第4章:門(痔)を叩けば、サドルの激痛が脳髄を貫く
「おのれ、なぜ吾輩がこんな目に遭わねばならんのだわ」
新宿の路地裏、初配達の報酬「300円」という、チョコあ〜んぱん3箱分にも満たぬ現実を突きつけられた吾輩、夏目金之助は、錆びついたママチャリに跨ったまま、数時間前の出来事を反芻していた。
思えば、すべてはあの出版社の、埃っぽい資料室から始まったのだ。
(回想:数時間前)
編集長という、狸のような顔をした男は、吾輩を「社外顧問」という、中身のない胡散臭い肩書きで資料室に住まわせることを「決済」した。
「夏目先生、とりあえず生活費や食費は経費で落とせますから。安心して令和の生活に慣れてくださいよ」
編集長はそう言って、ニヤニヤと笑いながら「経費」なる魔法の言葉を口にした。だが、吾輩の胃の底には、泥のような不快感が溜まっていた。
「断る。吾輩は、明治の精神を背負ってここにいるのだ。光る板という名の魂の泥棒を貸し与えられただけで、もはや吾輩の自意識は限界なのだ。これ以上の『施し』は、吾輩の誇りを損なうのだ。吾輩は、己の力でこの『令和』なる異界から金を毟り取ってやるわ!」
編集者は、呆れたように頭を掻いた。
「いや、先生。そう言っても、今の日本じゃ先生の10円札はただの古紙っすよ。あ、じゃあ、手っ取り早く稼ぐなら『ウーバー』がいいっすねw」
「うばあ? またそうやって珍奇なる呪文を。それは何だ。呪術か、あるいは、新手の文明開化か」
吾輩が首を傾げると、編集者は資料室の隅に積み上げられたガラクタの山を指差した。
そこには、不気味に四角い黒の巨塊と、油の切れた無骨な鉄馬が鎮座していた。
「編集者君、この巨大な黒い柳行李は何だ。貴君らの社では、原稿を運ぶのにこれほどの大仰な箱を使うのか?」
「あー、それっすか? 去年、『文豪気取りでウーバー潜入取材』っていう企画を立てて、備品一式揃えたんですけど、ライターが三日でバックれてボツになった時の残り物っす。そのチャリも、前のバイトが置いてったゴミっすよw」
「ボツ!?ゴミだというのか!?おのれ、吾輩をその『挫折の遺物』で働かせようというのかッ! 筆を折りし名もなきライターの身代わりに仕立てるつもりかッ!!」
「いや、先生が『施しは受けん』って言うからw これなら経費ゼロで始められるし、合理的じゃないっすか。まず、その光る板を貸してください。吾輩の、じゃなかった、先生のアカウントを作成しますから。はい、ここでこの板を顔の前に構えて。セルフィー(自撮り)撮りますよ!」
編集者の指先が、光る板の上を電光石火の如く舞う。
「お、漱石先生ガチで髭がキマってるわw 審査通るまで時間かかるんで、その間に装備を整えましょう」
「これが、現代の筆だと申すか。よかろう。吾輩はかつて、倫敦留学時代にも孤独と戦った男だ。自転車を漕ぎ、物を運ぶ。なんという健全なる肉体労働。これぞ真の『個人主義』だわッ!」
吾輩は意気揚々と、社の備品であるそのママチャリに跨った。
だが、その瞬間、吾輩の繊細な『門(痔)』が、かつてない悲鳴を上げた。
「編集者君。この椅子、いや、サドルとやらは、いささか強情すぎはせんか? 吾輩の肉体を拒絶しているような」
「あー、慣れっすねw 先生、ファイトっす! 令和の金、ガッツリ稼ぎましょうw」
(回想終了:再び新宿の路上)
「な、慣れ、だと? おのれ、あの桃色の猿め、嘘をつきおったなッ!」
吾輩は、激痛の走る尻を浮かせ、中腰のままママチャリを漕ぎ出した。
スマホの画面には、次なる配達の依頼が、無慈悲に鳴り響いている。
「また『うばあ』からの召集か。おのれ、吾輩をなんだと思っている。だが、行くしかないのだ。吾輩は施しを拒んだのだからな。くっ、いつか必ず、最高級のサドルを手にしてやるわッ!」
夕暮れの新宿を、大島紬の裾を翻し、金之助は爆走する。
その姿は、文明開化に乗り遅れた亡霊か、あるいは、新時代の開拓者か。
答えは、まだ、空っぽのウバッグの中にしかなかった。




