第12話「生のスパイスと双刃の沈黙」
森は静まり返り、マルコの狂気に満ちた嘲笑だけが響き渡っていた。
「さあ、どうしましたオーク? もはや立ち上がることもできないようですね。セレス、その穢れきった豚の息の根を止めなさい!」
マルコが安全圏から魔石を掲げ、冷酷な命令を下す。
ビキィッ、とセレスの首輪が残酷な赤い光を放った。
「ああっ……いや……ッ!」
セレスはギリギリと歯を食いしばり、口端から一筋の血を流しながらも、その腕が強引に振り上げられる。
関節が外れんばかりの異様な音を立てて筋肉が軋むが、魔力の強制力は彼女の意志を完全に圧殺し、神速の双刃を俺の首へと定めようとしていた。
(……くそっ、手詰まりか)
俺は片膝を突き、斬り裂かれた太腿からドクドクと血を流しながら、荒い息を吐いた。
このまま防戦を続ければ、間違いなく俺の血が先に尽きる。後ろで倒れているルッカとリルも、先の衝撃波でダメージを負い、すぐには動けない。
マルコという男の腐りきった性根は最悪だが、彼が組み上げた陣形は、皮肉にも完璧だった。
「……ふざけやがって」
俺は血まみれの手を、腰に下げていたずた袋へと突っ込んだ。
そこに入っているのは、武器でも魔法の道具でもない。今朝の仕込みで使った森の食材の余りだ。
俺は最後の足掻きとばかりに、全身のバネを使い、ずた袋から掴み出した『茶色い塊』を三つ、マルコの顔面めがけて全力で投げつけた。
ヒュンッ!!
土まみれの塊が、空気を裂いて一直線に飛んでいく。
だが、そのヤケクソの投擲が、マルコに届くはずがなかった。
シュパァァンッ!!
マルコを守る完璧な盾として機能しているセレスの体が、迫り来る脅威に対し、反射的に動いたのだ。
主へ向かう物体を排除するためだけに、神速の双刃が空中で交差する。
寸分の狂いもない、完璧な剣閃。
空中の三つの塊は、瞬きする間に真っ二つに両断された。
俺が投げたのは『生の火生姜』。
生のまま包丁を入れれば、目玉を焼くような揮発性の辛味成分を撒き散らす厄介な根菜だ。
だからこそ、俺は調理の際、丸ごと灰の中で蒸し焼きにしてその性質を殺していた。
——パンッ!!
両断された生の火生姜の断面から、強烈な揮発性の成分が、細かい霧となって爆発的に撒き散らされた。
それはまさに、至近距離で炸裂した催涙弾だった。
セレスの真後ろ、わずか数歩の距離で高笑いを浮かべていたマルコの顔面を、見えないスパイスの暴風が直撃した。
「——ぎゃ、あ……っ!? なんだこれはッ! 目が、目がァァァァッ!!」
マルコの嘲笑が、無様な絶叫へと変わった。
彼は顔面を両手で覆い、地面を転げ回った。
目玉に直接火の粉をすり込まれたかのような激痛。
鼻水と涙が滝のように溢れ出し、喉の奥が焼け焦げるような感覚に、呼吸すらままならない。
「ゲホッ、ガハッ……! たす、たすけ……ッ!」
苦悶にのたうち回るマルコの悲鳴と共に、彼が魔石に込めていた力がフッと弱まった。
魔石の支配が緩んだその一瞬の隙を、誇り高きエルフの戦士が見逃すはずがなかった。
「……あ、あああぁぁぁぁッ!!」
セレスは喉が裂けるほどの絶叫を上げ、自らの太腿ごと、その下にある大地深くに力任せに双刃を突き刺した。
強烈な痛覚で意識を繋ぎ止めると同時に、刃を地面に深々と縫い止めることで、今まさに振るわれようとしていた己の腕を、無理やりその場に押さえ込んだのだ。
ザッ!!
