天正七年(千五百七十九年)五月、杉原・山田勢の夜襲を撃退した南条勢の勢いは暴走していった。
南条勘兵衛尉元続は父宗勝の舎弟元信・信正・宗信の三老臣に押され元清からの「城を討って出る事はなりませぬ。半兵衛様のご指示を堅く守りましょう」を守る事が出来なかった。
重直の籠る堤ノ城を攻める事の危うさを理解しながら、勢いを止める事が出来ぬ苦悩に元続・元清兄弟は身震いした。
五月十一日の夜更けから始まった杉原・山田連合軍の夜襲は、南条方の圧倒的な勝ち戦に終わった。夜明けの長和田ヶ原での勝どきは「吉川勢撃退!」の声が上がった。
千坂峠に本陣を据えていた元清主従は、初戦の圧勝に一抹の不安を感じた。
「これで南条家の長老方は、吉川元春公との一大決戦を主張するだろうな」と元清が呟くと
傍に控えていた左近が
「こう観ると長和田ヶ原は敵を引き込んで、東郷湖に追い込めば、圧勝できる良い戦場ですな。大平山山頂の、櫓砦の確保は重要ですな」
この呟きに元清は
「確かに。吉川の大軍との決戦場としては、守りやすく攻めやすい地形。我らは、大平山を背にして魚鱗の陣形で布陣し、攻め寄せる敵を各個撃退する。元春公は本陣を馬の山に定め、田尻城を囲み、浅津ヶ原に鶴翼の陣形で各武将を布陣させるだろう。戦上手な、元春公をここまで誘い込む事が出来るかどうかで勝敗が決するな・・」
岡部新十郎が
「殿。山田重直殿の堤ノ城攻めは、南条のお館様にお任せして、我らは社村(現在の倉吉市福光)の今倉城を攻め、小鴨四朗次郎殿を討取らねば、小鴨家が分裂して危うくなりますぞ」
我に返った、元清の顔が一瞬青ざめた。
「叔父上方には、堤ノ城を攻めれば、元春公に南条攻めの大義名分を与える事になる理屈が判らんのかのう・・。重直殿は、毛利家の家臣で南条家属将ではないか」
「ああ数日のうちに、吉川勢が大軍で攻めて寄せて来る。我らは、羽柴勢の因幡侵攻を待って反転攻勢に出る。軍師半兵衛様の申し付けを守り、三年は毛利をこの地で足止めせなばならぬわ」
「皆の者。岩倉城へ引き上げじゃ」と言って、元清と小鴨勢は千坂峠を駆け下り、天神川を越え、打吹城下を抜け、本拠の岩倉城へ撤収していった。
羽衣石城下では、当主南条勘兵衛尉元続の直臣八百騎が、山田出雲守の籠る堤ノ城出陣に向け参集し、元続の出陣の合図を待っていた。先攻めは、元続の舎弟南条右衛門尉元秋の二百騎。本隊は、元続の五百騎と松ヶ崎城主小森和泉守方高の百騎が続く。騎馬武者を主にした総勢八百騎で出陣した。
天正九年(千五百七十九年)東伯耆三郡(久米郡・八橋郡・河村郡)騒乱の序盤戦が始まった。
明け方の元続の本隊が、山田重直の本拠堤ノ城に攻めかかる。一刻前に、南条家使い番の伝令を受けた打吹城主山名小三郎元氏・岩倉城主小鴨左衛門尉元清の各部隊は、総兵一千にて出陣した。
小鴨・山名連合軍は、社村で二手に分かれ、今倉城の小鴨四朗次郎経春の出撃を、山名勢の五百で封じ込めた。元清の兵五百は、小鴨四朗次郎経春が籠る今倉城を牽制しながら通過し、高城城主加瀬木元亮の兵二百を加え赤崎表に出撃し、八橋城代杉原又二郎景盛の守る八橋城の背後に着陣した。
小鴨勢の突然の来襲で、杉原勢は堤ノ城への救援に出向むく事が出来ず、八橋城にて援軍を待つ状況となった。予想外の小鴨勢の動きの速さに、城代の杉原景盛は出撃をためらった。
八橋城代の景盛は、側近に
「小鴨勢の動きの速さよ。敵ながらあっぱれじゃわ。元清の兵は、神出鬼没で雷神のような速さで動くのう。まあ今にみておれよ。元清の一族は、我が殲滅してやるわ・・・」と言って悔しがった。
赤崎表に陣を張った元清が呟く
「何とも、不安ばかりが頭に重くのしかかるわい。叔父上方々の父(宗勝)への弔い合戦の勢いは、吉川勢の大軍来襲を早めてしまうな!」
