天正八年(千五百八十年)播磨・但馬を平定した羽柴勢は、因幡・伯耆侵攻に向け兵を進める。
天正八年一月十八日、約三年に渡る東播磨三木城の反抗が終わる。城主別所小三郎長治は、幼い妻子と伴に自刃した。辞世に
「今はただ うらみにあらじ 諸人の いのちにかわる 我身ともおもへば」
義父波多野左衛門尉秀治(正室照子の父)は、和議申し開きで織田信長の元に上洛したところ、安土城下で兄弟共に磔の刑に処された。この所業を知った丹波八上城内の籠城兵は、人質としていた明智光秀の乳母を城内で磔の刑で処刑した。丹波波多野一族は、当主秀治の刑死を悲しみ城と伴に滅びた。
但馬・播磨を平定した羽柴勢は、天正八年いよいよ因幡侵攻に向け動き出す。しかし 丹波・東播磨の情勢を知った東伯耆の武将に動揺が走る。
年が明け、天正八年(千五百八十年)一月十八日、東播磨の雄三木城主別所小三郎長治が兄弟妻子と共に自害して、三年の長きに及ぶ籠城「三木の日殺し」が終わった。
長治は、天正五年に正室照子の実父、丹波の大名波多野左衛門尉秀治と同盟を結び、早々と織田与力を決めた。しかし、一向宗石山本願寺との繋がりを重んじた秀治は、突如織田に反旗を翻し、織田方の丹波黒井城を攻める。激怒した信長は、明智光秀に丹波波多野攻めを命ずる。
その後、八上城に籠った秀治は、城兵の除命を条件に、光秀の講和に答え城を明け渡して、降伏申し開きのため兄弟で、信長の待つ安土城へ出向いた。
信長には、光秀が勝手に波多野秀治との和睦を決めた事が気に入らない。
安土城下に到着した波多野秀治兄弟は、城下で磔の刑に処されてしまった。
この所業を知った八上城の籠る城兵は、怒り悲しみ、光秀の人質として城内に留めていた光秀の乳母を磔の刑に処した。八上城に籠る波多野一族は奮戦したが、多勢に無勢、八上城は落城した。
秀治の辞世に
「よわりける 心の闇に逆はねば いで物見せん 後の世の事」
は、冷徹で情け容赦の無い信長の憤死を、予言したような辞世であった。
義父秀治の織田反旗に同調していた別所長治は、秀治の処刑を知って悲しむ正室照子を抱擁した。
「降伏した者を磔の刑に処するとは。何と慈悲のない冷徹な男よ。一時でも与力した事が恥ずかしい」
幼いわが子と妻の死を見届け、若き東播磨の名門別所小三郎長治は、二十二歳の生涯を終えた。
「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかわる 我身ともおもえば」
人生は、紆余曲折。長治と秀治も一時は、織田への与力を決めた。しかし、信長の数々の冷酷な所業を知るにつけ、迷い苦しみもがき「信長には、死しても組する事を望まず」として反旗を覚悟させた。
常識非常識の狭間で、苦しみもがき、結果として武運拙く一族郎党まで惨殺された。運命に翻弄されつつ、自身の信念に従い生涯を全うしたのだった。
四月に入り、但馬出石城主羽柴美濃守秀長は、但馬比隈山城を攻略し因幡侵攻に軍を進めた。宮部善祥坊(継潤)を主将に、与力衆の木下重堅・磯部兵部太夫康氏・亀井新十郎・因幡武田衆(当主源三郎助信・舎弟源五郎元信)を加え、六千の兵で若桜(八東・智頭二郡)に進出した。
羽柴勢の第一次因幡侵攻である。
これに同調した南条・小鴨勢は、四月二十四日に、杉原盛重の籠る八橋城を二度に渡り攻撃する。
八橋城は、高台の天守から日本海を望む要衝で、西伯耆と東伯耆の境界線上にある。
