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 羽衣の里(鳥取県中部東郷湖畔)で南条勢と吉川勢が、東郷湖を挟んで激闘を展開する。

 田尻城攻めで南条と吉川の戦闘が始まった。

「三日で落城させる」と豪語した杉原播磨守盛重親子は、想定外の反抗に攻城勢は狼狽し指揮系統が乱れ東郷湖の湖面は吉川勢の血で赤く染まった。被害甚大となり起死回生を狙う杉原又二郎景盛は、一気に羽衣石城の背後より攻め上がる奇策を仕掛ける。その途上には、船越摂津守重敬と行衛が籠る日下山城(清谷城)があり杉原勢の猛攻を受ける。

 船越夫妻は激闘の中で命を落とす。最愛の妹を失った元清は深く悲しみ、自身を責める。


七月の羽衣の里(鳥取県中部東郷湖畔)は、寅の刻過ぎに夜が明けはじめ、御冠山から昇る太陽で湖面が朝焼けに染まる一年で最も美しい時期を迎えていた。

 元清主従は、主戦場となる東郷湖畔に展開する部隊の状況を視察するため、松ヶ崎城の小森和泉守方高を訪ねた。

「左近、東郷湖を訪れるたびに母上の面影を思い出すな」

「お里様は、いつも明るく御三兄弟に接しておられましたな」と早瀬左近が懐かしむ。

「母上も幼い頃に、尼子勢の襲来で松ヶ崎城が落城し苦労された。この東郷湖は、何度も戦乱を交える中心地よな」と言って朝焼けの湖面を見る。

「殿、何時みても心を打たれる景色ですな」左近が感慨にふける。

 卯の刻に、松ヶ崎城へ入城した元清主従は、小森玄蕃に迎えられ東郷湖畔が良く見える出丸曲輪のお里が使用していた客間に通された。

 部屋にはすでに方高が着座し、窓越しに東郷湖畔の景色を眺めていた。

「元清・左近、何とか和議にならぬものかの」と和泉守が呟く。

「叔父上、我らは南条家代々二百五十年統治した領地を守るために戦うのです」

 元清の強い口調に頷く和泉守は

「元春公は、先が見えぬように成られたな。あまりに盛重に傾倒し過ぎじゃな」

「そなたが松ヶ崎城へ来た理由は判っておる。心配するな里に恥じぬよう我が身は、其方と一緒だ」と言って元清を見る。

 お互い話は、数刻に及んで元清主従は松ヶ崎城を後にした。

 松ヶ崎城下では、藤津口・白石口・別所口の各所に兵を配備して吉川勢の攻勢に備えていた。

 白石口には因幡より、武田源三郎助信・五郎元信兄弟が因幡武田家重臣西郷因幡守宗信と共に兵三百騎を引連れ南条家支援軍として着陣していた。

 高野宮城下の埴見口には、南条宗信を総大将に山田越中守・鳥羽安芸守・津村新兵衛尉の兵五百が羽衣石城へ続く街道を防御した。

 長和田ヶ原には、南条家筆頭家老の南条備前守信正を総大将とした本陣が置かれ、田尻城の支援体制を固めていた。


天正七年(西暦千五百七十九年)七月二十一日の早朝より、吉川左近介元氏を総大将とした総勢三千の攻城勢が杉原播磨守盛重を先陣として南条兵庫頭元周の籠る田尻城に総攻撃をかけた。

田尻城は円郭式(本丸を中心にして円形の郭が同心円状に配置)とした東伯耆では珍しい城郭であった。

城主元周が諸国を回り長瀬ヶ原を納める地形を意識した城郭に改修していた。外堀は十間(約18m)の幅に天神川の水を引込み、躊躇する寄せ手を櫓の狭間より鉄砲で狙い撃ちできる城郭としていた。

