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 馬の山に着陣した吉川摂津守元春は、総勢一万三千の兵で羽衣石城の攻城戦を仕掛ける。

 吉川勢本陣の馬の山に参集した諸将は、大永六年の尼子新宮党による「伯耆五月崩れ」を語る者が多く、羽衣石城南条家攻めは一刻で終わると誰もが思った。

 南条兄弟は、梅雨の時季より東郷湖の橋津川河口を堰き止め、大平山斜面のすそ野まで沼地化させ大軍が一気に攻め上れない迎撃体制を整えていた。

 夜陰に紛れて、天神川を渡河する騎馬武者の一団があった。一行は千坂峠を左に曲がり、大平山山頂の遠見櫓の建つ山頂を目指した。

 山頂の手前で、南条家守備隊の山田畔之丞助と水野甚八が

「元清様、お館様と元周・元秋様の御一行はすでに遠見櫓にてお待ちです。ささ、皆さま方もお通り下され」といって柵門を大きく開いた。

「山田越中守殿へ、大平山警護御苦労。と伝えてくれい」

 畔之丞助と甚八は、越中守の家臣で南条家直臣ではない。高野宮城主の越中守が大平山を烽火台砦として父祖代々より守っていた。

 元清一行の遠見櫓到着を櫓の下で待っていた、舎弟の南条九郎左衛門尉元秋が

「兄上、遠見櫓でお館様がお待ちです。元周叔父上・重敬殿と行衛姉上も来られています」

「行衛も来ているのか。行衛の女武者ぶりは、子供の頃と変わらぬな」と言いながら四人が待つ櫓に上る。

「左衛門尉(元清)、日本海を吉川勢の篝火が照らして居るわ。何と勇壮な事よ」

 兵庫頭元周の声に櫓に上って、暗闇に照らされた海岸線を観た元清は

「橋津口から国府茶臼山辺りは、吉川勢の篝火で昼間のような明るさですな」

「いかさま、我が城(田尻城)は、吉川勢の篝火の中に浮かんでおるわ」

 元周のあきれ顔に、行衛が

「叔父上、冗談を言っている場合ではありませぬ。田尻城と日下山城は、これでは風前の灯ではございませんか」

 聞いていた勘兵衛尉元続が

「元清よ、元春公はそうとう焦っておるな」

「確かにあの陣形は、吉川勢は一気加勢に田尻城を攻め、羽衣石城を数日で陥落させる意気込みでござる」

 九郎左衛門尉元秋が

「吉川には、軍師が居ないのか。この地形で大軍が一度に動けば、混乱が混乱を呼び、我らに優位な戦いになりますな」

 元清が、心配顔で

「元秋、長江城から打って出るなよ。吉川勢の迎撃のみに徹するように致せ」

「義父上(元周)、敵は、我先に田尻城を攻めて参ります。数日持ちこたえて、頃合いを見て羽衣石城へ撤退願います。元秋は、殿役として長江口で敵を撃退せよ」

「重敬殿と行衛は、田尻城落城前には大平山を越え、急ぎ高野宮城へ避難するように」

「羽柴様の援軍を待って、一大決戦を仕掛けます。今年の冬までには、敵の兵糧も尽きます」

 元続が

「埴見川と羽衣石川・東郷川の三川が東郷湖に流れ込み天然の堀を形成し、街道は山の斜面を通じ細い、大軍には攻めにくく守るには良い地形じゃ」

「我らが父祖代々の領地は、我らが力を合わせ守る事が、憤死した親父殿へのせめてもの供養よ」

 元続主従は、梅雨の六月からすでに橋津川の河口を塞ぎ、予め東郷湖の水位を上げ、山の斜面まで沼地に拡張していた。

 吉川の大軍が羽衣石城を攻めるには、大平山を大きく迂回し天神川に沿って千坂峠を越えるか、長江路から門田村を通過し羽衣石川に沿った斜面路地を攻め上るしかなかった。何れにしても、大軍を擁して動くには動線は長くなり、隊の側面を急襲されると、隊列は分断され、攻めるには難しい地形であった。

 このような状況を黙殺し、吉川勢が一気呵成に攻めるかかると、被害は甚大となり、果ては総崩れとなる危険があった。

 茶臼山の元長と山田出雲守が、最も恐れていた吉川勢の驕りによる危機は、目前に迫っていた。

(後年の歴史書には、天正七年の吉川勢東伯耆乱入によって羽衣石城は陥落し、その数日後に羽柴勢援軍三千騎で元続が奪い返すとある。少々無理があるので記述しない事とした)