国坂茶臼山に駐屯していた、山田出雲守・吉田肥前守・宍道五郎兵衛・岡田信直の兵二千は、元清不在の岩倉城を攻め八橋城を救援する。
東伯耆は、各地で両軍の小競り合いにより、三郡(八橋郡・久米郡・河村郡)にある村々の家屋は焼け、田畑は荒れ果てた。
五月に入り突如、羽柴勢が夜陰に紛れ因州気多郡の鹿野城を囲んだ。
羽柴秀長には、因幡侵攻前に佐治元徳より小鴨家軍師黒松将監からの書状が届けられていた。
書状には、「八東郡へ侵攻後は、急ぎ奥因幡の気多郡鹿野城を攻略願いたい。詳細は、元徳よりご説明申し上げる」と記載されていた。
秀長が、読み終えた頃合いを観て元徳が
「鹿野城には、因幡守護山名豊国様の妻子と、重臣森下出羽守・中村駿河守の妻子が、毛利家の人質として城内に拘留されております。豊国様は、因幡諸将から風見鶏と噂される御仁。鹿野城代は、毛利家より遣わされた三吉三郎左衛門・進藤豊後守の両名にて、お二方とも武勇に優れている武将ではありませぬ。城を急襲し囲めば、両将と城兵は安芸へ引上げるでしょう」
聴いていた秀長が
「豊国殿は、重臣達からの評判も良くないらしいの。妻子の除命を条件に、毛利反旗を図って揺さぶりをかけて視るも一手だな」
元徳がさらに
「羽柴勢の気多郡侵攻に合わせ、南条・小鴨勢も気多郡へ討って出ます。鹿野城代三吉・進藤には、我が殿より降伏開城を了承させます」
羽柴勢は、夜陰に紛れ亀井新十郎・武田源五郎・赤井五郎・士福屋彦太郎の兵二千が鹿野城を囲み夜明けを待った。
突然の羽柴勢の来襲に、鹿野城代三吉・進藤両将の意見は対立した。
開城撤退の三吉に対し、徹底抗戦の進藤であったが、城兵の士気は低く、命がけで戦い城を守る意志など元々無い。そんな城内に東伯耆南条・小鴨勢千五百による気多郡侵攻が伝えられた。
こうなっては、進藤豊後守も援軍の見込めない戦いでの無駄死には、三吉の意見に従うしかない。
三吉・進藤は、城兵の除命嘆願を条件に、城を開城した。
両将は山名家の人質を城に留めたまま、安芸へ撤収してしまった。この所業は、山名家中の毛利家に対する疑心暗鬼を増長させた。
突然の羽柴勢気多郡侵攻で、鹿野城開城を知った因幡久松山城(鳥取城)の因幡守護守山名中務大輔豊国と重臣森下出羽守入道道裕・中村対馬守春次は、人質の安否に動揺した。
「なんと情けない安芸衆よ。一戦も交えず、我らが妻子を見捨て、城を明け渡すとは」と入道が、毛利から遣わされた城代を蔑む。
聴いていた豊国は
「今はそんな事より、我が妻と娘のあかねを羽柴の手中から救出するのが先だ。己らの意見に従って毛利に与力した結事がこの始末じゃ。毛利に与力したのが浅はかだったわい」
豊国の言葉を聞いた森下・中村は、不安を覚えた。
「殿、今更勝手はなりませんぞ。羽柴方は、人質除命を条件に我らを毛利反旗に誘うはず、羽柴の誘いに乗ってはなりませぬぞ・・・」と豊国を諭すように言うが、豊国は重臣の換言に耳を傾けず、そそくさと近習を連れ城外へ出かけて行った。
森下・中村の憂いは的中した。
豊国は、その夜密かに近習数名を連れ単騎で、鹿野城の亀井新十郎を訪ねた。
豊国と鹿野城の城将亀井新十郎は、豊国が山中鹿之助幸盛に加勢してもらい因幡守護代武田高信から久松山城(鳥取城)を奪い返した折の縁であった。
豊国は、新十郎に会うや
「森下・中村の重臣達が我が意を得ず、勝手に毛利与力を決め、織田様へ敵対した事。誠に持って不承千判の出来事。今より山名家は、毛利に敵対する」と一気に言上した。