 高ノ宮城夜襲での汚名を晴らさんと寄せ手の、杉原又二郎景盛と山田蔵人信直は城大手門へ我先に攻寄せた。

「かかれや!かかれ」「小城など一気に踏みつぶせ」と一千の兵が声を上げて攻めかかる。

 その時、田尻城の大手門櫓より鹿の角の脇建て兜に一文字槍を持ち仁王立ちの武者が「撃てや、撃て!」と大きく叫ぶ。

「ドドーン」地鳴りのする一斉射撃の音に攻めての兵は一瞬にして二百の兵が撃ち倒れ苦しみもがく。城内の三百丁の鉄砲が一瞬に寄せ手の気勢を制した。

 景盛と信直は、田尻城に三百丁もの鉄砲が保有され実射状態にあるとは想定外で、一斉射撃の轟音で攻め手は乱れ引いた。

「景盛殿、ここは一旦城を囲み力攻めは被害が大い。急ぎ元春公へ注進しましょう」

「なぜこんなに鉄砲を保有していたのじゃ」景盛が悔しがる。

「羽柴方より密かに入手した鉄砲弾薬は侮れぬ」冷静な信直が呟く。

 先陣の総大将杉原盛重も、田尻城からの三百丁の一斉射撃の轟音に慄く。

「まさかのまさかじゃわい!これ程の鉄砲があったとは」顔は青ざめ鎧が小さく小刻みに動く。(無性に震えが止まらない)

 勇猛果敢な杉原勢は、今まで戦った事のない事態に接してしばし呆然として田尻城を一望している。

「攻めての気が吞まれている。もう一度一斉射撃されれば混乱する」と盛重が思ったその時。

 田尻城の大手門が開き、騎馬武者二百騎が勢いよく寄せ手の本陣めがけて攻めかかって来た。

先頭の栗毛の馬に跨り、鹿角の脇立て兜に十文字槍を脇に抱えた武将が、本陣の盛重を目指して攻寄せて来る姿に、本陣で防御態勢を取っていた杉原勢は恐れ慄き我先に逃げ出す始末。

 突然の寄せ手に、杉原盛重も敵将元周の形相を視て慌てて逃げだす始末。こうなっては千の兵も統率が取れず、逃惑い討取られ敗走し、長瀬ヶ原まで引いてしまった。

 馬の山本陣から、田尻城攻めの一部始終を視ていた総大将吉川元春は

「あれは何のざまじゃ!急ぎ救済に左近介を充て、陣形を立て直せ・・・」

「これは力攻めでは、味方の兵を損ずるばかりじゃ!輝元公に知れたら一大事」と言って悔しがる。

「元長の言った通りになったわい。おのれ元周め・・・」

 初戦は、城方の大勝利で終わったが、形勢は大軍を要する吉川勢の攻城戦優位を大きく転換するものではなかった。


 それから十日ばかり攻城勢は、力攻めを避け兵糧攻めに戦術に変更した。

 そんな攻城勢の苦境を観た若武者が、杉原景盛の陣屋を訪ねた。

「拙者は山田世之介と申し、南条家重臣山田越中守に恨みを抱く者。景盛様へ良き攻城案をお教え致したくお目通り願いたい」と言って景盛への目通りを願った。

 景盛は、世之介を怪しみ家臣に縄手で縛り上げさせ陣屋前の藁敷きに座らせ見せしめにしていた。

 丁度その時、景盛の陣屋を訪れた山田出雲守親子が世之介の姿を観て陣屋の景盛に尋ねた。

「あれは山田世之介と言って、高ノ宮城主山田越中守の一族で越中守に重く用いられていたが奥方との仲を疑われ出奔して行方知れずになっていた者」

「何故あのような始末に」と言って景盛を問いただす。

「何とそのような者でござったか!あまりに怪しい事を言うもので敵の間者と思い縛って見せしめのため放置しておった」景盛が慌てて

「世之介とやらの意見を聞こう。ここへ連れてこい」と側に控えていた部下に命ずる。

 世之介は山田父子を見て(助かった、元清様への御恩返しができる)ほくそ笑んだ。

 世之介の起死回生の策は

「田尻城の籠城勢に悟られぬよう、別動隊で闇に紛れ一気に羽衣石城を背後から攻めまする。天神川土手を川上に遡り、栗尾谷の栗尾村より羽衣石城の背後に火攻めを仕掛けます。夜道の案内は、羽衣石城の縄張りを熟知している某が務めまする」と一気に向上した。

