三千の兵で遠巻きに囲み、勝久主従の到着を待って総攻撃の体制を整えた。蟻の這い出る隙間も無い囲みで、城内への情報伝達は途絶えた。

「岩倉城危し」の報は、羽衣石城の南条元続に伝わり、岩倉城救出のため各城の城代へ援軍要請の早馬を発した。各城の城主は、毛利方の要請で、精鋭が九州へ出陣していたため、混乱に拍車がかかり、兵が中々集まらず、数日が経とうとしていた。

 どこの城も、城を守るための兵が必要で、岩倉城救援への出兵は出来ないのが実情であった。羽衣石城の城代南条元続は

「これでは、元清に申し訳が経たぬ。我一人でも岩倉城へ攻め入り尼子勢を蹴散らす」

 重臣の津村基信は元続を留めるのが精一杯。

 どうにも、もどかしい日々が続く。

 そんな中、田尻城主南条兵庫頭元周の妻お誠は、松ヶ崎城の久を訪れ、お里と密談していた。

「里様、岩倉城を救うには、私と久が勝久殿へお会いするしかありませぬ。後の事を考えるより、今は危急存亡の時、岩倉城主元清殿の妻としての役割を、久に与えてやって下さい」

 考えを聴いた里は唖然とした。

 南条元周の妻が、尼子勝久の生母であること、久が勝久の実の妹であること。毛利方に知れれば、両家の禍となるは必定。里は、悩んだが相談する兄の方高も九州へ出陣中で不在。時が無い、ここは夫の宗元が不在ではあるが、羽衣石城代の元続殿へ相談しようと、三人で急ぎ羽衣石城へ登城した。

 夜半の登城で元続も驚いたのか、甲冑姿の元続が

「母上様、お誠殿、久殿、岩倉城の救援にて城内が騒がしく申し訳ございませぬ。明日には、我が精鋭二百騎にて、岩倉救援に向かいます。悔しいですが中々兵が集まりませぬ」

「元続には、折り入って相談したいことがあり、急ぎ夜分参りました。誠どの子細を申されよ」

「元続様には、初めて私達親子の素性を明かします。私は、尼子新宮党当主国久の嫡子、尼子誠久の側室でした。尼子孫四朗勝久は、私のお腹を痛めた実の子です。新宮党の乱での折に、久を身ごもった私と、二歳の孫四朗は生き別れとなって身を潜めておりました。元周殿のご加護で、私と久はこれまで生き延びることが出来ました。まさか尼子本家に滅ぼされた、尼子新宮党の遺児、孫四朗が尼子再興の軍を起すとは、夢にも思っていませんでした。岩倉城を囲むことになるとは・・・」

「元続様、私と母は、明日岩倉城を囲む兄勝久に会ってきます。岩倉城を守備する義父と城兵の、助命嘆願に参ります。ご了承お願いします」

 呆気にとられた元続が暫らくして

「荒くれ共の居る陣へ、行かせることは出来ませぬ。ご両人に何かあれば、元清、元周殿へ申し訳が立たぬ。如何にしたものか」聞いていた里が

「元続殿。ここは、岩倉城の危急存亡の危機。今は元伴殿と、城兵二百名の命を救うことが大事。御両人様と勝久殿の親子対面をお願いしましょう」と言って元続との、夜分の密談は終えた。

 早朝を待って、お誠と久が岡部新十郎、夏と松ヶ崎城の兵に守られ、小鴨神社に本陣を据えた尼子勝久、山中鹿之助を訪ねた。

 岡部新十郎が尼子兵に

「勝久様のご母堂様が、陣中見舞いに参った。取次願いたい」と申し出る。

 鹿之助が出迎え面会すると、当時の尼子当主晴久が、叔父国久の新宮党館急襲の折。幼い勝久を抱きかかえ炎の新宮館を密かに落延びるお由の方と数人の女人の情景を物陰から幼い鹿之助は見ていた。鹿之助には、乳飲み子抱えるお由の面影がうっすらと想い起された。「何と、おゆうの方様・・・。ご無事でしたか」鹿之助の驚きは尋常でない。

「ささ」と満面の笑みで手を差し伸べる。

「勝久様がお喜びです。この地で御母君にお会いできるとはと。私も半信半疑でした。お傍の方は姫様ですか」

「なんとお美しい姫君か」と唖然とした顔で久を見つめた。

(久は、鹿之助が初めて勝久に会った時の面影に良く似ていた)

 鹿之助は、二人を陣幕内へ引き入れ

「殿、お由の方様がお越しです。妹君の久様もご一緒です」

 勝久は、一時事の事態が理解できなかったが、お由と久を見ると、感極まり

「母上ですか」と走りより無邪気に泣きじゃくる。

 旧尼子家臣も、尼子新宮党当主誠久の側室親子の対面に涙する。突然の親子の対面は、苦節十五年目にして果された。誠(由の方)が、傍らの久を紹介する

「そちの、実の妹久です。炎の新宮館を落延びる時すでに誠久様の子を授かっていたのです。久は縁あって、岩倉城主小鴨左衛門尉元清の妻となり、この城の城主の奥方となっております」

 鹿之助も勝久も驚き、久綱も呆気にとられた。周囲の武将もさすがに、兄妹の境遇を想い困惑した。

「私も今は、田尻城主南条兵庫頭元周の妻となっております。南条家は、父尼子国久に城を奪われましたが、縁あって夫誠久が河口(泊)城主の当時、囚われの身であった南条元周殿に好感を持ち、恩赦を与えました。(さわやかな少年、元周の性格を気に入った誠久が、旧領安堵を条件に家臣に誘いましたが丁重に断られた経緯があった)私と元周殿の縁については、後日説明しますが、岩倉城の兵の命は救いなさい。城下の狼藉もなりませぬ」

 母としての論とした口調に、勝久主従は、圧倒され頷いた。

 勝久主従は、誠の凛とした態度と言葉に尼子新宮党嫡子式部少輔誠久の威厳を感じた。

 翌日、岩倉城へ岡部新十郎を使者として派遣し、尼子方の総攻め中止を伝えた。

 城代の小鴨元伴は、今日が死に時と考え覚悟していたが、新十郎の話を聞き、岩倉城の降伏開城を決めた。城を包囲した尼子諸将への配慮には、無条件降伏の証として城内の兵糧弾薬を戦利品として提供することで、兵の命と岩倉城の焼失を免れた。

 城は尼子方へ渡り、小鴨元伴主従は、久と一緒に松ヶ崎城へ逃れた。尼子勝久主従は、岩倉城将に、福山次郎左衛門尉玆正を置き、雲州での決戦に備え新山城へ帰って行った。

 岩倉城落城の報は、勝山城(長府)守備の元清に届く。事の詳細は、佐治元徳の書状にて元亮を介して元清に伝わっていた。勝山城で軍議を開き、東伯耆衆の南条宗元、兵庫頭元周、小鴨元清、小森方高は軍をまとめ海路にて三原港まで帰り、備前を経由して久米郡へ入った。東から南条元続と小鴨元伴の兵に加え、因幡守護代の武田高信より加勢を受けて岩倉城を四千の軍勢で包囲した。

 城将の福山次郎左衛門尉は、元清の降伏勧告を受けて夜陰に紛れ、城を明け渡し立ち去った。(尼子勝久は、元清帰国の折には岩倉城を明け渡す事を、福山へ事前に指示していた)岩倉城下は城主元清の帰国祝でにぎわった。


 翌日の午後、元清は早瀬左近と元亮を伴い、久を迎えに松ヶ崎城に出向いた。久しぶりの東郷池周辺の景色に、無邪気に遊んだ幼い頃を思い浮かべた。二十歳になり戦に明け暮れる毎日の在り様に、心は暗く沈んでいた。

 傍らで左近が

「殿、松ヶ崎城はもう直ぐ、久様がお待ちです」の声に我を取り戻した。

 元亮が

「今日は一泊して、松ヶ崎城で東郷湖の珍味を思う存分食べたいものです」

「久しぶりの帰郷、しじみ汁も飲みたいし、左近も元亮に同感です」

 元清の顔が微笑み

「今日の夜は、母上に御馳走をお願いしよう」と言って、急に馬を走らせた。

 元清は、左近と元亮の配慮が嬉しかった。岩倉落城の重苦しい雰囲気の中、一時はどうなるかと、領主として無念の想いが重圧となっていた。

松ヶ崎城の大手門で、門番の次郎衛門が

「これは小鴨の殿、御無事のご帰還嬉しゅう存じます。奥方様は出丸屋敷でお待ちです」

「小鴨左衛門尉元清様。ご到着」と大声を上げ嬉しそうに開門する。

「次郎衛門、役目大義」

 元清が笑顔で労う。左近も

「次郎衛門の声を聴くとほっとしますな・・・」

「次郎衛門殿、これからもお元気で長生きして下され」と元亮が、声をかける。

 次郎衛門は、六十歳の還暦を迎え感極まって涙ぐむ。

「元清様は、ご立派になられ我がことの様に嬉しゅうござる」と小声で呟く。元清主従は馬を降り大手門坂を登り出丸屋敷に向かった。

 屋敷には里と久、行衛、元秋の五人が歓談していた。

「兄上、待ちくたびれましたぞ。ささこちらへ」と元秋が隣に座るよう誘う。

「四朗は、幼い時から何時も、三郎の傍で遊んでいましたなあ。あの頃と一緒です」

「久どの、三郎と四朗は仲の良い兄弟です。四朗にも良い嫁を世話してやって下され」

「四朗もそろそろ城主となる年頃、もう十七歳か」

 久は、家族の温かみを感じていた。

 松ヶ崎城での夜の宴は、方高主従に加え、田尻城主元周夫妻も加わり、久しぶりの家族の宴であった。別の部屋では、早瀬左近、加瀬木元亮、田原市之進が小森家重臣中村八郎左衛門と酒宴で盛り上がっていた。久しぶりに心休まる酒宴であった。

 久と元清は、松ヶ崎城の天守で、夜の湖面に浮かぶ船の篝火を眺めながら、お互い労苦を慰めた。

 翌朝、元清主従は、久を伴い羽衣石城の宗元と元続を訪ねた。

 羽衣石城の館は、羽衣石山の麓にあり、館の傍には羽衣石川が流れていた。

 大広間の上座敷には、宗元と元続が、二人の到着を待っていた。

「元清、元伴殿はかなり参って居ったな。城は取り戻したが、めっきり老け心配だよ」

「どうも毛利元就様も、最近具合が悪いらしい。尼子の反撃で西は大友、東は尼子と意気消沈しておられる。最近になって、亡くなられたご長男の隆元様の夢を良く観るそうだ。あの世からのお迎えが来るのでは、と冗談を言われておったわ。毛利もこれからどうなるか判らぬなあ・・・」

「父上、滅多な事を申しますな。毛利には吉川、小早川の両川があります。まだまだ毛利の世は続きます」 

 二人の会話を聴きながら元清は、ふと織田信長の状況が気になった。

 中国地方の戦いは覇権争いが長く続き、大内、尼子、毛利と覇権が移り変わり、各地の小領主が、右往左往の有様。余りの安定感の無さに、明日も知れない混沌たる状況を招いている。数十年単位で中国地方の覇者が代わる。完全に中央の統治は崩れていた。

 それに比べ織田信長は京都を抑え、天下布武を掲げて、天下統一を目指している。どうせ戦うのであれば、そんな戦いに加わりたいものよと元清は漠然と思った。

「本日、その方を呼んだのは、そろそろ隠居し、家督を元続に譲る決心をした。家臣には時を見て告げるが、兄弟(南条・小鴨両家)で、今後も東伯耆の統治に、力を合わせてほしい。尼子の騒乱が終わり次第に隠居する。久も元清と一緒に、元続を支えてほしい」

 宗元の隠居発言に三人は、驚いた。

 いよいよ元続が、南条家の九代城主となる。元清は、心待ちにしていたことだったので内心は嬉しかった。

「元清に頼みたい事がある。松ヶ崎城に住まう里を、この館に呼んで一緒に暮らしたい。その方から里へ、それとなく申し伝えてほしい。俺からは、照れくさいでのう・・・」

 今日の宗元は、いつも強気の覇気が感じられなかった。

 宗元は、の頼みを終え、若い領主達に遠慮して、そそくさと大広間を退出した。

(宗元は内心、二人の仲の良さに安堵していた)

「久殿、このたびは色々ご苦労でござった。再会した兄の勝久殿は、どの様な御仁でしたか。鹿之助殿は、勇者と聴いていますが・」

 尼子嫌いの宗元と違った面が、元続には感じられた。

「親子で考え方が全く違います。殿は調度二人の間を取り持つ役目ですね」と元清を見つめる。

 それを聴いた元続が

「親父殿と私は、考え方が全く違います。元清は、傍で私を今後も補佐してほしい」と言って元清の手を握る。

「元秋と二人で、兄上を支えます。ご心配には及びません」と言ってお互いの手を固く握りしめた。

 久は二人を見詰め、南条兄弟の絆に安心感を覚えた。(今回の件で久は、二人が毛利方と尼子方となり、反目しあうことを内心恐れていた)


 岩倉城下は、八月に入りようやく落ち着きを取り戻していた。

 そんな山里に元徳の姿があった。元徳を出迎えた元亮が

「兄上、殿がお待ちです。今回の落城で今後どう対処すればよいか相談したいとの事」

「中国地方の情勢も、信長様と将軍足利義昭様の関係がここに来てよろしくない。事態は、悪化方向に向かっている」

 二人は、大手門のくぐり、元清の待つ城内の屋敷に入って行った。

 二人を出迎えた側近の左近が

「元徳殿、殿が待ち詫びていたぞ。尼子再興の戦いが始まり雲州、伯州は大混乱じゃ。久様のご縁で、どうにか城兵の命と城は、救われた。これからどうしたものか、我らには思案がないわ。殿の相談にも応えられず、誠にもどかしいよ」

 三人は、元清の待つ部屋に入って行った。

 この時期、各地の城主は、目先の情勢に翻弄されていた。東伯耆の各城主も疑心暗鬼となり、混沌とした尼子と毛利の情勢に、不安が募った。

 部屋には、新十郎と元清が、雑談をしながら元徳の到着を待っていた。

 そこへ三人が入って来た。

「殿、恋い焦がれた元徳殿と到着です。」皆が笑って元徳を迎える。

 そこへ、久とお夏が酒と膳を運び、お夏が

「元徳様、今日は、この部屋で皆様の質問攻めに酒を交えて、お答え願います」

「お夏、しかし美しくなったな、もう嫁に行く年頃か。そこの元亮はどうか」と切り返す。

 これがまんざらでもなく、お夏が恥ずかしそうに元亮を見る。

「おお元亮、これはひょっとして。お夏は、まんざらでもなさそうではないか。殿、二人は想いあっているようですな」

「その方等は、色恋沙汰には気が利かぬ者共よ。久からは、以前に相談があったのよ。なあ久」と言って久を見る。

「殿と相談して、元徳殿が、岩倉城にお越しの折に、元亮とお夏の婚儀を行う準備をしておりました」

 聴いて動揺した新十郎が

「久様、元亮に先をこされました。私もお忘れ無きようにお願い申し上げます」と言い皆の笑いを誘った。

 久しぶりの笑い声に誘われ、隠居の元伴が部屋に入って来て、元清主従と一緒に膳を交えた。元清は、これが平和の姿との想いを強くした。


 翌日の朝、元清に招かれた、兵庫頭元周と誠が、家臣の田原市之進に守られ到着した。

 元清主従に加え、元周と市之進が加わり、元徳の情勢分析の説明が始まった。

「まずは尼子再興の情勢について、早くに尼子の旗を掲げた、隠岐三兄弟の足並みがそろっていません。密かに当主隠岐為清には吉川元春の調略が進んでおります。

 当面は、尼子優勢ですが、状況は混沌として、今後も膠着状態が予想されます。

 毛利家総帥の元就公は、痛風の病が深刻で、最近は床に臥せっておいでとの情報を得ております。元就公は、将軍足利義昭様への貢物を行っております。いずれ九州の大友とは和睦して、全軍を雲州の尼子残党討伐に向けて来ます。尼子優勢の状況に一喜一憂しては御家の存亡の危機です。当面は、毛利への忠勤を励む事が肝要です」

「次に、中央の情勢です。織田信長様は、京都に所司代を置き、堺を勢力下に加え天下布部に向け、着々と手を打っております。近江の浅井長政を妹婿に迎えたことで、尾張から京都への街道で織田を遮るものはありません。信長様は義昭様を利用し、諸国の大名へ上洛の通達し背く者は、謀反者として誅殺を謀る計画を練っておるようです。

