第14話「腐死の坩堝と深淵の白霊茸」
泥が爆ぜ、腐敗ガスが黄色い泡となって弾ける音が、鼓膜にねっとりとへばりつく。
一歩足を踏み出すたびに、分厚い皮膚に覆われた俺の足がジュルリと泥の海に沈み込み、肉を溶かさんばかりの強酸と、何百年もかけて発酵した死骸の臭気が鼻腔を容赦なく犯してきた。
「ヒャハッ! 旦那ァ、足元に気をつけてなァ! この泥の滝を越えれば、いよいよキノコ様だヨ!」
黄色い毒霧が立ち込める中、案内人ザブの甲高い声だけが不気味なほど軽快に響き渡る。
『腐毒の大湿地』——
その最奥部は、もはや「地面」と呼べる代物ではなかった。
息をするだけで肺の粘膜が焼け焦げるような高濃度の瘴気が渦巻き、数え切れないほどのアミノ酸と魔獣の死骸がドロドロのスープ状に煮詰まった、文字通りの『腐死の坩堝』だ。
俺たちオークの分厚い皮膚と強靭な内臓であっても、この環境はこたえる。
泥の海には半ば白骨化した巨大な魔獣の死骸が浮島のように連なっており、俺たちはその骨を渡り歩きながら、かろうじて汚泥を回避していた。
「おいルッカ、リル。絶対に泥に素手で触れるなよ。ただの毒じゃない、強力な消化液に近い代物だ」
『わ、わかってるぞレン……! でもこの臭い、腹が減るどころか吐き気が……』
『ルッカ、口を開けすぎると瘴気を吸い込みますよ……!』
屈強なオークである二匹でさえ、顔を青ざめさせている。
だが、前を歩くザブの様子はひどく異様だった。
小柄なホブゴブリンのくせに、この猛烈な瘴気の中で咳一つせず、それどころかこの毒の空気を心地よさそうに肺に満たしながら、底なしの泥の浅瀬を軽業師のように跳ねて進んでいく。
(……妙だな)
料理人として鍛え上げられた俺の嗅覚が、かすかな違和感を訴え続けていた。
これほどの死臭とヘドロの臭いが充満しているというのに、目の前のザブからは、ホブゴブリン特有のツンとする獣臭が一切しないのだ。代わりに鼻を突くのは、生臭いほどに清廉で、どこか冷たい『菌糸の匂い』。
だが、その違和感を追求する間もなく、周囲の景色が劇的に変わり始めた。
ふと、黄色の霧の向こうに、大小さまざまな影が浮かび上がってくる。
泥から突き出した、ねじれた枯れ木。泥の浅瀬にうずくまる、ハリネズミや水鳥のような小さな生き物たち。
驚くべきことに、そのすべてに、透き通るような白銀の輝きを放つキノコが生えていた。
枯れ木には手のひらサイズのものが群生し、泥に沈んだ獣たちの背中や頭には、小指ほどの純白のキノコがちょこんと乗っている。
いや、生えているのではない。「寄生」しているのだ。獣たちは皆一様に、濁った黄色い瞳を見開いたまま、生きた苗床としてピクリとも動かない。
そして——それら有象無象の中心。
霧の奥にぽつんと浮かぶ、ひときわ巨大な「小高い島」のようなシルエット。
その頂上には、まるで王冠のように巨大な一つのキノコ——今回の標的である幻の霊薬『白霊茸』がそびえ立っていた。
あらゆる死と腐敗が渦巻く極彩色の地獄の中で、それらのキノコだけが不気味なほど純白に輝き続ける、美しくも悍ましい光景だった。
『あ、あれだ! レン、白いキノコがいっぱいあるぞ!』
ルッカが歓喜の声を上げる。
「ヒャハハ! オイラが一番デカいやつを案内してやるヨ!」
ザブが弾かれたように泥と骨の橋を蹴り、霧の奥に沈む、ひときわ巨大な島へ向かって駆け出した。
『あっ、ずるいぞ! オレが一番乗りだ!』
ルッカが負けじと後を追おうと飛び出す。
「待てッ、ルッカ!!」
俺の制止より一瞬早く、湿地全体が重低音の悲鳴を上げた。
——ゴゴゴゴゴォォォォッ!!
ザブが向かった小山が、激しい泥の間欠泉と共に隆起する。
泥の滝が崩れ落ちて現れたのは、直径十メートルを超える、泥と化石が混ざり合った異形の甲羅。
そして、その前方から悍ましい鎌首がもたげた。
巨大な島の正体。
それは、この湿地の頂点に君臨する主——『腐泥巨亀』だった。
グルルルルォォォォォッ!!