傍らで聞いていた、家老の黒松将監が
「これで半兵衛様のご指示であった、三年は固く城を守り、羽柴勢の因幡攻略を待って毛利総攻めを致す。くれぐれも、軽挙に動かぬよう。が今となっては悔やまれますな」
早瀬左近も
「半兵衛様が心配された通りになりましたの。死に場所を定めた南条家老臣方の武勇が、吉川との大戦を早めるのでしょうな。もうこの動きは、止められませぬ!」
我に返った元清が
「しかし、重直を攻めれば、小森の叔父上の立場が難しくなる。今は、兄(元続)に従い堤ノ城攻めに加わっておいでのようだが・・・」
この後、松ヶ崎城主小森和泉守方高の立場は、毛利と南条の間で揺れ動いていく。
堤ノ城を総勢八百騎で囲んだ南条勢は、城内の兵二百の必死の抵抗に攻めあぐんだが、夕暮れに、山田父子が闇に紛れ堤ノ城を脱出した事で、城はあっけなく落城した。逃げ遅れた重直の妻と幼子は捕縛され、田尻城主の南条兵庫頭元周に預けられた。(後日ではあるが、この妻子は毛利家に人質として預けられた、南条信光(南条備前守信正の嫡男)との人質交換に役立った。)
毛利家直臣で、南条家属将山田出雲守重直の居城、堤ノ城攻めを見届けた小鴨左衛門尉元清は、佐治衆の棟梁、佐治元徳に使いを走らせ、元徳の出石城への登城を催促した。
但馬平定を終え出石城にて、但馬・播磨・因幡攻略の采配を担っていた羽柴秀長の元に、佐治元徳が元清の名代として東伯耆の情勢を説明し、因幡攻略を上申した。
秀長は、出石城大広間に居並ぶ家臣の前で、元徳を迎え
「今か、今かと待っておったわい。ようやく南条兄弟は、毛利への反旗を示してくれたの。兄上(秀吉)からも、南条兄弟はどうしたのじゃ。と矢の催促じゃ!」
傍で聞いていた藤堂与右衛門が、嬉しそうな顔で佐治元徳を見つめる。
「元徳よ。すでに用ケ瀬の景石城には、元続殿の義兄磯部兵大輔を。気高の鹿野城は、亀井新十郎に守備させておるわ」
「善祥坊(宮部継潤)。早速に、其方が総大将として、因幡久松山城(鳥取)攻めにかかれや」
「与右衛門と佐吉は、羽衣石城の南条家へ、兵糧弾薬の支援を差配するように致せ!」
秀長が、元徳に
「勘兵衛尉殿には、羽柴勢の久松山城攻めまで、城から討って出ない様固く申し入れ願いたい。討ち死に致さず、吉川勢の総攻めには、徹底抗戦のみに徹するよう伝えてくれ」
「与右衛門は、元徳と一緒に羽衣石城へ出向き、南条家目付として奔走せよ!」
この後、藤堂与右衛門(後の藤堂高虎)と、南条家の縁は大阪夏の陣まで続く。
秀長への報告を終えた元徳は、景石城の磯部兵大輔の元を訪れ東伯耆の情勢を説明したの後、佐治谷の加瀬木村に一泊し、翌日には人形峠と難関峠を越えて、羽衣石城に出向き元続に子細を報告した。
元続からは
「元徳、難儀で有ったな。与右衛門殿。織田様への与力は、我が人生で大きな決心だった。ここに至っては、羽柴様だけが頼り。鎌倉時代より領した父祖代々の領地を、我代で失う訳にはいかぬでな」
元続は、南条家に戦目付として、与右衛門を派遣してくれた秀長の配慮が嬉しかった。改めて元清が、早くから南条家の織田与力を勧めた先見の明に深く感じ入った。
この頃の吉川駿河守元春は、毛利家中での主導権争いも絡み、織田勢力との一大決戦の機会を今か今かと待ち望んでいた。元春には、信長の草履取から成り上がった羽柴筑前に対する嫌悪感があった。
舎弟小早川隆景・嫡男元長の、血統より能力を優先する開放的な思考とは対照的で毛利家中での羽柴勢力に対する和合派と徹底抗戦派との確執は、この頃から表面化する。
そんな気配を男盛りの元春は、雲州の月山富田城にて尼子勢力を抑え、丹波における三木城別所長治救援に向けた因幡侵攻で形勢逆転を計っていた。