 聞いていた景盛は

「おおこれじゃ!敵に知られず羽衣石城の背後を火攻め出来れば、田尻城など囲んでおけば良いわ」と手を打って喜んだ。

 用心深い重直は、念を押すように

「世之介よ。敵が予め知っておれば、寄せ手は一網打尽ではないか」と怪しむ。

「重直様、某を信じるかどうかですが、この攻めが事前に敵方に漏れているかどうかは天神川を遡る途上の日下山城主船越重敬殿の動きを観れば判ります」

 重直が

「そうか。船越が城門を開け出撃すれば、策は事前に漏れていない証拠じゃな・・・」

「世之介の策を用いるかどうかは、日下山城主重敬の動き次第じゃな・・・」と言って三名は、羽衣石城の背後より攻める案を杉原盛重に具申した。

「起死回生の攻めの策じゃのう。早々に南条方に悟られぬよう、用心に用心を重ね攻めよ」

「これは元春公には申し上げず、杉原・山田勢だけで動こう」と言って羽衣石城攻略が実施される事となった。

 世之介は、佐治元太の配下に状況を伝え、元太により岩倉城で待つ元清に伝えられた。岩倉城では五百の兵を栗尾村に潜ませるため、黒松将監が軍師となり、元清を総大将として岩倉十二勇士を伴い闇夜に紛れ密かに出陣した。

 岩倉山の山中越え途中で、元清は佐治元太を呼び日下山城攻防戦における打ち手を命じた。

(日下山城の攻防では、戦えば城兵は全滅する。状況を観て行衛と子の重隆は救い、舎弟元秋の守る長江城へ避難させよ)と厳命していた。


 八月に入り攻城勢は、田尻城の鉄砲と夏の暑さに疲れが重なり攻める意欲も無く

「田尻城など囲んでおけばよい」との声がどこからともなく囁かれ始めていた。そんな状況に危機感を感じた景盛は、今宵は月夜が明るい。

 側近に

「今宵の深夜に、羽衣石城の背後を攻める。敵に知られぬよう攻撃の準備に取り掛かれ」

「兵は二手に分け、先陣は日下山城を素通りするような素振りで日下山城の動きを観よ。第二陣は、我が指揮を執り三百の兵で、栗尾村から羽衣石城の背後を攻める」

 世之介は、密かに佐治衆の配下に今夜決行を知らせ、栗尾村に潜む小鴨勢に備えさせた。世之介が、山田越中守の奥方と不義密通を疑われ、主家を出奔し逃亡して困窮している所を密かに岩倉城主の元清に救われた。その折の元清の言葉が今も忘れられず

「小鴨の殿のために我が命を捧げよう」との一念が、佐治谷での二年間の逃亡生活を支えた。

 世之介も二十歳になり、凛々しい若武者に育っていた。その折の元清の言葉は

「若くして一度や二度の間違いはある。己に恥じ入る事が無ければ、悔やんで生きるな!」

 主家南条家のため、ようやく世之介にも汚名返上の機会が巡って来たのであった。

 この機会を与えた知恵者は、小鴨家軍師黒松将監であった。この軍師は、若くして東伯耆の竹中半兵衛と噂されるほどの知恵者でもあった。

 すべてが知恵将監の筋書き通りに進んでいった。



 元清・元秋・行衛の三妹弟の中では、行衛が最初の犠牲者となった。

 船越夫妻は、非業の中で討死するが、最愛の息子船越重隆を家臣の岸田弥助に任せ羽衣石城へ避難させる。行衛の備前長船住則光作白鞘入りの守り刀は、重隆に手渡され後世に残る。船越夫妻の非業の死で、南条諸将には決死の覚悟が漲り、この後三年続く激戦を戦い抜いて勝利を掴む。しかし、この東伯耆一帯での攻防はあまりに犠牲が多く、元続・元清兄弟は東伯耆の復興に困惑する。

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