戦国時代の後期、東伯耆の国河村郡(現在の鳥取県湯梨浜町)松ヶ崎城で生まれ、九代城主南条伯耆守元続を異母弟として支えた。南条左衛門尉元清の生涯。
東の織田勢力と西の毛利勢力の狭間で、東伯耆の国を統治する南条兄弟。幼少の頃から松ヶ崎城下で遊び、穏やかな湖面の東郷湖周辺で心豊かに育つ。元服して久米郡岩倉城主の小鴨家へ養子に出され、岩倉城の城主となり兄南条元続を補佐する。西播磨上月城の戦いで、義兄の尼子孫四朗勝久父子を失い、山中鹿之助幸盛の憤死に小鴨元清は奮起する。
南条兄弟の運命や如何に、南条と小鴨両家は毛利への叛旗を掲げ戦に備える。いよいよ東伯耆での毛利との死闘が始まる。
小説 「羽衣の里」 作 可世木宏 目次(前編一~七/後編八~十九)
一、はじめに
二、生い立ち
三、出会い
四、東西の英雄
五、泉州、堺への旅立ち
六、小鴨左衛門尉元清の誕生
七、元清初陣と尼子氏滅亡
八、尼子再興の夢
九、因幡・伯耆の暗雲
十、因州の混乱と播磨上月城の攻防
十一、竹中半兵衛重治との約束
十二、毛利との決戦前夜
十三、東伯耆の戦乱
十四、吉川経家の苦闘と羽柴勢の御冠山着陣
十五、天下統一への従軍
十六、伯耆守南条左衛門尉元清の苦悩
十七、朝鮮出兵と関ヶ原、宇土城の攻防
十八、肥後の国、加藤家の客将
十九、大坂冬の陣(六十四年の生涯)
一、【はじめに】
この物語は、戦国時代の中期に東伯耆の国松ヶ崎城で生を享け、その後六十四年に亘り故郷の国を想い、主家安泰と豊臣恩顧に報いるために生きた戦国武将、南条元清の生涯を描いたものです。私達は、中央の群雄の国取り物語に一喜一憂し、目を奪われ、故郷を守ろうとした地道な武将が身近にいたことを忘れがちです。どんな時代においても、守るべきもののために一生懸命生きた人の姿は美しい。そんな一途な生き方を通した南条元清の生涯を通して、生きることの目的、守るべきものの大切さが何かを少しでも感じて頂ければ幸いです。
それでは物語をはじめましょう。
二、【生い立ち】
幼名、松ヶ崎の三郎(後の南条元清)が生まれたのは、天正十八年(西暦千五百四十九年)八月の夏も真っ盛り。東伯耆の国(現在の鳥取県湯梨浜町)松ヶ崎城内にてうぶ声を上げたのです。三郎の母は、この地を領する羽衣石八代城主南条備後守宗元の側室でありました。(三郎には後に分かったこと)名をお里と言います。
お里は、南条家の侍大将松ヶ崎城主小森和泉守方高の妹で、松ヶ崎城下では「お里様」と呼ばれ、領民から大変慕われておりました。小森家は、鎌倉時代から伯耆の国河村郡の地頭で、室町時代初期には南条家と同じ伯耆の守護職山名氏に従っていました。東伯耆での山名氏の衰退とともに、羽衣石城主南条家の隆盛でいつの頃か、南条家の属将として仕えるようになったのです。
三郎には二人の妹弟がいました。(後に判ったことですが、異母兄もいました)
二歳違いで妹の行衛姫と、五歳下の弟四朗(後の南条元秋)です。三人はいつも出丸屋敷の庭で一緒に遊んでおりました。
松ヶ崎の城郭は、外堀に東郷湖からの水を引きこみ、堀は深く幅も十間(約15m)と広く鉄砲、弓矢から防御できる構えを成していました。城内に入るには、大手門から橋を渡り中央の坂を登り、二の丸、太鼓壇、出丸、本丸御殿に通じます。北側の虎口を下った所には船着き場があり、城内への荷受けは、水路を船で橋津港から運ばれていました。小森方高は築城の名手で、南条家の普請奉行として何時も、普請作業には主役を命じられていました。小森家は、南条家家臣の中でも特に裕福な家柄で、主家南条家の普請にはいつも莫大な出費を担わされていました。(それが解ったのは後の事)
三郎の子供の頃は、遊び場に不自由しませんでした。
東郷湖周辺の葦原をかき分けて初春には、「冬一寸、春二寸」の白魚取りから始まり。三月には、東郷川河口でのわかさぎ掬い。五月の初夏には、せいご(鱸の幼魚)釣り。真夏には手長海老釣り、真冬は寒鮒釣り、と年中忙しくそれでいて楽しくもありました。
方高は、そんな三郎を幼少の頃より容赦せず厳しく養育しました。朝は、五時に起床して木刀の素振り、十文字槍の稽古(方高は、なぜか十文字槍に拘ったのです)十歳の頃には、城内の馬場にて、乗馬をしました。水練は三歳の頃より、東郷湖の船着き場を利用していました。(素潜りのしじみ採も、水練としての日課でした)
東郷湖は湖と呼ぶには小さく、風の無い時の湖面は穏やかで夏は、夕日が湖面に映えて美しい。
三郎の話に、戻りましょう。
三郎の日課は、午後の食事を済ませると一目散に城を抜け出し、竹竿を抱え城下の童と一緒に釣りに行きました。年下の四朗(後の南条右衛門尉元秋)も、四歳の頃からは泣きながら三郎の後を追掛けて来ました。大手門前には三郎の朋輩が、午後になるといつもたむろして待っていたのです。弥助、五平、松五郎、お夏、佐助(後の小鴨十二勇士)の役割は全て三郎が差配していました。弥助は魚の餌のみみず、五平は替え針、松五郎はお握り、お夏は温泉卵、佐助はその日の釣り場探索、弟の四朗は釣り糸の確保が各々の役割。
三郎が「おーいみんな行こうや」と叫ぶと、門番の次郎衛門が「若様、ご用心してくださいよ」と言いながら笑顔で見送る。これが、毎日の事。
急ぎすぎて、たまに坂を転げ落ちることもありました。(ガキ大将の三郎には、遊びを通して人の適性を見る能力が自然に身についたのでしょう)城を飛び出す時の何とも言えない解放感は、子供ながらにうれしかったのです。(この感覚が、三郎の広い視野を持つ思考を高めたようです)
松ヶ崎城は、伯耆から因幡へ続く街道を抑える要衝に位置し、街道沿いには門前町を形成しておりました。近くには伯耆一ノ宮倭文神社があり、伯耆の各地からは安産祈願のお宮参りの人が多く訪れました。温泉の湧く城下町では、多くの温泉宿があり湯治の人で賑わったのです。また城下は、日本海の橋津港からの交易品の商売で栄えていたのです。
松ヶ崎城の本丸を背にして、虎口を下り二里ほどの距離で日本海に出ます。海運では日本各地からの特産品が、橋津港で荷揚げされ羽衣石城下へも運ばれておりました。
東側は、周囲を山で囲まれ、秋には山の幸が豊富に採れたのです。鉢伏山に登り山頂から眼下を眺めると、東郷湖は鶴が羽を広げたような姿で、遠方には日本海、伯耆大山(伯耆富士)が聳えております。松ヶ崎城の出丸から見る大山の姿は、伯耆富士と呼ばれ四季折々の姿を見せてくれます。
東郷川を境に川向うは、南条家重臣上ノ山城主、進ノ下総守の領地でした。小森方高とは領地を接し、南条家の侍大将として主家の双璧と言われていたようです。
三郎は、上ノ山城へもよく出向き遊んでおりました。時々、下総からは「三郎様は何時勉学されるのですか」と心配される程です。
下総には、春姫と輔三郎の二人の子供がいました。三郎より椿姫は二歳下で、輔三郎は五歳年下になります。三郎にとって輔三郎は、舎弟のようでした。
三郎達の行動範囲は東に別所村から、北は泊村の日本海まで、川遊びから海、湖、山登りまで半径二里程の距離で行けたのです。
そんな自然が、三郎の心と体を育んだのでした。自然に恵まれ、飢える事の無い豊かな環境で食べ物には困りませんでした。四季折々の食べ物が自然を通して得られたのです。
何不自由の無い環境は、人の心も豊に育てる栄養素を能えたのです。城下の子供達は、みんな大らかで、心豊に育っていたのです。
そんな三郎にも、このところ時々想い悩むことがありました。
「父上は、どんな人だろう」母お里に幼い頃に一度だけ聞いた事があったのです。
「三郎が、元服する時にお目通りできます。それまではこらえなさい。四朗も行衛もこらえています。父上もこらえているのですよ」
三郎は、子供ながらに父と母の複雑な関係に、暗い影を感じた。
そんな三郎を気づかってか、方高は相変わらず朝早くから武芸の鍛錬に厳しかった。
六歳の頃からは、城下の勝隆寺で四書(論語、大学、中庸、孟子)五経(易経書経詩経と礼記、春秋)の熟読が始まった。
勝隆寺の開元和尚は「静にして勇なる如し、怒れば烈火の如し」三郎の素行が宜しければ仙人のように、穏やかに接して下さった。講義の時は一点の隙もなく、遊び心の旺盛な三郎にはこの時間がとても長く感じた。
そんな三郎も学んで行くうちに「智多ければ勝ち、智少なければ敗れる」が理解できるようになり、次第に勉学も進んでいったのです。
十歳までには四書五経は熟読し、東郷湖周辺での戦の陣形も描けるまでになりました。(この頃の三郎には、将来そのような戦が起こるとは夢にも思っていませんでした)
和尚がある日「三郎殿に会わせたい人がいる。その人から世間話を聞いて、広い世界を見据えることも大事な学習となります」と言って一人の行商人を紹介した。
弘治三年(千五百五十七年)の春、八歳の三郎は和尚の紹介で、因幡佐治谷の薬売り佐治元徳と初めて面会した。元徳は因幡の佐治谷加瀬木村出身で、薬の行商をしながら全国を行脚していました。産後の日経ちの薬が良薬で東は小田原から越後、西は九州の肥後まで一年をかけて行商行脚をしていたようです。
「三郎様、山を見て森を見る。森を見て木を見る。木を見て枝をみる。この意味がお分かりですか。着眼大局、着手小局の意味の喩えです。広い視野で物事を見て、身近な課題より取組んでいく。現在の東伯耆の平和は、一時的なものとなるでしょう。戦乱の嵐がこの東伯耆にも迫って来ています」
元徳の話は、乱世とは何かを全く意識しなかった三郎に世情の情勢で、東伯耆の平和が一瞬にして失われる危機観を教えたのであった。
さらに元徳の話は続く
「中国地方の覇者が替わろうとしております。四月に防長二か国の太守、大内義長が安芸吉田の領主毛利元就によって滅ぼされました。羽衣石城のお館様も、毛利軍に加わり大内討伐に出陣されました。毛利元就公は中国地方の覇者になるため、出雲守護月山富田城主尼子晴久との大戦を準備しております。両雄並び立たずとはこの事です」
「元就公は、弘治元年(千五百五十五年)に、陶晴賢の二万の大軍を狭い厳島に誘い込み、二千の軍勢で奇襲戦をしかけ、陶軍を破りました。敵将陶晴堅の首を、みごとに討ち取ったのです。これが有名な安芸厳島の戦いです。この戦いに学ぶべきところは、小早川の船団が前面から攻めて、これを囮に使い毛利軍の本隊は、暴風雨の厳島の背後から上陸し陶軍の本陣に奇襲を仕掛けた事です。元就公は、悪天候による敵の油断を突きました。恐るべき軍略家です。元就公は、知略と武勇で周囲を圧倒しております。いずれ中国地方の覇者は、毛利家になるでしょう。それに比べ、中央の覇権は混沌としております。足利幕府の十四代将軍足利義輝様は、三好三人衆に実権を奪われ憂鬱な日々を送っておられます。各地では群雄が割拠し、中央の覇権を廻って戦の絶えることがなく、これと言った覇者はまだ表れていません。美濃では斉藤道三なる一介の堺の油売りが、美濃国守護の名族土岐頼芸を放逐して主家を乗っ取る始末。暗偶な君主では、領地と領民を守ることが出来ません。世はまさに戦国下剋上。群雄は生き残りをかけた戦いを演じています」
三郎を見て
「これから東伯耆の国をどう守るか、思案の致すところです。南条のお館様はもうすぐ還暦を迎えられます。世代交代はいずれやってきます。三郎様には、もう遊んでいる暇はないのですよ」
三郎には、頭では理解できたが、遊びたい盛りの体は受入れ難いものを感じた。しかし元徳の話は真実のこと。里の言った「三郎は、元服の時に父と会えます」この言葉が何故か、この時三郎の頭をよぎった。三郎の父は誰なのか。まだこの時点では、はっきりしない闇の中なのであった。
三、【出会い】
三郎が九歳の秋の頃に、松ヶ崎城下を四朗と悪童仲間を連れ散策していた時の事。
遠方より、一人の老武士が、馬に跨り近寄ってきた。
「これ、小せがれ。秋の東郷湖の珍味は何か」
老人の髪は、白髪で腰に大刀を刺し、身なりは狩りの途中の姿だった。供の者は付けず、揚々として隙がなく、三郎は老人に武者の堂々とした威風を感じた。
「秋は湖の幸より、山の幸。私の館へおいで下さい」
老人は、怪訝な顔をして
「小童のくせして私を持て成してくれるのか
「ほほう、それはありがたい。その方の館へ出向くとしよう」
三郎が、馬の多綱を引き。四朗が、馬の右脇をかため。佐助他四名で随行する。
「この小童は、何者か。子供ながらに主従関係が、明確に成り立っておるわ。中々、賢い小童じゃわい」元伴は、感心した。
しばらく歩いて、松ヶ崎城の大手門前に到着した。門番の次郎衛門に
「次郎衛門、客人をお連れした。俺の初めての客人よ、早く門を開てくれ」
次郎衛門は、呆気にとられ、客人の名前も聞かず門を開門した。
馬上の老武士は
「松ヶ崎城の、小森和泉守の倅か。中々良い倅を持っておるわ」と独り言。
そこに城主の方高が通り
「三郎、どこに行っておったのじゃ、探しておったぞ」
馬上の老武士を見た方高は
「これは岩倉城の、小鴨の殿ではありませんか」
三郎は、馬上の老武者が、久米郡の岩倉城主小鴨元伴であることを知った。方高は、傍の家臣に
「小鴨の殿を客間に案内せよ」と命じ、三郎を連れて出丸に入った。
「三郎、何か小鴨の殿から聞いたか」
三郎は、怪訝な顔をして
「何もお聞きしていませんが何かあるのですか」
慌てた方高の素振りが、三郎には意外だった。そんな二人の様子を見た、お里が
「兄上早く、小鴨の殿の接客を」方高は、思い出したように慌て
「おお、そうじゃ左近。左近」 側用人の早瀬左近を呼び出し
「早馬で羽衣石城の殿へ岩倉城主の元伴様を、当城にて饗応するとお知らせいたせ」と声をかけた。
急なことで城内は、皆が大いに慌て三郎の初めての客人は、ただ一人客間にて東郷湖の景色を眺めていた。
「しかし、良いとこじゃ」独り言をつぶやいたところに、三郎が現れ
「小鴨の殿様と知らず、素行、悪態、申し訳ございません」と丁重に挨拶をする。
元伴は、笑みを浮かべながら
「そこもとが三郎殿か、よい面構えをしているな」輝く顔立ち、何かを引き付ける素振り、物怖じしない行い。
この子を将来養子に迎えれば、小鴨家は安泰じゃが、逆に敵に回すと小鴨家は危うい。元伴は、三郎の顔を見ながら、これが南条備後守の預け子か
「南条家正室吉川の奥方様を気づかい、備後守は気苦労をしておるな。いっそ我が家の養子に迎えよう」と三郎の顔を見ながら小声で呟く。
元伴の頭には東伯耆での、小鴨家安泰の秘策が頭をよぎった。
「三郎どのの兄弟は、何人じゃ」
「おーい、四朗、行衛、客間に入れ」
どうも客間の外で、三郎からの呼び出しを待っていたようだ。
「四朗にございます、先程は失礼しました」
「行衛にございます、歳は六歳になります」
元伴は、三兄弟を見て改めて、三郎の養子縁組を強く意識した。
そんなやり取りがあったことは知らず、方高が慌てて客間に入って来た。
