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序章 ちいさな魔女

 長い冬を雪の下で耐え続けた雪割草が花を咲かせる時、ひとびとは森に入ることを許される。

 花の国フロレリアのすみっこの地、エオリアの地の森の入り口に建つ小さな家の二階で、ひとりの少女が目を覚ました。時刻は朝が訪れたばかりの頃、この時間帯はいまだ冷え込む空気の中、朝日がカーテンの隙間から差し込みわずかに舞う埃をキラキラと照らした。


「ん……んーっ」


 少女は新雪のように白い、腰まである長い髪を揺らしてベッドから半身を起こす。六歳ほどに見えるちいさな体で伸びをし、寝ぼけ眼をこすった。小柄な彼女のために脚を短く切ったベッドから裸足で降りたその少女は、床の冷たさに「ひゃ」と声を上げた。綿の靴下を履いておいた方がよかったかもしれないと、彼女はほんの少しばかり昨日の自分に後悔をした。

 ひたひたよろよろと窓まで歩いてカーテンを開ければ、晩冬の時期とは思えないほど雪が積もっていた。まだ春らしい春は遠いらしい。雪に反射した陽光がすみれ色の目にしみたが、少女は目覚めさせてくれるそれに感謝をして微笑んだ。


「さてと、きがえないと」


 少女──ベルは、気合いを入れるように自身の両頬を両手で軽く叩いた。こうでもしないと、また布団の中に帰りたくなるほど、今日は寒かったのである。

 昨日の内に水を入れておいた水差しから盆へ水を映す、水は半ば凍っていてこれまたキラキラと輝いていた。そんな冷たい水で顔を洗えば、きゅっと引き締まる思いがした。


 着替えを済ませるため、ベルは部屋の隅に置かれた木の箪笥を開けた。ふわりと乾いたラベンダーの香りが立ちのぼる。寒い時期だが、虫除けのためにラベンダーを忍ばせてあるのだ。


「今日は……この子」


 そう呟いて取り出したのは、空を映したような淡い水色のワンピースだった。裾までたっぷりと布を使った丈の長いそれは、彼女の家族が少しずつ仕立て直しながら着せてくれているお気に入りである。

 寝間着の紐をほどき、小さな肩からそっと脱ぐと、朝の冷たい空気が白い肌を撫でた。


「さむ……」


 思わず肩をすくめながら、ベルは慣れた手つきで、寒さ除けの肌着を着たまま、ワンピースへ腕を通す。さらりとした布地はまだ少しつめたいけれど、体温を受けるうちに春の日差しのようなぬくもりへ変わっていく。


 胸元のボタンをひとつ、またひとつ。


 左手のひらにある小さなアザがちらりと覗いては隠れた。


 続いて白いタイツを穿く。片脚ずつ丁寧に足を通し、皺にならないよう膝をのばす。淑女としていつだってこれは欠かさない──と、小さな少女は思うのだ。

 鏡の前でくるりと一度だけ回ると、スカートの裾がふわりと花びらのように揺れた。


「よしっ」


 次は白いエプロン。仕事で染みが付くたびにぽんぽんと染み落としをしてきた着慣れたものだ。首にかけ、腰の後ろへ長い紐を回す。

 後ろ手で蝶々結びを作るのは、まだ少し苦手だ。何度か結び直してようやく左右の羽が同じ大きさになると、ベルは満足そうに笑った。


 最後はベッドのそばに揃えてある焦げ茶色のボタンブーツ。ベッドに腰掛け、右、左と足を入れる。


 ひとつ、ふたつ、みっつ。


 小さな丸いボタンを留めるたび、今日も一日が始まるのだという気持ちになる。

 立ち上がって、再び鏡の前へ。腰まで伸びた新雪色の髪は、寝返りを打ったせいであちらこちらに跳ねていた。これもなんとかしなければ、とベルは椅子に座りくしを取り出す。

 まるで森を吹き抜ける風のようにくるくるとした彼女の髪は、くしを入れるとさらりと案外気持ちよくその間を滑っていく。けれど、一房だけどうにも頑固で、右に梳かせばぴょん、左に梳かせばぴょん、と跳ねが直らない。


「もうっ」


 ベルは今度は両手で押さえながら、その一房だけを三つ編みに編み込んでみる。強引に静かにさせてしまうという作戦だ。この髪型は、以前一人遊びでやってみたものであったのだが、家族に「似合っている」「可愛い」と褒められたため、ベルのいつもの髪型となった。

