天正九年、久松山城の攻防は、城代吉川式部少輔経家の切腹にて幕を閉じた。経家の説得に出向いた元清主従であったが、経家の律儀な姿に深く感動した。元清主従は、経家との今生の別れを惜しみ城を後にした。
天正九年(千五百八十一年)一月十四日、石見不言(福光)城主吉川式部少輔経家は、雪深い久米郡岩倉城の元清を訪ね亡き元秋を偲び、お互いの存念を語り因幡久松山城(鳥取城)に入城した。
元清主従は、「敵にも仁者あり」と経家の飾らない人柄に接して、経家の武運長久を願った。
十四、【吉川経家の苦闘と羽柴勢の御冠山着陣】
山陰の冬の訪れは早い。
十二月初旬には雪が降り始め、年末頃には子供の背丈くらい積り、天然の堤防のように城を守る。特に岩倉の里は、東伯耆でも豪雪地帯で三月の春到来までは人の往来も少なく、岩倉城に籠る小鴨勢にとっては休息の期間でもあった。
そんな雪深い岩倉の里の雪をかき分け、数人の武者が岩倉城を訪ねた。
大手門前では、門番の与衛門が寒さに震えながら
「これは、元徳様ではありませんか。この雪の中お疲れ様です」と元徳一行を迎える。
「おお、与衛門。元気そうで何よりであった。松ヶ崎城の倅殿は、無事じゃったか・・」
「倅は、騒動が起きる前日に、小森の殿が岩倉城に遣わされ・・・」と後は言葉にならず、亡き小森和泉守方高を偲んで泣くばかり。
「方高様の無念は、いずれ我らが果たす。松ヶ崎城は、元周様が城代となられ、方高様も仇敵進ノ下総守に奪われず、草葉の陰で安堵しておられるであろうな・・・」と言って与衛門を慰める。
そんな二人を視ていた従者が
「元徳殿。そろそろ元清殿の元に伺おうか・・・」と言って誘う。
「これは失礼致した。与衛門よ、元清様の元に案内を頼む」
元徳に連れられ岩倉城を訪ねたのは、石見吉川家当主の吉川式部少輔経家であった。
経家は、先年元長と一緒に羽衣石城を訪ねた折に南条元秋の誘いで、植見口から羽衣石館まで馬で駆けた。その折の元秋を懐かしみ因幡久松山城(鳥取城)への城代就任前に、元秋の実兄である元清を訪ねた。
客間で待っていた元清は、経家が久松山城代へ就任することはすでに佐治衆からの諜報活動で報告を受けていた。経家の突然の来城に、側近の左近は、家人の出入りを禁じ佐治衆配下に守らせた。
「元清殿。いやあ、岩倉城も雪が多いな。石見(福光城)も雪深いので、我がふる里に帰ってきたようじゃ」と言って大きな声で笑う。
「殿(元清)。拙者が、隆景様のお館に伺っていたところ、隆景様に因幡出向の挨拶に訪れていた経家様と偶然出会い、経家様が、久松山城へ出向く前に一度は亡き元秋殿の実兄、元清殿の岩倉城を訪ねたいと所望されこんな時期ではありましたが、隆景様も承諾されたのでお連れした次第です」
「経家殿、よくお越しいただいた。元長様からはいずれ毛利と織田は和睦する、敵として争うのは一時の事と、御内示を受けておりまする」と元清が言う。
「輝元様・元長殿と某は、隆景様がいつも言われている領土拡大より、交易を盛んにして富国との考えで一致しておる。我らは、羽柴勢との積極戦は望まぬ。しかし元春様は、尼子の覇権を奪うために生涯を賭けて戦って来られたお方。我らの考えを受け入れようと為さらぬ。そればかりか、今回某の因幡送りは、隆景様・元長殿への牽制と、石見吉川家の弱体化を狙ったもの。元春様は、某が目障りなのだろうなあ・・・」と経家は、元清主従を前にして悔しがる。
「元秋殿は清廉闊達で、幼い頃に亡くした我が弟のように思えてのう。元秋殿の死を無駄にしたくないと思った次第。今後は、我が身を犠牲にしてでも、久松山城での無用な戦は避けたい。元春様の久松山城代就任のご指示は快く受託した」
聞いていた元清主従は、経家の覚悟と元春に対する嫌悪が伝わってきた。
「いはやは、独り言が過ぎたわ。元清殿、雪道を元徳と歩んできて体が冷えた。酒を所望したいが如何で・・・。今宵は、亡き元秋殿を懐かしんで、元秋殿の幼少の頃の話を聴きたいものじゃ」
元清主従は、経家の幼き実弟がどのように亡くなったかは聞かず、四朗(元秋)の幼少時代の話をしながら酒を飲み語り合った。
元清主従は、吉川式部少輔経家の人柄に接して[戦う敵にも仁者あり]を痛感させられた。
翌朝、経家一行は、雪の降り積る岩倉城を後にした。
大手門前で見送った元清主従には、経家の後ろ姿に、これから戦いに挑む前の覇気は無く、どこか哀愁の漂う寂しさを感じさせた。経家がこの戦乱を生抜き、元長と共に毛利家当主の輝元を支える重臣になってもらう事を、心から願うばかりだった。
「経家殿には、先が視えているようじゃな。しかし、あの優しさが心配される・・・」と言って、因幡久松山城に向かう経家主従の後ろ姿を見送った。
岩倉の里を真っ白な雪が覆い、人の欲望の醜さをかき消すような情景であった。
二月二十六日、吉川経家は、兵八百を従え因幡久松山城へ入城した。
(経家の出陣に際して、毛利家は紛糾した。経家出陣と聞いた毛利家諸将は、経家を慕い多くの武将が毛利家当主の輝元に、経家出陣の与力を直接懇願する始末。この状況に驚いた吉川元春は、毛利家中における経家の人気を思い知らされた。この事態は、出兵を命じた元春の悪評を誘う事となった)
毛利家当主輝元は、経家に付き従う武将を最小限に絞り込み、希望の武将に下命した。