「元伴様。先ほど、南条の殿より使いが参り宗元様も申の刻頃に、当方の城まで出向かれ元伴様の酒宴に参加されるとのことです。今しばらく、城下の見物でもされて時をお過ごしください」
「三郎、四朗も、左近と一緒に元伴様を城下へご案内するように」
元伴は、外の景色を見ながら
「ぶらりと東郷湖の見物に来てみたが、お手数をおかけすることになった。我が家臣も今頃は、心配しておるよ。岩倉の館まで、だれかに使いをお願いしたい。今日はせっかくなので東郷湖の珍味を食させて頂く」
三郎を見ながら元伴は微笑んだ。
城下に降りた元伴の一行は、街道をゆるゆると散策していた。路の前方から、大きな薙刀を持った僧侶が歩いてくる。
「そこの、小童」
三郎を呼び止め
「このあたりで、しじみ貝を売っている店はないのか。東郷湖では、大粒のしじみが取れると聞いて参った」
僧侶の姿は、袖を捲りあげ破れた袈裟袋を抱え、顔じゅう髭だらけで五寸先から悪臭が漂っている。臭くてまともに応対が出来ない。
「坊様、悪臭が漂っておりますよ。しじみ売りの店はお教えしますが、この臭いでは皆が逃げてしまいます。まずは温泉でよく体を洗ってから、買い物をされては如何です」
坊主は、声の通りのよい三郎の返答に、我が身を見つめ
「なんと、お恥ずかしい限りじゃ。小童、臆せずはっきり思うことを言うやつよ。気に入った。名は何と申す」
三郎は、坊主が怒って来ると思ったが、意外にこの坊主は礼儀を弁えていた。
「名は、松ヶ崎の三郎よ」
三郎の鼻にかけた物言いいに、傍にいた元伴が
「この三郎殿を怒らせると、怖いぞ」と加勢した。
それを聞いた坊主は、急に懐かしそうな顔で
「そなたが三郎どのか。昨日、丹波の国で薬売りの元徳に、東伯耆でおもしろい人物は居ないか。と聞くとまだまだ子供ですが、東郷湖周辺で遊びまわっているやんちゃ坊主が居ります。一度、和尚も会ってみて下され。と言われたのよ。勝隆寺の開元和尚にお会いする前に、まずは名物のしじみ汁でも飲みたいと思って城下を歩いていたとこよ」
三郎の姿を、嘗め回すように足元から頭の先まで見回した。
「いやいや、いかにも元徳が申す通りなにやら英傑の層が漂っておるわい」
傍で二人のやり取りを聞いた、元伴が
「おお、ご坊もそう思うか良い話じゃ。その方の名は何と申すか」
「拙者は、法華宗僧侶の法眼と申します。このたび、羽衣石城主南条備後守宗元様の御招きで、羽衣石城下の十万寺の住職を仰せつかりました。ところで、お尋ねの貴方様のお名前は」
逆に聞かれた元伴が答える。
「これは、失礼した。拙者は岩倉城主小鴨元判でござる。今日は三郎殿に出会い松ヶ崎城にお誘い頂いた。貴方も一緒にどうか。調度、後半時程で備後守も参られる」
法眼は驚いた様子で
「これはありがたい一同で酒宴とは。もう、しじみを買う必要もないな」
三郎が、鼻をつまんで何か言いたそうな様子を見て、法眼は
「直ぐに、温泉を浴びて参る。それでは、半時後に城へ伺うようにします」言うが早いかあっという間に小走りに走って行った。
そうこうしている間に、東郷川の河口付近から土ほこりを巻きながら、騎馬武者数人が駆けてくるのが見えた。
「備後守の親衛隊のようだ、怪しい者がいないか物見しているな」
その後、埴見の曲がり角から騎馬武者三十騎ほどが、中央の大将を守るように駆けてくるのが見えた。
「備後守は用心深いの。浪人時代が、長かったせいかの。あの頃は、尼子勢が伯耆に攻め寄せ、あっと言う間に岩倉城、羽衣石城、打吹城と伯耆一遠の城が落とされた。それから城を奪い返すまでに、二十年の浪々の日々だった。今にして思えば、宗元殿も私も若かった。お互い二百年以上繁栄した父祖代々の領地を、一瞬にして失ってしまった。尼子の進撃は凄まじく、当時を思うと身震いがするよ」
遠方から近づく騎馬を見ながら懐かしそうに元伴が呟く。
ここで、二十七年前の出来事を。
大永四年(千五百二十四年)五月、出雲守護職、月山富田城主尼子経久の大軍が突如として伯耆の国に襲来した。先鋒は、尼子の精鋭新宮党当主尼子国久(経久の二男)、誠久、豊久親子の二万の大軍。伯耆の国士は、防戦する間も無くたった五日で伯耆一遠の城は落城した。後の人は、この事を「大永の五月崩れ」と言って伯耆武者の不甲斐なさを語った。
尼子の武将からも「逃げ足の速い、伯耆武者」と言われ、二十年間蔑まれた。東伯耆の山名氏・南条氏・小鴨氏は但馬守護職の山名祐豊を頼って落ち延びた。
伯耆の国は、二百年以上平和が続いたため外敵に対する備えが不足していた。行松氏・南条氏・小鴨氏・山名氏・山田氏・小森氏と小領主がお互いの領地を侵さず共存共栄していた。但馬での二十年に亘る浪人生活は、人の心も失わせた。
「今に見ておれ、旧領を奪い返すまでは」と初めは気勢を上げていたが、浪々の生活が長く困窮した日々が続くと次第に領地を奪い返す夢は失せていった。酒や女に溺れる旧領主も多かった。宗元は、この浪々の生活で愛する正妻を病で失った。
しかし、宗元は毎朝早くから武芸に励み部下を労わり、山名の傭兵部隊を構成しながら着実に軍団を強化していった。元伴は、そんな宗元の姿を見ながら励まされ、小鴨家再興の夢を捨てずお互いの旧領を回復することに成功した。
元伴の話に戻ろう
「宗元殿には、今でも感謝している。防長二か国の守護職大内と尼子が、中国地方の覇権を争い、雌雄を決する戦いを始めた。伯耆衆は手薄になった東伯耆に攻め入り、各自の領地を奪い返した。二十年の浪々の生活が、宗元殿を用心深くさせたのだろう」と元伴が独り言のように話す。三郎は元伴の傍で話を興味深く聴いていた。
鹿毛の馬に跨った先駆けの武者が
「これは、小鴨の掃部介様ではございませんかお久しゅうござる。津村新兵衛尉です。今日は、南条の殿の警護で参りました」
そうしている間に騎馬武者が続々と東郷橋にさしかかり、馬の嘶きが周囲に響いた。
白い月毛の馬に跨る頭巾を被った武者が
「元伴殿、お出迎えに感謝する。我が家臣三十名ばかりで参った。少々大げさで、ご容赦くだされ」
と言うが早いか、軽々と馬から飛びおり頭巾を取った。老練な顔表で、目はぎらぎらしており頭は元伴と同じ白髪あたま。
三郎は、二人を視比べてしまい呟いた
「元伴様とそっくり」(夢にも自分の父とは思わない)どう見ても、初老の風体である。
怪訝な顔をした宗元が
「そちは小童ながら、はっきりものを申す小倅よ。元伴どのどこの小倅ですか」元伴は困ったように、小声でつぶやく「松ヶ崎城の三郎よ・・・」
それを聞いた宗元は驚き顔で、馬の鞭で自分の太ももあたりを「ピシャ、ピシャ」と二度ほど打ち大きく笑う。
「いやはや、まいったの。早く松ヶ崎城へまいろうか」傍で見ていた家臣は、宗元が何に動揺しているか全く分からず聞くわけにもいかず。
重臣の津村新兵衛尉が
「もうここからは、馬を引いてまいりましょう。皆も続け」と取り繕った。
宗元の顔は、嬉しそうに、照れくさそうに三郎の姿を見ていた。
「三郎どの、南条の殿を案内してくだされ」
三郎は、宗元の傍に寄り、歩みを早めて
「南条の殿様、松ヶ崎城までご案内します」
宗元は、三郎の丁寧な素振りを見て、方高とお里の苦労を想い、目から自然に涙がこぼれた。これが三郎と実父、宗元との初めての出会いであった。
宗元の涙に、元伴も誘われ
「宗元どの、風がきついので目に塵が入って涙がでますの」とはぐらかした。
松ヶ崎城に続くまでの街道には、領民が集まり
「南条の殿様、お元気そうで」と気安く声をかける。城下には浪々の身であった折の、宗元の境遇を知っている者も多く、宗元がいかに領民から愛されていたかが良くわかる光景でもあった。
この頃の南条家は、羽衣石城を拠点として東伯耆三郡の覇者であった。与力には、打吹城の山名小三郎氏豊、田尻城に甥の南条兵庫頭元周、高野宮城主山田佐助、上ノ山城主進ノ下総、岩倉城主小鴨掃部介元伴、清谷城主比時(船越)重敬。
目付役(毛利家属将)としては、堤城主山田出雲守重直、松ヶ崎城主小森和泉守方高。奉行衆は南条備前守信正、鳥羽安芸守久友、津村新兵衛尉基信、泉養軒長清、一条清綱。
親戚衆として、南条与兵衛宗信、信光、隆光があった。動員兵力は、約三千で騎馬数は千五百騎程度であった。
東の境は、毛利方武将、河口刑部少輔久氏が守る河口城(今の泊村あたり)。 西の境は、毛利家重臣、杉原播磨守盛重が守る八橋城(今の琴浦町)であった。
松ヶ崎城へ到着した一行は、城内の大広間に案内され首座の宗元を囲んで着座した。
方高は、お里と三郎・四朗・行衛姫を連れ首座に座る宗元に揃って挨拶をした。
「当城へお越し頂き、恐縮しごくにございます。ゆるりと東郷湖の珍味を、ご賞味頂ければ幸いです」方高の側で、三郎達も神妙に頭を下げた。
そうこうする内に、各自へ膳が運ばれ酒宴が始まった。
宗元に招かれた、僧の法眼も下座に座っていた。法眼が、三郎を見て微笑んでいた。
方高が
「三郎、四朗と行衛を連れて部屋にさがるように」と子供達を下がらせた。大広間から出る時視線を上座にむけると、母が宗元に寄り添い酒の酌をしていた。
三郎は、今まで見たことの無い母の微笑を見て、宗元に対する母の好意を感じた。
「お二人は、どのような関係だろう」半ば嫉妬のような、感情が一瞬込みあげた。
その夜は、母を奪われた様な面持ちでしばし寝付けなかったが、四朗と行衛の寝息につられいつの間にか深い眠りについた。
翌日、早朝から外が騒がしいので目を覚まして外に出ると、宗元付きの武者が太鼓壇に集まり宗元を囲んで羽衣石城へ帰って行った。方高と里は、一緒に大手門の外まで見送った。
「三郎様、私もそろそろお暇します。羽衣石城下の十万寺へ遊びにおいで下さい。待っていますよ」と言って法眼住職も帰っていった。
岩倉城主の元伴は、宗元より数刻早く岩倉の里へ引き上げた。 三郎への置手紙が、方高に渡されていた。
手紙の内容は
「三郎殿へ、元服の際に再度お会いすることになるであろう。その時を楽しみにしております。今は武芸に励むように」何か単純なことづけであったが、以前里の言葉で
「元服するまで、待つように」が思い起こされた。
「三郎、早く顔を洗って出てこい。稽古するぞ」といつもの叔父、方高の声が響いた。またいつもの日々が、始まろうとしていた。
四、【東西の英雄】
永禄三年(千五百六十年)松ヶ崎城下に雪が舞う大晦日に、元徳が久しぶりに現れた。
三郎は、城下の勝隆寺に四朗と一緒に出向いた。御堂に座って待っていた元徳が、懐かしそうに三郎を見つめた。
「三郎様、大きくご立派になられましたな。早いもので、あれから三年が経過しました。東西の英雄が死に、世の中は大きく動こうとしています」
永禄三年の五月十七日、駿河の太守今川義元が桶狭間にて、尾張の織田上総ノ介信長に討たれた。信長は義元の大軍を桶狭間山に誘引し、少数精鋭で奇襲を仕掛け破った。 この戦法は、弘治元年(千五百五十五年)の毛利元就が陶晴賢軍の二万にのぼる大軍を厳島奇襲で壊滅させた戦術に似ていた。信長は、元就の戦術を分析し桶狭間山へ今川の大軍を誘引した。信長の武勇は、この戦いで全国に知れ渡った。信長が、出陣の時に舞った「敦盛」は有名である。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て、滅せぬもののあるべきか」後年、信長自身が四十九歳にて本能寺で自害の結末を迎えるとは、この時点では夢にも思わなかっただろう。(運命を意識することの恐ろしさを感じる)
それはさておき、永禄三年の情勢に戻る。
中国の覇者尼子晴久が、この年十二月二十四日に四十七歳で生涯を終えた。
あまりに呆気ない最後だった。晴久の死は、芸・備・防・長、四州の太守毛利元就の雲州・伯州への進出を加速した。雲州、伯州の武将は、毛利へ靡いた。尼子の家督を継いだ、出雲守護尼子義久には残念ながら反撃する余力はなかった。
膠着状態が崩れ、新たな勢力が勢いを増したことで、戦乱の嵐が出雲、伯耆の国全体に及ぼうとしていた。戦乱は戦乱を呼び、永禄三年は、地方の局地戦から全国統一に向けた新たな戦域の拡大がはじまる分水嶺の年となった。
元徳の話は続く
「今川を破った織田信長は、家臣を広く登用し常識にとらわれず槍の長さも従来の二倍の三間(約5m)に統一しました。武器を扱う者の単機能化を、積極的に追及したようです。今では、家臣も城下に住まわせ兵農分離を徹底しています。農繁期だからと戦を避けることはありません。二十四時間戦闘態勢の取れる集団を城下に常駐させています」元徳の話は、講談のようで聞いていて面白かった。きっと様々なところで語って来たのだろうと思えた。
さらに元徳の話は続く
「ある日、信長公は御忍びで堺に出向き、種子島と称する火縄銃をいきなり千丁も購入し新たに鉄砲隊を組織しました。これには堺の豪商、今井宗久(後の千利休)も驚いたようです。信長公は、古い慣習にとらわれず新しくて良い物はいち早く使いこなします。家臣も百姓上がりの者まで、登用して役に立つ者への恩賞は惜しみません。従来の慣習を極力排除し、迷信は子供の頃から信じなかったようなのです。怠け者は容赦なく切って捨てます。希にみる新たな君主像です。現在は尾張一国ですが、いずれ周辺国を圧倒し、中国の覇権を巡り毛利と雌雄をかけて戦うことになるものと存じます。その時、伯耆の国は戦乱に巻き込まれます」
ここまで話して、元徳は三郎の顔を見て
「取りこし苦労であれば、良いのですが」
三郎は、元徳の先見性のある視点に驚き
「この平和が、いつまで続くのか風前の灯よ」と漠然とつぶやいた。
三郎は、これ以後、織田信長という人物像に興味を持った。
(どうも、安芸の毛利元就は尼子新宮党の乱の暗い陰謀説が語られ、好きになれなかったのです)子供は、比較対象を求め好き嫌いで見てしまう。この点は今も昔も変わらない。
「元徳、一度私を堺に連れて行ってもらえないだろうか」
三郎は、元服する前に一度堺を見てみたいと思った。
「良いお話ですが、お母上様、方高様それと三郎様の父上様の了承が必要です。備前の国から、瀬戸内海の航路で堺へ行けます。一月もあれば、十分でしょう」
三郎は、南蛮人を一度見て見たいと思った。海外との交易が、どのような事か自分の目で確かめたかった。成長と共に、元徳の話を聴けば聴くほど、松ヶ崎城の周辺では満足でき無くなっていく自分を感じた。
年が明け正月元旦の午後、久しぶりに十万寺の法眼和尚が、年始の挨拶で松ヶ崎城の叔父を訪ねて来た。三郎は、早瀬左近に法眼和尚への伝言をお願いした。
「用事が済み次第に、出丸へ立ち寄って頂くように」と言づけた。
申の刻(午後四時)頃に、法眼和尚が出丸を訪ねて来た。
「三郎様、どうなされました。私をお呼びだそうで」久しぶりに見る、三郎の背丈に和尚は、驚いた様子であった。