巨亀が天を仰ぎ、口から濃密な紫色の瘴気ブレスを吐き出しながら、凄まじい質量でこちらへ突進してくる。
「ルッカ、リル! 下がれッ!」
俺の怒号に、ルッカが反射的に後方へ跳ぶ。
だが、リルはルッカを庇うように前に出て、その丸太のような両腕で巨亀の突進を受け流そうと両足を泥の浅瀬へ沈み込ませた。
「ヒィィッ! 食べられるゥゥッ!」
その瞬間、ザブがわざとらしく悲鳴を上げ、あろうことか、踏ん張ろうとしたリルの足元へ転がり込んだ。
『——っ!』
リルは咄嗟にザブを潰さないよう足の位置をずらし、その拍子に、隣の底なしの柔泥へ深く足をとられてしまう。
体勢を崩したリルに、巨亀の岩盤のように分厚く重い前脚が容赦なく振り下ろされる。
「チィッ!」
俺は泥を蹴って飛び込み、リルの襟首を掴んで強引に後方へ引き抜いた。
間一髪、振り下ろされた前脚が泥の橋を粉砕し、汚泥が高く舞い上がる。
俺は二匹を後方に庇い、狂ったように暴れ回る巨亀の攻撃を捌きながら、冷徹に観察していた。
料理人としての「目」が、目の前の食材に対して決定的な違和感を告げている。
『レン、こいつなんか変だぞ! 亀のくせに全然甲羅に引っ込まねぇし、前も見ずにデタラメに突っ込んできてる!』
巨亀の薙ぎ払いを躱しながら、ルッカが直感的に叫ぶ。
「ああ。亀ってのは本来、強固な装甲に首や手足を引っ込めるのを起点にする生き物だ。急所である首を限界まで晒したまま、自傷すら厭わず狂ったように連続突進を繰り返すなんて、生存本能として異常すぎる」
『まるで、耐え難い苦痛から逃れるために暴れ狂っているようです……!』
リルの言う通りだった。
巨亀の濁った黄色い瞳は、獲物を狙う捕食者のそれではない。苦悶と狂乱に染まりきっている。
そして何より、あの純白のキノコは、ただ甲羅に乗っているわけではなかった。
分厚い甲羅の隙間を内側から突き破り、亀の体内へ太い根をびっしりと食い込ませているのだ。
道中の獣たちの死骸。ザブの無臭の身体。不自然な転倒の誘発。そして、暴れ狂う巨亀。
散らばっていたピースが、俺の脳内で一つの完璧な「確信」へと組み上がった。
ズドォォォッ!!
俺は巨亀の噛みつきを紙一重で躱し、後方で縮こまって「怯えたフリ」をしているザブへ冷たい視線を投げた。
「おいザブ、逃げ回る芝居はもうやめろ」
「ヒ、ヒィッ? な、何を……」
「出会った時から、てめぇからホブゴブリンの獣臭が一切せず、代わりに『菌糸の匂い』が漂っていた理由がわかったぜ」
俺は迫り来る巨亀の脚を弾き返し、言葉を叩きつける。
「てめぇの正体は案内人なんかじゃねぇ。キノコの胞子が形作った生きた『撒き餌』だ。道中の魔獣から俺たちという極上の養分を守り、確実にこの狂った亀の元まで連れ込むためのな」
図星を突かれたのか。
ザブの顔から「怯え」という感情がスッと抜け落ち、ただの無機質な皮袋のように虚無へと変わった。
直後、その黄ばんだ唇が三日月の形に不気味に吊り上がる。
「……アハッ。バレちまったかァ」
これまでとは違う、幾重にも重なったような濁った声がザブの口から漏れた。
「でも、もう遅いヨォ。
キノコ様はね、この湿地の魔素を吸い上げるついでに取り込んだ猛毒の『瘴気』を、ぜーんぶこの亀の神経に直接流し込んでるんだ。永遠に終わらない激痛を与えて、獲物が来たら毒の加減で操って叩き潰させる……キノコ様が作り上げた完璧な罠さァ!」
ザブが両腕を広げて叫ぶと同時に、巨亀の動きが一段と狂暴さを増した。
首の太い血管がはち切れんばかりに膨張し、痛みに耐えかねたように凄絶な咆哮を上げて突進してくる。
