第18話「至高のフルコースと、地下牢の包み焼き」
王都の地下深く。
かつての巨大な闘技場跡地を利用して作られた広大な空間は、今夜、相反する二つの狂熱に包まれていた。
一つは、地上部分で開かれている表向きの催し『大剣闘祭』と、それと同時に進行する超大規模な晩餐会。
各地から集められた荒くれ者の剣闘士や魔物が血と汗を流して殺し合い、王都の有力貴族たちがその残酷な娯楽と美食に酔いしれ、莫大な金貨が乱れ飛ぶ欲望の坩堝。
そしてもう一つが、その足元の深く閉ざされた巨大な地下空間で秘密裏に進行する本命——非合法な『闇のオークション』だ。
闘技場の最深部に位置する、冷たく薄暗い地下牢。
ルッカは極太の鉄格子で作られた檻の中に『目玉商品』として囚われ、リルは『護衛』という名目で檻の外の壁際に寄りかかっていた。
ルッカと同じ檻のずっと奥の暗がりには、冷たい鉄の首輪を嵌められ、衰弱しきって絶望に沈むエルフたちが身を寄せ合ってうずくまっている。
リルは壁際に寄りかかったまま、入り口の警備兵たちから完全に死角になる位置で、背後に隠した手を器用に動かし、檻の中のエルフたちへ『ペミカン(極限まで栄養を凝縮した携帯食)』を少しずつ配っていた。
エルフたちは震える手でそれを受け取り、無言で口に運びながら、わずかな体力の回復を待ちわびている。
地下牢の入り口付近には、重装備の警備兵たちが数人たむろしており、退屈そうに、そして少しの苛立ちを交えて雑談を交わしていた。
「おい、今日は上の晩餐会、随分と豪勢らしいな」
「ああ……なんでも、北の霊峰の飛竜の肉まで用意してるとか。俺たちにもおこぼれが回ってこねぇかな」
そんな下世話な会話が交わされる中。
微かな風の通り道である頭上の通気口から、地下牢の淀んだカビの臭いを切り裂くように、冷たくも爽やかな匂いがふわりと降りてきた。
『……くんくん。すっげえ爽やかな、でもお腹がぐぅって鳴る匂いがしてきたぞ!』
ルッカが豚鼻をヒクヒクとさせて、誰にも聞こえないほどの小声で呟く。
『ええ。柑橘系の酸味と、熟成された肉の塩気……レン様の第一の皿の匂いですわね。これで晩餐会が開幕しました』
リルが静かに頷いた。
レンは事前に二人に、オークの鋭い嗅覚を利用して「十品のコース料理の匂い」で地上の進行状況と時間の経過を測る手筈を整えていたのだ。
「……おい、なんだこの匂い。めちゃくちゃ腹が減ってくるぞ」
「ちくしょう、上の奴ら、もう宴を始めやがったのか」
警備兵たちが匂いを嗅ぎ取り、落ち着きなくソワソワと足踏みを始めている。
彼らの意識が、目の前の囚人たちから「上の晩餐会」へと僅かに逸れた証拠だった。
その極上の匂いの出処である闘技場地下の大厨房では、まさに戦場のような光景が広がっていた。
「いいか! 手を止めるな! ただ料理を出して客の胃袋を満たすだけじゃ三流だ!」
灼熱の業火と油の爆ぜる音、そして怒号が飛び交う中。
俺は四メートルを超える緑色の巨体を揺らし、数十人の荒くれ料理人たちを、圧倒的な技術と言葉で完全に掌握していた。
マルコが残した『手記』から得た異世界の食材知識と、三つ星シェフとしての絶対的な「経験」があれば、不器用なオークの手であっても、彼らの腕を操って完璧な料理を生み出すことは容易い。
さらにこの大厨房には、わがままな貴族たちのどんな注文にも対応できるよう、この日のために取り寄せられた豊富な食材が揃っているのだ。
俺の目的は、この厨房から『料理の内容と提供スピード』を操り、地下牢にいるルッカとリルに匂いで進行状況を伝えること。
だが、それだけではない。
ルッカたちが安全にエルフを奪還して脱出する時間を稼ぐためには、地下牢を固めている警備兵たちを惹きつけるほどの圧倒的な料理の力で、彼らを持ち場から引き剥がさなければならない。
(俺が作るコースの【三品目】……スープを出し終えるまでに、警備兵の理性を完全に狂わせ、持ち場から引き離す。それができなきゃ、エルフ奪還の難易度は跳ね上がる。絶対に三品目までに落とす!)