「実は、折り入って、和尚のお知恵をおかりしたい。十二歳になって、元服するまで後一年、どうしても見ておきたい物があるのです」
三郎の思いつめた顔を見て和尚は、(きっと父上の事だと勘違いした)
「父上様の事以外であれば、何でも相談にのりましょう」と答えてしまった。
三郎は、的はずれな和尚の申し出に笑顔で
「小声で言います。実は堺に往きたいのです。交易の町堺を見たいのです」
和尚は、想定外の申し出に呆気にとられ
「誰から、堺の交易の話を。しかしその思いは、大変良い事です。これは面白い」と笑った。
「私に良い思案がありますから、三日待って下さい。きっと、三郎様を堺へ行かせみせます」
呆気ないほど意外な快諾に、三郎は和尚の懐の深さを知った。
「それでは、本日はこれで失礼します。この話は方高殿へは内密にしておいて下さい」
と言って帰って行った。
その後、三日経ったが法眼和尚からの返答はなかった。
(調子の良い和尚、きっと私の話を真面に聞いていなかったな)と三郎は半ば、堺行をあきらめかけていた。
五、「泉州、堺への旅立ち」
永禄四年、正月の五日を迎え、方高は羽衣石城へ年始めの登城をした。
三郎は、朝早くから四朗と一緒に船着き場で寒鮒を釣っていた。寒鮒釣りは難しく、鮒は冬の水が冷たいので、岩場の穴にじっと群れを成して潜んでいる。その穴場を探すのが難しい。一匹釣れると、次々と釣れる。その鮒との葛藤が面白い。
「三郎様、ここに来て釣って下さい」と城下に暮らしている平助が誘う。
「平助、良いのか、何か手柄を横取りするようで心が痛むな」
平助が釣り場を避けながら
「昨年秋頃に、私の娘の久が、三郎様に助けて頂いたと伺いまいした。城下の悪がきに何やらからかわれていたようで、母親を早く亡くして、家のことはまかせっきりで苦労をさせております」
傍にいた四朗が
「兄上、昨年の秋の松崎神社のお祭りで、神社の境内にて悪童にからかわれていた、お久のことですよ」
「ああ、あの可愛い、お久の父か」
母親似なのか
「父の平助には似ても似つかない・」
兄弟の怪訝な顔を気にしたのか、平助が重たそうに口を開く。
「実は、久は捨て子なのです。神社の境内に絹の衣に包まれて、置かれていたのです。何分、妻の申したことです。産着には、(新宮の燕)との刺繍がありました。私にはそれが何を意味するかはわかりません」
平助の話は続く
「妻が見つけ、子の無い妻は、我が子として久を育てました。その妻は、久が六歳の時に病で先立ちました」
三郎が、久の姿を思い出したように
「久の歳はもう十歳くらいか。顔立ちからすると、どこか貴賓の漂う・・」
それ以上は申さず、平助の顔を見た。(久はこの時、八歳で三郎の四歳年下であった。その事は後に判る)これ以上の詮索は、久と平助の身に関るので三郎はこの話を止めた。
「平助、安心せよ、今後も私と四朗で久を守ってやる。寒鮒の恩は忘れんよ」
平助も、心を打ち明けほっとしたのか、顔が微笑んだ。
「三郎様と四朗様が、久を守ってくださる。それでは、遅くなると久に叱られます。私はもう家へ帰ります」と言って、釣った鮒を竹笹に刺して帰って行った。
三郎と四朗は寒鮒釣りより、久の事が気になった。
「兄上、十年前にどこかで、戦がありましたのか」
三郎はしばらく考え、天文二十三年(西暦千五百五十五年)十一月の、尼子新宮党の乱のことが頭をよぎった。
当時、三郎が五歳の時の「尼子新宮党の乱」。
この事件は、月山富田城守尼子晴久が叔父で尼子の精鋭、尼子新宮党当主尼子国久、誠久親子を登城させ、城内で誅殺した事件。
その後、国久の三男敬久は登城途中で二人の惨殺を知り、急いで新宮谷館に引き換えし尼子晴久率いる軍勢と一戦を交え、女子供を密かに落とした。その後、一族郎党は潔く自害して館に火を放った。この事件は、尼子新宮党の乱として涙を誘った。
この新宮党の謀反劇には、毛利元就が尼子弱体化のため尼子国久に、謀反の疑いをかけた「離間の計」であったと聴いた。
(この乱の十二年後に、中国八か国の太守尼子氏は、毛利元就に滅ぼされる)
「新宮館が炎上する時、誠久の三男(後の尼子勝久)を抱えた乳母と、側室達数人が新宮館を落ち延びたと、噂で聞いたことがある」
「久は、新宮党屋敷を落ちのびて、ここに捨てられたのでは・・」
四朗の問いかけに、三郎も平助が言っていた「産着の新宮の燕」が気になった。
遠くから母、里付きの腰元、おもとのかん高い声が聞こえた。
「三郎様、早くお城へお戻りください。殿様が、羽衣石城から帰城なされ三郎様をお呼びです。何か急な御用のようです」
「やっと寒鮒釣りを始めようとした時に、今日は気忙しいな」
とつぶやきながら
「おもと、四朗と一緒に寒鮒を任す」
と言って城内に向けて駆けだした。
走りながら「堺行きのことか、元服のことか・・・」
新年早々、期待と不安で胸が高鳴った。
方高の書斎は、大広間の側で廊下を隔て屋敷の一番奥にあった。襖を開けて部屋に入るとそこには、方高と母里、他に側用人の早瀬左近が控えていた。
三郎は、慌てて部屋に入り方高の前に着座した。
方高は、三郎を見て話し始めた。
「本日、羽衣石城へ登城してお館様からのご沙汰があった。来る、三月の吉日を選び、田尻城主南条元周様が、泉州堺出張に出向かれる。その折に三郎を随行させよと」
方高は、三郎の企みであることを薄々感じていた。母は、三郎が来る前にすでに話を聞いていたようで、驚く様子もなく落ち着いて傍で聴いていた。
方高の話は続く。
「元周様の足でまといになっては一大事。三郎には、世話役として早瀬左近を付けるので早瀬の指示に従うように」
と付け加えた。
左近も突然の話で、堺に出向く期待と三郎を守護する重圧で返答に困った様子だった。
(暴れん坊の三郎様が、私の指示に従うか難しい。と思いながら思案顔になっていた)
「良いな、左近」
と念押しした。
「左近、近々三郎を連れて、田尻城の元周様のご機嫌を伺う様にせよ。後の事はその方に任せる」
と言って、母里と一緒に座を立った。
三郎は、嬉しくて、船着き場に走った。
遠くから唄声が聴こえる。船着き場で誰かが湖面を見ながら、詠っているようだ。
湖面を、飛び立つ鴨たちよ
そなたたちは、どこへ旅経つのか
唐、天竺までか
我が身は、旅経つ事も出来ず
羽を広げ、空の上から父母を探すこともできない
父はいずこ、母はいずこか
旅経つ鴨たちよ、どうか私の代りに
私の想いをかなえてほしい。
三郎と四朗が近づくと、少女は驚いたような素振りで眼の涙を拭いていた。
「三郎様と四朗様ではありませんか」
「何か、悲しそうな詩だったがどうかしたのか。平助は元気か」
「平助の父が、昨夜私に申しました。久の本当の親はどこかで生きている。私はそなたの本当の親ではないのだと」
「なぜ急にそんな話になったのか」
「私が、近所のおばさん達の立ち話を聴いてしまったのです」
久の話は、(近所のおばさん達は、久があまりに美しいので、どう見ても平助夫婦には似ても似つかない。平助の女房には、中々子供が出来なかった。ある日、急に子供が出来ていた。何か、訳有の子供を引取ったのではないかと。当時は噂になった)との話を聴いたようだ。
真実を知ってしまった久に
「久よ、お前の両親は、私達が必ず見つけてやる。安心して平助に孝行しておれ。平助は久のことを本当の娘以上に想っている。久は、平助を大切にすることだ」
私の言葉に励まされたのか久は、笑顔で
「三郎様、四朗様。きっと私の両親を探して下さい。私との約束ですよ」
と言って嬉しそうに帰って行った。
それから数日して、松ヶ崎城下に桜が咲き始めた頃、泉州堺への旅立ちの日を迎えた。
大手門前まで見送る家族と家臣に、三郎が満面の笑みで
「叔父上、母上、行衛、四郎。それでは行って参ります」
と言うが早いか照れ臭いのか、もう手を振って歩いている。
大手門番の次郎衛門が
「三郎様、元気で帰って来て下さいよ」
と大声をかける。
門の外では三郎の連れがたむろして、三郎を見送る。その中に平助と久の姿もあった。
「三郎様、きっと約束を。お帰りを待っています」
と声をかける。
三郎は、久の瞼に光る涙を見た。久の見送る姿が、三郎の脳裏にやき付いていた。
そんな郷愁心に浸る、三郎を見た左近が
「三郎様、今日中に鳥取城下に到着しなければなりません。急いでまいりましょう。城下の旅籠にて、元周様ご一行と合流します」
二人は駆け足で、松ヶ崎城下を発った。
橋津港より船で賀露の港に着船して、その後半時ほど歩き、申の刻頃に待合せの宿に到着した。旅籠の家主の案内で、三郎達は奥の間に通された。部屋の廊下には、数人の武者が着座して三郎達を見た。元周様の側用人、田原市之進の姿が見えた。
三郎達を見た市之進が
「これは、三郎様。左近殿すでに我が殿は、部屋でお待ちでござる。あいにく先客の武田三河守高信様と歓談中ですが、どうぞ中へお入り下さい」
と言い襖を開ける。
三郎と左近は、かしこまり部屋へ入った。
「元周様、遅くなりました。松ヶ崎の三郎と家臣の左近、ただ今到着しました」
上座に着座していた客人が
「三郎殿か、元周殿より伺っておる。拙者は武田高信でござる。今日は元周殿に、内密な話があり急遽旅籠に忍んでまいった。三郎殿に会えるとは、嬉しい限りじゃ」
この武田三河守高信は、南条家とは縁が深く、南条家再興に尽力してくれた因幡守護山名家の重臣であった。(実質的な因幡の統治者であった)高信は、三郎が何者かはすでに元周から聞いていた。
「私はたった今、元周殿と義兄弟の契りを結んだ。三郎殿も、元周殿と義兄弟の契りを結んで堺への旅の安泰を願うが良い」
この時、高信は元周の十二歳年上、三郎は元周の八歳年下。
「それでは高信様が長兄で、元周様が私の次兄になります。私には、兄がいませんので大変心強く、今日、二人の兄が出来たことをうれしく思います」
三郎は、二人の密談が何であったかなどは気にせず、ただ自分に義兄が出来た事が嬉しかった。(他に実兄があることは、高信、元周と家臣の左近しか知らない事)
三郎の、嬉しそうな姿に気を善くした高信が
「今日は実に良い日じゃ、三郎殿に、義兄弟の証として私の脇差を進ぜよう」
と言って腰の脇差を抜いて三郎に差し出した。
戸惑う三郎に元周様が
「三郎、ありがたくご頂戴いたせ」
三郎は呆気にとられ、高信を見て
「感謝します」
と言って脇差を拝領した。
高信様は満足そうに
「それでは、私は家臣が心配するので城へ戻ります。今日は、心強い味方を得たので胸の痞えが取れました。私こそ感謝します」
と言って座を発った。
この時、二人の密談は、元周が吉川元春からの密書を武田高信に渡し、備後守南条宗元の口上を伝えた。(毛利家が、武田三河守高信の鳥取久松城番を承認した密約)
実質的な因幡の統治者として、毛利家が承認したもの。高信は、因幡での実権を確実なものとした。三郎は、夕食を食しながら、元周から因幡武田家と南条家の縁を聴いた。
「大永四年の五月崩れは、三郎も知っていよう。この時、伯耆は尼子国久の大軍で伯耆の国士は、各城を次々に攻め落とされた。因幡、但馬の山名氏を頼って逃れた伯耆衆は、再起を図り、因幡の実力者武田山城守常信様(高信の父上)を頼り、七千の大軍で、羽石衣城を守る、尼子国久の尼子新宮党と橋津川を挟んで戦った。
初戦は、南条・武田軍が優勢で敵将尼子国久の二男豊久を討ち取り、誰もが戦いに勝利すると思った。ところが、豊久の死で、死を覚悟した国久・誠久親子は奮戦し、尼子新宮党が巻き返し勝利を収めた。
武田山城守は、逃亡中に馬野山の山中にて敵に囲まれ自害された。宗元様は、混戦中に両軍の重みで橋津川の橋が川に落ち、橋と一緒に海に流され味方の船に助けられた。
この激戦で戦死した者、川で溺れ死んだ者、数知れず。その後、父を亡くした高信様が武田家の家督を継ぐこととなった。高信様の尼子憎しは、この因縁からよ」
元周の話は、続く
「天文十年に防長二か国の太守大内義隆が、石見銀山を手中にするため尼子の本拠月山富田城を囲んだ。その後、尼子と大内の戦いは数年に及び、この期を逃さずと因幡武田の加勢を得た伯耆衆は各城を奪い返した。南条家は、因幡武田家への恩を忘れてはならない」夜も遅くなり、三郎に気使った元周が「話が長くなった明日は、早朝の出発なので三郎、そろそろ寝よう」三郎は、元周の信義を大切にする人柄に好感を持った。
側で一緒に聴いていた左近が
「三郎様明日は智頭峠を越え、佐用宿に泊まり明後日は、播州龍野城下で一泊して揖保川を船で下り、室津港で大船に乗り替え海の播磨灘に出て、明石海峡を通過し泉州堺に到着します。室津は交通の要衝で、室津千軒と言われ多くの宿があります・・・」
三郎は眠くなり
「左近の話はながそうじゃ、もう寝よう」
と言って寝間に入った。
二人は、松ヶ崎城を出て初めての夜で、寝床に入るとすぐに寝息を立てていた。
出発の朝、元周と三郎達数十名は、鳥取城を左に見ながら龍野城下を目指した。
「左近、あの城が因幡山名家の鳥取久松城か、天守は天に届くように高いな。大手門も大きく堀も深い。とても攻め落とせる気がしないな」
「三郎様、この城の城代は武田高信様です。昨日、義兄弟の契りを結んだばかりではありませんか。つまらない事を考えず先を急ぎましょう」
と歩みを速めた。
三郎には、攻めるには難しく守るにはたやすい、難攻不落の城に想えた。三郎のこの時の思いは、後に羽柴秀吉が鳥取攻めをした時に実証された。(天下に名高い「鳥取城の餓え殺し」であった)
元周一行は、予定通り智頭街道を進み志戸坂峠を越え、申の刻頃に佐用宿に到着した。ここの宿は街道の要衝で、因幡街道から播州街道に入る。因・伯州と作・雲州の分かれ道でもある。佐用宿で一泊し一行は峠越えの足を休めた。
翌朝からさらに進み、山桜が咲く佐用坂を越え二刻ほど歩き、龍野の入り口播磨新宮の揖保川上流にでた。もう夕暮れが迫ってきていた。
元周の側用人市之進が
「三郎様、もうすぐ龍野城下へ到着します。今夜、元周様は、龍野城主赤松政秀様にご挨拶するため登城します。三郎様もご一緒に」
「三郎、政秀様が饗応して下さるそうじゃ。きっとおいしい物が食せるぞ」
そう言われると三郎の足は早まった。その素振りに左近が
「三郎様はまだまだ子供ですな」
のつぶやきが、皆に聴こえて大笑いとなった。
しばらく歩いて龍野城が見えてきた。西播磨の実力者、下野守赤松政秀の本拠。
龍野城は、前面に揖保川を天然の外堀とし三の丸と二の丸の間が殻堀になっていた。
大手門、三の門、二の門をくぐり本丸に続く急で狭い階段を登る。本丸御殿は広く、庭園を備え、御殿から見る城下の景色は素晴らしかった。鶏籠山の頂上には、三層の天守が聳え建っていた。
「左近、見事な城だな。鳥取城に比べ規模は少々小さいが、大軍が攻めて来ても中々落とせない城構えになっている。この城構えは政秀様の気概が表れている。私も此れくらいの城持ち大名になりたいものよ」