稀代の英雄元春は、東伯耆南条家謀反で因幡侵攻に向けた動きを加速した。
自身の因幡出陣に当たって、雲州の抑えとして月山富田城に毛利家当主毛利輝元の出馬を催促した。元春は六月には、吉川勢を主力とした一万の大軍で東伯耆の反毛利勢力を一掃し一気に因幡・但馬へ侵攻し、但馬での山名勢力を糾合する事で丹波三木城救援を思い描いていた。
しかし元春の侵攻計画は、安国寺恵瓊によって頓挫した。
安国寺恵瓊は、元春より九歳年下で羽柴秀吉に対しては二歳年少、秀吉舎弟の秀長よりは一歳目上で早くから羽柴兄弟とは親交があり、毛利家中では織田勢力との和合派推進の中心人物であった。 恵瓊は、秀吉の人を生かす並外れた能力に接して、早くから毛利家の行く末を担う存在と意識していた。
恵瓊の動きも早かった。東伯耆南条家謀反の報に接して、早々に佐治元徳を小早川隆景の居城新高山城へ呼んだ。
隆景と恵瓊は元徳を介して、東伯耆での一大決戦を南条兄弟に戒めるよう伝える。
「元徳よ、南条兄弟には兄(元春)との一大決戦は避け、諸将が各々の城に籠り持久戦をしかけ、東伯耆で吉川勢の侵攻を停滞させるように致せ」と隆景は指示した。
隆景と恵瓊にとっては、元就の家訓「毛利家は、中央の覇権を望まぬ」を毛利家生き残りの基本戦略としていた。毛利家三代目当主輝元も二人の考えに同調していたが、勇猛果敢で鬼吉川と異名のある叔父元春の発言には従うしかなかった。
元春の嫡男元長には輝元の心持がよく分かっていた。吉川経家・吉川元長・毛利輝元の三人は、幼い頃に経家が安芸吉田城に人質として暮らした時からの義兄弟を誓い合った仲であった。
六月に入っても雲州月山富田城の吉川元春は、出陣できない状況にいら立ち語気を荒げた。
「元長、雲州・伯州の元尼子配下の諸将は、農繁期を理由に出陣を躊躇って居る。芸州の諸将は、我先に参集しておると申すに如何したものか」
「仁多郡の三沢三郎左衛門尉は、南条兄弟の謀反は杉原への遺恨であって毛利家に対する謀反にあらず。などど諫言してくる始末じゃ」
「三沢三郎左衛門は、尼子十八騎と言われ新宮党尼子国久・誠久の懐刀だったからのう」といって元長に思案するよう促す。
出雲の国仁多郡三沢を本領とした国人領主三沢三郎左衛門尉爲清は、尼子新宮党尼子誠久の久姫が嫁いでいる小鴨左衛門尉元清とは懇意にしていた。
天正六年(千五百七十八年)の上月城の戦いでは、敵将尼子孫四郎勝久の嫡男豊若丸当時五歳の除命嘆願を元清に成り代わり行った。三郎左衛門尉にとっては、尼子新宮党誠久の非業の死に報いる恩返しとの想いが強かった。
後日、誠久の息女久姫の婿小鴨左衛門尉が、尼子孫四朗勝久の末子を養子に迎えていると亀井新十郎の配下に聞き及び、改めて主家に対する畏敬の念を感じていた。
三郎左衛門の出陣遅滞は、雲州全体の元尼子諸将にも動揺を与えた。
安芸の諸将からは
「三沢も謀反を企んでおる。この際に誅殺すべき」との声が上がる始末となった。
元長は、尼子十八騎と言われた勇将三沢下野守を敵に回す事も出来ず、自らが直接三沢城を訪ね輝元・隆景・恵瓊の意向を伝え、父元春の出陣要請に応えるように計らった。
元長が三沢城から帰城して数日後、一千の三沢勢を伴い当主名代三沢摂津守為虎を総大将にして元春の待つ月山富田城へ着陣した。元春は、若干二十歳の精悍な為虎に接して若武者振りを褒め称え、指していた長船の脇差を自ら手渡した。
この行為に若武者為虎は感激し、終生毛利家に仕え関ケ原の戦い以降は長州藩士として家名を存続させる。元長は、為虎の父三郎左衛門の心は尼子新宮党に今もあると確信し、勇将三郎左衛門の気概を感じ、天晴れ武者と心を打たれた。
七月に入って、ようやく元春の元に安芸・雲州・伯州より一万三千の兵が参集した。