吉川式部少輔経家に付き従った武将は、山県九左衛門春往を筆頭に、松岡安右衛門・森脇若狭守春定・山県筑後守春勝・山県源右衛門長茂・朝枝加賀守祐好・武永四郎兵衛・井下新兵衛・井尻又右衛門・高助左衛門・長和三郎左衛門・長岡信濃守・野田左衛門尉・大草因幡守・野村藤蔵・野村九郎左衛門尉・豊島新右衛門・山県次郎兵尉に加え、杉原盛重配下より横山弥太郎・南方半介・吉志蔵人・宍道五郎兵尉・宍道弾正忠・有地右近・有地左京亮の諸将と、総勢八百の兵となった。
経家は、八橋郡の八橋城に集まった諸将を前にして
「我らは、毛利の援軍を待つ久松山城へ入城し、因幡の拠点を固く守る。羽柴勢との対戦は、毛利本軍が到着するまで固く戒めるように。其の方等の大切な命は必ず守る」と言って感極まったのか、経家の目から大粒の涙がこぼれる。(経家には、久松山城へ毛利本軍の到着が無い事は察していた。毛利にとっては、この援軍は、因幡総崩れを避けるための緊急処置であって、三年も東伯耆で足止め状態に至っている事態では、毛利本軍の因幡久松山城救援は期待出来なかった。無駄死をせぬ戦いに終始することが、城代として派遣された自身の役割と経家は理解していた)
経家の口上を聞いていた諸将の中から
「我らの命は、経家様に預けまする。経家様を必ず石見へお返し致す!」と言って、八橋城内からこの様子を伺っていた吉川広家を牽制した。
この言葉に同調した諸将が
「石見吉川家当主の式部少輔様を守ろうぞ!」と大音声で叫ぶ。(参戦した諸将の大半は、元春の所業に憤慨した者が多かった)
三月に入り、春を告げる鶯の鳴き声が岩倉の里にも届く。雪解け水は岩倉川に注ぎ、小鴨川に合流して、天神川を下って日本海に流れ込む。冬の雪に閉ざされていた山里は、春の訪れと共に活気づく。毎年の繰り返しだが、ここ数年の岩倉の里は、趣が異なる。城下に住む民百姓は、戦を避け隣国に避難し、城下は閑散としている。
岩倉城内は、春の雪解けに備え戦支度に忙しい。雪解けと共に、城内に籠っていた閉塞感が解き放たれ、兵の士気は否応となく高まる。東伯耆の戦況は膠着状態だが、石山本願寺との五年に渡る抗争を終えた織田の勢いは益々盛んとなった。勢力隆盛の織田軍に対し、劣勢毛利軍の形勢は覆しようの無い情勢に至っていた。
東伯耆の毛利与力を決めた武将の中にも、上方の情勢を意識してか積極的には南条・小鴨勢へ戦を仕掛けない。南条・小鴨勢も織田軍の勢いを背景に、消耗戦は避けていた。各処での小競り合いも無く、東伯耆三郡(河村郡・久米郡・八橋郡)の均衡は保たれていた。
「将監よ、どうしたものかのう」と元清が呟く。
元清の側に控えていた、黒松将監国定は
「東伯耆三郡の情勢は、上方の情勢次第。毛利家中も織田との和睦を望む勢力が勢いを増しているようですな・・・」
「輝元公にとっては、元春様は厄介者よな・・・」
「隆景様にとっても実兄の元春様は、目の上の瘤でしょうな・・・」
「我らにとっての敵は、西伯耆の杉原盛重であって毛利ではない。輝元公には、元長様を通じて我らの存念は伝えておるが、元春様の勢いが収まらぬのう・・・」と元清が溜息を漏らす。
「我らもこの三年間の死闘で領地は荒れ果て、大切な身内を多く亡くしております。水面下で毛利との和睦を進める必要があります。今は、無用な戦は避けるのが賢明です」
元清は、若い将監の思慮深さに触れ、今は亡き竹中半兵衛を想い起こした。
「半兵衛様がご存命であればのう・・・。あの方は、清廉潔白で思慮深い人であった」
「将監、長生きしてくれよ。今後も我を導いてくれ」
二人の間には、劉備と諸葛孔明のような主従関係が育っていた。(元清より五歳年下の将監は、生涯を元清に仕え、元清を側で支える事となる。)
山陰の雪解けを待っていたかのように、但馬・播磨の羽柴勢が因幡へ怒涛のごとく侵攻した。但馬路からは、羽柴小一郎秀長を総大将に但馬勢一万騎が蒲生峠を越え、久松山城を遠巻きに囲む。播磨路からは、若桜街道の戸倉峠を越え、羽柴筑前守秀吉の大軍四万騎が弟秀長の待つ陣所へ合流する。作州からは、物見峠を越え、宇喜多勢を率いる宇喜多七郎兵衛忠家・岡越備前守貞綱の八千騎が、久松山城を目指す。総勢六万余騎が、久松山城を囲んだ。(因幡における六万余騎の城攻めは、山陰地方では史上初の出来事でもあった。)
織田・羽柴勢の配置は、西側の袋川と千代川の間を中村孫平次・池田久左衛門・山名中務大輔豊国・荒木平大夫・神子田半左衛門・蜂須賀彦右衛門・小寺官兵衛・木村隼人佑・加藤佐内が堅めた。東側からは、織田の援兵一万騎が久松山(鳥取城)と丸山の中間地の雁金山に陣所を据えた。織田の援兵総大将は、織田左近衛中将信忠とその配下、これに宮部善乗防と、宇喜多の援兵が加わった。
宇喜多の諸将は、宇喜多忠家を筆頭に明石景親・長船貞親・福田五郎左衛門・栖崎監物・岡貞綱等が、当主直家の名代で参陣した。
後詰めとして、毛利勢の芸州からの侵攻に備え、秋里村に出城を築き、杉原七郎左衛門家次が一万騎で渡り口を守る。山陰海岸には、浅野弥兵衛と丹州田辺の警護船大将松井佐渡守康之らが、賀露港沖に兵船五百艘を並べた。
丸山の東口には、羽柴小一郎秀長を総大将に、桑名修理・増屋隠岐守・但馬の山名右衛門督が着陣した。北口には、垣屋駿河守・磯部平大夫・亀井新十郎・武田源三郎・簑部の兵が備えた。陣ごとに芝土手を高く築き、丸太の柵を二重三重に立て、柵の前は空堀を深く掘り、塀を堅固に建て矢狭間を数多く開け、夜間には篝火を焚き、人の出入りを厳しく監視した。