「三郎様、松ヶ崎城で十分ではございませんか。大きな欲は、より大きな戦を引き起こします。松ヶ崎の故郷を守ることです」
三郎は、左近の話に我を見つめた。
三郎達は、城内の客間に案内されて、元周主従としばらく待たされた。
客間にはすでに各自の膳が、並べられていた。女中の慌しく廊下を歩く音が聞こえる。笑い声と数人の足音が近づいて来た。
客間の襖が開くと、大柄な赤松政秀が
「これは、これは、遥々伯州より御出で下されありがたい。元周殿、宗元殿はお元気か。お互い尼子衆には苦労したもの。今日は、ゆっくり龍野の珍味を食して下され」
と言いながら、三郎を見る。
「そこに控えるは、三郎殿か。小森民部殿は、お元気か。一緒に尼子と戦った思い出がある。私にとっては、大事なお味方よ」
政秀が、三郎の腰に差した短刀を見て。
「その腰の短刀を見せて下され。武田家の家紋(四つ割菱)ではござらぬか」
「これは先日鳥取城下にて、武田高信様から、義兄弟の契りの証として拝領致したものです。高信様には感謝しております」
「そうか、あの高信殿が、さぞそなた達を大切に想っておられるのだろう。高信殿も因幡の守護山名豊数殿には困っていると聴く。東伯耆の南条家の力添えが必要なのだろう。同じ悩みを持つ私も、高信殿の苦労は分かる。暗偶な主君を持つ苦しみよ」
先ほどまで笑っていた政秀の顔が曇る。そんな政秀に、元周が
「政秀様、ご安心下さい。毛利家吉川元春様より、文を頂いております。主君の宗元からも因幡武田家と伯耆衆が、政秀様にご加勢すること間違いなし。ご存分に西播磨を御統治下さるようにとのことです」
聴いていた、政秀の顔に笑顔が戻り
「吉川元春殿、武田殿、伯州の皆様へ感謝いたす。元周殿、皆様へご加勢よろしくとお伝えくだされ。ささ今日は、愉快。飲みましょう。おお三郎殿は、大いに食して下され」
この日、因幡・伯州と西播磨の盟友関係が構築された。
(三者は、毛利家への忠信を盟約した。この時期の西播磨における赤松氏の情勢は、東の勢力小寺氏と、西の勢力浦上氏に挟まれ劣性な状態となっていた。毛利家の掩護を得た赤松政秀は、この日以後西播磨の覇権を巡り攻勢にでる)
三郎は、龍野の鴨肉の入った素麺汁を食しながら、元徳の話を思い出した。
「いずれ毛利と織田両勢力がぶつかり、大きな勢力の中で伯州の平和は崩れます」
三郎の暗い顔を見た。元周が
「三郎、心配するな、我らには毛利家が付いている。宗元の殿は歴戦の勇者じゃ。叔父を信じて南条の領地を一緒に守ろう。さあ、そろそろお開きにして部屋で休もうか」
その日は、松ヶ崎の故郷を想い中々寝付けなかった。
次の朝、三郎達は朝食を食し、接待役に挨拶を済ませて龍野城を後にした。
揖保川の土手添いに街道を下り、二時歩き室津の宿に到着した。
室津は、交通の要衝で「室津千軒」と言われるほど宿場町で栄えていた。
元周がみんなに
「今日も良い天気、賀茂神社にでも詣でて旅の安全を祈願しよう」
播磨は、春も盛りと賀茂神社の桜が見えた。
「そろそろ松ヶ崎城の桜も満開、帰った頃には散っているかのう。松ヶ崎の桜が、思い出される」
「桜だけですか、そろそろ郷が恋しくなりました。それとも誰か思い人でも・・」
左近の問いかけに、三郎は久を思い浮かべた。
「久にも、龍野の桜を見せてやりたい」
そう思いながら、賀茂大社の階段を登った。
桜見物で多くの人が訪れ、露店の店も多い。賀茂大社の本殿からは、室津港と播磨灘が一望出来た。元周一行は、その絶景にしばし見とれていた。
三郎も、瀬戸内海の島々を見ながら、日ノ本の大きさを思い知らされた。松ヶ崎を出て四日目にして広く穏やかな瀬戸内の海を見た。
驚いている三郎を見た左近が
「三郎様、身震いしているのですか。まだまだ驚くのは、此れからですよ」
いよいよ明日は、泉州堺に到着する。祈りにも自然に力が入った。
どこの宿も、花見客と賀茂大社詣ででごった返していた。三郎は、今日の宿探しは大丈夫かと少し不安になっていたところへ、聞き覚えのある声が聞こえた。
「元周様、三郎様お待ちしておりました。もう二日も待ちましたよ。さあ、旅籠へご案内致します。明日は堺です。今日は瀬戸内の魚でも食しましょう」
元徳が、賀茂神社の鳥居の下で、元周一行を待っていた。
「元徳懐かしいの。何で」
と怪訝な顔で見る。
「三郎、元徳は南条家の家臣よ。普段は全国を薬売りで回り、諸国の情勢を調べている。元徳無くして、南条家の将来は無いよ・・」
照れくさそうに、元徳が
「兵庫頭様(元周の官位名)三郎様の前で、あまり持ち上げないで下さい。三郎様は私をただの薬売りと信じています。三郎様には身分を偽り、失礼しました。私の役目は諸国の情報収集です。南条家の殿様に但馬の浪人時代に雇われたのです。この話は長くなりますから、宿で話しましょう」
一行は、元徳が手配した宿へ向かった。
宿の旅籠は、港の前にあった。ここも多くの人で賑わっていた。
元徳が、女中に声をかける。
「元徳様の、お客様ご一行の到着だよ」
と威勢の良い声で、女中が案内係を呼ぶ。
しばらくして、女将と想われる美しい女人が出てきて
「兵庫頭様、お待ち致しておりました。ささ、皆様まずは足をお洗い下さい」
と自らは、元周様の足を洗いはじめる。三郎達の足は他の女中が洗う。
二人の仲良さそうな姿に、皆が目を背けた。
「なんだ、三郎。お誠は、私の大事な想い人よ。この年で女人の一人くらい普通はおるぞ。なあ左近、市之進」
慌てた左近、市之進が
「兵庫頭様は、お顔が良く女人が放っておきません。私たちなどはとても・」
と二人が照れ臭そうに三郎を見る。
つい三郎も、自分の足を洗っている女中の顔を見て
「幼いな。その方の名前は」
「糸と申します。若様、足の親指が水膨れしております。少々お待ち下さい」
と言って傍の薬を塗ってくれた。みんなが、部屋へ案内されて行く。
三郎も慌てて、左近の後を追掛けた。
その夜は、元周とは別々な部屋で食事をした。三郎は、左近と元徳の三人で食事した。
「三郎様、女将は美しい方でしょう。雲州の出身だそうです。元周様が、身請けされ、この宿を世話したとの事です。それ以後この宿は、南条家との縁が深まり、私の定宿なのです。年のころは、三十前の女盛り。元周様が、惚れるのもわかりますよ」
お誠の顔立ちは、なぜか、久の面影に良く似ていた。
元徳の話は続く
「私の故郷は、因州佐治郷です。二十年前の私が十歳の頃です。村で遊んでいた時、宗元様が私を遠くで見て、私を気に入ったとの事で、両親から預かり、それ以後、宗元様のお側で仕えるように成ったのです。宗元様と一緒に、夜久野城主磯部(山名)豊直様の城下にて、約二十年間を過ごしました。その間に、武芸をお教え頂きました。
私の先祖は、佐治郷の佐治四朗重貞に仕える家臣でした。昔から山の民と言われ、因州と但馬の諜報活動をしていた一族なのです。私の配下は、薬を売りながら諸国の諜報活動をしております。
宗元様は、尼子によって領地を追われました。自身が、如何に情勢に疎かったかを知りました。そんな反省から、諜報活動のできる者が欲しかったのです。
乱世では、情報を征するものが時局を征す。先手を打てます。私を手元で育て、佐治郷の棟梁にすることで、佐治衆を手に入れたのです」
(元徳は宗元が佐治谷に隠匿したころ、匿われていた佐治衆棟梁の娘との間に生まれた実子であった。この時点では三郎に話せない事情があった)
「全国の武将は、みんな同じような諜報衆を持っているのか」
と聴くと。
「毛利も、織田も、優れた諜報衆を持っております。時の権力者が、諜報集団に利権を与え山の民が、覇権者を支援するのです。山の民は、横で繋がっております。
それぞれの棟梁が、旨く連携しているのです。力の無い領主は、情報の活用が出来ません。今川家、斉藤家は領主のおごりで、諜報活動を軽んじた結果衰退しました。
領主は、謙虚で自身の力を過信してはなりません。情報を分析し、冷静な視点で決断する。偏った物の見方は身を滅ぼします」
元徳の話は、三郎にはよい勉強になった。
傍で聴いていた左近も、深く感じ入ったようであった。
「元徳、領主としての心構えが、良くわかった。ありがとう」
「三郎様は、いずれ何処かの領主になられます。今日の私の話を、忘れないで下さい」
(佐治元徳との縁が、元清の生涯に大きな影響を与える事は後の事)
左近が心配そうに、元徳を見ながら
「さあ目の前の、美味しい渡り蟹を食べましょう」
三郎は、初めて見る菱形の蟹に驚いた。また播磨灘で採れた鯛は、蒸してあり身が柔らかく美味しかった。左近と元徳は、明石の蛸を肴に酒を酌み交わし、お互い顔が赤くなり盛り上がった。三人は播磨灘の幸を楽しんだ。
三郎は、元徳の「いずこかの、領主に成られます」の言葉が妙に気になった。
夜も更けて三人は湯船に浸かり、部屋で深い眠りについた。
室津の朝は快晴で、沖の安宅船が波間に浮かんでいた。元周の一行は、港で小舟に乗り
港沖に停泊中の村上水軍所属の戦国船に乗った。
「三郎、大きな船だろう。毛利家の武将、村上武吉様の軍船よ。小早川様が手配して下された」
三郎は、初めての安宅船を見て
「海に浮かぶ小城のようだ」
と驚きの声を上げた。
「三郎様、このような船が浮かぶのですね。水軍の力で、毛利は瀬戸内の水運を占有出来るのですね」
一行は、驚きながら船に上船した。
船の船長らしき武者が、元周へ近寄ってきた。
「これは、伯州の南条家の皆様でござるか。拙者は、村上武吉の叔父村上隆重でござる。堺までは、私の船でお送り致す。ささ、船の客間へ」
と傍の家臣が、一行を船室へ案内した。
「元周様、隆重様は、海賊の棟梁みたいですね」
と問いかけると、元周が
「村上水軍も本家と分家に別れ、能島村上家の家督相続で争い、隆重様が、甥の武吉様に味方したことで、武吉様は能島村上水軍の棟梁になれた。瀬戸内の海路は、莫大な利権がある。我らが安心して、堺に行けるのも、毛利家のおかげよ」
他の客も乗せて、船は堺に向けて、漕ぎ出した。三月末の瀬戸内の風は、快好く快晴の海原を進んで行った。
牛の刻頃に、明石海峡を通過して、酉の刻(午後六時)頃に堺に着船した。
安宅船が数十隻、南蛮船も数隻、唐船も見られた。その周りには、小舟が荷物と人を運び、隙間の無いほどの賑わいだった。次々と大型の船が入船していた。小舟に乗り換えた私たちは港の水路を登り、大きな屋敷の水路門を潜り水路端に着船した。
水夫が大きな声で
「お客様をお連れしました」
家の家僕を呼ぶと、使用人数人が
「これは、伯州南条家の方々ですか」
との問いかけに、市之進が
「南条備後守宗元様の甥で、南条兵庫頭元周様一行でござる」
と一気に答える。
奥から声が
「南条様、お待ちしておりました。ささ、こちらへご案内いたせ」
元周一行は、土間の通路を奥に向かって歩いた。
「長い通路ですね、鰻の穴倉見たいですな」
怪訝顔の左近と、三郎は、うす暗い通路を歩んだ。
ようやく周りが明るくなり、広い土間に到着した。
大広間へ上がり奥の客間へ通された。
案内した使用人が
「私は、この家の番頭です。主人は、この客間でお待ちです」
と言って元周と、三郎の二人を客間に入れた。客間で待っていた、商家の主が
「南条様、私は小西隆佐です。毛利様には博多の交易で、大変お世話になっております。傍に控えるは、息子の如清です。如清ご挨拶申せ」
傍にいた、三郎と同じ年頃の如清が
「堺の商人、隆佐の嫡男如清でございます。今後ともお引き立て願います」
元周と三郎は、如清の丁寧なあいさつに、好感をもった。
(この少年は、後の堺代官小西如清で、三郎とは縁が深い)
「元周様。そちらのお方は」
「伯州、河村郡松ヶ崎城主小森方高様の、甥子の三郎です」
「松ヶ崎の三郎です」
如清を見て、丁重に挨拶をした。
隆佐が三郎を見て
「如清。明日は、三郎様をお連れして、堺見物に。さあ三郎様は、別の部屋で御くつろぎ下さい。如清と一緒に食事を。如清ご案内しなさい」
如清は、三郎を左近達が食事している部屋へ案内した。
元周と隆佐は、今回の堺訪問目的の鉄砲購入の商談に入った。一時ほどして、三郎たちの部屋へ元周が現れた。
「皆の者、五日程堺に逗留する。明日は堺の見物をして明後日は、石山本願寺の証如様へ
ご挨拶に伺う。三郎と左近は、堺で我らの帰りを待っていてくれ」
との事であった。
傍で聴いていた、如清が
「三郎様、左近様それでは、明日からは私と一緒に過ごしましょう。堺の面白いところへお連れ致します。それでは明日また」
と言って部屋を退出していった。
使用人が、三郎達を部屋へ案内して各自眠りについた。
寝床に入った三郎は、明日の堺見物に期待した。
堺見物当日の朝、三郎達が如清を部屋で待っていた時に部屋の外で
「兄上、私も連れて行って下さい」と如清にせがむ声が聞える。
「弥九郎、今日は大事なお客様をご案内する、遊びではないのだ。聞き分けろ」
と怒り、弥九郎は泣き出した。三郎は、部屋の外に出て
「如清どのの弟か、泣くな。後で帰ってくるので、その時に一緒に遊ぼう」
三郎を見た、弥九郎は
「三郎のお兄ちゃんですか」
と人懐っこい笑顔を見せた。(これが後の小西行長との出会いであった。生涯の友との出会い)気を良くした弥九郎は、三郎達を玄関まで見送ってくれた。
如清の案内で、堺の港から堺の市街を見て回った。堺は、外部から外堀で完全に遮断され、堺を出入りするには堺商人寄合い衆の傭兵が検問を行っていた。
左近が驚いたように
「三郎様、要塞の町堺ですね」
三郎もこの堺は、商人で自治されている。治外法権の小国と思えた。
一時ほど歩き、如清が茶店を見つけ
「三郎様、左近様、休憩しましょう。ここは団子の旨い店です。ささ、どうぞお座り下さい」
茶店は十席ほどで、調度私達三人分の席が空いていた。
如清が、案内すると
「小西の倅ではないか」
と隣から声がする。
屈強な武者姿の四人の一人が、呼びかけ
「俺だよ、島清興じゃ」
若々しい顔表に、大刀を腰に提げ、横には十文字槍を置いている。
「今日は我が殿、大和郡山の筒井順政が嫡子藤勝(後の順慶)様をお連れして堺見物よ。そなたも元気そうで何より、ところで其方のお方は」
「お初に御目にかかります、私は伯州南条家家臣の者で、名を松ヶ崎の三郎と申します。如清様には堺の案内をして頂いております」
「三郎殿、立派な脇差を御持ちじゃ」
子供には、身分不相応な脇差に見えた。
傍らにいた藤勝が
「脇差の四つ割菱が、映えておるわい。中々良い指物よ」
「これは、因幡守護代の武田信高様より、義兄弟の証に、頂戴したものです」
「三郎殿、これも何かのご縁でござる。大和郡山に是非一度、お立ちより下さい」
「私は今年十二歳になったが、三郎殿は何歳になられた」
「私も十二歳になり、来年は、いよいよ元服します」
