第6章:バベルの塔の住人は、吾輩の門(チャイム)を待たない
「……おのれ、この布切れは吾輩を蒸し殺す気かッ!」
2025年10月。
暦の上では秋だというのに、新宿のアスファルトは未だ執拗な熱を帯びていた。
重厚な大島紬に身を包み、背中に巨大なウバッグをパッキングした吾輩、夏目金之助の体感温度は、すでに沸点に達していた。
汗で裏地が張り付き、自慢の髭も湿気で元気を失っている。このままでは「文豪」である前に「熱中症の亡霊」として歴史から抹消されてしまう。
吾輩は三千円の報酬を握りしめ、吸い込まれるように「ゆにくろ」という名の白い神殿へ足を踏み入れた。
「何だ、この軽さは。何だ、この動きやすさは! 吾輩が明治から守り続けてきた『粋』は、この二千四百八十円という特売の化学繊維に、あっさりと敗北したというのかッ!」
上下で二千四百八十円。千円札が三枚で釣りが来る。
鏡の中にいたのは、大島紬を脱ぎ捨て、黒のスウェット上下に身を包んだ、「姿勢だけはやたらと良い、髭の濃い不審な清掃員」であった。
「……ふん、背に腹は変えられぬ。今の吾輩は執筆中ではない、輸送中なのだわ」
そこへ、無慈悲な『うばあ』の召集が鳴り響く。
依頼主は六本木の高級イタリアン。届け先は西新宿の超高層タワーマンションだ。
「急ぎたまえ。吾輩の背中には、宝石箱(チョコあ〜んぱん)を待つ民がいるのだ」
鼻息荒く店へ入るも、店員はスウェット姿の吾輩を一瞥し、冷たく言い放った。
「ウーバーさん? まだ出来てないんで、外で待っててください」
「外で、だと? 吾輩を門前払いするかッ! 吾輩は客ではないが、この『うばあ』という組織の特使であるぞ!」
だが、特使の叫びは空しく、高級車から降り立つ着飾った男女の群れにかき消される。
路上でウバッグを抱え、三十分の無限待機。
「待つのは慣れている。倫敦でも、返らぬ手紙を待ち続けた。だが、このパスタなる紐一本に、なぜこれほどの時間を要するのだ!」
ようやく渡されたのは、ズッシリと重い特大の紙袋。富裕層のホームパーティー用・高級フルコースセットだ。
「重い。これは料理ではない、石碑だ。吾輩の腰を砕き、門(痔)を再発させるための質量兵器だわッ!」
西新宿にそびえ立つ、バベルの塔、タワーマンション。
防災センターでの検閲、入館証の発行。
「……なぜ、ただの飯を届けるのに、関所を通らねばならんのだ! 吾輩は密偵ではないッ!」
エレベーターのボタンが多すぎて脳髄がショートし、フカフカの絨毯の上で右往左往する文豪。
その「スウェット姿で高級パスタを抱え、半泣きで廊下を彷徨う姿」を、住人の子供がスマホでパシャリとパッキングする。
『【悲報】ウーバー漱石、ユニクロのスウェットに着替えてて草。もはやただの近所の親父www』
『タワマンの廊下で迷子になって、消火器に話しかけててワロタ』
ようやく辿り着いた玄関前。
「置き配」の指示に従い、地べたに高級料理を置く。
「これが、現代の『もてなし』か。これほどの苦行をして運んだものを、顔も見せずに地べたに置かせるとは。令和の人間には、心の交流という概念がなされておらんのかッ!」
スマホに届く「配達完了」の無機質な通知。
吾輩はスウェットのポケットに手を突っ込み、三千円の残金で買ったチョコあ〜んぱんを一粒、口に放り込んだ。
「甘い。だが、今日のチョコは、いささか砂の味がするわッ!」
夕暮れのタワマンを見上げ、黒いスウェットの文豪は、静かに、だが、100%の純度でスマホの画面に中指を立てた(フリック入力の練習のつもりである)。