その瞬間、俺の背後で倒れていた二つの巨体が、地を蹴っていた。
ルッカとリルだ。
彼女たちは空中にばら撒かれた催涙ガスの気配を察知するや否や、ピタリと固く目を閉じ、息を止めて飛び出していた。
視界は塞がれている。
だが、背後でのたうち回るマルコという最高に分かりやすい「絶叫の的」が、彼女たちの聴覚を確実に導いていた。
『おおおおおぉぉぉッ!!』
目を閉じたまま、ルッカが持ち前の爆発的なバネで飛び込み、セレスの足元へと滑り込んで彼女の膝を抱え込む。
マルコが再び魔石を握り直し、彼女を強制的に盾として動かすのを完全に防ぐためだ。
『……もう、剣を振るう必要はありません』
同時に、リルが正面からセレスの懐に飛び込み、地面に縫い付けられた双刃の柄から彼女の手を離させ、そのまま両腕ごと細い体をガッチリと抱きしめた。
これで、首輪がどう暴走しようと、二度と彼女の腕が動くことはない。
「……ありがとう……っ」
セレスの口から、張り詰めていた糸が切れたような、震える声が漏れた。
視界を封じ、聴覚だけを頼りに飛び込んできた二匹のオーク。彼女たちの温かい肉体に包み込まれ、セレスの双刃は完全に沈黙した。
「生のスパイスの厄介な性質なんて……素人には分からなかったようだな」
俺は、充満する辛味成分の中で薄く目を開け、逃げ惑う悪徳商人を見下ろしていた。
俺自身も目は痛むし、喉も焼けるようだ。
だが――妹を手にかけるよう強いられ、骨が軋むまで己を制し続けたセレスの絶望に比べれば、こんなもの、少し目がショボつく程度の嫌がらせにすぎない。
「ひっ……! くるな、来るなァァッ!! せれす……っ、せれす……っ!」
恐怖に顔を引き攣らせ、マルコが涙と鼻水まみれの顔で後ずさる。俺の巨体が迫るのを見て、彼は震える右手で魔石を必死に掲げようとした。
だが、遅い。
俺は、マルコの右腕を外側から力任せにバィンッと払いのけた。
「ああっ!」
衝撃で手からすっぽ抜けた忌まわしい魔石が、宙を舞って地面を転がっていく。
直後。
俺の丸太のような右の拳が、全体重を乗せてマルコの顔面に深々とめり込んだ。
ゴギャッ!!!!
鼻骨が砕ける生々しい音と共に、マルコの体が独楽のように回転し、泥まみれの地面に激しく叩きつけられた。
「お姉ちゃん……っ!」
転がった魔石の先。
そこには、涙を拭い、確かな怒りを瞳に宿したフィエルが立っていた。
彼女は腰から短剣を引き抜くと、姉を縛り付けていた諸悪の根源である魔石めがけて、力の限り刃を振り下ろした。
パキィィィンッ!!
ガラスの砕けるような音と共に魔石が粉砕され、赤い砂となって消え去る。
その瞬間、ルッカとリルの腕の中で硬直していたセレスの首輪から、禍々しい赤い光がフッと消え失せた。
「……フィエ、ル……」
セレスの体から力が抜け、彼女は気を失って崩れ落ちた。
「お姉ちゃん……ッ! お姉ちゃん!!」
魔石を砕いたフィエルが急いで駆け寄り、倒れ込む姉を力強く抱きしめ、大粒の涙を流してその名を呼び続ける。首輪の呪縛は、完全に停止したのだ。
「あ、ああ……私、私の魔石が……っ!」
地面を這いずり、砕けた鼻から血を流しながら、マルコが顔を歪めて喚き散らす。
先ほどまでの、すべてを支配したような傲慢な笑みは微塵もない。
「近づくな……っ! 私に触るな、この穢らわしいオーク風情がァァッ!!」
ついに被っていた善人の仮面が完全に剥がれ落ち、種族を差別する醜い本性が剥き出しになった。
「安心しろ。今すぐてめぇの息の根を止める気はねぇよ」
俺は、血と泥にまみれたマルコの胸ぐらを掴み、ひょいと持ち上げた。
豚の顔にこれ以上ないほどの凄みを持たせ、地の底から這い出るような低い声で囁く。
「お前にはまだ、吐いてもらうものがいっぱいあるからな。連れ去った他のエルフの居場所、首輪の外し方……お前が作ったその腐りきったビジネスの全貌、一から十まで全部だ」
悪徳商人の絶望の悲鳴が、深い森の空へと虚しく吸い込まれていった。
(つづく)
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