「そうか、俺も三郎殿と同じ歳で元服したい。清興、父上にとりなしてくれ。今度会ったら義兄弟になろう。三郎殿よいな」
藤勝は、嬉しそうに三郎を見た。
「それでは、これから大和郡山まで帰るので、お先に失礼致す。またお会いしましょう」と言って、筒井順勝一行はその場を去った。
三郎達も茶店を出て、堺見物を続けた。
「南蛮の教会を、ご案内しましょう」
私と左近は、何のことかわからず、如清の後をついて行った。しばらくして、見たことの無い建物が見えた。尖った、屋根の上には、十文字の飾りがあり、窓は半丸窓で、夕日できらきら光っていた。
怪訝そうな顔の三郎に
「この建物は、耶蘇教会と呼ばれる、外国の宗教を唱える建物で堺には多くの信者がいます。館には、伴天連の神父と呼ばれる責任者がいます。交易は、物ばかりでなく、異国の宗教と文化も運んで来ます」
三郎と左近は、連れ立って建物の中に入った。奥から、黒い衣を着た人が三郎達に話しかけてきた。
「神父様」
と言って、顔の前で、如清が手を十字に描く。
三郎には、何の意味か良く解らず、ただ様子を見ていた。
「三郎様、如清様は、耶蘇教の信者ですか」
左近の問いかけに、三郎もそうだと思った。
「小西家は、皆がイエス様の教えを敬っております。堺の多くの人が、今では信者となり朝夕に教会にお参りします」
二人は異文化に触れ、松ヶ崎での暮しと比べてしまい、どうにも馴染めなかった。
放心している三郎に如清が
「もう夕暮れなので、屋敷に帰りましょう。明日は、鉄砲を撃ってみますか
「鉄砲が撃てるのか、ぜひお願いしたい」
期待が膨らんだ。
「三郎様は、宗教より武器か食べ物ですね」
と言い、二人の笑いを誘った。
屋敷に帰ると、玄関で弥九郎が待っていた。
「三郎の兄上、遅かったですね。早く一緒に風呂に入りましょう。兄上も早く」
と急かされ、三人で一緒に風呂に入った。
(この幼い時の三人の交流は、終生の良い縁となった)初日の堺見学を無事に終えた。
次の朝は、如清が、元周一行と三郎達を堺の鉄砲鍛冶場へ案内して射撃を試みた。
元周一行は、雑賀衆の鉄砲名人、善従坊と申す者の射撃を拝見した。
善従坊は、いとも簡単に十間ばかり先の的を、轟音とともに打ち抜いた。
多くの見物人から歓声が上がった。
照れ臭そうな善従坊が
「だれか撃ってみませんか」
と誘いながら見渡す。
如清が、善従坊に目で合図する
「おお、そこの若造こちらへ」と三郎を誘う。
見ていた元周が
「伯州者の勇気を示せ」と三郎を煽てる。
左近までが
「三郎様、的を外すと伯州者の恥です」
と見物人に聴こえる大声で叫ぶ。
三郎は腹をくくり、善従坊の前に出向き、構えを執った。
善従坊の指導で体制を整え、引き金を引くと、轟音と共に的が割れた。
三郎の体は震え、腕は硬直し、頭は茫然としていた。見物人の拍手喝采で我に返った。
傍らから、二人の武士が
「御見事。初めてで、的を撃ち落とすとは天晴」
「三郎様、あの方は、美濃斉藤家の竹中半兵衛様で、もう一方の方は、南近江の大名六角義監様の嫡子、義治様です」
茫然としていた三郎は、冷静な如清の言葉を聞き我に戻る。
照れ臭そうに
「お褒めのお言葉、感謝いたします。拙者は、伯州の南条家家臣の松ヶ崎の三郎です」
と自己紹介。傍で聴いていた元周も慌てて
「南条家当主宗元の甥の南条元周です。今後とも、良しなにお見知りおき下さい」
と言って自己紹介を終える。如清が待ったなしで
「これも何かのご縁、半兵衛様、我が家で一緒に食事でもどうですか」
と若い二人を誘う。
傍で控えている二人の郎党は、迷惑そうな顔をして如清を睨む。
義治が、笑みを浮かべて
「おお、ありがたい。半兵衛殿お言葉に甘えよう。これも何かの縁よ」
と言って如清に手振りする。
「それでは、善従坊も一緒に我が家へ参ろう」
と言って皆を連れて小西家へ案内していった。(何とも、如清の接待慣れには皆が驚いた)
この夜は、大宴会となった。
半兵衛は、美濃尾張の情勢分析を語り、義治は近江の情勢を語る。
お互い若いので、話が弾む。元周と三郎は、二人の分析力に、ただ驚かされるばかりであった。しかし、二人の好青年に好感を持った。(この堺での交流関係が、後の三郎の運命と、南条家の将来を変える事を知るのは、まだまだ先の事)
数日を堺の小西家で過ごして、元周一行は帰国の朝を迎えた。
堺での珍しい土産を背負う三郎と左近に、如清が
「三郎様、また会いましょう。お元気で」
と声をかけ、傍の弥九郎が、三郎と一緒に伯州に行くと泣き出す始末。
五日間の逗留であったが、今生の分かれのようで、三郎にも涙が溢れた。
「三郎様、元服してまた堺に来ましょう」
と左近に励まされ、後ろ髪を引かれる思いで堺を後にした。
舟付き場からは、小舟で沖の安宅船が待っていた。
数隻の小舟には、鉄砲の入った木箱が積まれ、三郎の乗る安宅船に積み込まれた。
船には村上隆重が、待っていた。
「元周殿、鉄砲買付ご苦労でござった。これで吉川元春様も、南条家の忠信に感謝されますぞ」
「そうか、毛利家のための鉄砲購入だったのか」
と三郎は、納得した。
隆重の横で、話を聴いていた僧侶が
「私は、京都東福寺の安国寺恵瓊でございます。南条兵庫頭元周様には、初めてお目にかかります」
といきなり挨拶をして来た。
「これは恵瓊様ですか、毛利隆元様へよしなにお伝え願います」(隆元は、毛利元就の嫡男で、恵瓊は隆元の師であった)
「そちらの若君は」
ちらりと、三郎に目をやる。
「南条家家臣、松ヶ崎城主小森方高殿の甥でございます」
「良い人相をしておられる、いずれは一方の武将となられるでしょう。その折にはぜひお味方でお願いしたい」
と低調な挨拶に。
照れ臭い三郎は
「松ヶ崎の三郎です。お見知りおき下さい」
と挨拶を返す。
(恵瓊がまだ、二十三歳の頃であった)二百丁の鉄砲と、弾薬を積み込んで、船は室津の港へ向かった。
船の上で三郎は
「世の中は大きく動いている、半兵衛様と義治様はまだ若いのに、諸国を見て回っておられた。私もあの方達のように、時局を見る力をつけなければ」
と感慨深く呟いた。
申の刻に室津港に到着した元周一行は、小舟に乗り換えて宿場に向かった。村上隆重と安国寺恵瓊は、芸州へ向かうため、ここで別れた。
港には元徳とお誠が、出迎えていた。
「元周様、三郎様お役目ご苦労様でした」
お誠のやさしい声に、緊張感が体から消えて疲れがどっと出た。
宿の風呂で虚ろになり、松ヶ崎のお久が恋しかった。そこに左近が
「三郎様、一緒に入らせて下さい。言うが早いか狭い湯船に入ってきた」
「左近、夢も希望も覚めるは・・」
と感慨に耽った気分が消えてしまった。
「三郎様、堺は面白かったですね。色々な人々が、敵か味方か分からず平気で歩いております。誰がどこの家中の者か分からず、本当に商人かどうかも判りません。何を信じて良いかも」
「そうだな、誰がどこの者か、全く判らないのも面白な」
「百聞は一見に如かず」と三郎は想った。
女中のお糸が
「三郎様、左近様。食事の用意が整い、皆様がお待ちです」
との声に、二人は慌てて風呂をでた。二人の裸姿に、お糸が顔を赤らめて廊下を走って行った。その姿に左近が
「お糸も年頃ですかね・・」
「そんな事が解るか。でも来た時より何故か色っぽいな」
「きっと、三郎様が好きなのですよ」
二人は、廊下を歩きながら話した。
食事の部屋に入ると、元周主従は、役目を無事に終えた安堵感もあり、もう皆で盛り上がっていた。お誠は、元周の傍で酒を勧めていた。元周も良い面持ちで
「お誠、伯耆の国に来ないか。私の傍で暮してはどうか」
とお誠を誘っている。
「お誠が居ないとこの宿は、無くなりますご容赦下さい」
と元徳が切返す。
「元周様・時々逢うから良いのです、毎日逢うと、お互い嫌なところも見えてきますよ」と元周があしらわれる。
傍らの三郎は、大人の恋の駆け引きを聴いていた。
(お誠には、伯耆に深い事情があり尼子勢力が残る伯耆には出向けなかった。元徳と元周の二人は、この事情を知っていた)その夜も更けて、各自が部屋に戻り眠りについた。
夜が明けて、室津の宿を出発した一行は、龍野城下を通り、佐用の宿を目指した。
佐用の宿から因幡路に入り、智頭宿にて一泊して、ここから馬を駆り賀露の港に出た。
賀露から、橋津港まで船を漕ぎ出し、橋津港へ到着したのは、酉の刻を過ぎていた。
三月末で、夕刻でも明るかった。ここで、元周一行と三郎達は別れ、三郎と左近は松ヶ崎城を目指した。松ヶ崎に向かう道々で、桜の花が満開で、堺への旅の無事を祝っているようだった。城下に入り、大手門前では、いつもの様に次郎衛門が立っていた。
三郎達を見た次郎衛門が
「三郎様、左近様ご無事で何よりです。今日か明日かと、ご帰着をお待ち申しておりました」
と嬉しそうに迎えてくれた。
「三郎様ご帰着。開門」
と大きな声で門を開ける。
城内には、言伝えに伝わり、皆が本丸前に集まって二人を迎えた。
叔父の方高と、母里、行衛、四朗が迎え、再会の嬉しさがこみ上げてきた。
こうして三郎と左近は、無事に松ヶ崎城へ帰還した。三郎と左近は、堺の見学を通じて多くの事を学んだ。また、二人の主従関係はこの旅を通して一層深まった。
早瀬左近、二十二歳、三郎、十二歳の永禄四年(千五百六十一年)の春であった。
六、小鴨左衛門尉元清の誕生
永禄五年(千五百六十二年)端午の節句に合わせて、三郎の元服式は、松ヶ崎城下の松崎神社神前で執り行われた。
神社の周りには、三郎の元服式を見ようと城下の人が我も我もと集まった。その中に遊び仲間の弥助、五平、松五郎、お夏、佐助の姿も見えた。
「三郎様、元服お祝い申し上げます」
と五人が一斉に声を上げ、皆が
「お祝い申し上げます」
と声をかける。三郎の城下での人気が、伺える場面であった。
そこに、南条宗元と小鴨元伴両人が、家臣と共に現れた。
神社の境内は、両家の家臣で溢れんばかりとなり、物々しい警護が敷かれ、神殿の雰囲気は一変した。石段の両脇は、佐治衆が固めた。その中には、佐治衆棟梁の元徳の姿も見えた。烏帽子親は、南条備後守宗元。
三郎は、子供の髪を改め、大人の髪を結い烏帽子を付けた。
烏帽子親の宗元が
「本日より、三郎改め、南条左衛門尉元清となった。元の一字は、毛利家から授かったもの」
控えていた、客人は皆が驚いた。(三郎が自分の父が誰かを知った瞬間でもあった)
三郎も
「ええ・・」
と声を上げ、驚きを隠せない。傍の元伴と方高を見て
「叔父上」
と小声で誘う。
そんな事は気にせず、宗元は口上を続ける。
「元清は、今年の八月、十三歳になり次第に久米郡の岩倉城主小鴨元伴殿の養子となり
名を小鴨左衛門尉元清と改め、小鴨家を相続する。小鴨家と南条家の同盟関係で、東伯耆
を統治する。皆も心得るように」
同席していた、元伴が
「南条元清殿を養子に迎えることで、小鴨家も安泰じゃ、安泰じゃ、万々歳じゃ」
三人の兄弟は、驚き、母のお里を横目で見た。母は、事前に知っていた様で、方高同様冷静であった。
言い終えた、宗元は
「方高、お里、今まで良く我が子を育ててくれた。感謝する」
と言って、二人を労った。
三郎は、母を見ながら「元服まで待ちなさい」の言葉の意味が、宗元の口上でようやく理解出来た。
静まり返った神前での元服式は、滞りなく終わり、宗元と元伴は、家臣を連れて羽石衣城と岩倉城へ帰って行った。
行衛と母は、先に松ヶ崎城へ帰った。
三郎と四朗は、方高と神社の境内でしばし話をした。
「今日より二人は、南条家の御曹司。今日以降は、元清様、四朗様と呼ばせて頂きます。今までの非礼は、ご容赦願いたい。御二人には、異母兄上が一人おられる。南条家嫡男の元続様です。元続様は、元清様より三日早くに御生まれです。毛利吉川家から、宗元様に輿入れされた、正室お玉の方様の忘れ形見なのです。宗元様は、吉川家へ気を遣い今までお里を遠ざけていました。特に元清様は、元続様と三日違いの誕生だったので、嫡子相続の確執があり吉川家から命を狙われる恐れを感じたため、宗元様が、羽石衣城から遠ざけ松ヶ崎城で密かに育てるように差配された。ようやく、元続様も元服を済ませ、吉川家も元続様の南条家相続を確認したことで、今日の事となったのです」
方高の複雑な話に、二人はさらに驚いた。元清は、兄の元続の事が気になった。
「元清様は、八月の誕生日を迎え、小鴨元清様として岩倉城へ移って頂きます。それまでは、今まで通り我が城でお過ごし下さい。四朗様は、元服を迎えるまで我が城でお過ごし下さい。その間お二人とも、里に孝行して下さい」
と言って、里を思いやった。
「叔父上これまで育てて頂き、お礼申し上げます。私も四朗も、ご恩は一生忘れません。今後ともご容赦せず、叱咤激励をお願い致します」
と言って二人は頭を下げた。
「宗元様より二人に、備前長船長義作の、大刀二振りが授けられました。陣太刀として、家宝にするようにとの仰せでした」
南条家の家紋の入った、見事な陣太刀であった。その後三人は氏神へ、武門長久のお参りを済ませ、松ヶ崎城に帰って行った。
道中、元清の傍で、左近が嬉しそうに
「元清様、いよいよ岩倉の城主様ですね。小鴨家は、南条家同様東伯耆の名門。家臣は代々の者が多く、まとめるのは大変ですこれからが大変ですよ。小鴨家の動員兵力は一千余騎です。南条家と同じくらいです」
左近の話を聴いて、元清は一抹の不安を感じた。
母の部屋に出向くと、そこにはお久が控えていた。
「元清様、お祝い申し上げます」
と言い挨拶をする。
「久、どうしたのじゃ、なぜ此処に」
と聞くと、傍で見ていた四朗が
「兄上が、堺に出向かれていた時に、台所方の用事で、女中奉公していたところを、母上に見初められたのです。近頃は、母の腰元として、母の傍で仕えております。知らなかったのですか」
四朗は、怪訝そうな顔つきで
「兄上は、堺に行ってから、毎日鉄砲ばかり撃っているから周りが見えてないのです。まさか、三人の約束をもう忘れなのですか」
「四朗様、元清様が困っておられます。私は、朝早く登城して、台所回りの用事をしてから、午後には父の看病で早くに下城しております。そのため、中々城内では元清様にお会いする機会がございませんでした。こうして本日、お会いできてうれしく思います」
と元清を庇う。
「久、可愛らしくなったな。松ヶ崎一じゃ。いや伯耆一かも」
とからかう。
「兄上が、久を放って置くのなら、私の許嫁にしますよ・・」
「四朗、いかげんにせんか、お前にはもったいない」
と返答する。二人のやり取りに、久は
「四朗様は、まだ子供です。私は元清様の方が良いです」
まだ八歳の久が、はっきり言った。照れ臭い元清は
「久の事は、俺が守るから。四朗、余計な心配をするな」
とその場をつくろった。元清の言葉が、久は嬉しかった。