迎え討つ吉川経家は、久松山城(鳥取城)から一里(約四キロ)離れた海岸の丸山に城を築き、副将の山県左衛門春往と、因州の侍衆の奈佐日本助・塩治周防守高清・佐々木三郎左衛門らの兵五百余騎を加え出城を守らせた。
経家は、久松山城に入城した折に、城内の兵糧蔵を見分したが兵糧米の備蓄の少なさに愕然とした。
「森下殿・中村殿、これは如何した事か。兵糧米が備蓄三か月に満たない状況と見受けられるが・・・」との問いに
因幡山名家家老の森下出羽守入道道与と、中村対馬守が面目なさそうな面持ちで
「昨年は、北陸の飢饉で因幡の米相場が急騰したため、備蓄していた兵糧米の三か月分以外は売って目先の軍資金確保に奔走した次第でござる。毛利の援軍が、三か月以内に到着する事を前提に判断したのですが、何か不都合でも・・・」
聴いていた経家の側近からは、溜息が漏れた。経家も山名家重臣の思慮の浅さに呆れ、返す言葉も見当たらない。
「毛利の援軍が三か月以内に来るとは、何と浅はかな・・・」
経家は、羽柴勢が因幡侵攻前に、因幡米の買占めまで計画実行していた事に驚いた。
(秀吉は三木攻めの長期籠城戦を反省し、予め攻城戦前の備蓄米崩し作戦を事前展開していた。)
「秀吉は、用意周到よな。はじめから兵糧攻めで、城を力攻めしない作戦のようじゃな・・・」
「石山本願寺が籠城五年、三木城の別所長治殿の籠城が二年。この城は、僅か三月の籠城で兵糧が尽きる。三月での開城では、我が武門の名折れよ。このままでは、籠城兵五千の飢餓地獄になる。戦いを仕掛ける前に兵糧の確保が先のようじゃ・・・」
経家は、密かに海路より雲州から兵糧米を確保するため兵を派遣した。しかし、羽柴勢は籠城勢の兵糧米困窮を事前に予測しているため、城と近港の囲みは厳重にしていた。
そんな情勢の中でも美保関港より大船四艘に米を積み、賀露港に着船し、久松山城へ兵糧米を入れようとした毛利方武将田中宗右衛門・豊島源次郎・有間又八・白井藤次郎・白井新左衛門・白井七郎左衛門・竹内新五左衛門・手島藤次郎等が賀露港沖まで漕ぎ着いたが、待構える織田の軍船に阻まれ、賀露港沖で海戦となり、豊島・有間又八・白井藤次郎・手島藤次郎以下二十五人が討死した。
また、船の着船を待って、港から久松山城へ兵糧を運び入れようとした、鹿足民部少輔とその郎党も、羽柴方の松井佐渡守康之の家臣村尾四方助に討取られた。
六月末の時点で、久松山城は、織田・羽柴の大軍により完全に包囲されてしまった。
羽柴与力として、この戦に参陣していた因幡守護山名豊国が籠城する兵に向かって
「逆臣、森下出羽守と中村対馬守を討て。其の方等は、我が家臣ぞ・・・」と言って、城内に籠る山名勢に向け声高に叫ぶ。
「我らを捨てた卑怯者は、主君にあらず。恥を知れ・・・」と城兵が声を返す。
此の有り様を視ていた寄せ手の諸将は、山名中務大夫豊国を蔑むと同時に憐れんだ。
城に籠っている家臣に赤恥をかかされた豊国は、陣所に引き籠り側近に当たり散らす。囲む織田・羽柴勢は、城を遠巻きに囲むだけで、攻める気配を全く見せない。
久松山城外には、播磨・但馬の商人が各処に市場を立上げ、毎夜祭りのように城外は賑わう。六万の攻城兵が交替で、毎夜遊ぶので城下には賑やか声が響く。秀吉は、囲む諸将の兵に遊び金を与え、毎夜交替で遊ばせ、長引く対陣による労苦に備える。
城下に集まった商人からは
「こりゃもう戦にならんで。吉川様もご苦労様なこっちゃ・・・」と揶揄する始末。
久松山城代の経家は、此の有り様を城の天守で傍観し
「秀吉は、面白い戦をするものよ。夜の城下が真昼のように明るいわ・・・」と唖然とする。
城内から脱出したいと希望する兵は、密かに北門口から逃がし、長期の籠城戦に備えるため兵を少数精鋭にして、援軍の到着を待って反撃の機会を待つ体制を整えていた。
その頃、東伯耆では「羽柴勢が、久松山城を六万の大軍で囲む」と伝わり、東伯耆三郡の毛利家与力を決めた諸将は動揺していた。
久米郡岩倉城の元清は、諸将を集め伯耆山名氏の拠点打吹城の奪回と、社村の今倉城攻めを実行に移す。河村郡羽衣石城の南条元続は、兵五百騎で鹿野城下へ進出し、亀井玆矩の留守を援護する。
因幡の情勢は大きく変化し、東伯耆三郡での南条・小鴨軍の活動は活発化した。
天正九年(千五百八十一年)は、東伯耆の勢力図を大きく変えた。南条・小鴨勢には、苦節三年ようやく形勢逆転の機会が訪れていた。
南条兵庫頭元周が、城代として守る松ヶ崎城を久しぶりに訪れた元清主従は
「従兄上、お元気で何より」と田尻城の落城と、叔父小森方高の謀反後の後処理を労う。
元周も
「お誠と久は、佐治谷の加瀬木村で百姓仕事をしていて元気そうじゃったわ。我らの苦労もようやく報われそうじゃの・・・」
傍で聞いていた左近が
「元周様、今宵は久しぶりに東郷湖の珍味でも・・・」と催促する。
「おおそうじゃな。東郷湖のしじみと魚料理は、久しぶりであろうな・・・市之進よ」
元周の側近、田原市之進が姿を見せる。
市之進の姿を視て、驚く元清が
「市之進、存命だったのか。田尻城落城時の殿役で戦死したと聴いておったが・・・」
恥ずかしそうな素振りで
「田尻城の落城寸前に、元秋様に救出され三朝温泉で一年間療養しておりました。ようやく体も回復し、殿の元に復帰できた次第でござる。まさか、松ヶ崎城で殿に再度仕えるとは・・・」