 その槍玉が、越前の朝倉義景です。しかし朝倉を攻めると朝倉浅井の関係が崩れます。延暦寺も巻き込み、京都周辺は混迷を深めます。

 信長様は、妹婿の浅井長政を信用しており、浅井の裏切りは無いと信じて朝倉討伐の打ち手を進めております。私は、ここに信長様の驕りを感じます」

「先月、尾張へ行った帰りに久しぶりに、美濃の竹中半兵衛様を訪ねて来ました。半兵衛様は、元清様を覚えておられ、私に書状を託しました」懐から取り出し元清に渡す。

 書状には(信長様は、いずれ天下統一の先駆けとなりますが世は安定しないと思われます。拙者は、京都所司代の羽柴藤吉郎秀吉様に仕官します。

 秀吉様の軍師として、中国の覇者毛利氏とは、雌雄を決する時期が来ます。それまで東伯耆の覇者として南条・小鴨両家が一致団結して生き延びて下さい。

 くれぐれも毛利の「離間の計」には注意されよ。私の思うところは、今後も元徳を通じて連絡はするようにします)と書かれてあった。

「しかし、あの半兵衛様が、信長様の直臣を断り、羽柴様の家臣になるとは。羽柴様とはどの様な方か」

 元清は、半兵衛様が仕官する羽柴秀吉の人柄に興味を持った。

「半兵衛様は、当面は毛利方への与力を継続し、軍制を整え東西の覇者が、雌雄を決する時期が来るまで生き残れ」

 元周が、独り言のように語る。

「元周殿の申す通り、小鴨衆の軍制改革と兵の強化に当面力を注ごう」と言い、左近と元亮・新十郎を見て

「小鴨十二勇士を含め、弓隊、槍隊、鉄砲隊の編成を整え、岩倉八旗編成を考えてもらいたい。小鴨家の総動員兵力は、騎馬と歩兵を合わせ、千名が精一杯。少数精鋭で、迅速な動きが取れるよう、各隊の隊長を人選してもらいたい。隊長の人選については、重臣黒松将監と、永原玄蕃の承認を得るように。三人で、素案を早急にまとめよ」と指示した。

 元徳が

「諜報活動は、引き続き佐治谷衆に指示しております。元周様への連絡役は引き続き、新十郎でお願いします。元亮は何時も元清様の傍を離れないよう、心がけよ」と二人に申し付けた。

「増々忙しくなるの」

 左近が呟き、皆を和ませた。

 別室では、お誠と久がお夏と三人で歓談していた。三人の笑い声に誘われ、元清と元周は後を元徳と左近に任せ、部屋を退出した。

 二人が退出した後で、元徳が

「左近殿、岩倉十二勇士の面々を集めて下され。元清様の身辺警護を強化する必要があります。東伯耆の覇権を廻って、危機が迫っている」

「兄上、やはり噂は本当ですか」

 左近が怪訝な顔をして、元徳を見つめる。

 元徳が重たい口を開く

「実は、左近殿、市之進殿。毛利家豪将の杉原播磨守盛重が、元清様の暗殺を企んでいるような節がある。小鴨四朗次郎経春様を岩倉城主に据替、南条家と小鴨家の確執を狙っている。また、元周様の田尻城は、山田出雲守重直の堤ノ城と接するため、目の上の瘤の元周様もこの際一緒に亡き者にしようと、杉原と山田両名が暗殺を企てている情報を、私の手の者が探索し、知らせて来ました」

 左近と市之進が

「確かに、杉原の評判は、毛利家中でも良くない。尼子家家老職の亀井秀綱父子を、弓ヶ浜で暗殺した話は聞いた事がある」

「毛利方へ誘う話を持ちかけ、密かに弓ヶ浜に伏兵を潜ませ、亀井父子が到着次第に討ち取った。跡取りを失った亀井家は断絶した話は有名」

 一同の危機観は一気に高まった。

伯耆での盛重の評判は、良くなかった。家臣には荒くれ者が多く、城を落とせば略奪できるものは全て奪いつくし、女子供まで奴隷にして売りとばす始末。あまりの所業に元春も注意したが、酒が入ると増々豪胆になる始末。欲深く酒色を好み、剛毅溢れる武将。

 山田重直は、南条氏譜代の重臣だが、吉川元春に見込まれ、元春から伯耆のことは杉原と山田の両氏で取り仕切る様に含められていた。吉川元春の信頼が厚い老練な武将。

南条備後守宗元が、唯一この二人の勝手放題を制していた。その点では、宗元もこの二人から命を狙われる存在でもあった。

 岩倉十二勇士は、大広間に呼び出され、佐治元徳から元清の警護について細かく指示を受けた。十二勇士筆頭の北村勘九郎(松ヶ崎の弥助)が

「元亮様、新十郎様のご指示に従い、今後も役目を怠りません。いざという時は、私が殿の身代わりを務めます」

「弥助だけを死なせません。われら一丸となって殿を守ります」

 元徳は、十二勇士の成長した姿に満足して翌朝岩倉城を去って行った。

(後の岩倉城攻防で勘九郎は、その役目を果す)


 七月に入って、尼子勝久主従の動きは活発化した。

 まずは、尼子の本拠月山富田城の奪回作戦を試みたが、城将天野紀伊守隆重の計略に懸り、攻め方の秋山伊織之介が兵一千騎を失う始末。

 尼子方の形勢不利が漂う中、石州石見銀山を守っていた毛利方武将、銀山城主小田助右衛門が、三千騎で尼子方との決戦に臨んだ。

 尼子再興軍と、毛利鎮圧軍の両軍がぶつかり合った「原手の合戦」であった。

毛利方は池田・服部勢を先陣に、大将の小田助右衛門が三陣で本隊を七百騎で固めた。尼子方の山中・立原は、毛利方の陣が三陣に別れ、情報伝達が疎かな点をついて、一気に一千騎の騎馬で攻め立てた。

 戦慣れしていた、山中鹿之助の集中攻撃を池田・服部勢は、防戦できず、逃げ惑う混乱となった。老練な助右衛門は、横道権之充と鬩ぎ合い、此処が死に場所と定め一歩も引かず両軍入り乱れ雌雄が中々決しない。そこへ両軍の状況を傍観していた尼子方の隠岐為清が、ここぞとばかりに山田の陣に横から攻めかかる。

 横道が、敵将助右衛門の首をとり、勝どきを挙げたため毛利方は総崩れとなり、尼子方の大勝利となった。秋山の月山富田城敗戦の汚名は、この戦いで晴らされることとなった。

この戦いで、尼子方武将たちは「尼子再興の夢は叶う」と過信してしまった。

 そんな中、尼子方で隠岐為清の謀反が起った。

 原手合戦で、開戦の合図にも関らず、模様眺めを決めていた様子を鹿之助に咎められ、尼子勝久からの感謝状は、舎弟の隠岐清実に与えられた。為清は、毛利方の月山富田城代天野隆重を通じて、毛利方への寝返りを約束した。

 この動きを察知した、鹿之助・立原は、為清の籠る美保関本庄城(境港美保関)を急襲した。八百の兵で守る隠岐勢は、城を死守して山中・立原勢を追い詰めた。

 そこへ横道の尼子勢が、押し寄せ形勢逆転、為清主従は命からがら隠岐に落ち延びた。美保関に残された、隠岐勢四百名は、降参して大根島に幽閉されてしまった。

 隠岐に帰った為清は、尼子一門であった我が身を悔いて、囚われの兵の解放を乞いて自害して果てた。隠岐一族の汚名は、為清の潔い結末で幕を閉じた。

(後に、隠岐では、為清の事を悪く言う人はいなかった。人の情には厚いが、家臣の意見を聞きすぎる性格でもあった。長男に生まれた人の性格に多く見受けられる)

 この一件で勝久主従は、舎弟の隠岐清実が隠岐一族の当主のなることを承認した。

 この出来事は雲州、西伯耆での覇者が誰であるかを明確にした一件でもあった。

(この頃から尼子勝久主従による本領安堵状が、雲州・伯州で乱発された)

「尼子方強し」の報は、雲州・伯州に轟き、毛利の覇権は損なわれ、情勢は増々混沌としていた。

 元就は、自身の体調不安もあり、毛利の主力軍を尼子討伐に向ける決心をした。


 元亀元年(千五百七十年)の正月五日、毛利元就は、各地の城将・領主に尼子討伐の軍令を発した。一月六日に、吉田郡山城を発した総大将毛利輝元には、補佐役に吉川元春・小早川隆景従え、精鋭一万三千騎で尼子討伐に向かった。

 石州路は雪に埋もれ、大軍の山越えには難儀を極めたが、戦上手の元春・隆景兄弟の叱咤激励もあり、二十八日には飯石郡の多久和城を落とした。血気にはやる、総大将の輝元は一気に尼子勝久との決戦を唱えたが、補佐役の元春・隆景兄弟が兵の休息を理由に戦いを制した。

 この当りはさすが、歴戦の武将の感ともいえる。山中鹿之助は多久和城に籠る、立原に「思いっきり負けよ」と毛利方の主力を誘因し、迎撃する体制を執っていた。

 元春は、落城した多久和城の視察で、城内に兵糧が残ってなかった事を怪しんだ。

 このあたりの雑な仕掛けが鹿之助らしい。

「鹿之助は単純なやつよ。わざと仕掛に乗っても良いが、わが軍は行軍に次ぐ行軍で兵も疲れている。ここは休息しよう」と声を上げた。

 多久和城での休息は、毛利方の鋭気を養わせる結果となり鹿之助の謀は裏目となった。多久和城の元春へ、因幡の武田高信より援軍要請の早馬が来た。

 元春は、一月二十九日に、東伯耆の南条宗元に早馬で

「東伯耆衆は、宗元を総大将にして三千の兵で因幡に出陣し、因幡守護代武田高信と鹿野城の湯原元綱を支援せよ」と指示した。

 南条配下の将は小鴨元清、山名氏豊、南条元周・元秋、山田重直、小森方高。

 小鴨元清には、一千の兵力動員が求められていた。雪深い岩倉の里は、正月早々の出陣の命で、岩倉城下は混乱した。

「今回の因幡への出兵は気がのらぬ。因幡守護の山名豊数殿と、武田三河守様は主従関係ではないか。主従が、山名と毛利の加勢で戦い合うとは、因幡の国は大混乱よ」

「豊数様は若年、鳥取城代武田三河守高信様の執政で想うようにならず、この際に因幡守護の実権を取り戻すため、叔父の但馬守護山名祐豊様の加勢を得たと。兄元徳より聴いております。これには裏話があるようで、但馬と播磨に織田方の勢力が迫り、祐豊様にとっては背後の因幡を固めておきたい。そのため甥の側近を通じて、豊数様をそそのかし、目障りな高信様の勢力を一掃し、西を固め東の織田に備える布石のようです」

 聞いていた左近が

「これからどうなる事か、豊数様も毛利も変わり身が早いからの、武田様は川を流れる笹の葉に成らなければ良いが」と思案顔で元清を視る。

「高信様は実直な方、豊数殿は若年で周りの奸臣に操られているのよ。誰が本当の味方か判っていない。高信様も、若い豊数殿にご機嫌伺いするような人でないからな。この混乱を鹿之助殿が黙って観ていないだろう、これは三つ巴の混戦になる。雲州の混乱が因・伯州へ及ぶ。領民の生活は増々困窮するな」

 戦国の世を統一する傑物の登場を待つ主従であった。

 この年を境に、西日本一帯に戦域が拡大し、混沌とした月日が流れる。

 二月に入って、東伯耆衆の支援を得た武田軍は、天神山城を攻撃し、山名豊数は鹿野城へ逃れた。

 天神山城を抑えた高信は、東伯耆の南条・山田氏らに鹿野城を攻撃させ、鹿野城に籠った山名豊数は、抵抗空しく降伏して幽閉された。

(その後、豊数の弟豊国が、因幡守護山名氏を継いだが、またも高信と対抗するようになる。それは後の話)因幡の混乱を収め、東伯耆衆は鹿野城の守りを山田重直に任せ、領内へ帰って行った。


 二月十四日、雲州では毛利・尼子の雌雄を決した戦いが始まろうとしていた。

 毛利の精鋭、一万三千騎を迎え撃つ尼子方は、総勢八千騎、両軍は布部山で戦った。

毛利方の鶴翼の陣に対して、尼子方は、魚鱗の陣で対抗した。勝久は、布部山の小高い丘の頂上に陣を取り、毛利の陣形を見渡し、京都東福寺での出家した頃と今を比べ不思議な感慨を覚えた。

 傍に控える鹿之助に

「鹿之助、その方に感謝する。尼子傍流とは言え、再興尼子家の当主として私を出家の身から迎えこの度、毛利と雌雄を決する戦いを迎えることが出来た。新宮党の館で、無念に滅んだ一族郎党に顔向けが立つ。勝敗は、時の運。この戦いに勝利すれば、尼子再興の夢も叶う」

勝久の眼に涙が溢れた。(母お由と実の妹、久の姿を想った)

「何としてもこの戦いに勝利し、この純朴な勝久を当主として尼子再興の夢を果し、お由の方様、久様を月山富田城にお迎えしたい」と心から願った。

 昨夜、月を眺め

「主家尼子再興のため、我に七難八苦を与えたまえ」と月に向かって手を合わせた事が思い出された。(純粋な主君に純粋な心をもった家臣、苦難を分かち合いお互いが、最後の日を迎えるまで、固い主従関係であった)

 戦いは、辰の刻(午前八時前後)に中山口を守る、尼子方武将森脇市正率いる鉄砲隊の銃声で始まった。尼子の騎馬隊は、両翼の吉川、小早川の陣には目もくれず本陣の輝元に猛攻をかけた。血気盛んな輝元は

「何と、兵法の判ら尼子等。蹴散らせと」

 本陣を三段に構えて迎撃態勢を整える。

 騎馬で攻める鹿之助が

「してやったり。兵法かぶれの青二才、輝元の阿呆が。戦の勢いを知らぬやつ。勢い押せ、押せ、攻めかかれ。攻めること烈火の如し」

と勢いにのる一千騎の騎馬武者が、毛利の陣をあっという間に蹴散し、輝元の首狙いで猛進する。輝元危し、と見た右翼吉川元春と左翼小早川隆景が両翼の守りを打ち捨てて、輝元の救済に向かう。

「急や、騎馬隊尼子の後方を崩せ。槍隊は、輝元殿の盾に成れ」

 母衣衆が、各武将の連絡に走るが、混戦模様で連携が取れない。

 大軍の毛利勢にとって序盤戦は、劣勢に終始し、防戦するのが精一杯。輝元は、急死に一生を得て、元春の陣へ逃げ込む。山中、立原、横道の勇猛さには、さすがの元春・隆景も驚き、一万三千の陣形を方円の陣形に陣替えをした。

 午後からは、持久戦となり、尼子方は戦いの誘いを仕掛けるが、毛利方からは、容易に打って出ない。夕暮れになり、攻め方に一瞬の隙が生じた。

 毛利家智将小早川隆景は、この瞬間を今か、今かと待っていた。

 横道と立原の間を挟撃し、尼子の魚鱗の陣を崩し両軍の膠着状態は一気に崩れた。乱戦になれば多勢に無勢、兵の多い方が有利。

 その状況を観た元春が

「それ、全軍打ちかかれ」と総攻撃に合図を出す。

 一万三千の兵が山崩れのように一気に動いた。

 怒涛の勢いに、さすがの鹿之助も防戦しながら、しんがりを受持ち、主君勝久を新山城へ引かせることで精一杯。朝に勝ち、夕日に負ける。終わってみれば、尼子勢の猛攻を持ちこたえた、毛利勢の圧勝となった。(戦死者は同数の激戦であった)

 戦いを終え、毛利方は、月山富田城へ入城した。尼子再興は夢のまた夢になった瞬間でもあった。

(毛利の主力軍が富田城へ入城したことで、雲州の情勢は一変した)


 元亀二年(千五百七十一年)六月十四日未明、毛利家総帥毛利元就が病没した。

 高瀬城に居た吉川元春は尼子討伐を出雲・伯耆衆に任せ、急ぎ郡山城へ引き上げた。

 六月二十日、元清主従は、宗勝(昨年の暮れに家督を元続に譲り、出家して入道宗勝となった)と一緒に、山中鹿之助の立て籠もる末吉城を囲んだ。

 後日、吉川元春の兵も加わり総勢は、一万の大軍となった。抵抗は、ここまでと観念し、南条宗勝を頼り降伏の申し出を行った。

 老将で出家の身である宗勝を頼ったことは、鹿之助の策でもあった。

(まさか宗勝殿が、切腹を迫ることはなかろう。元清殿も傍に居る)