厨房内の全ての食材を素早く確認した後、俺は太い腕を組み、少し考えてから額に汗を浮かべて立ち働く料理人たちを鋭く睨みつけた。
「いいか、お前ら! フレンチのフルコースは、基本の十品で一つの壮大な物語を構成する。バラバラに美味いものを出すだけじゃ駄目だ。順番に意味がある!」
俺の声が、鍋の沸き立つ音をかき消して厨房に轟く。
「まず第一の皿! 宴の始まりを告げる『突き出し』だ! アミューズの最大の役割は、食欲のスイッチを強制的に入れることにある。酸味と塩気、そして温度差で、客の脳の食欲中枢をいきなり殴りつけるんだ!」
俺の指示のもと、一口サイズの料理が次々と純白のプレートに盛り付けられていく。
俺自身もただ指示をしているだけではない。
丸太のように太い指先で岩塩を高く掲げ、手首のスナップで豪快に、かつ均等に塩を振っていく。
刃先をミリ単位で操るような緻密な作業は不器用なオークの手では到底不可能だが、腕の振りと指先の感覚だけで『力加減』を調整する塩振りならば、前世の体に染み付いた三つ星の勘で完璧にこなせるのだ。
「す、すげえ……あの図体で、塩の結晶を完璧に調整してやがる……!」
料理人たちが驚愕の声を漏らす中、俺は次々と指示を飛ばした。
「北の霊峰の特産品である柑橘系の『氷結果実』を薄くスライスしろ! 極限の寒さの中で育つため、果肉自体が氷のように冷たく、強烈な酸味と苦味を持つ癖の強い食材だが、それを逆手に取るんだ! 繊維を潰すな、包丁の重さだけで引け! そこに、塩漬けにして限界まで水分を飛ばした飛竜の肉を微量だけ添える!」
完成したのは、『第一の皿:氷結果実と飛竜肉の塩漬け〜極寒と凝縮された旨味のアンサンブル〜』。
「猛烈な冷たさが舌を強制的に目覚めさせ、果実の強烈な酸味と、飛竜肉の凝縮された血の鉄分と塩気が、胃袋の扉をこじ開ける鍵になる! さあ、持っていけ!」
配膳係によって、次々と上の会場へと料理が運ばれていく。
数分後、分厚い石壁の換気口を通じて、上の会場から信じられないような狂乱の声が厨房へと降ってきた。
『な、なんだこれは……! 氷のように冷たい果実が舌の上で溶けた瞬間、飛竜肉の強烈な塩気と旨味が爆発したぞ!』
『ああっ、唾液が止まらん! 胃の腑が焼けるように次の料理を求めている!』
ただの突き出しに過ぎない一品目で、優雅に振る舞っていたはずの貴族たちは完全に理性を吹き飛ばされ、次なる皿を求める飢えた獣と化していた。
一方、地下牢では。
警備兵たちの注意が、入り口の扉と自らの空腹へと完全に向いているその隙だった。
通路の死角となる暗がりから、音もなく滑り出た人影が、瞬く間にリルの背後を取った。
「——動くな」
冷たい鋼の感触が、リルの首筋に当てられる。
銀色の鎧に身を包んだ、凛とした顔立ちの若い女騎士だった。名をエルザ。
偉大な騎士を父に持ち、正義感の塊である彼女は、騎士団の待機命令を無視して単独でこの闇のオークションの証拠を掴むべく、影に潜んで機会を窺っていたのだ。
「なぜ傭兵が商品であるエルフに近づいている? 貴様、何者だ。この悪趣味な競売の主催者の犬か」
突然の闖入者。
その殺気に満ちた気配を察し、檻の中のルッカは瞬時に機転を利かせた。
『ギルルルッ! グアァッ! グガァァァッ!!』
知性のない狂暴な魔物のふりをして、鉄格子をバンバンと叩きながら涎を垂らし、エルザに向かって吠え猛る。
(オレ、すっげえ演技うまいだろ! レンが見てたら絶対褒めてくれるぞ!)