「元秋様と方高様があのような最期を遂げられ、なぜ拙者が存命しているか恥入ってござる」と言って悔し涙を見せる。
「市之進よ、もうよい。元秋もそなたを救って役目を果たした」と元周が慰める。
「今宵は、亡き叔父上(方高)・元秋・行衛・重敬の供養を・・・」と元清が呟く。
左近が
「湖水に散骨された、大殿(宗勝)とお里様の姿が想い起こされますな」といってすくっと立ち上がり、出丸客間の障子を開け放ち、夕日に照らされる湖面を眺める。
元周と元清も立ち上がり、夕日に照らされた湖面を眺める。
湖面は、夕日で赤く照らされ輝きを放っていた。初夏を迎える頃の、夕日に照らされた湖面は一年で最も美しく輝く。景色を眺め、幼い頃に四朗(元秋)と行衛を連れ、東郷湖周辺で朝早くから夕暮れまで遊んだ頃を想い起す元清だった。
「あの頃に帰りたいものじゃ・・・」と元清が、湖面の夕日を眺めながら呟く。
「領地は荒れ果てたが、この湖面は何事もなかったように美しい・・・」と元周が続く。
松ヶ崎城の出丸屋敷で、元清と元周の主従は、今後の東伯耆の情勢分析と、亡き家族を懐かしみながら酒を酌み交わし、一夜を明かした。
初夏を迎える七月、雲州月山富田山城で備中出陣から帰城した吉川元春は、苛立っていた。
六月に織田・羽柴・宇喜多の連合軍六万騎が、因幡久松山城を囲んだ知らせに芸州・雲州の諸将に急ぎ月山富田山城へ参集するよう軍令を発したが、諸将の兵は集まらない。
久松山城の城将吉川経家からは、兵糧米欠乏を訴える訴状が矢継ぎ早に届く。
「元長、昨年の東伯耆攻めで雲州・芸州の諸将は、多くの兵を失い因幡救援を嫌がっておる・・・」
元春の愚痴に聞こえた元長が
「我らがここで兵を出さなければ、経家殿の立場が在りませぬ」と元春を責める。
「しかしのう・・・。今救援に出向いても織田の六万騎に対し、我が方は五千の兵も集まらんわ。五千の兵では経家の立場を益々危うくするが・・・」と元春は、今回の因幡出陣に対して煮え切らない。
「何を迷っておられる。今は、父上の面目より、久松山城の経家と付き従った八百騎の兵の命が大事。五千の兵でも出兵すれば、久松山城の士気は高まりましょう・・・」
「そうかのう。逆に毛利は、五千の兵しか送れないと因幡衆や織田勢に知らせるようなものじゃが・・・」
この頃、毛利は筑前の博多港を手中にするため、小早川隆景が北九州に攻勢をかけていた。しかし、豊後の大友義鎮(宗麟)は、早くから織田信長への与力を決め、中国地方での羽柴勢攻勢に呼応し、北九州からの毛利勢力一掃に向け攻勢をかけていた。
毛利家中では、吉川元春の中国覇権に対し、元就の遺言を盾に元春を牽制する勢力が増大していた。元就は、存命中に
「毛利家は、上方の覇権には一切関与せず、領国を固く守る事に徹するように致せ」
元春は父元就が存命であった頃には、伯州・因州での尼子勢掃討を名目にして伯耆・因幡へ侵攻した。しかしこの頃は、元春の中国での覇権闘争は、羽柴秀吉の出現によってすでにとん挫していた。
元春には、百姓上がりの秀吉に対する嫌悪感が先立ち、自身の置かれている状況が見えにくくなっていた。そんな、元春の状況を身近で見ていた元長は
「親父殿、そろそろ秀吉の実力を認め、東伯耆三郡の南条と和睦しては、如何か・・・。元々南条は、杉原盛重への遺恨で兵を起こしたもの。我らから歩み寄れば、事態は一変しますが・・・」
「その方も言い分にも一理あるが、経家を久松山城に遣わしたこの事態を、如何に収集するのじゃ・・・」と言って元長の意見を牽制する。
「経家殿は、親父殿の考えを熟考して因幡久松山城へ出向いております。自身の首桶を掲げ、城へ入城したと聴いております。親父殿に対し、今後の石見吉川家安泰を願うための出陣と、某は受止めましたが。経家殿は、毛利の援軍は難しいであろうと察知してござる。我らは少数精兵でも東伯耆の馬の山まで兵を繰りだし、織田勢との全面戦は避けつつ、牽制しながら因幡の情勢を観るしか打ち手はございません。諸将への出陣要請が因幡救援では、一万の兵も集まりますまい。毛利家にとっての至急の課題は、北九州の博多港攻略が実利でござる・・・」
聴いていた元春は、溜息を漏らしながら
「今の状況では、秀吉の六万に対し、我らの兵は五千がやっとじゃの。この兵数では、経家には申し訳ないが、やはり出兵せねば仁義が立たぬわい。百姓上がりの秀吉に一泡吹かしてやるか・・・」と言って元春は、少数精鋭での東伯耆への出陣を決めた。
その頃、久松山城を見渡せる本陣山陣所の羽柴筑前守秀吉は
「小一郎、毎夜毎夜兵を交替して遊ばせているが、どこか城攻めでもせにゃなあらんにゃあ~」
本陣山に参集していた諸将から、鹿野城主の亀井玆矩が
「久松山城と鹿野城の中間地点に、因幡から鹿野を経由して伯耆に通じる街道を守る毛利与力の武将吉岡将監定勝が籠る亀山城(防己尾城)がございます。将監は強者で、籠る兵は二百余騎程ですが、城の有り様を視るに中々頑強な城でございます」
聴いていた秀吉が
「七郎左衛門よ、おみゃあが攻めてみよ。おらも後に続くでの」と親戚衆の杉原家次(羽柴七郎左衛門)を名指しして亀山城の攻城を指図する。
「因幡に来て戦もせず帰ると、安土の上様に叱られるでのう」
小一郎は、七郎左衛門に
「将監は、尼子討伐で鹿之助と戦った勇将らしい。くれぐれも油断なきようにな・・・」と言って一手柄立てようと気負う七郎を諭した。