久は、この頃から元清を想い慕うようになっていった。幼い頃の、寂しさを打ち消すための心の拠り所が、本人が気の付かない間に愛情へと変化して行った。
元清と久は、お互いを見つめ合いその場を離れた。
数刻してから、元徳が挨拶に来た。
元清の護衛に、二人の武人を連れて来て紹介をうけた。
「これに控えるは、岡部新十郎と加瀬木元亮です。この両名が、今後元清様の身辺を警護しますので御見知りおき下さい。宗元様、元伴様のご両名からのご指示でございます。新十郎は槍の名手で、元亮は居合いの使い手です。両名が、元清様のお傍近くで守護致します。二人とも因州佐治郷の加瀬木村で生まれ育ち、元亮は私の実弟です。今日からこの二人は、元清様と生死を供にすることになります」
「殿の身辺は、我らが一命に換えてお守り致します。どうかご安心下さい」
元徳が、元清の戸惑った様子を見て
「元清様、君主になると言うことは家臣、領民がその下に居ます。戦乱の世です。身辺警護は、信頼のおける者に任せる必要があるのです。佐治衆は、宗元様よりその任を任されております。これから着任される、小鴨家には元清様が、当主になられる事を快く思っていない輩がおります。どのような敵が潜んでいるか判りません。今後は、両名を信じて傍らでお指図下さい」
元清は、生まれて初めて自分を警護する家臣を持った。
(後に判るが、この元徳と元亮は、南条宗元が浪々の身で、因州佐治谷衆に匿われた時期に、加瀬木村の村長の娘を娶り、産ませた子であった。この二人にはその後、羽衣石城主として返り咲きをした宗元が、二人を想い一字を与えた。元清とは異母兄弟であった。
その後元徳は、佐治衆の頭目となり名を佐治元徳と改め、南条家に仕えた。元亮は、加瀬木村の長となり、加瀬木元亮と名のった。岡部新十郎は、佐治の加瀬木城主であった岡部家の忘れ形見として、佐治衆によって育てられていた。二人は、元清とは七歳上の二十歳を迎えたばかり)元徳は、用事が終わると二人を預け帰って行った。
その翌日より、元清主従に四朗が加わり、四名が一緒に剣術、砲術、十文字槍の稽古を行うようになった。特に元清は、岩倉城主への期待と不安で武術にばかり没頭した。
ある日の午後、十万寺の法眼和尚が元清を訪ねて来た。法眼が元清に
「武芸ばかりに力が入っているようで、精神面の修業が、足りませぬ。新十郎、元亮、元清様と一緒に、三朝の三徳山にて座禅で精神面の修業をせよ」
と言って帰って行った。
数日が経ち、三徳山の修業僧が、松ヶ崎城の元清を訪ねて来た。
「拙者は、比叡山延暦寺の修行僧円真です。現在は、三徳山三仏寺に滞在し修業をしております。このたび十万寺の法眼和尚より、元清様ご一行を三仏寺にて修行の件仰せつかりました」
年のころは三十前後か、屈強な体つきで大柄な体格であった。
「法眼和尚からは、聴いておる。何時から三徳山に行けばよい」
と聞返す。
「梅雨明けの、七月初旬の頃が良いでしょう。山は新緑に覆われ、一年で一番山の気が充満している時期です。石清水も冷たく感じます。三徳山には、三仏(釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来)が安置されております。三仏寺は、浄土院美徳山三佛寺として慶雲三年七百六年に開山した天台宗の寺なのです。修業中は、宿坊にて泊り頂きます。約一か月間をご予定下さい。すでに法眼和尚より、南条の殿様には、ご了承を得てございます」
「それでは、十日に三仏寺にまいる。円真とやら、よしなにお願い致す」
「元清様、修業は辛いものではありますが一時の事。君主として領地を治めることはもっと辛く長い道のりです。三仏寺での修行で、何かを学んで頂ければ幸いです」
と言ってほほ笑んだ。
円真の笑顔が妙にほほ笑ましく、その場を和ませた。
「元亮・新十郎と早瀬左近の三名で出向く。新十郎から左近に伝えておけ。十日後の出発で準備致すように」
と指示した。元清は遠足気分で心が弾んだ。
「元清様、それでは私は、三徳山まで帰ります。七月のお越しを楽しみにお待ち致しております」
と言って松ヶ崎城を去って行った。
新十郎から、三徳山での修行同行を聴いた左近が、廊下を小走りに走って来た。
「元清様、三徳山での修行は、三日で逃げ出すともっぱらの噂です。知らないとは言えよく一か月の宿坊修業を、ご了承なされたものです。豪いことじゃ」
元清の傍に控えていた、元亮と新十郎が
「左近どの、命までは取られません。ご安心下され」
と言って二人が元清を見る。
元清は、左近の話を聴いて
「しまったな、三日にしておけば・・」
とつぶやいたが後のまつり。こうして一か月の三徳山での修行が決定した。
夕暮れ時に、久が元清を訪ねて来た。
「御母上様が、出丸屋敷で夕食をご一緒にとお誘いです。出丸屋敷からの、東郷池の夕日はとても綺麗です。四朗様、行衛様もすでにお待ちです」
と言って久は出丸へ帰った。
「元亮、新十郎、松ヶ崎城の暮らしにも慣れたか」
毎夜交代で、元清は護衛をする二人を気づかった。元清は、この二人から主従関係の基本を学ぶ事が多かった。
ここ数日の二人に接して、二人の誠実さを認識した。
「家臣を大切にしなければ」と元清は強く想った。
数日を松ヶ崎城で過ごし、三徳山修業に出発する朝を迎えた。
空は快晴、出丸屋敷から霊峰大山が遠くに見えた。東郷湖の湖面は穏やで、しじみ漁の船が見える。
「何と穏やかな故郷か、八月には、久米郡岩倉の城か。山里暮らしか・・」
景色を見ている元清に
「殿、出発の準備が整いました。すでに皆様がお見送りに出られておられます。お早く」と元亮が呼ぶ。
元清は、気持ちを引き締め、左近・新十郎・元亮の三人を伴い、松ヶ崎城を出立した。
三徳山までは、別所村を通り、波関峠を越え五里程の距離。急な坂を上り、二時の時間を要す。四名は徒で出向いた。峠を越えて、三朝温泉宿場で足を休めた。三朝温泉は平安の頃から、湯治で賑わっていた。足湯に浸かりながら昼食を食した。
「元清様、久が握ったおむすびは美味しいですな。おや梅が入っておりますぞ」
三人は、久の顔を想いだしながら握り飯を食した。
一服した一行は、三徳川上流を目指して歩いた。坂本村から三徳村に入り、一の門を潜り山門を目指した。山門をくぐると、三仏寺詣での人で賑わっていた。
「元清様、三仏寺にこんなに多くの人が参るのですね。老婆を背負って参る青年も見えます。いや、知らなかった」
「大永の五月崩れで、親父殿と叔父は尼子から追われ峠を越え、鹿野城下に出て因幡に逃れたそうだ。この峠は、南条家の命綱よ」
「三朝谷より人形峠を越え、東に向かうと佐治谷に出ます。羽衣石城と岩倉城にとっても生命線です」
「そのような事にならないよう、時勢を読むことが大切よ。城を落ち延びる経験はしたくないの」(後に命辛々この峠を二度も越え逃亡する事になるとは、今の元清主従は夢にも思わない)しばらく坂道を登り、三仏寺前の階石段に着いた。
石段の下で修行僧の円真が
「元清様、皆様お待ちしておりました。まずは、我が宿坊で御寛ぎ下さい」
と言って元清主従を案内した。宿坊の門は古くどこか威厳に満ちていた。元亮が
「天台宗皆成院。中国四十九薬師霊場です。久しぶりに来ました。実は、私と新十は十二歳の時にここで半年間の修業をしました。おかげで精神的には成長しました」
左近と、元清が
「そうだったのか、お前ら二人が半年間も。これは良い安心した」と言って微笑んだ。
「元清様、皆成院住職の成真様をご紹介します」
と円真に誘われ、境内へ通された。
境内の中央に着座し、元清主従を待っていた成真住職が
「これは、南条家御曹司の左衛門尉元清様他お供の皆様、ようこそ当寺へお越し下されました。子細は、円真より伺っております。一か月の短期間ですが、我が宿坊を活用頂き御修行に専念下さい。当寺は備後守宗元様とのご縁が深く、今でもご加護頂いておりますのでご遠慮なさらないように」
「成真住職様、このたびはご無理申し上げます。円真様にはお手数をおかけします」
丁重にご挨拶した。
「それでは、宿坊へご案内します。各自こちらで白装束に着替ええて頂きます。この時点で修業に入ります。本日は、旅の疲れもありますので、体を清め精進料理を食して早めにお休み下さい。明日からの一週間は、四種三昧の常坐三昧修業に入ります」
と言って部屋を案内し、その場を去った。
「四種三昧、何の事じゃ」と元清が聴くと。新十郎が
「四種三昧とは、摩訶止観の修行で、常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧の四種なのです。明日から一週間は、常坐三昧の修業で御堂内に入堂し坐禅を行います」
「いやはや、死に装束まで着せられて。先が思いやられる」左近が呆れ顔。
元亮と、新十郎の二人は微笑んだ。四人は同じ部屋で休んだ。
元亮と新十郎は、元清の警護を怠ることはなかった。
修行当日の朝は早い、寅の刻(午前四時頃)に起床して寺内の湧水で身を清め、その後住職成真様の法華経購読を拝聴してから、朝食を頂き常坐三昧の一日座禅に入る。
静まり返った御堂で、座禅で瞑想に入る。三日もすれば、邪念も無く、ただ静まりかえった御堂でただ時間が流れて行く。空気の流れを感じるのは四日目頃から、三人の呼吸の音の違いが判る。映像の無い世界で、想う景色姿が視える。
元清は、七日目を迎えると瞑想が心地よく、時の経過を感じさせない。
瞼に映し出すものの動きで感じる時でなく、暗闇の中で時が刻まれて行く。今まで経験したことの無い感覚。
「これが、色即是空の境地か」と思えた瞬間であった。
あっという間に七日間が過ぎ、円真は次の修業の説明をした。
「これから七日間の断食・断水・不眠・不臥は不動堂に入り不動真言を唱えつづけます。本堂から不動堂までは、険しい崖を登ります。途中には野際稲荷、文殊堂、地蔵堂、鐘楼、観音堂、元結掛堂があります。不動堂からは、投入堂が見えます。この不動堂に、七日間滞在して頂きます。修業途中での下山は、修行者が死に至った時です。白装束を纏う意味が、ようやくご理解頂けましたか。修業とは、己の限界を知ることです。それでは、明日より励んで下さい」
元清と左近は、呆気にとられた。
「元亮、七日間も飲まず食わずで、人は生きているのか」
「左近様、大丈夫です。普通は九日間の業です。殿と左近様が初めてなので、二日短縮されております。私と新十郎は、九日間の業を経験しましたが、私どもはこのように元気です」
「判った、ここまで来たのだ。今から退散できぬ」
左近があきれ顔で、元清を伺う。
「座禅三昧の七日の次は七日間、飲まず食わずか。欲を絶つのは厳しいの」
と元清は呟いた。
修業の日々は続く。不動堂に籠り、不道明王の真言を毎日続け、空腹に打ち克つ。
七日目にしてようやく「不動心」が備わる。(何が起ろうと、動じない揺るぎない心が養われる)次に、心配と不安の恐怖の心が消える。(心が強くなる)
不動堂から投入堂を毎日観て、自然の中に最善の状態で存在している。(全ての物事が自然に常に最善の方向で開けてくる)こうして七日間の不動堂での修行は終えた。
残りの十四日間は、朝は寅の刻に起床し体を清め、住職成真様の法華経購読を拝聴してから朝食を済ませ、投入堂まで登り、投入堂での座禅で、新緑の山々の景観を一日中眺めて、申の刻(午後四時)には下山する。これを修業最終日まで繰り返す。
投入堂からの景色は、毎日少しずつ変った。元清主従は、修業中の会話は許されない。
日が昇り、日が沈む中に自身が存在する。生きている事の喜びを感じるようになった。
自身の存在を、自然の中に見つめる。元清は、岩倉城主となる不安を抱いた、己の心が
恥かしくなった。何事にも動じない「不動心」のあり様を学んだ。
元徳主従の一か月間の修業は、こうして終わり、主従は絆を深めた。
下山した主従は、松ヶ崎城へ急いだ。左近が
「元清様、今日の夕食は、東郷湖で採れた鰻を食しましょう。しじみ汁も・・・」
鰻と聴いて、さらに主従の足取りは早まった。
八月を迎え、小鴨家重臣黒松将監国時と、永原玄蕃惟定が松ヶ崎城へやってきた。
叔父の小森方高と相談して、元清主従の岩倉城入場の日取りが決まった。
「元清様、いよいよご出立ですか。松ヶ崎城も寂しくなります。里も寂しがります」
「叔父上、母と行衛・四朗をよろしくお願い致します」
二人の会話に、左近と元亮・新十郎は涙を浮かべた。
黒松将監が
「元清様当日は、岩倉城よりお迎えに参ります。準備万端、よろしくお願い致します」
と言って平伏した。
この時点から、主従関係は始まっていた。
元清主従への挨拶を終え、黒松と永原は岩倉へ帰って行った。
それから五日後の八月十日、小鴨左衛門尉元清は、小鴨の家臣に守られ松ヶ崎城を出た。大手門前には、元清を一目見ようと多くの民衆が集まり、元清を見送った。
行列は、総勢百名位で、先頭に騎馬武者六名、槍隊、弓隊が続き、元清を屈強の鎧武者が前後で守り、栗毛の馬に乗った陣羽織姿の元清が進む。
両脇を元亮と新十郎が固め、後ろは騎乗した左近が続く。見事な行列を見に集まった民衆からは歓声が上がる。
「松ヶ崎の三郎様、我らをお忘れ無きように」
元清には、東郷池の湖面を見ながら十三年間の思い出が浮かんだ。
東郷橋のたもとに弥助・五平・佐助・松五郎・お夏・進ノ下総親子の姿が見える。
久と平助の見送る姿も見える。
元清の行列が、橋に差し掛かった時
「左近、行列を止めよ」
と言って、馬から飛び降りた。元亮と新十郎が、慌てて傍を固める。
元清が大声で
「皆の事は忘れない、見送り感謝する」
と言いながら久の傍に行く。
「久が十六に成ったら、迎に来る。それまで母を頼む」
傍で聴いていた、平助は
「元清様、久をお守り願います」と言って感極まった。
久は、恥ずかしそうに
「お待ちしております」
と言って元清を見た。元清の手は、久の手を握っていた。左近が
「殿皆が見ております早く参りましょう。さあ元亮、出立の声を」
元亮と新十郎が「出立」と声を上げる。
行列はゆっくり進んで行った。馬上の元清は、久の手の温もりを感じていた。
「殿、嬉しそうですね」と元亮が言えば、左近が
「殿の想い人は、久だったのか」
と新十郎に問いかける。新十郎は、元亮に
「そうなのか。元亮」とはぐらかす。
行列は進む。引地村を通過して、羽石衣川橋に差し掛かった。
橋の袂に武者が数人待っている。南条兵庫頭元周の一行であった。
早瀬市之進が、元清の行列に
「元清様。お見送り致します」
元清が馬上で
「元周殿、馬上で失礼します。お見送り感謝します」
と言って挨拶する。
元周は、成長した元清を見て嬉しそうに微笑む。行列は千坂峠を越え、打吹城主山名氏豊の領地に入る。すでに城下には通達があり、山名の兵が街道を警護する。