 六月二十五日早朝に、山中鹿之助幸盛は城を開城し、吉川元春に降った。

 元春は、宗勝からの助命嘆願を聞き入れ、鹿之助を許し杉原盛重の尾高城に監禁した。

(盛重は、鹿之助を斬首することを言上し、宗勝とは意見の相違があった)

 鹿之助、囚の報に、八月二十五日尼子勝久の籠る新山城も落城し、勝久主従は、奈佐日本之亮の用意した船で、隠岐に逃れた。東伯耆最後の尼子の拠点八橋城を守る城将、福山次郎座衛門玆正も、堤ノ城主山田重直に城を明け渡し、因幡へ逃れた。勝久主従が去った、雲州では、尼子残党狩りが始まり、元亀二年の秋を迎えようとしていた。


 山々が紅葉で美しい晩秋に、元清は久しぶりに久を伴い河村郡の羽衣石城に出向いた。兄の南条元続は、家督を続いで八代城主となっていた。

 お互い二十二歳で、ようやく周りの声に耳を傾ける世代となっていた。元続には、吉川家から迎えた正室のお江の方と、側室のお豊の方がいた。お豊の方は、夜久野城主磯部豊直の妹であった。

この二人は幼馴染で、お互いが相思相愛の仲となり、元続が二十歳の時に、お豊の方を羽衣石城に迎えた。二人は、仲睦まじく過ごしていた。そこに吉川経安の末の娘を元春が養女にして、半ば強引に南条元続の正室として輿入れさせた。

南条宗勝、元続には断る術もなく、すでに妻となっていたお豊の方を側室にする事になってしまった。

 元続は、豊直の面目を潰す事となり、お豊の方にも申し訳ない想いで、近頃は混沌とした日々を送っていた。(元春は養女を送り込む事で、南条家の内情を探らせた)

「元清はよいの。最愛の妻と、何時も一緒で。俺は、毎日監視されているようで心の休まる時が無い。父の家督を継いでから、吉川の監視が特に強く意識させられる」

「毛利。いや吉川は、恐ろしい。難癖つけて南条家を河村郡から追い出そうとしている」

「山田重直も、親父の前では家臣面をしているが、杉原と結託しておるようだ。最近は、この羽衣石城下に屋敷を構え、吉川の冠者を迎えておるよ。すべて元春様の差し金よ」

 元清が小声で返す

「小鴨家も一緒でござる。従弟の四朗次郎経春が、元春様の信任が厚く、盛重の娘婿河口刑部殿(泊城主)と懇意。私を追出して小鴨の跡目を狙っております」

「養父(元伴)に守られ、何とか岩倉城主としての対面は保てておりますが、刺客に対する備えを万全にしております。南条の言いなりを好まぬ親戚衆が、従弟の経春と結託し、日夜談合を重ねる有様です」

 横で二人の会話を聴いていた、久の顔は青ざめ

「元続様も殿も、物騒な話は御やめ下さい」

 久の真顔に二人は

「すまぬ。いらぬ心配をさせてしまった」と久を慰め話題を替えた。

 二人の仲睦まじい姿に元続が

「二人の仲を魅せに参ったのか。ところで子供は、まだ授からぬか。俺は二人とも懐妊中で、来年早々には、生まれるそうよ。あまり仲睦まじいと授かるのが遅くなるぞ・・・」顔を赤くした久が

「殿は、戦ばかりで添い寝をする日がありません。元続の殿に戦を任せ成され」と笑顔で元続を視る。三人は和やかな時を過ごした。       

 元清と久は、奥御殿の母のお里を見舞った。

 お里は、三年前より結核を患い養生をしていた。里が羽石衣城に移ってからは、宗勝が夫として里を傍で看病していた。宗勝としては、若い頃にほったらかした里への、せめてもの罪滅ぼしでもあった。

「母上、お加減は如何ですか」と元清夫婦が声をかけると、目を覚ましたお里が嬉しそうに

「夫婦仲良く、良く来てくれました。久も十八歳になりましたか」

 満面の笑みで二人を見詰めた。

「昨日は、行衛が夫の比時(船越)重敬殿と一緒に見舞ってくれました。二人には昨年男の子を授かり、ようやく一歳の誕生日を迎えました。行衛も母になりました。帰りに清谷城に立ち寄って、甥子に会って帰りなさい」

「ここ三年ほど戦続きで、妹の婚儀に顔を出すことも出来ず重敬殿には申し訳なく思っております。行衛の便りには嫡男が生まれたと連絡はありました。行衛も良い夫に恵まれ幸せものです」

「その方達には適いませんよ」と切替し、皆で笑った。

 部屋御出る時に、腰元のおもとを呼び出し

「おもと、苦労をかける。今後も母を頼む」

「里様は、私が見守っておりますのでご安心下さい。元清様こそ御身を大切に」

 おもとの眼には涙が溢れていた。(おもとは里の余命がわずかと知っていたが、里からは口止めされていたのであった)

「先日も、元秋様が母上、母上と部屋に走り込んで来ました。まだまだ子供です」

 元秋も十八歳になり、長江所在城を任されていた。


 その後、半刻ほど羽衣石の城下町を見物してから、元清夫妻は、羽衣石城下を発った。

 佐治元徳の忠告により、この頃元清夫妻の傍にはどこにあっても、側近の早瀬左近・岡部新十郎・加瀬木元亮、護衛は、岩倉十二勇士の北村勘九郎・横田彦四朗・杉森善右衛門・戸倉彦四朗・成相嘉助・舟原弥三郎・北村又三郎・日野勘九郎・石川又三郎・高柴弥三郎・安部助太郎・尾崎三郎四朗に加え、久の傍にはお夏が身の回りの世話と護衛を兼ね付き従っていた。総勢十八人の移動であった。

 千坂峠あたりを越えたところで、後方から

「兄上」と呼び止める声がする。主従が振り返ると、若武者が郎党数人を従え騎馬で駆けてくる。「兄上、水臭いではありませんか。私の城にも立ち寄って下され」と元秋が騎馬から降りて走り寄って来た。

「先ほど、入れ違いに母の元を訪れたら、兄上が来られていたと母に聞き、急いで追掛けて参りました。久しぶりにお会いでき嬉しく思います。坂を降りたところに茶店がありますから休憩しましょう」と言うが早いか、元清の馬の手綱を引いて坂を下って行った。

茶店にはすでに半時ほど前から、高野宮城主山田越中佐助が、元清主従を今か今かと待っていた。

 佐助を視た元秋が

「おお、これは越中殿、お元気ですか。調度我らも茶で一服しようと思って立ち寄ったところです」

「元清様、元秋様。お待ち申しておりました。実は、お二人にご相談したいことがありまして」と三人で話したいような素振りであった。

「久とその方達は、しばし控えておりように」と合図した。三人は一緒に腰掛け茶を飲みながら話した。

「重直は、私の従弟。最近、杉原への急接近で、主家の南条元続様に対する態度が尋常ではありませぬ。尼子討伐も終わり、よもやとは思いますが、心配で夜も眠れません。杉原は策略好きで、河口(泊)城主の河口刑部殿と小鴨経春殿とも懇意。小森民部方高殿も密議に同調しないか心配で。私は、南条家を決して裏切ることはありませんが、この事を元清様に申し伝えたくて、ここでお待ち申しておりました」

 南条家の東伯耆での勢力を、弱体化させるための包囲網が、着々と確立されようとしていた。

「父宗勝より、佐助殿は、浪々の身を共に過ごし、支えてくれた忠義の士と伺っております。これからも我らと一緒に、兄元続を支えて下され。我ら三兄弟の絆は固いのでご心配いりません。我ら兄弟は、元続の兄上を支え決して謀反は起しません」

 佐助の心配は「離間の計」の陰謀による、両家の反目であった。

 元清に欲があれば、腹違いの元続を除く策略に加担しかねない。しかしこの事を直接元清に確かめることは、佐助が逆に警戒される恐れがあった。老練な武将は、南条家を想うあまり元清の存念を違う方法で確かめた。

 元清の回答によっては(大事の前の小事)伏兵によって暗殺をする手筈であった。(高野宮城から千坂峠は近い。佐助は、伏兵百名ばかりを配置していた)

 みずからは事を成した後で、攻めを追い切腹覚悟の企みであった。

 元清は、佐助が並々ならぬ形相で迫って来たので、薄々は自身の危険を察知していた。

「御三兄弟の信義しかと受け止めました。今後も南条の殿を兄弟で支えてくだされ」と言って丁重に挨拶をして帰って行った。

 元亮と左近は周囲の伏兵を察知し、臨戦態勢を執っていた。十二勇士には、遠巻きに元清を守る体制を密かに固めさせていた。

 一触即発の危機を感じていた。

 佐助主従が帰るのを視て左近が

「いやはや殿、肝を冷やしました。まさか佐助様があのような覚悟で臨んでくるとは」

「左近、何を申している。佐助は、天晴ではないか南条家大事で我ら異母兄弟に兄元続の支えを頼むとは」

「元秋様は、幸せ物でござるな。佐助殿の伏兵が居たのも知らずに」と小声で囁き大きく笑うと、岩倉十二勇士も緊張が取れたのか、その場は笑いの渦となった。

 元清主従が、なぜ急いで岩倉へ帰る必要があったのか、元秋主従もようやく状況を理解し自身の浅はかさと、二人の兄の境遇が、如何に危いかを悟った。

 元秋が深刻な顔で

「左近、新十郎、元亮それと皆の者、兄上と久殿をお守りしてくれ」と言って兄元清の手を握り、元清主従の道中の無事を祈って別れた。

 夕暮れには、岩倉城へ帰城した。今回の羽衣石城の訪問では、元徳が言っていた状況を現実の危機として主従に実感させる出来事だった。

「皆の者、元徳の申す事態となった。敵はどの様な手段で襲って来るか判らないが、警戒態勢を高めてほしい。苦労をかけて申し訳ない」と家臣の労を労った。(尼子が壊滅したことで、元清主従には新たな危機が迫って来た。新手の刺客が吉川、杉原、小鴨親戚衆から送り込まれる事態となった)

 翌日から、岩倉城内には犬が要所、要所に番犬として飼われ、夜間には当直の兵と一緒に警備することになった。元清の寝所にも飼い犬を放し、刺客の侵入に備えた。(岩倉十二勇士は交代で元清の身代わりを務め、当日の元清の寝所は側近しか知らされなかった)元徳が元亮に細かく、指示していた事であった。

 元徳の指示は城内の警護の体制や、城下の兵の常駐小屋および関所の在り方にまで細かく指示されていた。弓隊、鉄砲隊は十名単位の交代制で常時出動態勢を取っていた。

 養父の元伴は

「元清、すまぬな。欲にまみれた輩が多く、その方に苦労をかける」

 元清を労い、翌日重臣を集め

「城内、城外を問わず、小鴨本家へ弓引く者は、例え親戚衆でも容赦なく誅殺せよ。南条と小鴨の両家は、一身同体じゃ。ここに小鴨・南条同盟を宣言し誓書をしたため南条元続殿に提出する。これに反するものは小鴨家への謀反とみなし、容赦なく私が誅殺する」と小鴨家総帥としての威厳を示した。(この時期に意志表明した元伴の判断は、小鴨家の分裂を抑え杉原・山田の思惑を挫いた。南条家と小鴨家の関係をここまで忠義に守ろうとする、元伴の姿勢に元清も心が熱くなり、改めて養父元伴の愛情を感じた)

 今後の動乱期、鎌倉時代から続く名族小鴨氏は、羽衣石城の南条氏と運命を共にする。

この日から岩倉城下の臨戦態勢による厳戒体制の維持は、天正十三年(千五百八十五年年)の羽柴・毛利和睦(京芸和睦)の日まで継続される。元清の苦闘は始まる。


九.【因幡・伯耆の暗雲】

 元亀二年(千五百七十一年)の晩秋に、元徳が岩倉城下に姿を現した。

 久米郡の里は稲刈取りも終わり、城下は秋の収穫を終えどこの家々でも陽気な笑い声が聞えた。

「元清様の領内は民家には明かりが灯り、家々からは笑い声がする。良い施政を行っている証拠ですな」

 一緒に歩いていた侍が

「元徳殿、岩倉の城を明け渡してから一年が経つな。穏やかな城下を猛火で炭塵にせず良かったと思うよ。勝久様の下知ではあったが」と傍の元徳に話しかける。

元徳の傍には、尼子方の八橋城主福山次郎左衛門玆正が、一人の少年を伴っていた。

 この少年は、後に鹿野城主となる亀井新十郎玆矩であった。(この時元服前の十四歳)

 三人は、岩倉城の大手門前に待っていた元亮の案内で、城内の元清を訪ねた。

客間で待っていた元清夫妻を視た、玆正が

「久姫様、ご機嫌麗しゅうございます」と言うが早いか、久の前に出て臣下の礼を執った。

亀井新十郎も、慌てて同じように礼を尽くした。

 久は、尼子勝久の実の妹君、尼子家臣にとっては、主君に次ぐ大切なお方であった。

 元清が、福山に付き従う少年に向かって

「その方の名は何と申すか」と問うと、少年は福山に目をやり返答の了承を仰ぐ。玆正が

「新十郎、心配には及ばぬ。素性を申し上げよ」

「父は玉造城主、湯左衛門尉永綱で湯新十郎と申します。現在は勝久様付きの小姓として福山様に付き従っております」

 丁重に申し述べる姿に、元清夫妻は好感をもった。久が

「新十郎は、元服はまだのようじゃが。これもご縁、岩倉城で元服なされよ」と言って元清を見る。

 元清が

「おお、そうせよ。私が烏帽子親に成る。福山殿よいかの」

「ありがたくお受け致します。勝久様も鹿之助殿も喜びましょう」

(この頃鹿之助は、尾高城から逃亡し因幡あたりで山賊をしながら再起を狙っていた)

 傍の左近が

「鹿之助殿は、元春様の顔に泥を塗って逃亡したため、諸将に捕えるよう指示が、来ている。しかし、あの杉原盛重様を欺いて、よく尾高の城を脱出したものよ」と笑う。

 次郎左衛門が

「鹿之助殿は腹痛を理由に、一日数十回の厠通いを三日三晩くり返し、警護の者を油断させ、厠の汲み取り口から脱出したようです。城内は逃亡したと、大掛かりな追っ手を差し向けましたが行方知れず。鹿之助は、暫くにおいが抜けなかったと豪快に笑っておりました。糞まれの英傑です」

 聴いていた皆が鹿之助の逃亡劇に驚く。

「英傑、鹿之助殿じゃ」と言って敵ながら天晴と褒め称えた。

 新十郎は、そんな元清を観て、元清の精錬潔白な性格を感じ好感をもった。

「福山様、ぜひとも元清様の烏帽子親で元服お願いします」

 新十郎の瞳は、明日へ向かって突き進む希望で輝いていた。

 暫くして、田尻城主南条元周夫妻が到着し、お誠と久は、福山を交えて勝久近況を聴いた。元清主従と元周主従は元徳と別室に移り、上方の情勢と周辺諸侯の状況を聴いた。

 元徳が語る

「今年の九月に信長様は、朝倉義景を支援する、比叡山延暦寺を焼き討ちをする暴挙にでました。北近江の浅井親子は、昨年の六月に姉川の戦いで敗れてからは小谷城に立て篭もっております。まずは越前の朝倉を攻滅ぼす覚悟です。将軍足利義昭様も信長憎しで、全国の諸侯に信長打倒の軍を発する密書を送りました。甲斐の武田信玄、越後の上杉景虎、伊勢長島と本願寺一向宗が、延暦寺焼き打ちの所業に怒りを示しています」

 元徳がため息交じりに

「延暦寺の焼き討ちで僧侶、女、子供皆殺しにはさすがに驚きました。明智光秀、羽柴秀吉の側近が信長様を諌めましたが、逆に総攻めの司令官に抜擢される始末。どうにも信長様の冷徹な所業には驚きます」

「信長様の天下布武は、本当に成のか」

 元清が思案顔で問うと。

「信長様の軍は、圧倒的な兵力を有しております。一時は、抵抗勢力があり停滞しますが、武力で適う武将は、甲斐の武田と越後の上杉くらいです。しかし京都と堺を制している信長様が、圧倒的に優位なのは間違いありません。一点気になるのは、信長様のご気性が激しいので、謀反が危ぶまれます。安国寺恵瓊様とお話していた時、信長は高転びに転ぶと仰っておりました。この予言は気になります」