 

 吉川元春の焦りは、備前国の宇喜多三郎右衛門尉直家の織田内通による美作国攻略にあった。

 美作と伯耆は領国を接しており、小鴨左衛門尉との連携による山陰・山陽での羽柴勢力拡大は、元春の主張する中国九か国(出雲・伯耆・因幡・備前・備中・美作・但馬・丹波・播磨)での覇権拡大を根底から覆すことに繋がった。

 元春が元服の折に、父元就に連れられ雲州月山富田城の尼子民部少輔晴久に謁見した。(この頃は、毛利は尼子の配下であった)

 元春を謁見した晴久が

「よい面構えをしておる。元春が、将来中国八か国を納めるのも夢ではないのう元就よ」との発言に、元就の顔は一瞬にして青ざめ、元就は晴久の疑念を払しょくするため、尼子衆の面前で平身低頭した。

 この時、元春は「いつか俺は、晴久を越える。親父のようにはならぬ」と心に誓った。(この頃の尼子晴久は、中国八か国を制して尼子隆盛の頂点にあった)

 その後、元春は尼子と領地を接する吉川家の養子となり、毛利家の武闘派として尼子との熾烈な戦いに奔走する。

 元春の覇権思考が強かったのは、嫡子隆元・舎弟隆景とは置かれた立場があまりに違う境遇だったからだろうと思われる。


 宇喜多直家は天正七年に、美作国三星城主後藤左衛門尉勝基と常山城主江原又四郎親次(直家の婿)を与力に加え、美作国を攻略した。

 五月には、領地を接する東伯耆久米郡岩倉城の小鴨左衛門尉元清の元に、江原兵庫助・後藤左衛門尉・延原弾正忠景能名代景光の有力諸将を派遣して、織田与力への表明と南条家支援を密約していた。

 元清は、小西弥九郎(後の行長)による宇喜多調略が完遂した事を喜んだ。直家は、元春の東伯耆侵攻に合わせ備中の毛利勢力への攻勢を激化させ、元春の東伯耆侵攻を牽制した。

 

 元清主従が岩倉城へ帰城した翌日に、幼い頃四書五経を学んだ松ヶ崎勝隆寺の開元和尚と十万寺住職法眼和尚が元清を訪ねてきた。

 大手門で、次郎衛門を見かけた開元和尚が

「次郎衛門、息災の様じゃな」と声をかける。

「これは和尚様、ご無沙汰いたしております。老体に鞭打って、元清様にはご無理申し上げ岩倉城の大手門番をさせて頂いております」

 法眼和尚が笑顔で

「元清殿も次郎衛門が、門番しておれば安心じゃて。お互い歳をとったものよ」

 大手門から城内客間まで歩む三人からは、松ヶ崎城下での昔話が止まなかった。

 客間に表われた元清と左近が

「これはご両人、ご機嫌伺にも行かずご容赦下されい」と労う。

 開元和尚が

「本日突然伺ったのは、最近松ヶ崎城に出雲守の家臣が頻繁に出入りしておる。和泉守殿は従兄弟の小森玄蕃殿より色々諫言を受けておられるそうじゃ」

「元清殿もよくご存じとは思うが、東郷川を挟んで毎年、田畑村と小鹿谷村は水争いが絶えない。和泉守殿の領地は、東郷湖の権益があり南条家中でも裕福な家柄。それに反して小鹿谷上山城主進ノ下総守殿 は、村人の不平不満を抑える事で毎年四苦八苦じゃ」

 元清主従は、開元和尚の話を神妙に聞いていた。和尚の話は続く

「下総守の家臣には、色々画策する者がおる。和泉守殿が吉川様に内通していると、実しやかに噂を流す始末じゃ。両家の争いは南条家の致命傷に成りかねず、慌てて二人で内密に伺った次第じゃ」

 法眼和尚が付け加えるように

「この話は、羽衣石館では話せないでの。和泉守の権益を欲しがる者が多いでな」

 聞いていた元清主従は、予期していた事が現実と成っていた事を憂いた。

「出雲守も、叔父上の立場を知っての勧誘なのだろう。やはり中々の策士じゃな」

「殿、早々に松ヶ崎城へ出向かねば一大事ですぞ。松ヶ崎が寝返れば・・」

 元清が、独り言のように呟く

「吉川勢が松ヶ崎城を抑えれば、盛重は娘婿で泊城主の川口刑部を差向け、下総守が守る上山城を容易に陥落させ、上山から山伝いに城の虎口へ通じ、羽衣石城は天守の背後から攻められる」