 濡らした両手で十秒押さえ撫でつけ、結んでしまえば、綺麗にまとまった。


「よしよし」


 仕上がった頃には、ベルのお腹はくうと鳴ってしまった。気づけば、下の階から美味しそうな香りがする。家族が朝食を作っているのだろう。


「お手伝いしないと、おしごとのこってるかしら」


 だいぶゆっくりと朝の準備をした少女は、少し慌てたように部屋の外を出た。


「おはよう、ソフィ!」

「ああ、おはようベル」


 火にかけた小鍋をくるくるとかき混ぜていたのは、真夜中色の黒髪をゆるくひとつに結んだ青年であった。やや小柄であり、ともすれば少年にも見えるかもしれない。ソフィと呼ばれた彼はほんの少しだけ振り返ると、また火と鍋の番に戻ってしまった。


「なにか手伝うこと、ある?」

「ん? いや、今日は僕が料理当番だから……全部やるよ」

「わたし、なにかやりたい!」

「まったく……じゃあパンとチーズを出してくれ」

「わかった!」


 嬉しそうにぴょんと飛び跳ね、ベルは鼻歌を唄いながら棚から黒パンと白カビのチーズを取り出す。隣の棚から皿を出してそれらを乗せて、テーブルに並べた。あっという間に仕事の無くなったベルは、いつも使っている踏み台を引っ張ってきてソフィの隣に並んだ。どうやら、今日のスープは豆と根菜のスープらしい。塩漬けのベーコンまで入っている。


「あ、ベーコンはいってる!」

「もうできるから、大人しく座ってなさい」

「よそうの、やるわよ?」

「……じゃあ、自分の分だけやってみて。ちゃんと豆も入れるように」

「えー」

「えーじゃない」

「はあーい」

「伸ばさない」


 ソフィは屈んで、火ばさみを使って薪と薪の間を離し火を止めた。その間に、ベルはスープの皿を準備する。青いラインが入った陶器の丸い皿がふたつ、目に入る。貰い物の特別な日用の皿だ。彼女は迷わずそれを取った。


「今日はいい日だから、このおさらね」


 それを聞いたソフィは火ばさみを片付けながら、ああ、と息を吐く。


「森の解禁日か。雪割草が息を始めていた」

「そう! かんじるのよ。森がもうはいって良いよって言ってるの。わたし、うれしくって」

「僕らの仕事も解禁だね。そろそろガーデンの作り置きじゃ足りなくなってきた」

「おおなべの掃除も昨日すませたし、いつだっておしごと、始められるわ」


 ベルは笑顔で自分のスープをよそった。はい、どうぞとソフィにレードルを渡す。彼がスープをよそうのをにこにこ顔で見つめながら、淡い青地に白いレースのテーブルクロスがかかったテーブルにとくべつな皿を置く。──そうしていると、コンコン、窓を叩く小さな音が聞こえた。


「何だ?」

「"お隣さん"かも、わたし、でるわね」

「せっかく部屋があたたまってるのに……」


 不承不承ながら窓を開けることを許したソフィに眉を下げて笑い、ベルは窓を小さく開ける。すると、小さくできた隙間から、ひゅうと小さな風が入ってきた。その風はぴかぴかと光る粒子をまとい、やがてベルの手のひらほどの大きさの子どもの姿になった。


「まあ! シルフィ!」

「久しぶりっ! 春の乙女(コレー)! ついでに黒狼も」


 訪れたのは風の精霊(シルフィ)であった。トンボのような透き通るような薄い羽を持つシルフィは、ちゅっとベルの頬にキスをした。


「何しに来た。今から朝食なんだが」

「やーだ、黒狼ったら怖い顔。森がヒトの子を許す時が来たから、コレーを遊びに誘おうと思って来たのよ。ね? 食べたら遊びましょ? コレー。私たちのみどりの魔女」


 じろりとシルフィを睨みつけるソフィの瞳は柘榴石のように赤い色をしていた。コレー──みどりの魔女と呼ばれたベルは、シルフィの頭をその左手……アザ、否……魔女の紋様を持つ利き手のひらで、優しく撫でた。