七月二十六日夜半より、吉岡城下の湖岸に出陣した羽柴七郎左衛門の先陣七千余騎と、秀吉自らの本軍二万騎は、陣形を整える事もぜず一気呵成に、湖岸の亀山城を力攻めに攻めた。
湖岸の山城に続く一本道は、幅が狭く馬一頭が通じるのがやっとで、城の大手門櫓からは攻城勢が丸見えとなっていた。大手門櫓で、攻め寄せる羽柴勢の様子を観ていた将監が
「今じゃ右近・左近。ここが勝機じゃ、大手門を開けあの大軍の中に騎馬で乱入せよ!この期を逃すな!」と言って若武者の息子達に告げる。
若武者吉岡右近、左近の騎馬武者百余騎が大手門から、一気呵成に討って出る。攻城勢は、突然の寄せ手にとっさの事で態勢は大いに崩れ、身構える間もなく慌てて逃げ出す始末。
攻城勢の慌て振りを大手門櫓で観ていた将監が
「玄番殿。後方に見える大将旗を奪ってやろうか。騎馬武者は、我に続け」と言って城の守りを客将の小森玄番に任せ、大将自ら城を討って出た。
後陣に控える秀吉主従は、先陣の混乱を治める動きに出たが、城外へ討って出た将監の率いる騎馬武者の猛攻に驚き、羽柴本陣でも兵が霧散する始末。秀吉を守る側近も慌て、秀吉の身を後方に移すため大将旗を放置したまま、秀吉と一緒に逃げ出す始末。
一瞬の出来事に秀吉も驚いたが、浮足立った側近に
「なんじゃあ。たかが小勢じゃにゃあか、慌てるな。返せ、返せ!」と怒鳴り声を上げる。
秀吉の怒鳴り声を聞いて、我に返った七郎左衛門与力の諸将が、急ぎ陣形を立て直す。七千騎の兵が右近・左近の騎馬武者を取り囲む。息子達の危うき事態を視た将監は、馬を取って返し、取り囲む七郎左衛門の集団に討死覚悟で討ちかかる。歴戦の強者将監は、馬上の槍さばきで群がる雑兵を打ち払い、何とか右近・左近と共に死地を脱し帰城した。
将監は、大手門櫓に登り
「勝鬨を上げよ。敵の大将旗ここにあり、我らが勝利じゃ」と言って叫ぶ。
城内からは、歓声が上がり大軍に囲まれた亀山城は勢いを増した。
本陣を立て直し、興奮冷めやらぬ秀吉は武者震いしながら
「桶狭間の義元になるところじゃったわ。久々に生きた心地がした。吉岡将監恐るべしじゃなあ、良き武将に出会えたものじゃ。七郎に伝えや・・・」と言って五千の兵で亀山城の周囲を完全に取り囲み、寄せ手に備えて鉄砲隊を配備した。
(その後、亀山城は久松山城開城と共に降伏開城した。秀吉の仕官の誘いを将監は断り、芸州に下り毛利家に仕えた。)
九月に入って、秋風がそよぐ久松山城の天守では経家が諸将を集め
「籠城三か月だが毛利の援軍は、東伯耆の馬の山で足止めされ兵糧は尽きた。城内の飢えに苦しむ兵が死人を貪る有り様には耐えがたく、我は武人で有る前に人である・・・」と経家が大粒の涙を流しながら語る。
聴いていた諸将らは、悔し涙を流しながら嗚咽をあげる。
「元春公の存念は如何に!援軍は全く来ず兵糧も入らんとは・・・」
経家に従って来た安芸の諸将らが、声を荒げる。
「経家様。敵と一戦も交えず降伏開城とは、武門の名折れ。ここは最後に城を討って出て皆で討死しましょうぞ」経家に従って従軍した諸将は、すでに死を覚悟していた。
「一戦も交えず降伏開城とあっては、城代経家様の名声にも禍根を残す」と誰かが言う。
衆議は、決したかのように誰もが思った。
諸将の顔を視て、深く憂慮した経家が
「諸将の皆様は、務めを十分に果たされた。しかし我は、方々に共にこの城に入って頂き、武功をあげて頂く機会も与えられず、城代としての役目は果たせなかった・・・」
「事ここに至っては、降伏開城の責めは我一人で果たす。石見吉川家当主の武門を背負った我が身を想えば微塵の迷いもない」
聴いていた諸将は、経家が語る石見吉川家の深い存念を聞いて、経家の久松山城代としての深い役割に対する覚悟を知った。(経家に付き従った諸将は、経家が久松山城代の就任の背景に、新庄吉川家と石見吉川家の石見銀山管理をめぐる両家闘争の確執があることを薄々察知していた。経家と、毛利家当主輝元が、舎弟関係を構築している事に対する元春の危惧もあった。)
さらに経家が語る。
「後の世の人は(三木の干殺し、因幡のかつえ殺し)と言って我らの非力さを語るであろう。しかし、この城で戦った諸将の苦悩は、我が武勲としてあの世で諸将のご先祖に語ろう。我一人が責めを負ってこの無用な戦いに終止符を打たせて下されい・・・」
吉川式部少輔経家の凛とした言葉に、諸将は抗う言葉を発する事が出来なかった。
しかしこの事態は、経家の思うよう簡単には進まなかった。
因幡久松山城降伏の申し出を安土城の信長に伝えた秀吉は、信長からの意外な返答に困惑していた。(秀吉には、明智日向守光秀が丹波攻めの折に、波多野兄弟との和睦開城を信長の許し無く執行した事の惨劇が想い起され、吉川経家の降伏開城要請にもまずは、信長の了承を得る動きを取った。)
信長からの返答は
「式部少輔は、生かすように致せ。責め負うのは、山名家の家老森下と中村の両人で良い」
「内々に申し渡すが、石見吉川家当主の経家には、安芸・出雲が我らの領地になっても石見銀山の統治管理を任せたい。その事を一番嫌がるのが吉川元春よ・・・・深慮せよ越前」と返書には書かれてあった。
秀吉は、信長が雲州石見の情勢を克明に調べ、状況分析している事に驚かされた。