 元周が小声で

「信長様は危い。毛利に対抗できる有力な武将は居ないのか」

「木下藤吉郎秀吉様が、頭角を現しております。軍師に竹中半兵衛様、舎弟の秀長様を要し、今では、京都奉行を任され明智光秀様と共に、織田の両翼を成しております。

永禄十二年には但馬へ侵攻して但馬守護山名祐豊様を降し、但馬本拠の出石城を秀長様に与えました。今は北近江の浅井親子攻めのため、小谷城を包囲する横山城の城主です。ご舎弟の秀長様も、中々の人物のようです」

「但馬の出石城を任された秀長様とはどの様なお方か。元徳、何とか一度お会い出来るよう兄上の義兄磯部(山名)豊直様から口添えしてもらえないか。出石であれば岩倉から二日もあれば行ける距離。あの半兵衛殿が仕える秀吉様のご舎弟秀長様にまずはお会いしたいものよ。しかし木下様の立身出世には驚かされる。信長様の草履取りから城持ちになったお方と聞いておるぞ」と言って感心を示した。

 元徳が、懐から竹中半兵衛重治からの手紙を取出し元清に渡す。

 手紙には

「朝倉、浅井はいずれ滅ぶ。いずれ播磨・丹波・因幡にて毛利との決戦となります。その時は秀吉様が、毛利討伐司令官となるので今後とも良しなに」との内容であった。

 この時点から半兵衛は秀吉が、中国攻めの司令官になるための各施策を進めていた。半兵衛は先を視て、次の一手をすでに着々と準備していた。

 元徳の話は続き

「九月末に因幡守護代武田三河守高信様に対して、但州二方郡阿勢井の城主塩谷肥前守高清殿が、天神山城の因幡守護山名豊国様の要請で叛旗を示しました。

高信様は、これを討伐するため長男の武田又太郎高久、次男与十郎高次様のご兄弟と舎弟の武田又三郎義高様を総大将に、阿勢井城を攻めました。武田方は、又太郎と与次郎様ご兄弟と重臣を多数失い、手痛い負け戦を喫し、鳥取城へ帰城しました。豊国様は因幡守護としての実権を確実なものとするため、鳥取久松城を奪い返す準備を進めています」

「高信様と塩谷肥前守様は従弟同士、山名豊国様と高信様は主従関係と主従姻戚が相争う有り様で因幡周辺は混沌としております。高信様は将来が楽しみな息子二人を失い、残った三男は十歳でまだ幼く、主従は落胆し久松城は悲しみで沈みかえっております」

「高信様も突然の事でさぞ辛かろう。どうにか立ち直ってくれることを願うしかない」

 元清は、高信から譲り受けた、四つ割菱家紋入りの脇差しを握りしめていた。

 これに同意したように、元周が

「義兄上は、さぞ無念だったろう。従弟に裏切られ、将来が楽しみな息子達を戦で失うとは」と言いながら涙ぐんだ。

(元周の律儀な心が伺える。元周と元清の二人は、高信と義兄弟の契りで結ばれていた)

 重苦しい空気が漂う部屋の襖を久が開け

「皆様、隣の部屋に酒膳をご用意しました。福山様と新十郎様もお待ちです」と言って元徳と元清、元周主従を誘った。

 元徳の久しぶりの訪問に加え、次郎左衛門の戦談義などでその夜の宴は盛り上がった。

 翌日の午前中に、小鴨神社の社殿にて、湯新十郎の元服式を終え、元徳、福山、新十郎の三人は、京都の尼子勝久の元に向かった。

 岩倉の山々が、紅葉で色づき三人の心を和ました。

 東の織田と、西の毛利による雌雄を賭けた戦いが、ここ久米郡、河村郡の諸城を巻き込んで熾烈な戦いを演じる事になるとは、この時点では誰にも予想は出来なかった。元清と久にとっても、生涯で忘れることの出来ない危機が訪れようとしていた。

 岩倉の里にも冬が訪れようとした頃、久は身籠った。

 つわりがひどく、食べ物が喉を通らない日々が続く。そんな何気ない日々の中で、夫婦の愛情は新しい命の誕生を期待して深まって行った。

 久の懐妊の報に、隠居の元伴も元清夫妻を祝福した。


 元亀三年(千五百七十二年)の正月、元清は、岩倉城で小鴨親戚衆と家臣の新年の祝賀を受けた。 元亀三年は、戦も無く穏やかな正月を迎えることが出来た。

 正月三日に、湯新十郎が岩倉城の元清夫妻を訪ねて来た。左近に伴われ、元清夫妻の待つ部屋に入って来た。

「元清様、久様。新年あけましておめでとうございます。本日は、玆正様の使いで年始早々ご機嫌伺いに参りました。私事ですが、昨年の暮れに妻を娶りました。亀井秀綱殿の次女、時子姫を娶り、山中鹿之助様とは義兄弟になりました。また亀井家の家名を相続することになり、名を亀井新十郎玆矩と改めました。今後ともお見知りおき下さい」とまずは、自身のこれまでの経緯を説明した。

 元清と久は、十五歳とは思えない新十郎のかしこまった姿と物言いに感心した。

 傍で聴いていた左近も

「あの名門亀井の家を、それは良かった。きっと義父、秀綱様も天国で涙を流して喜んでおられるだろう」と言って、杉原盛重に誅殺されて死に至った亀井親子の無念を想い出し涙ぐんだ。

(今を遡る永禄九年の千五百六十六年夏、杉原盛重は、亀井能登守秀綱親子を饗応すると言って境港の海岸に誘い出し、その留守に兵を鈴掛山城へ差し向け急襲した。秀綱親子は杉原に謀られた事を知り、急いで城に戻ったが時すでに遅く城は落城していた。親子はその場で無念の自刃で世を去った。この時秀綱の二人の娘は逃亡し、後に長女が山中鹿之助幸盛の妻となり、次女は亀井新十郎玆矩の妻となった)

「私事が先に成り失礼しました。幸盛様の伝言がございます」と言ってかしこまり

「主君勝久様は、京都に逃れご無事です。子細は、申し上げられませんが、織田家武将の明智日向守光秀様の比護を受けております。久様には、ご心配なされないようにとの事です。また幸盛様は、因幡守護山名豊国様の与力として布施の天神山城に居られます。豊国様の鳥取久松城攻略を支援なされるとの事です」と言上した。

「新十郎殿、義兄勝久殿の所在をお教え頂き感謝する。知っての通り何分当方は毛利方の監視下のため、鹿之助殿の支援は出来ぬ。今は敵味方同志ではあるが、今後の情勢でどうなるかは判らぬ。鹿之助殿には、あまり豊国様を信じないようにと伝えてくれ」

 十五歳の新十郎は、勝久の義弟元清に表裏のない人柄を感じ、好感を覚えた。

(この二人の関係は、玆矩が死を迎える慶長十七年(千六百十二年)の一月二十六日まで続く。二人はお互いを信頼し、戦国乱世を生き抜いた東伯耆の盟友であった)


 元亀三年の夏、久は岩倉城内にて元気な男の子を出産した。幼名を徳丸と呼んだ。

 徳丸の元気な産声に、元清と元伴は微笑んだ。久は家族の温かみを感じこの平和が保たれることを望んだ。出産祝いで岩倉城を訪れた実母のお誠に

「母様、私もようやく母になりました。新宮館を追われた母の心を想うと、我が子が愛おしくてなりませぬ」

「こうして岩倉城内で出産出来て、久は幸せ者です。これからは元清殿と一緒に徳丸を守り暮らす事のみを考えてまいりましょう。徳丸には私達と同じ境遇にさせる事はできませぬ。元清殿と夫(元周)で元続殿を支えて頂かねば」

「私は兄(勝久)の事が心配です。当家とは敵同志。鹿之助殿の御家再興の願いが兄の命を奪うことに成らぬかと」

 久を思いやる様に誠が

「今は敵でも明日は判りませぬ。織田と毛利の戦になれば・・。兄弟が相争うことは何としても避けたい」

 久とお誠親子は、福山次郎左衛門玆正と亀井新十郎玆矩と密かに連絡を取る決心をした。九月になって、因幡の情勢が慌しくなってきた。

 但馬に入った山中鹿之助幸盛は、山名豊国の要請を受諾し、鳥取久松城の武田高信討伐の宣言を発した。織田信長が、鹿之助の謁見を許し、四十里栗毛の名馬を与えたのは、先月の事。

 今では、山陰道の先陣役、明智日向守光秀に属し因幡攻略を任されていた。

 この状況に高信は、自ら五百騎を率いて因州巨野郡甑山城を攻めた。高信にとっては、先制攻撃で尼子勢を壊滅させ、豊国に武田勢の強さを示す狙いの戦いであった。しかし三十三歳の鹿之助は、戦上手で歴戦の勇士、攻めてくる高信の道々に予め伏兵を置き、攻めては引きながら負けを装い、高信の兵を城下に誘い込む。

「尼子勢は所詮寄せ集めの烏合の衆。蹴散らせ力押しで攻めよ」と高信が号令をかけた。その時

「火矢を放て、焼き尽くせ」

 鹿之助の号令がかかる。城下に誘い込まれた五百騎の兵馬は突然の業火に馬は嘶き、雑兵は我先に逃げ惑うばかり。さすがの勇将武田三河守高信も

「ここが最期、皆の者我に続け」と死を覚悟したのか、城の大手門に決死の突撃を仕掛ける。

「さすが高信殿、あっぱれの猛者よ。高信を囲め」

 鹿之助が、大手門を開け、待ち伏せの兵二百騎が打って出る。

 大手門前では、激戦が繰り広げられた。

 高信、絶体絶命の危機に十名程の新手の武者が駆け寄って来た。高信が

「我が命もはやこれまで」と天を仰ぎ、脇差しで首を掻き切ろうとしたその時

「兄上様、お助けに参りましたぞ」と聞き覚えのある元周・元清の声。

 尼子勢の伏兵情報は、城攻めの前夜に佐治衆の冠者より急遽、元清へ伝えられた。

 状況を知った元清は「高信危し」の懸念ありと、岩倉十二勇士に側近の左近・元亮・新十郎を加え、田尻城の南条兵庫頭元周を誘い、密かに騎馬で高信の救出に向かった。

 危機一髪、佐治衆の諜報活動で高信の命は救えた。

「山中殿へ小鴨左衛門尉元清参上。武田殿を助けに参った。しばし停戦を」と城から打って出た鹿之助に向かって声を上げる。

 その声に傍で戦っていた、亀井新十郎が駆けつけ

「これは元清様、元周様もご一緒で。如何なされたのです。皆の者戦いを止めよ!」と言って尼子軍の停戦を呼びかけた。

 鹿之助が栗毛の馬を降りて、慌てて新十郎と元清に向かって走り寄り

「新十郎どうしたのじゃ。何で戦いを止めるのじゃ」と怪訝そうな顔で見る。

「義兄上、こちらは勝久様の妹久様の夫小鴨元清様です。またこちらは勝久様の母君、お由の方様の夫南条元周様です」と一気に口上する。

 あまりの事に聴いて驚く鹿之助が慌てて

「皆の者停戦じゃ、戦を止めよ」と大声を張りあげる。

 一瞬辺りは静けさを取り戻し、双方の兵も戦う気力が失せてしまい、お互い退却の準備に取り掛かる。城内から福山次郎衛門玆正が駆けより

「鹿之助殿、元清様の下知に従いここは刀を退こう。事情を話せば、勝久様もお許しになるだろう」と言って、元清の顔を立てた。

 死地を脱した高信は、退却の帰路冷静になり自身の力攻めを悔いた。元周・元清の武者に守られながら、鳥取久松城へ帰還して行った。

 元清は翌日正式に鹿之助の元を訪れ、山名豊国様への高信様の助命を申し入れた。

「山中殿、高信様は私にとっては義兄であるお方。もう気力も失せておられる。豊国様へ助命するよう口添え願いたい」と頼み込んだ。

 鹿之助にとっては、主君尼子勝久の義弟からの申し出を断ることはできなかった。

「元清様には、我が義弟新十郎の元服ではお世話になりました。また奥方の久様の御子息徳丸君は、尼子新宮党誠久様の唯一の継承者です。元清様の申し出は、身命に換えて守りますのでご安心下され」と言って元清に礼節の儀を尽くし、高信の助命嘆願を受止めた。

鹿之助は、鳥取城引き渡しの条件として高信の助命をすることで、山名豊国の了承を得た。すっかり気力を削がれた高信は、武田家の居城鵯尾城に引き篭もった。

 別れ際に高信が

「元周殿・元清殿、栄枯盛衰とは一瞬の事。これから再起を謀れる日までは、忍従の日々となる。このたびは、義兄弟の契り忘れず、私の命を救ってくれた勇気ある行いに感謝致す」と言って涙ぐみ二人の手を握りしめた。

 高信は、元清の脇差しにそっと触れた。

(高信は元清の腰に、四つ菱の家紋入り脇差しが差されていたことが嬉しかった)

傍で観ていた左近が

「殿が十二歳の頃に会われた高信様とは、見違える衰えようです。楽しみなご子息二人を戦で失ったことが、今更ながら悔やまれます」

のちにこの戦を「因幡の田の実崩れ」と言われ、武田三河守高信の衰退を憐れんだ。

因幡守護代として、因幡での覇権を有した武田三河守高信の雄姿は、この日以降日没を迎えたように、山陰戦国史の表舞台から消えようとしていた。

 武田高信の救出を終えた元清主従は、鹿野海道から青谷山道を抜け、鉢伏山の山頂で休息を取った。秋の訪れを知らせるように、山々の木々が色づき初め山頂から眺める東郷湖の眺めは幼い頃登った思い出を回想させた。

「殿が十歳の頃、この山頂に登りましたな。あのころは、松ヶ崎の三郎として、やんちゃで、先がどうなるかと、心配ばかりしておりました」

「その頃私は、十八歳で、家督を親父信正より譲り受けました。血気盛んで領地の境を廻って、堤ノ城主山田出雲守重直の家臣と良く喧嘩をしておりました。重直の家臣は、吉川元春の厚遇に気を良くして、やりたい放題で田植えの時期は、水争いが絶えません。南条家の与力とは仮の姿で、南条家の監視役をやっている。好かぬやつよ」

「義兄上、今は毛利の世です。出雲守が増長し、杉原播磨守と東伯耆と因幡を好き勝手に体制を整えるのが奴らの目標です。そのため小鴨家と田尻南条家が目障りで仕方ないのでしょう。元続の兄は我らが守らねば裸の領主になります」

 元周が深く頷く。

「しかし義兄上、鉢伏山からの眺めは良いですね。久しぶりに、松ヶ崎城の叔父上に会いにまいりましょう」

 眼下の景色に、幼い頃の松ヶ崎城を懐かしんだ。

 一行は、馬を引きながら急な山道を下り、麻畑村を通過して麓の川上村に出た。東郷川伝いにさらに河口を目指し、夕方には松ヶ崎城下へ着いた。

 松ヶ崎城の大手門前に到着した、元清一行を視た門番の次郎衛門が

「これは岩倉の元清の殿様、田尻の元周様も。お久しぶりです」

次郎衛門、息災であったか。白髪頭になったの」と懐かしそうに声をかける。

「お里様と三郎様、四朗様、行衛様と松ヶ崎城を出て行かれ城内は閑散として、小森の殿様もこのところお元気が無く寂しい限りです」

「今日は、殿様も喜ばれるでしょう」と言って大声で

「開門。小鴨の殿様、南条元周様ご一行の到着」と満面の笑顔で叫んだ。

元清一行は、馬を降りて大手門を潜り、本丸の屋敷を目指して急な大手坂を登った。

「左近、懐かしいな。城はこんなに小さかったかの。子供の頃の城はもっと大きく想えたものよ」左近が「月山富田山城、安芸吉田城、久松山城、龍野城と天下の名城を視て参りました。松ヶ崎城を小さく感じるのも仕方のない事ですよ」

 元周が小声で

「織田様は、美濃を岐阜と改め、天下布武の印綬を使っておるらしい。北近江の浅井長政親子を攻めているとの事。京都に近い近江を制する者が、天下を制す」と元清に語る。南条家きっての情報通、元周の一面であった。

(羽石衣南条氏の情報収集元締め役は、宗元の舎弟、筆頭家老南条信正が役割を担っていた。信正隠居後は、田尻南条家当主南条兵庫頭元周が、役目を引き継いだ)