「シルフィ、うれしいけれどまた今度。森のお許しがでたし。せっかく晴れてるし吹雪いてもいないから、薬草摘みに出かけないと。わたしたち、おしごと始めなのよ」

「えーっ! コレーったらまじめねえ。お仕事なんて黒狼にぜーんぶ任せちゃえば良いのに!」

「おい。丸呑みにするぞ」

「ふふっ、おくすり作るの、すきだから。だからまた今度さそって!」


 ベルに断られたシルフィはしゅんとした後、ぱっと笑って、


「それじゃあ、コレーのガーデンを換気しておいてあげる! 森の新しい空気、欲しいでし

ょ?」


 と、ベルの周りを飛び回った。


「うれしい! ありがとうシルフィ!」

「えへへ、風の精にお任せあれ! コレー、まだ冬はもう少し続くわ。風邪、引かないようにね? 黒狼はどうなってもいいけど」

「一言余計なんだ、お前は」

「もう……けんかしないで! でもありがとうシルフィ、しっかり着込んでいくし、ソフィもあたたかいから」

「よしよし! それじゃあね! コレー!」


 シルフィは今度はベルのひたいにキスをして飛び去っていった。


「窓を閉めて。まったく、うるさいったらない」

「もー、ソフィったら、妖精同士なのにどうしてけんかばかりなの」


 ぱたん、と窓を閉めたベルは、椅子に座る。スープはまだ冷めていなかった。早口なシルフィは、一瞬のうちに色々と話して去って行くのだ。

 

「人間だって同じ種族なのに喧嘩するだろう? それと同じだよ」

「そういうものかしら」

「そういうものだよ。さ、食べよう、ベル」

「はあい。いただきます」


 豆の甘い香りが立ち上るスープを、ベルとソフィは口に運んだ。

 白いいんげん豆は舌の上でほろりとほどける、ベルはこの食感と香りがどうにも苦手であったが、角が取れるほどやわらかく煮込まれたにんじんやカブ、玉ねぎの甘みがスープに溶け込み、その苦手な食感と香りも上書きしてくれた。それでも、ベルはソフィにどうして苦手なものを克服させようとしてくるのだろうと思わなくもないのだが。

 スープの中の塩漬けのベーコンを噛めば、じんわりとした脂のうまみと、冬を越すために蓄えられた塩気が口いっぱいに広がる。野菜や豆だけでは少し頼りなかったぬくもりに、一本芯を通してくれるような力強さがあった。


 黒パンはずっしりと重く、一口かじれば、ライ麦の酸味がほのかに広がり、何度も噛むうちに優しい甘さに変わっていく。パンの欠片をスープに浸せば、素朴だったパンがやさしいごちそうへ姿を変えた。

 黒パンを器代わりにして、切った白カビのチーズを口に運ぶ。ねっとりとした牛乳のまろやかさと、森の落ち葉や湿った木肌を思わせるほんのわずかな熟成の香りが鼻へ抜ける。後に残る塩気が、もう一口スープを飲みたくさせた。


 派手さはない食卓であった。

 けれど、ベルはソフィと、ソフィはベルとこの朝食を囲む。一緒に暮らすようになってもう六年──今年で七年になるこの家族の食卓は、どんな王様の晩餐よりもずっと贅沢で幸福なものであった。


「シルフィが来たから気が引き締まったよ。ベル……魔女コレーの仕事が、始まるね」

「ええ! わたしは魔女コレー。……でも、やっぱりふたりっきりの時はベルって呼んでほしいわ、ソフィ」

「わかってるよ。ベルもコレーも、どっちもお前の大切な名前だ」

「えへへ……」


 ベルは魔女であった。薬草や花を森で摘んだり、ガーデンで育てたりして、薬を作る魔女。コレーというのは魔女としての通り名だ。魔女は魔女としての名前が無いと、魔法が使えない。魔法とは、自然の具現である妖精や精霊から力を分けてもらう、対話によって生まれるものである。コレーは、その手で触れた植物を活き活きとさせるみどりの手を持っていた。


 彼女に名前を付け、育ててきたソフィは森の妖精である。森に捨てられていた赤子のお前に花の蜜を吸わせて育てたと、ベルはソフィから聞いている。ベルにとってソフィは、親のようであり、兄でもあり、植物のことや魔法のことを教えてくれる師匠でもあった。一言では表しきれない関係であるふたりは、ふたりで薬を作り、近くの町へ売りに行き生計を立てていた。

 

「……して、魔女コレーさん? 後ろ髪の左側、一カ所跳ねてますけれど?」

「えっ! ちゃんと梳かしたのに!」

「食べ終わったら梳かしてやるから。その三つ編みも、僕が結び直そうか?」

「これは上手くできたからいいのっ」

「……ふふ。そうかい」


 ことことっとスプーンで落ち着き無く音を立てスープを飲み干し、ごちそうさま! とベルは皿を洗いに行く。その後、ゆっくりと落ち着いてソフィも朝食を平らげた。


 春が近い晩冬……未だ寒さが残る中、森の案内人である雪割草は花を咲かせる。こうして、魔女の薬屋コレーは、今日からまた一年を始めるのであった。


 これは、小さな魔女と彼女の守護者の妖精と、ふたりの周りを彩る者たちが織りなす、季節の花が咲くような愛と希望と、ほんの少しの別れの物語。

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