信長には生駒家の用人(山の民を統治する者)より、新庄吉川本家と石見吉川家の確執を報告されていた。元々新庄吉川本家の正統な当主が、毛利元就の陰謀で廃嫡幽閉され憤死している事まで調べ上げていた。この生駒家用人に、山陰の情報を伝達していたのが因幡佐治衆であった。(信長は、前面で羽柴秀吉を毛利と戦わせ、水面下では博多港を押え、諸外国と交易している小早川隆景との連携を模索していた。佐治元徳が、安国時恵瓊を通じて隆景詣ができたのは生駒家の思惑からであった。)
元徳からは、岩倉城の元清宛てに久松山城の降伏開城要請が伝えられていた。
添え状には
「信長様は、経家様の切腹開城を許さず、秀吉様へ説得するよう下知されております。しかし経家様が承服せず、事態が膠着しておるようです。ここは、殿が久松山城へ出向き信長様の意向をお伝え願いたい。秀長様へは、内々に通じております」と書かれていた。
読み終えた元清は
「左近、将監、元亮、新十郎を呼べ」と側近に命じた。数刻して各城を守っていた岩倉四将が、慌てて岩倉城に登城した。
四将を前にして
「その方等を呼ぶにも時がかかるのう・・・。以前は、この城の各部屋に留まっていたが今では各出城の城主」と持ち上げる。
左近が
「殿。急ぎのご用向きとは・・・」笑いをこらえ神妙な顔をする。
「内々に久松山城へ出向く。秀長様を通じて、密かに久松山城へ入り経家殿を説得したいのじゃ」聴いていた諸将は呆気にとられた。
将監が
「馬の山には敵将吉川元春、茶臼山には吉川元長が対陣しておる緊張状態ですが・・・」
「だから内々じゃ。茶臼山の元長様だけには通じておこう。元長様も義兄の経家殿の除命は、望んでおられよう」
「元亮、新十郎の二名は我と同道せよ。将監は、岩倉城代として不在対応を頼む。左近は、茶臼山の元長様へ子細を報告し、経家殿宛てに一筆お願いしたい。また岩倉城攻めを・・・まあこれは止そうか」と言って各自に差配した。
「事態が切迫して来たのう。因幡と伯耆の混乱も、経家殿の降伏開城で収まるかのう・・・」
「何としても経家殿には生きて頂き、石見吉川家を守って頂かねば・・・」
年初に雪深い岩倉城を去って行った時の、経家の後ろ姿が元清主従には想い起こされた。
天正九年(千五百八十一年)十月元清主従の姿は、久松山(鳥取)城の天守にあった。城将吉川式部少輔経家を説得のため、密かに吉川元長の書状を携えていた。
城の天守に迎えられた元清主従に
「元清殿。天守から眼下の此の有り様を視られよ。秀吉の攻城戦は、我らの想定をはるかに超える物流戦で大規模な土木事業を効率よく短期間にこなしたわ・・・・。敵ながらあっぱれよ」と経家が語り溜息をもらす。
経家の側で天守から羽柴勢の布陣状況を観た元清は
「時代が変りましたのう。我らが共に尼子勢や大内勢と戦った頃の戦とは、戦の在り様があまりに違いますのう。この攻城戦は、後の世でも語られましょうな・・・・」
「ところで我らが参ったのは、安土の信長様より、城の降伏開城の条件は、(山名の家老二名の切腹で良い)との命が下った事と、吉川元長殿からの申し状をお渡しするためでござる」
元清の顔を見つめていた経家が
「うん、うん」と頷く。
一時、お互い無言で見つめ合う。経家が
「有難いのう。わが命を大切に想って頂ける、信長様と元長殿に・・・」
「我も秀吉のように、大軍を率いてこのような戦がしたかったのう・・・」
元清が
「信長公は、経家殿に今まで通り、石見銀山の管理を任せたいとの申し出でござる」
聴いていた経家の顔が、一瞬引き締まり
「元清殿。有難い申し出ではあるが我が身は、そのような生き方ができぬ無骨者よ・・・」
「新庄吉川家と石見吉川家の確執が有るとは申せ、毛利本家の輝元様には弓は引けん・・・」
「元清殿の舎弟元秋殿のように、潔く武士としてここで生涯を閉じる事が、我が本命ともう自分に言い聞かせた。ご理解下されい元清殿・・・」
聴いていた元清は、天守眼下の羽柴勢の布陣を視ながら
「経家殿。一軍の将としてこの城に入城した時から、今の在り様を定めと決めておられたのか・・・難しいのう・・・」
経家が
「そうなのじゃ。今更自身の筋書きを替えられんわなあ・・・。元清殿」
二人の間に沈黙の時間が流れる。眼下では、羽柴勢の雑兵が城に向けて
「もう安芸に帰られよ・・・。因幡は、我らに任せよ」と闇夜に木魂する。
秀長の陣所を訪ねた元清主従は、経家の存念を秀長に伝えた。子細を聴いた秀長は、元清に労いの声をかけ経家の降伏開城条件を受け入れた。 「元清殿。某と兄者は、百姓の出だで真っ先に命あっことと考えるだわにゃあ。尼子勝久殿も経家殿も、幼い頃から武士としての教えが定めとなっておるわにゃあ。あまりに潔よすぎて、誠に惜しまれる人達よのう・・・」
秀長の率直で溜息交じりの言葉を聞いた元清は、秀長の人としての懐の深さに接し、胸が熱くなっていた。
秀長の陣所を出て、岩倉城への帰路を急ぐ元清が 「元亮・新十郎。秀長様の仰せはもっともじゃなああ。経家殿や勝久殿には、もっと生きて頂きたかったのう・・・」
どこかやるせなさの漂う元清主従は、馬上で久松山城を囲む羽柴軍の篝火を観ながら帰路への足を速めた。
明け方に松ヶ崎城に入り、事の子細を南条右衛門督元周に報告した元清主従は、城内の出丸屋敷で東郷湖の秋の朝焼けを観ながら元周と一緒にしじみの味噌汁を食した。
「従兄上。こうやって東郷湖の朝焼けを観ておりますと、方高叔父上と母の事が想い出されますなあ。元秋・行衛と遊んだ幼い頃と景色は全く変わりませぬ。・・・」