「あんたたちはもう逃げられない! 大人しく極上の養分におなりィッ!」
「上等だ。てめぇの腐った罠ごと、俺がここでお前らを残らず叩き潰してやる」
キノコの意志が露わになり、生態系の全貌は完全に理解した。
巨亀の動きは凄まじいが、そこには魔獣としての知性も駆け引きも微塵もない。
ただ毒の痛みに任せて、単調な直進と薙ぎ払いを繰り返しているだけだ。ならば、あとはこの哀れな食材を捌くだけだ。
「ルッカ、リル! 恐れるこたぁねぇ、こいつは知性のねぇただのデカいスッポンだ! 天然の極上スッポンは秋の冬眠までに上質な脂を限界まで蓄え込む。
こいつも何百年も獲物を喰らい続けて、分厚い甲羅の下に極上のエネルギーを凝縮させてるはずだ。最高に美味い状態で仕留めるぞ!」
『はいッ!』
「亀を捌く第一歩は、まずひっくり返して動きを封じることだ。だが、あの質量じゃ力任せには返せねぇ。デタラメな直線的突進の勢いを逆利用するぞ! 次の突進に合わせて、ルッカは右前脚の『足場』を斧で砕け! リル、その瞬間に横から全体重で押し込め!」
俺を食い殺そうと、巨亀が全体重を乗せて前方にのしかかってきたその瞬間。
ルッカの爆発的なバネから放たれた石斧が、巨亀の右前脚の下にある泥岩の足場をピンポイントで粉砕した。
支えを失い巨亀の体勢がグラついたそのコンマ一秒の隙に、リルが側面から大槌のような拳と怪力をぶちかます。
——ドガァァッ!!
時速数十キロで突進していた何十トンもの質量は行き場を失い、自らの猛烈な勢いと自重に耐えきれず、激しい地響きと共にゴロンと裏返り、柔泥の上に仰向けになった。
高く湾曲した甲羅のアーチと底なしの泥がクッションになり、頂上のキノコはギリギリのところで潰れずに済んだのだ。
「上出来だ!!」
通常のスッポンなら、首を引き出させて一刀両断に斬り落とし、血を抜く『活け締め』が基本だ。
だが、この丸太より太い首を力任せに両断すれば、死の恐怖と激痛で亀が暴れ狂い、極上の肉に血が回って味が落ちる。それに、これ以上暴れさせれば、今度こそ背中の霊薬が泥の底でペシャンコに潰れてしまう。
——だから、首は斬らずに、脳からの信号を直接絶つ。
暴れる魚の脊髄を完全に破壊し、死後硬直を遅らせて鮮度を最高状態に保つプロの技術『神経締め』。
分厚い甲羅を持つ巨亀相手でも、条件さえ揃えば可能だ。キノコに操られたこの亀は、苦痛から逃れるように『限界まで首を伸ばしきって』いる。
普段なら甲羅に守られているはずの首の付け根、その最も無防備な急所の隙間が、今だけは完全に露出していた。
俺は泥を蹴り、ひっくり返って暴れる巨亀の首の付け根へと飛び込んだ。
そして、オークの尋常ならざる筋力を込めた右腕を、手刀の形にして甲羅と首の柔らかい肉の隙間めがけてズブリと深く突き入れた。
「ガァァァッ!?」
亀の分厚い血肉を強引に掻き分け、手探りで体内をまさぐる。背中の白霊茸から伸びる寄生根と、亀の脊髄が交差する『中枢神経の束』を、分厚い指先の感覚だけで探り当てる。
——だが、その致命的な異物の侵入を察知した巨亀の生存本能が、ここに来て限界を超えて爆発した。
「——なっ!?」
ズドゴォォォォッ!!
巨亀が長大な首を狂ったように泥へ打ち付け、その反動で何十トンという巨体を強引に宙へ跳ね上げたのだ。
俺は右腕を亀の体内に突っ込んだまま、凄まじい遠心力で空中に振り回される。視界が高速で回転し、関節が外れんばかりの絶大な重力が全身を襲う。
『レンッ!!』
ルッカとリルの悲鳴が遠く聞こえる。
そのまま巨亀の体は空中で半回転し、凄まじい地響きと共に、元の体勢へと強引にひっくり返った。
ゴシャァァァッ!!