 城内出丸屋敷の叔父、小森民部方高を訪ねた。叔父は、部屋の障子戸を開け放ち、部屋から夕陽で紅く染まった東郷湖を眺めながら

「無事の帰還なにより。久より内々に知らせが参った。高信殿はご無事であったか。高信殿と私は五十歳を超えた、ようやく私も孔子の教えが理解出来るようになった」

 穏やかな湖面を眺めながら方高が呟く。

 子曰く、吾れ十有五にして学に志す

 三十にして立つ、四十にして惑わず

 五十にして天命を知る、六十にして耳順う

 七十にして心の欲する所に従いて、矩をこえず。

 聴いていた元清と元周は、方高の複雑な心の寂しさが何で癒されるのか判らなかった。

 方高の「五十にして天命を知る」との呟き声が、聴いていた二人には特に印象深く耳に残った。(時代の渦が穏やかな性格の方高を嫌が上にでも巻き込み、松ヶ崎城を凶変させる出来事が間近に迫っていた事は、現時点では誰にも予想出来なかった)

「元周殿、元清今日は久しぶりに私に付き合え。左近も市ノ進殿もご一緒に」と言って夕闇迫る出丸屋敷に五名分の膳が運ばれてきた。家臣を気づかう元清に

「岩倉の家臣へは皆別室で慰労の宴を設けておいた。さあ安心して一献交えよう」と豪快に酒を注いだ。

 元周と元清は縁側に観える東郷湖の夕日を眺め、久しぶりに郷愁を感じた。

「左近、やはり湖があると心が和む。松ヶ崎城から湖畔を眺め、酒を酌み交わすと至福を感じる」左近が「殿、城の大きさよりもこの穏やかな景色が一番ですな」と言いながら杯を重ねた。

 暫くして、 ほろ酔い加減の方高が

「二人に話したい事がある」

「昨年、丹波、但馬に織田の勢力が迫った。但馬の守護山名祐豊様は、豊国様の後見人。今回の因幡騒乱では、豊国様が尼子勢の加勢で、鳥取久松城を毛利方武将武田高信殿から奪い返した。山名と毛利の勢力均衡が崩れ、織田と毛利の勢力がぶつかり合う状態を豊国様が仕掛けた。豊国様としては、高信殿から因幡の実権を奪い返す手段だったのだが、吉川元春様は、この事態を憂慮しておられる。この事態で東伯耆の南条家への監視を強めることとなった。昨日、南条家属将の山田重直殿より内密に、毛利家への忠誠を誓うよう誓書を求められた」

 方高の顔つきが厳しく成ってきた。

 さらに方高の話は続く

「重直殿は、小鴨家と田尻南条家を警戒している。小鴨本家当主が南条家の血筋であることを快く思わぬ小鴨経春殿が結託し、当主入替えの陰謀も加わり事態を複雑にしている。元春様の側近盛重と重直の策謀よ」と言って二人を視た。

「我らは、南条本家を守ることを第一義としております。禍は避けるか、早い段階で摘み取る必要があります。吉川の飼い犬、重直とは何時か決着を付けます」

「しかし、山陰の情勢は毛利方に優位です。因幡の情勢もどうなるか」

「豊国様は信用できないお方。今は但馬山名家へ従順だが、あの方は何時も安全な所で采配している。どうもあのお方は、優柔不断な心根の持ち主と思われる」

 方高が頷き

「元春様からは、内々に南条家の目付役を申し付けられている。元続の殿を見ていると人が良く、心が清らかだ。盛重と重直はあまりに腹黒く欲深い。この後の事を考えると我が身のあり様をどうしたものか」元清には方高の心情が良く理解出来た。

 南条家と吉川元春の板挟みにあって、自身の信条とは違う行動を余儀なくされる状況に癖壁としている叔父。方高には毛利と南条の決別の日が近いことを予感させていた。

 しかし、自身の力ではどうにも出来ない大きな力が蠢いていることも分かっていた。

「お互い敵味方になろうとも、お互いを恨むことの無いよう心がけよう」と方高が四人向かって言った。今宵は東伯耆の暗雲話に、なぜか酔えない五人の酒宴となった。


 翌朝、方高の見送る姿に元清一行は、後ろ髪を引かれる想いで松ヶ崎城を発った。

「殿、方高様の寂しそうな姿が瞼に残ります」

「叔父上は、我らに南条家の行く末を託したのだろう。何事も潔いお方で昨夜の宴では、叔父上の覚悟を拝聴した。これからどのような事があろうとも、我らには南条家を守るしか道はない」

「元清。我らは、一心同体。私利私欲に走らず、主家大事で互いに忠義に励もう」と言い残し、元周一行は、馬首を田尻城へ向け埴見の脇道で、元清主従と別れた。

 時代の分水嶺を間近に迎え、元清二十三歳、元周三十一歳の働き盛りとなっていた。


 元亀から天正へ年号が改められ、千五百七十三年京都では、足利義昭と織田信長の関係が決裂を迎え、信長は、七月に山城の填島城に籠る義昭を攻めた。

昨年の暮れに、甲斐の武田信玄が三方ケ原で徳川家康を散々に蹴散らしたことで、義昭主従は、信長を討つ好機が訪れたと京都で決起した。

 その後、信玄の進軍は止まり、何故か領国甲斐へ引き返してしまった。

 梯子を外されたような形勢になった公方義昭は、将軍家としての権威を捨て信長に平身低頭することが出来なかった。元来、気位だけは高く、思考は極めて単純であった。

 負けを覚悟で填島城に籠城し、落城の折に数人の供の者と虎口より毛利を頼り脱した。

 後にこの話を聴いた元清は

「さても、天下の将軍家に有るまじき御仁。足利将軍家の名に恥じない潔さのない事よ」と言って蔑んだ。

 時代が、信長を天下人として認めた瞬間でもあった。(千三百三十六年足利尊氏によって創始した足利幕府は、十五代義昭にて二百三十七年で幕を降ろした)

 京都を脱した義昭は、毛利家と秀吉の加護で、その後の戦乱を生きながらえ慶長二年の還暦を迎えた翌年に、填島城にて没した。時代の寵児義昭は、秀吉の死から十日後に秀吉の後を追うように没した。(こんな逸話があった。秀吉が「幕府を開きたいので将軍家の養子にしてもらいたい」と義昭に懇願した。義昭が「たとえ我が身は落ちぶれても、武門の源氏足利の血は流れておる。どこの御仁とも知れない貴殿を養子にすることは、足利宗家に申し訳が立たぬ」ときっぱり断った。義昭の凛とした態度に、秀吉も無理強いは出来ず笑ってその場を取り繕うしかなかった)義昭は、秀吉に媚び諂うことをせず、終始立ち位置を変えなかった。

 義昭の将軍家としての態度は、秀吉にとっては、自身の立身出世の立ち位置を証明する存在であり、かつ秀吉にとっては信長亡き後の上から目線で語ってくる唯一の存在でもあった。この微妙な距離感を保持、演出したことが、義昭の延命につながったと言える。

 公方義昭の唯一、優れた処世術でもあった。


 話を天正元年(千五百七十三年)の岩倉城に戻す。

 この年の桜が散る頃、病気療養中の養父小鴨掃部元伴が岩倉城内にて六十九歳の生涯を終えた。元伴が元清と久を枕元に呼び

「貴殿を小鴨家の養子迎えたことで、浪々の若い頃一緒に苦労した宗勝殿との約束を果せた。我ら二人の信義を守るために、貴殿の運命を決めてしまったことを詫びたい。この後は小鴨家の事より、御身大切に久と徳丸を守り家臣・領民を守ってほしい。我が人生を振り返って観れば、前半の半生は流浪の日々であった。終わりよければ全てよし、面白き人生であった。元清感謝するぞ」

と言って大きく息をし、満足そうな笑顔を浮かべあの世へ旅立った。

 養父元伴は、清廉された人物であった。

 元伴が、小鴨家を統率したことで南条家は、東伯耆の覇権を獲得した。元伴は、宗勝の傍に控え、何時も宗勝を立て協力を惜しまなかった。

 後日、小鴨家の菩提寺永昌寺にて盛大な法要を行い、元伴の霊を弔った。

 慰問に駆け付けた宗勝は、盟友を失い、自身七十三歳を迎えたことを意識した。

「元清よ、これから小鴨家を一つにまとめる苦労を強いる事に成るがしっかり頼む。南条家と小鴨家が良好な関係であることが、近隣の領主の野望を育まない。領域を接する打吹城の山名氏豊殿とも、今まで以上に絆を強くしてほしい」と言い残し、一緒に来ていた里の方を岩倉城に留め置き、元続と一緒に羽衣石城へ帰って行った。

 久しぶりの母(お里の方)との再会に

「母上、法要に来て下さり感謝致します」

「しばらくの間、私は、久の元で孫の徳丸君と一緒に暮らします。松ヶ崎城門番の次郎衛門も一緒に連れて参りました。兄方高と大殿様には、了承を得ております」

 傍に控えていた次郎衛門が

「元清様、久様ご無沙汰しております。今日から里様の傍で下僕としてご奉公させて頂きます。岩倉城で暮せることは夢のようです」

「次郎衛門が母の傍に居てくれたら心強い。松ヶ崎城の門番は大丈夫なのか」

「息子の与一が二十歳になり、方高様にお願して門番としてご採用頂きました。親子揃って大手門の門番です」

「次郎衛門が居れば、殿も心が和む。岩倉の里は、山に囲まれこの地に長く住むとどうしても内向的な性格になってしまう。皆々の話す声も、おのずと小さくひそひそ話に聴こえてしまう。悪口を言われているようで、次郎衛門の声はこの山城によく響くだろうな」と言って皆で笑った。


 数日後の夜半に、元徳と福山次郎衛門が、岩倉城の元清を訪ねて来た。

 元徳と次郎衛門が

「元伴様のご逝去にお悔やみ申し上げます」と丁重に挨拶し、その後元徳が

「本日夜半に二人で参りました要件は、鹿之助殿と武田高信様が和解し、但馬山名祐豊様の支援を得て、因幡攻略を進めております。尼子勢は、明智日向守光秀様から山陰攻略の先陣を命じられております」と事の経緯を語った。

「山中殿は、南条家と小鴨家とは争うことの無いよう、今後連絡を密にしたいとの申し出です。今年の暮れには、尼子勢が因幡に乱入しますが、これはあくまで前哨戦です」

「竹中半兵衛様からは織田の勢いは山陽、山陰を席巻する。くれぐれも元清殿には判断を誤らぬ様伝えてほしい。との事です」

 元清傍には、左近・元亮・新十郎がいた。

「殿、ここは思案のしどころです」

「当面は、宗勝様と南条家のご重臣を味方に付けることが肝要かと」

「確かに、現在のまま織田方に加勢すると東伯耆は分裂し、同士討ちの憂き目にあう。ここは、元亮が申す内部工作を進める必要があるな」

「殿に、御提案がございます。こちらに居られる福山殿を元続様へご紹介して頂けないかものかと。福山殿は、元尼子家重臣で内政外交手腕に優れ、京都の公家衆とも親交があります。八橋城の城主も任されておりました」と元徳が、福山を推挙した。

意外な申し出に元清も

「毛利方の山田重直は、警戒するだろうな。しかし、福山殿に南条家の内部工作を行って頂くのが良いであろう。元徳の提案は私の想いと一致する。福山殿の人柄に、兄はほれ込むだろうな」

 笑みを浮かべた元清に

「元清様、主君勝久からも南条のご兄弟を守る様に仰せつけられております。尾高城の杉原盛重は、黒く、いずれ奸計を謀り、南条家の領地を我がものとします。南条家を守るには織田の勢力を味方にする必要があります」

 福山の話を聴いた元清主従は、この夜南条家を織田方にする中心的勢力として活動することを決めた。迷いが消えた主従には、不安が解消され、前向きな躍動感が漲った。

 普段は、大人しく口数の少ない新十郎が

「殿、毛利を蹴散らし杉原と山田を、討ちましょう」と気勢を上げた。(この日を境に、小鴨家は反毛利に向けた諜報活動を進めて行く)

 密談を終えた頃を悟ったのか、久が元亮の妻夏と一緒に、部屋へ膳を運んで来た。

 夏は、二人目の子供をお腹に身ごもっていたため、動作が窮屈そうに見えた。

「元亮、そちは殿より励むの。いつ子づくりができるのじゃ」

「元亮の得意技は、朝駆けのようじゃ。夜中は、殿の警護で一睡もしていないので、俺も不思議に思って」

 夏が照れ臭そうに

「左近殿、成り行き任せですよ」と言って、皆の笑いを誘った。

この夜の宴席は、元清主従の決起集会となり、酒の量も増えた。

「久しぶりに、殿の晴れやかなお顔を見ることが出来ました。福山様、元徳殿これからも夫を支えて下され」と久が、二人に囁いた。

 福山は、久の顔を視て、尼子新宮党当主尼子誠久の在りし日を想い、涙を流した。

「誠久様がご存命ならば、尼子家が小鴨家を守ったはず。誠久様の血筋は徳丸君に受け継がれております。尼子再興の夢はまだ潰えておりませぬ」と久と元清に語った。

 久は亡き父、誠久を想う福山に

「福山様や、山中様の忠義な家臣を持って兄は、幸せ者です。どうか兄を今後とも支えてやって下され」とそっと福山の手を取り言葉を添えた。

(尼子新宮党の心意気は、今も雲州月山富田城の新宮谷館跡に気が満ちている)

 その場に居た主従は、尼子新宮党の乱で、無念にも憤死した誠久兄弟・親子を想い、涙を流した。(吉川元春は、南条家を弱体化させるため、小鴨家謀反をでっち上げ、いずれ両家を対立させる陰謀を企てることが想定された。元清主従は、尼子新宮党と同じ境遇に至らぬよう警戒していた。誠久の憤死は、我がことの様に思えてしまった)

 翌日、元清は、重臣黒松将監国時と永原玄蕃惟定を呼び出し、元伴亡き後の久米郡一帯の防備体制について協議した。

 美作街道筋の重要拠点、亀井城と湯関城には重臣の黒松と永原を城将に据え、下福田城と高城城、三江城の出城には小鴨十二勇士の北村勘九郎、横田彦四朗、杉森善右衛門の三名を城代に抜擢し充てた。外堀を守る、防衛線の市場城には、側近の早瀬左近を入れ。家ノ後城と広瀬城には、側用人の岡部新十郎と加瀬木元亮を城代にした。

 側近で、岩倉城近郷の城を固めることで、通行の出入りを監視させ、美作街道の要衝入口には精鋭を駐屯させ重臣で守らせた。 主要な出城八城に、岩倉本城で防衛体制を固めた。

 岩倉城の外堀は三間幅に幅を拡張し、掻きだした土を高く積んで固め、出入り口には丸太で櫓を組み土塀からは鉄砲・弓矢で狙える構えにした。出入り口は、入ってくるほど間口が狭まり大軍では進みづらい構造にするため土木工事を急いだ。

 四月から工事に懸り、十月でほぼ工事を完了した。

 岩倉城の天守からは、扇形に広がった土塁と防護柵、砦の配置が良く観えた。

「福山殿、岩倉城を要とした防御体制の構築ご苦労でござった。みごとな縄張りが見て取れる。これで吉川勢が、一万の兵で攻めて来ても、半年は持ちこたえる体制は整った。羽石衣城と連携して一年籠城できれば、吉川勢は冬になり兵糧が途絶える」

 四月から、全体の工事を指揮していた福山は

「元清様、この縄張りは、月山富田城の配置を真似たものです。岩倉城を富田城に見立て各所の配置を整えました。富田城は、中国八か国の太守尼子経久様が、築城された巨大な城塞。この縄張り全体を知る者は、尼子家臣の中でも私くらいです。岩倉城の規模は小さくても、容易には落とせませぬ」

「そうか、元亮どうりで依然見たような眺めであったの」と元清は、月山富田城攻めの折、小高い陣地で眺めた富田城を思い浮かべた。

 傍の元亮が

「私もどこかで観た景色に似ていると思って、眺めておりました。さすがに富田城の小型版とは、誰も気が付きませんでした」

「今から十年前ですか。私が、初めて岩倉城を攻略した時、天守から眺めた景色が、故郷の富田城からの眺めと良く似ていたので、郷愁に誘われ涙を流したのです。岩倉の里は、富田の里と実に地形が良く似ておりました。この度、元清様よりご下命があった時、すでに私の構想は、まとまっておりました」