ルッカが心の中で渾身のドヤ顔を決める中、リルは首筋の刃を気にも留めず、静かに口を開いた。
「剣をお収めください、騎士様。私たちは、この囚われた方々を救いに来た者ですわ」
「戯言を。単なる傭兵が、慈善事業でこんな最下層まで降りてくるはずがないだろう。私を騙せると思うな。……私は、この腐りきった闇を暴き、罪なき人々を救うために来たのだ」
エルザのそのまっすぐな言葉を聞き、リルは微かに口角を上げた。
「闇を暴く。ならば、騎士様であるあなたの真の狙いは、このオークションの主催者と黒幕の貴族たちの拘束ですね?」
「なっ……なぜそれを」
「我々の目的は、檻の中の商品の奪還。利害は完全に一致するはずですわ」
エルザは目を見開いて驚愕した。
裏社会の人間には決して宿ることのない、リルの気高くまっすぐな眼差しを見て、エルザはゆっくりと剣を下ろす。
「この通気口から漂ってくる匂い……お気づきでしょう。上の晩餐会のものですが、ただの料理ではありません。私たちの『仲間』が、警備を無力化するために厨房から仕掛けている魔法です」
リルは、生真面目な騎士であるエルザの注意を引くため、あえて『魔法』という言葉を使った。
「料理で……警備を無力化するだと?」
「ええ。血を流さず、彼らの理性を食欲で狂わせ、持ち場から引き離す。……それが私たちの仲間のやり方です。騎士様、どうでしょう。私たちが商品のエルフを解放する間、あなたがこの騒ぎに乗じて主催者を抑える。目的は違えど、お互いの背中を預ける理由は十分にあるはずですわ」
エルザは鋭い視線でリルを、そして未だにそわそわと入り口で匂いを嗅いでいる警備兵たちを交互に見た。
確かに、百戦錬磨の荒くれ者たちが、たかが料理の匂い程度で異常なほど浮き足立っている。
「……信じよう。単独では限界を感じていたところだ。手伝わせてもらう。私は騎士団のエルザだ」
エルザが一時的な共闘を受け入れ、リルと力強い視線を交わした。
「私は傭兵のリルですわ。それに、その檻の中にはもう一人、私たちの仲間である亜人のルッカも潜入していますの」
リルが檻の中を顎でしゃくると、ルッカが「オレだぞ!」とばかりに鼻息を荒くして太い指で自分の胸を叩いた。
エルザは呆気に取られつつも、小さく頷き返した。
その間にも、厨房の戦いは秒単位で激化していた。俺の手は止まらない。
「次は二品目『前菜』! アミューズでこじ開けた胃袋に、さらなる期待感を叩き込む皿だ!」
俺は巨大な木べらを軽々と振り回し、ソース用の大鍋をかき混ぜながら指示を飛ばす。
「飛竜の肉の中でも最も柔らかい部位を極薄にスライスし、微塵切りにした香草と一緒に叩き切れ! 生の叩き肉ステーキだ! そこにかけるソースが要になるぞ!」
俺は、調理台の奥の戸棚から琥珀色の液体の入った瓶を手に取った。
「樹液の段階で猛烈な酸味と甘みを持って発酵している天然の果実酢である、『赤樹液』を使う! これに蜂蜜と香辛料を加え、鍋で焦げる寸前まで煮詰めてコクを引き出すんだ!」
俺が木べらで極熱のソースを仕上げていく手際の良さに、荒くれ料理人たちが息を呑む。
「冷たい肉の上に、その極熱の甘酸っぱいソースを客の目の前でかけるんだ。冷たさと熱さ、生肉の滑らかさと香辛料の刺激。相反する要素が口の中で爆発し、客の理性をぶっ飛ばす!」
完成したのは、『第二の皿:飛竜肉の叩き〜赤樹液の熱極ソース〜』。
配膳係が慌ただしく会場へ向かう。
数分後、ソースが焼けた肉に触れるジューッという音とともに、咽せ返るような強烈な香辛料と甘酸っぱい香りが、換気口を通じて厨房と、そして地下牢へと流れ込んできた。
『おおおおっ……! 熱いソースで溶けた飛竜の微かな脂が、生の叩き肉と絡み合って……!』
『香草の香りと赤樹液の深いコクが鼻を突き抜ける! だめだ、止まらん! 早く、早く次の料理を持ってこい!』
換気口の奥から、テーブルをバンバンと叩くような下品な音と、貴族の矜持すら投げ捨てた叫びが落ちてくる。
地下牢では、その匂いが決定的な動揺を生み出していた。
「うおおっ……なんだこの匂いは!? 今度は肉か!? 肉の焼ける匂いか!?」
「だめだ、胃袋がひっくり返りそうだ……! なぁ、ちょっとだけなら厨房の様子を見に行ってもバレないんじゃないか!?」
地下牢の警備兵たちが、腹を抱えて呻き声を上げ始めた。