泥と泥岩の破片が爆散し、俺の体は巨亀の首元に激しく叩きつけられる。
だが、俺は意地でも右腕を抜かなかった。
「——ぐおッ、ふざけんな……逃がすかよッ!」
体勢を立て直した巨亀の強靭な首の筋肉が、侵入者を圧殺しようとギュルンッと収縮する。
万力のように締め付けられ、俺の右腕の骨がミシミシと悲鳴を上げる。だが、魔物としてのオークの規格外の骨格と筋肉が、その圧殺をギリギリで耐え凌ぐ。
巨亀が再び突進の構えに入ろうと四肢を踏み張った、その一瞬の隙。
俺は中枢神経をガッチリと掴み込んだまま、全身の力を右腕一点に集中させ、一気に、そして完璧にへし折った。
——ゴキィッ!!
鈍い音と共に、踏み出そうとしていた巨亀の全身がビクンと大きく跳ね、直後、操り糸が切れたように完全に脱力した。
ズズンッ……。
顎から泥に突っ込み、中枢神経を破壊された巨亀は、自分が死んだことすら脳に伝達されず、これ以上暴れる間もなく即座に絶命したのだ。
「ハァッ……ハァッ……!」
痺れる右腕を巨大な肉の隙間から引き抜き、俺は荒い息を吐いた。
巨亀が自ら元の体勢に戻ってくれたおかげで、これならすぐに背中のキノコを処理できる。
俺はそのまま、濡れた泥岩のような巨亀の甲羅へとよじ登った。
——だが、勝負はここからだった。
宿主である亀が死んだことを察知し、白霊茸が防衛本能で『暴走』を始めたのだ。
亀の体内に蓄積させていた猛毒を根から一気に逆流させ、純白だった巨大な傘の縁が、みるみるうちにどす黒い毒の色へと染まっていく。
シュウゥゥゥッ……!!
キノコの傘の裏から、致死量の毒胞子が間欠泉のように噴き出し始めた。
肌に触れた胞子がオークの分厚い皮膚をジュウジュウと焼き爛れさせ、直後にオークの治癒力が細胞を再生させる。破壊と再生が瞬時に繰り返されることで、脳が沸騰するほどの激痛が走る。
「チィッ、劣化が早すぎる!」
俺は息を止め、猛毒の噴出を強引に掻い潜りながら巨大なキノコの根元へと飛びついた。
猛烈な勢いで毒に侵され黒く変色していく外側の肉を、分厚い両手で力任せに引き裂き、削ぎ落としていく。
毒が回るルート——黒い葉脈のように走る汚染の線を料理人の視覚で瞬時に見極め、まだ汚染が届いていない純白の中心部だけを、素手で正確に抉り出した。
切り出したのは、大人の拳ほどの大きさの、透き通るような菌糸の塊。
俺がそれをずた袋に収めた瞬間、残された巨大なキノコの外殻は完全にドロドロの猛毒と化し、甲羅の上で音を立てて崩れ落ちた。
間一髪。傷一つない、最高の状態の『白霊茸』が手に入った。
「……アハッ。つまんないの」
不意に、背後から底知れない虚無を含んだ声が響いた。
振り返ると、泥の上に立つザブの姿が、ボロボロと崩れ落ちようとしていた。
本体である白霊茸が崩壊したことで、彼を形作っていた魔力の源泉も途絶えたのだ。
「残念だヨ。あんたたちの強く若い命……極上の『養分』になるはずだったのにネ……」
ザブの眼球の裏側から、無数の白い菌糸が溢れ出す。
彼の肉体が、泥の海へと崩れ落ちる。
……いや、肉など最初から無かったのだ。
泥とボロ布の皮袋の下から、びっしりと編み込まれた無数の白い菌糸が解け、白い胞子となってふわりと泥に溶けて消えた。
『レン……今の、あいつ……』
「気にするな。案内人なんてのは名ばかりの、キノコの『人形』だったってことだ」
俺はずた袋の紐を固く結びながら、ふと視線を感じて顔を上げた。
霧の向こうの泥の海から、無数の無言の視線がこちらに突き刺さっていた。
泥に半ば沈んだ水牛ほどの魔獣、枯れ木に絡みついた茨、泥の浅瀬にうずくまる小さな獣たち……。
白霊茸に寄生されたありとあらゆる生き物たちが、狂乱の歩みをピタリと止め、濁った黄色い瞳でじっと俺たちを見つめていたのだ。
まるで、一つの巨大な「森の意志」が、俺という異物を観察しているかのように。
「……さあ、帰るぞ」
俺は亀の極上の肉と白霊茸の重みを感じながら、口元についた泥を拭い、ニヤリと笑った。
「最高の薬膳料理を作らなきゃならねぇからな」
(つづく)