 傍らに控えていた、左近が

「殿。増々ご縁が深まりましたな。尼子新宮党の魂は、岩倉の里に受け継がれました」

「南条の殿には、岩倉城にお越し頂き、この景色を観ながら福山殿と面談をしては」

「元続様にも完成した岩倉城の防備体制を観て頂き、羽石衣城の防備工事に着手して頂く必要があります。東伯耆と因幡の各城将は、尼子勢の再来に備え防備を固めております。元春様もよもや、吉川勢に対する備えとは思いません。この時期が好機です」

「さっそく兄を岩倉城に招いて、工事終了の宴席を設けよう。家臣一同に無礼講で酒を振るまい、皆とこの喜びを分かち合おう。左近、羽石衣城へ使者を使わせ」

「ところで左近、元亮、新十郎、防御の体制整ったが守る兵は集まったのか」

「岩倉城背後の三朝街道を守る、今泉城と助谷砦の城将が決まっておりませぬ。小鴨家は鎌倉時代からの名家のため、所帯の割には出城と砦が多く、兵の数が足りませぬ」

「広瀬城には、佐治谷村から二十名ばかり召集しましたが、まだまだ足りません。小鴨勢全体で千五百の兵が必要です」

「そうか左近、今泉城と助谷砦の城将には、岩倉十二勇士の中からそちが選びを充てよ。旧家臣団で千名の兵があるが、この家臣団の指揮官を、今は入れ替えることは出来ぬ。新たな兵で前線の防御体制を整える必要がある。しかし、新規に五百も召し抱えると農繁期が困るな。兵農分離は、夢のまた夢。米作に代わる収入源が無いのが、地方武将の苦しみよ。秋に戦をすれば農繁期で領民の反発を買う」

 元清主従の思案顔には、有効な解決策がない事を映し出していた。(この頃の領地収入は米作に依存するところが大きく、戦の度に恩賞として領地を拡大する必要性にかられた)


 十月に入り秋の収穫も終わる頃、元続が、日下山城主南条右衛門尉元秋と、田尻城主南条兵庫頭元周を伴い、岩倉城の元清を訪ねて来た。

 元秋の傍には、清谷城主船越重敬に嫁いだ行衛が嫡子四朗(後の重隆)を伴っていた。

 小鴨神社前で、元続一行を待つ元清夫妻と主従を見た元秋が、単騎で駆け寄ってきた。

「兄上・久殿、お久しゅうござる。母はお元気ですか」

 秋晴れの中、凛々しい騎馬武者姿に左近が

「天晴な、若武者振りですな。遠くからでも、元秋様と判ります」

 屈託のない明るい元秋の人柄に、元清主従は微笑んだ。

(元続・元清・元秋の三人兄弟の中で、元秋は特に明朗闊達。武者振りも大柄で、武芸に優れ、長命であれば一国の太守を任される素養があった。後に対面する秀吉も、三兄弟の中で特に元秋を慈しんだ)

 元続一行を、城内の客殿の間に招き、元続を上座に、義父の元周と舎弟の元秋が、元続の傍に座った。

「元清、岩倉の城下に入る道筋の要所、要所に櫓が建ち、岩倉城の外堀も広瀬川と小鴨川の地形を有効に活用し、攻めるには難しく守るには容易い構えとなっている。今年四月からの大掛かりな工事は何のためか」

「いずれこの東伯耆の国でも、毛利と織田の勢力に別れ、大戦になります。混乱を利用して奸賊が、城に攻め寄せるとも限りません。岩倉城は、私が豊前に出陣の留守に一度奪われたことがあります」

「あの折は、田尻城からも援軍を差し向ける余裕が無く、岩倉城は孤城となり、一時尼子勝久殿の手に降った。しかし、その後久殿の調停により無傷で返還されたな。そう言えばあの頃から元清殿は、城の防備が甘いと申して居ったな。まあそれだけの理由で、今回の大工事が行われたとは思えんが。なあ元清」と言って元周は、次の言葉を誘った。

「実は折り入ってお目通り願いたい者が居ります」と元清が、下座に控えていた、福山次郎座衛門玆正を招く。

「こちらに控えるは、元尼子家家老職の福山次郎左衛門玆正殿にございます」と言って元続に紹介する。元続は事前に、元周より聴いていたので

「堅苦しい挨拶はご無用です、子細は元周殿より伺っております。今回の岩倉城防備体制は福山殿の差配と伺った。これからは私の傍で、色々ご指導をお願いしたい」

 福山は、元続の話を聞いて

「これは恐れ入りました。元尼子の家臣を即断即決で、家臣の列にお加へ頂けるとは」

「福山殿、家臣では無い。私の指南役としてお迎えしたい。すでに羽石城の城下に屋敷も容易しておいた。これから東伯耆は、難しい時局を迎える。南条家が、今後も生き残ることが出来るようご指南願いたい」

 玆正は元続を視て、元続の並々ならぬ心の奥深さを知った。

「福山殿、調度我ら四人が集まった良い機会。今後の南条家の進むべき道筋を、ご指南ねがいたい」

と聞いた。福山が改まって口上する。

「天下布武を掲げた織田様の天下になることは、間違いがありませぬ。現在の経済力からして、この日の本で織田様を凌ぐ者はおりませぬ。領国経営も革新的で、関所を廃止して楽市楽座で城下の商いは活発です。堺の豪商も外国との交易が盛んになり、織田様を支援しております。また、信長様は各方面の司令官を任命し、全国統一に向けた動きを加速しております。山陰路は明智日向守光秀様、山陽路は羽柴筑前守秀吉様、北国路は柴田修理亮勝家様、大和路は丹羽越前守長秀様、甲斐路は滝川一益様と、織田家には人材が豊富です。浜松を拠点にした、徳川家康様との連合も強い後ろ盾となっております。京都の公家衆も、公方義昭殿の放逐後は、信長様頼りでまとまりました。古い慣習の排除が、強すぎる事への、一抹の不安はあります」

 一呼吸置いてからさらに口上が続く

「因幡・伯耆の情勢を申し述べます。近々は、毛利の攻勢で因幡は、平定されます。しかし一年をかけず丹波・但馬は、織田方の勢力が領有しました。羽柴と明智の両雄が、功名を上げるため、破竹の勢いで進撃しているのです。特に羽柴様は、軍師に竹中半兵衛重治様を要して播磨を攻略中です。竹中様の次の狙いは、東伯耆の国は南条、備前は宇喜多を味方に引き込み、毛利の勢力を雲州・安芸・周防に封じ込める戦術です。私は、半兵衛様より伝言を託されました。当面は、笑裏蔵刀の策(笑いの裏に刀を隠す)にて毛利家へ接しておくようにと。南条兄弟が、誤った短慮な行動をしないようにと。ご下命を受けております」

「あの軍師、竹中半兵衛様がそのように仰せか。しかし、竹中様は、信長様の直臣を断り、足軽上がりの羽柴様の家臣になったと聴いておる。不思議なお方よ」

「京都でお会いしたとき、私の耳元で信長様は、感情の変化が激しい。それに比べ百姓上がりの秀吉様は、情が熱く人をとにかく褒める。無用な殺生をせず、人を生かすことを先ずは心がける。天下人としては、秀吉様の方が領民が安心して暮らせる世となる。と申されました」

「またこうも仰いました。異父弟の秀長様は、人望が厚い。秀吉様の足りないところを良く補佐し、家臣団をまとめておられる。補佐役秀長様の役割が、重要な要になる。いずれ因幡・伯耆は、秀吉様が攻略の指揮を執られる、秀長様とは好を通じた方が良いと」

「玆正殿、一度秀長様とお会いする機会を作ってほしい。元清一緒に伺いたい」

「かしこまりました。元続様・元清様・元周様が、秀長様とお会いすれば、我が身も役目を果せます。秀長様は現在、出石城にて政務を執られております。近くお伺いします」

「いやあ、目から鱗が落ちたような心地よ。元周殿、元清・元秋これからも一緒に南条家を支えてくれ。福山殿には、南条家に忠勤を励んでもらうことを重ねてお願いしたい」

「兄上、ご承諾頂き、感謝致します。しかしくれぐれも父上への執成しもよろしくお願い申し上げます」

「判って居る。親父は、隠居したとは言え、毛利が大事よ。山田と杉原に煙たがられているのも知らずに、いい気なものよ」

 昔から元続は、宗勝には従わないところがあった。この二人の関係に元清と元秋は、翻弄される事が多かった。元続の福山玆正引見が終わり、別室にて元続一行の歓迎の宴を始めた。

 母と行衛も、久と一緒に参加して、賑やかな夜の会食になった。

 岩倉の里では、山菜と山女魚が持成し料理として振る舞われた。重臣の将監と玄蕃も駆けつけ、元伴亡き後の南条と、小鴨の同盟関係継続を元続に確約した。

「我が殿は、岩倉の領民からも慕われ、岩倉の里は歴代の領主の中でも特に安定しております。これも南条家との関係が良好なことと存じます。私は、先君元伴様の小姓として今日まで重職を担って参りました。そろそろ家督を息子に譲り、隠居させて頂きます」と言って、控えていた若者を手招きする。

「我が嫡男、黒松三郎国定です。元続様、他皆々様よろしくお引き立て願います」

「殿には、この度の家督相続ご了承頂き御礼申し上げます。また南条の殿には、若輩者の拝謁を御礼申し上げます。粉骨砕身小鴨家に奉公いたします」

国定の硬直した顔が皆の好感を得た。(将監は筆頭家老職を玄蕃に託し、還暦を迎えた世代交代を印象づけた)

「黒松の勇退で、小鴨家は若返りが加速するの。それに比べ、南条家は、老臣が幅を利かせ我が意を無視する者ばかりで情けない」

 酒で酔った元続の愚痴を初めて聞いた。

「兄上、父がご健勝で父の頃から仕える家臣ばかり。あせらずじっくり構えて下され」と言って慰めた。聴いていた行衛が

「兄上、しっかりなさりませ。南条家当主は兄上なのですぞ」

「兄上は、人の話を聴き過ぎる。羽石衣館では、吉川のお方様の監視がきついのか、最近はお豊様の元へも出向かれていないようなのですな」

「元秋は、豊様のところにまだ通っているのですか。次女の香苗が、目当てですね」

聞いていた皆が、元秋を視て大いに笑う。

「殿、元秋様も年頃です。どこかの姫君を」

 元秋が照れ臭そうに

「姉上、母にも相談したのですが、私は香苗を妻に迎えたいのです。武家の姫君は、元続の兄のことを想うと辛く成ります。豊様と兄上は幼い頃から相思相愛でした。いまの二人を見ていると、私の方が辛く成ります」

 はっきり思ったことを言う元秋に、元続が

「豊には、申し訳なく想っている。しかし吉川の姫は、親父と吉川の養父殿に告げ口を文で送り困っている。女子の嫉妬は怖いよ」と言いながら元清を観た。

「そちが羨ましい。愛する妻から愛する息子を授かり、羨ましいかぎり。そう言えば行衛も重敬殿と、仲睦まじいと聴いておるぞ」と言って行衛を視た。

「重敬殿と私は、相思相愛で結ばれました。兄上には申し訳ありませんが、我が夫は私を慈しみ四朗をたいそう可愛がってくれます。嫡子を授かり、船越の家は安泰です」

 兄弟の会話を聴いていた元周が

「何とも平和な時が流れるものよ。この平和が、何時までも続いてほしい。久米郡の守りを元清、玄蕃殿頼むぞ」

 夜も更けて元続一行は、寝屋に入った。久と元清は

「今日は、家族の温もりを感じた一日であった。元秋の駆けてくる姿が瞼に残る」

「殿、私は家族の愛を知りませぬ。ご兄弟仲良く敵味方にならないようお願いします。元続の殿は心が清らかですね。暖かな眼差しに心が癒されます」

 元清は久を抱いた。

 翌朝、元続一行は、母里を伴い羽衣石城へ帰っていった。


 十一月に入り、尼子勢の因幡進攻を牽制するため、吉川元春が七千の兵を従え月山富田城を発した。元春は、八橋城で東伯耆の兵を集め、一万の兵で鳥取久松城の山名豊国を威圧した。

豊国はあっさり、鳥取久松城を元春に明け渡し、私都城城主の毛利入道淨意を城代に据える事を承諾し、毛利家に忠勤を励むことを誓った。

(武田高信を鳥取久松城から追い出す時は、尼子の力を借り、毛利家の威圧があれば手のひらを返すように、躊躇なく毛利方へ寝返る。この一件で、豊国の君主像は瓦解した)

 数日を、鳥取久松城で過ごした元春は

「入道殿、豊国様は、因幡一国を任せる太守には成れぬ。そちが、常時鳥取城へ在城して守って下され。私都城には、毛利家家臣の牛尾大蔵左衛門を城代として留めておく」

と含み、雲州月山へ引き返した。

 宗勝父子が従軍して、鳥取久松城の大広間で吉川元春に謁見した時

「入道(宗勝)殿、世代交代が近いの。亡き父元就から、南条家は、特に信義の厚い家柄と伺っておる。世代交代しても南条兄弟の変らぬ忠勤を期待している。元続には、吉川の我が養女を嫁がせておるが、仲睦まじいか」

「我が、嫡子元長は元続、元清とは同じ年頃よ。元長は、南条兄弟を弟と思い、お互い力を合わせ、毛利家を支えてくれ」と言って元長と南条兄弟を視た。

 元春の傍に座っていた、吉川少輔次郎元長が

「お初に御目にかかる。宗勝殿の武勇は、父上より伺っております」とまずは、老将宗勝に慇懃に挨拶を済ませ。

「元続殿・元清殿は私と一歳違いと伺っておる。元続殿は、私の義弟として今後も毛利家に忠勤を励んでほしい」と言って傍に控えている、杉原盛重と山田重直に威圧した視線をやった。

(盛重、重直からの諫言を、抑え込むような威圧感があった)

「元長様からの我が息子達へのご配慮ありがたくお受けしました」

「元長様を義兄と慕い今後とも毛利家、吉川家への忠勤を励みます」

 宗勝父子は、声高に言った。

 元清と元秋は、一緒に吉川親子へ平伏した。

 鳥取久松城からの帰路、三兄弟は、宗勝の馬に続き馬首を並べて歩きながら

「元長様は御人柄が良さそうじゃ。しかし杉原と重直は驚いたような顔つきであったな」と馬上で元清と元秋に声をかけた。

「元長様の声は凛として、諫言した盛重等を一喝したような迫力がありました」

「あの方であれば、吉川家も奸計を要すことは無いでしょう。元長様であれば南条家は安泰です」と言って三兄弟は、吉川少輔次郎元長を褒め称えた。

 先頭で聴いていた宗勝が、側近の津村新兵衛尉基信を傍に呼び

「若い者同志であれば上手く行くが、しかし杉原の元続に対する目使いは気になる。重直も用心せんといかんな」

「新兵衛。山田佐助と一緒に家中をまとめ、元続を中心に南条家を守ってくれ」と告げた。

(今日、宗勝が側近新兵衛基信に告げた言葉は、重臣への唯一の遺言となるのであった)


 天正元年(千五百七十三年)は、岩倉の里では戦も無く、従軍して戦死者も無く平穏無事に終えようとしていた。元清家族と側近は大晦日を岩倉城で迎え、一年の平穏無事を感謝し大広間で年越しそばを食し、酒を振る舞った。

 元清の厠へ向かう姿を見た、元亮が後を追い

「殿、酔われた様で足元が」と言って肩を貸した。

 元清、元亮主従が、厠の灯りに差し掛かった時、一発の銃声が城内に轟いた。

 大晦日の夜も深まり、元清主従に一瞬の隙が生じた。

 その時、元清暗殺を狙った曲者が、厠へ向かう元清を襲撃した。二発目の鉄砲の銃声音と同時に、人が倒れる音がした。大広間から左近・新十郎と岩倉十二勇士が、一斉に障子戸を蹴散らし「殿・」と言って駆け寄る。暗闇で、敵味方がはっきりしない。

 左近が、慌てて

「殿を囲め、円陣を組んで守り、奥部屋へ」と指図する。

 元清の、留めを刺そうとした曲者が、五六人元清を目掛けて切込んできた。

 新十郎の居合刀の切っ先が、中を舞う。曲者数人が一瞬に切り倒された。

 左近と十二勇士も奮戦し、残りの曲者を切り伏せる。一瞬の出来事であった。

 久と夏は、徳丸を守りながら、奥部屋に布団を敷き医者を呼びに人を遣わす。

 黒松国定は、若輩ながら、新たな伏兵が攻めてくる事を警戒し各所に指令を飛ばした。各城将へは、早馬を発して久米郡の各所の関を閉鎖し、城下に近衛軍を招集し城の内外を松明で照らした。全軍に臨戦態勢を執り、出動の命令を待つよう指示を出した。