鹿野城副将の武田源五郎は、豊国の申し出を訝しいく思い
「豊国様、源五郎でござる。今は、亡き父上(高信)にもそうやって欺き自害させたのですな。まったくその折々でよくも変り身の早い事よ」と言って、新十郎の前で神妙に言い訳をしている豊国を蔑んだ。
傍に控えていた赤井と士福屋が
「まあ武田殿、遺恨は忘れよ。どのような事情であれ、因幡守護の山名様が直接来城され羽柴与力を決められたのじゃ。秀長様の申し出を守ろう」と言って源五郎を諭した。
亀井・武田・赤井・士福屋の面々には、鹿野城攻略後の対応について、羽柴秀長より
「山名の人質が我らに移れば、豊国殿は羽柴に寝返る。寝返らないようであれば、豊国殿の妻と愛娘を磔の刑に処すると脅せばよい。まあそこまで言わずとも動くがな・・・」と言い含められていた。
鹿野城将格四名は、豊国の因幡国守護職としての執着の無さに呆れていた。
源五郎は
「父上(高信)も見限るはずよな。我が主君としては、迎えたく無いものよ」と呟いた。
(この二人の運命は、後に徳川の世で村岡藩において主従関係となり末代まで続く。それは後の事)
豊国の降伏、羽柴与力の申し出に対し、新十郎は、あっさり豊国の妻子除命を約束した。条件として、早々に妻子を連れ、姫路城の羽柴筑前守秀吉の元へ出向くよう指図した。
(実質的には、姫路城への人質入れであった。しかしこの事が、秀吉の天下統一により、豊臣家中での豊国の在り様を盤石にし、徳川時代まで山名家は、延命し格式を保つ。人の命運とは意外なところで、世渡りの才を発揮する。まさか、人質に差し出した愛娘が、秀吉に気に入られ側室に迎えられるとは、この時点では誰にも予想できない事であった。)
数日して元清主従が、羽柴勢の守る鹿野城を訪ねた。
元清は、亀井新十郎と武田兄弟の烏帽子親でもあった。
新十郎は、尼子家臣の湯左衛門尉永綱(出雲国飯石郡須佐城主)の嫡子として生まれたが、十歳の時、毛利と尼子の攻防で城を追われ流浪の日々を過ごした。元清の妻久姫は、尼子新宮党当主誠久の実娘で新十郎にとっては主筋にあたる。
主君と仰ぎ尼子再興の夢を託した尼子勝久は、播磨上月城の戦いで嫡子豊若丸と共に無念の自刃。
上月城を落延びた勝久の側室は、京都に逃れ勝久の遺児常若丸を生んだ。その後常若丸は、久姫の嫁ぐ小鴨家へ養子として引取られ、小鴨四朗(元服後は元信)として、元清夫妻の岩倉城内で育てられていた。
新十郎にとっては、勝久の遺児常若丸を当主にし尼子を再興する事が、憤死した義兄山中鹿之助幸盛や尼子家臣達に対する償いでもあった。義兄鹿之助が、月山富田城に籠城の折、天の月に合掌し「我に七難八苦を与えたまえ」と念じている姿が想い起こされる。
新十郎は、上月城落城で闇夜に城を落延びる時
「義兄上、必ずや我が手で尼子再興を成し遂げまする」と固く誓った。
鹿野城を毛利から奪い、尼子再興の拠点にするため新十郎とその家臣は、並々ならぬ気概で気多郡の鹿野城を攻めた。そんな折に、烏帽子親で義兄と慕える久姫の夫、左衛門尉元清との再会は嬉しかった。
天正八年(千五百八十年)からの三年間で因幡・東伯耆の羽柴(南条)と毛利の攻防は最高潮に達する。
両軍入り乱れ、南条家の運命は、天正十年の本能寺の変によって激変する。
天下は、誰を天下の覇者にするか時代に翻弄される小鴨元清・南条元続であった。