第1話「豚の輪廻と最初のスープ」
完璧な一皿だった。
三日間徹夜で煮込み、ミリ単位の火入れで仕上げた極上のソース。それを純白のプレートに美しくあしらった瞬間——俺の心臓は、警鐘を鳴らす間もなく限界を迎え、唐突にその鼓動を止めた。
それが、新城 蓮という三十代の料理人の最期だった。
『ちょっと! 私、あなたの三ツ星レストランの予約、三年も待ってたのよ!? なのに厨房で過労死ってどういうこと!?』
『えっ、あなたの次の輪廻はただの「家畜の豚」!? 嘘でしょ、豚の手じゃ料理できないじゃない!』
『……でも転生先を勝手に変えたのがバレたら、私、消滅させられちゃうし……』
『……よし、輪廻を司る最高神様には内緒で、ギリギリ料理ができそうな知性体の『オーク』で転生枠をごまかしておいたわ! 豚顔だからバレないはず! いつか絶対食べに行くから、最高のフレンチ用意して待ってなさいよ♡』
……ふざけるな、と言いたかった。
次に目を覚ました時、俺は「オークの赤ん坊」として生まれ落ちていたからだ。
それから数年。
俺の人間としての記憶は、獣のような本能の底に靄のように沈み込んでいた。
だが最近になってようやく自我がはっきりと覚醒し、水溜まりに映る自分の「緑色の醜い豚顔」を自覚したのだ。
(俺は、新城蓮だぞ……人生のすべてを厨房に捧げ、世界中の美食家をひれ伏させた三つ星の料理長だぞ……なんで、こんな豚顔の化け物に……!)
女神だか何だか知らないが、とんでもない身勝手なブラック客だ。豚とオークじゃ大違いだろ。
——だが、人間としての記憶を取り戻した俺が本当に絶望したのは、「見た目」ではなかった。
「ブモォォォッ!!」
すぐ隣で、丸太のように太い腕を持った大柄なオークが、狩ってきたばかりの巨大な猪の魔物に噛みついていた。
バリバリ、ぐちゃあ。
獣の毛皮を雑に剥いだだけの粗末な腰巻きを揺らし、血走った目で硬い生肉を食いちぎり、泥と体液にまみれた内臓を貪る。顎からどす黒い血を滴らせながら、恍惚の表情を浮かべていた。
乳離れしてからの数年間。俺自身もボロボロの布切れ一枚を腰に巻いただけの姿で、この弱肉強食の群れの中で生きてきた。
生来ひ弱な俺に回ってくるのは、いつも他の奴らが食い散らかした泥まみれの内臓と、ゴムのように硬くて噛み切れないスジ肉ばかりだった。
本能のままに生きていた頃は、生きるために生肉を齧ることもできた。
だが、三つ星シェフだった前世の記憶と味覚を完全に取り戻した俺の魂(舌)が、もう限界を告げていた。
ある日、泥と胆汁が混ざった内臓の強烈な悪臭を嗅いだ瞬間——俺の中で、張り詰めていた「何か」が完全に折れた。
えずき、胃液を吐き出す。
同時に、前世の記憶——磨き上げられたステンレスの厨房と、芳醇な仔牛のダシ(フォンドボー)の香りが脳裏にフラッシュバックする。
(……無理だ。これ以上こんな餌を食い続けたら、俺の中の『料理人』が死ぬ)
群れの連中が狂ったように獲物の取り合いをしている隙に、俺はこっそりと群れを離れ、森の奥の静かな川辺へと向かった。
俺の今の肉体は、太くて不器用な緑色の手をしている。前世のように、ペティナイフでミリ単位の面取りをするなんて絶対に不可能だ。細かい作業をしようとすると、指がつりそうになる。
だから、今の俺にできることだけをやる。
まず、川辺の岩が凹んでいる場所を見つけ、そこへ冷たく澄んだ湧き水を溜める。
次に、木の枝をこすり合わせて「火」を起こす。
オークの桁違いな肺活量で息を吹き込むと、あっという間に炎が上がった。その焚き火の中に、拳大の丸い石をいくつも放り込む。
「さて、メイン食材だ」
俺の手元には、群れの連中が「硬すぎて食えない」と捨てた、魔物猪のスジ肉がある。
包丁はない。
俺は分厚いオークの指で、肉の繊維に沿って力任せにブチブチと引き裂いた。サイズはバラバラだが、煮込めば関係ない。
そして森を歩いて見つけておいた、爽やかな香りのする「野草」。
これを平らな岩の上に置き、別の石でドスドスと叩き潰す。不格好極まりないが、細胞が適度に破壊されることで、青臭さが飛んで香りが爆発的に引き立つ。
味付けは「塩」だ。
岩肌に白く結晶化していた天然の岩塩を削り取り、少量の水で溶かして泥を沈殿させる。その上澄み液だけを掬い取った。
準備は整った。
焚き火の中で、石が真っ赤に焼けている。
俺は木の枝で焼け石を挟み、湧き水を溜めた岩の窪みへ、一気に放り込んだ。
——ジュワァァァァァッ!!
