結婚式
女の甲高い悲鳴が聞こえた。
見ると男三人が女を森に連れ込もうとしているようだ。
ほんの一瞬、男の一人と目が合ったが、アレスは眉をひそめただけだった。
男はこちらが止めに入る気がないとわかると、にやりと笑った。
「助けて」という必死の叫び声が、アレスの耳を打つ。
このまま悲鳴が聞こえ続けるのは気分のいいものではない。
女を助けるか、そのまま放置して悲鳴を聞き続けるか、どっちが不快か考える。
助けに行った人間が、男たちに大怪我を負わされるなんて話を聞いたことがある。
襲われてる女が男たちとグルって可能性だってある。
視界の端に服の襟を掴まれた女の、白い肌が飛び込んだ。
「雷神」
アレスの言葉と共に蛇が三匹現れる。ただの蛇ではなく雷の蛇だ。
蛇の一匹が、男の一人、今まさに女の服に手をかけていた奴の急所に噛み付く。
噛まれた男は、一度、体をそらしてびくりと震えた後、白目を剥いて倒れた。
男が蛇に噛まれたのを目の当たりにしていた二人の暴漢はそれと同じような蛇が自分たちの方に突進して来るのを見て、倒れている男を置いて逃げ出した。
蛇二匹は逃げ出した男二人を地の果てまで追うだろう。
「服はそいつのを剥げばいい」
アレスは、ぎりぎり女に声が届く距離からそう言うと女から背を向けた。
あいにく、アレスには自分の上着を女の肩にかけてやるような気遣いは無い。
助け起こすどころか、同じ空気を吸っているのも嫌だ。
「やっぱり、村を一歩出ると治安が悪いって本当か」
なるべく別のことを考えるようにしていたら--
後ろから抱きつかれた。 女に。
全身にぞわっと怖気が走って、思わず突き飛ばして「雷神」と唱えてしまった。
※
何とか蘇生させた女性を、苦労して背中に乗せ、医者の所まで運ぶ。
歩くたびに女性の長い髪が頬にかかってうっとうしかったが、ちらちら視界に入るオレンジ色の髪だけはやけに目に焼きついた。
―― 二十年前 ベイル村にて
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「いやーこっぴどく叱られた」
「まあ、墓穴を掘られなかっただけましと思ったら?」
「思い出させるなよ。熱が出たらどうする」
つんとした婚約者のスズの言葉にイリアは顔をしかめる。
昔、イリアが兄のレイと一緒に薬草園にいたずらしたとき、父親に無言で木に括られた上、目の前で子どもが二人すっぽり埋まる穴を黙々と掘る様を見せられ、泣き喚きすぎて熱を出してしまった事があった。
五つぐらいだったが、あの時の恐怖はイリアのしっかり刻み込まれている。
今回の計画の立案をしたのはスズであるが、悪乗りしたのはイリアだ。
さすがに、穴を掘られることは無かったが、その巻き添えで、スズも小一時間ほど伯爵夫妻からお小言を喰らってしまった。
厳かなオルガンの音が響き、隣のイリーナが人差し指を立て「しっ」と注意する。二人は口をつぐみ今日の主役達を見た。
◇
豪奢とは言いがたい結婚式だが、蔦が絡まり薔薇の房が雨のように降る門に荘厳な雰囲気のお社には、風が吹き抜ける度に、甘い香りが届き、甘ったるく感じる前に過ぎ去っていく。
レイの服装はレペンス王国の正式な礼装。
ライラの衣装は、昨日入城した時と同じもので、薄紅色の薄布を何枚も重ねた、まさしく花のような衣装だった。動くたびに耳元でしゃらしゃら音が鳴る。
衣装に慣れていないライラはその音をわずらわしく思いながら、決められた手順で式を進める。
一応、神の前で誓いを立てはしたが、口付けはふりだけ。
花婿の顔が近づいてきて、思わず目をきつく目をつぶってしまったのもあるだろう。
後は、ウエストレペンス城の背後に広がるご神体に拝礼すると婚姻の儀は終了だ。
前夜のトランプ大会のほうがよほど印象に残っている。
市民の前に花嫁を見せない予定だったが、正式に結婚が成立した時に改めて式を挙げて市民に報告すると言っても、大盛り上がりの市民にはそんな言葉は通じない。