 国定は、兵を岩倉城内へ引き込むことをしなかった。敵か味方が解らない状況では、近衛兵で城内を固めるのが兵法の常道。(元清はこの時の国定の采配を高く評価した)

 大晦日の夜分の出来事で、誰もが酒で酔って、年始を迎える面持ちであった。

 奥部屋に運ばれた元清が

「大事無い、この血は元亮のもの。誰か元亮を早く介抱せよ」

 慌てた左近が、厠の廊下に倒れている元亮を抱きかかえ、声をかけた。

「おい元亮。しっかりせよ、もう大丈夫。曲者は撃退した」

 元亮の体を起して、傷口を見た。

「左近様。殿は、大丈夫ですか」と右肩を押え、左近に安堵した顔を見せた。

「元亮、心配したぞ。右肩をやられているようじゃ。そちがうまく倒れ込み、敵が留めを刺そうと慌てて襲って来た」

「そなたが殿を庇い、殿も命拾いした。肝を冷やした」

「何の此れしき、私と新十郎は、佐治谷衆の忍びですよ」と言って傷口を叩いた。

 新十郎も追っ手を放ち、自身は元清と元亮が心配になり、元亮のところに戻ってきた。

(左近は元亮と新十郎の動作を視て、忍びの強さをこの夜知った。左近と元清は大晦日で油断していた。この二人が敵であれば、自分たちでは元清を守れないと痛感した。

敵も元清の側近が、佐治谷衆の忍びであることは知らない。佐治元徳の予見は、この夜現実の事となり、元清主従は、警戒の甘さを実感させられた)


 天正二年(千五百七十四年)は厳戒態勢の中で年が明けた。

 元旦早々に、元清は、直臣三百余名の家臣に総登城を命じた。

 巳の刻に岩倉城の総登城を告げる太鼓が鳴り、家臣は続々と鎧姿に身を纏い

「いざ出陣」の勢いで城内大広間に参集した。

「どこの家中の者が、殿を襲撃したのじゃ」

「いざ討取りに参ろう」

 正月早々血気盛んに騒がしく、皆が緊張感を掻き消すために各々が気勢をあげていた。

「皆の者、殿のお越しで御座る」

 左近の大声に、大広間のざわめきは静まり元清の姿に家臣一同注目した。

(元清の状態を心配した家臣は、元清の姿を観て安堵した)

「皆の者、正月早々の総登城ご苦労である。昨日この城内に曲者が討ち入った。幸いにして少数だったので撃退し曲者は誅殺したが、指図したものは判らぬ。私を狙ったのは間違いが無い」と言って、一旦参集した家臣の反応を視た。

「今は、この久米郡を固めることが大事な時。皆は、何時でも、戦に出向ける体制を整えてほしい」

と年始の言葉をかけた。

 末席家老の黒松国定が、事件の詳細を大声で説明した。

「昨日発した戒厳令は本日で解除する。当面は関所の取り締まり強化と城内の警護体制の強化に集中する。近衛隊は、引き続き城内の駐屯警備を命ずる」と付け加えた。

 広間では、緊張感が取れたのか、集まった家臣の顔は穏やかになった。

「今年は、因幡の情勢が危い。早々の因幡出陣があると思うので、各々準備を怠らぬように。今日は、年始早々の登城ご苦労」と言ってその場を立った。

 大広間に残された家臣からは

「誰の差し金じゃ。早々に討取ろう」と気勢を上げる武者も多かった。

(集まった家臣の殆んどが、八橋城の杉原盛重と小鴨四朗次郎経春を疑っていた。内心はこの一件で、毛利との決別が迫っていることの方を心配していた)

 元清は、別室に重臣と側近を集め、今後の対応について協議した。

「家臣の安堵した姿を見たか。当面は平静を装い、刺客を放った者の所在を探索するように致せ。探索の責任者は国定に任せる」

「左近と元亮、新十郎は各峠の小椋衆との連携を強化するように致せ。峠を越えて他国から侵入するものを検察させよ」

「城内の近衛隊を三隊に分け、三交代制とし各隊には、十二勇士を各四名宛て、守らせましょう。元亮と新十郎は、引き続き佐治衆十名を指揮して、殿と奥方様と徳丸君の警護を頼む」

「殿、久米郡の西の境は、八橋城です。上福田一帯の防護体制強化が必要となります」と国定が、付け加えた。

 国定の視点に感服した元清が

「そちは、今回の首謀者を特定しているようじゃが。久米郡の西の境目には、北条の堤ノ城を守る山田重直がおる。杉原と組んで、我が身を亡き者にし、久米郡を叔父の経春に治めさせる所存だろう。我が身が、目障りなのはこの三人よ」

 重臣の永原玄蕃が

「今は、表面上何知らぬ振りをして、南条家中をまとめる必要がございます。早々に元続様と面談し、今回の事態の詳細と今後の事を話あわれた方がよいかと」

「そうじゃな。いずれ昨日の事は、噂で兄や従兄元周殿にも伝わる。吉川嫌いの兄と元周殿が聴いたらややこしくなる。左近、明日にでも年始の挨拶を兼ねて羽石衣城へ参ろう」

「かしこまりました。さっそく使者をつかわします」

「皆の者、昨日から一睡もしていないだろう。下がって休むように」と重臣を下がらせた。

 その後、元清主従は久の待つ部屋に移り

「元亮、元徳と至急会いたい。因幡の情勢が知りたい」

 傍に控える元亮と新十郎に言った。

 翌日、牛の刻頃に騎馬武者十騎に守られた元続が、岩倉城へ訪ねて来た。

 元周と元秋他に、福山玆正が同道していた。

「元清、驚かせてすまぬ。そちが、羽石衣城へ出向くのは危険極まりないので我らが、訪ねて参った。今年の年賀の挨拶登城はしなくて良い。親父殿も心配しておる」

「元清殿、この度は脅しも兼ねたもの。迂闊に動けば、杉原と山田の思う壺よ。今は、領内を固め動かぬほうが良い」と言い自重を迫った。元清も同意したように

「兄上と元周殿の助言をありがたく受け止め、しばらくは、領内にて自重して内政を固めます。ご心配をおかけし申し訳無く思っております。なあ左近」

「殿、今までの様に単騎での領内視察はしばらく御止め下さい」

「兄上、今までのような身勝手は成りませぬ。左近の申す通り安易に城外へ出ては成りませぬ」

「久米郡を元清が、統治してくれているから背後を気にせず、南条家は東伯耆で覇権の維持ができるのじゃ。今この地が、小鴨四朗次郎の物となれば、南条家は身動きが取れぬ様になる」

 傍で聴いていた福山が

「殿。それが相手の狙いなのですよ」

 元続一行は、岩倉城に一刻ほど滞在し、今後の事を談義して慌しく帰って行った。元清主従は、当面内政を重視し岩倉城に籠るようにした。

 元清から子細を聴いた久にとっては、元清と過ごせる時間が増えることが嬉しかった。元続一行が帰った日の夜から、岩倉の里には雪が降り続いた。

 一月に降る雪は大雪となり、岩倉の里を真っ白な草原にした。今年は大雪で三月まで身動きが取れなかった。

 元清と久には、幼い頃育った松ヶ崎城の冬景色が懐かしく想われた。

「今頃は、湖面に多くの鴨が漂っていような」

「殿はいつもこの時期は、寒鮒釣りを楽しんでおられました」

「そう言えば、そなたの養父平助とも寒鮒釣りで出会った。あの頃がなつかしい」

「萬屋の醤油で、煮込んだ寒鮒の甘露煮は旨かった」

「子まぶりの刺身も、忘れられませぬ」

 二人は東郷湖の冬景色を想いながら共通の故郷談義に花を咲かせた。


 初春を告げる鶯の鳴き声が響く三月の岩倉城下へ、一騎の騎馬武者が走り込んできた。

 羽石衣城の元続からの使者であった。使者は、南条家侍大将津村新兵衛尉基信で

「尼子勢が勝久を擁して、二月十四日但馬より因幡へ乱入し、十日足らずで、因幡の十二の城を陥落させたとのこと。この三月十日には、尼子方武田源三郎と亀井新十郎玆矩が七百騎で鹿野城を攻めております。早々に出陣の準備をし、五百騎を連れて羽衣石城へ参集するように。とのご下命です」

と告げた。

「昨年、元春様の因幡攻略を終えたばかり、まるで鼬ごっこで御座るな」

基信の真を得た話に、元清主従は笑った。

「今回の出陣も大軍で押し寄せれば、敵は但馬に逃れるよ。但馬を攻略せねば、同じ事のくり返しに成る」と元清はつぶやいた。

「元清様、この戦は優柔不断な豊国様が、裏で尼子方と通じています。十日で十二の城が陥落するなど、城方が通じていないと出来ませぬ。無駄な戦いを仕掛け、命を落とさないようお互い用心しましょう。当面は、毛利本体が動くまで様子見です。持参する兵糧の量は、お任せします。それでは御免」と言って岩倉城を後にした。

 その後、元清主従は城内に重臣を集め出陣編成について協議した。

 総大将は、小鴨左衛門尉元清。侍大将黒松将監国定、近衛衆筆頭早瀬左近、騎馬隊隊長加瀬木元亮、母衣衆岡部新十郎、十二勇士と鉄砲隊、弓・槍隊、兵糧部隊を加え総勢五百とした。小鴨家の領地は久米郡で五千貫(一万石に相当)ほど、総動員兵力は足軽雑兵を合わせて約一千名。岩倉城を核に出城が七城あり砦が三か所ある。

 精鋭五百を動かすと、各城の守りが手薄になり山賊に襲われると一溜まりもない。久米郡は、蒜山山地を境に山賊が多く、山賊の掃討にも兵力が裂かれていた。主力軍の長期の出陣では、この対策が元清主従の悩みでもあった。このため留守の精鋭三百は、二隊に分け、岩倉城の外郭を守る市場城、家ノ後城に配置し防衛死守の範囲を固める事とした。岩倉本城は近衛兵二百と、佐治谷衆からの応援部隊三十名を入れて固める事とした。

 市場城と家ノ後城の兵は遊撃隊として、各出城の救援および元清本陣の救済的な動きも採った。後方を守る総指揮は、岩倉城代家老の永原玄蕃惟定が当たった。

(今も昔も、攻めと守りを両立させるには、人材の適材適所が求められる。守る側の指揮官には、特に冷静沈着で少々の事には動じず、部下に慕われ、信義に厚い事が重要な要素であった。玄蕃は、小鴨家中の中で、まさにこの適材であった)


 出陣の準備を終えた主力軍は、三月二十日早朝に岩倉城を発った。

 途中、打吹城の山名氏豊の兵五百を加え総勢一千名で夕刻千坂峠を越え、長和田ヶ原に着陣した。長和田ヶ原の各所には、すでに着陣して待っていた元秋・元周と義理弟の舟越重敬も兵を従え着陣していた。久米郡・河村郡の各城将が参集し、羽石衣城の南条入道宗勝・伯耆守元続親子の出陣到着を待った。

(この時集まった城将は、岩倉城主小鴨左衛門尉元清・打吹城主山名小三郎氏豊・長江所在城主南条右衛門尉元秋・田尻城主南条兵庫頭元周・清谷城主舟越(比時)重敬・堤ノ城主山田出雲守重直・高野宮城主山田佐助・松ヶ崎城主小森民部方高・上ノ山城主進ノ下総免之・由良城主木梨左馬之介であった)南条本隊の兵を除く東伯耆衆約二千の兵が長和田ヶ原に着陣した。南条本体の到着まで各城将は、各自で陣幕を張っていた。

 元清主従は、叔父小森方高の陣に挨拶に出向いた。

 方高の陣に元清主従が入った事を知った元周・元秋・重敬は元清主従を追うように方高陣に出向いた。方高は久しぶりの甥達との再会を喜び、寒鮒の甘露煮と酒を皆に振る舞った。薪を燃やし、暖を執りながらの酒はまた格別であった。

「元清、大晦日は大変であったの。凡その事は察しが付く」と小声で言った。

 小森の陣幕の隣には、山田重直の陣幕があった。お互いが、毛利家付きの南条家目付役としての役目柄表面上は懇意の中であった。

「杉原殿と重直殿は、小鴨四朗次郎殿へ肩入れし過ぎる。彼らのやり方には節操が無さすぎる。いくら毛利家大事とは言え、主家である南条家を蔑ろにする事には合点がいかん」と方高らしからぬ語気であった。

「元清、用心が大事。杉原の横暴には、吉川元春様は見て見ぬ振りを成されているが、嫡子元長様は、許しがたい奴と思っておられる。元長様の世に成れば、杉原は誅殺される運命。今は、忍従して事に当たる様に致せよ。面白くない話は、この辺で終わろう。さあ久しぶりの再会よ」と言って互いに酒を酌み交わした。

 翌日、南条宗勝親子を総大将にした東伯耆軍二千八百の兵は、気多郡鹿野城の毛利方城将湯平平次の救援に向け出陣した。

 三月中は両軍が睨み合い、双方ともに戦いを仕掛ける事はなかった。

 四月に入り、農繁期を迎えたため東伯耆合同軍は、鹿野城の城代を山田重直に任せ兵糧弾薬を補充して、羽石衣城へ引き上げた。

(尼子方と南条方では、内々に福原玆正と亀井新十郎を通じ、戦いを避けるよう働きがけが成されていた。月山富田城の吉川元春の出方を待った)

 元春も八橋城主の杉原盛重に

「因幡には討って出ないように。しばらく山名豊国の出方を注視しよう」と命じた。(尼子も毛利も、因幡での豊国の出方を視ていた)


 岩倉城へ戻った元清主従は、家臣を大広間に集め

「この度の従軍ご苦労。四月になり農繁期を迎えた、各自領地へ帰り田畑を耕すように」と言って兵役を解いた。

 久が徳丸を連れ、大手門の軒下で燕の巣を視ていた。

「徳丸、燕は毎年同じ家を訪ねて来るのですよ。徳丸は父に良く似ていますね」

傍では、夏も二人目の赤子を抱えていた。

 岩倉の里では、侍も農民と一緒になり、鍬で田をおこし田んぼに水を入れた。この時期は、村単位で水の引き込み合戦が、各所で行われた。

 領内の視察に同行した左近が

「殿、平和でよいですな。互いに言い争ってはいますが、視ていて何故か心が和みます」「左近、この岩倉の里に来て田植えの喜びを知った。松ヶ崎では田畑にはあまり関心が無かったの」

「殿は毎日、川や池、海での魚とりで忙しかったではありませんか。子供の頃から、耕すことより採る方が得意でしたな」と言いながら、可笑しくて笑った。元亮が

「殿、岩倉の民には農業しかありませぬ。田畑を耕すことが唯一の収入源です」

「そうよな。我が領地は、奥地で山に囲まれて海が遠い。これといった産業も無い。当面の施策は、開墾地を増やし収穫を増やすしか思い当たらぬ」

 そんな主従を呼ぶ声がする。

「元清様、お久しぶりです」

 元徳と十万寺の法眼であった。

「しかし、元清様は、十万寺で待っていても来られませぬ。京都で、たまたま元徳に会い元清様の噂をしていたら、急にお会いたくなり付いて参った。迷惑でござったか」

 元清の顔を見る。

「和尚は、増々色黒く成られ、相変わらず悪臭を周囲に巻き散らしておいでじゃ。左近、一足先に城に立ち返り、湯を沸かしておけ」

 法眼も元清の嫌味に苦笑いした。

 一刻程して、岩倉城に元周と元秋が、騎馬で駆け付けた。田原市ノ進も同道していた。

「兄上、元徳からの使いで叔父上を誘い急いで参った」

「夏、今日の夜は賑やかになりますな。急いで準備しましょう」と久しぶりの来客に、酒と食材調達を急いだ。

 来客の間には、十一名分の膳が用意され、元清主従(左近・元亮・新十郎)と法眼・元徳・元周・元秋・市之進そして、重臣の黒松将監国定と永原玄蕃惟定が遅れて参席した。

「今日はささやかですが法眼和尚、元徳の歓迎の宴を設けました。山里の食材しか御座いませんが酒を飲んで語り合いましょう。それでは叔父上」

「今日は、大いに語り飲みましょう」と言って、杯の酒を飲み干した。

 部屋の周囲は、岩倉十二勇士で固め、怪しい者が近づかない様に警戒した。

 元清は、この日の会話が、周囲に漏れる事を恐れていた。

 皆が一献交えたところで、元徳が

「上方の情勢をお伝え致す」と言って語り始めた。

「昨年ようやく、信長様の越前朝倉・北近江浅井の討伐も終わり、加賀一向一揆も鎮圧したことで越前・加賀は織田領となりました。今年の正月、信長様は、岐阜城にて朝倉義景、浅井長政親子の頭蓋骨で杯を造り、その杯で重臣に酒を振る舞いました。皆様、驚愕されたようですが、柴田勝家様を筆頭に、戯言を言いながら酒を飲み干したようです。羽柴様のみが。信長様を諌めたとの事です」