「我も激戦の中で田尻城を追われ、方高殿の非業の死や行衛・元秋の戦死とこの数年戦に明け暮れて参ったわ。ようやく羽柴勢の伯耆侵攻が、数日に迫って我らの耐えがたき苦悩の日々に灯りが照らされるわなあ元清・・・」
傍で聞いていた早瀬市之進と、元清側近の元亮・新十郎の三名も湖面に照らす朝焼けを観ながらうなずいていた。
一刻ほど松ヶ崎城で休息をとった元清主従は、元周に羽衣石城の南条元続への報告を依頼し久米郡岩倉城への帰城を急いだ。
騎馬で千坂峠を越え、天神川を渡り打吹城下に入り、小鴨神社に到着したのが午後過ぎた頃であった。小鴨神社前には、家老の黒松将監が数人の武者を引き連れ元清主従の無事到着を喜んだ。(事前に佐治衆の棟梁元太より、将監には元清主従の岩倉到着時刻が報告されていた。)
「将監出迎えご苦労。城内は変りないか・・・」
「一日前から弥九郎様が、城内にて殿のお帰りを、今か今かと待っておられますぞ・・・」
(弥九郎とは小西弥九郎後の小西行長であった。弥九郎は、元清が年少の頃堺で世話になった小西家の三男坊で元清を兄と慕っていた。今は、宇喜多直家に堺衆の連携役として仕官していた。秀吉と直家を繋ぐ役目もはたしていた。)
岩倉城に到着した元清主従を大手門番の与衛門が
「殿のお帰り。皆の者迎えられよ!・・・」と大音声を上げ大手門を開ける。
迎えられた元清は、与衛門の元気な姿に
「与衛門感謝致すぞ。大手門番役目大義・・・」と声をかけ城内へ入城する。
城内は、元清帰還でどこか沈滞していた城内の空気が活気立つ。城内に籠城していた人々の姿が活気づく。
「殿のお帰りじゃあ。吉川と杉原の奴らを・・・・」と誰かが気勢をあげる。
閉塞感につつまれていた城内が、この気声で一気に打ち砕かれ皆が声を上げる。
「羽柴勢の大軍が押し寄せるぞ・・・。戦じゃ戦じゃ」
城内の武者と近郷の入城していた民は、この数年に及ぶ毛利との戦いに対する不安を打ち消すかのように、元清の帰城を心から喜び、毛利との決戦に向けた気勢が一気に高まった。
十月二十五日の早朝、朝霧の中で石見国福光城主吉川式部少輔経家は、三十四歳の生涯を終えた。山名家重臣の森下出羽守入道道誉・中村対馬守春次・佐々木三郎左衛門・奈佐日本ノ助・塩谷周防守の五人は、主君山名豊国に対する謀反の罪により、切腹は許されず、磔の刑に処せられた。また経家側近の福光小三郎は、殉死を許された。経家の身しるしは、経家が久松山城へ入城する折に持参した桶に入れられ安土城の織田信長へ送られた。 信長は、勇者経家の首を武神として奉った。
経家の辞世の句は
「もののふ(武士)の 取り伝えたる梓弓(あずさ弓) かえるやもとの 栖なるらん」
(経家はふる里に残した家族が悲しまぬよう、辞世の句と合わせ五通の遺言状を残したと伝わる。)
数日遅れで、佐治衆から報告を受けた岩倉城の元清主従は、経家の御霊に手を合わせた。また佐治衆からは、羽柴軍副将羽柴秀長の軍約二万が久松山城を陣払いし、河村郡の一ノ宮神社一帯に布陣するため移動を開始したと伝達された。
羽柴秀長が、羽柴軍の先鋒として、伯耆一ノ宮一帯に陣を布いた夜に事件は起きた。
夜陰に紛れ、馬の山湖岸から密かに船出する三艘に乗船した、約三十人の武士団があった。この武士団を率いる大将は、元春の二男吉川元氏であった。
元氏は単独で、羽柴勢の先陣二万が到着した夜、一ノ宮への夜襲を画策した。
「皆の者、我らは精鋭。陣所を攪乱させ、羽柴勢を驚かせたら直ぐに引き上げるぞ!」と言って意気込んだ。
しかし、秀長にも用心深い武将が仕えていた。敵の夜襲を恐れた、佐渡の武将小木弾正輝信とその配下数名が、陣所に近い船着き場を探索していた。丁度その時、対岸から湖面に浮かぶ三艘の船が着岸してきた。弾正は、大音声で
「我は、羽柴秀長配下の小木弾正でござる。其の方等名を名乗れ・・・」が木魂する。
上陸寸前で羽柴勢に発見された、元氏は悔しがり
「押せや押せ!小木弾正とやらを討取って参れ」と配下に激を飛ばす。
吉川勢が放つ火縄銃の銃声が轟き、銃弾が小木弾正の胸板を貫く。哀れ小木弾正輝信、遠国の佐渡から羽柴勢に加勢するため、佐渡の小木城を子息にまかせ馳せ参じ、東伯耆一ノ宮で生涯を終えた。側近の部下も、弾正の亡骸を守るように討死を遂げた。秀長の本陣には、遠方からの銃声が届き、敵襲に対し臨戦態勢を整えた。近づく羽柴勢の大軍に、夜襲の好機を失った元氏一行は、着船した船で急ぎ引上げた。(佐渡の小木城主小木弾正を供養する五輪の塔は、現在も湯梨浜町宮内村の近くに建立され、供養されている。)
秀吉率いる主力軍約三万は、久松山城の後処理を宮部善祥房継潤に任せ、数日遅れで久松山城の陣払いを行い、鹿野城主亀井玆矩の待つ鹿野城に立寄り二日間逗留し、あらかじめ呼寄せていた山名豊国の姫と過ごした。(豊国の子女が、秀吉の側室に迎えられた事で、豊国はこの後に関白豊臣秀吉のお伽衆に加えられ領地も与えられた。あっぱれな孝行娘を持った事は、豊国の家宝と言える。)
秀吉の主力軍約三万は、秀長の先鋒軍約二万に数日遅れで、河村郡の御冠山一帯に着陣することとなった。秀吉着陣の御冠山陣所は、あらかじめ先陣の秀長配下藤堂与衛門(後の藤堂高虎)によって松ヶ崎城主の南条元周配下と見分し、陣所の整備を行っていた。
秀吉の主力軍約三万は、秀長の先鋒軍約二万に数日遅れで、河村郡御冠山一帯に着陣することとなった。