「ちょっと手を振ってくれるだけでいいから」
レイのその言葉に、ライラは人形のように手を振る。ピグマリオンの彫像だってもう少し愛想がいいだろう。
この国では珍しい黒い髪と紫の瞳を晒すのは抵抗があった。
市民達の笑顔と歓声はまぶしく、また恐ろしくもあった。
その、言葉の渦の中に「偽物」という言葉が混じっているような気がして。
やがて歓声の中にキスコールが湧き上がる。
その声は大きくなっていくばかりで、レイがさすがに困って、視線をこちらに向ける。
(こっちを見られてもっ)
背後にいた伯爵が、前に出た。
「多少騒ぐのはいいが、酒呑みすぎて暴動起こした奴は罰金と三年間の禁酒を命じるからな。酔っ払って病院に担がれた奴も三年は酒抜きだ」
ウエストレペンス伯は、良く通る声でそれだけ告げると自分の仕事は終わったとばかりに、さっさと身を翻して奥に引き上げた。
「ったく、早く寝る予定だったのに」
伯爵の去り際のつぶやきは、これっぽっちも喜んでいる風ではなかった。
この数週間後から、ウエストレペンス領では、お酒に紅茶を数滴入れたブランデーティが大流行することになるのだが、それはまた別の話である。
◇
「それは……」
簡単な宴が終わって、花嫁と花婿は一旦それぞれの私室に引き上げた。
侍女から渡されたのは寝巻きだ。なんとなく生地が透けて見える。
「せっかくのチャンスです。決して、ナイラ様に伯爵夫人の地位を渡してはなりません。あちらは好き勝手しているのですから」
「昨夜は怒っていたのではなかったの? それに人目が無くても、言葉には注意して。私がナイラよ」
少し、言葉遣いをナイラのようにするが、とても真似ができている気がしない。
監視役として送り込まれたナイラの侍女は、こちらに来るまで接点はほとんど無かったのだが、ライラの境遇に割と同情的だ。
「昨夜は昨夜です。このままでは、あの広いお屋敷の隅で一生を終えるか、あの方のお相手に嫁ぐかですよ。あの方がお付き合いしている方はあまり評判が良くありませんし」
「どれも……どこも籠よ」
レイから誘いがあるとは思えない。
昨夜のレイは本気で困っていたようだった。今日の結婚式も。
あんな柔い心の持ち主が姉と結婚しようものなら――姉は、アレス・ラハードの退位くらいまでは大人しく猫を被っているだろうが、その後は湧き出る財を端から食いつぶすだろう。
(私が心配できる立場じゃないけれど)
自分は姉の共犯者。いや、共犯者役に選ばれただけだ。
役を離れれば、伯爵家の人間との関わりはなくなる。
大体、姉の身代わりなんて最初から無理があったのだ。
役を離れる前にばれてしまったら、吊るされるのは、姉ではなく自分。
なぜ、こんなにも怯えなければならない。
面倒な役を押し付けられた苛立ちと怒りが今になって、徐々にあふれ出し始めていた。
騙しているのは、嘘を吐いているのは……私では――
こんこん
と、寝室に続く扉から遠慮がちに音が聞こえた。
◇
モザイクランプの明かりが天井に花模様を浮かび上がらせる。
「ああ、疲れた~」
レイは大の字になってベッドに寝転んだ。
ライラは『疲れているならわざわざ呼ばなくていいのに』などと思ってしまった。
「よく条件を呑んでくれましたね」
「二ヶ月後までに正式な届けは待てって? 商人なら“品物”を吟味する時間が欲しいのは当然だろ? 僕のほうも二ヶ月は弟たちに結婚をせっつかれる心配もないし、まだ君に伝えていない秘密が山のようにあるしね」
「秘密、ですか?」
二ヶ月間は次期伯爵に他の女性を寄せ付けずに済むのは、タルジェ家にとって有利なことだ。
二ヶ月の間に入れ替わってしまえば、道義的には問題があるにしても、法的には文書偽造の罪をわざわざ犯さなくても済む。
だが、ラハード家にはなんの得があるのだろう。
確かに、バルコニーでは伯爵の発言で助かったが、ウエストレペンス伯爵は息子の結婚を喜ぶフリさえしなかった。
薔薇と薬草の販売に力を入れているらしいから、販路拡大を狙っているのだろうか?