「和尚、諫言有りがたく思います。早速に松ヶ崎へ伺い、叔父上の真意を伺います」

 開元和尚が

「元清殿、淝水の戦いを(紀元前三百八十三年)思い起こされよ」

 中国五胡十六か国時代に前秦の苻堅は、弱小の東晋を攻めた。戦力差は前秦の八十七万に対し八万の東晋が兵力では圧倒されたが、前秦は大軍のゆえに統制が取れず、小回りが利かないため撃退された。「不敗の態勢をつくれるかどうかは、自軍の態勢いかんによるが。勝機を見い出せるかどうかは、敵の態勢いかんにかかっている。勝つべからざるは、己にあるもの。勝つべきは敵に在り。敵の力押しを誘惑す る事こそ勝機」と書き記した紙を渡して、松ヶ崎宿に帰って行った。

 

 翌朝、元清は家老の黒松将監を呼び寄せた。

「将監、開元和尚の書かれた策をどのように具体化させるか考えよ」と言って書を見せた。

 開元和尚の書を読み終えた将監は

「某が描いていた戦術と全く一致します。吉川勢の陣形は、一気加勢に田尻城を陥落させる陣形と言えます。田尻城は、輪郭式の平城で三の丸外堀は深くて堀幅は広く、天神川の水を引き込み水を満々と湛えております。見かけより攻めにくい城塞となっております」と話は続く

「敵は攻めあぐねて、攻城勢の一隊から羽衣石城を直接攻める動きが出てきます。ここに勝機が生まれます。間者を入れて、栗尾口からの羽衣石城攻めを誘引させます」 

 聞いた元清が

「おお、それよその策じゃ。なあ左近」

 左近も若い将監の策に一瞬恐怖を感じ

「其方は、半兵衛様の生まれ代わりか」と声を上げ驚く始末。

 稀代の軍師竹中半兵衛重治は、今年の六月十三日に播磨三木の平井山本陣にて没した。享年三十六歳であった。元清主従は深く悲しみ、今後の半兵衛の軍師役不在を恐れていた。

「殿、言いにくいのですが、一点危惧する事があるのです」と将監の顔が一瞬暗くなる。

 怪訝な顔で、将監を見る元清主従に

「敵は、日下山城下を通過して栗尾口に向かいます。城主の船越殿は律儀な武将で、日下山城の門前を一戦も交えず敵を通過させる事を許しますまい」

 将監の説明により気が付いた元清主従は、将監の冷静な分析に驚かされた。

「敵を誘引して撃滅する策としては、あまりに犠牲が大きいと存じますが・・。この策を事前に重敬殿に伝える事は出来ませぬ」と将監が意見を述べる。

「この策は、敵の勢いを止め、敵の一部を殲滅することでその後、敵は用心深くなります。戦いは、膠着状態となりいずれ吉川勢は撤退を余儀なくされます」

 将監の策は、完璧であった。しかし、さすがの元清も重敬の妻になっている妹行衛の顔が浮かび、敵を栗尾村への誘因壊滅の策を実行に移す事を躊躇した。

「完璧じゃ。半兵衛様も同じ策を行じるであろうが、しばし時間をくれ。誘引する間者は、事前に忍ばせておくように致せ」と指示した。





 


 茶臼山に着陣し、打吹城と岩倉城を牽制していた吉川元長に「杉原勢・吉岡勢総崩れ」の報が届いた。

 南条兵庫頭元周の守る田尻城攻めで、舎弟吉川左近介元氏と、杉原弥八郎景盛の先陣争いが大軍を我先に動かしたことで諸将に油断が生じ、背後を南条元秋に急襲され吉川勢は大混乱に陥った。

 焦りが焦りを呼び、元春からの伝令も届かず、田尻城を攻めた部隊は散々になり本陣の馬の山目指し撤退する。馬の山本陣からこの有り様を見た元春は

「盛重に任せた己の浅はかさだったわい。出雲守と元長を呼べ」と事態収拾に奔走する始末。

 元春は、南条兄弟の戦上手を警戒し、力攻めをしばし封印した。

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