第5章:草も生えない、不愉快な絵草紙(SNS)
「……三千円。これが、吾輩の『門』を犠牲にして得た、この時代の労働の対価か」
夜の資料室。
金之助は、スマホの画面に表示された「3,000円」というデジタルな数字を、親の仇のように睨みつけていた。
数件の配達をこなし、深夜の新宿を爆走した果ての報酬。それは、かつての千円札の顔であった男にとって、あまりにも、あまりにも重く、そして軽い数字であった。
「この三千円があれば、あの至高の『宝石箱(チョコあ〜んぱん)』が二十個は買える。……だが、なぜだ。なぜ吾輩は、あれ(宝石箱)を買うために馬を漕がねばならんのだ。吾輩の印税はどうなったッ!」
怒りに震える脳裏に、数時間前の編集者との問答が、鮮明に蘇る。
(回想:編集部にて)
「先生、今の日本じゃ先生の作品、誰でもタダで読めるんっすよ。いわゆる『著作権切れ』ってやつで」
編集者はのんきに鼻をほじりながら、資料室の窓から見える百円均一の店を指差した。
「ほら、あそこのレジ横のワゴン。先生の『こころ』とか『坊っちゃん』、不潔なビニール袋にパッキングされて、百円で叩き売られてますよ。先生の大好きな例の宝石箱より安いっすw」
「……ただ? 不潔な袋だと……? 吾輩が胃を削り、神経を擦り減らして紡いだ言葉が、あの宝石箱よりも安価に、しかもあのような塵芥同然に扱われているというのかッ!!」
「まあ、全人類の共有財産ですからw 先生の人生、Wikipediaに全部パッキングされてますし、隠し事ゼロっすよw」
「うぃき……ぺでぃあ? 共有財産だと? 吾輩のプライバシーは、明治の空へ置いてきたとでも言うのかッ!」
(回想終了:資料室の闇の中で)
「おのれ、共有財産だと。勝手なことを。ならば、この『光る板』の中に蠢く声も、吾輩の共有財産として受け止めてやろうではないか」
金之助は、編集者に教わった「えごさーち」という呪術を敢行した。
検索窓に「夏目漱石」と打ち込む。
画面に溢れ出したのは、かつての文豪が予想だにしなかった、混沌の絵草紙だった。
『今日のウーバー、漱石のなりきり垢で草www』
『髭のクオリティ高すぎ、不衛生。通報案件w』
『明治の文豪、新宿の激坂で尻浮かせててワロタ』
「く、草? なぜ皆、吾輩を見て植物を植えたがるのだ! それに『なりきり』とは何だ。吾輩は、吾輩だッ!本当だ! 偽物ではないッ!!」
怒りのあまり、金之助は震える指で反論を試みた。だが、慣れないフリック入力は、文豪の意思を無残に裏切る。
「あああああ」
「なッ!? しまった、送信ん?!」
一瞬で拡散される「あああああ」。
即座に付く「中の人、壊れてて草」「情緒不安定w」の反応。
「……うう、胃が……胃が痛いわ……ッ!」
金之助は絶望の淵で、帰り道に三千円の中から捻り出した一箱の宝石箱(チョコあ〜んぱん)を掴んだ。
震える手で封を切り、その丸い粒を口に放り込む。
「甘い。令和、甘いわッ!(涙)」
チョコの甘みが、ショートした脳髄をかろうじて繋ぎ止める。
だが、その目には、明治の文豪としてのプライドが、暗い炎となって宿っていた。
「く、見ておれ。吾輩の著作権が切れたというのなら、新たな言葉で、この『草』とやらを根こそぎ焼き払ってやるわッ!」
新宿の夜は更けていく。
空っぽのウバッグを枕に、文豪の逆襲が始まろうとしていた。