「僕も相手を知る時間が欲しい」
下から視線を上げて行き、ちょうど服の合わせ目当たりにライラは息を止める。慌てた風で目を逸らされる。
「ごめん。少し珍しくて」
侍女から渡された寝巻きは南方風で上下に分かれており、微妙に透けた生地の隙間からはちらちらとおへそが見え隠れしている。
ライラの父は確かに南方の国の出身だが、ライラは生まれも育ちもレペンス王国なので、南方風の服装を着慣れていないし、このような肌が透けて見えるような服は恥ずかしい。
ライラが彼に近寄れずに突っ立っているとレイに、
「そちらをどうぞ」とテーブルを勧められる。
テーブルの上にはチョコレートが入った小さなガラスの菓子入れ、その傍に水差しとゴブレット、砂時計。薔薇が生けられた花瓶。
喉の渇きを思い出したので、ゴブレットに水を注ぎ飲む。
かすかに鼻をくすぐる香りは、品があるが薔薇の香りではない。
さっきは気づかなかった。本当にかすかで、でも知っている香りだ。
無意識のうちに部屋を見回していたら、レイが笑った。
「その薔薇の香りだよ。本当は朝の方がはっきり分かるんだけど」
「えっ? でも……」
ライラは驚いて白の薔薇を見つめる。
「その薔薇の香りであるのは間違いない。けれど良く知っている『薔薇』の香りじゃない。
試作品でなかなかはっきり香りが出ないんだ。暇な時にでも当ててみたらいいよ」
本当に頭の奥で引っかかって、あと少しの所で言葉が出てこない。
さすがに男性の前で、鼻に顔を近づけるわけにもいかない。
薔薇の香りよりかやわらく心が落ち着く香り。最近も嗅いだことのある香り。
ライラはまだ、未練がましく、記憶の糸をたどろうと試みるが、やはり繋がらない。
かといって、答えを聞いてしまったら、せっかくの楽しみが消えてしまう。
ライラのもどかしい気持ちとは関係なく、レイは話題を変える。
「正式な婚儀は弟達のに合わせるってことでいいんだね? 感動したって言っていたから、式は秋になるかもしれないけれど」
花嫁の役をしただけのライラはたいして感動もしなかったのだが、彼はライラの反応が薄いのは、花の知識が少ないからだと勘違いしたようで、丁寧に説明してくれた。
「ここ、王都よりか標高高くて薔薇もあんまり夏ばてしないんだけれど、やっぱり花数が減るから……」
説明にも反応の薄い花嫁にどう話しかければ良いのか考えているようだった。
少し間を置いて、ライラは頷く。
「嫌ではありません」
その頃には、姉の恋の行方もすっかり決まっているはずだ。
「そう」
彼は呟いて身を起こす。
「二ヶ月間、君はこの城で自由に過ごしてくれて構わない。けれど毎日、五分だけは時間を割いて話をしよう」
「五分?」
「難しいことは考えなくていいから、その日あったことや、思い出話や……」
「あの……なぜ五分なんですか」
「じゃあ、今日の残りの時間はその話にしようか」
レイはベッドから抜け出し、向かいの席に座った。
「もったいぶるほど大した話でもないんだけど、美談風に加工すると父さんが暴漢から母さんを助けて、母さんが毎日毎日飽きもせずに、謝罪を求めに父さんところに押しかけたってだけの話――」
(あの人間性に問題ある伯爵が、そんな小説のヒーローよろしく人助けをして、ロマンスに発展させて……って、まさかの恋愛結婚だったの!?)
思わず身を乗り出してしまったライラに彼は目をしばたたかせ、わずかに目を逸らした。
美談風に加工……まず、そこが引っかかる。大体『お礼を言いに』だったら分かるが、なぜ『謝罪を求めに』なのだろうか。
「父さんが女性の悲鳴がうざかったからって助けたまでは良かったんだけど……ちょっと怪我させてしまって……」
伯爵が正義の心を持って助けたわけではないことは十分伝わってくる。
が、伯爵は線が細く顔色もどちらかといえば青白い。多少不健康そうな印象で、とても荒事が得意なようには見えない。
そこで、レイは棚の置時計に目を向けた。
「……5分には少し早いけれど」
彼はチョコレートを一口つまみ立ち上がる。
「昨日も言ったけれど、夜は結構涼しくなることがあるから、腹冷やさないように」
それだけ言うと、彼は自分の部屋に引き上げて行った。
花嫁に真面目に向き合い、良好な関係を築こうとしている。
滑稽だ。自分にも姉にも彼に何も返す気は無いのに。
ライラは独り薔薇の花を花瓶から一本引き抜き、顔に寄せる。
愚かで滑稽な舞台の幕は始まったばかり。