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26. 望むこと




調教師の身体が力なく地面へと崩れ落ちる。どこからどう見ても即死であったが、軍人らしく油断のないハルは、懐から短い短剣を取り出すと彼の心臓へと突き刺した。


目の前で起きているすべての出来事があまりにも現実離れしていて、ユフィはどんな身動きも取ることができなかった。

思考が停止しているというのに、彼女の青天色の瞳には、なおもすべての情景が焼き付けられていた。


調教師が死ぬと、うずくまっていた獣たちが一頭、また一頭と首をもたげた。


最初に正気を取り戻したのはシフだった。


シフはハルへと駆け寄るかと思いきや、傾き始めた彼の身体を自らの巨体で支えた。ハルは震える右手で、食い千切られた自身の左腕を強く圧迫した。

流れる血は赤く、吐き出される息は荒かった。


シフの真っ赤な瞳と、ハルの赤紫色の瞳がユフィへと向けられた。その瞬間、止まっていた思考が急速に引き戻され、酷く生々しい現実感が彼女を襲った。

ハルへと駆け寄ったユフィは、彼の前にへたり込んだ。


「あなた……一体、何の……真似を」


心臓が狂ったように脈打っていた。ようやくまともに見つめることができたハルは、満身創痍だった。当然のことだった。

まともな武器も持たずに獣の兵器たちを相手にし、その状態でシフと対峙したのだから。裂けた包帯の隙間から、広がった傷口から、赤い血が滲み出ていた。


あまりにも状況が急迫していたため、彼の姿を直視できていなかったのだ。改めて目にしたハルは、あまりにも無残な状態だった。

ユフィは震える手を彼へと伸ばしたが、どこをどう触れればいいのか見当もつかないまま、ただ虚空で彷徨わせるしかなかった。


頭がうまく働かない。どうすればいいの?


(ま、まず……止血を……でも、何で?)


止血するための道具も、薬草もない。こんな時、どうすればいいというのか。


(確かに習ったわ。できるはずよ、ユフィ。落ち着いて)


頭では落ち着かなければならないと分かっているのに、焦燥感が彼女の指先を鈍らせた。

どうすることもできず、ユフィがただ唇を微かに震わせていると、ハルが彼女の手を握り、下へと降ろした。


「ユフィ、怪我は、ないか?」

「今、私を心配している場合ですか!? あなた、自分がどんな状態なのか分かっていないのですか!」


理解できない。納得がいかない。

この男は、一体なぜこのような状況に陥ってまで自分を気遣うのだろうか。ユフィの激情に駆られた叫びに、ハルは薄い息を吐き出した。

彼が病人であることを遅まきながら認識したユフィは、ハルの手から自分の手を引き抜こうとした。


しかし、ハルはその手を決して離そうとはしなかった。


「私は、大丈夫だ。この程度……大したことはない」

「大したことはないですって? そんなわけないでしょう。あなた、今……」


ユフィがそれ以上言葉を紡げないまま彼の腕を見下ろすと、ハルは薄い笑みを浮かべた。


「これより、酷いことも、何度も経験してきた。どうせ。普段から大して、使えない腕だったのだから……」

「何を……」


なんてデタラメを言っているの。あなたは左利きでしょう。使えないわけがないじゃない。


痛くて苦しいはずなのに、彼の口から出てくるのは、ただユフィを安心させるための言葉だけだった。

その事実が、狂おしいほどの焦燥と不安を呼び起こした。


なぜ? どうして?


「なぜ、あなたはここまでやるのですか? 一体何が、あなたをここまで駆り立てるのですか?」

「これは、ただ当然の、ことをしたまでだ」

「当然のこと、ですか?」

「ああ。我が身よりも、君の方が大切だ。それだけだ」

「……罪悪感、ですか? ああして冷酷に私を捨てたことへの、贖罪のつもりですか? それならもう」

「そんなものではない。ただ、今の君が、愛おしい。それだけだ」


紡がれる言葉が、何一つ理解できなかった。だから気が狂いそうだった。

なぜ? 今のあなたが、私を大切に思うの?

どうして? 自らの身体を損なってまで、傍にいようとするの?

すでに私たちの関係は断ち切られ、崩れ落ちて、取り戻せないというのに。今更。何のために?


「私は、あなたの献身など望んでいません」

「分かっている。これは、我が儘な……自己満足に過ぎない」

「あなたが自らを犠牲にしたからといって、私があなたを許すことはありません。私たちの関係が元に戻ることもないのです」

「そんなものを、望んでいるわけではない。ユフィ。私は君に何も……望まない。だから君が、痛みを覚える必要はない」

「それで満足なのですか? あなたは、本当にそれで満足なのですか?」

「ああ」


自己満足に過ぎない。痛みを覚える必要はない。

その言葉を吐き出しているのはハルなのに、ユフィの胸がこれほどまでに酷く痛むのはなぜだろうか。


繋いだ手が冷たかった。ユフィがどれほど温もりを与えようとも、ただ冷えてゆくだけのその手が、あまりにも怖かった。耐えられない。

抑え込んでいた感情が、過去の記憶が。すべてが蘇ってきた。


祈るように、ラハルトの両手を握りしめた。


「私、あなたが憎かった」


ラハルトが憎かった。彼女を見つめてくれない彼を恨んだ。

屋敷を去るあの日、彼を憎悪するようになった。


「私が味わったすべての瞬間と同じくらい、あなたにも傷ついてほしかった、悲しんでほしかった、苦しんでほしかった」

「……」

「けれど、そのすべての瞬間においても、私は……」


あなたを恨み、憎み、嫌っていたすべての瞬間の中で。


「ただの一度も、あなたの不幸を願ったことはなかった。あなたが死ぬことを望んだことなんて……なかったのよ!」


堪えていた涙が、頬を伝って流れ落ちた。彼を恨み、憎んだ。しかし、その心の奥底で、彼女が最も強く望んでいたのは、彼の痛みでも、悲しみでも、苦しみでもなかった。


ただ、私は。


「ラハルト様。私は……私があなたに望んでいたことは、一つだけでした」


心の中に波紋が広がった。脳裏の誰かが、ユフィに語りかけていた。


-それ以上、言っては駄目よ

(いいえ、もう遅いわ)


「あなたが私に微笑んでくれること。もう一度、私の手を握ってくれること。ラハルト様。私が望むのは、それだけです」

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