鼻腔を突き抜ける極上の香りに、彼らの足はすでに階段の方へと向きかけている。
物陰からその様子を伺っていたエルザが、信じられないという顔でリルを見た。
「本当に、料理の匂いだけで警備兵が持ち場を捨てようとしている……。一体どんな魔法を使えばこんなことが」
「ふふ、ごめんなさい、騎士様。先ほど魔法と言ったのはただの例えですわ」
リルが誇らしげに微笑む。
「本当の魔法ではありません。レン様の料理は、ただ美味しいだけではなく、人の本能を直接支配する……圧倒的な技術と経験の結晶なのです」
だが、まだだ。
警備兵は動揺してはいるが、職務への恐怖で縛られているのか、完全に持ち場を離れるまでには至っていない。
厨房では、俺が最大の難関であり、警備排除のタイムリミットである【三品目】の調理に取り掛かっていた。
「続けて三品目『スープ』だ! スープは胃袋を深く温め、味覚をさらに深い海へと沈み込ませるための重要な工程だ! これで警備兵の理性を完全に焼き切るぞ!」
巨大な寸胴鍋がいくつも火にかけられている。
「生食はできないが燻されたような強烈な香ばしさを持つ『黒炎茸』を細かく砕いて火魔法の熱で一気に炒め、香りを爆発させろ! そこに表面を炭化直前まで焼き切った飛竜の骨をぶち込むんだ!」
俺の言葉に、杖を持った料理人たちが慌てて炎を放つ。
俺はそこへ、さらに指示を叩き込んだ。
「よし、鍋の底を極限まで熱しろ! 同時に、氷魔法で上から冷気の分厚い蓋を作り、鍋の中を完全に密閉するんだ! これで極端な温度差が生み出されて、高圧状態が作り出せる!」
料理人たちが俺の常識外れの調理法に戦慄しながらも、必死で指示に従う。
魔法の圧力鍋の中で、飛竜の骨と黒炎茸、そして俺が手早く刻んで放り込んだ香味野菜の旨味が極限まで抽出されていく。
完成したのは、『第三の皿:飛竜骨と黒炎茸の極濃ポタージュ』。
厨房中を満たす、焦がした骨の香ばしさと黒炎茸の燻煙のような深み、そして暴力的なまでに濃厚な旨味の香り。
俺はこの匂いを、意図的に通気口へと力強く送り込んだ。
『……っ! なんだこのスープは! えも言われぬ香ばしさと、舌に絡みつく濃厚な旨味がいつまでも消えん!』
『腹の底から、とてつもない生命力が沸き上がってくるようだ……! 次の料理など待っていられん! 早く次をもってこい!』
上の会場は完全に料理に支配され、オークションが始まる気配すら完全に掻き消されていた。
そして地下牢でも、そのポタージュのあまりにも強烈で暴力的な香りが、決定的な事態を引き起こしていた。
「な、なんだこの深く濃厚な匂いは……! 腹の底から涎が湧き出てきやがる……!」
「たまんねぇ……さっきの肉の匂いだけでも狂いそうだったのに、もう限界だ、俺は行くぞ!」
「馬鹿、持ち場を離れるな! ……と言いたいが、俺ももう無理だ! 賄い部屋に行けば、鍋の底くらい舐めさせてもらえるかもしれねぇ!」
見張りをしていた重装備の警備兵たちが、ついに理性の糸をブチッと切らした。
彼らは剣を放り出す勢いで階段を駆け上がり、次々と上の階へと消えていってしまった。
レンの料理は、ついに敵の規律を完全に崩壊させたのだ。
「……信じられない。本当に警備兵が自ら持ち場を捨てた」
エルザが唖然と呟く中、リルが檻の鍵へと手を伸ばした。
「レン様は、見事にミッションを完遂させたのですわ。さあ、今のうちにエルフの方々を……」
リルが檻の鍵を開けようとした、まさにその時だった。
——パチ、パチ、パチ。
背後の通路から、無作法な拍手の音が響いた。
「涙ぐましい努力だな。だが、小賢しいネズミが嗅ぎ回っていることなど、とうの昔にお見通しだよ」
闇のオークションの開催者、ギルダーが薄汚い笑みを浮かべて立っていた。
その後ろには、身の丈ほどある大剣を背負った、一人の巨大な男が控えている。
男の全身からは、圧倒的な血の匂いと死のプレッシャーが放たれていた。
「騎士団のエルザ殿。偉大な騎士様のお転嬢が、こんなカビ臭い地下で何をしているのかな?」
ギルダーはエルザの素性を完全に把握していた。
「貴様……この非道なオークションを直ちに中止しろ!」
