伯爵令嬢の四姉妹は、今日も嫁ぎ先の件で揉めています。
その日、伯爵邸の応接室は、いつもよりわずかに空気が重かった。窓から差し込む光は柔らかいはずなのに、室内の温度だけが妙に冷えているように感じられる。重厚な机の向こう側には、一人の男。
この屋敷の主であり、四人の娘を持つロドリック伯爵である。
そして、その視線の先には四人の娘が並んでいた。
長女イザベラ。
次女カリーナ。
三女ヘレナ。
四女オルゴット。
どの顔にも共通しているのは、静かな疲労と、諦めの表情だった。そんな中、ロドリック伯爵は書類の束を軽く叩き、視線を上げる。
「今回この場を設けたのは、他の何でもない。婚約の件についてだ。嫁ぎ先の再編案を、至急こちらで用意した」
一瞬の間。最初に反応したのは長女、イザベラだった。背筋を凛と正したまま、しかしわずかに眉が動く。
「再編、ですか?」
その一言に、彼女の中の警戒はすでに最大値まで引き上げられていた。
あの公爵家から、さらに悪化する可能性も?
食事中の会話すら許せない彼女にとって、それは秩序の崩壊に等しい。イザベラは表情を崩さず、ゆっくりと言葉を続ける。
「お父様。それは、具体的にはどのような意味での再編でしょうか」
「そのままの意味だ。お前たちの婚姻予定先を見直し、一番良い嫁ぎ先に組み替える」
その瞬間、空気がわずかに変わり、次に口を開いたのは次女カリーナだった。扇子を閉じる音が、やけに響く。
「つまり、嫁ぎ先が別の家へ移る、ということですのね?今より良くなる保証はあるのでしょうか?」
「そんな保証はどこにもない」
即答だった。カリーナは微笑みを崩さないまま、ほんのわずかに目を細める。彼女の視線は一瞬、窓辺の光を受けて揺れる宝飾品へと流れる。
(環境が変わるのは構いませんけれど、それに見合う対価がないのは問題ですわね)
ゆっくりと、指先が扇子の骨をなぞる。
「つまり、他所の家に移ることで得られるものは不明。損失の可能性は増大、という理解でよろしいのかしら?」
声音は穏やかだが、言葉だけは容赦がない。まるで商談の確認のようだった。微笑はそのまま、ほんの少しだけ艶を増した。
「もしそうであれば、慎重に再評価が必要ですわね。わたくしの生活水準に見合わないのは困りますもの」
そのやり取りの横で、三女ヘレナは腕を組み、椅子に深くもたれかかった。木が軋む音が小さく鳴る。
「そっちの家なんてまだまともだろ。こっちは挨拶代わりに剣が飛んでくるんだぞ」
「まあ、なんて野蛮ですの」
「常日頃から金で物を言わせてる姉上よりよほど信頼はできるけどな。要するにあれだ、場所替えってことだろ?」
「お前たちからの不満や苦情で、どれだけ私の愛する妻を疲弊させるつもりだ」
「父上、またそれですか?仮にも母上はこの状況を楽しんでおられるようにお見受けできますが」
ヘレナは椅子に体を預けたまま、深いため息をつく。結局、何処に行っても面倒なことになるだけだ。
「お前も何か言ってやれよ、オルゴット」
最後まで何も言わず、俯いていた四女オルゴットが、ぽつりと呟いた。
「うちは、屋敷がよく消えるんです」
一瞬、空気が止まった。ロドリック伯爵の目に、明らかな狼狽えの色が浮かぶ。
「く、詳しく聞こうではないか」
「魔術式の調整が合わなくて、空間ごとずれてしまうんです。昨日も侯爵様の様子を見に伺ったら、書斎が裏山にありました」
「もはや災害ね」
長女、イザベラのその言葉で、場の温度がさらに下がった。カリーナが勢い良く扇子を閉じる。
「つまり、まともな嫁ぎ先は何処にもないということですわ」
あまりの正論に、ロドリック伯爵は慌てて言葉を紡ぐ。
「例えばだが、イザベラは公爵家から騎士家へ」
その瞬間、イザベラは静かに拒絶した。
「お断りいたします。食事中に剣が飛ぶ環境なんて論外です」
即答だった。声は柔らかいのに、揺るぎが一つもない。そんな様子を見ていた次女カリーナは軽く視線を落とす。
「ではわたくしは商家から魔術家ですの?」
「カリーナ。お前の精神力なら上手くやっていけそうだが」
「お断りですお父様。お金の概念が崩壊しますわ」
そんな話を聞いていたヘレナが、深くため息をついた。
「つまり全部、一筋縄じゃいかないってことだろ」
「言い方は悪いが、その通りだ。しかしヘレナよ。お前には商の才もある」
「お父様!ふざけないでくださいまし!」
即座に割り込んだのはカリーナだった。扇子を握る手に力が入っている。
「全てが潰れてしまいますわ!」
その剣幕に、場の空気がさらに張り詰める。ヘレナは椅子にもたれたまま、興味なさげに視線を逸らした。
「⋯⋯ではオルゴットよ。お前は魔術家から公爵家へ」
何から何まで思惑通りに進まない話し合いに、ロドリック伯爵は終止符を打ちたかった。
「わ、私が公爵家ですか? そんな⋯人見知りの私では、公爵家など務まりません⋯⋯」
おどおどと首を振るオルゴット。だがその怯えとは裏腹に、彼女の存在だけはこの場で異質だった。
昔から、オルゴットだけは怒らせてはならない。いつしか三姉妹の間で、暗黙の了解として共有されているほどに。
イザベラがゆっくりと顔を上げた。
「それは、さらに秩序が崩壊する未来しか見えませんわね」
疲れ切ったロドリック伯爵を前に、四人の視線が一瞬だけ交差した。誰も明確な答えを出さないまま、ただ沈黙だけが落ちる。
伯爵は一度目を閉じ、静かに言葉を放った。
「どこに関しても、問題⋯はあるということか」
誰も否定はしなかった。窓の外では庭師が黙々と剪定を続けている。揺れる葉と、差し込む光。そこには何の歪みもない、平和そのものの光景が広がっていた。
しばらくの沈黙ののち
「お父様。この話は最初から詰んでいたのではありませんか」
その言葉に、他の姉妹も頷かざるを得なかった。
入れ替え案。理屈としては成立しているはずの提案。しかし現実には、どこにも“安全な選択肢”は存在しなかった。
イザベラは視線を伏せ、カリーナは再度扇子を指先でなぞる。
ヘレナは天井を見上げたまま動かず、オルゴットは静かに手元を見つめている。
伯爵はもう一度、書類を机に置いた。
「では結論を言い渡す。この件に関しては現状維持、つまり一旦保留とする」
その言葉に、四人はほぼ同時に小さく息を吐いた。安堵ではない。ただの納得だった。どうにもならない現実を、どうにかしようとした末の、静かな着地。
伯爵邸の応接室に、ようやくいつもの静けさが戻る。だがそれは平穏ではない。問題を抱えたまま、先送りにされた静寂だった。
(このままが一番安全⋯)
(これ以上はリスクが高すぎますわね)
(結局、どこも地獄だろ)
(今のままの方が色々と制御しやすいです)
誰も口には出さなかった。しかし、その沈黙は奇妙なほど一致していた。この家において、現状維持こそが最適解であると。
そして、その最適解が一番危険だということだけは、今はまだ誰も気づいていなかった。
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