「大軍を以て一気に東伯耆を蹂躙し、因幡鳥取城に入り但馬・播州・丹波の羽柴勢を駆逐する。皆の者我に続け」と月山富田城の太鼓壇にて気勢を上げる。
鬼吉川元春、四十九歳の大戦の幕開けであった。
その頃、東伯耆の久米郡岩倉城では、城内大広間で吉川勢の襲来に向けた戦術が口論されていた。
小鴨家軍師で家老の黒松将監からは
「敵は大軍、真面に戦っては一刻も持ちませぬ。ここは各砦を堅牢にし、街道を塞ぎ攻めては引き、引いては打って出て、敵を山裾に誘い込み、敵の兵糧を断つ戦術で時間を稼ぐしかありませぬ」
聞いていた諸将からも
「まずは高城城下の街道を塞ぎ、赤崎口から進撃してくる部隊を山の斜面から木材・落石を利用して進撃を喰い止める」
左近が
「打吹城の山名勢には、社村今倉城を囲み城将小鴨四朗次郎と、副将正寿院利安の出撃を封じて頂きます」
元清から
「諸将の妻子は、岩倉城へ入城させその後、佐治衆の案内で佐治谷から若桜の磯部殿の領地へ一時的に避難させる。人質ではないぞ、戦いに憂いを生じさせない配慮じゃ」
妻子と共に討ち死に覚悟の諸将は、元清の配慮が嬉しかった。
「我が領民には戦えるものは城内に入れ戦ってもらうが、女子供は、全て佐治谷の加瀬木村に一時的に避難させる。これは兄も承知の事じゃ」
「七月に入ったら、吉川勢一万三千が東伯耆に攻めかかって来る、各自要所要所を固め軍師将監の差配の元準備を進めてほしい」
小鴨勢の戦術は、六月中頃には固まっていた。七月までには、各街道は封鎖され逆茂木の柵が二重三重に重ねられ、山に沿った街道沿いには山の斜面に落石・材木が積み上げられていた。
各所の防戦状況を視察した元清主従は
「山裾を通過して、吉川勢の赤崎口からの久米郡襲来は被害が大きすぎる。吉川勢は、岩倉城には攻めかかるまい」
騎馬に跨り随行している将監が
「殿、敵は海路より橋津口に上陸し、堤ノ城手前の茶臼山と田尻城を牽制するため馬の山に本陣を据えるものと存じます」
聞いていた左近が
「それでは、大永五年(千五百二十四年)の尼子来襲と同じではないか」
「伯耆の五月崩れと言われ、先代宗勝様と小鴨元判様は、城を落ち延びられた。縁起でもないわ」
岡部新十郎も
「尼子も、毛利も同じでござるよ。大軍を配置するには茶臼山・馬の山で羽衣石城を封じ込て南条家と小鴨家・山名家を分断する方法しか戦術がありませぬ」
「一番先に攻められるのは、茶臼山と馬の山の中間にあります元周様の田尻城ですな」
と黒松将監が思案顔で言う。
「おいおい、そうなれば清谷村日下山城の重敬と行衛が危ないではないか」と元清が不安顔で呟く。
主従には、これから起こる戦の展開が物語のように推測され、吉川の南条攻めに不安を覚えた。
七月に入ると、各所に吉川勢の先鋒が神出鬼没する姿が見られた。
元清の元には、雲州三沢城の三郎左衛門より使い番が頻繁に往来していた。
佐治元徳の早馬にて、七月七日雲州富田城を吉川左馬亮元長が先鋒として総勢一万二千の兵で出陣した事が伝わった。
吉川元春は、数日遅れで精鋭一千騎を連れ海路にて伯州橋津港を目指した。
南条家諸将は、六月より東伯耆三郡の迎撃態勢を整え、領民は大永四年(千五百二十四年)の尼子来襲における混乱を思い起こし、早めの避難をさせた。
すでに天正七年五月、備前の国主宇喜多直家より織田家内応で南条家へ加勢の申し入れもあり、備前への領民避難も事なきを終えていた。
直家からは、小西弥九郎を通じて兵糧弾薬の供給も成されていた。
七月十五日、吉川勢先陣の吉川佐馬亮元長は、軍勢を二手に分け六千の兵で国坂茶臼山に着陣した。