夕闇迫った御冠山の羽柴陣所から、眼下に布陣している吉川駿河守元春の馬の山(駒山)陣所を見渡すと、燃え盛る篝火の灯火が陣所一帯を昼間のような明るさに照らしていた。御冠山の羽柴本陣へ着陣御礼の言上に出向いていた小鴨元清が、同道している南条元続と元周に
「あの有り様は、何時でも攻め参れ!歴戦の勇将元春公の覚悟が、視えますなあ・・・」
頷く元周が
「あれは誘いの罠よ。秀長様へ慌てて討ちかからぬよう言上せねばならぬなあ・・・」
三名は、元続を筆頭に秀吉・秀長の待つ陣幕へ出向いた。
秀吉の陣所では、側近の蜂須賀家政が大将の秀吉と何やら口論し、陣所内は二人の大音声でにぎわっていた。秀長が三名を見て
「おお南条殿・・・!良いところに参られた」と秀吉と家政の口論を制す。
秀吉も南条元続に走り寄り
「いやあお恥ずかしい・・・。小六は声がおおきいでにゃあ・・・」と言って三名を机上前の席に座らす。
「小六がたかが吉川六千の小勢、夜襲をしかけて一気に踏み散らしせ・・・と申すのじゃ」
「南条殿は如何か・・・」
聴いていた元続が
「まずは、御着陣の御礼を申し上げます。我ら三名の所存は、元清よりご説明申し上げます」と言って元清に催促する。
羽柴勢の並居る諸将の前で畏まった元清は
「馬の山の陣所は、東伯耆の鬼門でござります。一見攻めやすそうな登り口ですが大軍で攻めると、登り途中で道が塞がれ、元春の守る本陣までには多大なる犠牲がでます」
聴いていた諸将一同が、一瞬ざわつく。
「もう秋も深まり、十一月の冬支度が始まりまする。ここは、数日御冠山の陣所にて対陣され雲州から参陣した国衆を圧倒し、密かに調略する事がよろしいのでは・・・。十一月には、陣払いされ本格的な戦いは、翌年の春に持ち越された方が無難です」
聴いていた秀吉が、両手を打って
「それよそれ。危ういのう小六・・・。さすが三年もこの地で戦い、元春を足止めした南条殿じゃ」
秀長も
「兄者、冬を前に無用の戦は、命取りになりますなあ。いやあ元清殿、危ういところであったわい」
秀長の言上を側で聞いていた家政も、照れくさそうに
「元清殿。もっともじゃ、もっともじゃ」とさっきまでの積極攻勢をあっさり取り下げる。
机上に面する諸将も笑みを浮かべ、誰かが
「酒じゃ、酒じゃ。誰か酒を持って参れ・・・。さあ、南条殿の三年の長き戦を慰労しようぞ」
秀吉が
「左近衛中将様(信忠)。東伯耆は、南条殿に任せましょうぞ。我らは、数日ここで元春を牽制して姫路に引上げまする。信長公には、良しなにお伝え願いまする」と言って、信長より美濃・尾張を相続したばかりの織田左近衛中将信忠を持ち上げる。
元続・元清・元周の三名は、慰労酒を頂き松ヶ崎城へ引き上げた。
十一月に入り、日本海からの北風が、両陣営に山陰の冬の到来を告げる。
御冠山に着陣して十日、羽柴秀吉は、全軍に陣払いを命じ、姫路に退却した。
殿役は、因幡の久松山城主宮部善祥房と、用瀬景石城主磯部兵部大輔に命じた。また来春までの備えとして、南条・小鴨勢へ持参していた兵糧弾薬を付与した。兵糧弾薬は、蜂須賀親子と石田佐吉(後の石田三成)によって羽衣石城・松ヶ崎城・岩倉城へ搬入された。(両軍一戦もまみえず陣払いしたため、持参した兵糧弾薬は消耗することもなく、持参した物資は、運んだ荷駄ごと南条・小鴨両家へ分納された。この有り様を見聞きした南条・小鴨の諸将は、秀吉の器量の大きさに驚かされた。またこの噂は、敵陣に加わった毛利与力の伯州・雲州の諸将にも漏れ伝わった。この一件が、早速一か月後の西伯耆を統治していた杉原播磨守盛重の急死で、杉原兄弟の家督相続争いを誘発させる。)
(この後、吉川元春と羽柴秀吉が、東伯耆で直接交戦する事はなかった。翌年舞台は、山陰から山陽に移り、羽柴秀吉・南条元続・小鴨元清にとっても、新たな時代を到来させる大事件が勃発する。歴史にまさかは無いが、冬を目前に東伯耆での戦いが強行されていたならば、後の秀吉の天下取りも本能寺の事変も無かったのではと?秀吉が、天下統一を成した後の天正十六年に執り行われた、京都聚楽台新館成就して天皇行幸の時、関白秀吉の後列二行の諸大名右十五人目に参列した、南条伯耆守元続は面目を保った。秀吉と秀長が東伯耆での南条家の忠義に報いたのだろう。伯耆馬の山での一戦を避けた事が、秀吉の運を繋ぎ、この後の南条家の隆盛をも左右する事となった。元清の強運は、この後も続く。)
天正九年の因幡(鳥取県)の久松山城(鳥取城)での攻防は、城将吉川経家の自刃で幕を閉じる。経家の首は、自身が久松山城入城の時に持ち込んだ首桶に入れられ秀吉から安土の信長の元に届けられた。石見の国士として信長は深く感動し、経家の首を丁重に葬った。久松山城の攻防を終えた羽柴勢は、東伯耆の御冠山に本陣を構え、馬の山に布陣している吉川元春と対峙した。
羽柴勢は、東郷湖を望む御冠山に約五万の兵で、馬の山に着陣した吉川元春の六千と対峙した。
十一月を迎え日本海からの北風が山陰の冬の到来を告げた。秀吉は、陣払いを諸将に命じ南条・小鴨両家への兵糧弾薬搬送を行い、来春の再来を固く約束した。
羽柴軍の姫路撤退を見届けた吉川元春も、東伯耆を茶臼山の嫡子吉川元長に任せ、雲州月山富田城へ引き上げた。お互い来春こそが、雌雄を決する戦場となる東郷湖「羽衣の里」を眺め、決意を新たにして帰路についた。半年後の大事件「本能寺の変」は刻々と迫っていた。