天神川の浅瀬を渡り、打吹城下で行列は昼食を食した。松ヶ崎城から、岩倉城までは十里程(約30km)の距離。小鴨川の土手添いに岩倉城を目指し、さらに一時ほど進む。
行列は、川添いを山側へ回り真っ直ぐ進む。
坂本村を過ぎ、左手に小鴨神社が見えた。一行は、神社に参拝を済ませ街道を左にそれる。正面に岩倉山に聳え、岩倉城と城下町が見えた。城下町には、岩倉の民衆が出迎えていた。そこには、義父の小鴨元伴の姿も見える。
馬上の元清が
「これが岩倉城か、守るには難しい城ではないか」
「確かに。松ヶ崎城とは全く違いますな」
左近がため息交じりに言う。
側用人の元亮は
「殿、この城は火攻めをされては、守るには難しく籠城には不向きな城です。あまり手が加えられておりませぬ」
と冷静な分析をする。
「確かに、籠城できる城では無いな。もっと前面の川幅を広げ、外堀を充実せねば、全面からの敵の攻撃も防げぬ。足らない事ばかりじゃ」
主従の視方は一致していた。
養父元伴の案内で、大手門へ続く架け橋を渡り城内へ入った。
城内の大広間には、小鴨家の親戚衆と家臣が居並んでいた。元伴と元清は、畳で一段高くした上座に座り一堂に挨拶した。
「小鴨家のご一同、小鴨左衛門尉元清でござる」
親戚衆代表の、小鴨四朗次郎経春が
「元清どの、小鴨本家を宜しくお願い申す」
重臣の黒松将監が、家臣を紹介する。
次々の目通りで、一刻程は大広間で過ごす。
「今日はこれまでと致す、各々我が家へ帰るように。四朗次郎と、家老の将監と玄蕃は、我らと一緒に夕食を付き合え。元清、そこに控えるは、今日からその方の身の回りの世話をする、次女のお仲じゃ」
と元伴が告げる。
「本日より若君様をお世話します、仲で御座います。よろしくお願い申し上げます」
年のころは三十歳くらい。大柄な女であった。
親戚衆の、小鴨四朗次郎が
「仲は、岩倉一の力持ちじゃ。体は大きいが、細かなところに良く気が付く女じゃよ」
傍に控えていた、左近が元亮と新十郎を見て微笑む。一同が「笑う」
元伴とお仲も、一緒に笑った。
「若殿様、それでは着替えの部屋へご案内します」
元清主従は、着替えの部屋に随行した。
お仲が案内した、部屋を出ると元清が驚いた顔付きで
「左近驚いたの、大きな女じゃ。俺が子供に見える」
「殿は、まだ十三歳に成られたばかり」
「左近どの、それ以上は」と元亮が左近を制する。
岩倉城、入城の初日であった。
七、【元清初陣と尼子氏滅亡】
永禄六年(千五百六十三年)の九月、突然岩倉城に羽衣石の南条家より早馬が来た。
使者の口上は
「八月四日に毛利家当主の毛利隆元様が、和智誠春からの饗応の直後に安芸の佐々部で急死された(四十一歳)」(元就から家督相続した六年後のことであった)
口上は続く
「元就様から、尼子総攻めのため軍役が発せられました。伯耆衆の動員数は南条家が五百騎、小鴨家は三百騎、山名・小森・山田・河口の諸将が各百騎の総勢千三百騎。歩兵を合わせた総兵力は二千で、伯耆衆は南条宗元を総大将とする。他に、因幡衆の武田勢千二百騎が加わり、二千五百騎の総勢三千で月山富田城の尼子攻め出陣せよ」
との軍令です。
宗元からは
「各武将は、準備が整い次第、九月十日までに、毛利家猛将杉原盛重の守る西伯耆尾高城へ参陣せよ。元清様は、小鴨勢五百を連れ、九月五日までに打吹城下で南条の兵と合流するように。との仰せです」
今日が二日の夜で、出陣まで後三日しかない。
義父の元伴は、痛風の病で八月から寝込んでいた。
側近の左近が
「元清様。元就様は嫡子元隆様を無くされ、弔い合戦の形相です」
「ここは遅れを取っては、一大事。さっそく家中を集める必要があります」
「新十郎、総登城の鐘を鳴らせ」
と元清が、声をあげる。
十四歳に成ったばかりの、突然の初陣に元清は、奮起する。
酉の刻に総登城の鐘を鳴らし、半時もせず武具を持ち、鎧を付けた武者が参集した。
大広間にて評定が行われた。
事情は、筆頭家老の黒松将監より口上された後に、各自の役目は家老永原玄蕃より指示された。城に残る者、出陣するものに別れ役割を再確認する。兵糧、弾薬奉行も忙しい。
岩倉城の出陣は、九月四日の早朝と決定した。
元清を守る親衛隊は、昨年九月に元伴が召集しすでに元清に預けていた。
元伴は松ヶ崎城下から、弥助・五平・松五郎・佐助・お夏の五人を引取っていた。
(五平は、北村甚九郎。佐助は、横田彦四朗。弥助は、杉森善右衛門。松五郎は、戸倉彦五郎。と名付け家名を継がせた)他に岩倉家中から、成相嘉助・舟原弥三郎・北村又次郎・日野甚五郎・石川又三郎・高柴弥三郎・安部助太郎・尾崎三郎四朗そして、お夏の十三人を付けた。十二人は半年間、元亮が三徳山の修業に連れて行き剣術、槍、弓、鉄砲の指南をした。お夏は、元清の傍で新十郎から警護術を学んでいた。
ほとんどが、元清と同じ年頃の十五歳前後の若武者であった。この時、元清の親衛隊小鴨十二勇士が誕生した。元亮と新十郎は、指南役としてこれからこの十三人を訓練する。
左近は、全員の監督と相談役となった。
九月四日の早朝、大手門前に集まった騎馬武者三百騎、徒衆二百が隊列を組んで出立の合図を待つ。元清主従は、一時前より城内の不動堂にて座禅を組んでいた。
「殿、出陣が相整いました」と元亮が告げる。
女中の仲が、御堂の外で水杯を準備している。
十二勇士も、待ち構えている。
不動堂から出た元清主従は、水杯を飲み、杯を地面に叩き付け一斉に
「いざ出陣。殿の出陣」
大手門へ走る。大手門前は、兵士の家族でごった返す。
先頭は、黒松将監の騎馬と側用人の一団。槍組、弓組、鉄砲隊と続き、元清を騎馬武者が前後百騎で囲む。
元清の左右は、元亮と新十郎が脇を固め、後方は左近の騎乗した馬が続く。その側を十二勇士が徒で守る。総勢五百の兵は、一隊を成して進む。
沿道の民衆は、拍手喝采で初陣の元清を送る。途中元清主従は、家老の黒松と小鴨神社にて先勝祈願の参拝をする。
元清の兜持ちは、北村甚九郎(五平)
「甚九郎、兜を頼む」
「十文字前立ての、気に入りの兜じゃ。佐治元徳は、俺の好みを良く解っておるな・・」
元亮が
「兄が堺の小西様にお願いしたそうです。十文字は、如清様が描いた物を造らせたようです」
「そう言えばどこかで、見たような十字ですな、耶蘇教会の・・」
「如清殿がわざと金色にしたのよ、中々の前立よ。気に入った」
鎧一式は、佐治元徳が、堺で手に入れた物。
元亮と新十郎は、赤揃えの鎧で前立ては一文字。佐治衆の気概が溢れていた。
左近は、十二勇士と同じ黒揃えで前立ては一文字で鉄砲への備えを意識した、鋼鉄造りになっていた。鉄砲隊は、三十丁の三列歩行で進む。打吹城下へ入った。
一行を見た民衆は、装備と隊列に喝采する。
「小鴨武者」と歓声が上がる。
若々しい君主を一目観ようと沿道は大騒ぎ。四朗の姿が見えた。
四朗が、側に寄って来て
「兄上、お元気で何よりです。母上様からのお守り」と渡す。
傍に久の姿が見え
「四郎ありがとう」と言って久に目をやる。
「元清様、どうかご無事で」
「おお、久」
と左近がひやかす。傍の五平達、松崎衆が笑う。
元清は、照れ臭そうに
「四朗、久を頼むぞ」と声をかけ隊列を進めた。
打吹城の、大手門を潜り太鼓壇へ向かう。大勢の武将が着座していた。
正面には南条備後守宗元の姿が見える。傍に南条兵庫督元周が、着座していた。
ちらっと元周が、こちらを見た。
「元清殿こちらへ」
と声をかけ、手招きする。宗元の傍に着座すると、諸将が元清を見た。
叔父の小森方高の姿も見える。元清を見て安心したのか、嬉しそうに微笑んでいる。
こうして東伯耆衆の、軍議が始まった。約一時(約二時間)で軍議を終えた。
宗元と元清が、二人きりで話す時間は、無かった。
今日の軍議には、南条家嫡男元続の姿は無かった。
元清主従は、初めて打吹城に入城した。(宗元は六十四歳の初老を迎えていた)
打吹城は、以前は伯耆守護山名氏の居城であった。今も打吹山の頂に、三層の天守が聳え当時の隆盛を残している。城の規模は、因幡の国鳥取城に匹敵する。
天神川と小鴨川を天然の外堀として、城下町が城を囲む。
城主の山名小三郎氏豊は、南条宗元の支援を得て打吹城の城主となった。
山名氏の全盛期は、山名一族で、日本の六分の一の領地を統治していた。(六部一殿と揶揄されたほど)
応仁元年(千四百六十七年)の乱で、山名氏総帥の山名宗全と、管領細川勝元が対立しこれに全国の守護大名が加わり、十数年間に亘り京都で争った。
伯耆守護打吹城の山名家は、南条家の主筋であったがその後、山名一族の相続家督争いで兄弟親戚が骨肉の争いを演じ、但馬・丹波・因幡・伯耆の山名一族の統治は弱体化してしまった。(いつの世も、始まりは、兄弟が相争い、結果として一族が滅びる結末を迎える。栄枯盛衰「栄える者は、枯れて行き、盛んな者は衰えて行く」この世の常)
その後、東伯耆の実権は、南条家に移った。この頃には、打吹城城主の山名氏豊は、南条家の属将になっていた。
翌朝、打吹城に参集した東伯耆衆は、西伯耆の尾高城へ向け出立した。尾高城までは約二十里の距離。早朝出発した東伯耆衆の一隊は、戌の刻(午後七時頃)に尾高城へ入城した。昼夜の行軍で兵馬は疲れ、元清一行も各隊の陣幕で休息を取った。
尾高城は、西伯耆の要の城で、大永の五月崩れで流浪の身になっていた行松正盛が、城を奪い返した。南条宗元とは、苦しい時を共に戦った盟友でもあった。
九月十三日、毛利元就は、白鹿城の総攻撃を命じた。
元就は、六十七歳の老体に鞭打って、一万五千の兵と共に尼子晴久の妹婿、松田兵部少丞誠保が守る松江の白鹿城総攻撃を開始した。
これを救援するため尼子勢は、九月二十三日に月山富田城を尼子倫久(尼子当主義久の舎弟)が出陣した。元就は伯耆衆に、尼子の救援を牽制するため安来一帯の尼子勢力へ攻撃を命じた。白鹿城救援に出向いた、尼子倫久の軍を毛利両川の吉川元春、小早川隆景両軍が迎撃し壊滅させた。この勝敗で白鹿城の命運も尽きた。
十月十三日、小高丸が落ち、八十日に及ぶ籠城戦は、城将松田誠保の隠岐逃亡で幕を閉じた。伯耆衆は、月山富田城の牽制を終え、毛利吉川軍の本隊に合流し、富田城の攻城戦に備え、各所に砦を築き駐屯した。元清主従の戦らしい戦は、無かった。
東伯耆衆は、籠城戦に備える尼子方、月山富田城への兵糧搬入遮断を厳しく監視した。
永禄六年十一月十五日、弓ヶ浜を警備していた小鴨の物見が、夕闇に紛れた怪しい集団を見つけた。連絡を受けた元清主従は、隊を三隊に分けて出陣した。
松明の火は灯さず、暗がりに音を立てずに進んだ。
物見の案内で、怪しい集団を補足した。
「殿、今日が初陣ですまずは、私と新十郎他五名で暗闇に討って出ます。少数と思わせ、我らを囲ませた後に、全軍で囲み一網打尽にしましょう」
「元亮、大丈夫か。悟られるなよ」
「左近、各隊に命を下せ。合図をするまでは物陰に伏せておくように」
各隊は、敵を遠巻きに囲んで合図を待つ。
しばらくして、元亮と新十郎他五名が、兵糧を積み込む集団へ突撃した。
尼子の武将が
「慌てるな。敵は小勢、兵糧を全て積んで引き上げる。急げ」
尼子の兵が、元亮と新十郎を囲む。
刃を交える音が、激しくなる。五名は武器を捨て、戦いを止める。
「拙者は尼子家家臣、山中鹿之助幸盛でござる。どちらの家中か」
「我らは東伯耆久米郡領主、小鴨左衛門尉元清が家臣、加瀬木元亮・岡部新十郎と申す。少数で切込んだのが、不覚でござった」
立原源太兵衛久綱が
「山中殿、兵糧の積込みが終わった。早く此処を去ろう。この者たちは切ってしまおう」「まてまて、この失態で我らが手を下さなくても、命は無いよ。無益な殺生はやめよ。さあ、皆の者ここを去るぞ」
と言ったところに、小鴨の兵が遠巻きに五十名の尼子勢を囲んで一斉に鬨の声を上げた。元清の合図で、一斉に松明の火が上がる。
鹿之助が
「謀られた、おのれ元亮」と切りかかる寸前。
「待たれよ、小鴨元清でござる。尼子の兵よ、武器を捨てよ。兵糧を置いて行けば、命は助けよう」
と言って牽制する。
「見れば、小童一戦交えよ」
と言って、鹿之助が一気呵成に、元清目掛けて猛進して来た。
「すわ、一大事」
と元清の傍らで、左近が大刀で鹿之助が突く、槍の一撃を見事にかわした。
元清が、十文字槍で鹿之助に応戦する。
しかし、とても剛勇無双の鹿之助には適わない。「元清危し」で小鴨勢が駆けより、総攻撃を掛ける。お互いが大乱戦になり、尼子方の雑兵は次第に小鴨の兵に追われ声を荒げて逃げ回る。阿鼻叫喚の接近戦が、其処かしこで始まる。鹿之助は、十文字槍の使い手。
元清を一時、危い状況に追い込んだが、尼子勢は多勢に無勢。
「鹿之助、早く小舟へ乗れ」
退路を確保した久綱が、鹿之助に声をかけると、元清の刀を槍で叩き付け、海辺に向かって小走りに走り小舟に飛び乗った。
「小鴨殿は良い家臣を持っておるな。また一戦を、交えよう」
と言って久綱の乗る船で、沖に漕ぎ出し、鹿之助は死地を脱した。
無残に兵糧は打ち捨てられ、尼子勢のほとんどが打取られた。
これが、弓ヶ浜の戦いであった。元清は、鹿之助の槍の一撃を見事にかわしたが、攻めることは出来ず、防戦一辺倒であった。
「元亮、新十郎、大丈夫か。俺も武者震いが止まらん。山中鹿之助は、恐るべき勇者よ」
「殿、よくぞ鹿之助の一撃をかわされました。見ていて、一瞬ひやりとしました。立原久綱の刀使いもそうとうなものです。私の居合いを、一撃でかわされました」
敵を追掛けていた左近が、戻って来て
「殿、敵は殆んど討取りました。元亮の策で、味方の大勝利です。我が方の兵に死者はありません。今回の白兵戦は良い経験になりました。拙者も、人を殺めたのは初めてで震えが止まりません。小鴨十二勇士も善戦し、五平は逃亡する敵に弓で、散々に射かけておりました。ほとんど射ておりませんが」
緊張が取れたのか皆で笑った。
こうして元清主従の初陣は、大勝利で終わった。(元清と、山中鹿之助幸盛の深い縁がこの時からはじまる)
永禄七年は、尼子包囲網が完成し東伯耆衆は、美保関海岸から月山富田城への兵糧搬入の海路防衛に徹した。桜の咲く頃、元清主従は松ヶ崎城を訪れた。
元清は、側近だけで松ヶ崎城内に入った。
松ヶ崎城の大手門で早瀬左近が、門番の次郎衛門へ
「次郎衛門、久しいの。殿がお立ち寄りじゃ」
次郎衛門は、今年十五歳になる元清を見て
「元清様、御立派になられて。嬉しゅうございます」と感慨に耽る。
「次郎衛門、早く母上に元清が参ったと伝えよ」
次郎衛門は出丸屋敷に走っていく。
「五平その方達は、久しぶりに実家へ戻ってゆっくり致せ」
五平、佐助お夏、松五郎も一年ぶりの帰郷であった。
出丸屋敷に到着した元清を、四朗と行衛が迎えた。
「兄上様、御無事で何よりです。皆が心配しておりました。特に久は、毎日松ヶ崎神社で兄上の無事を祈っておりましたよ」
行衛の傍に、控えていた久が