本隊は、吉川左近介元氏(二男)・毛利民部元経(三男)・吉川式部隆久・同七郎元景・吉岡将監定勝・難波宗忠(清水宗治の舎弟)が天神川(長瀬川)を挟んだ対岸の橋津港を眼下に望む馬の山に本陣を据え、総帥吉川駿河守元春の到着を待った。
吉川元長は、馬の山山頂で東郷湖畔の地形を見渡すや、羽衣石城攻略が容易ならざる事態を認識させられた。山裾には出城・砦が要所要所に配置され、東郷湖畔の田園はすでに沼地と化し、大軍では攻めるに攻めにくく、守るには守りやすい有り様となっていた。
思案顔で東郷湖畔を見つめる元長が
「山の斜面には藁と木材が高く積み上げられ、山裾の街道は、落木と火責めじゃ。勢いを以て攻めると、沼地に足を取られ鉄砲・弓矢で狙い撃ちされる」
聞いていた元氏が
「兄上は、用心深いの。尼子新宮党が攻めた大永の戦は、たった五日で羽衣石城は落城し、伯耆衆は逃げ足が速いと笑い者だったそうではありませぬか」
「我が軍は、精鋭一万三千でござる。一気に攻めかかれば、寄せ集めの南条の兵など敵ではありませぬ。早く因幡へ兵を向けねば、羽柴勢が寄せて来ては一大事でござる」
元長は、元氏の言い分にも一理あると感じ入った。
「確かに因幡へ羽柴勢が現れたら一大事じゃ。だからと言ってこの地形で力攻めは・・」
元長には、父元春の焦りがこの戦を拡大させ、この焦りによって、我が軍は窮地に陥り、因幡救援は大いに遅れる事を恐れた。元長の思慮深さは、元春には気鬱と捉えられる事が判っていた。この親子は、処々で見解の相違が観られた。
元長は、ため息交じりに
「元氏よ、南条方には歴戦のつわものも多く地の利は南条にある。決して逸って攻めるでないぞ」
若武者の元氏には、功名心のみが先立ち兄の忠告が逆に対抗心となり、この後猪突猛進の勢いで南条勢に戦をし掛けていく。
七月十八日、海路より橋津港に上陸した吉川元春と精鋭一千騎は、馬の山本陣に着陣して諸将を参集した。軍議の席で総帥元春は、羽衣石城攻略の戦術を諸将に問うた。
側近で、八橋城から一千の兵で参陣した杉原盛重が
「まずは羽衣石城の出城田尻城を攻め、城主南条兵庫頭元周を討って、南条勢の気勢を削ぎましょうぞ」
山田出雲守重直は
「先ずは、久米郡の岩倉城・打吹城を落としてから、羽衣石城を遠巻きに囲み兵糧攻めで落城を待っては如何でございましょう。田尻城は囲んでおけばよろしいかと」
出雲守の意見聞いていた元春の顔色が変わった。
「出雲守その方は以前、南条の仕置きは我に任されたし。と言っていたがこのありさまじゃ。我の目的は南条にあらず、因幡の鳥取城の確保じゃ」
怒りが収まらないのか、語気をさらに荒げて
「兵糧攻めじゃと。己は南条の回し者か!時がもったいないわ」
元春のあまりの怒りに諸将はおびえ、出雲守は平身低頭でその場を繕う始末。
盛重は、してやったりと得意満面で
「尼子新宮党による伯耆攻めは、五日で終えた。お館様の意向はすでに決した。諸将は、各所で早々に討ち入り羽衣石城の元続が首を取りに参ろうぞ」
軍議は、元春の意を汲んだ盛重の先陣采配にて決した。軍議を終え諸将は、不安顔で各陣屋へ引き払った。
山田出雲守重直は、吉川元春の叱責に違和感を感じた。嫡男の信直に呟く
「お館様は、焦っておいでの様じゃの。盛重の戦術では、兵の消耗が大きすぎるわい。南条を甘く見たものよ」
茶臼山に引き上げる元長も、同道している三沢為虎に
「これは危うい事態になった。我らは、茶臼山で戦況を見届け、後詰めとして我が軍の備えとしよう」
若武者で初陣の為虎には、元長が何を言っているのかこの時点では理解できなかった。
山田重直が籠る堤ノ城攻めは月山富田城の吉川駿河守元春の元に届いた。元春は、東伯耆南条家の毛利家に対する謀反に激怒した。因幡鳥取城の落城を早めた吉川vs南条東伯耆衆の一大決戦が迫っていた。




