10. 英雄が消えた跡
まだ夏が訪れるには早い季節。時季外れの雨は止む気配も見せず、執拗に世界を濡らし続けていた。
ロンカエト王国の王都エランディアに位置するライセン家のタウンハウスでは、盛大な夜会が続いていた。
長引く戦争により物資は枯渇しているはずだが、数日間にわたって繰り広げられる宴は、今日も暗い夜を眩いほどに、そして華やかに照らし出していた。
「ふう、死体の腐ったような臭いがしなくなって、ようやく人心地がついたわ。エイミー、お腹に子がいるのに、不快な思いをさせてしまったわね」
「まさか、お義母様。ただでさえ悪阻で苦しい時期ですのに、あいにく別邸が散歩道の近くにありましたから、どれほど不快だったか知れませんわ」
「私が産んだ息子であっても忌々しかったのですもの、貴女ならなおさらだったでしょう。本当によく耐えてくれましたね」
仲睦まじい嫁姑の会話を耳にした招待客たちは、微笑みを浮かべながらも、内心ではひどく辟易していた。
この豪華な宴も、屋敷の維持費も、彼女たちが身に纏っている高価なドレスも。腐りゆく体を引きずって侯爵が稼いできた証であることを、なぜ彼女たちは認めようとしないのか。
いや、彼女たちは知っているのだ。だが彼女たちにとって、ラハルトという名の英雄は使い勝手のいい道具にすぎなかった。
英雄の人徳を信じて金を貸していた商人たちでさえ背を向け始めたことを、彼女たちは痛いほど理解していたのだ。
(この先、一体どうするつもりでこれほど盛大な宴を開いているのか……先が思いやられるものだ)
しかし、貴族たちは深く追及しなかった。物資の乏しいこの時代、貴族といえども山海の珍味にありつける日は片手で数えるほどしかない。
機会が訪れれば貪欲に飛びつき、利用価値がなくなれば冷酷に投げ捨てる。貴族社会とはそういうものだ。彼らは笑顔の仮面を被り、滑稽な狂宴を続けていく。
互いが互いを欺き、嘲笑いながら続く宴の片隅。仕立ての良い正装で隙なく身を包んだロウェル・ライセンは、グラスの中の赤ワインを揺らしながら、卑屈な笑みを浮かべていた。
「ついに私のものになったな」
「まだでございます、閣下。死体が発見されるまでは、用心に越したことはございません」
ロウェルの背後、影が長く伸びた柱の陰に立つ何者かが助言した。ロウェルはそちらをちらりと一瞥して言った。
「あの体で今まで生きながらえているなら、褒めてやりたいほどだ」
「万が一ということもございますから」
「ああ。貴殿はいつも慎重だ。だからこそ私は貴殿を信任している。貴殿の言葉に従えば、望むものは何でも手に入るのだからな」
「過分なお言葉です」
ロウェルの言葉に、その者は恭しく頭を垂れた。深く被ったフードの隙間から、被毒者特有の湿疹がのぞいていた。ロウェルは吐き気を覚えながらも、それを表には出さず口角を吊り上げた。
この正体不明の男がライセン家を訪ねてきたのは、約五年前。戦争の激化により先代ライセン侯爵が没し、ラハルトが家督を継いだ頃のことだ。
当時のロウェル・ライセンは、凄まじい劣等感に苛まれていた。外見も性格も実力も。何をしても兄には勝てない。
兄は軍人として破竹の勢いで出世していくが、まともに剣すら握れないロウェルは、家内でも厄介者扱いだった。
ロウェルは常に当主の座を渇望していた。兄の無残な姿を拝めるのであれば、何だってするつもりだった。
そんな彼のもとに現れた名もなき男は、ロウェルの力となった。彼はロウェルの知らない驚くべき知識を持つ者だった。
彼と共にいれば、ロウェルは何でも手に入れることができた。美しい女、きらびやかな宝石、自分だけに跪く忠臣。
名もなき男が、うっすらとカランの人間であることは察していた。だが、それが何だというのか。彼が何者であるかは重要ではなかった。
男はロウェルに多くのものを与える一方で、見返りはさほど求めなかった。自分と仲間たちが身を寄せるための小さな集落と、わずかな金。
しかし、当主ではないロウェルに領地を下賜する権限はなく、そこで男はロウェルが領主となるための計略を練った。
最初は順調にいくかと思われた。だが、ユフィネル・エルピスによって計画は挫折した。
ゆえに、ユフィネル・エルピスを迫害し、陥れ、追い出した。あまりにもあっけなく崩れ去ったあの女を思い出すと、今でも笑いがこみ上げてくる。
彼女が消えると、残りの作業は息をするよりも容易かった。莫大な借金を背負わせ、兄を窮地に追い込む。
戦争が激化すればするほど、兄が壊れていくのは自明の理。死ねば万々歳、生きていようと構わない。
帰還した兄を、ユフィネル・エルピスにしたのと同じように徹底的に迫害し、追い詰めた。屈辱の中でも二年間耐え抜いたユフィネル・エルピスとは違い、兄は半年も経たぬうちに音を上げた。
もはや、ロウェルの行く手を阻む者は誰もいなかった。
兄に押し付けた借金の一部は、ロウェルの個人金庫の中に手つかずのまま収められている。名もなき男は、ロウェルが当主になる日に「錬金術」と呼ばれる、石を金に変える魔法を伝授すると約束したのだ。
降りしきる雨が激しさを増した。ロウェルは窓越しに、闇に沈んだ街並みを眺めた。
(ふふ……もはや私にとって、金など紙切れにすぎない。一日一日を楽しまねば損というものだ)
闇に紛れた街角から何者かが自分を監視していることなど、夢にも思わぬまま、彼は甘い酒を口元へと運んだ。
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