聴いていた皆が、信長の所業に驚いた。

「また京都では、荒木村重と名のる浪人上がりの侍に、摂津一国を与えた話で持ちきりです。浪人から国持ち大名への出世とは、信長様の家臣登用には驚かされます」

皆が、ため息をつきながら「荒木村重とはどんな人物か」と興味を持った。

「近畿一円は、信長様の勢力下となりました。天下布武の軍勢は、いよいよ中国地方へ押し寄せて参ります。毛利の力で、この勢いを一時は止める事が出来ても、それは一時的な事です。信長様は、領内での耶蘇教の信仰を許しているので、耶蘇教信者の九州の大友宗麟は、織田方に付き、毛利を背後から脅かす勢力になります」

「そのうち毛利は、守るだけで精一杯。とても京都の信長様を討ち果す事は出来ませぬ。はっきり申し上げると、毛利家は、善くて現状を維持。このまま行けば、越前の名族朝倉一族と同じ運命をたどります。信長様の圧倒的な武力と財力、有能な家臣団の敵ではありませぬ。昇る太陽と沈む太陽で、到底太刀打ちできません」と語気を強めた。

 聴いていた元清が

「以前、安国寺恵瓊殿が、信長様は高転びに転ぶ人と申しておったが、この言葉が妙に気になる。果して南条家・小鴨家の行く末を任せて良いものか」

「私もそのご指摘には、一抹の不安があります。信長様は、幼少の頃から、あまりに数々の危機を強運で乗り越えておられます。一昨年の天正元年には、鉄砲の名手、杉谷善住坊が、十三間の至近距離から狙撃したにも関わらず、運よくかすり傷にて難を逃れております。今の強運が、何時まで続くかと気にかかります」

「善住坊の腕前は、堺で観たが、日本一の鉄砲の名手。義父上も見られましたな」

「二十間先の的を当てた、あの鉄砲の名手が的を外すことは無かろう。わざと外したのでは無いのか。何か子細があったと思うが」と言って不思議がった。

「天下統一は、まだまだ先の事。どなたが、成されるか今のところ判りませぬ。織田家の有力武将は、明智様と羽柴様のお二人です。竹中様からは、秀吉様は、信長様の四男秀勝様を養子に迎えた事で、織田家の親戚衆となれたとの事です。羽柴様と共に歩めば、東伯耆の南条家・小鴨家は安泰と仰っておられました。軍師、竹中半兵衛重治様の情勢分析には驚かされます」と言って、聴いている皆の顔を見た。

 法眼和尚が

「信長様は、世の仕組みを壊すことは出来るが、人々の心の幸せを創ることは出来ぬお方のようじゃ。私もあのご気性では、天下統一は難しいと思う。天下統一の覇者には人々への慈愛も必要となる。従わぬ者は皆殺し、焼き殺しでは恨みが心の奥底に残る。その点、羽柴様の人柄は、織田家中の中でも飛び抜けた陽気者。世を照らすお方よ」

「拙僧が、昨年の夏、伊吹山の大原観音寺へ出向いた時、稚児小姓で寺に仕えていた佐吉と称する者の話を聴いた。北近江長浜城の城主となった、羽柴筑前秀吉様が、鷹狩の途中に立ち寄った大原観音寺にて、たまたま小僧の佐吉が、茶を持成した」

 話はこう続く

(秀吉が茶を所望しに立ち寄った寺の小姓に「お茶を所望したい」と言うと、出迎えた小姓が「こちらに掛けて、少々お待ちください」といって暫くしてから、大きな湯椀でお茶を持ってきた。秀吉はその温い白湯を飲み干し「小僧、もう一杯所望したい」とからかった。小姓は「少々お待ちください」と告げてまた奥に入り、暫くして中ぐらいの茶碗を秀吉の前に置いた。秀吉は、今度の器は陶器かと思い温かいお茶を飲み干した。「この小僧、次はどうしたものか」と興味が湧き「もう一杯茶を所望」と申し出た。

 小姓は「今度はお茶を厚くしますので、時間が係りますが暫くお待ち下さい」と言残して奥に下がって行った。暫くして蓋付きの小さな湯呑茶碗を運んで来た。「お待たせしました。どうぞ」と言って秀吉の前に置く。

 その所作に感じ入った秀吉は、感心しながら熱いお茶を飲んだ。

「小僧歳は幾つになった」「今年で、十二歳になります。元京極家家臣の石田正継が次男、佐吉と申します」鷹狩の帰路、秀長に指示してこの小僧を家臣に加えた)

「拙僧が何を言いたかったかは、皆様にはお分かりだろう。秀吉様は、人の才能を生かすお方。漢の劉邦のように、人から持ち上げられるお方よ。それに対して信長様は、項羽のような絶対君主。どちらが、最終的に天下を統一するかは、二千年前に結果が出ております」

 法眼和尚の説得力ある会話に、皆は聞き入った。

 また羽柴筑前守秀吉の人柄に感心した。

「国定、両人の話を聴いて、その方の存念を述べて見よ」

 元清が黒松将監に問うた。

「若輩者の戯言とお聴き下さい」と断り話を始めた。

「丹波は、織田方の勢力下にあり、昨年、但馬守護山名祐豊様も、織田の軍門に下りました。因幡は、前哨戦の状況となっていますが、織田方は播磨を制した後に、備前美作の宇喜多を調略し、毛利を防長二国に押し込める戦略と思われます。毛利は追い詰められ、元就様の家訓を守り和睦するでしょう。安国寺恵瓊殿は、毛利を高く売りつけるために国境の毛利方諸将を煽り、抵抗戦をしかけているのです。毛利輝元様には、織田と雌雄を決する覚悟などありませぬ」

 若輩の国定が、さらに付け加える

「我らは、外面は毛利に与力し、内面では織田方への好を通じるしか生き残る手段はありませぬ。南条・小鴨両家の家中を、先ずは統一させる事が肝要です」

「大殿と家中の重臣をどう説得するか難しい」

 元周がため息をつく。

「兄、元続を交え、親父殿と話す機会を設けましょう」と同意する。

「今日の話は、今後の南条・小鴨両家の道筋である。心して、異心の無いようにお願い致す。黒松殿の見識には恐れ入った。今後は、両家の軍師として活躍をお願いしたい」

 元周が、念を押した。

 両家の進むべき談義を終え、膳に並べられた山女魚の塩焼きと初春の竹の子、たらの芽の天ぷらを食しながら酒宴は盛り上がった。

 久と夏が、数人の若い女性を連れて部屋に入って来た。

「さあ、殿方に酒をお注ぎして下され」と言いながら、久は法眼和尚と元徳、元周、元秋と順に酒を注いで回った。

 元清は、誰とでも気さくに会話する、久の明るい素振りが嬉しかった。

久の立ち振る舞いを観ていた、元周が

「親子の血筋は、争えぬな。誠が妻になって田尻城に来てから、城内が明るくなったと家臣から喜ばれている。元清、元秋内助の功は大きいな」と小声で元清に話した。


 翌朝、法眼和尚と元徳は、羽石衣城下の十万寺に向けて出発した。

元 周と元秋、田原市之進の三人は、亀井城城下の温泉郷(関金の湯)で朝湯に浸かり、酔いを冷ましてから河村郡へ帰って行った。

 元清主従は、岩倉の里で、四月から八月にかけて平和な時を過ごした。

 東伯耆の久米郡と河村郡では、古くから四か所で温泉が沸いていた。

(山間に沸く関金温泉郷、三朝温泉郷と湖畔に沸く東郷温泉郷、羽合温泉郷であった)


 八月の暑い日

「川遊びがしたいの。しじみ採りも懐かしい、最近は海で泳ぐことも出来ない」

「殿の命を狙う刺客がうようよしていますぞ、領内が安全です」

 元清と左近二人の、会話を聴いた元亮が

「この近くの清流で水浴びでもされては、如何でございます。山から湧き出る清水は冷たく、暑さを吹き飛ばします」

「おお、それは良い考えじゃ。元亮、案内せよ」と言って元清主従は、元亮の案内で岩倉川を上流に登り、渓流に分け入った。

 元清と左近が、岩の窪みで清水を浴びていた時

「黒い大きな生き物が、二人を目がけて襲ってきた」

 二人は、慌てて岩場に隠れ

「元亮、新十郎。何だ、今の化け物は」と叫ぶ。

「殿、熊が襲って参りました。新十郎が、槍で一突きに仕留めましたのでご安心下さい」

「おお、さすが新十郎」

 裸の二人は、面目なさそうに新十郎と元亮を視た。

 仕留めた熊は、四人で抱え手土産に城に持ち帰った。

 久と夏が心配して

「その熊は、如何なされました」と聞くと。左近が

「殿は、熊にまで命を狙われるお方の様で、私も危うい所で、命拾いをしました」と言って元清をからかった。

 元清が笑うと、心配した家臣も安堵し、一緒につられて笑った。

「しかしあの速さで、熊を槍で一刺しにするとは。新十郎の槍使いは、日の本一よ」と言って褒め称えた。

 久が

「殿と左近殿は、その時どうされていたのですか」と当たり前のように聞くと。

「左近は、慌てて岩陰に隠れて居ったぞ。おれはそのまま水浴びをしておった」と話をはぐらかした。

そ の夜、仕留めた熊は城内で警戒に当たる家臣の夕食に振る舞った。

「岩倉城下は、子供が遊ぶには危険が多い。松ヶ崎城下と違って獣からも命を狙われる。松ヶ崎での暮らしが懐かしい」

 寝所で、久は、元清の独り言を黙って聴いていた。


 九月に入って、若桜鬼ヶ城に入った尼子勝久は、二十二日には、山中鹿之助を総大将に立原久綱・森脇市正・牛尾大炊介の尼子軍三千五百騎は、毛利入道淨意の籠る、鳥取久松城を猛攻し陥落させた。毛利入道は、布施館に籠る山名豊国に援軍を要請したが、豊国は手のひらを返したように山中鹿之助と通じ、毛利方私都城主の大坪一之を牽制した。

 山中鹿之助は、占拠した鳥取久松城を数日後に山名豊国の元へあっさり返還した。

(尼子勢としては、因州での山名氏の支援を優先した結果であった)


 天正三年(千五百七十五年)八月に入って、羽石衣城の南条入道宗勝へ元春より

「来る八月下旬に吉川元春・小早川隆景の総勢二万五千の兵で、因州における尼子勢討伐に出陣する」と連絡が来た。

 これを受けて宗勝は元続の名で東伯耆衆へ

「八月十日には因州私都城へ入城するよう」

 軍令を発した。

 岩倉城下では真夏の暑さが加わり、出陣の準備で混乱していた。

「左近、豊国様は(毛利の大軍来る)の報に接して、また寝返るだろうな」

「この出陣での戦は、ありませぬ。尼子方は、但馬へ引くしか選択肢がありませぬ」

「親父殿を立てて、小鴨の兵も私都城へ遅滞なく入城させよう」

「兵数はいかほどにされますか」と元亮が聞く。

「どうせ脅しの兵、精鋭は岩倉に留め五百騎くらいで黒松と調整してくれ」と指示した。

 九月に入って、因幡若桜鬼ヶ城を拠点に因州で活動していた尼子勝久主従は「芸但和睦成立」を受け、因幡と但馬から京都へ撤収した。

(但馬山名氏が毛利との和睦に応じたのは、豊国の因幡での覇権確立が但馬山名氏のとって良いと考えたからであった。この「芸但和睦」は但馬山名氏代弁者太田垣輝延と、吉川駿河守元春の間で取り交わされた)

 九月下旬に、岩倉城へ引き上げた元清主従は

「長年の好敵手、山名と毛利が和睦か。高信殿は、毛利を第一に今日まで忠勤を励んだ。なんと、最後は毛利に梯子を外された格好になってしまった。なあ左近」

「確かに。因州で毛利の先鋒として、長年但馬の山名氏勢力と、戦って来た武田様としては、毛利に裏切られた心地でしょう。殿明日は我が身です」

「殿、左近殿。今回の事態で、武田様の御命が危うくなります。豊国様は、この機会を待っていました。武田様は、この和睦で毛利の後ろ盾が無くなり身動きが取れませぬ」

「高信殿は、我が義兄。何としても救わねばならぬ。事ここに至っては、福山玆正殿にお願いして、織田様の支援を得た方が良いと思う。毛利への未練は捨てて」

「成るほど、敵の敵は味方ですか。尼子を通じて織田方の力を借りて、因幡武田家再興を図る。ご本人は嫌がるでしょうが、この策しか因幡での武田家再興は成せないでしょう」

「左近、明日にでも羽石衣の福山殿を訪ね、高信殿救済の手立てを相談せよ」と命じた。


 十月に入り実りの秋を迎へ、山が紅葉で徐々に色づいて行くのが分かった。

「殿、岩倉の里の一番良い季節が、訪れて来ました。天守から見る山々の景色は、毎日変って参ります。私はこの季節が一番好きです」

 久が、天守に元清を誘い呟いた。

「山の木々に囲まれているせいか、紅葉の中に天守が浮かんでいるような錯覚を起こす」

元清夫妻が、天守から遠方を視ていると、遠から騎馬武者が一騎駆けて来るのが見えた。

 久が、心配顔で

「何か急な知らせでしょうか。あの駆け方は尋常ではありませぬ」

 元清も不安になり、左近と元亮・新十郎を伴い大手門前まで走り、使者を出迎えた。

 大手門へ騎馬武者が、到着し

「拙者は、南条家奉行鳥羽安芸守久友と申します。尊父宗勝様危篤に付き元清様には、急ぎ羽衣石の南条館までお越し下さい」との事であった。

 元清は、七十八歳になった宗勝が、何時か先立つ事は覚悟をしていたが、余りの急な事態に

「先月の因州への出陣では、親父は、血気盛んであったぞ。久友、いったい何があったのじゃ」

と声を荒げ不信感を露わにした。左近と元亮・新十郎も不安に思った。

「まずは、急ぎ羽石衣屋敷へ。一刻の猶予も有りませぬ」と言って、久友は詳しい事を言わなかった。

 左近と元亮は

「不測の事態が起った」と確信した。

 元清主従は、急ぎ騎馬で、羽衣石城の南条館に向け駆けた。

 一刻(約二時間)ほど馬を走らせ元清主従は、羽衣石城下の南条館へ到着した。城下は物々しい警戒態勢が執られ、南条家の近衛兵で館が警護されていた。宗勝の寝所に通された元清に

「元清よく来た。はやく親父殿と今生の別れを」と元続が誘う。

 横たわった宗勝の傍には、叔父の南条備前守信正を筆頭に近親者が集まっていた。

 息絶え絶えの宗勝が

「元続・元清・元秋それと元周に申しておきたい事がある。信正、他の者を下げよ」と指示した。その後、四名を傍らに寄せ

「盛重と刺し違える覚悟で、大山寺参詣の帰りに八橋城へ立ち寄った。杉原の饗応を受け酔いが回り、不覚にも奴に先手を打たれ、砒素を酒に盛られたようじゃ。我が命は、明日までは、持たぬ。その方等、我が遺恨を忘れず我が仇を晴らすように」と言って四名の手を握り、含み笑いを残しその場で絶命した。

 十月十四日、七十八年間戦国乱世を生きた南条入道宗勝の死は、壮絶で呆気なかった。この宗勝の憤死は、杉原憎しで家中の見解をまとめるには、十分な口実になった。



 小国の領主が戦国乱世を生きぬいて六十四年の生涯を終えた人生ドラマには、現在の私達も学ぶべきものが多い。強大な敵にも屈せず、何度も落城の憂き目にあいながら兄弟愛、夫婦愛、郷土愛を貫いた元清の生き方は幼い頃の環境が育んだものであった。

 松ヶ崎城下は、周囲三㌔圏内に池、海、山、河、滝と自然豊かな環境に恵まれ、元清は幼少期に仁愛の心を育んだ。

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