「羽衣の里」~戦国武将南条元清の生涯~
戦国乱世において、東伯耆の国(現在の鳥取県中部湯梨浜町)の河村郡松ヶ崎城にて生を受け、久米郡岩倉城主として兄南条伯耆守元続を支え、毛利と織田の勢力抗争の中でも領国を守り抜き、六十四年の生涯を善く生きた。
秀吉の朝鮮出兵では、南条勢千五百の兵と共に朝鮮に渡海し、加藤清正の危機を救った。
関ヶ原の戦いでは、攻め寄せる肥後熊本の加藤清正の軍勢から、小西家宇土城を守り抜く。
その後は、旧友加藤清正に乞われ、加藤家の客将として知行六千石で迎えられた。
二人の間には、「徳川政権から、豊臣秀頼を守る」密約で固く結ばれていた。
清正の遺言で、秀頼の守護を託された南条元清は、出家し名を南条元宅と改め、開戦まじかの大坂城に出向くため上京するが、道中でにわかに発病し、京都で療養の甲斐なく生涯を終えた。
困難な時代背景の中で、元清の生涯を通じて郷土愛、兄弟・家族愛を全うした生き方には、今でも学ぶべき事が多い。戦国時代の狂乱の中でも、私利私欲に溺れる事も無く、自身を抑制し、時代に翻弄されることも無く、晩年を汚す事もなかった。東伯耆三郡の領主として統治した期間は短かったが、羽衣の里(湯梨浜町東郷湖周辺)の情景を想うたび、故郷に帰還できなかった寂しさを心に秘めたまま、京都で生涯を終えた事を想うと心が痛む。戦国乱世を生抜いた、東伯耆武将南条元清の生涯を通じて、その生き方に現代でも学ぶ事は多い。そこには、郷里を守ろうと必死に生きた多くの武将の姿があった。
秀吉の朝鮮出兵では、南条勢千五百の兵と共に朝鮮に渡海し、加藤清正の危機を救った。
関ヶ原の戦いでは、攻め寄せる肥後熊本の加藤清正の軍勢から、小西家宇土城を守り抜く。
その後は、旧友加藤清正に乞われ、加藤家の客将として知行六千石で迎えられた。
二人の間には、「徳川政権から、豊臣秀頼を守る」密約で固く結ばれていた。
清正の遺言で、秀頼の守護を託された南条元清は、出家し名を南条元宅と改め、開戦まじかの大坂城に出向くため上京するが、道中でにわかに発病し、京都で療養の甲斐なく生涯を終えた。
困難な時代背景の中で、元清の生涯を通じて郷土愛、兄弟・家族愛を全うした生き方には、今でも学ぶべき事が多い。戦国時代の狂乱の中でも、私利私欲に溺れる事も無く、自身を抑制し、時代に翻弄されることも無く、晩年を汚す事もなかった。東伯耆三郡の領主として統治した期間は短かったが、羽衣の里(湯梨浜町東郷湖周辺)の情景を想うたび、故郷に帰還できなかった寂しさを心に秘めたまま、京都で生涯を終えた事を想うと心が痛む。戦国乱世を生抜いた、東伯耆武将南条元清の生涯を通じて、その生き方に現代でも学ぶ事は多い。そこには、郷里を守ろうと必死に生きた多くの武将の姿があった。
戦国時代の後期、東伯耆の国河村郡(現在の鳥取県湯梨浜町)松ヶ崎城で生まれ、九代城主南条伯耆守元続を異母弟として支えた。南条左衛門尉元清の生涯。
2014/07/18 13:16
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雲州月山富田城で中国八か国を治めた尼子一族は毛利元就の軍門に降る。平和な時間は長くは続かず、山中鹿之助幸盛は尼子新宮党の遺児を担いで蜂起する。混迷が深まる伯耆の国で南条家は生き残りの戦術を練る。
2014/07/18 11:47
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毛利への敵対を決めた元清主従が、播磨三木城の羽柴本陣を訪ねる。竹中半兵衛は元清が幼い頃に出会った活気ある面影はなく、顔色は優れなかった。軍師半兵衛の健康に不安を感じる元清主従であった。
2014/09/19 20:10
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播磨から久米郡岩倉城に帰った元清の元に、母里の訃報が届く。毛利への叛旗を決めた元清は、吉川元長に南条家の行く末を相談する。二人の想いは同じであった。毛利家中で羽柴秀吉への和合派が勢力を増していた。
2014/10/04 15:26
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吉川元長と安国寺恵瓊・佐治元徳は小早川隆景の居城沼田郡新高山城に出向いた。隆景は誰が天下の主に成れば、毛利家が安泰かを聴いた。三人の見解は「羽柴秀吉」で一致した。水面下で羽柴秀吉と隆景の連携が進む。
2014/10/13 05:08
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天正六年も師走を迎え、岩倉城下には戦乱に備えた動きがあった。天正七年(千五百七十九年)は東伯耆で毛利と南条の騒乱が始まる。
2014/11/07 14:30
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【羽衣の里】前篇完結のあらすじ
2015/01/20 12:35
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【羽衣の里後編】天正七年から東伯耆(鳥取県中部地方)の東郷湖畔を舞台にした攻防が始まる。吉川勢との死闘は、三年に及び東伯耆三郡は荒れはてた。
2015/05/20 16:24
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天正七年からの東伯耆三郡騒乱
2016/04/01 09:57
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竹中半兵衛の書簡に「三年は固く城を守り、羽柴軍の到着を待って一大決戦を行う」と指示されていた。
2016/04/07 17:36
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天正七年(千五百七十九年)五月、杉原・山田勢の夜襲を撃退した南条勢の勢いは暴走していった。
2017/03/10 18:04
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馬の山に着陣した吉川摂津守元春は、総勢一万三千の兵で羽衣石城の攻城戦を仕掛ける。
2017/03/16 09:53
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羽衣の里(鳥取県中部東郷湖畔)で南条勢と吉川勢が、東郷湖を挟んで激闘を展開する。
2017/04/20 15:00
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日下山城(清谷城)の激戦で城主船越摂津守重敬は、城を討って出る。杉原・山田勢と死闘を演じた重敬は、戦いで負傷し絶命した。
2018/05/23 10:35
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天正八年(千五百八十年)播磨・但馬を平定した羽柴勢は、因幡・伯耆侵攻に向け兵を進める。
2018/06/01 06:29
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毛利との一大決戦を覚悟した南条兄弟は、長和田ヶ原に主力を結集し雌雄を賭けた戦いを展開する。毛利勢八千との死闘が東郷湖畔で始まる!
2018/07/04 17:07
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天正九年、久松山城の攻防は、城代吉川式部少輔経家の切腹にて幕を閉じた。経家の説得に出向いた元清主従であったが、経家の律儀な姿に深く感動した。元清主従は、経家との今生の別れを惜しみ城を後にした。
2018/07/17 09:48
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東伯耆の戦いも終盤を迎えるが、天正十年(千五百八十二年)戦国武将の運命を変える大事件「本能寺の変」が勃発する。元清主従は事変発生に驚き、急遽備中高松城より帰国するが岩倉城は風前の灯であった。
2020/07/22 08:07
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南条宗元から元清までの生涯年表と時事および関係者表
2023/03/08 18:26
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