激しい音と共に、一瞬で水が沸騰し、白い蒸気が立ち上る。
原始的な「石焼き煮込み」だ。鍋がなくても、これで十分な熱量を持ったお湯が作れる。
ボコボコと沸き立つお湯の中へ、引き裂いたスジ肉を落とす。灰汁が浮いてくるが、器用にすくう道具はないので、叩き潰した香草をドサッと入れて魔物特有の臭みを完全にマスキングする。
最後に岩塩の上澄みを数滴。
湯気が、劇的に変わった。
むせ返るような血の匂いが消え去り、澄んだ野草の香りと、肉から溶け出した濃厚な動物性脂肪の「甘い匂い」が辺りの空気を支配していく。
……完璧だ。
俺は木の枝を削った不格好な串で、肉の塊を一つ突き刺し、フーフーと息を吹きかけてから、分厚い唇へ運んだ。
「——っ!」
熱い。だが、その熱さが堪らない。
あんなに硬かったスジ肉が、強烈な温度で煮込まれたことでホロホロに崩れる。
噛み締めるたびに、臭みのない澄んだ肉汁が口いっぱいに広がり、岩塩の鋭い塩気が旨味の輪郭をくっきりと浮き彫りにする。
そして何より——美味いだけじゃない。
喉の奥から胃の腑に落ちた瞬間、腹の底からカッと熱いエネルギーのようなものが全身の細胞に染み渡っていくのを感じた。
俺の知る世界にいるただの豚や牛には絶対にない、魔物特有の暴力的な『命の熱』だ。
前世の俺の店なら、まかないにも出せない雑な料理だ。だが——血の滴る生肉を食わされ続けた今の俺にとっては、三つ星のフルコースを凌駕する「至高の飯」だった。
「……生き返る」
気づけば、涙が零れていた。
オークの醜い顔をくしゃくしゃにして、俺は二口、三口と肉を貪り食う。
その時だった。
ガサッ、と背後の茂みが大きく揺れた。
ズシン、と重い足音を立てて現れたのは、俺と同じように粗末なボロ布を巻いただけの若いオークが二匹だった。
一匹は、小柄で無駄肉のない引き締まったしなやかな体つきをしており、鼻をヒクつかせながら涎を垂らして落ち着きなく動いている。
もう一匹は、頭一つ分大柄で分厚い筋肉を持っているが、手にした無骨な石斧を構え、警戒するように小柄なオークの後ろからこちらの様子を窺っていた。
『クンクン……血の匂いがしないぞ! なんだこれ、すっごくいい匂いだ! オレ、腹が鳴るぞ!』
小柄な方が、好奇心丸出しの目を輝かせて鼻をヒクヒクとさせた。
『待て。水が煮え立っている……罠や毒かもしれない。不用意に近づくな』
大柄な方が、小柄な方をかばうように前に立ち塞がる。獣のように粗野な声だが、仲間を守ろうとする慎重で思慮深い性格のようだ。
(しまった。匂いに釣られたか)
オークは奪い合いの生き物だ。だが、二匹の目は殺気立っているわけではなく、未知の「強烈な食欲」に完全に支配されていた。
『それ、食わせろ! 早く!』
「……熱いから、気をつけろよ」
争うのも面倒だ。俺は枝で肉を刺し、二匹の前に投げてやった。
小柄な方が弾かれたように飛びつき、大柄な方が「おい、待て!」と止める間もなく口に放り込んだ。
『アッチ! ……!?!? う、うめえええええっ!?』
『大丈夫か!? ……っ!?』
大柄な方も、小柄な方が美味そうに食うのを見て恐る恐る口に運び——完全に動きを止めた。
豚のような小さな目が、限界まで見開かれる。彼らの知能では処理しきれない「未知の快感」が脳髄を直撃したのだろう。
『肉が……ほぐれるぞ! なんだこれは。あんなに硬いスジ肉が、喉をスッと通っていく……!』
『あったかい! 噛むと中から熱い汁がジュワッて出るぞ! お前、すごい魔法使いか!?』
二匹は狂ったように残りの肉に群がり、素手で熱湯に突っ込んでは「熱い! でも美味い!」と泣きながら食い尽くした。最後には、窪みに残ったスープまで岩肌を舐め回して飲み干してしまった。
『もっとだ! もっと食わせろ!』
『もっとそのあったかい肉をよこすんだ!』
俺の足元にすがりつき、尻尾を振る犬のようになる二匹のオーク。
前世のシェフとしての矜持が満たされると同時に、俺の頭の中に「ある打算」が閃いた。
俺の今の体は力が弱く、まともな獲物を狩ることができない。だが、俺には「料理」の知識がある。
「……もっと食いたいか?」
俺が問うと、二匹は猛烈な勢いで頷いた。
「なら、明日はお前らがデカい獲物を狩ってこい。俺が指定する草も集めるんだ。そうしたら、今日の百倍うまいもんを作ってやる」
『ホントか!? オレ、いくらでも狩ってくるぞ!』
『……わかった。お前が言う草も全部集めてくる。だから、明日も絶対にその飯を作れよ』
どうやら、すばしっこくて鼻の利くチビと、力が強くて慎重なデカブツ——優秀な「調達係」を二匹ゲットしたらしい。
過労死した三つ星シェフの、異世界サバイバル・レストラン。
最悪の厨房だが——悪くないスタートだ。
(つづく)
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