「非道? ははは、何を言うか。これは完璧なビジネスだ。上の大剣闘祭も、このオークションも、すべては繋がっているのさ。上では莫大な賞金に目が眩んだ馬鹿どもが殺し合いをしている。だがね、勝つのは最初から私が用意したこの『最強の剣闘士』と決まっている。貴族たちからたっぷりと賭け金を巻き上げ、運良く生き残った負け犬の剣闘士は、こうして地下のオークションの奴隷に落とされる。……どうだい、完璧だろう?」
ギルダーは醜く顔を歪め、指を鳴らした。
「ちょうどいい。素性を隠した怪しい傭兵と、騎士団の小娘。貴様らをここで始末して、今日の『商品』の数に加えてやろう」
最強の剣闘士が無言で大剣を抜き、重い足取りでエルザたちへと迫る。
「くっ……!」
エルザとリルが即座に武器を構え、大男に立ち向かった。
エルザの鋭い踏み込みからの刺突が急所を捉えようとするが、剣闘士は身の丈ほどある大剣の腹で容易くそれを弾き返す。
激しい金属音が響き、エルザの腕が痺れで大きく弾かれた。
だが、大剣で弾き払ったその一瞬、巨体にわずかな死角が生まれた。
「……隙あり!」
その一瞬を逃さず、リルが獣のような俊敏さで飛び込む。
その細腕には不釣り合いな重い『石斧』を振り被り、遠心力を極限まで乗せた一撃を男の首筋へと叩き込もうとする。
だが、剣闘士は表情一つ変えず、岩山のような分厚い首の筋肉を隆起させ、異常な腕力だけで強引に大剣を振り抜いた。
「がはっ……!」
回避しきれなかったエルザが大剣の平で弾き飛ばされ、石壁に激突して崩れ落ちる。
リルもまた、強烈な衝撃を腹に受けて床を転がった。
「リル!!」
檻の中でその光景を見ていたルッカの堪忍袋の緒が、ついにブチッと音を立てて切れた。
「よくもリルを……! ぶっ飛ばしてやる!!」
ルッカが鉄格子を両手で掴み、その異常な筋力でひん曲げて飛び出そうとした、まさにその瞬間だった。
「だめです!!」
リルが口から一筋の血を流しながら、檻の中のルッカに向かって鋭く叫んだ。
「あなたにはやることがあるでしょう!……今は、『包み焼き』にしなさい!!」
「……包み焼きだと? 気でも狂ったか」
ギルダーが鼻で笑って嘲笑する。
だが、その言葉を聞いた瞬間、ルッカの脳裏には、かつて魔物の森でレンが肉を調理していた時の記憶が鮮明に蘇っていた。
強い直火で一気に焼くのではなく、大きな葉で肉を何重にも包み、土の中でじっと熱を通す調理法。
レンは言っていた。
『「待て」ができる奴だけが、至高の味にありつけるんだ』と。
(……っ!)
ルッカはギリッと牙を噛み砕くほど食いしばり、ひん曲げかけた鉄格子から手を離した。
今はまだ、その時ではない。
もし今ここで自分が暴れてギルダーたちに捕まってしまえば、一体誰が檻の奥のエルフたちを助けるというのだ。
ルッカは血が滲むほど拳を固く握り締め、檻の中に留まった。
直後、リルとエルザは最強の剣闘士の手によって気絶させられ、ギルダーたちに引き摺られるようにして連れ去られてしまった。
再び静寂が戻った地下牢。ルッカは一人、震える手で懐からペミカンを取り出した。
「ほら、食えよ……。これを食って、生き延びるんだ」
ルッカは同じ檻の奥で身を寄せ合うエルフたちに近づき、特製の携帯食を配っていく。
ペミカンを口にしたエルフたちの顔に、少しずつ生命の熱が戻っていくのを確認しながら、ルッカは檻の中で一人、レンから送られてくるはずの「開戦の合図」をただひたすらに待ち続けるのだった。
同じ頃。闘技場跡地の外周。
冷たい夜風の中、騎士レオハルトと彼が信頼する直属の密偵たちが、闇に溶け込むように完全な包囲網を敷いていた。
「隊長。スラムからマルコの商用馬車を装って入り込んだ不審な連中の尻尾を掴みましたね。中では今まさに、法を破る貴族どもが集まって違法な闇の競売が始まろうとしているはずです」
密偵の一人が、鋭い声で報告する。
部下たちは皆、「俺たちがついに王都の巨大な悪を捕らえるのだ」と浮き足立っていた。
レオハルトは剣の柄を静かに撫で、冷徹な瞳で巨大なコロッセオを見上げた。
「ああ、お前たちの働きは見事だった。……いいか、我々の標的は、この神聖な王都の秩序を乱す者たちだ。我々を欺き、地下でうごめくネズミどもを確実に狩る。一人たりとも、外へは逃さん」
「はっ!」
力強く頷く部下たち。
完全な包囲網が敷かれた外の闇で、冷徹なる騎士が悪を討つ狩りの瞬間を静かに待ち受けていた。