「元清様、御無事で嬉しゅうございます」とほほ笑む。
「兄上、久も十歳になりました」
と言ってからかう。
「四朗、母上に挨拶する。久、一緒に参ろう」
と言って出丸屋敷の奥に向かった。
廊下を歩きながら、東郷池の景色を眺め
「今日は良い天気で、湖面は穏やか、遠くは大山まで見渡せる。何時みても良い景色よ」
「私も西の方ばかり見ておりました。お里様も、いつも大山の方ばかり見て、元清様の無事を念じておいででした。正月からお体の具合が悪く、臥せっておいでです」
元清が心配そうに
「母上は、どこか具合が悪いのか。医者は何と申しておる」
「お風邪とのことです」
久が、お里の部屋の障子を開ける。
「元清様がお越しになりました」
元清兄弟三人が、一緒に部屋に入る。
「母上、無事に初陣を務めてまいりました。お体の具合は如何ですか」
「無事で何よりです。正月から寒気がして、臥せっております。父上は、お元気ですか」「父上は、まだ美保関に居られます。尼子の兵が必死に各所で襲撃してきます。しかし尼子の勢いは、日に日に衰えています。もうすぐ戦は終わるでしょう」
母を想う元清の思いやりであった。
実際のところ戦は、終盤を迎え益々激しくなってきていた。元清主従は、松ヶ崎城に一泊して母へ孝行をした。
翌日早朝に、松ヶ崎を発ち岩倉城へ帰還した。
岩倉城に戻った元清主従は、兵を募りながら佐治元徳の来訪を待った。
五月の陽気に誘われ、元徳が、岩倉城を訪ねて来た。
舎弟の元亮と新十郎に伴われ、岩倉城の客間に案内された。元徳にとっては初めての岩倉城訪問で、久しぶりに城主となった元清を見て
「元清様、城主としての貫録が感じられます。うれしく思います」
「元徳、お世辞は良い。さっそくだが、上方の状況はどうか。元亮、左近を呼んで参れ。新十郎は誰も近づけ無いよう、外を見張ってくれ」
と言って近辺を固める。
左近が、慌てて部屋に入ってきた。
「これは、元徳どの」
と挨拶をすませ、元清の傍に座る。
部屋には元清と左近、元亮と元徳の四人のみ。元徳が語る。
「元就公は、来年早々に月山富田城を囲みます。月山富田城への情報網遮断を、草の者に指示されました。元就公は、六十八歳の高齢で焦っておられます。尼子は、風前の灯状態です。この戦では尼子勢の反撃で、兵を失わないよう遠巻きに囲むことが肝要です」
「尼子が滅んだ後の、東伯耆を考える必要があります。今京都は、三好義継と松永久秀が
傀儡将軍足利義輝様を操っております。しかし義輝様は、三好と松永を快く思っておらず
一触即発の状態です。尾張の織田信長は、美濃攻略を進めておりますが、容易ではありません。中央の覇者はまだ表れていません。ここ数年は毛利で力を温存するのが得策です」
元清が思案顔で
「いずれ中央の覇者と、毛利が争う。我らは難しい立場に立たされる。佐治衆が我らの要となる。引き続き情報探索を頼む」
「ところで、南条元周様より、内々の話をお伝えるようにとの事。四月に元周様が、松ヶ崎城へ出向いた折に、久を城内で見たそうです。久は室津の旅籠で、女将をしている誠の娘とのことです」
元徳の話は、続く。
「お誠は、尼子新宮党当主尼子国久の嫡男、尼子誠久の側室でした。天文二十三年(千五百五十五年)十一月一日、尼子当主晴久が叔父の国久率いる、新宮党を誅殺した。その折に国久の三男敬久は、急変を察知し、新宮館に籠り晴久の兵三千と戦い自害した。この戦いの最中に、誠久の子供(後の尼子勝久)を抱えた誠久の側室由の方(後の誠)は、山中久幸の屋敷に逃れ、匿われた後に東伯耆に逃れました。東伯耆の羽石衣城は、大永の五月崩れ以後、約二十年間は尼子国久の居城でした。
松ヶ崎城は、三男の尼子敬久が治め、河口城は誠久の居城であった。久様の育ての親で平助の妻は、河口城で由の方様の世話をしていたそうです。
元周様は、幼い頃に賊に絡まれ危うい所を領内視察中の尼子誠久主従に、助けられたとの事です。誠久様は、助けた相手が南条元周様とは知らなかったのです。この時のご恩があり元周様は、落ち延びた由の方様をお守りし、生まれたばかりの久様を、平助夫婦に預けたとの事です。尼子からも追われ、毛利からも追われ久様は不運な身の上です。
久様は誠久様の忘れ形見なのです。元清様には、真実を伝えするようにとのご指示でした。お里様には、元周様から子細をご説明されたそうです」
左近と元亮も、聴いて驚く。
「そうか、そう言えば以前養父の平助が言っていたな。久の産着に、新宮の燕と刺繍されていた意味が解った。やはり久は、尼子の姫か。尼子本家と、毛利の両方から追われる身とは」
元清の今の立場は難しく、この事は公には出来ないと思った。
「この話は四人の秘密にしておこう。毛利方にこの話が漏れると、久の命は無いだろう」元清の言葉に傍の左近、元徳、元亮は頷き、元清の久に対する想いを知った。
永禄八年(千五百六十五年)四月、元清主従の姿は、雲州の月山富田山城にあった。
月山富田城を守る尼子勢の総攻撃のため、南条宗元と共に菅谷口に着陣していた。
富田城総攻撃の毛利勢は、総数三万騎。守る尼子勢は、衰えたとは言え一万騎。
飯梨川を挟んで両軍はにらみ合った。富田城の菅谷口は、伯耆衆五千騎で対陣。
御子守口は、毛利本隊の一万五千騎で睨み合う。
塩谷口は、吉川勢五千五百騎で固めた。
守る尼子勢の指揮は高く、菅谷口は、尼子秀久を大将に三千騎の二段で構え。
毛利本隊の布陣した、御子守口は総大将尼子義久の五千二百騎が、三段に構える。
塩谷口は、尼子倫久を大将に三千七百騎が二段に構え迎撃態勢を整える。
双方が睨み合い、様子を伺う。
後にも先にも、山陰の地でこれほどの兵が集まった戦いは無い。元清主従も、これほどの大戦を経験したことが無い。身勝手な戦を挑むと、一角が崩れ、総崩れの原因となる。
不思議な緊張感で全身が金縛りなったようで、何とも言えない緊張感が全身の体の動きを硬直させる。
「左近、兵の統率をしっかり監視せよ一兵たりとも身勝手な、先駆けをしないように」
両軍合わせて五万騎。敵方が、仕掛けて来るのを緊張感を持って待っている。
「先に、仕掛けた方が負ける」お互いの将は、状況を理解していた。
この戦は、兵を統率が出来ているかどうかが試された。
愚かな将は、怖さに耐えきれなくなり、武勇を誇示するため先陣争いを挑む。
両軍合わせ、五万騎が対陣している戦場の異様なまでの静けさが恐怖をそそる。
愚かな武将が、武勇を誇り打って出て来る好機を、今か今かと待っている。嵐の前の静けさが、対陣している武将にさらなる恐怖感与える。
元就も老練な武将、安易に総攻めを仕掛けない。尼子義久・秀久・倫久の三兄弟も、毛
利の誘いに乗らず、堅く城に籠り冬を待つ覚悟をちらつかす。大きな戦も無く、膠着状態は九月にまで及ぶ。その間毛利方は、月山周辺の出城攻めで兵の指揮を維持する。
秋も深まり、しびれを切らした毛利の将、益田藤兼の家人品川三郎右衛門が、毛利の指揮を鼓舞するため、飯梨川の中州に出でて、一騎討ちの声を上げた。
「尼子の亀武者、勇気のあるものは我と一騎討ちの勝負をしよう」
と馬に跨り、大声で尼子方の守る陣へ叫ぶ。中州は両軍から良く見える場所。
「殿、これは益田様が仕掛けたか。品川とやらは、薙刀を持っておるようです。体も大きく馬に跨る狼のようです」
「両軍合わせて五万の兵が、観ている飯梨川の中州で一騎打ちを仕掛ける度胸は、相当の自信がある強者よ。尼子には相手をする武者がいるかどうか。勢いは毛利にあるな」
傍で聴いていた元亮が
「殿、弓ヶ浜の合戦折に尼子の武者で十文字槍の山中鹿之助幸盛と、居合の達人立原久綱の両名をお忘れですか。どちらかの武将が、出でて参るかと思われます」
元清が、思い出したように
「おお、そうだったな。山中の剛毅は品川をあのままにしないだろうよ、これは見もの」と言った矢先に塩谷口の方から、十文字槍を抱えた武者が一騎騎馬に跨り駆けてきた。
水飛沫を上げながら、中州に駆けより
「我こそは、尼子家家老山中鹿之助幸盛と申す。品川三郎右衛門殿の勇気に感じ入った。我と一戦交えよう」
と言って、馬を寄せた。
双方が馬に跨り、一礼してからまずは品川三郎が一手攻める。薙刀を川面すれすれに構え、馬で駆け振り上げざまに大上段から鹿之助目掛けて振り下ろす。
鹿之助は、十文字槍で品川の薙刀を受止めて大きくかわした。馬は嘶き、激しい金属音があたりに響く。数回交わったが、騎馬での勝負では決着せず、お互いが下馬して中州を舞台に決闘を繰り広げる。一撃一撃に、敵味方の歓声が上がる。
五万の兵の視点が、一点に集中し中州での双方の一騎打は、容易に決着がつかない。
夕暮れが近づき、両軍から歓声があがる。
「善く戦った。明日にせよ。明日にせよ」
毛利の陣から、引き揚げの陣太鼓が鳴る。尼子の陣からは、酒樽が中州に運ばれる。
両雄は戦いを明日に誓い、中州で一献杯を交えて別れる。
「今日の二人の戦いは、狼と鹿が戦うようであった。品川は、狼のように力押しに攻め、それを山中が、技でかわす。明日は、どちらが勝利するか。両軍の総大将は、心穏やかならずや」
「山中殿は今日の戦いで、品川殿の癖を学びました。明日は、一瞬で勝負を決するでしょう」
「元亮それは、山中殿が勝つという事か」
「すでに勝敗は、見えております。山中殿は今日の一騎打ちで、如何にして勝てば味方の指揮が上がるかを考えて戦いました。今日は、わざと戦いを長引かせておる様子でした。
品川殿も、それとなく気づいておられたはずです。山中殿は思慮深い戦いをします。明日は、山中殿が一瞬で勝敗を決しましょう」
元清は、冷静な分析をする元亮に感心しながら
「太陽を背にした方が勝つな。一騎打ちは、力押しでは勝てぬ」
と感慨深げに小声でつぶやく。
「殿は、くれぐれも一騎討ちなどなさらぬ様に。その折は、私か新十郎が戦います」
元亮の言葉に、今年十七歳になる、元清には心強く想えた。
この夜、元清主従は東伯耆衆二千の兵に守られ就寝についた。
伯耆衆の総大将は、吉川家猛将の杉原播磨守盛重。盛重の素行は、極めて粗暴で、吉川家内でも剛勇の武将として知らないものは無い。
部下にも山賊出身の荒くれ者を多く召し抱え、陣内で酒が入ると喧嘩が絶えない。近隣の村々より、食糧と女の略奪をする。吉川元春が再々注意しても改まらず、毛利元就公からは嫌われ直接の面会も最近は許されていない。
この夜も、伯耆衆の陣では杉原の家臣たちが、酒を飲んで荒くれていた。多くの将兵が大声で眠れず迷惑していた。
元清も眠れず、如何したものかと悩んでいた。時間が経つに連れてさらに騒々しくなって来た。
「元亮、如何したものか。こう騒々しいと皆が眠れぬ」
「殿、杉原様の家臣なので、皆が注意出来ません。それを良いことに奴らは、勝手気ままです。私もそろそろ我慢の限界です」
と言って、新十郎と一緒に杉原の家臣の陣幕に駆け込んで行った。
「その方等、何時まで騒ぐつもりか。騒がしくて、はなはだ迷惑でござる」
と言うが早いか、元亮と新十郎の居合い刀が光る。手に持っていた杯が、真二つに割れ一瞬にして場が静まる。杉原の荒くれ者共は、恐れ慄き固まる。
「味方同士で争うのは本意にあらず。お互いの明日の敵に備え、今日は静かに休みましょう」と言ってその場を去る。
呆気にとられた杉原の家臣は、皆が震え、大人しくその場を立ち去った。
この一件で「小鴨家の家臣に居合いの使い手、元亮と新十郎あり」と噂されるようになった。夜が明け、品川と山中の一騎打ちの朝を迎えた。
己の刻(午前十時頃)両陣の陣太鼓が激しく鳴り響き、品川と山中の両名が、飯無川の中州へ騎馬に跨り登場した。両軍より歓声が上がる。
山中鹿之助幸盛は、鹿の角の前立て兜に十文字槍を片手に持ち、栗毛の馬に跨る。
品川大善太夫三郎衛門は、騅の馬に跨り、牛の角の脇立ての兜を被り薙刀を手に進む。
お互いの馬を三間に寄せて、互いに一言二言声をかけ、睨み合いが暫らく続く。
二人は、申し合わせたように、馬を下りて戦いを始める。
川辺の水飛沫を上げながら、小走りに走り一手、二手と刃を交える。攻めは品川、山中の防戦が目立つ。戦いの勢いは、品川にあると思えた。毛利方の陣営が勢いを増す。
陣鐘が鳴り「狼之助」大声援が、こだまする。
あれよと、水際で鹿之助が、三郎衛門に組み伏せられた。
皆が、品川天晴と思ったその瞬間、品川の体が「ガクッ」と崩れる。
「おお」と両軍から歓声が上がる。鹿之助の脇差が、品川の背中を突き抜けていた。
品川の体は、一刺しで仕留められた。
鹿之助の「品川大善太夫三郎衛門を討ち取った」の声が、大音声で聞こえる。
一旦は負けを覚悟した、尼子陣営は勝どきの声をあげ大騒ぎ。鹿之助は、品川の首を十文字槍の先端に刺し、栗毛の馬に跨り尼子の陣に帰ろうとする。
帰してはならずと、品川の首を、奪い返すために益田藤兼の騎馬兵が、一気に中州の鹿之助に駆け寄って行く。鹿之助「あやうし」と見た尼子倫久が一騎で中州に討って出る。
艶やかな若武者。赤色脅しの甲冑に、鍬形の前立て。
「我こそは、先の城主尼子晴久が三男、尼子九郎倫久。ここが勝負どころ、皆の者鹿之助を救え」
と大音声で攻め掛ける。これには益田の兵も驚き、逃げ回る。
益田藤兼も語気を荒げて
「三郎衛門の墓前に、倫久の首を取って参れ」
と総攻めをしかける。膠着状態は一気に崩れ、中州は双方の兵で乱戦模様となる。
両軍混戦模様の中で、益田藤兼が落馬し、益田藤兼も危うい状況。
救援のため吉川、小早川の主力軍が、総攻めで動き出す構え。
傍観していた、西伯耆衆の杉原盛重の二千の兵も動き出す寸前で、毛利元就の本陣より撤退の陣太鼓が鳴る。東伯耆衆の、元清主従もいざ出陣の寸前で行軍を思い留まる。
毛利方の完敗であった。
「あのまま全軍で戦っていれば、毛利軍は総崩れとなり、芸州まで敗走する一大事となっていた」
後日、品川大善太夫の首は、尼子方より丁重に送り返されてきた。
戦の勢いは、恐ろしい。毛利方は、この戦いで力攻めを諦め、城を囲み、和睦工作をしかけた。このため大きな戦は無く、永禄八年は暮れた。
元清には、山中鹿之助幸盛の雄姿が、目に焼き付いた。初陣の十五歳から、約二年間の尼子攻めも終盤を迎えていた。
元清主従は、尼子攻めの陣中で、尼子新宮党の屋敷跡を訪れた。尼子新宮党の戦った屋敷跡には、誰の者か判らない五輪の塔があった。
いつの日か、久と一緒に尼子誠久の供養をしたいと想い、新宮党館跡を後にした。
その数日後に岩倉城への帰路についた。
中央の覇権抗争に巻き込まれる東伯耆の小領主。羽衣石城主南条元続と岩倉城主小鴨元清兄弟は、福山次左座衛門玆正の無念の死を想い、毛利への敵対を決心する。
強大な毛利への叛旗で東伯耆は、数年に及ぶ戦乱に覆われる。大きな時代のうねりが、穏やかな東伯耆の里を混乱の渦に巻き込む。そんな中で親子、兄弟、夫婦愛の絆が求められ強く結ばれて行く。